南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
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Re: 歴史修正主義への日本と世界の認識(2
投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/01/30 10:50 投稿番号: [38480 / 41162]
>1931年に始まった
中国東北部への
武力侵攻開始以後
残念ながら国際社会は「日本さんはやりすぎだがそもそもの原因は約束を守ろうともしない中国が悪い」であり満州事変自体は「中国は痛い目を見て反省しろ」ですけど。
>“歴史修正主義”
の典型だといえる
つまり教会に対して「地球は丸い」とか「地球は回っている」といわれるとそういうレッテルが貼られるらしいね。
>主張も、これに
該当する。
ガタガタぬかす前に命令書の一枚でも提示しろと言う話だが。
>欧米では
ほとんどない
そりゃ政府などがいまさら「自分達、連合国は正義の戦争をしてきたといっていましたがその実はナチスや日本よりも悪逆非道なことやっていました。が、勝った事をいい事に責任を枢軸国に押し付けて誤魔化しております」とかいえませんしね。
ちなみに言えば欧米”以外”では平気で言われておりますけどね「それを数百年単位でしかも現在進行形で実行してきたお前らが言うか」と
>つい先日
逆に言えばつい先日前までは「知らぬ、存ぜず」を決め込んでいたわけだが。
これは メッセージ 38460 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/38480.html
新聞をよめ、と言うお話
投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/01/30 10:35 投稿番号: [38479 / 41162]
>歴史修正主義と認識されるのだ
新資料の発見や見直し比較検討により今まで正しいと思っていたことを修正することはどこだってあるがな。
例えばこれとか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Takedashingen.jpgそれが何か問題でも?
>あまりにも
大きな格差だ
と言える。
この場合はアルメニア虐殺どうこうは認めようと認めないと別にフランスにとってはよその国の歴史ですのでどうでもいいことです。
で、それをわざわざ法律どうこうで規制し始めたのはトルコのEU加盟阻止の大義名分と国内に多くいるアルメニア人の選挙での支持が得られる話である以上それを法律で規制したのはフランスの国益や選挙対策=政治のためであり歴史的事実とは無縁のお話ですが。
>国際社会、特に先進的民主主義国家においては
それ自体が
罰すべき犯罪であると
位置づけられている。
そうですね。例えばフランスでは大革命時代に革命政府に対して市民のために立ち上がりその地域の半数以上が虐殺されたヴァンデ戦争はいまだタヴー扱いですしね。
後、現在進行形で世界史史上屈指の大虐殺である十字軍も万歳とかも当たり前ですしね。
答え:単に都合の悪いことを法律や社会的圧力で捻じ曲げているだけ
>もともとは
歴史に限らず事実の修正はどのような分野でもやっておりますが。
教科書の内容がコロコロ変わっているのがそのいい例ですけど。
と言うか学問とか研究と言うのはそういうものですけど。
>純然たる歴史学ではなく、特定の政治思想を基底にするからだ。
法律とかで規制して喜んでいる輩に言われるとは正に誉め言葉ですな。
>
これは メッセージ 38459 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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◆「南京大虐殺」という史上最大の捏造⑨
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2012/01/30 01:24 投稿番号: [38476 / 41162]
都新聞の小池秋羊記者は、こう述べています。「食糧がなく飢餓状態で、食糧をくれ、とわれわれにすがりつく人もいました。私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れていき、米や副食品などを大八車二台分やりました」
南京の病院で勤務していたアメリカ人、ジェームズ・マッカラム医師は1937年12月29日の日記にこう書いています。「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」(東京裁判
速記録210)
さらに、こう書いています。「12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました」。「日本人の善行を一つ報告しなければならない。とても気持ちのよい日本人が最近病院にやってきた。彼らに患者の食料の不足を告げたところ、きょう、百斤の豆と牛肉を持ってきてくれた。この一ヵ月というもの肉は食べられなかったので、この贈り物は大歓迎だ。他に欲しいものはないかと言ってくれた」(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p263)
また南京戦により、12月13日の南京陥落からしばらくは、南京市街は水道も電気もとまり、夜は真っ暗といった状態でした。しかし翌年1月元旦から南京全市に、電燈がともり、水道がよみがえりました。1938年1月3日付の朝日新聞によると、電気については日本人技術将校以下80名と中国人電工70名の協力、また水道も同様に150名の編成で、不眠不休で取り組んだ結果であるといいます。また1月3日には、多くの南京市民が日の丸と中国の五色旗を振り、市街で「南京自治政府」(リーダーは中国人)の発足を祝っています。
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◆「南京大虐殺」という史上最大の捏造⑧
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2012/01/30 01:23 投稿番号: [38475 / 41162]
市民・捕虜と日本兵の交流・温情
南京を占領した日本兵たちの、市民や捕虜に対する態度は実際はどのようなものだったのでしょうか。以下は彼らの証言です。
「敵の大軍は、わが軍のために完全に撃破されました。見れば、幾十となく敵の死体がころがっております。中にはまだ虫の息でうねっておる者さえおります。これを見られた隊長が、『苦しいか、今、薬をやるぞ』と何かやられますと、一兵士は目を開けて、『水、水』と、かすれた声で哀願しました。誰かが水を飲ませてやりますと、両手を合わせ涙をたたえ、『謝、謝』(シェーシェー)と伏し拝みました。……今までにわが中隊では幾十人となく、敵兵を救い、郷里に帰してやりました。その中には中隊のために骨身を惜しまず、弾丸下もものともせず、じつに勇敢によく働いた者もたくさんあります。そして彼らが郷里に送り帰される時は、別れを惜しんで泣いて別れるのでした」(歩兵第47連隊:大分
第2中隊
伍長S・S)(『1937南京攻略戦の真実p.165)
「(南京への途上)露営のとき、私は道路の警戒を命ぜられました。特に監視すべき方向はこの方向と道路上をさすと、指したところに忽然と姑娘が現われて、窈窕(ようちょう)たる姿態が楚々(そそ)として、この方に来るじゃありませんか。誰だって面食らいます。……『日本の兵隊さんね』、流暢な日本語なんです。年の頃27、8、聞いてみると、上海から逃げてきたけれど、皆殺されたり、はぐれたりして、これは支那軍のほうにいると危ないと思い、やってきたという。
『日本語はどこで覚えた』と聞くと、『長崎に4年、活水女学校を卒業して、上海の日本人書店に雇われていた』と言います。……いろいろ調べられるけれども、くさいところは無いらしい。ちょうど中隊に通訳がいなくて何かと不自由していたこととて、通訳代わりに使うことにしましたが、炊事をさせると日本人の味の好みを心得て、乙なところをみせる。所帯慣れしているから、兵隊に程良く愛嬌を振りまく。皆で大切にしたものです。
ときには宵待草(よいまちぐさ)や、荒城の月を聞かせてくれました。毎日の行軍も宿営も楽しみでした。……しかし、南京へ南京への猛追撃に、我々に伍して行けるはずがない。中隊長殿が見かねて上海の方へ帰されたが、その日の行軍のけだるいこと、道の遠いこと、足の重いこと、皆考え込んでしまっていました。
『おい、きついなあ』『うん』。返事も上っすべり。誰かが思い出し風に、『変なこと言いっこなしよ、皆兄弟じゃないか』と彼女の口真似をすれば、とたんに爆笑がわいたものです」(歩兵第13連隊:熊本
第11中隊
歩兵曹長K・S)(同p.190-192)
「私が洗面していると、前にきて頭をぴょこんと下げ、『兵隊さん、おやよう』とはっきりした日本語で、支那人から挨拶されました。不審に思ってよく聞くと、『大阪に18年間いました』という。……(彼の相談に乗ってあげると)彼は一時間ばかりして喜んで戻ってきました。そして言うことには、『家族も安心しました。長男が27歳になっていますが、長男も日本語が上手に話せます。皆の者に「日本軍が来たからもう安心しておれ」と、言ってきました』と、いかにも落ち着いたものです。齢は50歳くらいでしたが、達者な男で、南京攻撃、安慶上陸から漢口攻略まで、1年3ヶ月の間、日本軍のため忠実につとめ、大きな功績を残して行きました」(第2野戦病院
T・Y)(同)
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◆「南京大虐殺」という史上最大の捏造⑦
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2012/01/30 01:22 投稿番号: [38474 / 41162]
日本兵による悪事の証言の信憑性
ところで、日本兵たちの犯した犯罪について、虐殺肯定派がしばしば引用するのが、松岡 環著『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』です。この本には、日本兵が中国で犯してきたという数々の非道な行ないが、102名の元・兵士の証言の形で書かれています。しかしこの本に関し、亜細亜大学の東中野修道教授はこう批判しています。
「百二名の兵士はみな『匿名』『仮名』なのである。……誰が証言内容に責任を持つのか。証言内容が真実かどうか第三者的に検証できないようでは、客観的報道、客観的記録とは言いがたい。……百歩譲って『証言』が事実だとしても、彼らの多くは憲兵の目を逃れて軍紀違反の違法行為を繰り返しながら処罰を免れてきた悪運強き戦争犯罪人でしかなかったことを明らかにしただけなのである」(『諸君』平成十四年十一月号)。
また歩兵第33連隊第5中隊の第1小隊長だった市川治平氏は、この本をこう評しています。
「本当にばかばかしい本です。私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気な2人の戦友に尋ねたら、2人にも来なかったと言っています。まともな話をする人には行かないようです。確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦などの話は、創作8割、本当2割でしょう」(「正論」平成14(2002)年11月号
阿羅健一著「南京戦・元兵士102人の証言」のデタラメさ)
また、アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』にも引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約10日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べています(『アサヒ芸能』昭和四十六年一月二十八日号)。ところが、竹本忠雄教授(筑波大学)、大原康男教授(国学院大学)によれば、彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には南京から転進していて、この人物が10日間も南京に残留したはずがありません。実際彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定しています。
また曽根一夫という人物は「手記」を出版し、そのなかで南京戦と南京陥落後の虐殺事件の実行と、目撃談を書いている(『続・私記南京虐殺』など)。しかし、この人物は手記のなかで自らを歩兵の分隊長と称しているが、実際は砲兵の初年兵でした。また、入城式には彼の属する部隊の一部が参加しただけで、部隊そのものは南京城内に入ってもいません。従って、彼が書いているような虐殺を南京やその近郊で見ることも実行することも不可能であったのです。南京戦中、行動をともにした戦友もそうした虐殺行為を目撃・実行することはあり得ないと証言しています。つまり、曽根の「手記」そのものがまったくの創作だったのです。
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◆「南京大虐殺」という史上最大の捏造⑥
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2012/01/30 01:21 投稿番号: [38473 / 41162]
虐殺はなかったとする証言
当時の南京を実際に知る多くの人々は、南京で「虐殺はなかった」と証言しています。
たとえば、南京の日本大使館で働いていた外交官補の福田篤泰(ふくだ・とくやす)氏は、日本軍による南京占領の当時を振り返って、こう語っています。「日本軍に悪いところがあったことも事実である。しかし20万、30万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。……いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である」(田中正明『南京虐殺の虚構』35-37頁)
日本軍と共に南京に入った東京日日新聞の金沢喜雄カメラマンは、こう語っています。「私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たことがなければ、兵隊から聞いたこともありません。虐殺があったなんて、あり得ないことです。死体はたくさん見ています。敗残兵がたくさんいましたし、戦争だから撃ち殺したり、殺して川に流したことはあるでしょう。しかしそれは、南京へ行く途中、クリークで何度も見ている死体と同じですよ」(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』p.42)
東京日日新聞の佐藤振寿カメラマンも、こう語っています。「虐殺は見ていません。12月16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。また多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集ってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません」(同p.53)
福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者には、お嬢さんが一人おり、南京には家族で赴任していたので、お嬢さんは1年生から5年生まで南京の日本人小学校に通っていました。彼女に南京大虐殺のことを来てみると、こういう答えでした。「そんな話は全然聞いたことがありません。あちらでは近所の支那人の子供ともよく遊びましたが、彼らからもそのような噂すら聞きませんでした」(同p.138-141)
歩兵第13連隊(熊本)第4中隊のU中尉はこう語っています。「抗州湾上陸以来、私は(中国の)女たちが、墨や油や泥を顔や手足に塗り、ことさらに臭気を放つようなボロをまとって、わが軍の入城を迎えるのを知っております。彼女らは、なるべく醜悪に見えるように努めていました。……日本の兵隊は支那の軍閥の兵隊とは全然素質が違うのだ、ということが了解できると、それから徐々に生地を出し始める。黒い顔が白くなり、汚い服がきれいな服に変わるのであります。南京の難民地区でも、私はやはりそうした女の移り変わる姿を見ることができました」(東中野修道『1937南京攻略戦の真実』p.124)
南京攻略戦に参加した野砲兵第22連隊長・三国直福大佐は、こう証言しています。「昭和13年8月にまた南京に戻ってきました。この時も虐殺があったという話は聞いていません。もう日本人の商人もたくさん来ていました。南京の街は朗らかでした。町の人とも親しく話しましたが、その時も、中国人からそんな話(虐殺)を聞いた記憶はありませんでした」
第十軍参謀・谷田勇(たにだ・いさむ)大佐は、こう証言しています。「(昭和13年11月以降、私が担当していた課は、支那復興のため)南京での経済指導を行なうので、寸暇もないほど多忙であった。したがって課長以下、日中官民と接触して、これを理解し、かつ中支那の風物に親炙(しんしゃ)する機会がはななだ多くなっていった。この時、中国官民と親交を重ねたが、たとえ酒食の席においても南京虐殺に関する話を聞くことはなかった」
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知らざあ書いて読ませてね(wadatumiさん)
投稿者: steffi_10121976 投稿日時: 2012/01/30 01:06 投稿番号: [38472 / 41162]
さて、順番が後先になりましたけれども、以上の点を踏まえたうえで、今回のあなたの最初のご投稿文(38438)に戻ります。
●>全容解明ができなくとも、事件が発生したという事実は消えない。
ですから、いまだにその全容解明ができないという事実それ自体が、あなたのおっしゃる「事件が発生したという事実」なるものがきわめて疑わしい、つまり「客観的資料」に乏しいものだという何よりの証拠であると申しあげているのですよ。
日本軍による南京進攻は、歴史上の事件とはいっても、時の権力者による一方的な文書しか残っていない記紀の時代の出来事ではありません。
記録や通信媒体もそれなりに発達し、不完全ながらも国際社会で情報戦が繰り広げられていた高々75年前の、それも総面積35平方kmという、きわめて限定されたエリアで、世界各国の報道機関注視の中で展開された局地的な攻防戦です。
ましてやいわゆる“大虐殺”とやらは、さらにその10分の1ほどの広さに過ぎない安全区で発生したとされる事件です。
もしここでほんとうに30万人はおろか、数千人〜数百人レベルの違法な虐殺事件が起こったとしたら、その全容が複数の媒体によって記録に残されないなどということはあり得ませんし、当然当時の敵国(潜在的敵国を含めて)側による情報戦に利用されないなどということもあり得ないのですよ。
にも拘わらず、それらの一次史料もお示しになれないまま「事件が発生したという事実は消えない」と決めつけ、その一方で“軍や政府による証拠隠滅のため、記録や証言が断片的で全容解明が困難”などとおっしゃるのは、矛盾以外の何ものでもないということ、おわかりでいらっしゃいますか?
あなたがそれをご理解できないのは、何度も申しあげますように他人の資料を切り貼りしているだけで、ご自分の言葉で語っていらっしゃらないからです。
最後に、私のさしあげたレスにご反論をいただけるのであれば、このような独白の形ではなく、発信者である私あてにきちんと返信していただけますでしょうか?
立場の相違はともかくとして、あなたがご自分なりに“南京大虐殺”に関する論争を理解し、それについてのご定見をしっかりお持ちでいらっしゃるのなら、私との正面からの議論を忌避される理由は何もないはず。
ましてや「彼らの展開する主観論が、いかに論拠に乏しく、また虚誕に満ちたものであるかを世間に知らしめる必要はある」と本心からお思いならば、むしろ私の投稿こそ積極的にその対象としていただきたいものです。
このトピックスに参加されている否定派・懐疑派の方々はおしなべて良識的な方が多いと見えて、内容に乏しいあなたの使いまわしの長文をいちいち相手にするような非生産的なことをなさる方はほとんどいらっしゃらなかったようですけれども、あいにく私はそれほど人間ができておりませんので、今後もあなたがあまり突っ込んでほしくないと思われる箇所を中心に随時レスをさせていただき、ぐっと細部にまで踏み込んだご見解を質したいと思っております。
(ただ、現在公私ともにきわめて多忙なため、投稿はせいぜい週1回ペースとなることをあらかじめご了承くださいませ。)
あなたとしても、それでこそ「知らざあ書いて読ませやしょう」のご口上がさまになることでしょうから。(笑)
your Steffi
これは メッセージ 38438 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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◆「南京大虐殺」という史上最大の捏造⑤
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2012/01/30 01:06 投稿番号: [38471 / 41162]
捕虜は虐殺されなかった
一方、虐殺肯定派がよく引用するものに、第16師団長・中島今朝吾(なかじま・けさご)の日記があります。とくに12月13日に捕虜にした7000〜8000人の中国兵についての次の記述です。
「この7000〜8000人、これを片づけるには相当大きな壕がいるが、なかなか見当たらない。一案として100人、200人などに分割してのち、適当な箇所に誘って処理する予定だ」(現代文に修正)
つまり、この大量の捕虜を殺害して壕に埋めてしまおう、という処理予定を考えたともとれる内容です。当時はたしかに、ただでさえ食糧の調達など大変でしたから、このような大量の捕虜を一体どうしたらいいのか、ということは確かに大問題でした。それで、中にはこうした考えを持つ者もいたようです。
けれども、中島日記をみても、彼ら捕虜を実際に殺害したという記述はありません。また当時の日本軍の記録をみると、この7000〜8000人の捕虜は結局殺害されず、捕虜収容所に送られたことがわかるのです。当時の膨大な資料の集大成である『南京戦史』(偕行社)は、様々な資料を引用し、こう結論しています。
「これらを総合すると、堯化門(仙鶴門鎮)付近の捕虜約七千二百名を中央刑務所(第一監獄所)に護送し収容したことは明らかである」(P324)
また資料によれば、当時南京の捕虜収容所は、これら7200人の捕虜を含む、計1万人ほどの捕虜を受け入れたとなっています。彼らの多くは、そののち釈放され、故郷に帰されました。あるいは苦力(クーリー)として労役に雇われた者も多く、また後に上海の捕虜収容所に移送された者もいました。
さらに、そのうち約2000名は、のちに汪兆銘の親日政権の南京政府軍に編入されました。その中に、劉啓雄(りゅう・けいゆう)少将もいました。彼は南京安全区に潜んでいたところを摘発され、しばらく苦力として使われていましたが、1940年に南京に成立した汪兆銘政府において和平救国軍の軍長となった人です。
また中島今朝吾・師団長の言葉の中に「大体捕虜はせぬ方針なれば」というのがあったことが、よく指摘されます。実際、大量の捕虜をかかえこむことは大変なだけですから、捕虜は少ないほうがいいわけですが、「捕虜はせぬ方針」について、大西 一 参謀はこう述べています。
「それは、銃器を取りあげ釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」 (「正論」61.5 阿羅健一著「日本人の見た南京陥落」)
さらに大西参謀は軍命令、師団命令で捕虜殺害命令など絶対に出ていない、と断言しています。資料をみても、捕虜殺害の記録はありません。また支那事変当時の日本の新聞にも、釈放されて故郷に帰る中国兵たちが荷物を持ち、ニコニコ顔で写真におさまっている姿などが載っています。
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◆「南京大虐殺」という史上最大の捏造④
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2012/01/30 01:06 投稿番号: [38470 / 41162]
日本軍が南京に達する以前に、蒋介石は、すでに早々と南京から脱出していました。また南京防衛をまかされた唐生智将軍も、敗北色濃くなったとき、敵前逃亡して南京から出てしまいました。残された中国兵らには混乱が走りましたが、敗戦が決定的となったとき、中国兵らには3つの選択肢がありました。
一つは、降伏することです。降伏すれば「捕虜」として扱われることになります。
二つ目は、南京から逃げ出すことです。そのとき、日本軍に殺されるかもしれません。また中国には、「督戦隊」というものがありました。これは戦いを督促する中国人部隊で、背後にいて、戦場から逃げ出す中国兵を見つけると撃ち殺す兵士たちなのです。逃げる中国兵を撃ち殺す中国兵です。そんな非人間的な部隊が、中国にはありました。ですから、南京から逃げ出そうものなら、彼らに撃ち殺されるかもしれません。
実際に、中国督戦隊に撃ち殺された中国兵たちが多くいました。ダーディン記者は、南京城壁の北側の門において、高さ1メートル半にも積み重なって小山を形成していた中国兵の死体を目撃しています。これは日本軍が殺した中国兵ではなく、中国督戦隊に殺された中国兵だったのです。なぜならダーディン記者は戦後、こう語っています。
「これは、この門から脱出しようとした中国兵の死骸です。中国兵はあちらこちらで城壁によじのぼり、脱出を試みました。これらの死体の山は、日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で(日本軍の)戦闘はありませんでした」(1987年8月14日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子。『南京事件資料集
アメリカ関係資料編』P571
青木書店)
つまり、それは中国督戦隊によって殺された中国兵らの死骸だったのです。
そして中国兵に残された三つ目の道は、軍服を脱ぎ捨て、民間人に扮して、安全区の中に身を隠すことでした。少なからぬ兵士たちがこの道を選びました。
そのため日本軍は、南京占領後、この民間人に扮した中国兵たちの掃討作戦を行ないました。そして次々に摘発しましたが、武器を隠し持っているなど危険な中国兵たちは、発見されると、処刑されました。市街戦の準備とみなされたのです。その数は数千人に達しました。
問題は、これが国際法上、合法か否かです。しかし、こうした不法な戦闘員の処刑はどこの国でも慣習的に行なわれていたことであり、また「ハーグ陸戦法規」(1907年)にも定められていたことで、明らかに合法的でした。つまり、兵士は明確に兵士とわかるよう軍服を着用しなければならず、また武器は隠さず公然と携帯しなければならないのです。
その法規を守らなければ、捕らえられても「捕虜」としての保護は受けられません。法を守らない者は、法の保護を受けられないのです。彼らは「不法戦闘員」として扱われ、処刑されても仕方ないというのが国際法上の理解でした。こうした点で、数千人の「不法戦闘員」の処刑は、「捕虜の処刑」でも「捕虜の虐殺」でもなく、合法的なものだったのです。
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◆「南京大虐殺」という史上最大の捏造③
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2012/01/30 01:05 投稿番号: [38469 / 41162]
軍服を脱ぎ捨て民間人に化けた中国兵たち
捕虜の虐殺はあったか、という問題について見てみましょう。
この問題をみるために、まず、中国兵とはどんな兵士たちだったか、についてみてみたいと思います。中国兵は、じつは国際法感覚のほとんどない兵士たちでした。
多くの日本兵たちが「軍服を着ていない中国兵」たちを目撃しています。
たとえば橋本以行(はしもと・もちつら)氏は、南京攻略戦の最中、揚子江岸で見た中国兵たちについて、「小銃や機銃を大事に携行していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない」(証言による『南京戦史』10、130頁)と語っています。また彼ら揚子江岸の中国兵らは、降伏勧告にも応えず、戦闘を続けたので、日本軍は攻撃を続行。中国兵はジャンク舟に乗って逃げようともしましたが、多くは溺死し、遺体は下流の揚子江岸にうち上げられました。
その写真が残っていますが、この写真がのちに虐殺肯定派の人々によって「南京大虐殺の証拠写真」として使われました。しかしそれは戦死体だったのです。
また南京の城壁内で、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン記者は、「軍服を一斉に脱ぎ捨てる中国兵たち」に出くわしています。
「私は一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣(民間人の普通の服)に着替えてくる者もあった。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(ニューヨーク・タイムズ
1937年12月22日付)
また南京陥落後、南京城壁内へ入った日本兵たちもみな、この「脱ぎ捨てられた中国兵の軍服」が街路の至るところに散乱しているのを目撃しています。彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました(南京のジェームズ・エスピー副領事の報告)。
このように軍服を脱ぎ捨てて民間人に扮した中国兵が死んだとき、その死体は、死体だけを見た者には「民間人の虐殺死体」に見えたでしょう。ですから、こうした中国兵の行動は、日本軍の側に多くの誤解を生じさせる元となったのです。
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◆「南京大虐殺」という史上最大の捏造②
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2012/01/30 01:05 投稿番号: [38468 / 41162]
南京入城に際し、新聞記者たちも同行
南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。
アメリカのパラマウント・ニュースも、南京占領の記録映画をつくっていますが、その中に「30万人大虐殺」は報じられていません。また当時、中国で「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞が発行されていましたが、たとえば1937年12月24日(南京陥落の11日後)の紙面をみると、日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。これが一体「大虐殺」のあったという都市の光景でしょうか。
また南京で実際にどのようなことがあったか、日本の当時の新聞を閲覧してみても、よくわかります。そこには、日本兵が武器も携帯せずに南京市民から買い物をする姿、南京市民と歓談する光景、日の丸の腕章をつけて微笑む南京市民の姿などが、写真入りで解説されています。また、平和回復を知って南京に戻ってくる住民、中国の負傷兵を手当する日本の衛生兵たち、再び農地を耕し始めた農民たち、そのほか多くの写真が記事と共に掲載されています。
それは平和が戻り、再び以前の生活を取り戻し始めた南京市民と、日本兵たちの心と心の交流の姿なのです。当時、報道は「検閲」の下に置かれていたとはいっても、これらは到底「大虐殺」があったという都市の光景ではありません。
蒋介石は一度も「南京大虐殺」に言及せず
中国国民党の総統・蒋介石は、もともと南京にいた人です。しかし彼は、日本軍が攻めてきたことを知ると、南京の防衛はさっさと部下にまかせて、南京を出てしまいました。そののち終戦に至るまで、蒋介石は中国人民向けに何百回ものラジオ演説を行なっています。ところが、その中で彼はただの一度も、「南京で大虐殺があった」等のことは言っていません。もし大虐殺があったのなら、これは非常に不自然なことです。蒋介石の認識の中にも「南京大虐殺」はなかったのです。
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◆「南京大虐殺」という史上最大の捏造①
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2012/01/30 01:04 投稿番号: [38467 / 41162]
1937年12月、日本軍は支那事変を終結させるため、南京へ侵攻。12月13日にそこを占領しました。いわゆる「南京大虐殺」とは、その占領から約6週間の間に数十万人単位の人間(市民や捕虜)が日本軍によって南京で虐殺されたとする説です。中国共産党が公式に述べてきたものとしては、その数30万人。中国にある南京大虐殺記念館の外壁には、大きな文字で「300,000」の数が、犠牲者数として掲げられています。
この「南京大虐殺」は、日本でも戦後、共産党員や共産主義シンパなどを中心に広められ、そののち多くの人々を巻き込み、教科書にまで書かれ、日本人の「自虐史観」の根底に置かれてきました。しかし今日では、このような30万人もの大虐殺は実際にはなかったことが、多くの証拠によって明らかになっています。
日本兵たちによるある程度の犯罪はありました。しかし、それはどこの国の軍隊にもある程度のものであり、むしろ南京での日本軍の活動をみてみると、非常に人道的なもののほうが多く目につきます。
日本軍が南京を占領したとき、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込みました。そのため日本軍は、掃討作戦を行なわなければなりませんでした。日本軍は彼らを見つけだしたとき、武器を隠し持っているなど特に反抗的な不法戦闘員数千名を処刑しました。国際法では、こうした不法戦闘員は「捕虜」としての扱いを受けることができず、処刑されても致し方ないとされているからです。こうした不法戦闘員の処刑が、誤って「捕虜の虐殺」と伝えられた面があります。
また安全区に逃げ込んだ中国兵の中には、日本軍になかなか捕まらず、民間人に化けて安全区内で強姦や、略奪、殺人などを行ない、それを日本兵のしわざに見せかけたり、あるいは被害者を脅迫して「日本兵が犯人」と言わせるなど、反日工作を繰り返していた者たちがいました。こうした反日工作により、あたかも日本兵が残虐の数々を繰り返していたかのように伝えられた面があります。
そうした事情はありますが、いわゆる「南京大虐殺」はなかったのです。以下、その証拠をみてみましょう。
南京に戻ってきた住民
南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたりするでしょうか。
日本軍の南京への攻撃開始の約1週間前の1937年11月28日に、警察庁長官・王固磐は、南京で開かれた記者会見において、「ここ南京には今なお20万人が住んでいる」と発表しています。そののち日本軍は12月13日に南京を占領しました。それから5日後、12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。また12月21日には、南京外国人会が「南京の20万市民」に言及、さらに南京陥落から1ヶ月後の1月14日には、国際委員会が人口「25万人」に増えたと公表しているのです。
住民が戻ってきました。上智大学の渡部昇一教授によると、南京陥落から1ヶ月後に日本軍が約「25万人」の住民に食糧を配ったとの記録も残っています。
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「証拠能力のない憶測」(wadatumiさん)
投稿者: steffi_10121976 投稿日時: 2012/01/30 01:03 投稿番号: [38466 / 41162]
●>はじめから南京虐殺とは関係ない写真ばかりを引き合いに出し、「証拠とならない」
と言ってみせることで、事件の証拠はないと思わせるトリックにすぎなかった。
では、いわゆる“虐殺捏造派”は、事実と関係のない写真を“証拠”と偽って主張したことはいちどもないとおっしゃるのでしょうか?
そもそも総面積4平方km足らずの安全区における“虐殺”が事実ならば、当時その場にはカメラマンを含む100名超の各国ジャーナリストがいたわけですから、当然正真正銘の記録写真が大量に残されているはずであり、1枚たりといえども偽造する必要はなかったはずですよね?
どうご説明なさいます?
●>あるいは、村瀬氏が見たのは兵士の死体であり、民間人というのは間違いだと主張するものも出てくるに違いない。
ですから、こういう反論の余地が存在すること自体、村瀬氏の写真における情報だけでは、その被写体が違法に殺害された中国人かどうかは判然としないという何よりの証拠でしょう。
それともあなたはそれらの写真をごらんになって、ここに写っている遺体がすべて、いわゆる“虐殺”の被害者であるということを、いっさいの疑問の余地なく断定することがおできになるのですか?
撮影者である村瀬氏ご本人にしたところで、これらの遺体が遺体として存在した「時期」に、その「現場」にいてシャッターを切ったことは確かだとしても、それらの犠牲者がどのような経緯で命を絶たれたかというその「時期」と「現場」からは「遠く離れた」ところでしかカメラを構えていなかったわけですから、「ほとんどが平服の民間人でした」という彼の言にしたところで、しょせんあなたのおっしゃる「証拠能力のない憶測」に過ぎず、事件の本質的解明に何ら資するものではないのですよ。
そうでないとおっしゃるのならば、村瀬氏の言葉が正しいということを、ここで完璧に立証していただけます?
●>しかし、当時の軍隊経験と戦場体験を有する氏の記述を現場にいたことのない者が、妄想や間違だいと断じるのは、相当の根拠がなければ、無理な話だ。(ママ)
自分勝手なこじつけはおやめいただけませんでしょうか?
すでに申しあげましたとおり、いわゆる“南京大虐殺”があったとおっしゃるのならば、その立証責任は当然“あった”とおっしゃる側に存在します。
そして、当時の日本国および日本軍将兵(私たち良識ある日本国民の父祖)の犯罪行為を云々される以上、それはいっさいの疑問を差し挟む余地のない、完璧な証拠によって立証されなければなりません。
そのことは、この村瀬氏の写真についても同様です。
これがいわゆる“虐殺”の証拠だとおっしゃるのならば、その立証義務はそう主張される側にあるのであって、私たちにはこれらがすべて“虐殺”死体ではないということを証明しなければならない義務はありません。
単に“虐殺”捏造派のロジックの矛盾や不整合や破綻を指摘して、それを論破すればよいだけのことです。
(つづく)
これは メッセージ 38441 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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その時その場にいた者の証言(wadatumiさん)
投稿者: steffi_10121976 投稿日時: 2012/01/30 00:55 投稿番号: [38464 / 41162]
●>犯罪捜査でも裁判の場でも、実際に犯行現場に居合わせた人間の叙述は、ひじょうに重要な証拠として位置づけられる。南京事件の真相を知るうえでも、同様のことが言える。
>その時、その場にいた者の証言は、その場に居なかった者の憶測などとは比べ物にならず、はるかに証拠能力は高い。
いつものことながら、あなたのご投稿文は同じ主旨のことを表現を変えてくどくどと何度も繰り返し、文字数を無意味に拡大していらっしゃいますね。
それによって投稿件数を水増しして、他の投稿者へ心理的威圧感を与えようというご意図なのでしょうけれども、それはあなたの文章下手ぶり、論理薄弱ぶりを露呈するだけであって、あなたのご主張に何の説得力ももたらさないのですよ。
それはさて措き、上のあなたのご指摘は私もそのとおりだと思いますので、それを前提としておたずね申しあげましょう。
日本軍による南京進攻直後、当地のいわゆる「安全区国際委員会」(以下「国際委員会」)は、日本軍による犯罪行為として、昭和12年12月13日から翌13年 2月 9日までの間に、49件の殺人事件、44件の暴行傷害事件、361件の婦女暴行事件が発生したという内容の文書を計61通、日本を含む数か国の大使館に送付していますね。
あなたのお言葉をお借りするならば、これらの文書はまさに「実際に犯行現場に居合わせた」「その時、その場にいた」複数の人間、しかも非公式組織とはいえ、現地においては日本とは明らかに利害を異にする立場の国の人間によって占められていた団体が関連各国の大使館に送付した正式なもの、ということになります。
仮にこれらの内容がすべて事実だとしても、この叙述のどこから、30万人はおろか、千人、百人レベルの“大虐殺”とやらがあったという「重要な証拠」になるのでしょうか?
しかも、あなたもよくご承知のとおり、これらの事件のうち、国際委員会のメンバーが直接目撃したものは2件の殺人事件のみであり、あとはすべて中国人からの伝聞に基づくものであること(スマイスが証言)、そしてその2件の殺人事件についても、1件は日本軍による便衣兵摘出の際、逃亡を図った不審者を射殺したものであることは、目撃者であるマギー本人の証言によって明らかになっています。
この文書は、あなたのおっしゃる「その場にいた者の証言は、その場に居なかった者の憶測などとは比べ物にならず、はるかに証拠能力は高い」とのご発言との関連において、どのように解釈されるべきか、ご高説を承りたく存じます。
(井出純二氏の証言)
●>私の南京入りは十三日の首都陥落から二週間以上遅れた十二月二十九日だから、それ以前のことは全く知らない。
つまり、これはあなたのおっしゃる「その場にいた者の証言」ではなく、「その場に居なかった者の憶測」に過ぎないということですね。
●>治安の確立を焦った日本軍が、市民の間に逃げこんだ便衣兵を、大量に狩り立てて殺したのが主体ではないかと推測する。
つまり、彼の目撃した“虐殺”とは、安全区に逃げ込んだ便衣兵の掃討であったということですから、法的には何の問題もなかったということですね。
もっとも、これもご本人がはっきり「推測」と表記しているのですから、これはあなたのおっしゃる「その時期と現場から遠く離れた、証拠能力のない憶測」ということになるのかしら?(笑)
●>それから十数日経った後、南京埠頭で私が見た光景
戦闘から十数日後の処刑現場を目撃しただけで、その処刑が違法か合法か、一新聞記者にどうして判断できるのですか?
この場合、あなたのおっしゃる「時期と現場」とは、あくまでも南京進攻時のそれであって、その結果としての処刑現場など、実際にその場に居合わせたとしても、事実の究明とは何ら関係のないものでしょう。
●>私が見た限りでは、大量、組織的、軍命令による白昼堂々の“公的処刑”としか見えなかった
「私が見た限りでは」ですとか、「としか見えなかった」では、思いっきりあなたのおっしゃる「証拠能力のない憶測」でしかないのではございません?(笑)
●>便衣兵かなあと眺めていた。
はい、便衣兵だったのでしょうね。
この方の「憶測」では。(笑)
あなたは私がここまでパラフレーズしてさしあげないと、ご自分で引用なさったこの井出氏の記事が「その場にいた者の」「証拠能力」の高い証言とはおよそかけ離れたものであることにお気づきにならないのでしょうか?
(つづく)
これは メッセージ 38439 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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稼ぎ手を殺し勲章でだますなり(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/01/30 00:01 投稿番号: [38463 / 41162]
鶴彬は、除隊後も地方新聞社勤務などをして生活を支えながら、
痛烈な世相批判の川柳、評論を
相次いで発表する。
風刺を独自の生命とする川柳を、時流に妥協せず、反戦の志を
つらぬく
最高の手段であり、同時に高い芸術性をもつことが
可能であると確信した鶴彬は、この時期、凶作農家や娘の身売り、
製糸女工や反戦を題材にした柳句を
数多く
発表している。
凶作を救えぬ仏を売り残している
塹壕で読む妹を売る手紙
もう綿くずも吸えない肺でクビになる
手と足をもいだ丸太にしてかへし
これらは、1937年頃に
活字になっている。
軍は大陸派兵を続々と増大し、ついには全面戦争へと突入し、
国民は
好戦的な風潮に
押し流されている
世相のなかで、
鶴彬の作品も川柳観も
より尖鋭に、反戦色を強めていった。
おんどりみんな骨壺となり無精卵ばかり生むめんどり
稼ぎ手を殺し勲章でだますなり
胎内の動きを知るころ骨がつき
殴られる鞭を軍馬は背負わされ
1937年12月、治安維持法違反で東京・野方署に逮捕され、
拷問を受け続けたうえ
留置場で赤痢にかかり、重態となって
病院に移されるが釈放はなく、極度の衰弱ののち翌年9月14日、
鶴彬は
“病死”
した。
29歳だった。
鶴彬の本名の喜多一二と
小林多喜二の名前は、よく似ている。
特高警察に検挙され、拷問を受け、治安維持法の犠牲者として
29歳で絶命した点においても、2人は
共通している。
こうした
戦前の命をかけた文化人たちの活動を思うとき
ただ安穏と時流に
流されるばかりの自分を
恥じるほかない。
帝國憲法下でも、逮捕者への
拷問や虐殺は
違法行為だった。
作家の小林多喜二を
拷問で虐殺した特高担当者は、殺人罪で
罰せられて
当然だったはずだが、しかし、警察も
検察も
グルになって
隠蔽し、逆に、政府は、虐殺の主犯格である
警視庁の特高部長、その配下で直接の殺人者である特高課長、
さらには
警部らに叙勲を与え、「赤禍撲滅の勇士」と讃えた。
そのような暗黒時代に、反戦・平和を訴える文学、芸術作品を
発表することは、まさに
命を賭ける行為にほかならなかった。
「暁を抱いて闇にゐる蕾」
「手と足をもいだ丸太にしてかへし」
鋭い反戦川柳を詠んだ
鶴彬もまた、社会運動の高まりのなかで
不屈の精神で戦い、最後まで
戦争反対を貫いて
死んでいった。
戦前の世代が少数となり、戦争の記憶が薄れたことを契機として
軍国時代の暴挙を正当化し、戦争を賛美する愚かな勢力が台頭し、
ふたたび
亡国への道に
人々を誘おうと
躍起になっている。
しかし、日本国憲法第9条には、命をかけて
戦争に反対した
治安維持法犠牲者たちの
「志」
が、深く
刻まれている。
あらためて
小林多喜二や
鶴彬の作品を
読み直すとき、
二度と再び
戦争と暗黒政治を
断じて
許してはならない
という思いを、より強くする。
これは メッセージ 38462 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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稼ぎ手を殺し勲章でだますなり(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/01/30 00:00 投稿番号: [38462 / 41162]
表題は、鶴彬(つるあきら)という
戦前の川柳人の作だ。
日本が中国大陸への侵略戦争に突入していく時代にあって、
「川柳」という
五七五の短詩を武器に、反戦の志を貫き、
わずか29年の短い生涯を終えた文化人。
その鶴彬の生涯は、いま
戦争を美化しようとする勢力が
台頭する風潮のなかにあって、大きな示唆をあたえてくれる。
鶴彬が残した数多の句と自由詩などが
『鶴彬全集』として
発刊されており、その作品を
我々は目にすることができる。
『北国新聞』の「柳壇」に、はじめて彼の投句が載ったのは
1924年10月15日のことだった。
静な夜口笛の消え去る淋しさ
燐寸の棒の燃焼にも似た生命
本名は喜多一二(きたかつじ)、石川県河北郡高松村に住む
15歳の少年が、のちに反戦・反権力の川柳人として名をなす
鶴彬だった。
十代で大阪に出るが、そこで
社会の矛盾に
苦しむ底辺の人々を目にする。
自身も失業苦をあじわった彼は、次のように
記している。
田舎の小ブルジョアの家庭に風あたらずで育った僕は、
はじめて味わった
都会の生活の嵐に
吹きまわされ、
工場の生活が
骨身にしみこませる資本主義の矛盾に
痛めつけられ、もはや
この世に
超現実的なものは
何程も実在しないことを体感した
全国的に
農民一揆や
労働者の闘いが
高揚した時代、
18歳で大阪から高松に帰ってのち、おそれを知らぬ若者は、
公然と
高松プロレタリア川柳研究会を
起ち上げた。
全日本無産者芸術連盟「ナップ」に参加し、高松支部を創設。
思想の自由も表現の自由も認められなくなっていた軍国時代に
それは
まさに
命がけの活動だった。
実際、治安維持法のもとで、三・一五事件などの弾圧があり、
川柳研究会のメンバーも
鶴彬を含めて
5名が検挙される。
一滴の血を搾らせるなと腕を組み
俺達の血にいろどった世界地図
軍神の像の真下に失業者
この頃、鶴彬は、階級的な目を研ぎ澄ませて、川柳革新への
情熱をほとばしらせながら
力強い柳句を相次いで発表する。
治安維持法のもとで
天皇制政府による残虐な弾圧が続くが、
鶴彬は「文芸は究極の処、政治に奉仕する」
という立場を
鮮明にし、社会性のない詩や俳句と
決別していった。
1930年1月、徴兵年齢に達した鶴彬は金沢の第七連隊に
入隊するが、営内で「赤化運動」を行なった
という嫌疑で
逮捕され、懲役2年の判決で大阪衛戍刑務所に服役させられる。
これは メッセージ 38461 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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歴史修正主義への日本と世界の認識(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/01/29 23:59 投稿番号: [38461 / 41162]
06年に、米下院外交委員会で
日本と近隣諸国に
関しての
公聴会が
開かれ、ハイド議長(共和党)が、ヤスクニ神社の
遊就館の展示について、「この博物館で
教えられている歴史は
事実に基づいていない、是正すべきだ」
と指摘した。
ナチスのホロコーストの生存者であるラントス議員(民主党)も
それに呼応し、「日本が
過去の歴史に正直に取り組んでいない
ことは、日本自身にとって大きな危害となっている」
と述べ、
「日本の歴史健忘症の最も顕著な例が、日本首相の靖国参拝だ」
と指摘した。
同議員は、A級戦犯をまつっている靖国神社への首相の参拝は、
「ドイツのヒムラー、ゲーリングらの墓に花輪を置くに等しい」
とも語った。
また、「戦争犯罪人に敬意を表することは道徳的に
破綻している。
この習わしをやめなければならない」と述べた。
また
同議員は、侵略の歴史を美化する「つくる会」の教科書を
日本政府が
検定合格させたことに言及、「南京大虐殺はなかった。
日本は他のアジア諸国を帝国主義から守るために開戦しただけだ」
とする教科書を
「歴史修正主義」
だと表現し、日米関係にも
「日本の
超国粋主義者を除く
すべての人々にとって、率直に
公然と過去と向き合う
日本の姿勢が
最高の利益であることは
明白だ」
と語っていた。
同外交委員会は、07年に
旧日本軍の「従軍慰安婦」
問題で
日本政府に
公式の謝罪を求める決議案を圧倒的多数で採択した。
その際に、ラントス委員長が
次のように
発言した。
「戦後ドイツは正しい選択をした。一方、日本は歴史の健忘症を
積極的に
促進させている――」
的を射た指摘だ
と思う。
一昨年、ドイツのベルリンで「トポグラフィー・デス・テロルズ」
(恐怖政治の地誌)という
新しい展示資料館が一般公開された。
かつての秘密警察ゲシュタポやナチ親衛隊本部の跡地に建設された
この資料館では、ユダヤ人のホロコーストのほか、ロマや政治囚、
ロシア人捕虜への残酷な仕打ちなど、被害者側の資料だけでなく、
ナチス・ドイツの組織機構など加害者側の資料を展示している。
だれでもが
加害者になりうる
という認識に立って、国家や
社会が
どのようにして
加害者を生み出していくかを解明し、
共通認識に
しようとするものだ。
一般公開に先立って催された開館式では、ケーラー独大統領が
「この場所ほどナチスの犯罪と結びついた場所はほかにない」
として、「過去との対話は
わが国の
自己理解の基本であり、
特に
若者の学びの場となることを望む」
と語った。
歴史修正主義を
野放しにするどころか、政治家自身が
その
片棒を担ぎ、過去の誤りを隠し、戦争を美化しようとする日本。
加害者としての事実を
積極的に
記憶し、教訓にするドイツ。
自国の“加害の歴史”に
真摯に向き合う姿勢、事実を未来に
伝えようとする責任の取り方において、ドイツと
日本とでは
大きく
隔たっていることを
実感せずにはいられない。
これは メッセージ 38460 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/38461.html
歴史修正主義への日本と世界の認識(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/01/29 23:58 投稿番号: [38460 / 41162]
1931年に始まった
中国東北部への
武力侵攻開始以後、
日本帝国が
中国大陸や東南アジア・太平洋地域で起こした
戦争を、「自存自衛の戦争」
「アジア解放のための聖戦」
として正当化する
ヤスクニ神社などが連日
宣伝流布する
歴史観は、まさに
“歴史修正主義”
の典型だといえる。
「南京大虐殺はなかった」
「従軍慰安婦の強制はなかった」
といった主張や、「沖縄戦での軍の集団自決命令はなかった」
などという
主張も、これに
該当する。
このように
侵略戦争や
組織的残虐行為への批判的評価を
「修正」しようとする策動は必ずしも日本だけの現象ではない。
前述したように、ドイツでも
極右勢力が「アウシュビッツの嘘」
といった議論を
唱えていた。
イタリアにも、第2次大戦下の
反ファシズムの闘争の意義を否定し、レジスタンス運動や憲法を
詳述した学校教科書を「偏向」
だとする議論が
存在していた。
しかし、こうした主張を公然と唱える勢力が政権に参画した例は
一時期の
オーストリアなどを除いて、欧米では
ほとんどない。
戦争を美化する宣伝を流布し、戦争指導者達を「英霊」
として
顕彰する“歴史修正主義”の殿堂とも言える
特殊な宗教施設に
政府要人や
政権与党の議員などが
公式参拝して恥じない国、
右翼政治家などが公式の場で
南京虐殺を
否定して見せる国は
国際社会の常識からは
大きく乖離している存在といえるだろう。
つい先日、国際ホロコースト記念日にあたる
1月27日には
ノルウェーのストルテンベルグ首相が
首都オスロで
演説し、
「ユダヤ人の逮捕と強制移送に、警察や
その他のノルウェー
市民がかかわったことを認めなければならない」
と述べて、
ナチスのホロコーストに関与したことを
公式に
謝罪した。
首相演説は、国内のユダヤ人が強制移送された港で
行われた。
「虐殺したのは間違いなくナチスだ。だが(ユダヤ人を)逮捕し
(移送用の)トラックを運転したのはノルウェー人だ。
それは
ノルウェーで行われた」
と語り、そのうえで「この国で起きた
ことについて、最も深い謝罪を表明するときだ」
と述べた。
ノルウェー政府は
1998年に
ホロコースト関与を認め、
ユダヤ人への賠償も行なっているが、国家として
全面的な
謝罪はなかったという。
ホロコースト記念日には、犠牲者を追悼する行事が世界各地
で行われた。
もちろん、ドイツ連邦政府も
例外ではない。
これは メッセージ 38459 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/38460.html
歴史修正主義への日本と世界の認識(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/01/29 23:57 投稿番号: [38459 / 41162]
最近、フランスの上院は、「アルメニア人虐殺」
を公の場で
否定することを
禁止する法案を
賛成多数で
可決した。
第一次大戦中の
1915年頃、当時の
オスマン・トルコが
領内のアルメニア人を「治安を脅かしている」
という理由で
強制移住させた際に、大量虐殺が行われた
とされている。
アルメニアは、最大150万人が犠牲になったと主張している。
トルコ政府は、多数の死者が出た事実は
認めているが、
帝国末期の
社会的混乱によるものだとし、組織的虐殺だとは
認めていない。
このため、現代でも
「歴史問題」
として
両国の対立を
招いている。
この点では、南京虐殺を巡って
日中両国の関係が
冷え続けている状況と
似通っている。
トルコと
アルメニアは
約1世紀にもわたる
対立を経て、
09年に
国交樹立などをうたった和解合意に
署名したが、
いまだに
合意の批准手続きは
遅れている。
この問題について、フランスの上院が「アルメニア人虐殺」を
否定することを禁止する法案を
賛成多数で
可決したのだ。
法案は
昨年12月に、下院を通過しており、上院可決で成立。
否定した者に
最高で
禁錮1年と
罰金4万5000ユーロ、
つまり
約450万円を科す
というものだ。
南京虐殺マボロシ論などを声高に唱える輩を野放しにしている
何処かの国の現状とは、あまりにも
大きな格差だ
と言える。
思想・言論の自由を尊重し、たとえ誤った主張でも許容するのが
民主主義の要諦だという観点から見ると、刑罰まで課すことには
日本人としては抵抗感を感じるが、少なくとも他の先進諸国では
歴史認識に対し、いかに厳格に対峙しているのかを物語っている。
「アルメニア人虐殺」否定論は、歴史修正主義と認識されるのだ。
歴史修正主義は、国際社会、特に先進的民主主義国家においては
それ自体が
罰すべき犯罪であると
位置づけられている。
もともとは、欧米で
「ナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺戮は
でっちあげだ」
などと主張する論者が、自らを
リビジョニスト
つまり、「修正主義者」
と名乗って
活動していたことから、
広く
使われるようになった。
歴史は、新たな史料の発見などによって「修正」
されるのは
当然のことだが、「歴史修正主義」
は、次元を
異にしている。
純然たる歴史学ではなく、特定の政治思想を基底にするからだ。
日本では、戦争体験者の減少に伴い、90年代以降、日本帝国が
過去に起こした戦争を侵略とする見方に対して「自虐史観」だと
非難して戦争を正当化する勢力の動きが
目立つようになり、
それが
「日本版歴史修正主義」
と呼ばれるようになった。
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Re: 南京大虐殺映画「金陵十三釵」が大ヒッ
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2012/01/29 20:08 投稿番号: [38458 / 41162]
>外国人の証言に20万人という数字が出ていれば大喜びで引用し、
同じ外国人の証言に日本軍の虐殺が出ていればそれはウソだと
して引用しないわけだ(藁
20万人というよりも、安全区以外は無人だったことを示す資料だけどな。
「同じ外国人」って誰のこと?
20万人が安全区に居て、安全区以外は無人だったということについては嘘を吐く動機がないし、複数の者による多数の資料が存在する。
一方、日本軍の虐殺については、嘘を吐く動機もあるし、事実だと証明できない証言だけで、逆に同一人物の証言に食い違いや矛盾が認められる。
よって、安全区のみに20万人が集められていたことは事実だが、日本軍の虐殺は事実無根となる。
これは メッセージ 38366 (shoujouji さん)への返信です.
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Re: 石井式濾過機
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/01/26 06:16 投稿番号: [38457 / 41162]
往生際が悪いのは脳無し君の方だよね、脳無し君。
石井式濾過器は別名無菌濾過器と言って、細菌は一再通さないんだよね、脳死君。
これは メッセージ 38456 (shoujouji さん)への返信です.
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Re: 石井式濾過機
投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/01/25 23:00 投稿番号: [38456 / 41162]
もうあきらめろや。
往生際の悪いやっちゃ。
これは メッセージ 38455 (maximirion さん)への返信です.
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Re: 石井式濾過機
投稿者: maximirion 投稿日時: 2012/01/25 20:08 投稿番号: [38455 / 41162]
<shoujouji>
今回の話は、ニャンコがまず731部隊は防疫給水隊だから水を供給するのが
役目と言い、東平氏がそれを受けて石井が若い頃に石井式濾過機を発明して
自分の尿を濾過して昭和天皇に飲ませようとし、断られたので自分で飲んだ
というエピソード(真偽はともかく)を出し、unhoo氏がそれを受けて
上記のことを指摘して落ちがつき、私もそれに同意したということだ。
shoujouji が碌にこのトピでのやり取りの中身を把握してにことが良く分かっただけだね。(笑)
「731部隊は防疫給水隊だから水を供給するのが役目」という投降からいきなり「石井が若い頃に石井式濾過機を発明して
自分の尿を濾過して昭和天皇に飲ませようとし、断られたので自分で飲んだ
というエピソード」に展開したというのだからね。
その間のやり取りの方に論点があったからこそ、unhoo氏は塩分は除かれていないから引用に適さないとしているのだよ。
尿素は濾過できない書いたのは、unhoo氏の後にレスを付けた私なんだしね。
shoujouji が、だれぞに偉そうにいう資格のない御仁であることは、はっきりしたな。
<shoujouji>
皆が楽しく小話で息抜きをしているときに
訳の分かっていない shoujouji だけが、そう勘違いしているだけの話。
私も他の投降者もいきり立っていないしね。
shoujouji が知ったか振りを突かれていきり立ったってことは、あるかもしれんが。(笑)
何せこんなことを書いてんだから。
↓
・濾過できるものは粒子のみ
・純水を得るには蒸留あるのみ
shoujouji がレスでいう「細菌を扱うこと自体は軍事衛生学でごく当たり前のことであり」が後付けであることは明白だな。
これは メッセージ 38451 (shoujouji さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/38455.html
Re: 石井式濾過機
投稿者: maximirion 投稿日時: 2012/01/25 19:49 投稿番号: [38454 / 41162]
何を下手糞な言い訳してんだろうね。
「純水を得るには蒸留あるのみ。」などとほざいたお馬鹿さんよ。(笑)
shoujouji が無知な故に、その大きさの定義付けもせずに漠然と”粒子”としてしまった過ちを理解できないでいるのが見て取れる。
公衆衛生学は、高校レベルの化学や生物を基礎に専門研究を加えた学問だ。
公衆衛生学でいう”粒子”概念は高校の化学の”粒子概念”と共通する。
汚染物質の一定大気中や一定水中の濃度を計算するのには、モル濃度を考える場合の”粒子”概念が基礎となる。
また、公衆衛生学に含まれる、細菌学上や疫学上でも濾過精度や組成研究に於いては様々なレベルの粒子を扱う。
特に濾過の分野になると、化学だけではなく物理も基礎的な学識として必要になる。
だからこそ、専門分野では共通する概念で”粒子”レベルやその違いを区別する表現を怠らない。
公衆衛生学上の粒子ってのは、汚染物質として化学分子レベルから微小粒子や粉塵までまで含まれる。
環境汚染物質としての粒子状物質は粒子状物質(PM)だ。
細菌学状の濾過分離や疫学上の分離では、細菌の分離やウィルスの分離自体の他、組成粒子の濾過分離などもある。
防疫給水に関する濾過では、どこまでの不純物質を分離できるかが重要で、その基準は細菌の除去率ってことになるんだよ。
細菌は分離できてもウィルスは分離できないってことを、公衆衛生学上の粒子状物質と細菌及びウィルスの大きさを示してやるから良くお勉強なさい。
ゾウリムシの大きさは0.1mm(100μm)
浮遊運動をする砂
約0.05mm (50μm) 未満
日本に到達する黄砂
4 μm 前後
粒径2.5μm以下の微小粒子状物質(PM2.5)、2.5〜10μmの粗大粒子状物質(PM10-2.5)
細菌の大きさは1〜5μm
ウィルス分離
0.22μm 濾過
これは メッセージ 38450 (shoujouji さん)への返信です.
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Re: 客観的論拠のない事件否定「論争」の構
投稿者: mokneybrain123 投稿日時: 2012/01/25 17:15 投稿番号: [38453 / 41162]
>最近、この掲示板にも、じつに可笑しな投降が
多い。
>「確証がないと認めていらっしゃいます」
などと
言われても、
頭をひねるほかない。
そんな戯言を認めた覚えなどないからだ。
ははは、たまらず出てきたな。「確証」などと言葉尻をとらえて論点ずらしをしようとしても無駄だ。動かぬ証拠はあがっている。
>38146では、証言、詳細な記録資料などがあるから南京大虐殺は客観的な事実だと言っているのに、否定派、懐疑派の主張に対しては、証言、詳細な記録資料などの多くが隠滅されているから、客観的事実をめぐる「学術論争ではなく、特定の歴史観・政治信条にもとづくイデオロギー論争の様相が」強いと言っている。
つまり一方では南京事件は、ちゃんとした証言、記録があるから客観的学術的論争ができると言い、他方では、ちゃんとした証言、記録がないからできないと言っている。あきらかに矛盾だ。
要するにこのワダツミという御仁はめちゃくちゃ投稿しているうちに前言を忘れて自己矛盾してしまうという人間だ。しかし、自己矛盾などなんのその手当たり次第の連続投稿で相手を圧倒し煙に巻いてしまえば勝ちだと思っているのだろう。だからほとんど絶対相手の反論に対して答えない。まともに答えるとぼろがでるからだろう。できの悪い工作員、でなければ工作員まがいだ。(38360)
ところで、「めちゃくちゃ投稿している」や「前言を忘れて」にいちゃもんつけて、自分の意見はなく引用しているだけだと見当違いを言っていた奴がいたようだが、「めちゃくちゃ投稿」や「前言」には当然めちゃくちゃ引用も含意されているのだ。
これは メッセージ 38438 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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コント ヒロヒト君と石井君
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2012/01/25 11:00 投稿番号: [38452 / 41162]
- QUOTE -
ヒロヒト君は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していた。
彼は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。
批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。
彼らは天ちゃんが、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
ヒロヒト君は、明らかに、2度にわたって石井君の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折。
もう1度は恒例の天ちゃん訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井君が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天ちゃんに恭しく差し出したとされているのは、天ちゃんが視察したそうした折のことだった。
・・・天ちゃんはその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
- UNQUOTE -
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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Re: 石井式濾過機
投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/01/25 10:21 投稿番号: [38451 / 41162]
やれやれ。よくもまあ、これだけ長々と独り相撲ができるもんだな。
>細菌培養は、菌株を倍地を入れた培養容器で培養増殖することを言うのだが、
その菌株の出所が明確にできないのが現実だ。防疫給水部が、細菌を濾過して
いたという事実がなければ、防疫給水を隠れ蓑に細菌を取り扱えたと言う根拠が
薄弱になるのさ。
えーと。要するにおまえは、731部隊が防疫給水のために濾水器で細菌を濾過
できることが細菌兵器研究ができることの必要条件であると。何でそうなる
のかさっぱりわからんが、とりあえずその答えはイエスであるのだから、
当然ながら細菌は扱えるんだろ。だからどうしたんだね?そうではないとでも
言いたいのかな?隠れ蓑うんぬんというのはいったい誰に対して隠すんだね?
細菌を扱うこと自体は軍事衛生学でごく当たり前のことであり、731を含む
満州の日本軍研究施設が細菌を扱っていて、日本の有名大学の教授を含む医師
たちの多くが満州にわたって細菌学研究をやり、戦後の医学会の重鎮になった
ことは周知の事実であり、当時の国内の医学雑誌にも論文が載っており、秘密
でもなんでもない。秘密だったのはその細菌研究というのが細菌兵器研究の
ための人体感染実験を含んでいたという部分だけだ。
>shoujouji がどういうつもりで、石井式濾水器では「一般的な粒子状物質」である
マイクロメートル単位の固体や液体の粒程度しか濾過できないと言い張るのか
濾水器というのは細菌を濾過するのが最重要な役目であり、細菌というのは
当然ながらマイクロメートル単位の粒子だが、それがどうかしたのかい?
unhoo氏の話は、要するに無菌だとは言っても塩分や尿素は除かれていない、
とても飲料には適さないものを石井がやせ我慢して飲んだはずだ(本当の話
だとすれば)という指摘だから、私はその通りですねだと言ったんだが、何か?
新鮮な尿はそもそも最初から無菌であるから、石井式濾水器で尿を濾過しても
何の役にも立たないというのがこの小話のポイントだ。
今回の話は、ニャンコがまず731部隊は防疫給水隊だから水を供給するのが
役目と言い、東平氏がそれを受けて石井が若い頃に石井式濾過機を発明して
自分の尿を濾過して昭和天皇に飲ませようとし、断られたので自分で飲んだ
というエピソード(真偽はともかく)を出し、unhoo氏がそれを受けて
上記のことを指摘して落ちがつき、私もそれに同意したということだ。
ここでは誰も石井が濾水器を作ったことを否定していないし、731部隊が
防疫給水の研究もしていたであろうことを否定などしていない。防疫給水
をやることと細菌兵器研究をすることは何ら矛盾無く両立するからだ。
掲示板だって、いつもいつも対立しているわけではない。皆が楽しく小話で
息抜きをしているときに、おまえだけがいきり立ってとんちんかんな知った
かぶりで人の話にいちゃもんをつけ、浮きまくっているという話だ。
いつものことだがな(藁
これは メッセージ 38449 (maximirion さん)への返信です.
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Re: 石井式濾過機
投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/01/25 08:40 投稿番号: [38450 / 41162]
やれやれ。濾水器という、細菌学ないし公衆衛生学の
レベルにおける「粒子」と、化学でモル濃度を考える場合の
仮想的な「粒子」とを同一視してやがる。じゃ、物理学に
おける素粒子も「粒子」だから、大まじめで石井式濾過器を
通り抜けるとか何とか解説を始めるんだろうな。
こういうのを、虚勢を張った知ったかぶりだというんだよ(藁
これは メッセージ 38448 (maximirion さん)への返信です.
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Re: 石井式濾過機
投稿者: maximirion 投稿日時: 2012/01/25 06:24 投稿番号: [38449 / 41162]
<shoujouji>
>fukagawatohei が、なぜ石井式濾水器の小話を持ち出したのかさえ分かってないってことだな。
ほう、なぜだい。説明してみな。私の知ってる限り、
>故に、細菌を補足収集できるとして細菌兵器開発と結びつけて話が一人歩きですね。
などと、石井式濾水器と細菌兵器開発とを結びつけた話をした者
などこのトピでだれもいない。おまえが初めて言い出したことだ。
細菌は培地で増やすものであり、濾水器で「補足収集」すると考える
者などいない。細菌学研究ではオートクレーブや煮沸により滅菌を
行なうのであり、濾水器で無菌化するわけではない。石井式濾水器と
いうのは要するに731部隊の防疫給水部隊としての表の顔であり、
人体実験を伴う細菌兵器研究は石井式濾水器などなくてもできる。
おまえは独り相撲をやっているだけだ。
引用文の入れ方も分からんのか、この馬鹿は。(笑)
日本語を碌に読解できないだけでなく、文章構成もまともにできんようだな。
shoujouji は、直接表現でないと「書いてない」「言ってない」都しか理解できないお馬鹿さんだってことが明白になったな。
「731部隊で細菌兵器研究と人体実験をした」と証言する、731部隊に所属していて終戦により中国で抑留されていたと自称する証言者の話ってのが、731部隊が細菌兵器部隊で細菌兵器研究部隊だとする者達の根拠の一つだ。
その中でも濾水器の能力程度は語られているが、その大前提は戦地で防疫給水部が石井式濾水器で供給した事実何だよ。
その事実というのが、最小の細菌が除去できる濾水器というものなのさ。
こう書いておいたんだがな。
↓
<maximirion>
お前だけが、石井式濾過器の話題の論点を理解してないんだよ。
石井式濾過器で細菌が濾過捕捉できなければ、防疫給水部が細菌兵器部隊だとか細菌兵器研究部隊だという話の根底が崩れるんだよ。
fukagawatohei が、なぜ石井式濾水器の小話を持ち出したのかさえ分かってないってことだな。
それに対してそういう頓珍漢な返答をよこすんだから、何も分かってないし知らないってことだな。
細菌培養は、菌株を倍地を入れた培養容器で培養増殖することを言うのだが、その菌株の出所が明確にできないのが現実だ。
防疫給水部が、細菌を濾過していたという事実がなければ、防疫給水を隠れ蓑に細菌を取り扱えたと言う根拠が薄弱になるのさ。
石井四郎なる人物が、部隊配属前は細菌研究をしていた医師であり、細菌の専門家であった故に細菌まで除去できる濾過装置を開発して軍の防疫給水に貢献できていたという確実な事実がある。
その事実の下に、「細菌研究の専門家が部隊責任者であったのは、細菌兵器開発の研究機関であったからだ。」という話が出てきたのだよ。
防疫給水部の仕事としては、濾水原水中の水質検査で水質を検査し、混入物質の外にどの程度どういう細菌や微生物が存在し、毒性物質の混入程度を解明することも含まれる。
だから、細菌と防疫学の専門家と毒性物質の専門家と濾水の専門化が必須なわけさ。
水の濾過と聞いて、「粒子状物質」や「粉粒体」しか”粒子”だと認識できない程度の御仁が、防疫給水用の濾過器を語るなどそれこそ片腹痛い話だ。
加えて、蒸留すれば純水が作れるなどと考えていたわけだから、無知を晒すのも大概にしなさいって処だな。
細菌は濾過できるがウィルスは濾過できない、尿素などは濾過できないということは、毒性物質の多くは濾過できないってことだ。
だから、毒物判定装置なるものも防疫給水部には存在していた。
防疫給水部で細菌培養をしていたことを証言した中国抑留者やソ連抑留者がいるわけだが、その証言に基づいて中ソや日本の研究者が、裏付けとなる事物や資料を探し回って久しいが、証言通りに事物も資料も出てこないのが現実なんだよ。
一方で、濾水器で防疫給水した記録や事物は証言や資料通りに出て来るんだよ。
shoujouji がどういうつもりで、石井式濾水器では「一般的な粒子状物質」であるマイクロメートル単位の固体や液体の粒程度しか濾過できないと言い張るのか知らないが、その程度の濾過装置では飲料用の給水を戦地で必要量にするのに用を為さないのさ。
fukagawatohei の持ち出した、小便濾過水を天皇陛下に奉献する話がなぜ小話になるのか、shoujouji には一生かかっても分からんだろうな。
これは メッセージ 38446 (shoujouji さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/38449.html
Re: 石井式濾過機
投稿者: maximirion 投稿日時: 2012/01/25 04:06 投稿番号: [38448 / 41162]
<shoujouji>
>石井式濾水器で濾過できずに透過してしまうものとして、敢えて
いわれているのはウィルスと尿素だ。逆に、敢えて濾過できると
されているのが、細菌と粒子状物質だ。
やれやれ。釈迦に説法だと言ったはずだな。片腹痛いとも言う。
無知が、虚勢張っても無駄だ。(笑)
<shoujouji>
>濾過器には、電解粒子を濾過するものだってあるのさ。
おまえの知識では水溶液中のNaやClイオンも「粒子」かい(苦笑
高校の科学程度の知識もないくせに、「釈迦に説法」だの「片腹痛い」などとほざくのはみっともないぞ。(笑)
これでも読んで、反論してみ。
↓
溶液の性質
http://www.geocities.jp/don_guri131/02youekinoseisitu.html5)希薄溶液の性質
問題13
次の水溶液を沸点の高い順に並べよ。
H=1.0,
C=12,
N=14,
O=16,
Na=23,
S=32,
Cl=35.5
ア)尿素
(NH2)2CO
1.20gを水100gに溶かした溶液
イ)塩化ナトリウム
11.7gを水1000gに溶かした溶液
ウ)硫酸ナトリウム
14.2gを水500gに溶かした溶液
電解質か非電解質かで溶液中の粒子数が違ってくるので注意。
ア)尿素は、非電解質なので、溶液中の粒子は尿素そのものである。
イ)塩化ナトリウムNaClは電解質なので、溶液中では、Na+とCl-電離している。つまり、この場合の粒子はNa+とCl-である。
NaCl →
Na+ + Cl-より、1molのNaClからNa+とCl-が各1molずつ生じるので、溶液中の粒子の総モル数はNaClの2倍になる。
ウ)硫酸ナトリウムNa2SO4は電解質なので、溶液中では、Na+とSO42-に電離している。つまり、溶液の粒子はNa+とSO42-である。
Na2SO4
→
2 Na+ + SO42-にり、1molのNa2SO4からNa+ 2molとSO42- 1molの合計3molが生じる。つまり、溶液中の粒子の総モル数はNa2SO4の3倍になる。
沸点上昇は溶液の質量モル濃度に比例するので、ウ)>イ)>ア)
問題14
ブドウ糖
C6H12O6
54.0gを水500gに溶かした溶液の沸点上昇度は0.312℃であった。塩化ナトリウム11.7gを水1000gに溶かした溶液の沸点はいくらか。
ブドウ糖の水溶液と塩化ナトリウム水溶液の溶質粒子の質量モル濃度を求めて、その比から塩化ナトリウム水溶液の沸点上昇度を求める。
ブドウ糖水溶液:ブドウ糖は非電解質なので、溶液中の粒子はブドウ糖そのものである。
塩化ナトリウム水溶液:塩化ナトリウムは電解質で、1molのNaClからNa+とCl-が各1molずつ生じ、溶液中の粒子の総モル数はNaClの2倍になる。
溶液の沸点上昇度は溶質粒子の質量モル濃度に比例するので、この塩化ナトリウム水溶液の沸点は、水の沸点は100℃だから、100 + 0.208 = 100.208[℃]
これは メッセージ 38446 (shoujouji さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/38448.html
Re: 南京大虐殺 夏淑夏さんの場合
投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/01/24 23:47 投稿番号: [38447 / 41162]
そうか、おまえがトピずれでないと思うこと、すなわちこのトピで
議論すべきことだと思うのは
被害者が「11人」か「13人」か、事件後に家の中に隠れていた期間が
「1週間」か「2週間」か
ということなんかい。それじゃ、おまえが大いにそれを論じたらいい。
つまらないから誰もレスしないだろうがな(藁
これは メッセージ 38445 (maximirion さん)への返信です.
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Re: 石井式濾過機
投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/01/24 23:32 投稿番号: [38446 / 41162]
>石井式濾水器で濾過できずに透過してしまうものとして、敢えて
いわれているのはウィルスと尿素だ。逆に、敢えて濾過できると
されているのが、細菌と粒子状物質だ。
やれやれ。釈迦に説法だと言ったはずだな。片腹痛いとも言う。
>濾過器には、電解粒子を濾過するものだってあるのさ。
おまえの知識では水溶液中のNaやClイオンも「粒子」かい(苦笑
>fukagawatohei が、なぜ石井式濾水器の小話を持ち出したのかさえ分かってないってことだな。
ほう、なぜだい。説明してみな。私の知ってる限り、
>故に、細菌を補足収集できるとして細菌兵器開発と結びつけて話が一人歩きですね。
などと、石井式濾水器と細菌兵器開発とを結びつけた話をした者
などこのトピでだれもいない。おまえが初めて言い出したことだ。
細菌は培地で増やすものであり、濾水器で「補足収集」すると考える
者などいない。細菌学研究ではオートクレーブや煮沸により滅菌を
行なうのであり、濾水器で無菌化するわけではない。石井式濾水器と
いうのは要するに731部隊の防疫給水部隊としての表の顔であり、
人体実験を伴う細菌兵器研究は石井式濾水器などなくてもできる。
おまえは独り相撲をやっているだけだ。
これは メッセージ 38437 (maximirion さん)への返信です.
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Re: 南京大虐殺 夏淑夏さんの場合
投稿者: maximirion 投稿日時: 2012/01/24 15:22 投稿番号: [38445 / 41162]
<fukagawatohei>
重要なのは、「夏淑琴さんの家族、そして隣家の人々が、夏淑琴さんとその妹を除いて皆殺しされた」という事実です。その一点は間違いなく両方で共通しているし、またそれで十分でしょう。
”それで十分”とするのならトピずれだ。
余所でやってくれ。
これは メッセージ 38444 (fukagawatohei さん)への返信です.
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南京大虐殺 夏淑夏さんの場合
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2012/01/24 10:34 投稿番号: [38444 / 41162]
「 夏淑琴さん事件」とは、十二月十三日、南京東南部で2家族11名(あるいは13名)が日本軍に虐殺された事件です。
事件のたった2人の生き残りである夏淑琴さん(当時8歳)は、マギー牧師に対して事件の概要を語りました(『ドイツ外交官の見た南京事件』P176〜P177)。
東中野氏は、上記マギー牧師の記録の細かな相違点を針小棒大に取り上げ、「もし語るのであれば、「八歳の少女(夏淑琴)」は事実を語るべきであり、事実をありのままに語っているのであれば、証言に、食い違いの起こるはずもなかった」(P248)とまで言ってのけます。その相違点というのは、被害者が「11人」か「13人」か、事件後に家の中に隠れていた期間が「1週間」か「2週間」か、という、事の本質に関係のない、ほとんど、どうでもいいレベルのことです。
当時8歳の少女の50年後の回想に、そこまでの細部にわたっての「正確性」を求めようというのが、土台無茶な話です。
重要なのは、「夏淑琴さんの家族、そして隣家の人々が、夏淑琴さんとその妹を除いて皆殺しされた」という事実です。その一点は間違いなく両方で共通しているし、またそれで十分でしょう。
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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情報は作られる
投稿者: koudousuru009 投稿日時: 2012/01/24 09:22 投稿番号: [38443 / 41162]
情報は事実そのものではない。選択され時には捏造される。
何の為に?
何ものかの利益の為に。
古今東西、普遍的な、それが事実である。
「情報」はあるべし。それを使って「誰」が「何」をしようとしているかである。
それを見抜くのが「情報」の「現実的」な取り扱い方である。
歴史の情報は現実の闘争に直結している。
簡単明瞭、あほらしいほど!
だろ?!
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住民の虐殺は南京城内だけではなかった
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/01/24 07:34 投稿番号: [38442 / 41162]
戦時下、日本軍は
満州を除く
中国領土に
約70万人、
敗戦時には
約100万にものぼる
大軍を
派兵していた。
しかし
都市と交通網だけ、つまり
点と線を
抑えただけで
農村部まで
完全に
押さえることは、できなかった。
「現地自活」方針をとっていた日本軍は
食糧を確保するため
市場価格よりも大幅に安い価格で
米などを強制買い付けした。
また
国民党軍や共産党軍に対する
経済封鎖を行なったため、
都市に農産物が入らず、農村には工業製品が
入らなくなり、
そこに
日本軍は、物資調達のため軍票や円系通貨を乱発した。
このため、激しいインフレを引き起こすことになってしまった。
1940年9月の第一期晋中作戦以降の
日本軍の徹底した燼滅・
粛清作戦は、中国側からは
三光作戦などと
よばれた。
1942年からは、万里の長城沿いの地域の無人区化が図られた。
これは
八路軍の活動を封じるために
この地域を「無人区」に
しようとした作戦であり、対象となった村は
すべて焼き払われ、
抵抗する村人は
殺された。
追い出された人々は、「人囲い」と
呼ばれた集落に集められたが、農地も家畜も不足し、酷い環境の
下で、伝染病や
飢えのために
多くの犠牲を出した。
長城のすぐ北側の
熱河省興隆県では、この「無人区」化により
7万戸余りの民家が
焼かれ、3万頭余りの家畜が
奪われた。
1万5402人が
殺され、約1万5千人が
強制労働のために
満州に連行され、そのほか
凍死、餓死、病死者を
多数出した。
その結果、16万余りの人口が
10万人余りにまで
減少した。
こうした
三光作戦や
「無人区」化作戦によって、
1941年から
翌年にかけ
華北の
抗日根拠地の面積は
6分の1に、
人口は
4000万から
2500万人に、
八路軍の兵力は
40万から
30万人に
減少した。
(参考:姫田光義・陳平『もう一つの三光作戦』青木書店)。
しかし、こうした日本軍の作戦は
中国民衆を
より一層、
抗日に
追いやった。
1944年以降、日本軍が太平洋戦線に
部隊を転用したことと、連合国軍の援助を受けた中国軍の強化が
進んだこと、また
解放区からの反攻が始まったこと
などから
日本軍の戦線は、縮少しはじめた。
軍事的にも経済的にも
日本軍の崩壊が
進みはじめたのだ。
アジア解放という美名で飾っても、他国領土に大軍を派兵し、
物資を奪い、人々を殺害し続けたのだから、占領地の人々が
敵にまわったのは、いたって
当然のことだった。
強力な
連合国軍ばかりでなく、民衆までも
敵にまわして
しまったのだから、日本軍に
勝ち目などは
なかった。
これは メッセージ 38441 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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重要な犯罪現場における目撃者の証言(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/01/24 07:32 投稿番号: [38441 / 41162]
もう一人、当時
南京に滞在した目撃者証言を
紹介しよう。
村瀬守保氏は、目黒輜重連隊兵站自動車第17中隊に所属し、
給部隊として
南京戦の後を
辿りながら、
貴重な戦場の
記録写真を、多数
撮影した人物だ。
南京事件否定派の東中野教授は『南京事件証拠写真を検証する』
という著書で、いくつかの写真を
「検証」
してみせたが、
はじめから南京虐殺とは関係ない写真ばかりを引き合いに出し、
「証拠とならない」
と言ってみせることで、事件の証拠はない
と思わせるトリックにすぎなかった。
その東中野教授が、「検証」しようとしない写真がある。
それは、村瀬守保氏が
撮影した写真だ。
村瀬氏の写真は
日時、場所、状況などが
はっきりしている。
こうした、信憑性の高い写真を
初めから
除いたうえで
「検証した」
というのは、まさに
詭弁だろう。
以下、『村瀬守保写真集
私の従軍中国戦線』から引用する。
南京制圧
第一線に近づくにつれて、部落を通過するたびに虐殺死体が
目立ち始めました。
(略)土間にひく
アンペラを探して
穴蔵のようになっている奥の部屋に踏み込むと、下半身裸の
婦人が、下腹部を切り裂かれて、死んでいます。
少し奥には、五〜六歳の子供が、うつぶせに死んでいました。
プーンと、血生臭いにおいが、立ちこめています。 (略)
このような虐殺死体は、随所に見られました。 婦人に暴行を
加えて虐殺し、女性の性器に
棒を差し込んでおくような、
残虐な事例も
何回か目にしました。
南京の攻略が
大幅に遅れたので、第一線部隊の兵隊は、
厳しい命令を受けて、目が血走っていました。
小休止で一緒に休んだ時の話をきくと、「南京一番乗りは
師団の至上命令だ。南京へいけば、女はいくらでもいるし、
酒もある。速くいったものは、やりたいほうだい、何でも
やれるぞ」
と上官からハッパをかけられているのです。
(略)
(17)大虐殺のうわさが…
ようやく足止めが解除されて、ある日荷物受領に揚子江岸の
下関埠頭へ行きました。
すると、広い河岸が一杯に死体で
うまっているのです。
岸辺の泥に埋まって、幅十メートル
位はあろうか、と思われる
死体の山でした。
揚子江岸で大虐殺が行われたという
その現場でしょうか、
軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の、民間人で、
婦人や子供も
交じっているようでした。
死体に油をかけて、焼こうとしたため黒焦げになった死体も、
数多くありました。
死臭で息もつけない中を、工兵部隊が
死体を
沖に運んで
流す作業を
やっていましたが、
こんなやり方では、一〜二ヵ月は
かかりそうでした。
(写真キャプション)
虐殺されたのち
薪を積んで、
油をかけられて
焼かれた死体。
ほとんどが
平服の
民間人でした。
おそらく
南京虐殺否定派は、村瀬氏を
ウソつき、または
妄想家の類だと、決めつけるだろう。
あるいは、村瀬氏が
見たのは
兵士の死体であり、民間人というのは間違いだと
主張するものも
出てくるに
違いない。
しかし、当時の軍隊経験と
戦場体験を有する
氏の記述を
現場にいたことのない者が、妄想や間違だいと
断じるのは、
相当の根拠が
なければ、無理な話だ。
これは メッセージ 38440 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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重要な犯罪現場における目撃者の証言(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/01/24 07:29 投稿番号: [38440 / 41162]
前掲に続けて、南京での虐殺を目撃した
井出純二氏の手記の続きを
引用する。
私は
彼らが屠所へ引かれる羊のように
おとなしく
追い立てられるのが、ふしぎで
ならなかった。
腹が減って
抵抗する気力もないのか、と想像したが、
今でも
解けない謎だ。
もっとも、その前に北支戦線で
やはり捕虜を日本刀で
処刑する現場を見たことがあるが、このときも観念して
おとなしく
斬られていた。
あきらめのよいのは
中国人の民族性なのだろうか。
(中略)
さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用の
ダンベラを
振りかざす者もいるが、捕虜は
おとなしく
坐りこんでいる。
それを次々に斬って、水面に
けり落しているのだが、
ダンベラは
粗末な新刀だから
斬れ味は悪い。
一撃で首をはねることができるのは
かなりの名人で、
二度、三度と
斬りおろして
やっと首が落ちるのが
大多数だが、念入りにやるのも
面倒くさいのか、
一撃して
半死半生のままの捕虜を
けり落していた。
傍まで行くと、四十歳前後の
ヒゲの応召兵が
「戦友○○のカタキ討ちだ。
思い知れ」
と大声で
怒鳴りながら
ダンベラを
ふるっている。
(中略)
その後もう一度同じような処刑風景を見たが、別の日に
江岸で
数人の兵が
指さしながら
見物しているので、
「何ですか」
と聞いてみると、十数人の捕虜を乗せた
舟を
揚子江の中流まで
漕ぎ出して
捕虜を突き落し、
舟の上から
機銃で
射ち殺しているところだった。
その前後、江岸にたまった死体を
工兵隊らしい連中が、
舟の上からサオとカギを使って流しているのを目撃して、
カメラに収めた。
北支でも
そうだったが、こうした
処刑場面を
第三者の目から
隠そうという気持が、
当事者には
まったく
なかったようだ。
将校か指揮官でもいたら
事情を聞いてみたはずだが
姿は
なかった。
末端の兵隊に掃除させているような
感覚だったのだろう。
私は
隊に帰ると、見聞きた情景を誰彼となく話したのだが、
将校連中の意見では、①作戦の失敗、②衣食住の不足が原因
だということであった。
(中略)
またそのころ市内の電柱に、日本軍の名で
「兵器修理工場を
つくる。
少しでも兵器取扱いの経験者は
来れ、優遇する」
といった
求人広告が
貼ってあるのを見た。
中国で
兵器取扱いの経験者
といえば、旧軍人とみて
まず間違いなし
というわけで、これも
苦しまぎれの
敗残兵狩出しの
奇策だったようだ。
(1984年発行「増刊歴史と人物
秘史・太平洋戦争」より)
これは メッセージ 38439 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/38440.html
重要な犯罪現場における目撃者の証言(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/01/24 07:27 投稿番号: [38439 / 41162]
刑事訴訟において、被害者・目撃者による
犯行目撃証言や、
被告人の自白は、犯行の事実についての
直接証拠に当たる。
犯罪捜査でも
裁判の場でも、実際に
犯行現場に居合わせた
人間の叙述は、ひじょうに重要な証拠として位置づけられる。
南京事件の真相を
知るうえでも、同様のことが言える。
その時、その場にいた者の証言は、その場に居なかった者の
憶測などとは
比べ物にならず、はるかに
証拠能力は高い。
南京大虐殺事件を
伝えるのは、被害者・加害者双方の証言、
そして目撃者の記述だ。
これに対し、事件を否定するのは
その時期と現場から遠く離れた、証拠能力のない憶測だけだ。
当時、陸軍航空兵軍曹・飛行第8大隊
付従軍記者だった
井出純二氏も
その時、その場に居た者の
一人だ。
その手記を、以下に
引用する。
私の南京入りは十三日の首都陥落から二週間以上遅れた
十二月二十九日だから、それ以前のことは全く知らない。
いわゆる南京虐殺事件は、十七日の入城式と翌十八日の
慰霊祭を前に、治安の確立を焦った日本軍が、市民の間に
逃げこんだ便衣兵を、大量に狩り立てて殺したのが主体
ではないかと推測する。
中支方面軍最高指揮官である松井大将が、慰霊祭における
訓示の中で、特に軍の暴行にふれて批難、叱責したのも、
今後の再発を予見し、戒めてのことではなかったのか。
にもかかわらず、それから十数日経った後、南京埠頭で
私が見た
光景は、なんと
解すべきか。
軍司令官の威令、日本の軍規は、なぜに
そこまで
堕落していたのか。
ましてや私が見た限りでは、大量、組織的、軍命令による
白昼堂々の
“公的処刑”としか
見えなかったのは、
いったい
どうしたことなのか。
私は、松井大将の声涙くだる異例の訓示と、この現実との
相関について、いまだに
その解釈に
苦しんでいる。
(中略)
鉄橋の手前で、収容所から
運ばれてきたらしい
二十人ばかりの中国人捕虜がトラックから降ろされ、
江岸へ
連行されて行く。
釈放するからと偽って連れてきたのか、みんな大きな
フロシキ包みをかかえ、厚い綿入りの冬服を着ていた。
軍服姿は見当らなかったが、二十、三十歳代の男が主で、
坊主刈りが多いので、便衣兵かなあと眺めていた。
江岸まで200メートルもあったろうか、道路のカーブを
曲ると、江岸の斜面から水際にかけて処刑された死体が
ゾロゾロと
重なっている。
追い立てられて
よろよろと歩いてきた
捕虜たちは
気づいて
動揺したようだが、ここまで来ると、
もう
逃げ道はない。
これは メッセージ 38438 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/38439.html
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