南市攻略戦1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/27 17:56 投稿番号: [89 / 2250]
塚本誠著『ある情報将校の記録』213〜220pより
《十一月八日夜北站方面に激しい銃砲声が起こる。・・・
その頃、南市の敵を降伏させる工作が軍特務部の楠本大佐の手で行なわれており・・・
軍特務部とは、占領地区軍政を担当するもので、
占領地区の拡大とともに上海武官室がこれに改編されたものである。・・・
十一月九日、私は部下若干名を率い自動車で南市へ向かった。
途中蘇州河の鉄橋は爆破されていて工兵隊が修築中なので車を捨てて前進した。
あとから追撃隊の尖兵が来たので、連絡すると歩六五(岐阜)の青山中隊とわかった。
これと同行して進むと十数名の敵を発見し尖兵中隊は停止して機関銃を馬からおろそうとしている。
私は「敗残の敵だ。
突っ込んで行けば逃げる」といって、いっしょに突撃すると案の定逃げてしまった。
その時敵情捜索の友軍戦車二台が来たので要務を告げて私はその先頭戦車に乗って前進をつづける。
竜華飛行場を偵察の後、敵の淞滬警備司令部のあった建物の前に来た。
ここは警備司令楊虎のいたところで大前軍曹、熊野通訳はここで銃殺された疑いもある。
私は下車して建物の中を一巡したが手懸りになるようなものは見当たらなかった。
南市の敵が撤退を始めたという情報はなかったので楠本大佐の工作の成果は疑わしい。
やがて日暉クリークの橋が見える。
そこを渡れば南市だ。戦車がその橋にさしかかろうとする一瞬、大爆音と共に白煙が戦車の展望孔をとざした。
敵が、あわてて地雷に点火してしまったらしく、私の命は助かった。
敵弾が戦車の鋼板にはね返る。対岸には敵の陣地があることがわかった。
私は偵察の目的を達した。戦車長を促して竜華に向かって後退
・・・
南市無血攻略の工作も成功せず、敵は日暉クリークに沿う堅固な陣地に拠って
上海戦最後の抵抗を行なうことが明らかになった。
敵の右翼の拠点はフランス租界の境界線上に設けられているので、この陣地攻撃では
わが銃砲弾が租界内に流れて国際問題が起こる公算が極めて大きい。
その上、南市には多数の避難民がいるだろうから、その取扱いいかんでは人道上の
問題として列国の批判の的となることも予想された。
わが第一線歩兵部隊は岐阜の川並部隊で、呉淞上陸以来三ケ月、
いま追撃戦に移ったのであるが、上海の特殊事情には暗い。
これらの事情を攻撃部隊に配慮せよと要求することは無理であるから、それを未然に防ぐことこそ上海憲兵隊の戦闘任務であると私は考えた。
そこで岡村大尉と相談して、岡村の租界分隊と私の特高課から、現地事情に精通する
下士官以下約二十名を私が指揮して攻撃部隊の第→線に随伴することにした。
十一日、南市攻撃が始まった。集中砲撃が終ると、歩兵第六十八聯隊の攻撃開始。
憲兵もこの第一線について日暉クリークを渡河する。
案の定、敵はフランス租界を背にしたトーチカから側射してくる。
私は中隊長のいる線まで進出して、歩兵部隊の射法を注視していた。・・・
払暁、歩兵部隊に先んじて市街に進出すると、敵影を認めないばかりか住民はすべて
南市北部フランス租界に近い地区に集められ、その避難民区は、その周囲にフランスの小旗を掲げて標示されている。
この地区に近づくと、背広に巻脚絆姿の日本人が挨拶した。上海総領事館の田中正一領事である。
田中さんの話によると、この避難民区は、カトリックの神父でジャキノーという
フランス人の志によって設けられ、「ジャキノー避難民区」と呼ばれているという。
いい時に田中さんに会ったものだ。田中さんの応援で、フランス側との折衝は円満に進んだ。
私は一応、南市一帯を憲兵に巡察、検索させたのち、長以下数名をもって
南市憲兵分駐所を開設させる処置をとり、主力の憲兵はその所属に復帰させた。
南市の掃蕩が終った十二日の夕方、路上で飯盒メシを食べていた兵隊に声をかけると、
「上陸以来初めて電灯の見えるところで御飯が食べられました」と、しんみり答えた。》
《十一月八日夜北站方面に激しい銃砲声が起こる。・・・
その頃、南市の敵を降伏させる工作が軍特務部の楠本大佐の手で行なわれており・・・
軍特務部とは、占領地区軍政を担当するもので、
占領地区の拡大とともに上海武官室がこれに改編されたものである。・・・
十一月九日、私は部下若干名を率い自動車で南市へ向かった。
途中蘇州河の鉄橋は爆破されていて工兵隊が修築中なので車を捨てて前進した。
あとから追撃隊の尖兵が来たので、連絡すると歩六五(岐阜)の青山中隊とわかった。
これと同行して進むと十数名の敵を発見し尖兵中隊は停止して機関銃を馬からおろそうとしている。
私は「敗残の敵だ。
突っ込んで行けば逃げる」といって、いっしょに突撃すると案の定逃げてしまった。
その時敵情捜索の友軍戦車二台が来たので要務を告げて私はその先頭戦車に乗って前進をつづける。
竜華飛行場を偵察の後、敵の淞滬警備司令部のあった建物の前に来た。
ここは警備司令楊虎のいたところで大前軍曹、熊野通訳はここで銃殺された疑いもある。
私は下車して建物の中を一巡したが手懸りになるようなものは見当たらなかった。
南市の敵が撤退を始めたという情報はなかったので楠本大佐の工作の成果は疑わしい。
やがて日暉クリークの橋が見える。
そこを渡れば南市だ。戦車がその橋にさしかかろうとする一瞬、大爆音と共に白煙が戦車の展望孔をとざした。
敵が、あわてて地雷に点火してしまったらしく、私の命は助かった。
敵弾が戦車の鋼板にはね返る。対岸には敵の陣地があることがわかった。
私は偵察の目的を達した。戦車長を促して竜華に向かって後退
・・・
南市無血攻略の工作も成功せず、敵は日暉クリークに沿う堅固な陣地に拠って
上海戦最後の抵抗を行なうことが明らかになった。
敵の右翼の拠点はフランス租界の境界線上に設けられているので、この陣地攻撃では
わが銃砲弾が租界内に流れて国際問題が起こる公算が極めて大きい。
その上、南市には多数の避難民がいるだろうから、その取扱いいかんでは人道上の
問題として列国の批判の的となることも予想された。
わが第一線歩兵部隊は岐阜の川並部隊で、呉淞上陸以来三ケ月、
いま追撃戦に移ったのであるが、上海の特殊事情には暗い。
これらの事情を攻撃部隊に配慮せよと要求することは無理であるから、それを未然に防ぐことこそ上海憲兵隊の戦闘任務であると私は考えた。
そこで岡村大尉と相談して、岡村の租界分隊と私の特高課から、現地事情に精通する
下士官以下約二十名を私が指揮して攻撃部隊の第→線に随伴することにした。
十一日、南市攻撃が始まった。集中砲撃が終ると、歩兵第六十八聯隊の攻撃開始。
憲兵もこの第一線について日暉クリークを渡河する。
案の定、敵はフランス租界を背にしたトーチカから側射してくる。
私は中隊長のいる線まで進出して、歩兵部隊の射法を注視していた。・・・
払暁、歩兵部隊に先んじて市街に進出すると、敵影を認めないばかりか住民はすべて
南市北部フランス租界に近い地区に集められ、その避難民区は、その周囲にフランスの小旗を掲げて標示されている。
この地区に近づくと、背広に巻脚絆姿の日本人が挨拶した。上海総領事館の田中正一領事である。
田中さんの話によると、この避難民区は、カトリックの神父でジャキノーという
フランス人の志によって設けられ、「ジャキノー避難民区」と呼ばれているという。
いい時に田中さんに会ったものだ。田中さんの応援で、フランス側との折衝は円満に進んだ。
私は一応、南市一帯を憲兵に巡察、検索させたのち、長以下数名をもって
南市憲兵分駐所を開設させる処置をとり、主力の憲兵はその所属に復帰させた。
南市の掃蕩が終った十二日の夕方、路上で飯盒メシを食べていた兵隊に声をかけると、
「上陸以来初めて電灯の見えるところで御飯が食べられました」と、しんみり答えた。》
これは メッセージ 86 (kireigotowadame さん)への返信です.