入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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12月5日の揚子江啓開作戦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/01 16:30 投稿番号: [129 / 2250]
戦史叢書『中国方面海軍作戦1』459〜461p
五日の経過、軍隊区分の変更
江陰付近の南岸一帯は完全に我が手に帰し、北岸の残敵も少数となった模様であった。
クーパーバンク付近は四日の探掃で、機雷礁の存在が確実となった。
江陰北水道啓開
前路警戒隊は、クロッシング付近に集結して啓開作業の掩護態勢をとり、
舟艇をもって逐次北水道を略掃するよう命ぜられ、
第二十四駆遂隊の各艇内火艇一隻計四隻をもって五日 11:30〜18:30 掃海作業し、
その結果クーパーバンク・ビーコンの距岸一五〇米から南方約五〇米間隔に
機雷四個確認拘束、その南方約五〇米の機雷三個
(四日 「八重山、安宅」 小掃海隊発見)
と共に計七個の機雷に浮標を付けた。
そして六日朝から掃海を続行し、右機雷を処分するに決した。
また陸戦隊負を揚陸して機雷衛所を捜索したが、衛所及び敵兵を見なかった。
南水道の清掃
「保津、勢多」 及び掃海隊の曳船四隻は福姜沙水路の清掃を続行し、
南水道閉塞線での清掃を完了した。
宮里大佐指揮の特別作業隊は閉塞線上に可航水路を発見した。
「保津」 は午後、閉塞線下流近距離に転錨した。
四日〜五日の南岸偵察成果
四日 「保津」 から上陸した聯合陸戦隊は同日長山を占領し、
機雷管制所を捜索したが発見し得ず、五日朝撤退し帰艦した。
「保津」 艦長は五日午後、陸軍部隊と連絡を遂げ巫山山頂に陸戦隊員を駐泊させ、
陸軍との連絡に当たらせた。
南岸調査の結果、粛山電電学校に数種の機雷 (触発及び視発) 多数あり、
江岸に敷設準備中の視発機雷十数個があることを知った。
また管制用電纜 (でんらん:ケーブル) らしいものが粛山江岸に一本、
長山江岸に二本あり、長山には電纜を引っ込んだ管制所らしいものを認めた。
第二、第三掃海隊編入、「八重山」 除かる
五日付、第二、第三掃海隊が第一警戒部隊に編入された。
第二掃海隊は天塩丸、間宮丸、雄基丸、高砂丸、安宅丸及び第一、第二、第三玉園丸の計八隻、
第三掃海隊は八幡丸及び第一、第二、第三、第六、第七博多丸の計六隻の特設掃海艇で編成されていた。
「八重山」 は第一警戒部隊から除かれた。
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句容攻略と百人斬り記事 第3号
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/31 18:46 投稿番号: [128 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』182p
《蒋介石は、十二月五日、「守土責任」 を放棄する官吏、軍人は例外なく軍法会議で
処断する旨を布告し、句容西方の湯山陣地を視察した。
ところが、蒋介石が守将の第六十六軍第一五九師長譚邃と対談している午前十一時ごろ、
はやくも前方に日本軍の出現が報告され、銃声もきこえた。
蒋介石は、「鎮静」 に、かつ、す早く丘をおりて南京に帰ったが、
午後一時には句容の陥落、
午後四時には天王寺から北上してきた日本軍 (第九師団第三十六連隊) が、
句容西方の淳化鎮に進出したとの報告をうけた。》
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』424p
《第十六師団の追撃隊は、五日、句容付近に陣地を占領した敵を突破し、
第九師団の追撃隊は、同日、南京第一線陣地である淳化鎮付近に進出した。》
百人斬り新聞記事
〔昭和12年12月7日
大阪毎日新聞朝刊
〕
《百人斬り競争の二少尉/相変らず接戦の猛勇ぶり
丹陽にて【三日】句容にて【五日】浅海、光本本社特派員発
南京を目ざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は
句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、
野田少尉は七十八名といふ接戦となつた
(両少尉の写真)
敗けず劣らずの野田少尉(右)と向井少尉(左)
(常州にて−佐藤本社特派員撮影)》
記者は、向井少尉が丹陽にて負傷し、入院していることを知らずに書いている。
向井少尉は12月15日まで入院しているから、丹陽から句容はおろか南京戦にもいない。
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安全区より中国軍追い出し交渉
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/30 18:33 投稿番号: [127 / 2250]
ラーベの日記より
十二月五日
やっとのことで車に乗りこんだとたん、今度は空襲警報だ。爆弾が落ちた。
だが今は許可証を持っているので、二度目のサイレンの後なら外に出られる。
それにあまりにやることが多くて、爆弾などかまっていられない。
こういうとひどく勇ましく聞こえるが、さいわい爆弾はいつもどこかよそに落ちている。
アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。
やや詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋は変わらない。
つまり、日本政府はまた拒否してはきたものの、できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。
ベイツ、シュペアリングといっしょに、唐司令長官を訪ねた。 なんとしても、軍人と
軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束をとりつけなければならない。
それにしてもやつの返事を聞いたときのわれわれの驚きをいったいどう言えばいいのだろう!
「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」 だと?
そんなばかなことがあるか!
それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。
そうなったら当面、「安全区」 の名をつけることなど考えられない。
せいぜい 「難民区」 だ。
委員会のメンバーでとことん話し合った結果、新聞にのせる文句を決めた。
なにもかも水の泡にならないようにするためには、本当のことを知らせるわけにはいかない……。
その間にも爆弾はひっきりなしに落ちてくる。
音があまりに大きい時は、椅子を少し窓から遠ざける。
あらゆる防空壕のなかでいちばんりっぱなやつが庭にあるのに。
ただそれを使う時間がないのだ。
城門は壁土で塗りこめられる。三つの門のうち、開いているのはひとつだけだ。
といっても扉の半分だけだが。
われわれは必死で米や小麦粉を運びこんだ。
安全区を示す旗や、外にいる人たちに安全区のことを知らせる貼り紙もできている。
だが、肝心の安全性については最低の保証すら与えられないのだ!
ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。
ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいる方がずっと安全だと思っているからだという。
そのとおりだと言い切る自信はない。
しかし、今日、唐司令長官と会った家も安全区のなかだったというのはたしかである。
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12月4日の第十軍と蒋介石の動き
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/29 18:42 投稿番号: [126 / 2250]
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』424 p
第十軍
このころ、蕪湖付近から揚子江を遡江する敵大部隊があり、
あるいはネイ国を経て南下退却する部隊があった。
よって軍司令官は、方面軍司令官の指示に基づき、敵の退路を遮断する目的をもって、
四日、第十八師団にたいし、進路を変更してネイ国−蕪湖−南京道を南京に向かい
追撃するよう命じ、次いで第百十四師団及び第六師団にたいし、南京に向かう追撃を命じた。
第百十四師団の先遣隊は、四日、漂水に進入した
児島襄著 『日中戦争4』 182p
蒋介石は、句容東方、天王寺付近、漂水付近に日本軍が出現したとの報告をうけると、
「首都保衛戦」 発動を下令した。
進出した日本軍は、それぞれ第十六師団、第九師団、第百十四師団の先頭部隊である。
中支那方面軍司令官松井大将は、上海派遣軍と第十軍の進出状況をみて、
午後九時、「中方作命第二十七号」を発令した。
「中支那方面軍ハ、南京郊外 既設陣地ヲ奪取シ、南京城ノ攻略ヲ 準備セントス」
その準備線は、南京の北端の下関 (シャーカン) 東方的四キロの上元門、
中山門東方の小衛、光華門南東の高橋門、中華門南方の雨花台、
水西門西方の棉花地をむすぶ線とした。
いいかえれば、南京城を包囲して城壁の手前でいったんとまれ、というのである。
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』426 p
方面軍司令官は、南京郊外既設陣地を奪取し南京城の攻略を準備するに決し、
十二月四日、隷下両軍の南京攻撃準備線を、
おおむね上元門、小衛、高橋門、雨花臺、綿花地の線に統制した。
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12月4日の上海派遣軍と海軍の動き
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/28 18:53 投稿番号: [125 / 2250]
上海派遣軍
四日、第十三師団は一部 (歩兵第二十六旅団長沼田重徳少将の指揮する歩兵三大隊、
山砲兵一大隊基幹) をもって揚子江水路開放ならびに石荘鎮−靖江−泰興道遮断のため、
揚子江を渡河して靖江を占領し、主力は江陰付近を出発し、江陰 −常州 − 奔牛鎮
− 孟河城 − 鎮江道を鎮江付近に前進し、揚子江左岸地区に向かう作戦を準備させた。
(戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』423p)
海軍の揚子江啓開作戦
四日の経過
四日、江陰要塞占領の確報があったが、巫山、長山両砲台付近の状況は
つまびらかでなかった。この日 10:30、旗艦安宅はベントビーコン付近まで進出した。
「保津」 は 「八重山、粟、栂、蓮」 の聯合陸戦隊 (坂本大尉以下八六名) を乗せて
09:00 出港、10:55 巫山の北東約一浬に仮泊、同地で上陸させ、巫山砲台方面の敵情偵察、
管制機雷用電纜 (でんらん:ケーブルの事) の発見処分及び陸軍との連絡に任じさせた。
一方 「粟、栂、蓮」 も 09:00 出港、正午ころ巫山の北方約二浬付近まで進出して
「保津」と協力、陸戦隊の掩護に任じ、13:30 ビッグツリー浮標付近に帰着した。
「八重山」 はクーパーバンク南西にある管制機雷の位置付近の清掃計画を立て、
同艦分隊長を指揮官とし、「八重山、安宅」内火艇各一隻をもって小掃海隊を編成、
08:00 出発、15:20 クーパーバンク南西予想敷設線の掃海を開始し、機雷三個を拘束した。
しかし処分するに至らず、うち一個に位置浮標を入れた。
特別掃海隊 (林少佐指揮・特掃四) は保津艦長指揮の下に福姜沙港水路の清掃
及び航路標識設置を実施した。
神川丸機は終日、ビッグツリーの上流一、七〇〇米一帯の江中に爆弾を投下、
機雷原を暗探したが誘爆を見なかった。
また前路警戒隊指揮官は 「蓮」 に北水道の略掃を命じたが、同艦長は 「現場の操艦困難で
見込みなく、また水深浅く現有掃海具では掃海不能である」 旨を報告した。
「寧海」 の捕獲
保津艦長上田光治中佐は 12:15、内火艇で水路探索のため同艦発、
江陰閉塞線の南端と陸岸との間を縫うて封鎖線を突破、
我が爆撃を受け大破し江陰対岸に坐礁中の中国巡洋艦 「寧海」 を捕獲した。
この間敵陣地から機銃射撃を受け、後檣 (しょう) 上に負傷兵一名を残したまま
内火艇は避退、「保津」 に帰艦した。
よって 「保津」 は14:55 発、15:20 閉塞線を突破、
八う (土+于) 港の敵陣を銃砲撃しつつ 「寧海」 に近接し前記兵を収容のうえ
18:25 閉塞線を突破し、巫山錨地に帰投した。
同夜、艦長は江陰方面陸軍部隊と連絡のため七名を上陸させた。
一行は第十三師団と連絡をとり、五日朝帰艦した。第二十四駆逐隊は三日午後佐世保発、
四日 17:00 クロッシング着、「八重山」と交代して前路警戒隊の任務を継承した。
「八重山」は任務を解かれ下江した。
(戦史叢書『中国方面海軍作戦1』458〜459p)
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安全区に高射砲を据える中国軍
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/27 18:46 投稿番号: [124 / 2250]
ラーベの日記より
十二月三日
ローゼンが訪ねてきた。トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。
昨晩大使は税関の艀 (はしけ) でこちらにきたのだが、そのまま漢口へとんぼ返りしたという。
思った通り大使は和平案を伝えに蒋介石の所へ行ったのだ。
私がそういうと、何度かためらったあと、ローゼンも認めた。
細かい内容についてはもちろん何も聞き出せなかったが、こちらもそれ以上聞くつもりはなかった。
そういう行動に出たというだけで十分だったからだ。うまくいくといいが!
ローゼンは私に電報を見せてくれた。
これは本当は大使あてなのだが、つぎのような内容だった。
ドイツ大使館南京分室
漢口発
三七年十二月二日
南京着
十二月三日
東京、十二月二日
日本政府は、都市をはじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民を
できるだけ寛大に扱う考えをもっております。
また、国民政府がその権力を行使することによって、
首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。
軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、認めるわけにはいきません。
日本政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。
ザウケン
ローゼンは、ほかの国の大使館はこれに似た内容の電報を受け取っていないことをつきとめた。
差出人の名を明かさないまま、この扱いは委員会に一任された。
ローゼンさんは、蒋介石夫人に接触してはどうか、と勧めてくれた。
防衛軍の責任者である唐が軍関係者や軍事施設をすべて撤退させると約束した。
それなのに、安全区の三カ所に新たに塑壕や高射砲台を配置する場が設けられている。
私は唐の使者に、「もしただちに中止しなければ、私は辞任し、委員会も解散する」 と
いっておどしてやった。するとこちらの要望どおりすべて撤退させると文書で言ってきたが、
実行には少々時間がかかるというただし書きがついていた。
十二月四日
どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだが、うまくいかない。
唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き揚げるどころか、
新たな塹壕を掘り、軍関係の電話をひいている有様だ。
今日、米を運んでくることになっていた八台のトラックのうち、半分しか着かなかった。
またまた空襲だ。何時間も続いた。
用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。
百メートルぐらいしか離れていないところにいくつも爆弾が落ちたのだ。
難民は徐々に安全区に移りはじめた。
ある地方紙は 「外国人」 による難民区などへ行かないようにと、繰り返し書き立てている。
この赤新聞は、「空襲にともなうかもしれない危険に身をさらすことは
全中国人民の義務である」 などとほざいているのだ。
これは メッセージ 123 (kireigotowadame さん)への返信です.
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百人斬り記事 第2号
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/26 16:28 投稿番号: [123 / 2250]
〔昭和12年12月4日
大阪毎日朝刊〕
《丹陽にて【三日】浅海、光本本社特派員発
既報南京をめざして雄々しくも痛快極まる「百人斬り競争」を開始した片桐部隊の
二青年将校、向井敏明少尉、野田毅少尉両勇士は常州出発以来も奮戦につぐ奮戦を重ねて
二日午後六時丹陽に入城したが、かたや向井少尉はすでに敵兵を斬つた数八十六名に達すれば
野田少尉も急ピツチに成績をあげ六十五と追いすがり互いに鎬をけづる大接戦となつた、
即ち両勇士は常州、丹陽たつた十里の間に前者は三十名、
後者は四十名の敵を斬つたわけで壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである、
何しろ両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上で奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北)の
激戦で敵陣に飛び込んでは斬り躍り込んでは斬り、
中でも向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、
この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある、
記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する部隊を追ひかけると
向井少尉は行進の隊列の中からにこにこしながら
野田の奴が大分追ひついて来たのでぼんやりしとれん、
この分だと句容までに競争が終りさうだ、
そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、野田の傷は軽いから心配ない、
陵口鎮で斬つた敵の骨で俺の孫六に一ケ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人は斬れるぞ、
大毎、東日の記者に審判官になつて貰ふワッハッハッハ
と語つて颯爽と進んで行つた 》
「向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行」だってー?
砲兵隊の小隊長が、持ち場を離れて、歩兵より先に一番乗りなどしたら軍法会議にかけられるぞ。
「記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する部隊を追ひかけると
向井少尉は行進の隊列の中からにこにこしながら」って、
向井少尉は、この丹陽の戦いで、膝を負傷して入院しているのだけど。
直轄の隊長である富山武雄氏の証明では
4、向井少尉ハ 昭和十二年十二月二日 丹陽郊外ニ於テ 左膝頭部 盲貫ヲ受ケ離隊
救護班ニ収容セラレ
昭和十二年十二月十五日 湯水ニ於テ 部隊ニ帰隊シ 治療ス
(鈴木明著『「南京大虐殺」のまぼろし』90〜91p)
とある。丹陽郊外で負傷ということは、丹陽城陥落前だから、
当然、丹陽城中正門の一番乗りはありえない。
向井少尉の負傷入院は野田少尉も書いている。
《野田ハ 麒麟門東方ニ於テ 記者ノ 戦車ニ添乗シテ 来ルニ 再会セリ
記者 「ヤアヨク会ヒマシタネ」
野田 「記者サンモ御健在デ オ目出度ウ」
記者 「今マデ幾回モ打電シマシタガ 百人斬競争ハ 日本デ大評判ラシイデスヨ。
二人トモ百人以上突破シタコトニ
(一行不明)
野田 「ソウデスカ」
記者 「マア其ノ中 新聞記事ヲ 楽ミニシテ下サイ、サヨナラ」
瞬時ニシテ 記者ハ 戦車ニ搭乗セルママ 去レリ。
当時 該記者ハ 向井ガ 丹陽ニ於テ 入院中ニシテ 不在ナルヲ 知ラザリシ為、
無錫ノ対話ヲ 基礎トシテ 紫金山ニ於イテ 向井野田両人ガ 談笑セル記事 及
向井一人ガ 壮語シタル 記事ヲ 創作シテ 発表セルモノナリ。》
(『正論』2001年8月号336p)
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12月2日〜3日の陸海軍の動き
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/25 16:30 投稿番号: [122 / 2250]
上海派遣軍
第13師団は江陰要塞の陸正面から攻撃を開始し、12月2日これを占領。
第3師団主力は、軍命令により12月2日、蘇州に集結した。
12月2日、第16師団追撃隊は丹陽を、第9師団追撃隊は金壇を占領した。
上海派遣軍は、12月3日、第16師団をして句容−湯水鎮−南京道に沿う地区を、
第9師団をして天王寺−湻化鎮−南京道を、ともに南京に向かい追撃させ、
天谷支隊をして、鎮江攻略の目的をもって、速やかに常州付近を出発し、
常州−丹陽−鎮江道を鎮江に向かい前進させた。
(戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』 421〜423p)
第十軍
2日、南京攻略に関する方面軍命令を受領したので、
直ちに、第114師団を宜興−漂陽−漂水道をまず漂水北方地区に、
第6師団を長興−広徳−洪藍埠道をまず藍水西方地区に、
第18師団を広徳−十字舗−郎渓−洪藍埠−太平−南京道をまず小丹陽付近に進出させ、
国崎支隊を広徳−郎渓−太平道方面から揚子江を渡河し、
じ後浦口付近に進出し、敵の退路を遮断するよう部署した。
第114師団は、12月2日漂陽を占領した。
国崎支隊は、2日広徳を出発、3日郎渓に達し、同地で水上機動の準備を行う
(戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』 423〜425p)
海軍の揚子江啓開作戦
戦史叢書 『中国方面海軍作戦1』 457〜458p
12月1日に南京攻略の大海令が下った。
2日
陸軍部隊が既に江陰を占領した旨の情報があったが、
夕刻まで同方面に砲声が盛んに聞こえた。
また朝から珍しく敵大型機一〇機が上海、通州水道方面に来襲した。
前路警戒隊指揮官は午前、 「八重山」 の内火艇二隻を竹丸 (機銃武装) の護衛に付し、
南水道クロッシングから段山上流約二・五浬までの探掃を実施し、
午後、掃海隊の曳船四隻をもって同所を清掃したが、拘束機雷、水中障害物を認めず、
よって主隊はクロッシングに進出した。
この日 「神川丸」 は第一警戒隊指揮官の指揮下に入り、許浦口に進出し、
その水上機は江陰閉塞線下流の予想敷設線に爆弾を投じたが誘爆せず、
敷設機雷の有無を確認するに至らなかった。
3日
江陰砲台は巫山砲台のほか、我が陸軍部隊の手に帰した。この日から
「神川丸」 水上機隊は許浦口及びクロッシング錨 (びょう) 地の上空直衛を開始した。
同隊は午前、午後各一回、ビッグツリー上流の機雷推定位置に爆弾を投下したが
誘爆を見なかった。なお左岸の龍潭港付近にはトーチカ陣地が発見された。
「鳥羽」 は08:00、クロッシング泊地発、南水道偵察の目的をもって10:00ころ
揚沙鎮付近に進出、同艦陸戦隊は同地に上陸、約一時間詳細に偵察したうえ昼ごろ帰投した。
巫山に砲四門あり、 「鳥羽」 に対し射撃準備中なるを認めた。 「蓮」 も同日朝、
クロッシング泊地発、北水道を通過してビッグツリーの上流約一・五浬付近まで進出、
夕刻まで同地付近に仮泊して水路及び付近の状況を偵察して帰着した。
同艦も巫山に中国兵らしき者多数を認めた。
「堅田」 は潮時を利用し、段山沙西方水道から海北港沙北方水道一帯の敵情を
偵察すべきを命ぜられ、陸戦隊を揚陸、これを実施した。
掃海隊 (林少佐指揮
曳船四隻) は、スリーツリーの北東二、〇〇〇米までの
南水道の清掃を完了した。
これは メッセージ 121 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次トラウトマン工作
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/24 18:39 投稿番号: [121 / 2250]
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』459pより
《蒋介石は明らかにブリュッセル会議に期待を寄せていたが、
同会議は実質的成果を挙げずに十一月二十四日休会したので、
蒋介石は改めてトラウトマン大使の和平工作に期待を寄せ始めた。
十一月二十八日、トラウトマン大使は漢口で孔祥煕実業部長と会見、
二十九日には王寵恵外交部長と会談したのち、
十二月二日、徐謨外交部次長と同道して南京に行き、蒋介石と再び会談した。》
児島襄著『日中戦争4』176~177p
《蒋介石は、南京防禦態勢の未整に苦慮するうち、大使トラウトマンの来訪をうけ、
卒然として、ドイツの仲介を活用することを思いつき、財政部長孔祥煕にも通報した。
「為緩兵計、不得不如此耳」
緩兵は、すなわち時間かせぎである。
十二月一日には、ドイツ外相C・ノイラートが中国大使程天放に、
日本の軍事的勝利をくつがえすのは不可能に近い、
中国は一日も早く日本と「和解」すべきだ、と勧説した。
12月2日、蒋介石はトラウトマンと会見し、次のように言明した。
日本側の和平条件にはそのご変化はないか、とたずね、
日本を勝者とみなす前提はうけいれられない、と指摘した。
日本側の条件が最後通告の性格であれば、それもうけいれられない。
そして、蒋介石は、中国側の条件として、
一、支那ハ 媾和交渉ノ 一基礎トシテ 日本ノ要求ヲ 受諾ス。
二、北支ノ 宗主権、領土保全権、行政権ニ 変更ヲ 加フ ベカラザルコト。
三、独逸ハ 当初ヨリ 媾和交渉ノ 調停者トシテ 行動スベキコト。
四、支那ガ 第三国トノ間ニ 締結セラレタル 条約ハ、媾和交渉ニヨリ
影響ヲ受ケザルコト。》
トラウトマンは日本側が和平条件の改訂を検討している事を知らない。
しかしまー、蒋介石はどこまで、ずうずうしいのか、
日本が、善意で出した 「大幅に譲歩した和平案」 をけり、日本を侵略者呼ばわりして、
連盟に訴えながら、その結果が、イマイチだからと、今度は、
前の条件のままで、交渉させろとは。
それも、日本を勝者とみなす前提はうけいれられない、とか、
日本側の条件が最後通告の性格であれば、それもうけいれられない。とか、
「一体、何さまのつもりか」、「本当に和平する気あるのか」 と、言いたくなるが、
時間稼ぎが目的で、本当に和平する気が無いのなら、これは当然の行為というべきか!!
この話を受けて、ドイツから話が日本に行くのは、なぜか、12月7日になります。
これは メッセージ 120 (kireigotowadame さん)への返信です.
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12月2日 日本の安全区に対する回答
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/23 18:44 投稿番号: [120 / 2250]
《ラーベの日記12月2日
フランス人神父ジャキノを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。
ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。
電報一九三七年十二月一日
南京大使館(南京のアメリカ大使館)より
十一月三十日の貴殿の電報の件
以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。
ジャキノ
「日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。
中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、
当局としてはいささかの責も負う意思はありません。
ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、
当該地区を尊重するよう、努力する所存です」
ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。
だが我々の意見は違う。
これは非常に微妙な言い方をしており、言質を取られないよう用心してはいるが、
基本的には好意的だ。
そもそもこちらは、日本に 「中国軍の過ち」 の責任をとってもらおうなどとは考えてはいない。
結びの一文 「当該地区を尊重するよう、努力する所存……云々」 は、ひじょうに満足のいくものだ。
アメリカ大使館を介して、我々はつぎのような返信を打った。
南京の安全区国際委員会の報告をジャキノ神父に転送してくださるようお願いします。
「ご尽力、心より感謝いたします。軍事上必要な措置に反しないかぎり
安全区を尊重する旨日本政府が確約してくれたとのこと、
一同感謝をもってうけとめております。
中国からは全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。
我々は安全区を組織的に管理しており、
すでに難民の流入が始まったことをご報告いたします。
しかるべき折、相応の調査をおえた暁には、
安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。
日本当局と再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。
また、当局が安全を保証する旨を直接当委員会に通知してくだされば、
難民の不安を和らげるであろうこと、さらにまた速やかにその件について
公示していただけるよう心から願っていることも、
日本側にお知らせいただくようお願いいたします。
ジョン・ラーベ
代表」
トラウトマン大使とラウテンシュラーガー書記官が漢口から戻ってきたのは、
ちょっとしたセンセーションだった。
ローゼンに事情を聞くと、これは委員会とは無関係だとのこと。
こっそり教えてくれたのだが、
大使は私が総統とクリーベルに電報を打ったことにかならずしも賛成ではないらしい。
あれは必要なかったと考えているのだ!
今日は時間がないので、あした大使を訪ねよう。
思うに、彼が戻ってきたのはドイツによる和平工作の件だろう。》
日本が、この時に回答をよこしたのは、南京攻撃が正式決定したからでしょう。
トラウトマンはこのあと蒋介石に和平を奨めます。
これは メッセージ 119 (kireigotowadame さん)への返信です.
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和平交渉条件の改訂
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/22 18:50 投稿番号: [119 / 2250]
参謀本部では、戦線が進展したために、従来の和平案を改訂する研究を進めていました。
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』461〜462pより
《参謀本部第一部第二課第一班(戦争指導班)では、十一月二十四日、
大本営政府連絡会議のあったその日 「現下緊急対策」 案を作成し
「現戦果ヲ 拡張強化シツツ 速ニ 南京政府ト 日支全般問題ヲ
一括解決スルコトニ
諸般ノ措置ヲ講ス」
の方針のもとに、各種対策を考究し、班長高嶋辰彦中佐が参謀次長に意見具申した。
次長は同意し、時機をみて最高国策を動かす決意をもったようであった。
次いで同班では、至急、軍の思想統一を図るため、
堀場一雄少佐が 「支那事変解決処理方針」 案を起案した。
その趣旨は
「事変解決ハ 日支間全般ノ問題ヲ 一括シテ 根本的ニ之ヲ 行フモノトシ
其 交渉ハ 日支直接ニ之ヲ行ヒ 第三国ノ干渉ヲ許サス 其過程ニ於テ
第三国善意ノ 内面的斡旋ハ 之ヲ認ムルモ 正式交渉ニハ 関与セシムルコトナシ
解決条項中 満洲国ニ関係アルモノハ 両国ニ対シ 別途承認セシムル ノ処置ヲ執ル」
「解決ノ斡旋 又ハ交渉中ト雖(いえども)支那側カ 全要目承認ノ時期迄ハ 休戦スルコトナク
所要ノ作戦行動ヲ継続ス」
とし、次いで締結方針を述べ、締結条項としては
(一)
支那ハ 満洲国ヲ正式承認スルコト
(二)
支那ハ 北支及内蒙ニ夫々日満支互助共栄 及 防共強化ノ具現ヲ 容易ナラシム
ヘキ政権ヲ 樹立スルコト
(三)
支那ハ 排日及反満政策ヲ放棄スルコト
(四)
支那ハ 防共政策ヲ確立シ 日満両国ノ同政策遂行ニ協同シ 尚満洲国ト共ニ
日独伊防共協定ニ 参加ヲ約スルコト
日満支三国又ハ何レカガ 三国以外ノ国ヨリ
受クル侵略 特ニ武力侵攻 及共産赤化工作ニ対シテハ 三国商議ノ上 直接若ハ間接ニ
協同防衛ノ措置ヲ執ルコト
(五)
日本ハ支那ノ新上海建設ニ関シ協力スルコト
(六)
日満支三国ハ 資源開発物資交易航空連絡交通等ニ関シ 所要ノ互恵的協定ヲ
設定スルコト
(七)
支那ハ本事変ノタメ 日本居留民ノ受ケタル損害ニ対シ 補償ノ責ニ任スルコト
(八)
日本ハ 本条約ノ成立ト同時ニ左ノ 諸協定ヲ廃棄スルコト
梅津・何應欽協定、河北停戦協定、土肥原・秦徳純協定、上海停戦協定(昭和七年)
としている。
また、日支両国が本条約を誠意をもって履行するため約定する保障事項は
(一)
日本軍ノ進出セル地域ハ 非武装地域トナシ 現在スル日本軍ハ 地方治安ノ恢復ト
共ニ 自主的ニ撤兵スルコト
北支ニ於ケル重要地域 及 上海附近ニ於テハ 日支協同シテ治安ノ維持 竝(ならびに)
防共ノ為 支那警察隊ニ依ルノ外 最小限度ノ日本軍ノ駐屯 竝 此 必要ノ軍事施設 竝
主要交通ノ管理拡充ヲ 容認スルコト
(二)
支那ハ日本ニ対シ 北支五省ニ於ケル金融、関税処理、資源開発、交通通信管理等ニ関シ
特殊権益ヲ与へ 所要機関ノ存置ヲ認ムルコト
日本ハ本条約 及 之ニ伴フ諸約定ノ
実現ヲ 確認スルニ於テハ 右保証ノ為ノ約定ヲ解除シ 之ニ伴フ権益中保証ノ目的ヲ
以テ保有セシ部分ヲ 支那ニ返還ス
之ト同時ニ日本ハ支那ノ国権回復 及
其復興等ニ協力ノ目的ヲ以テ 従来ヨリ有スル 其 在支利権ハ 当時ノ情勢ニ応シ
之ヲ支那ニ返還スヘキ用意 アルコトヲ約ス
と定めた。
本案は、十二月一日、参謀本部案とし、陸軍省の同意を得て大本営陸軍部案とした。》
この改定案では、居留民の被害に対する賠償が追加されていますが、
逆に、従来の利権を支那に返還する用意があるとも書いてあります。
これは メッセージ 118 (kireigotowadame さん)への返信です.
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12月1日 南京攻撃が決定される
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/21 18:49 投稿番号: [118 / 2250]
参謀本部の多田次長は南京攻略戦を阻止しようと努力していましたが、
いかんせん、状況が次長に不利でした。
蒋介石は戦争をやめる気はないし、ラーベたちが安全区の承認を要求しています。
いつまでも返事しないわけには行きません。
全てが、南京戦を進めたい下村第一部長の都合のいいように動いています。
そこで、下村第一部長は南京攻略の研究を進め、多田次長を説得しました。
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』422〜423pより
《参謀本部第一部では制令線撤廃のころから本格的に南京攻略の研究を始め、
また第一部長は、しきりに参謀次長の説得に努めたが、次長は容易に同意しなかった。
事変処理の政略的要求を強く考えていたためである。
一方、現地軍は再三にわたり督促の意見具申をなすとともに、
その第一線を無錫−湖州の線以西に進出させていた。
よって第一部長は、十一月二十七日、方面軍参謀長あて
「当部ニ於テハ 南京攻略ヲ実行スル 固キ決意ノ下ニ 着々審議中ナリ
未タ 決裁ヲ得ル迄ニハ 至ラサルモ 取敢ス オ含ミマテ」 と打電した。
これに対し
「唯今 貴電ヲ見テ 安心ス
勇躍 貴意ニ副フ 如クス」 との返電があった。
第一部長はさらに熱心に次長に意見具申するとともに、
二十八日、すでに作成していた作戦指導要綱を説明して、ついに次長の同意を得た。
これからは一瀉 (いっしゃ) 千里に事が運んだ。
十二月一日、大陸命第七号により中支那方面軍の戦闘序列 (中支那方面軍司令部、
上海派遣軍、第十軍から成る) が令せられた。
方面軍司令官は松井石根大将である。 同日、大陸命第八号をもって
「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」 との大命が下った。
また同日の大陸指第九号により、
中支那方面軍司令官はその任務遂行のため揚子江左岸の要地に一部の作戦ができること、
海軍との協同作戦については現地協定を実施すること、などが指示された。
この日、多田参謀次長は、方面軍のかねてからの要望により、
上海に到着し現地の実情を視察した。
二日、松井大将の上海派遣軍司令官の兼任が解かれ、
同軍司令官には朝香宮鳩彦王中将
(20期)
が親補された。
方面軍は、一日、南京攻略作戦のための命令を下達し、隷下両軍を次のように部署した。
一
上海派遣軍ハ 十二月五日頃 主力ノ行動ヲ開始シテ 重点ヲ丹陽、句容道方面ニ保持シ
当面ノ敵ヲ 撃破シテ 麿盤山山系 西方地区ニ 進出スヘシ
一部ハ 揚子江左岸地区ヨリ
敵ノ背後ヲ攻撃スル ト共ニ 津浦鉄道 及 江北大運河ヲ 遮断セシムヘシ
三
第十軍ハ 十二月三日頃 主力ノ行動ヲ起シ 一部ヲ以テ 蕪糊方面ヨリ 南京ノ背後ニ
進出セシメ
主力ヲ以テ 当面ノ敵ヲ撃破シ
漂水附近ニ進出スヘシ
特ニ杭州方面ニ 対シ警戒スヘシ
これは一挙南京に向かい迫撃するのではなく、南京要塞の抵抗、部隊の態勢整理を考え、
磨盤山系西方 ― 漂水付近に進出して南京攻略を準備しようとするものであった。》
注
二は戦史叢書にも書いてない。私が削ったわけではない。
これは メッセージ 116 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし
投稿者: proofbygonejapan 投稿日時: 2009/07/21 16:01 投稿番号: [117 / 2250]
rdupwatachさん
南京事件について真剣に議論してくださいますか?
私は中国語は全く駄目なので、日本語でしか書けません。
1.
虐殺はあったのか?
という議論ですが、これは人々の証言に比べてあまりにも物的証拠(写真)が乏しいという疑問が出てきます。
2.
三光作戦によって虐殺が行われた・・・。しかし、三光作戦という言葉自体が日本軍の中にはなかったという事実。
3.
性器に棒状の物をさす行為自体が日本人には存在しなかった。
4.
沢山の方がレイプされ虐殺された場所にもかかわらず、何故、急激に人々が集まったのか?
(私は絶対に近寄らない、怖いし、危険だし、臭いし、病気の蔓延がおきるし、良いことなどないはずだから)
5.
通常の戦いであった場合、予想される人的被害、南京という首都の陥落に伴う人的被害は何人と見積もれるのか?
6.
虐殺はどの戦争でもおきているにもかかわらず、何故、南京だけを問題視するのか?
(私は人数が30万人と圧倒的に多いため問題視されていると考えていましたが、3千人でも同じなのですね。)
7.
アイリス・チャン著のThe Rape of Nankinは、プロパガ ンダ色の濃い本と判断されていますが、何故、このような本が科学的検証を無視して出版されるのか?
最初、私は南京大虐殺は歴史的事実であると鵜呑みにしていました。当然です。日本の代表的な新聞(朝日新聞)が載せているわけですから。しかし、興味を持っていると、いろんな疑問が湧いてきました。
最初に疑問に思ったのが、どうして忌み嫌う場所に人々が集まってたのか、普通なら避けるべき場所なのに・・・、という点からです。
この点は、日本人だからとか中国人だからという民族には関係ない人類共通の感情があるのではと思います。それなのに、大虐殺後に沢山の人々が集まってきた・・・?
大いなる疑問が心にあります。
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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海軍の揚子江啓開準備
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/20 17:34 投稿番号: [116 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』 454pより
遡江作戦準備
陸軍作戦の進展に伴い、江陰閉塞線を突破し、水路を啓開し、
陸軍と協力敵首都を攻略する企図の下、長谷川司令長官は
二十五日、第二警戒部隊に江陰水路啓開を準備すべきを命じ、
第十一戦隊に駆逐艦二隻、砲艦一隻を、第一港務部に曳船四隻を、
「出雲」 に掃海員を、それぞれ派出して、右に協力すべきを命じ
二十六日、 第一水雷隊を上流警戒隊に編入した。
二十六日、 「鵲」 は段山沙上流でジャンクを威嚇砲撃した。
二十七日、
「蓮、栂」 及び 「出雲」 運用長林紫郎大尉指揮の掃海用曳船四隻は徐六芤口沖に到着した。
第一水雷隊は、劉海沙付近に敵兵を認めずと報告した。
二十八日、
「蓮、栂」 及び曳船四隻は 「クロッシング」 付近に進出し、上流水路啓開準備を行った。
二十九日、長谷川長官は第二警戒部隊指揮官あて、江陰付近水路啓開を下命した。
「蓮」 艦長指揮の掃海艇隊は二十九日午後、 「クーパー・クロッシング」 水道の一部を略掃した。
三十日、
第一水雷隊司令指揮の上流警戒隊は、第一水雷隊 (隼欠) 、蓮、栂、掃海用曳船四隻を
もって 「クロッシング」 より上流の水路を啓開中、巫山、蕭山砲台から砲撃を受けた。
交戦約一時間、発射弾は各艇一〇〇発に達し、巫山は沈黙したが、蕭山の敵砲の射程が
我より大であったので、一応避退した。この間、艦上から江陰の閉塞線が望見された。
これは メッセージ 115 (kireigotowadame さん)への返信です.
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十一月下旬における陸軍の作戦経過
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/19 16:51 投稿番号: [115 / 2250]
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』421〜422pより
上海派遣軍は、呉福陣地突破後、悪路を冒して追撃を続行し、
第十三師団は二十八日青陽鎮を占領し、
重藤支隊は常熟西方地区を追撃して二十七日江陰 − 無錫道に進出し
同道を遮断したのち、軍命令により無錫北方地区に集結した。
第十六・第十一師団及び第九師団の主力は無錫に前進し、
二十三日から無錫東方既設陣地による敵を攻撃し、二十五日同地を占領した。
これより先、軍司令官は、敵は無錫から依然常州及びその西方に向かい退却中であるのを知り、
二十二日、第十六・第十一師団にたいし、その追撃隊をもって常州に追撃するよう命じ、
次いで二十五日、第九師団にたいし一部をもって太湖の水上機動を行い、
主力をもって常州に追撃するよう、
また第十一師団主力にたいし無錫付近に集結するよう命じた。
(第十一師団主力と重藤支隊は他に転用されるため、その後、上海に集結した)
各師団追撃隊は滬寧鉄道、江南大運河、太湖及び太湖北岸道路に沿い追撃し、
二十九日常州に進出した。
軍司令官は、江陰要塞に対し、敵が頑強ならば急速に攻略することなく封鎖にとどめることとし、
十一月二十五日、第十三師団及び集成騎兵隊等に対し、江陰要塞の封鎖、攻略準備を命じていた。
ところが二十八日江陰南方地区に進出した第十三師団の一部隊から、江陰付近の敵は
西方に退却中であるとの報に接したので、二十九日第十三師団に同地の攻略を命じた。
同師団はただちに要塞の陸正面から攻撃を開始し、十二月二日これを占領した。
第三師団主力は、方面軍直轄として太倉付近に集結していたが、十一月十八日、
上海派遣軍の指揮下に復帰し、軍命令により十二月二日、蘇州に集結した。
軍司令官は、南京攻略の準備として丹陽及び金壇を前進拠点にするよう部署したが、
十二月二日、第十六師団追撃隊は丹陽を、第九師団追撃隊は金壇を占領した。
第十軍においては、十一月二十三日、国崎支隊、第十八師団及び第百十四師団が
湖州東側地区に進出し、相協力して同地付近の敵を撃破した。
第六師団は、二十四日、嘉善を出発し湖州に向かい前進した。
(師団は二十一日から四日間、コレラ予防接種のため嘉善に滞在した)
二十五日、軍司令官は、軍主力を長興、湖州付近に集結させ、第百十四師団の一部をもって宜興を、
第十八師団の一部をもって広徳を占領し、じ後の前進拠点を確保させるよう部署した。
第百十四師団は、二十五日、主力をもって長興を占領し、
一部を先遣して二十八日宜興を、次いで十二月二日漂陽を占領した。
第十八師団は、二十五日、主力を湖州付近に集結し、その追撃隊をもって逐次抵抗する
敵を撃破して、三十日広徳を占領し、国崎支隊もまた同日広徳に進入した。
これは メッセージ 114 (kireigotowadame さん)への返信です.
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「百人斬り」記事 第一号
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/18 17:02 投稿番号: [114 / 2250]
第16師団は29日常州に進出しました。
ここで、向井・野田の両将校は、カメラマン佐藤振寿氏と会い、写真をとっています。
日本軍の二将校・百人斬り競争
〔昭和12年12月1日付大阪毎日夕刊〕
《【常州にて二十九日光本特派員発】 常熟、無錫間の四十キロを六日間で破った
○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で破ってしまった。
神速といはうか何といはうか、仮令 (たとへ) ようもないこの快進撃の第一線に立つ片桐部隊に、
「百人斬り競争」 を企てた青年将校が二名ある、
しかもこの競争が無錫出発の際初められたというのに、一人はすでに五十六人を斬り、
もう一人は二十五人斬りを果たしたという。
一人は富山部隊向井敏明少尉(山口県玖珂郡神代村出身)、
もう一人は同部隊野田毅少尉(鹿児島県肝属郡田代村出身)である 、
この二人は無錫入城と同時に直ちに追撃戦に移った際、どちらからともなく、
「南京に着くまで百人斬りの競争をしようじゃないか」 という相談がまとまり、
銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば、野田少尉も無銘ながら
先祖伝来の宝刀を誇るといつた風で互いに競争するところあり、
無錫進発後向井少尉は鉄道路線北六、七キロの線を大移動しながら前進、
野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、いったん二人は分かれ分かれになったが、
出発の翌朝、野田少尉は無錫をさる八キロの無名部落で敵トーチカに突進し、
四名の敵を斬り伏せて先陣の名乗りをあげたが、
このことを聞いた向井少尉は奮然起って、
その夜、横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み、五十二名を斬り捨ててしまった 、
その後野田少尉は横林鎮で九名、威野関鎮で六名、最後に廿九日常州駅で六名と合計廿五名を斬り、
向井少尉はその後常州駅付近で四名を斬り記者等(光本、浅海、安田各本社特派員)が
駅に行ったとき、この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかった 、両少尉は語る、
<向井少尉> この分だと南京どころか丹陽で、俺の方が百人くらい斬ることになるだろう、
野田の負けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたった一つしかないぞ
<野田少尉> 僕等は二人とも、逃げるのは斬らないことにしています、
僕は○官をやつているので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせる
記者らが、「この記事が新聞に出ると、お嫁さんの口が一度にどっと来ますよ」と水を向けると、
何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのりと赤めて照れること照れること
百人斬り競争!/両少尉、早くも八十人 》
「トーチカに突進し、四名の敵を斬り伏せ」だって?
コンクリートで固めたトーチカの機関銃相手に、日本刀で突撃っての?
よく、生きて、たどりつけたね。
乃木大将の部下が、みんなこうだったら、二〇三高地は、犠牲者 0 で落とせたのにね。
向井少尉は砲兵隊の小隊長だから、大砲でやった方が早いのにね。
52人の敵兵は、たった一人の向井少尉に切られるまで、攻撃もせず待っていたのかね?
砲兵隊の小隊長が持ち場を離れて、敵陣に切り込みなどしたら、軍法会議にかけられるな。
その前に機関銃で蜂の巣になってるか。
まー、軍の検閲係も、これだけバカバカしいと、笑って通すだろうな。
これは メッセージ 113 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ラーベの日記11月29日
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/17 18:43 投稿番号: [113 / 2250]
十一月二十九日
シュペアリングから電話。王固盤が辞任し、後任が指名されたとのこと。
スマイスは、「こんどの警察庁長は、警察といっしょに逃げ出すようなことはないだろう」
と言っている。もしそうだとしたらこれは初めてのいいニュースになるだろう。
十六時に会議。たとえ日本が承認しなくても、なんらかの手を打たなければ。
ローゼンから電話。日本人は安全区に関する提案に応ずるかどうかまだ検討中だといってきたという。
もしかしたら祖国ドイツからなにか働きかけがあったのではないだろうか。
それにしても唐生智がしたような発言 (『南京を死守する』 云々) は、迷惑千万だ。
司令官というのはそういうものかもしれないが、やつはとかく大見得を切りたがる。
まともに防衛できもしないくせに、よくもそんな口がきけたもんだ。
われわれはこの揚子江のデルタ地帯で文字通りの袋の鼠だというのに。
持ち物を整理していたらたまたま総統の写真が出てきた。
ヒトラー・ユーゲントのリーダー、パルドゥア・フォン・シラッハの詩が添えられている。
総統のかくも偉大なるところ、それは、
われらが総統にして
あまたの民の英雄たること。
また、彼その人。
率直にして堅固、かつ素朴、
彼のなかにわれらが世界の源あり。
その魂ははるか天空へと達しながら、
なお人としてとどまられた。
君やわれとひとしき人として。
これを読んでふたたび勇気がでた。ヒトラー総統はきっと力になってくださる。
私はあきらめない。
「君やわれとひとしき素朴で飾らない人」 であるあの方は、自国民だけでなく、
中国の民の苦しみにも深く心を痛めてくださるにちがいない。
ヒトラーの一言が、彼の言葉だけが、日本政府にこの上ない大きな影響力をもつこと、
安全区の設置に有利になることを疑う者は、我々ドイツ人はもとより、ほかの外国人のなかにもいない。
総統は必ずやそのお言葉を発してくださるだろう!
十八時。イギリス文化会館で定例会。そのとき、市長が国際委員会の発足を正式に発表した。
私はいった。我々はすべての大使館から道義的な理由によって支持されており、
アメリカ大使館を通じて上海の日本大使にすでに電報を二本打った。
そして個人的にヒトラー総統およびクリーベル総領事にも打電した、と。
「ただ、総統からの回答は期待できないと思います。
この種のきわめて微妙な外交問題は、おそらく他の方法で処理されると思われるからです。
ですが、その一方で、私には総統が援助を拒否されるはずはないという確信があります。
あともう二、三日待っていただきたい。
なぜなら、日本から承諾を得ることについて、まだ諦めたわけではないからです」
蒋介石は委員会に十万ドルの寄付を申し出た。
私はカルロヴィッツ社のクレーガーを財務委員として推薦した。
これは承認され、クレーガーは快く引き受けてくれた。
また、例の家 (寧海路五号) に住んでもらえないかと頼んだところ、これも承知してくれた。
ドイツ国旗を掲げているのに、内政部を警備している兵士にトラックが没収されてしまった。
唐の代理である龍上校 (大佐) に電話して返してもらったときには、夜の十一時になっていた。
これは メッセージ 112 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ラーベの日記 11月28日
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/16 18:42 投稿番号: [112 / 2250]
昨日、蒋介石と話し合った結果についてのローゼンの報告。
「防衛は、この町の外側だけか、それとも内側でも戦うのか」 という質問に対して、
「われわれは両方の場合にそなえている」 という答えが返ってきた。
次に、「もしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、 つまり
だれが行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」
という質問に対する蒋介石もしくは唐の返事は、
「そのときは日本人がすればよい」 というものだった。
言いかえれば、役人はだれひとりここには残らないということだ。
何十万もの国民のために、だれも身をささげないとは……。さすが、賢明なお考えだ!
神よ、ヒトラー総統さえ力をお貸しくだされば!
本格的な攻撃が始まったら、どんなに悲惨なことになるだろうか。想像もつかない。
ローゼンからこんなことも聞いた。
総統に電報をうったドイツ人はいったいだれだと、トラウトマン大使が問い合わせてきたという。
大使はもうローゼンからの手紙を受け取った。
今日の午後、ラジオでは、安全区に関して何もいっていなかった。
十五時。スマイスの家で行われる会議のため、シュペアリングが迎えにきた。
この会議で、フィッチを正式に役員に、杭立武を中国側の顧問に任命することになっていた。
日本から返事をもらうまでは、これ以上動けないということで意見が一致した。
ミルズがいった。 客観的にみて、南京の防衛など馬鹿げている。
それより穏やかに明け渡した方がよいのではないか。
できるだけ早いうちに中国の最高権力者である蒋介石と唐将軍にそのことを
伝えるべきではなかろうか。 だが杭立武の意見はちがう。
今はその時期ではないというのだ。
結局、日本政府から承認されるまで待とうということになった。
十六時半に散会。あまり成果はなかった。なにもかも中途半端だからだ。
十八時にイギリス文化会館で会議。
郵便局長の李奇氏は、郵便局が正式に閉鎖されることになったと伝えた。
けれどもポストの郵便物は時々回収されるので、手紙を投函することはできるという。
リッチー氏は少し興奮しているようだった。
彼の部下は大勢いてこれまでよく働いてきたが、そっくりいなくなってしまうのだ。
人々の話では、日本軍は蕪湖より六十キロ離れたところにきていて、
三日後にはこちらに着くという。だがそれはおかしい。そんなことは不可能だと思う。
会議で、中国語で印刷された大きな紙をもらった。
中国兵に襲われないよう、ドアに貼れというのだ。
今日、ドイツ人顧問の家が兵士に押し入られたそうだ。もっともこれはすぐに解決した。
寧海路五号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。
ここには表向きだけ住んでいることにするつもりだ。
うちの庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッチで進んでいる。
二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしまったからだ。
警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二十万人住んでいるとくりかえした。
ここにとどまるのかと尋ねると、予想通りの答えが返ってきた。
「できるだけ長く」
つまり、ずらかるということだな!
これは メッセージ 111 (kireigotowadame さん)への返信です.
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安全区の承認を求めるラーベ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/15 18:55 投稿番号: [111 / 2250]
ラーベの日記11月25日
《ラジオによると、非戦闘員の安全区に対して、
日本はこれまでのところ最終的な回答をよこしていない。
上海ドイツ総領事館を通じて、おなじく上海にいるラーマン党地方支部長に頼んで
ヒトラー総統とクリーベル総領事*に電報を打とうと決心した。
今日、つぎのような電報を打つつもりだ。
在上海ドイツ総領事館。
党支部長ラーマン殿。つぎの電報をどうか転送してくださるようお願いします。
総統閣下
末尾に署名いたしております私ことナチ党南京支部員、当地の国際委員会代表は、
総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意ある
お取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。
さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、二十万人以上の生命が
危機にさらされることになります。
ナチ式敬礼をもって。
ジーメンス・南京
ラーベ
クリーベル総領事殿
本日私が総統へお願いしました日本政府に対する非戦闘員安全区設置に関する
お取りなしについて、貴殿のご尽力を心よりお願いする次第です。
さもないと、目前に迫った戦闘での恐るべき流血が避けられません。
ハイル・ヒトラー!
ジーメンス・南京および国際委員会代表
ラーベ
*ヘルマン・クリーベルは一九二三年のヒトラーによる反乱に加わり、
ヒトラーと共に禁固刑を受けた。だがこの頃にはヒトラーへの進言など、
とうにできない立場にあった。
電報代を考えてラーマン氏は後込 (しりご) みするかもしれない。そう思ったので、
費用は私が持つからとりあえずジーメンスに請求してくださいと付け加えた。
今日は路線バスがない。全部漢口へ行ってしまったという。
これで街はいくらか静かになるだろう。
まだ二十万人をこす非戦闘員がいるというけれども。
ここらでもういいかげんに安全区がつくれるといいが。
ヒトラー総統が力をお貸しくださるようにと、神に祈った。》
ラーベは気をもんでいるが、
日本が回答をよこさないのは、まだ、南京攻略が、決まってないからなのだけど。
ラーベ達は、南京戦は当然という前提で 「安全区を」 作っているが、
日本は、南京戦どころか上海で戦争を終わらせるつもりで、中国の飲める和平案を出していた。
それを蒋介石が蹴った為、進撃するか、留まるかでもめている最中なのだけど。
南京で戦争すると決めてもいないのに、南京に 「安全区」 をと、言われても返事の出来る筈がない。
「安全区を支持する (or認めない) 」と言えば、自動的に南京戦を認めた事になる。
さりとて、蒋介石が和平を拒否してる以上、「南京戦は無い」 とも言えないので、
「安全区は必要ない」 とも言えません。
だから、返答ができないと考えるべきです。
これは メッセージ 110 (kireigotowadame さん)への返信です.
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百人斬り新聞記事の発端
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/14 18:47 投稿番号: [110 / 2250]
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』420〜421p
《上海派遣軍は、呉福陣地突破後、悪路を冒して追撃を続行し、・・・
第十六・第十一師団及び第九師団の主力は無錫に前進し、
二十三日から無錫東方既設陣地による敵を攻撃し、二十五日同地を占領した。》
この無錫において、向井少尉と野田少尉そして浅海記者は出会ったようです。
ここから、百人斬りの新聞記事の構想が始まります。
以下は『正論』2001年8月号335〜336pにあった、野田毅少尉の手記です。
これは2001年三月上旬、鹿児島県田代町に住む野田氏の実妹、マサさん(七十二歳)
が保管している遺品の中から、見つけたものです。
野田毅少尉の手記
新聞記事ノ真相
《・・・十年以前
ノ
コトナレバ
記憶
確実ナラザルモ
無錫ニ於ケル
朝食後ノ
冗談笑話ノ一説
次ノ如キモノモ
アリタリ。
記者
「貴殿等ノ剣ノ名ハ何デスカ」
向井
「関ノ孫六デス」
野田
「無名デス」
記者
「斬レマスカネ」
向井
「サア 未ダ 斬ツタ経験ハ アリマセンガ 日本ニハ 昔カラ百人斬トカ
千人斬トカ
云フ
武勇伝ガアリマス。 真実ニ
昔ハ
百人モ
斬ツタモノカナア。
上海方面デハ
鉄兜ヲ、
切ツタトカ云フガ」
記者
「一体 無錫カラ南京マデノ間ニ 白兵戦デ何人位 斬レルモノデセウカネ」
向井
「常ニ
第一線ニ立チ
戦死サヘシナケレバネー」
記者
「ドウデス
無錫カラ南京マデ 何人斬レルモノカ 競争シテミタラ
記事ノ特種ヲ 探シテヰルンデスガ」
向井
「ソウデスネ 無錫附近ノ戦斗デ 向井二O人 野田一O人 トスルカ。
無錫カラ 常州マデノ間ノ 戦斗デハ 向井四O人 野田三O人、無錫カラ
丹陽マデ 六O対五O、無錫カラ句容マデ 九O対八O、無錫カラ
南京マデノ間ノ 戦斗デハ 向井野田共ニ百人以上 ト云フコトニシタラ、
オイ野田ドウ考ヘルカ、小説ダガ」
野田
「ソンナコトハ 実行不可能ダ、武人トシテ 虚名ヲ売ルコトハ 乗気ニナレナイネ」
記者
「百人斬競争ノ武勇伝ガ 記事ニ出タラ花嫁サンガ 殺到シマスゾ
ハハハ、
写真ヲトリマセウ」
向井
「チョット 恥ヅカシイガ 記事ノ種ガ無ケレバ 気ノ毒デス。
二人ノ名前ヲ 貸シテアゲマセウカ」
記者
「記事ハ 一切記者ニ 任セテ下サイ」
其ノ後 被告等ハ 職務上絶対ニ カカル百人斬リ競争 ノ如キハ 為サザリキ。》
これは メッセージ 109 (kireigotowadame さん)への返信です.
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11月24日の南京 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/13 18:46 投稿番号: [109 / 2250]
11月24日
《ロイター通信社がはやくも国際委員会の計画について報じた。
すでにきのうの昼、ローゼンも、ラジオで聞いたという。
それによると、東京で抗議の動きがあるとのこと。
とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、ということらしい。
それを受けてローゼンは上海のドイツ総領事館あてにこんな電報を打った。
いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。
当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーベを代表に、イギリス人、アメリカ人、
デンマーク人、ドイツ人の各委員は、中国および日本に、
南京に直接戦闘行為が及んだ場合の一般市民安全区の設置を求めております。
アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。
この保護区は一朝有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。
ドイツ人の代表に免じ、この人道的な提言に対する、非公式の、
とはいえ公式の場合に劣らない温かいご支援を乞う次第です。
私の手元にはザッツブーフ* しかありません。 よってこれを東京に転送し、
米海軍を介してドイツ総領事館および日本当局の返信を頂きたいと思います。
ローゼン
*外務関係で用いられた暗号対照コード表で、ドイツ語の単語がすべて五ケタの数字で表記される。
機密が保護されないため、極秘電報には用いられない。
中央病院院長のJ・ヘンリー・劉先生が去り、「後を託された」 医師たちも二人とも
いなくなってしまった。伝道団のアメリカ人医師たちがいてくれなかったら、
この大ぜいの負傷者はどうなってしまったかわからない。
先日、贈られたトラックを一台動員した。
車が徴発されないよう、運転手の劉漢臣はドイツ国旗を掲げて走っている。
中国兵はトラックとみれば残らずとり上げてしまう。
カルロヴィッツ社のクリスティアン・クレーガーの話では 「命令」 が出たという。
つまり、南京の住民はすべて町を離れるようにという指令である。》
なお、この日蒋介石が期待していたブリュッセルの九カ国会議が閉会しました。
児島襄著 『日中戦争4』 169p
国民政府は、ブリュッセルの九カ国会議が対日制裁の具体的方策を決定することを
期待していたが、会議は、二十四日、抽象的な宣言を採択しただけで閉会した。
これは メッセージ 108 (kireigotowadame さん)への返信です.
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南京進撃への策謀
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/12 16:28 投稿番号: [108 / 2250]
第十軍が、独断で南京進撃しようとするのを、参謀本部の多田次長が止めました。
しかし、南京進撃を進めたいのは、第十軍だけではありません。
多田次長の部下の下村第一部長もそうです。
下村部長は秘策を練りました。
それは、大本営会議を利用することです。
但しこの大本営は、事変が宣戦布告した正規の戦時ではないので、
新たに事変に適用できる法令を作って設置されたものです。
児島襄著 『日中戦争』 165〜167p
《制令線の廃止が指示された十一月二十四日は、第一回大本営御前会議の開催日でもあった。
天皇をむかえた会議出席者は
―
〔陸軍〕=参謀総長閑院宮載仁元帥、陸相杉山元大将、参謀次長多田駿中将、
参謀本部第一部長下村定少将。
〔海軍〕=軍令部総長伏見宮博恭元帥、海相米内光政大将、軍令部次長嶋田繁太郎中将、
軍令部第一部長近藤信竹少将。
この日の会議は、陸海軍の作戦計画を上奏するだけで、下問も質疑もなく、
しごく形式的な会議が予定されていた。
現に、会議は、両総長が作戦方針、両部長がその説明書を朗読して、終った。
ところが、
実際には、会議には、参謀本部第一部長下村少将の〝工作〟がひそめられていた。
下村部長の説明は、部員有末次中佐が起案して多田次長の承認も得たものだが、
その中支那方面軍の作戦については、次のように述べられていた。
「元来、此ノ軍ハ上海付近ノ敵ヲ掃滅スルヲ任務トシ……
其ノ推進力ニハ相当ノ制限ガ御座居マス……
随(したがっ) テ一挙直チニ南京ニ到達シ得ベシトハ考ヘテ居リマセヌ……」
つまりは、南京には行かぬ、行くにしても慎重に行く、という多田次長の思想を反映した文言である。
南京進撃を主張する下村少将としては、この章句は不満である。
御前会議での上奏は、最高方針の決定にほかならず、このままでは南京攻略は不発になりかねないし、
方針を修正するには、さらに上奏して時間をとられることになる。
下村少将は、そこで、会議の前に多田次長に語った。
「南京攻撃をやる場合があると云ふことを、申すかも知れません」
少将は、そのときの多田次長の反応を記述していないが、次長としては、
少将が南京問題について「軽く」付言する程度と理解したらしい。
だが、御前会議では、下村少将は、前述の説明案文につづいて、次のように言明したのである。
「統帥部ト致シマシテハ、今後ノ状況如何ニヨリ
該方面軍ヲシテ
新ナル準備態勢ヲ整ヘ、
南京其ノ他ヲ
攻撃セシムルコトヲモ
考慮シテ居リマス」
このくだりが朗読されたとき、参席者の多くは、思わず眉をあげて意外感を表明した。
御前会議では、発言するとき以外は、不動の姿勢のまま端坐して終始するのが慣例である。
一同は、それ以上の動きを示すことなく散会した。》
次長は怒ったが、後のまつり、ほとんど既定事項となってしまったわけです。
誰もが、動けない、つまり、反論できない状態を利用して既成事実化したのです。
と言っても、南京攻撃が決まったわけではありません。可能性が開かれただけです。
南京攻撃が決まるのは、まだ後になります。
これは メッセージ 107 (kireigotowadame さん)への返信です.
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制令線の廃止と新制令線の設定
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/11 17:31 投稿番号: [107 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』164〜165p
《第十軍参謀長田辺盛武少将をまねいての協議の結果は、さっそく
二十二日の中支那方面軍の第十軍にたいする南京追撃中止命令に具現したが、
同時に、その方面軍命令には、次の但し書がつけ加えられていた。
「但シ、湖州ヨリ一部先遣隊ヲ派遣スルコトヲ得」
先発隊を出して主力はあとから行け、との含意がうかがわれる命令であるが、
方面軍は、さらに参謀本部に意見具申してきた。
「中支那方面軍ハ、事変解決ヲ速カナラシムル為、現在ノ敵ノ頽勢ニ乗ジ、
南京ヲ攻略スルヲ要ス」
疲れている上海派遣軍も、「旬日」(十日間) の休養をとれば追撃戦を実行できる、という。
なにがなし、第十軍がはりきり、方面軍がひきずられた感じである。
参謀次長多田中将は、「不可(いか)ん」「不可ん」と連呼したが、
すでにひきずられるよりも「ひきずりたい」意思をもつ下村少将らに説得され、
十一月二十四日「大陸指第五号」を発令した。
「臨命第六〇〇号ヲ以テ指示セル中支那方面軍作戦地域ハ、之ヲ廃ス」
南京進撃
−
の下令にひとしい。
参謀次長多田駿中将は、しかし、なお内心では南京攻略に反対であった。》
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』419〜420p
《次長は戦線拡大を深く憂慮していたので、同日十八時、方面軍参謀長あて要旨次のように打電した。
「任務に基づく戦場追撃は認める。しかし状況によっては大湖北方地区で方面軍の一部が
無錫以西に進出することがあるのは予期するが、
大湖南方地区では湖州以西に戦面を分散拡大することのないよう、
また他に転用のため第十一師団及び重藤旅団等を十二月初旬までに上海付近に集結させるよう考慮されたい。」
二十四日、方面軍は「第二期作戦計画ノ大綱」を作成し、二十五日これを配布し
かつ両軍に対し、無錫−湖州の線において、じ後の作戦を準備せよと命じた。》
要するに、無錫−湖州までの線を新しい制令線とすると言うようなものです。
簡単には、南京攻撃を許可しません。
これは メッセージ 106 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ラーベ国際委員会の代表に
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/10 18:38 投稿番号: [106 / 2250]
ラーベの日記11月22日より
十七時に、国際委員会の会議。南京の非戦闘員のための中立区域設置の件。
私は「代表」に選ばれてしまった。辞退したが押し切られた。
良いことをするのだ、受けることにしよう。
どうか、無事つとまるように。責任重大だ。
ドイツ大使が船で帰る直前、委員会の事務局長のスマイス教授を紹介することができた。
大使は委員会から日本大使にあてた電報を読んで同意してくれた。
これはアメリカ大使館の無線を通じて、上海のアメリカ総領事館から発信される。
イギリスとアメリカの大使にはすでに承認してもらった。
話し合った結果、上海の日本大使館に届くまで、電報の内容は公開しないことになった。
これが無駄にならないよう、祈るばかりだ。フランスの委員はいない。
それはここにフランス人がいないからで、イタリア人も同じだ。
英語の電報の内容は要約すると次のようになる。
デンマーク、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国の各国民によって構成される当委員会は、
国民政府と日本政府に対し、南京市内ないしはその近郊で戦いが勃発した場合にそなえて、
難民のために安全区の設置を提案する。
国際委員会は、次の点を国民政府に保証してもらうことを約束する。
軍事交通局を含むあらゆる軍事施設を「安全区」から撤退させ、非武装地帯とし、
ピストルを装備した民団警官のみを置く。
また、その場合、すべての兵士およびあらゆる階級、身分の士官の立ち入りは禁止される。
国際委員会は、これらが遵守され、滞りなく遂行されるよう配慮する。
国際委員会は、日本政府が人道的理由から安全区を尊重するべく配慮してくれるよう願っている。
そのような慈悲深い措置こそ、責任ある日中両国政府の名誉となると信ずる。
国民政府との交渉をできるだけ早く成立させ、難民保護のために必要な準備を整えられるよう、
日本当局のすみやかな回答を切望する。
これは メッセージ 105 (kireigotowadame さん)への返信です.
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蒋介石の 「戦うぞ」 宣言
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/09 19:02 投稿番号: [105 / 2250]
上海を攻撃していた中国軍は第十軍の上陸をきっかけに、退却をはじめました。
そのスピードが速いため、追いかける方も、無人の野を行くかのように、速くなりました。
11月19日
日本軍は制令線の蘇州・嘉興を陥落させます。
ここでストップです。
この時、蒋介石は
「・・・敵が南京に至れば我々は南京を防衛する。
敵が四川を攻撃すれば我々は四川を防衛する。
敵の侵略が続く限り我々は永久に戦い続けるであろう」
(鈴木明著『「南京大虐殺」のまぼろし』159p)
と公言しました。
まるで、「来るなら来てみろ」 とでも言っているかの如くに。
当時、日本には、まだ、南京に行く計画はありませんでした。
そして20日の 「遷都宣言」 では次の様に言っています。
新聞記事
国民政府、遷都宣言で長期抗戦を叫ぶ
〔昭和12年11月21日
東京朝日〕
《〔上海二十日発同盟〕
国民政府の遷都宣言の内容、左のごとし。
盧溝橋事変発生以来、平津が陥落し戦事蔓延してより、
国民政府は日本の止まるところを知らざる侵略に鑑み、自衛のため抗戦するに決定、
全国の民衆は敵愾心に燃えて戦い、全体将士は忠勇奮戦した。
侵略された各省は極めて激烈な奮闘をなし、極めて壮烈なる犠牲となった。
しかして淞滬の一隅では抗戦既に三カ月に亘る。各地の将士は奮って国難に赴き、
その前線にあっては血肉のみを以って塹壕を構築し、死すとも退かず。
日本はその陸、海、空軍の力を合わせて攻撃し来たったのである。
陣地は灰燵となるも軍心は金石のごとく、戦場における勇気と戦事の激烈とは、
実に民族独立の精神を明示するものである。
しかして中華民族復興の基礎となるものである。
日本は更に暴威を揮い、兵を分けて西進し我が首都に迫る。
その意を察するに、その暴力により我に城下の盟を要求せんとするものであるが、
彼は我が国が抗戦自衛を決定した日より既に最後の関頭たる事を銘記し、
国家の生命のため、国際正義と世界平和を図るため、屈服の余地なきに至った事を知らない。
およそ血気あるものは、むしろ瓦全より玉砕を欲する決心を持たざるものはない。
国民政府は戦局に適応し全局を統一して、長期抗戦のため本日、重慶に移転する。
今後は最大の規模により持久の戦闘に従事する。
中華は多数の人民と土地の広大と、人々が必死の決心を備え、
更に熱血と土地とを以って凝結し一丸となり、いかなる迫力もこれを分離する事は出来ない。
外は国際の同情を得、内に民衆の団結あり。抗戦を継続して、
必ず国家民族生存独立の目的を達するであろう。特にここに宣言する。》
注:平津とは北京・天津のこと。当時首都は南京であったので、北京は北平になっていた。
淞滬
上海の事
しかしまー、よくも、こういう妄言が平然と吐けるものです。
日本は 「戦争を止めよう」 と温和な和平案を出したのに、それを蹴っておきながら、
「日本が侵略している」 と、言っているわけです。
好条件の和平案をけっておいて、「侵略された」 も何もないでしょう。
和平をけってまで戦争を続ける以上、その結果の責任は中国にあります。
この時点では、日本はまだ、南京進撃を決定していません。
ただ、一部の将軍には南京への進撃をすべきと考えている人もいますが。
参謀本部が許可しません。
しかし、蒋介石が和平を拒否し続ければ、いつまでも “南京進撃の抑止” はできなくなります。
これは メッセージ 104 (kireigotowadame さん)への返信です.
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南京に国際委員会が発足
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/08 18:29 投稿番号: [104 / 2250]
ラーベの日記11月19日より
国際委員会が発足した。
主要メンバーは鼓楼病院のアメリカ人医師、それから金陵大学の教授たち。
全員宣教師だ。難民区を作ろうというのがその目的だ。
つまり、城壁のなか、あるいは外に中立地域をつくり、万が一砲撃されたとき、
非戦闘員の避難所にしようというのである。いっしょにやらないかといわれた。
私がここに残るというのはすでに噂になっていたのだ。
私は承諾し、スマイス教授の家で開かれた夕食会で、アメリカ人の参加者全員に紹介された。
いまのところ、ドイツ大使館員はまだ三人残っている。
ヒュルター、ローゼン、シャルフェンベルクのメンバーだ。
なぜローゼンが残されたのだろう。あの人が自分から希望するはずがない。
ちょうど大使が留守だったので、この命令を取り消すようとりはからってもらえないかと、
夫人に頼んだところ、できる限り努力するとの返事だった。
ローゼンは、心ならずも残されたのだ。そういう人が相手ではどうしようもない。
ローゼンは私が委員会に参加することを知らないし、また知る必要もない。
カルロヴィッツ社のメルヒオールが、やはりいっしょに避難したらどうかといってきた。
せっかくだが、断るしかない。
なにも私はわけもわからず飛びこもうというのではない。
覚悟のうえだ。どうか許してくれ、ドーラ。こうするほかないんだ!
医者のヒルシュベルク先生一家とシュックマンさんの奥さんもまだいる。
テキサス石油のハンソンさんも。
なにも私だけが危険に身をさらそうとしているわけではないのだ。
うちの韓は私と運命を共にするといった。ぜったいそういうだろうと思っていた。けなげなやつだ!
十一月二十日
十八時に号外が出た。中国の新聞で、国民政府が重慶に移るといっている。
南京のラジオも同じことを伝えた。それから、南京は死守されるそうだとも。
これは メッセージ 103 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国、遷都と南京守城を決める
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/07 18:59 投稿番号: [103 / 2250]
徐永昌の日記
11月15日
「11時、蒋介石が会議を招集、私が先着し、何応欽、唐生智、白崇禧、
○○ (判読出来ず。以下同じ)、劉斐が続いて到着。
この会議で、敵と交戦しながら、首都機能を長江上流に移転されることが決定した。
私は、作戦を中断することは出来ないが、急に臨んで、あわてふためくのは不可であると述べた。
会議後、何応欽は、銃弾を運ぶだけでも、準備が十日は必要だ。何故 (蒋介石は)
このことをもっと早くいってくれないか、と不満げな口ぶりだった。
16日
十時、何応欽宅にて、各軍事機関の移転を決定。何応欽は細かく説明していたが、
一向に要領を得ず。十二時帰宅、四時半 (上海方面の) 兵力配置を調整した。
広東軍と貴州軍を左翼 (南京から見て左、つまり揚子江の側) に、広西軍、湖南軍を右翼
(太湖の南) に投入、左翼から中央軍を五、六軍団引揚げさせ、南京防衛に当られる方針。
六時から会議は再開。南京守城を決議。唐生智が司令長官となり、
三カ月ないし一年を守衛出来るだろう、と皆に期待される。
続いて汪精衛が政府機関を動かす方法について報告。
最後に蒋介石は〝抗戦既に三カ月経って、わが軍の死傷者は三十万人に達した〟と報告。
次いで、日本はドイツ、イタリアの国際勢力を背景とし (イタリアは、この日記の
書かれた約十日前、十一月八日に「日独防共協定」に加わって、日独への好意を示していた)、
わが国の方は、イギリス、アメリカ、フランス、ソ連の応援があるが (十一月から、
日本に対して非難決議を行うと期待されていた 「九カ国会議」 が、十一月二二日から
ベルギーのブリュッセルで開かれており、十五日は、まだその会議が進行している最中だった)、
まだ対立点も残されており、予断は出来ない。
そのためには、ねばり強い抗戦を続けなければならず(首都を重慶に移して
―
日本は、重慶まで攻めてくることは出来ない)、
日本も戦いを止めるわけにはゆかず、これによって、国際情勢の変化も考えられる。
抗戦を続けるに当って一番大切なことは、持久戦に耐えられる民族精神を持つことである、という。
広東、広西、四川、○○、山東の五軍を比較してみると、広東、広西軍が最も勇敢で、
中でも広西軍は使いやすい。白崇禧(広西)を副参謀にしてよかった。
19日
九時、嘉興が占領されたことを知る
(日本軍発表によると、嘉興を占領したのは十一月十九日)。
伝聞によれば、敵はあまり労せずして占領したとのこと。
常州の顧祝同から電話あり、わが軍は既に無錫、江陰の線まで後退の由。
何応欽、白崇禧など連れ立って蒋介石の許を訪れ、現状を見るに、長期間の (南京) 守城は
(戦力を消耗するので) 必要なく、江陰の線で何日か持ちこたえればよし、と進言。
何応欽は、軍政部所管の物資、兵器を運ぶのに、百本の列車が必要と発言、
蒋介石は、嘉興、蘇州の失陥をきいても、顔色一つ変えなかった。
(鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 218〜219p)
この中で、蒋介石は 「日本はドイツ、イタリアの国際勢力を背景とし」 と言っているが、
この言い方はおかしい。
ドイツ軍事顧問が、現に、中国軍を指揮し助けている。
「敵の味方」発言は、恩知らずにも、ほどがある。
ドイツは九カ国条約会議に参加しなかっただけで、イタリアは日本糾弾宣言案に反対しただけ。
ドイツが不参加なのは当然であろう。
この戦争は中国がしかけた事を、内部から知っているのだから。
日本が侵略しているとは、口が裂けても言えないし、中国が悪いとも、立場上いえない。
日独伊防共協定が敵とするのは共産主義であって中国ではない。
これは メッセージ 102 (kireigotowadame さん)への返信です.
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敗走中国兵による略奪・放火
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/06 18:55 投稿番号: [102 / 2250]
日本軍は敗走する中国兵を追って西へ進撃しました。
この時、三光作戦をやったという話があります。果たしてどうなのでしょうか。
略奪などが全くなかったとは言いませんが、
実は日本軍が来る前に中国軍が先にやっているのです。
上海から南京へ敗走する途中、中国軍は略奪や放火をやりました。
これについては、幾つかの証言があります。
ラーベの日記
「11月16日
蘇州では、舞い戻ってきた中国の敗残兵によって、ひどい略奪が行われたという。
済南の手前にある鉄橋が中国人の手によって爆破されたという。日本人の進攻を防ぐため」
孫元良の回想録
「やがて我々は崑山から蘇州に後退し、ここで一休みできる筈だったが、
蘇州は既に秩序が乱れ収拾不能な都市になっており、我々に休む間を与えなかった」
(鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』211p)
第九師団・第36連隊長・脇坂次郎氏の東京裁判宣誓供述書
「上海から南京に進軍中、我が部隊は常に先頭に立ったが、沿道の部落の家屋が焼却され、
毀損され、また家屋内が略奪されていたのが相当認められた。
これは支那軍が退却に際し…放火・破壊した、支那軍民の常習たる戦時の略奪に
よるものであると、支那人民から聞いた」
(富士信夫著『「南京大虐殺」はこうして作られた』211〜212p)
第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏の供述書
「わが部隊は、蘇州へ向けて進撃すべく命をうけ、第一線部隊として進み、
蘇州到着までは、ほとんど敵の抵抗を受けなかったが、蘇州に至る間の部落は酷く焼かれ、
屋根のある家は少なく、住民もいなかった。
このような破壊は、支那軍が退却に際して行ったものと認める」
・・・
南京の東方約八里(注・約三十二キロ)の山地帯で敵の大きな抵抗にあった。・・・
この付近では営舎として利用できる家屋は支那軍のため焼却されていて一軒もなく、
日本軍はすべて野営した。
(富士信夫著『「南京大虐殺」はこうして作られた』210p)
徐永昌の日記
「11月26日
聞くところによれば、蒋介石は、不安分子が漂水、漂陽などで強奪・強盗
などを働いたと聞いて激怒したとの事」
(鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』220p)
これらの行為は、兵によるものですが、国家的政策によって行われたものもあります。
それは清野作戦です。中国は日本軍が近づくと 「鎮江」 の街を焼き払いました。
そして南京の周り半径十六キロ以内の建物を全て焼き払ったのです。
その目的は、日本軍に利用できる物は何も与えない。ただそれだけの為に。
また、前述の大内義秀氏の証言
(富士信夫著『「南京大虐殺」はこうして作られた』210p) には
ある部落 (名前は失念) には婦女子が数名残留していたので、そこへの立ち入りを
厳禁していたら、ある日の夜、この部落から赤・青の信号弾が打ち上げられ、
急に敵弾が集中飛来してきた。翌朝その部落を捜索したが、一人もいなかった。
というのもあります。こういう事をされれば、婦女子が殺されることもあるでしょう。
しかしそれは、無辜の民の虐殺とは違うでしょう。
これは メッセージ 101 (kireigotowadame さん)への返信です.
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制令線の撤廃論議
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/05 17:02 投稿番号: [101 / 2250]
第十軍が杭州湾に上陸し、第16師団が11月13日に、揚子江の白茆口に上陸してから、
中国軍は完全に退却を始めました。
現在の我々なら、「よかった、敵が逃げて、戦わなくて済む」 となるですが、
第十軍の上層部は不満でした。
児島襄著 『日中戦争4』 161pには
《「上海決戦」 が不発に終り、期待した 「剿滅戦」 は 「撃退戦」 でしかなく、
しかも、中国軍の雪崩れ風の退却ぶりをみると、もはや
「中支那方面ニ於テ敵軍主力ヲ捕捉殲滅スルノ機会ハ逸シ去リタルモノ」 と、判定されるからであった。
いわば、第十軍の主目標は失われたわけである。
第十軍は、だから、新目標として首都南京をえらび、その占領によって中国側に
「政戦両略上ノ打撃」 をあたえよう、と決心する。》
とあります。しかし、参謀本部が蘇州 − 嘉興ノ線までという制限を設けています。
これでは、面白くないから、制令線をはずしてくれという話になるわけです。
戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』 417pより
参謀本部作戦課では、十一月十五日、情勢判断を行い、制令線を変える必要はないと
判決しました。しかし第一部長下村定少将は、
「この際、戦機をとらえて制令線をいっせいに今一押し出て強圧を加えたらどうか」 と
作戦課に研究を命じたのです。
結局、河辺作戦課長が上海に赴き、現地の実情を確かめてからとなりました。
児島襄著 『日中戦争』 161〜164p
《上海では、中支那方面軍司令官松井大将、参謀長塚田少将、参謀副長武藤大佐の
いずれもが上海派遣軍の疲労を指摘し、ひきつづいての進撃作戦は困難だ、と説明・・・
だが、第十軍はまだ疲れていない。
・・・
第十軍もふくめて中支那方面軍が制令線内で日をすごしたら、どうなるか。
北支那方面軍も、ようやく太原を攻略 (十一月八日) したが、待機の態勢をとっている。
全日本軍が腰をすえるのは、そのまま中国軍に戦力回復の時間を贈与するだけではないのか。
・・・
十一月十九日、戦況はさらにすすみ、上海派遣軍第九師団は蘇州、
第十軍第十八師団は嘉興を占領した。
制令線に到達したのである。
が、すかさず、第十軍司令官柳川中将は、「丁集作命甲第三十一号」 を下令した。
「集団ハ機ヲ失セズ一挙南京ニ敵を追撃セントス」》
11月20日参謀本部は、第十軍の南京独断進撃の電報をうけた。
多田次長は、直ちに中止の指示を出すよう督促、
しかし、下村部長は
「方面軍は中央の意図に非常に忠実にやつて居るのですから、方面軍が第十軍に対して
処置するでせう。それを中央が指示するといふやうなことは、よくありますまい」
と、抵抗しました。多田次長は、
「兎に角、之は急を要するから是非止めさせて呉れ」
と、くり返し、少将は、中支那方面軍参謀長塚田少将に、
第十軍の企図が制令線を定めた命令に反する旨の注意電を発信しました。
これは メッセージ 100 (kireigotowadame さん)への返信です.
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上海での手榴弾テロ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/04 16:59 投稿番号: [100 / 2250]
上海を包囲していた、中国軍の脅威は大体取り除かれました。
しかし、まだ、安心はできません。
中国が和平を拒絶しているからです。
それに租界にはテロリストが潜伏しています。
塚本誠著『ある情報将校の記録』224〜225pより
戦線が上海から西へ遠ざかっていった十一月中旬のある日、軍はわが威武を上海市民に誇示すべく、
上海周辺の諸兵種の部隊から混成一旅団を編成、共同租界内で示威行進を行なうことになった。
行進順路は、ゼスフィルド公園を発起点とし、アベニン路 (共同租界とフランス租界の境界線) から
虞洽郷路 (ユーヤチンロ) と南京路の交叉点 (競馬場東側)を右折し、
上海の銀座通りともいうべき南京路を東進して北四川路に抜けるのである。
上海憲兵隊は五十嵐隊長以下が行進の警戒に当たった。
行進部隊は意気揚々、先頭の軍楽隊、各隊の喇叭手を先頭に行進するのだが、
両側の店舗は悉く鉄扉を閉じ、ビルの窓はすべてカーテンをおろし、路上には中国人の影はまったくない。
日頃雑踏を極める南京路が死の街と化しているのは、中国民衆の無言の抵抗である。
部隊の最後尾が南京路の永安、新々両デパートの前にさしかかった時、
突然最後の部隊に向かって一人の中国人が手榴弾を投げつけ、
兵士が一名傷をうけて倒れた。
犯人は工部局巡警の手で直ちに処置され、行進部隊は最後尾の中隊だけを残して行進を続けていった。
この時、私は部隊の最後尾を前進していたので、直ちに部下に現場検証を命じ、
軍渉外部長深堀中佐(28期)と共に最寄りの店先のベンチに腰を下した。
そこへ真先に駈けつけて来たのが同盟通信の記者堀口瑞典君である。
その時、米軍の警備司令官が革の鞭を手にして単身やって来て、
抗議めいた態度で深堀中佐に話しかけるが、中佐は黙ったままである。
堀口君が私に、「南京路と虞洽郷路の交叉点に日本軍が米軍警備地区へ銃口を向けて
軽機関銃を据えているのは怪しからんといっているのだ」 と説明したので
私がその旨を中佐に伝えると同時に、米軍司令官に日本語で 「わかった。悪かった」 と
いうと堀口君が直ぐに通訳してくれた。
彼は、「オーケー」 と私に笑顔を見せて立ち去った。
これは メッセージ 99 (kireigotowadame さん)への返信です.
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体験談4 敵傷病兵に施薬
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/03 18:49 投稿番号: [99 / 2250]
これは、体験談3における座談会の続きなので、H上等兵の所属は、たぶん、
歩兵第四十七連隊(大分)第三大隊第十二中隊と思われます。
164〜166p
H上等兵
黄浦江で汽船や帆船を見、ホーこんなところにも船がと感嘆の声を洩らしてなお前進し、
河に面した村落で露営することになりました。
早速好きな食べ物はないかと永田上等兵と二人で行きますと、
家の陰に一人の男がうずくまって苦しそうに喘 (あえ) いでいます。
すかしてみると敵兵です。しばらく佇 (たたず) んで様子を見ていますと、
負傷でもないが如何 (いか) にも苦しそうです。
起こして調べてみますと何も持っていません。
そして世の終わりのような顔つきで腹を指さし、ウンウン唸 (うな) ります。
可哀相でしたので連れてかえり、クレオソートを飲ませて部屋の隅にねせておきました。
一晩中厠 (かわや) に往復してはヒイヒイ年甲斐もなく泣いていました。
おかげでおちおち眠れもしませんでした。
翌日は共に退 (ひ) いて歩けんと思いましたので、分隊全員で病に斃 (たお) れた敵兵に
贈る義捐金 (ぎえんきん) を募り、少ない糧秣 (りょうまつ) を分けるとか、
後からくる友軍に依頼状を書いてやるとかしましたら、
すっかり感激して慟哭 (どうこく) していました。
敵傷兵に施薬−歩兵第四十七連隊(大分)
第二中隊
伍長
S・S
敵の大軍は、我が軍のために完全に撃破されました。
見れば幾十となく敵の死体が転がっております。
中にはまだ虫の息で唸っておる者さえおります。これを見られた隊長が、
「苦しいか、今、薬をやるぞ」
と何かやられますと、一兵士は目を開けて、
「冷水、冷水」
と、かすれた声で哀願しました。
誰かが水を飲ませてやりますと、両手を合わせ涙をたたえ、「謝、謝」 と伏し拝みました。
これは青浦城陥落直後の話ですが、今までに我が中隊では幾十人となく、敵兵を救い、
郷里に帰してやりました。
その中には中隊のために骨身を惜しまず、弾丸下もものともせず、
実に勇敢によく働いた者も沢山あります。
そして彼らが故里に送り帰される時は別れを惜しんで泣いて別れるのでした。
謝々と
別れを惜しむ
村はづれ
これは メッセージ 98 (kireigotowadame さん)への返信です.
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体験談3 七百名の敵を捕らえる
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/02 18:54 投稿番号: [98 / 2250]
162〜164p
七百名の敵を捕らえる − 歩兵第四十七連隊(大分)
七本部
H軍曹
杭州湾に上陸して連隊本部付きで、一線中隊は各二百発ずつ弾薬を携行し、自分は後の
弾薬を海月庵に集め、大隊小行李 (しょうこうり) を纏 (まと) めて一線へと十日出発しました。
十三日に松江 (しょうこう) に到着して、それから二里半ばかりのところで一本道路でしたが、
前方に支那人が沢山いました。
このとき自分たちの兵力は、十二中隊が分散兵を集合せしめて約一ケ小隊、
小銃が四十挺ぐらいでしたが、クリークの岸に戦闘準備をしました。
すると、敵の将校らしいのが、前方二町ぐらいの所で止まりました。
それでこちらも前進しましたが、敵には全然戦闘意志はなく、チエッコ九、小銃百三十、
モーゼル三を持った敵が、道路の両側にズラリと集まりました。
七百名ぐらいおりましたが、早速まず武装解除をさせました。
小銃には全部装填(そうてん) してありました。
〝これだけの人員が、それに比較して殆ど戦闘力のない我々に向かってくれば、
ひとたまりもなかったのに〟 と後でホーッとしたことでありました。
これらの兵器は輜重(しちょう) 兵に持たせました。
黄浦江付近まで−歩兵第四十七連隊(大分)
第三大隊第十二中隊座談会より
A軍曹
松江を朝の七時頃出発しました。
横光分隊が路上斥候となり、部隊の一五〇メートル前方を前進、その後に車両部隊が続行、
その車両の間に二個分隊を適当の間隔に配置して、一個分隊が後方警戒に当たりました。
道の曲がり角のところで、向こうから十名ばかり白旗をかかげてくるのに出逢いました。
斥候よりの報告がないので、小隊長殿が駆けつけて見られますと、どうやら降伏してきたらしいのです。
都合のいいことには小隊の坂部上等兵が少し支那語が話せるので、訊ねさせてみますと、
向こうの部落に同僚が七百名ばかりいて、みんな降伏したいと言っているとのことです。
七百名 − 一寸(ちょっと) 想像のつかない話です。それに自分達は一個小隊(約七十名)、
車両部隊なんて戦闘力は無いも同じです。敵に抗戦の意志があるとすれば、これは大変なことです。
それでこちらは慎重にかまえ、二個分隊で武装解除に当たり、他は全部戦闘隊形をとらせられました。
二十三連隊の大隊砲も通り合わせましたので、これにも陣地進入をしてもらい、
降伏兵がくるのを待ちました。
そうして待っている間に、崑山から帰りの軍参謀や軍属の方もこられて、やがて、
向こうから長蛇の列をなして、こちらにくる支那軍を迎えました。
皆逞(たくま) しい顔つきをしている、
無表情な彼らの神経に隠されているのが何だろうかと一寸たじろぎもしましたが、
虎穴に入らずんば虎児を得ず、と武装解除をさせ、軍属にたのみ前進しました。
そのときびっくりしたのは彼らの持っていた書類の中に、出征当時の六師団の
中隊長以上の名が全部載っていたことです。
∪曹長
あれは実際特ダネだった。
くるもきたり七百名の降伏兵を見たとき、私はもう、戦争はじき済むと思いました。
奴らも今頃は皇軍の協力者として、新支那へ力強い生命を吹き込んでいることでしょう。
これは メッセージ 97 (kireigotowadame さん)への返信です.
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体験談2 唐子浜で捕らえた姑娘
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/01 18:55 投稿番号: [97 / 2250]
190~192p
唐子浜で捕らえた姑娘 (クーニャン)−
歩兵第十三連隊(熊本)
第十一中隊
歩兵曹長
K・S
日軍百万上陸のアドバルンが、内地のような感じのする空に揚げられて、
まず敵胆を寒からしめて二日目、雨にたたかれ、ぐいぐいと肩に食いこむ装具に喘 (あえ) ぎ、
泥濘 (でいねい) に膝 (ひざ) を没し、倒れたりして、泥人形よろしく金山衛を通り、
唐子浜で露営することになりました。
私は半張りの破れかかった軍靴をどたばた言わせつつ、道路の警戒を命ぜられ、
部落の端に行き、何か言いたそうな兵隊の顔を無視して、わざと命令的に警戒区署を定めていた。
実は私も泣きたいくらいでした。そのときのことです。
特に監視すべき方向はこの方向と道路上を指すと、指したところに忽然 (こつぜん) と姑娘が現れて、
窈窕 (ようちょう) たる姿態が楚々として、この方にくるじゃありませんか。誰だって面喰います。
付近は敗残兵も正規軍も、うようよしている。そこを敵の方からくるんです。
〝こやつ、てっきり〇〇〇だ〟
素早く区署を済まし、泥人形は遮蔽 (しゃへい) には持ってこいと伏せておりました。
身近にきて、兼ねて手筈の通り、私が一人立ち上がって、通せんぼをして誰何 (すいか) しますと、
一寸たじろいだ風でしたが、
「日本の兵隊さんね」、流暢な日本語なんです。
また面喰った。 兵隊もぞろぞろ集まってくる。
改めて面 (おもて) を見ると、歳の頃二十七、八、戦禍に災いされたのか、
心持ち擦 (す) れてはいるが、明眸皓歯 (めいぼうこうし) の部類に編入される代物なのです。
聞いて見ると、上海から逃げてきたけれど、皆殺されたり、はぐれたりして、
これは支那軍の方にいると危ないと思い、やってきたという。
「日本語はどこで覚えた」 と聞くと、
「長崎に四年、活水女学校を卒業して、上海の日本人書店に雇われていた」 と言います。
何はともあれ、まずこれへと、久し振りに柔らかい日本語を聞いた感傷も手伝って、
中隊長殿のところに連れて行きました。
いろいろ調べられるけれども臭いところは無いらしい。
ちょうど中隊に通訳がいなくて、何かと不自由していたこととて、
通訳代わりに使うことにしましたが、炊事をさせると日本人の味の好みを心得て、
乙なところを見せる。所帯馴れしているから、兵隊にほどよく愛矯をふりまく。
姉さん、おっかさん、婆さん、好みの愛称をつけて、皆で大切にしたものです。
ときには宵待草や荒城の月を聞かせてくれました。毎日の行軍も宿営も楽しみでした。
和気藹々 (わきあいあい) として夕方の団欒 (だんらん) の紅一点、和やかなものです。
しかし相手は柳腰 (りゅうよう) の支那女性、南京へ南京への猛迫撃に、我々に伍 (ご) して行ける筈がない。
中隊長殿が見かねて上海の方へ帰されたが、その日の行軍のけだるいこと、
道の遠いこと、足の重いこと、皆、考えこんでしまっていました。
昨日までは中隊の先頭に婀娜 (なまめかしい) しい奴が、颯爽 (さっそう) と秋風に吹かれながら、中支の荒野を馳けっていた。
「おいきついなあ」「うん」 返事も上っすべり。誰かが思い出し風に、
「変なこと言いっこなしよ、皆兄弟じゃないか」
と彼女の口真似をすれば、とたんに爆笑が湧くが、またもとのむっちりした重苦しい空気に帰る。
それに耐えかねた兵が 「宵待草のやるせなさ」、彼女の得意な歌だ。
翌日からはまたもとの何もなかったようになって、一路南京へと、ほとんど小走りで行きました。
陣中の紅一点、あの日のあのときのことどもが未だに思い出に残っています。
これは メッセージ 96 (kireigotowadame さん)への返信です.
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体験談1 危うし支那の第五列
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/30 18:42 投稿番号: [96 / 2250]
ここからは東中野修道
編著 『1937南京攻略戦の真実』
小学館文庫
によっています。
これは、もともとは靖国神社の偕行文庫にある、
昭和15年11月編纂の 『第六師団
転戦実話
南京編』 上下二巻の藁半紙刷り本を
東中野氏が文庫本として出されたものです。
そういうわけで、原本は靖国神社にあるようです。
ここでは、名前がイニシャルになっていますが、その理由は、
執筆者から掲載の許可を得るため、本人または関係者の連絡先確認に努力したけど、
65年前のことで、戦友会も解散していて、多くの人に連絡できず、
仕方なくイニシャル表記にしたという話です。
この本は戦時中に書かれているため、戦後の思想的影響は入っていません。
76〜77p
危うし支那の第五列−
歩兵第四十七連隊 (大分)
第二大隊第六中隊
S伍長
上陸してから尖兵 (せんぺい) 小隊として追及に移りました。金山の街に入りかけたときです。
犬一匹おらんと想像した街から、年の頃二十五六の姑娘 (クーニャン) が出てきます。
そして私たちを見ても別に逃げようともしないのです。
小隊長殿が呼びにやられて、「敵はいないか」 と訊(たず) ねられると、
「二日前に日本軍が通ったから、誰もおらん」 と答えます。
私たちが 「五師団だろうか」 などと話しながら行こうとしますと、小隊長殿が、
「待て、警戒を怠るな」
と注意し、
「尖兵擲弾筒 (てきだんとう) を加え、軽機は木の根で援護」
と命じて行かれました。
そこはちょうど街の入口で、二〇メートルほど左に畠があり、竹薮 (たけやぶ) があって、
そこに一軒家がありました。
尖兵が街に入り終えた頃、突然その一軒家から猛射してきました。
案の定とすぐ配備につき、擲弾筒を射ちますと、二三べんで動揺しはじめ退却しました
が、すんでのところで中国第五列の餌食になるところでした。
注:
上陸とは
杭州湾上陸の事
金山とは
金山衛という街のこと
これは メッセージ 95 (kireigotowadame さん)への返信です.
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焼却・皆殺し命令は事実か?
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/29 18:53 投稿番号: [95 / 2250]
秦郁彦著 『南京事件』 71pに、宮下手記として
《「わが柳川兵団は上陸後、(1)
民家を発見したら全部焼却すること、
(2) 老若男女を問わず人間を見たら射殺せよ」との命令を受けた》
というのがあります。また
《第6師団歩45連隊長だった竹下義晴氏が、火の始末を注意した所、部下の大隊長から
「中支を全部焼き払えと軍司令官が言っているのを新連隊長は知らないのですか」と反問された》
という話も載っています。
さて、では、こんな命令は本当にあったのでしょうか?
少なくとも、参謀本部は出していません。杭州湾上陸作戦の出陣の前に、逆の命令をだしていますから。
「60
第十軍の編成」
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb
faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=60参照
また、児島襄著『日中戦争4』162pには
《司令官柳川中将は、独断進撃を発起するにあたって、とくに、この日、次のような訓示を下達した。
「……窃 (ひそか) ニ聞ク所ニ拠レバ、最モ忌ムベキ婦女暴行、金品強奪ノ犯行二、三ニ止マラズト謂フ。
斯(かく) テハ集団ノ戦績ヲ汚辱シ、皇軍ノ威武ヲ涜(けが) スモノニシテ、寔(まこと) ニ痛嘆ニ湛ヘズ。
隷下将兵克ク自省自戒シ、軍紀厳正益々士気ヲ振起シ、各々其ノ任務ニ邁進スベシ」》
とあり、皇軍の名誉を汚すなと訓示しています。尚、児島氏は、この続きに
《実際には、その種の非行例は数件にとどまっていたが、実直な性格の柳川中将としては、
一例もみすごす気にはなれず、全軍に戒言したのである。》
と補足しています。
略奪、婦女暴行すら戒めている人が、「皆殺し・焼却命令」?
当時の第6師団に従軍していた、毎日新聞の五島広作記者の証言を見てみましょう。
阿羅健一著 『「南京事件」 日本人48人の証言』 小学館文庫60〜61p
《五島氏は当時、大阪毎日新聞の記者として熊本支局に勤めており、
第六師団の北支派遣とともに第六師団に従軍することになった。
だから第六師団の従軍記者であり、南京攻略戦だけでなく、北支の保定・正定戦、
さらに杭州湾上陸作戦にも従軍している。
―
五島さんは第六師団のどの辺で従軍取材していましたか。
「いつも師団司令部にいました。北支に行く時から一緒だったので、
谷師団長にかわいがられまして、作戦会議もみておけ、
と谷中将の命令で藤原武参謀が呼びにくることもありました」
―
崑山前後、軍の方から、中国人は女・子供にかかわらずすべて殺すべし、
という命令があったといいますが……。
「そんなことはありません。
私は師団の司令部にいて、師団長と行動を共にすることが
多かったのですが、聞いたことはありません。
東京裁判があってからの作り話ではないでしょうか」
―
第六師団は北支で感状をもらってないから、中支で残虐行為をやったと言う人もいますが……。
「はじめて聞いた話です。第六師団でそんなことはありませんでした。
先ほどの話同様、谷中将が処刑されてからの作り話でしょう。
戦後、中国の言い分に合わせた話がよく作られています」》
と言っています。
どうも、第六師団長もそのような命令は出していないようです。
次回は、杭州湾上陸時の兵隊たちの体験談です。
これは メッセージ 93 (kireigotowadame さん)への返信です.
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海軍の黄浦江水路啓開作戦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/28 16:47 投稿番号: [93 / 2250]
11月11日に一応
南市は制圧された事になっていますが、
まだまだ、敵兵は残存し攻撃を仕掛けています。
8月12日に中国軍は、南市と仏租界との境界線前面江上に汽船、大型ジャンク等を沈没させ、
又は係留し、航路を閉塞していました。
そこで、海軍はこれを取り除く作業にかかります。
まず、閉塞線上に置かれている中国船「中和」の捕獲にかかりました。
ところが、近付くと、江岸から機銃攻撃を受けるのです。
戦史叢書『中国方面海軍作戦〈1〉』448〜449p
10日20:00、「小鷹」は「出雲、安宅、栗、栂、朝日」派遣の捕獲隊員(川添亮一中尉以下30名)を
乗せて出港、20:20、二見支援の下に閉塞線に進出、「中和」に横付けし、これを捕獲した。
「中和」には敵兵はおらず、船内調査の結果異常はなかった。
「小鷹」は21:07以降敵機銃の集中射撃を受け、人員、船体にかなりの損害を生じた。
22:55、「小鷹」は捕獲隊を残したまま「中和」の横付けを離した。
捕獲隊員は「小鷹」出港後も終夜、間欠的に射撃を受けた。
11日朝「小鷹」は被害修理のため下江した。同日、安田支隊の山砲四門は江岸に進出、
南市敵陣を砲撃し、「二見、保津、比良」はこれに協力した。
11:45、第一港務部長(朝日艦長宮里秀徳大佐兼務)の指揮する沈船処分特別作業隊乗艇の
朝日水雷艇は「中和」に至り、捕獲隊に弾薬、糧食を補給したが、被弾し進退の自由を失い、
12:10、出雲水雷艇に救助された。
12:16、右特別作業隊の住吉丸、楓丸は沈船下流に係留し航路を閉塞する大型ジャンクの除去作業を開始、
南市から射撃する敵と交戦しつつ、13:50作業を完了した。
14:15、特別作業隊は「中和」撤去作業を開始せんとしたが、敵の抵抗が激しいため
作業進ちょくせず、一たん中止して引揚げ、「中和」との交通も遮断された。
12日朝から「比良、保津、二見」は安田支隊と協力、南市江岸の敵を制圧し、
15:30ころ敗退却の兆しを認めた。
16:30、「栗」は閉塞線下流着、掩護任務に就き、特別作業隊は「中和」に赴き
引出し準備を完成し、17:25住吉丸で「中和」引出しに成功、水路の一部を啓開し、
直ちに付近の掃海を開始した。一方、「保津、比良」聯合陸戦隊は、
17:50南市ネイ紹商輪公司及びその付近一帯を占領した。
12日18:20、特別作業隊の掃海隊は閉塞線付近の掃海を開始し、20:50終了した。
13日07:40〜15:00、掃海隊は閉塞線付近航路を掃海し、
機雷三個を拘束、諸岡安一少佐指揮の爆破隊の協力を得て、うち二個を処分した。
07:30「保津、比良」の陸戦隊は南市を撤退し、「栗、栂」聯合陸戦隊と交代した。
08:05「保津、比良」は保津艦長指揮の下に上海を出港、閉塞線を通過、
20:00閔行着、敵巡洋艦四隻を捕獲し、「保津」は更に遡江、
12:28、得勝港(上海上流二〇浬)に達し、水路を啓開した。
この日、「勢多」は楓丸と共に上海発、閔行下流までの陸軍の糧食、弾薬の輸送に協力し、
「栗、熱海」は閉塞線付近の中国舟艇抑留に従事した。
14四日、聯合掃海隊(指揮官諸岡少佐)が編成され、啓開水路上流の掃海に従事した。
この日以降爆破又は拘束処分した成果は、14日機雷二個、水中障害物一個、
15日機雷二個、16日機雷二個、17日機雷二個、水中障害物一個、18日水中障害物一個であった。
・・・
16日、第11戦隊聯合陸戦隊は南市占領地区を陸軍に引継ぎ撤退した。
これは メッセージ 90 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 追記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/27 18:59 投稿番号: [91 / 2250]
>洗脳状態を避けるためには、三段論法などの論理学を使うことです
あなたに使って下さい。
すでに使っているのなら、その方法は効き目がないということです。
あなたの歴史観、いや、ものの見方は、まず結論ありきで途中経過をすっ飛ばし、妄想が基準になっています。
>日本はどういうつもりで、日清戦争とか日露戦争とか起こしたのですか。
>徳川が豊臣のやることにいちゃもんをつけて抹殺したのと同じではないですか。
などのように。
当時、日本はアジアの小国で、ロシアは世界の超大国でした。
上の問は、日本が戦争前から、清国やロシアより強大国であったかのような妄想を前提にしています。
これは、事実と違います。
日本が勝った結果、相手が転落したのです。
順序が逆なのです。
あなたの理屈は
後に起こった事を過去に適用しています。
だから妄想というのです。
こういうバカな理屈を吹き込む人もいるようですけど。
あなたは、その犠牲者でしょう。
あなたは、私が、洗脳されていると思いたいのでしょうが、あいにくと、
私は、誰にも、教えを受けていませんし、誰にも吹き込まれてはいません。
私も、若いころは、「日本は軍国主義で、侵略していた」と信じていました。
もう40年以上も前ですが、劉少奇が国家主席だったころ、新聞に
人民日報の記事の転載で
「7.7事変は劉少奇率いる救国抗日学生の一隊が決死の覚悟で引き起こしたものである。・・・結果として、日本は滅び、蒋介石は台湾に逃げ、欧米の植民地は一掃された。最後に勝利したのは我々の方であった」
とありました。
これを読んでから、徐々に、歴史に疑問を持つようになったのです。
当時は左翼全盛で、今のような事を言うと、殺されかねない時代でした。
誰が、吹き込めるのです。
私は、データから、判断します。
さきに結論ありきではありません。
あなたに、説明しても無駄だから、ハイ
おしまい。
妄想にひたりすぎないように。
お大事に
これは メッセージ 88 (Valve1000 さん)への返信です.
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南市攻略戦2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/27 18:01 投稿番号: [90 / 2250]
〔昭和12年11月12日
東京日日〕
〔南市にて十一日平栗、鈴木両本社特派員発〕
皇軍は十一日、ついに上海城内入口に日章旗を高く掲げ、
ここに上海周辺の敵兵を完全に叩きつぶし、最後の止めを刺した。
思えば八月二十三日、先遣部隊の敵前上陸以来聖戦七十余日、文字通り血戦、
奮闘あったが、ヨーロッパ大戦の休戦日であるこの日、皇軍上海城入りは全く意義深いものがある。
南市及び城内の支那人に徹底的覚醒の鞭を振るった南市攻撃は、国際環視の下に
十一日午後零時二十分から開始された。
二十分間機関銃制圧射撃が行われた後、松井(健)部隊、島部隊将兵が日暉路前のクリーク一帯に煙幕を張った。
神風というか、この日の風向は初め東南の風であったが、集中射撃を行うころから
西南の風に一変、白煙濠々と敵陣地一帯を蔽うた。
この時とばかり敵の機関銃猛射を物ともせず、川並部隊、松本部隊の決死隊が
普家宅東方湾曲地点に架設された軽渡橋を渡って突撃、
松野中尉の一隊、中村見習士官の一隊が零時三十八分、その地点より、北方二百メートルの
個所より佐藤、榊原○隊等陸続と渡河して敵兵を一挙に粉砕しつつ、
その第一線は午後一時、すでに呂斑路に進撃した。
川並部隊の進撃に伴って鷹森部隊も黄浦江岸よりクリークを渡って、
手向かう敗残兵を蹴散らしつつどんどん進撃、
かくて夕刻までに川並、鷹森両部隊は上海兵工廠、江南造船所、上海地方法院、
民国審判所、滬杭甬鉄道南停車場、大同大学その他の重要建物を次々と占拠し、
その第一線は城内に至って日章旗を掲げた。
南市及び城内の一般支那避難民は豊浜路以北の地域に密集して避難中で、
我が皇軍部隊は善良な住民のため特に城内への進撃を差し控えた。
この日の敵前渡河は仏祖界を横に控え、各国人観戦の下に堂々と行われたもので、
仏、伊、英など各国の警備兵も皇軍将兵の勇敢なる様を眼のあたりに見て讃嘆した。
これは メッセージ 89 (kireigotowadame さん)への返信です.
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南市攻略戦1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/27 17:56 投稿番号: [89 / 2250]
塚本誠著『ある情報将校の記録』213〜220pより
《十一月八日夜北站方面に激しい銃砲声が起こる。・・・
その頃、南市の敵を降伏させる工作が軍特務部の楠本大佐の手で行なわれており・・・
軍特務部とは、占領地区軍政を担当するもので、
占領地区の拡大とともに上海武官室がこれに改編されたものである。・・・
十一月九日、私は部下若干名を率い自動車で南市へ向かった。
途中蘇州河の鉄橋は爆破されていて工兵隊が修築中なので車を捨てて前進した。
あとから追撃隊の尖兵が来たので、連絡すると歩六五(岐阜)の青山中隊とわかった。
これと同行して進むと十数名の敵を発見し尖兵中隊は停止して機関銃を馬からおろそうとしている。
私は「敗残の敵だ。
突っ込んで行けば逃げる」といって、いっしょに突撃すると案の定逃げてしまった。
その時敵情捜索の友軍戦車二台が来たので要務を告げて私はその先頭戦車に乗って前進をつづける。
竜華飛行場を偵察の後、敵の淞滬警備司令部のあった建物の前に来た。
ここは警備司令楊虎のいたところで大前軍曹、熊野通訳はここで銃殺された疑いもある。
私は下車して建物の中を一巡したが手懸りになるようなものは見当たらなかった。
南市の敵が撤退を始めたという情報はなかったので楠本大佐の工作の成果は疑わしい。
やがて日暉クリークの橋が見える。
そこを渡れば南市だ。戦車がその橋にさしかかろうとする一瞬、大爆音と共に白煙が戦車の展望孔をとざした。
敵が、あわてて地雷に点火してしまったらしく、私の命は助かった。
敵弾が戦車の鋼板にはね返る。対岸には敵の陣地があることがわかった。
私は偵察の目的を達した。戦車長を促して竜華に向かって後退
・・・
南市無血攻略の工作も成功せず、敵は日暉クリークに沿う堅固な陣地に拠って
上海戦最後の抵抗を行なうことが明らかになった。
敵の右翼の拠点はフランス租界の境界線上に設けられているので、この陣地攻撃では
わが銃砲弾が租界内に流れて国際問題が起こる公算が極めて大きい。
その上、南市には多数の避難民がいるだろうから、その取扱いいかんでは人道上の
問題として列国の批判の的となることも予想された。
わが第一線歩兵部隊は岐阜の川並部隊で、呉淞上陸以来三ケ月、
いま追撃戦に移ったのであるが、上海の特殊事情には暗い。
これらの事情を攻撃部隊に配慮せよと要求することは無理であるから、それを未然に防ぐことこそ上海憲兵隊の戦闘任務であると私は考えた。
そこで岡村大尉と相談して、岡村の租界分隊と私の特高課から、現地事情に精通する
下士官以下約二十名を私が指揮して攻撃部隊の第→線に随伴することにした。
十一日、南市攻撃が始まった。集中砲撃が終ると、歩兵第六十八聯隊の攻撃開始。
憲兵もこの第一線について日暉クリークを渡河する。
案の定、敵はフランス租界を背にしたトーチカから側射してくる。
私は中隊長のいる線まで進出して、歩兵部隊の射法を注視していた。・・・
払暁、歩兵部隊に先んじて市街に進出すると、敵影を認めないばかりか住民はすべて
南市北部フランス租界に近い地区に集められ、その避難民区は、その周囲にフランスの小旗を掲げて標示されている。
この地区に近づくと、背広に巻脚絆姿の日本人が挨拶した。上海総領事館の田中正一領事である。
田中さんの話によると、この避難民区は、カトリックの神父でジャキノーという
フランス人の志によって設けられ、「ジャキノー避難民区」と呼ばれているという。
いい時に田中さんに会ったものだ。田中さんの応援で、フランス側との折衝は円満に進んだ。
私は一応、南市一帯を憲兵に巡察、検索させたのち、長以下数名をもって
南市憲兵分駐所を開設させる処置をとり、主力の憲兵はその所属に復帰させた。
南市の掃蕩が終った十二日の夕方、路上で飯盒メシを食べていた兵隊に声をかけると、
「上陸以来初めて電灯の見えるところで御飯が食べられました」と、しんみり答えた。》
これは メッセージ 86 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/89.html
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