入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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中国、遷都と南京守城を決める

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/07 18:59 投稿番号: [103 / 2250]
徐永昌の日記   11月15日

「11時、蒋介石が会議を招集、私が先着し、何応欽、唐生智、白崇禧、
○○ (判読出来ず。以下同じ)、劉斐が続いて到着。

この会議で、敵と交戦しながら、首都機能を長江上流に移転されることが決定した。
私は、作戦を中断することは出来ないが、急に臨んで、あわてふためくのは不可であると述べた。

会議後、何応欽は、銃弾を運ぶだけでも、準備が十日は必要だ。何故 (蒋介石は)
このことをもっと早くいってくれないか、と不満げな口ぶりだった。


16日

十時、何応欽宅にて、各軍事機関の移転を決定。何応欽は細かく説明していたが、
一向に要領を得ず。十二時帰宅、四時半 (上海方面の) 兵力配置を調整した。

広東軍と貴州軍を左翼 (南京から見て左、つまり揚子江の側) に、広西軍、湖南軍を右翼
(太湖の南) に投入、左翼から中央軍を五、六軍団引揚げさせ、南京防衛に当られる方針。

六時から会議は再開。南京守城を決議。唐生智が司令長官となり、
三カ月ないし一年を守衛出来るだろう、と皆に期待される。

続いて汪精衛が政府機関を動かす方法について報告。
最後に蒋介石は〝抗戦既に三カ月経って、わが軍の死傷者は三十万人に達した〟と報告。

次いで、日本はドイツ、イタリアの国際勢力を背景とし (イタリアは、この日記の
書かれた約十日前、十一月八日に「日独防共協定」に加わって、日独への好意を示していた)、

わが国の方は、イギリス、アメリカ、フランス、ソ連の応援があるが (十一月から、
日本に対して非難決議を行うと期待されていた 「九カ国会議」 が、十一月二二日から

ベルギーのブリュッセルで開かれており、十五日は、まだその会議が進行している最中だった)、
まだ対立点も残されており、予断は出来ない。

そのためには、ねばり強い抗戦を続けなければならず(首都を重慶に移して   ―
日本は、重慶まで攻めてくることは出来ない)、

日本も戦いを止めるわけにはゆかず、これによって、国際情勢の変化も考えられる。
抗戦を続けるに当って一番大切なことは、持久戦に耐えられる民族精神を持つことである、という。

広東、広西、四川、○○、山東の五軍を比較してみると、広東、広西軍が最も勇敢で、
中でも広西軍は使いやすい。白崇禧(広西)を副参謀にしてよかった。


19日

  九時、嘉興が占領されたことを知る
(日本軍発表によると、嘉興を占領したのは十一月十九日)。

伝聞によれば、敵はあまり労せずして占領したとのこと。
常州の顧祝同から電話あり、わが軍は既に無錫、江陰の線まで後退の由。

何応欽、白崇禧など連れ立って蒋介石の許を訪れ、現状を見るに、長期間の (南京) 守城は
(戦力を消耗するので) 必要なく、江陰の線で何日か持ちこたえればよし、と進言。

何応欽は、軍政部所管の物資、兵器を運ぶのに、百本の列車が必要と発言、
蒋介石は、嘉興、蘇州の失陥をきいても、顔色一つ変えなかった。

(鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 218〜219p)



この中で、蒋介石は 「日本はドイツ、イタリアの国際勢力を背景とし」 と言っているが、
この言い方はおかしい。

ドイツ軍事顧問が、現に、中国軍を指揮し助けている。
「敵の味方」発言は、恩知らずにも、ほどがある。

ドイツは九カ国条約会議に参加しなかっただけで、イタリアは日本糾弾宣言案に反対しただけ。

ドイツが不参加なのは当然であろう。
この戦争は中国がしかけた事を、内部から知っているのだから。

日本が侵略しているとは、口が裂けても言えないし、中国が悪いとも、立場上いえない。


日独伊防共協定が敵とするのは共産主義であって中国ではない。
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