客観的論拠のない事件否定「論争」の構造
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/01/24 07:26 投稿番号: [38438 / 41162]
最近、この掲示板にも、じつに可笑しな投降が
多い。
たとえば、以下のような 書き込みだ。
>「限られた断片的な記録や証言などから全容解明に至るのは難しい」等々のご発言からも明らかです。>つまり、wadatumi_voice21さんご自身、その“確証”が存在しないことを自らお認めになっていらっしゃるわけです。
>にも拘わらず、一方で「個人的な思い込みや憶測に基づく主観論ではなく、丹念に収集された当事者たちの証言、詳細な記録資料などに基づいて検証された、客観的な事実を述べているのだ」(38146)と決めつけていらっしゃいます。
「確証がないと認めていらっしゃいます」 などと 言われても、
頭をひねるほかない。 そんな戯言を認めた覚えなどないからだ。
「全容解明に至るのは難しい」 ことと、 「確証がない」ことが、
なぜ同義になるのだろうか。 曲解にも程度というものがある。
たとえば、敗戦直後に多数の軍関係資料が焼却処分されたことは
証言や記録など客観的資料によって 事実であると 認識できる。
ただし、どんな資料が、どれほど失われたかという点に関しては、
その全てを解明することは、いま現在となっては もはや困難だ。
全容解明が困難だからといって、軍によって 書類が焼却された
事実そのものに、確証が得られない ということには ならない。
『限られた断片的な記録や証言から 全容解明に至るのは難しい』
軍の証拠隠蔽によって 南京での正確な犠牲者数や 略奪の被害
総額など残虐行為の全体解明が 困難な現状を指摘した一文だが、
事件があった確証はない などとは、一言も 記していない。
全容解明に至るのは難しい=“確証”が存在しない とするのは、
かなり強引なコジツケだ。 ある犯罪事件が起きた時、被害者や
目撃者の証言によって、事件発生や 被害の有無は、認定できる。
しかし、犯人の証拠隠滅により事件の全容解明には至っていない
という事例は、捜査や裁判の過程でも 少なからず あることだ。
全容解明ができなくとも、事件が発生したという事実は消えない。
なお、「客観的資料」 についても、指摘しておきたい。
たとえば 犯罪事件が発生した場合、現場の状況や 目撃者証言、
犯人が現場に残した 痕跡などは、「客観的」 証拠といえる。
客観的 の対語は、「主観的」だ。
「事件が発生したとは思えない」 「彼が犯人だとは思わない」
「被害者や目撃者の証言は信じられない」 というのは、
いずれも主観的な主張であり、もとより 確証とはならない。
現在、日本国内だけで盛り上がっている南京事件の「論争」は、
端的に言えば 「主観論」 の撒き散らしであり、
学術論争ではなく、特定の政治思想に基づく 議論であるため、
思想差別や個人攻撃を伴った誹謗中傷ばかりが 繰り返される。
否定派は、はじめから 南京事件の否定を目的として、過去の
記録や証言に「信じられない」「疑わしい」などと難癖をつける
だけであるから、どのような 客観的資料を 示したとしても、
それを、どこまでも 際限なく 否定し続けるだけなのだ。
したがって、否定派との「議論」 は、不毛であり、無意味だ。
ただ、彼らの展開する主観論が、いかに 論拠に乏しく、また
虚誕に満ちたものであるかを 世間に知らしめる必要は ある。
客観的証拠の前では、彼らの主張は虚しい遠吠えに 過ぎない。
常識的な見地がある国民ならば、そのことを 容易に理解する。
そのためにも、既に明らかとなっている 記録、証言の数々、
さらに、今後発見される新たな資料を 丹念に調査・分析して
少しでも 歴史の真相に迫る努力を、継続していきたいと思う。
たとえば、以下のような 書き込みだ。
>「限られた断片的な記録や証言などから全容解明に至るのは難しい」等々のご発言からも明らかです。>つまり、wadatumi_voice21さんご自身、その“確証”が存在しないことを自らお認めになっていらっしゃるわけです。
>にも拘わらず、一方で「個人的な思い込みや憶測に基づく主観論ではなく、丹念に収集された当事者たちの証言、詳細な記録資料などに基づいて検証された、客観的な事実を述べているのだ」(38146)と決めつけていらっしゃいます。
「確証がないと認めていらっしゃいます」 などと 言われても、
頭をひねるほかない。 そんな戯言を認めた覚えなどないからだ。
「全容解明に至るのは難しい」 ことと、 「確証がない」ことが、
なぜ同義になるのだろうか。 曲解にも程度というものがある。
たとえば、敗戦直後に多数の軍関係資料が焼却処分されたことは
証言や記録など客観的資料によって 事実であると 認識できる。
ただし、どんな資料が、どれほど失われたかという点に関しては、
その全てを解明することは、いま現在となっては もはや困難だ。
全容解明が困難だからといって、軍によって 書類が焼却された
事実そのものに、確証が得られない ということには ならない。
『限られた断片的な記録や証言から 全容解明に至るのは難しい』
軍の証拠隠蔽によって 南京での正確な犠牲者数や 略奪の被害
総額など残虐行為の全体解明が 困難な現状を指摘した一文だが、
事件があった確証はない などとは、一言も 記していない。
全容解明に至るのは難しい=“確証”が存在しない とするのは、
かなり強引なコジツケだ。 ある犯罪事件が起きた時、被害者や
目撃者の証言によって、事件発生や 被害の有無は、認定できる。
しかし、犯人の証拠隠滅により事件の全容解明には至っていない
という事例は、捜査や裁判の過程でも 少なからず あることだ。
全容解明ができなくとも、事件が発生したという事実は消えない。
なお、「客観的資料」 についても、指摘しておきたい。
たとえば 犯罪事件が発生した場合、現場の状況や 目撃者証言、
犯人が現場に残した 痕跡などは、「客観的」 証拠といえる。
客観的 の対語は、「主観的」だ。
「事件が発生したとは思えない」 「彼が犯人だとは思わない」
「被害者や目撃者の証言は信じられない」 というのは、
いずれも主観的な主張であり、もとより 確証とはならない。
現在、日本国内だけで盛り上がっている南京事件の「論争」は、
端的に言えば 「主観論」 の撒き散らしであり、
学術論争ではなく、特定の政治思想に基づく 議論であるため、
思想差別や個人攻撃を伴った誹謗中傷ばかりが 繰り返される。
否定派は、はじめから 南京事件の否定を目的として、過去の
記録や証言に「信じられない」「疑わしい」などと難癖をつける
だけであるから、どのような 客観的資料を 示したとしても、
それを、どこまでも 際限なく 否定し続けるだけなのだ。
したがって、否定派との「議論」 は、不毛であり、無意味だ。
ただ、彼らの展開する主観論が、いかに 論拠に乏しく、また
虚誕に満ちたものであるかを 世間に知らしめる必要は ある。
客観的証拠の前では、彼らの主張は虚しい遠吠えに 過ぎない。
常識的な見地がある国民ならば、そのことを 容易に理解する。
そのためにも、既に明らかとなっている 記録、証言の数々、
さらに、今後発見される新たな資料を 丹念に調査・分析して
少しでも 歴史の真相に迫る努力を、継続していきたいと思う。