侵略国日本は国際社会の前科者
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尾崎秀実という人物のつづき8
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 17:50 投稿番号: [8138 / 8458]
関係は先の方々が説明していますので、影響だけ説明します。
(以下は全て朝日新聞退社し首相嘱託になった後のことですが)
まず、中央公論に中国国民党との徹底抗戦を説いて、世論を煽ります。
これの影響で、陸軍にまで同じ論を述べる陸軍報道部長まで出て、シンパが増えていきます。
更に、内閣、陸軍共に中国国民党との和平を合意していたにもかかわらず、直前で板垣陸相にでたらめを吹き込み、中国国民党と和平をする直前にひっくり返して、日中戦争を泥沼に引きずり込みました。
この当時、国民党と共産党は戦力比60:1ですが、この後の戦争でほぼ互角になるまで国民党は摩耗し、戦後共産国家である今の中国ができる下地を作りました。
また、尾崎とゾルゲが日中戦争の布陣と対ソ戦をせずに南下する方針をすっぱ抜いてスターリンに伝えることで、極東の戦車隊を全て対ドイツ戦へつぎ込み、結果としてドイツに勝利します。
つまり、第二次世界大戦の日独の敗北に大きく影響したと言えます。
勿論、敗北は尾崎たちだけのせいではありませんが、尾崎らの行動がなければ全く違う戦後になっていたでしょう。
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尾崎秀実という人物のつづき7
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 17:41 投稿番号: [8137 / 8458]
あるブログより引用。
あまり詳しくはないのですが。少し事実関係は違います。尾崎秀実は朝日新聞上海特派員であった。昭和12年7月シナ事変の勃発よりコミンテルン(ソ連共産党中央委員会)極東支局の指令で上海にあらわれたドイツ人リヒャルト・ゾルゲに日本の作戦プランを内通。尾崎は近衛内閣の嘱託として、また外務省や参謀本部の機関の東亜研究所の嘱託として、多数の情報・資料を入手できる地位にあった。それらは政界の最上層部の口から、またドイツ大使の下にあった日本の軍事機密、政治プランがゾルゲを通じてコミンテルンに筒抜けであった。近代日本の存亡の岐路の時期のシナ事変から大東亜戦争の最高国家機密がすべてソ連に筒抜けであった。日本政府はシナ事変以降不拡大を方針を採ったが、南京攻略の折、国民党蒋介石と交渉。不成功で「国民政府を相手とせず」の声明。尾崎は「南方諸民族解放」を唱え、シナ事変を日米戦争へ拡大せんとするコミンテルンの謀略を行っていた。近衛内閣の「東亜新秩序建設」というスローガンは「共産主義的秩序」であった。日本政府と重慶国民党政府の和平を成立させないために南京に汪兆銘の新政権樹立させ蒋介石と対抗させた。日本は完全にコミンテルンに躍らされていたわけ。シナ事変の泥沼化から日米戦争へ拡大した裏には尾崎・ゾルゲの裏工作が働いていた。(資料:「抹殺された大東亜戦争」勝岡寛次、明成社)
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尾崎秀実という人物のつづき6
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 17:13 投稿番号: [8136 / 8458]
日本は南方への進撃に於ては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るではありませうがその後の持久戦により消耗が軈(やが)て致命的なものとなつて現はれ来るであらうと想像したのであります。
而も斯る場合に於て日本社会を破局から救つて方向転換乃至原体制的再建を行ふ力は日本の支配階級には残されて居らないと確信してゐるのであります。
◆ここに於て私の大雑把な対処方式を述べますと、日本はその破局によつて不必要な犠牲を払はされることなく立直るためにも、又英米から一時的に圧倒せられないためにも行くべき唯一の方向はソ連と提携し、これが援助を受けて、日本社会経済の根本的立て直しを行ひ、社会主義国家としての日本を確乎として築き上げることでなければならないのであります。日本自体のプロレタリアートの政治的力量も経験も残念ながら浅く、而も充分な自らの党的組織を持たないことのためにソ連の力に待つ点は極めて多いと考へられるのであります。
八、現下の世界情勢に対する見解について
◆しかしながら帝国主義国家の意図するところは正に以上の如きものであり、世界の再分割こそ一切の目的あつたとしても、この第二次世界大戦がそれらの主観的意図とはまったく別個の客観的な経過と結果を示すであらうことは、私たちのひそかに確信したところでありました。
◆以上の如き予想に基いた現実の形態と更にこれに対処する方式として私がしきりに描いたところは、次の如きものでありました。第一に、日本は独伊と提携するであらうこと。第二に、日本は結局英米と相戦ふに至るであらうこと。第三に、最後は我々はソ連の力を籍り、先づ支那の社会主義国家への転換を図り、これとの関連に於て日本自体の社会主義国家への転換を図ることでありました。
◆一応の南方進出体制を確立し得た六ヶ月以後には却つて日本に取つて不利な諸状勢が発展し始めるのではないか、その一は船舶の不足等に加重せられて戦時必需物資たる石油、鉄、その他食糧などの不足が問題となり来り、国内人心にもまた動揺が現はれるのではないかと考へ、更に、さなきだに脆弱なる日本の貨幣面に悪性インフレが見舞ふ可能性が軈て増大し繰るであらうと考へたのであります。
日本自身は私の以上の如き考へ方からすれば、頗る敗退の可能性を多く含んだ国といふことになるのであります。
◆私の立場から言へば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去つて英米の全勝に終るのでは甚だ好しくないのであります。万一かかる場合になつた時に英米の全勝に終らしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考へました。
此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考へたのでありまして、私は従来とても南方諸民族の自己解放を「東亜新秩序」創建の絶対要件であるといふことをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを籠めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張とも殆んど矛盾するところなく主張される点であります。
十、今事件を中心とする現在の心境について
◆勿論、私の行つてゐる如きことが猛烈な反国家的な犯罪であることは云ふまでもありません。従つて理論的には、その行動を是認しつつも時に具体的行動の後ろめたさを感じたことも否定出来ません。
私は常に露見、逮捕と云ふ如き場合の結果を自分の一個の死と結びつけて考へて居りました。「要するに死ねばいいのだろう」と云ふ点に一つの覚悟の基礎を置いて居たわけであります。
〜終わり〜
尾崎秀実は、1944年11月7日、ロシア革命記念日に処刑された。
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尾崎秀実という人物のつづき5
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 17:06 投稿番号: [8135 / 8458]
尾崎秀実「検事訊問調書」1941年
(筑摩書房『現代日本思想体系』第9巻「アジア主義」1963所収)
コミンテルンのスパイとして、近衛内閣の中枢で工作活動をしていた尾崎秀美は、1941年、真珠湾攻撃の直前に逮捕された。
戦果に日本中が沸き立っていた開戦2ヵ月後の1942年2月に、検事の訊問に答えた形式の「獄中供述書」は、その後の見通しをあまりにも正確に予測している。
日本がこの通りに敗戦するように、十年以上も身分を隠して工作してきたので、当然だろう。「大東亜戦争とスターリンの謀略」と同様、重要部分のみ抜粋した。
一、コミンテルン並に日本共産党に対する認識について
◆コミンテルンは此の目的実現の為革命の戦術戦略を規定し常に其の支部たる各国共産党を指揮統制してゐるのでありまして現に其の日本支部たる日本共産党に対しても昭和二年の所謂二七年「テーゼ」、昭和七年の所謂三二年「テーゼ」等其の他を以て日本に到来すべき革命の性質を規定し日本に来るべき革命はブルジョア民主主義革命で其の革命は急速にプロレタリア革命に転化するものとし或は革命の性質は急速にプロレタリア革命に成長するブルジョア民主主義革命なりとして、天皇制の打倒をスローガンとすることを規定して居ります。
従つてコミンテルンは世界革命の一環として我国に於ても共産主義革命を遂行して我国体を変革し、私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し此の過程を通じて共産主義社会を実現せんとするものであることは勿論であります。
三、ゾルゲ諜報団の本質及目的任務について
◆吾々のグループの目的任務はゾルゲから聞いた訳ではありませぬが私の理解する所では広義にコミンテルンの目指す世界共産主義革命遂行の為日本に於ける革命情勢の進展と之に対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類の情報並びに之に関する正確なる意見をモスコーに諜報する事にあり、狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要にして其の支柱たるソ連を日本帝国主義より防衛する為日本の国内情勢殊に政治経済外交軍事等の諸情勢を正確且つ迅速に報道し且つ意見を申し送つて、ソ連防衛の資料たらしめるに在るのであります。
従て此の目的の為には凡ゆる国家の秘密をも探知しなければならないのでありまして、政治外交等に関する国家の重大な秘密を探り出す事は最も重要な任務として課せられて居るのであります。
七、第二次世界戦争から世界共産主義革命への見通しについて
◆私はこの第二次世界戦争の過程を通じて、世界共産主義革命が完全に成就しない迄も決定的な段階に達することを確信するものであります。
その理由は、第一に世界帝国主義相互間の闘争は結局相互の極端なる破壊を惹起し、彼等自体の現存社会経済体制を崩壊せしめるに至るであろうと云ふことであります。
(中略)敗戦国家に於ては第一次世界大戦の場合と同様プロレタリア革命に移行する可能性が最も多く、又仮令一方が残つた場合でも戦勝国は内部的な疲弊と敵対国の社会変革の影響とに依つて社会革命勃発の可能性無しとしないのであります。
◆第二には、共産主義国家たる強大なソ連邦の存在してゐる事実であります。私はソ連は飽くまで帝国主義諸国家間の混戦に超然たるべきものであると考へ、その意味に於てソ連の平和政策は成功であると考へてゐたのであります。
対ソ連攻撃の危険性の最も多い日本及ドイツが前者は日支戦争により、後者は欧州戦争により、現実の攻撃可能性を失つたと見られた時、私は以上の見通が益々確実なものとなつたことを感じたのであります。
◆然らば日本に於ける革命情勢の進展を如何に予想したかと云ふ点について述べると、由来日本は帝国主義国家として最も特徴ある強力なる国家の一つではありますが、その資本主義経済の体制は決して充実した強力なものとは云ひ得ず、寧ろ甚しく不均衡であり、全体としては脆弱性を持つてゐると云ふことが出来るのであります。(中略)
私の秘かに予想した所では、第二次世界戦争はその過程の裡に於て社会経済的に脆弱なる国家程最も早く社会的変革に遭遇すべきものであるから、日本も亦比較的速に斯る経過をとるであらうと考へたのであります。
◆これを最近の段階の現実に照応せしめて説くならば、日本は結局に於て英米との全面的衝突に立到ることは不可避であらうことを夙に予想し得たのであります。
勿論日本はその際枢軸側の一員として立つことも既定の事実でありました。此の場合日本の勝敗は単に日本対英米の勝敗によつて決するのではなく枢軸全体として決せられることとなるであらうと思ひます。
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尾崎秀実という人物のつづき4
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 16:41 投稿番号: [8134 / 8458]
戦後、石原は満州事変を引き起こして日本を国際的に孤立させ、大東亜戦争(支那事変と太平洋戦争)へ導いたという史観が常識になった感がありますが、これは大きな間違いです。リットン調査団、国際連盟は満州事変について批判しつつも多分に同情を示し、日本を侵略国とは認定せず、いかなる対日制裁も実行しなかったし、対日最強硬派のアメリカ国務長官スチムソンすら日本に九カ国条約と不戦条約に基づく警告を行っただけで、アメリカは満州事変に干渉しないことを宣言しました。支那大陸に権益を持つ欧米は、支那が無秩序状態にあり、邦人居留民の生命財産が著しく脅かされていた事を知悉していたからです。
日本は国際連盟から脱退する必要などまるでなかったのです。また日本の国際連盟脱退後、英米では満州国の大発展を目の当たりにして満州国を承認すべきであるという声が挙がったし、蒋介石は、昭和11年北支を視察した石原に彼の東亜連盟構想に賛同することを表明し、昭和13年春の孔祥煕工作において日本の満蒙に関する要求を原則的に承認することを日本側に伝え、日中は全面和平の仮合意にまで達しています。満州事変、満州国建国は日本を国際的に孤立させてはいないどころか、日本の国策として大正解でした。なぜなら之により、日本は地理的戦力の欠陥(縦深と資源の欠如)を克服し得るだけでなく、満州を重工業化し興安嶺黒竜江沿いに防衛線を構築し、満州朝鮮日本樺太より、ウラジオストーク(東方を征服せよ)を含む沿海州を包囲し、ソ連の極東攻略を完全に撃滅し得るからです。だからこそ、満州事変直後の1932年4月、コミンテルン(ソ連共産党国際部)はソ連の防衛と拡大を図るべく、尾崎秀美リヒャルトゾルゲからなる諜報謀略部隊を日本に潜入させたのです。満州事変〜大東亜戦争の正体は日ソ戦であり、日本史上屈指の天才、石原莞爾と尾崎秀美の戦いだったのです。石原は東亜連盟を構想し、対支英米戦に猛反対し、最終戦争による世界恒久平和をめざし、尾崎は東亜新秩序を構想し、支那事変解決を執拗に妨害し日本を対英米戦へ誘導し世界新秩序による世界恒久平和を夢想した。通州事件の直後、石原が主張した南京首脳会談開催を拒否した内閣書記長、風見章(戦後社会党左派に所属し、スターリンが創設したソ連のフロント組織世界平和評議委員会委員や日ソ協会副会長を務めた狂信的共産主義者)は尾崎の大親友で尾崎同様ソ連の工作員だった可能性が濃厚です。そして涙を流して日中全面和平を訴えた多田駿参謀次長の猛反対を押し切って和平交渉を打ち切り独断で「爾後、蒋介石を対手とせず」という第一次近衛声明を出し、参謀本部の早期和平方針を粉砕した近衛文麿自身もおそらく・・・。いずれその証拠を紹介しよう。
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尾崎秀実という人物のつづき3
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 16:23 投稿番号: [8133 / 8458]
評論家としては、中国問題に関して『朝日新聞』『中央公論』『改造』で論陣を張った。 1937年(昭和12年)年7月に盧溝橋事件が起こると、『中央公論』9月号で「南京政府論」を発表し、蒋介石の国民政府は「半植民地的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョワ政権」であり、「軍閥政治」であるとして酷評し、これにこだわるべきでないと主張した。また、9月23日付の『改造』臨時増刊号でも、局地的解決も不拡大方針もまったく意味をなさないとして講和・不拡大方針に反対、日中戦争拡大方針を主張した。11月号では「敗北支那の進路」を発表、「支那に於ける統一は非資本主義的な発展の方向と結びつく」として中国の共産化を予見した。
こうした主張は、翌1938年(昭和13年)1月16日の第一次近衛声明に影響を与えた。同年『改造』5月号で「長期抗戦の行方」を発表し、日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ、他の方法は絶対に考えられない、日本が中国と始めたこの民族戦争の結末をつけるためには、軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかないと主張、また『中央公論』6月号で発表した「長期戦下の諸問題」でも中国との提携が絶対に必要だとの意見に反対し、敵対勢力が存在する限り、これを完全に打倒するしかない、と主張して、講和条約の締結に反対、長期戦もやむをえずとして徹底抗戦を説いた。
第1次近衛内閣が成立すると、近衛文麿の側近として軍の首脳部とも緊密な関係を保ち[2]、支那事変の長期化問題、国内の政治・経済体制の方向付けに決定的な発言と指導的な役割を担っていた(近衛は尾崎の正体を知った際に驚愕し、「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と天皇に謝罪している)[3]。尾崎を中心とした昭和研究会は国策の理念的裏づけを行い、大政翼賛会結成を推進して日本の政治形態を一国一党の軍部・官僚による独裁組織に誘導しているが、昭和研究会のメンバーは尾崎ら共産主義者と企画院グループの「革新官僚」によって構成され、理念的裏づけはことごとくマルクス主義を基にしていた[4]。
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尾崎秀実という人物のつづき
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 12:09 投稿番号: [8132 / 8458]
そして、1937年6月30日の朝飯会。
幹事役の尾崎秀実がこう切り出した。
「内閣発足間もない時局重大な折からこのような情報をお伝えしなければならないのは誠に遺憾であります。東亜問題研究会の情報によれば、来る七月上旬、北京周辺に置いて我が軍に対して不穏な動きをなす分子の活動が予測されております。これが発火点となって日支間の戦争へ発展、さらに長期化する恐れさえ報告されています」
これを聞いた近衛首相はこの情報を陸軍や参謀本部に極秘で流した。
この直後に尾崎はゾルゲにこのように言われた。
「劉少奇同志筋からの伝言だから間違いない。実際には宋哲元の二十九軍に北京や天津の大学生党員とシンパをたくさん潜入させている。彼らは変装して第二十九軍に紛れ込み、抗日を叫んで日本軍を挑発し、かく乱する最前線に立つ。これであなたの予想や読みが当たることになってとてもやりやすくなるでしょう。私への情報は宮城与徳からだから信頼は大丈夫だ」
この後、1937年7月7日、予想通り盧溝橋事件が起きました。
7月8日、
尾崎秀実は支那情報の正確さを買われて首相秘書官の牛場友彦と岸道三を通じて風見章が朝日新聞社を退社させて、内閣嘱託として官邸内に入ることになりました。
尾崎は手記でこの頃のことをこう書いています。
「内閣嘱託たる地位にあった関係から、この重大な転換期における国の政治の重要な動向を知り得たと同時にその時々の政治情報等も容易に察知し得たのであります。これらの情報はもちろんゾルゲに報告すると共に、政治動向に関する私の意見も述べているのであります」
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尾崎秀実という人物
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 12:01 投稿番号: [8131 / 8458]
東京裁判によって盧溝橋事件は日本軍が起こしたもの、とされました。
学校でもそう教えています。
しかし、今ではこれは中国共産党の仕業であったことが判明しており、
学校で教えなくてもそこは理解している人は増えてきました。
しかし、この事件は日本と支那を戦争に引きずり込むだけに起きたことなのでしょうか・・・
これを利用して日本の政府の中に深く入り込んで、近衛首相陣営、政府や軍部と密接な関係となり、支那事変処理の方向や国内政治経済体制に決定的な発言と指導的役割をしていた人物がいました。
それが尾崎秀実です。
尾崎秀実。
台湾育ちの尾崎は東京帝大時代にマルクスボーイの「新人会」に入り、
ペンネームを白川次郎と名乗っていました。
この東大の時に「共産主義を信奉するに到った」と尾崎は手記に書いています。
その後、朝日新聞社に入社すると社内の同志と「レーニン主義の諸問題」の研究会を行い、ペンネームを草野源吾として日本労働組合評議会に加入します。1928年、朝日新聞上海支局勤務となると中国共産党と関係が出来て抗日運動に加わります。
この時にコミンテルンのアメリカ人ジャーナリストのアグネス・スメドレーに出会い、日本から上海支局に送られてくる情報をスメドレーに提供していました。この時スメドレーは愛人であったゾルゲを尾崎に紹介しました。
尾崎は上海から日本の朝日新聞社に戻り、宮城与徳を通してゾルゲに再会し、ゾルゲと共にソ連のための諜報活動をすることになります。
当時、尾崎のことを日本の言論界では「進歩的愛国者」「支那問題の権威者」「優れた政治評論家」と呼んでいました。
しかし、尾崎は自分がソ連のスパイで共産主義者であることを、十数年連れ添った妻にも知らせてはいなかったのです。・・・
1934年頃、近衛が渡米した時に蠟山政道とともに牛場友彦も随行した関係で近衛と親しくなり、牛場は第一次近衛内閣の首相秘書官に起用されました。
牛場と尾崎は高校、大学を通じての同級生でした。
近衛内閣成立間もなく牛場友彦首相秘書官と岸道三は政治経済に明るい者の意見や情報を得るため近衛首相のブレーンたちと夕食の懇談をやっていました。メンバーは蠟山政道、平貞蔵、佐々弘雄、笠信太郎、西園寺公一、尾崎秀実、そして風見章書記官長もたまに顔を出したと尾崎は手記に書いています。
その後、尾崎は岸や牛場と相談して夕食の懇談を時間の融通のきく朝八時に開催する「朝飯会」にして、政治についての意見や希望を述べて近衛内閣を助けていくことにしました。しかし、助けるというのはあくまで名目でした。
「毎月二回位宛招集して、朝食を共にしながら政治外交、経済を初め
色々な時事問題につき相互に意見の交換を行って来ました」(尾崎手記)
「朝飯会は相当長期間にわたる会合ではあり、そのメンバーには近衛公の側近者である岸道三、牛場友彦、西園寺公一、松本重治、がおり、又牛場、西園寺、松本、犬養健等の如く外交に関連を持ったものがあったので、これ等の人達から日本の政治外交等に関する価値の多い情報を入手し得たのでありまして、この会合は私の諜報活動の上に相当の成果を挙げさせて来たものということが出来ます」(尾崎手記)
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腐れテレビ局NHKのつづき5
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 10:45 投稿番号: [8130 / 8458]
番組では結構な時間を使って近衛首相をコケにしていたNHK。
近衛は陛下やマッカーサーに鋭く左翼や共産主義者の脅威を指摘していたため 、GHQや左翼に目をつけられていました。
それが戦後、近衛の評価がよくない一因でもあります。
それに比べて番組で出てきた内大臣の木戸幸一。
木戸のしてきたことは一切触れなかったのでここで触れておきます。
東條を首相にしたのは木戸でしたが、この木戸のやってきたことはひどいものでした。
陛下に上奏するために参内する者は全て内大臣の木戸を通さねば出来なかったため、陛下への情報が偏っていました。
その木戸幸一の弟は和田小六で、和田の娘の夫が都留重人でした。
自宅が空襲に遭っていた木戸幸一は都留や和田と同居していました。
都留重人は学生の時に反帝同盟というコミンテルン組織に入り、治安維持法で逮捕され、日本の大学には進学出来なくなりハーバード大学に留学しました。当時のハーバードはコミンテルンの巣のようなところで、コミンテルンのハーバード・ノーマンと知り合いアメリカ共産党に入りました。都留はコミンテルンであるスメドレーの親友の石垣綾子らと米国各地で反日活動を行っていました。
戦後、ノーマンが日本の専門家としてマッカーサーと共に日本にやって来て、ノーマンがまずやったことは「マッカーサー指令」により16名の共産党員を府中刑務所から釈放し、それから近衛と木戸の戦争責任の意見書を作ることでした。この時、ノーマンは都留と再会し、都留の情報で近衛の「戦争責任に関する覚書」を作成します。近衛を貶めたのはこの「ノーマン覚書」でした。
木戸のことは「内大臣の役割は軽く、陛下の御前に出るのも月一回くらいである」と、木戸の責任は故意に小さくし、木戸も自分のことを権限が軽かったと主張していました。
しかし、実際は木戸になってから内大臣の権限は大きくなり、戦時中の首相選定にまで口を出し、東條内閣の時には木戸が重臣たちと陛下の拝謁を妨げてきました。五摂家の近衛でさえも陛下と3年間拝謁できない状況でした。
岩淵辰雄は雑誌「新生」で次のように書いています。
「戦争という国家の大事が、わずかに総理大臣としての東條と、内大臣としての木戸と、この二人の専断によって推し進められ決定されていたという結論を生みだす。木戸内大臣は何等の責任も負うべきものがないと考えているのだろうか」
ハーバード大学で都留と同僚でコミンテルン人脈であったポール・バランは、占領軍を代表して誰を戦犯とするかという「戦犯調書」を取った人物で、近衛を東京湾の軍艦に連れ込んで「お前は絶対死刑になる」と脅して自殺に追い込みました。その後、近衛は自殺して、木戸は天寿を全うしたのです。
・・・
番組の最後に松平キャスターはこう締めくくりました。
「大事なことは多くの皆さん方が、戦争というものは愚かなものだということに気づいていながら、しかし、戦争の道をとってしまったという事実の重さでございます。いや、あれはあの一時期の狂気のせいだ、ということだけで片付けてしまうわけにはいきません。日本の内外におびただしい数の犠牲者が出ました。この多くの犠牲者になった方々のことを思う時に私達は少なくとも、なぜ私達はあの戦争への道を選んだのかというとこを考えることを止めてはいかんのだ、というふうに思います」
本当にそう思うならばNHKは肝心なことに触れないフィクションのような番組作りはやめるべきでしょう。
その巨大組織NHKはどうだろう。
NHKは不祥事を起こした職員を関連会社などで採用したり、受信料を職員が着服して使っていたり退職者の企業年金の一部に補填していたこともありました。報道の内容も自虐史観に基づいた反日報道で、公共放送としてふさわしくありません。このようなNHKを放送法で保護する必要があるのでしょうか。また福地茂雄会長の任期満了による前代未聞のドタバタ劇でNHK次期会長を受諾していた安西氏は「一貫した姿勢を全く持たない経営委では会長に就任してもNHKをよくするのは困難だ」と言い切りました。
NHKのリーダーたちは腐敗したNHKを本気で建て直す気があるのでしょうか。
国民から受信料を払わせているのですから先送りは許されません。
現実を無視して偏向に突き進んだNHKの改革は、少しは進んでいると思っていました。しかし事態はもっと複雑のようです。・・
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腐れテレビ局NHKのつづき4
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 10:30 投稿番号: [8129 / 8458]
「本音では戦争を避けたいリーダーたち。しかし多くの恨みを買うその決断を誰が言い出すのか・・・」
と松平定知キャスターは言う。さらにこのようにも言いました。
「日本の緊急時、非常時に当たってリーダーたちは何一つ具体的な方策を決められないでいました。ああいう意見がある、こういう意見がある、そういう意見もある。いっぱいある意見を一つに一本化出来ずに様子を見ているうちに全面禁油が現実のものになっていったのでございます。
日本に残された石油の備蓄は2年あるかないか。国家の機能が停止するのは時間の問題です。・・・事ここに至ってですね、リーダーたちは選択肢は二つしかありませんでした。
一つは中国からの撤兵をのむ「対米譲歩」、もうひとつは南方の資源を「独自調達」する。
この二つしかなかった。
しかし前者は国内、後者は英米の反発が必至である。まさに進退極まれりと言うところです。
もうこれまでのように結論をぼやかしたり先送りしたりすることは許されません。
今度こそ国家の大局に立って決断を思いきらなければならない。
しかし皆さん、リーダーにとって決断はさらに困難さを増していくのでございます」・・・
三田村武夫氏は「戦争と共産主義」でこのように書いています。
昭和18年4月のある日、筆者が荻外荘に近衛公を訪ね、戦局、政局の諸問題に尽き率直な意見を述べて懇談した際、「この戦争は必ず負ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ」と言ったところ、彼はめずらしくしみじみとした調子で、第一次、第二次近衛内閣当時のことを回想して、「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か目に見えない力にあやつられていたような気がする」と述懐したことがある。
彼はこの経験と反省を昭和20年2月14日、天皇陛下に提出した上奏文の中で
「・・・満州事変、日華事変を起こし、これを拡大してついに大東亜戦争にまで導き来れるはこれ等軍部内の意識的計画なりしこと、いまや明瞭なりと存じ候。・・・不肖はこの間、二度までも組閣の大命を拝したるが、国内の相剋、摩擦を避けんがため、出来るだけこれら革新論者の主張を容れて挙国一致の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼らの背後に潜める意図を十分に看取する能はざりしは、全く不明の致すところにして何としても申し訳なくこれ深く責任を感じる次第に御座候」と言っている。
つまり近衛は過去十年間、日本政治の最高責任者として、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面にわたって交友を持ってきた自分が、静かに反省して到達した結論は、「軍部、官僚の共産主義的革新論とこれを背後よりあやつった左翼分子の暗躍によって、日本は今や共産革命に向かって急速度に進行しつあり、この軍部、官僚の革新論の背後に潜める共産主義革命への意図を十分看取することのできなかったのは自分の不明の致すところだ」と言うのである。
NHKが思っているほど、首相も閣僚も軍人も国民も誰もが戦争はしたくないに決まっています。
しかし、ユダヤの日支闘争計画、コミンテルン会議、ヨセミテの太平洋問題調査会国際会議などで日本の戦争は仕組まれていたのです。
資源のない日本の選択肢は戦うか、戦わずして資源を枯渇されて植民地にされるかでした。
さらにこの状況で的確に判断しようとしても内閣の中に、官僚に、軍部に、マスコミにコミンテルンの手先が日本を戦争させるために様々な工作を行っていました。
こういうことをNHKは言わない。
つづく
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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腐れテレビ局NHKのつづき3
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 10:17 投稿番号: [8128 / 8458]
あるブログより引用。
NHKスペシャル「日本はなぜ戦争へと向かったのか」の4回シリーズの最終回、“開戦・リーダーたちの迷走”をやっていました。
1941年に焦点を充てて日本の決断できない結果が開戦となった、というものです。・・・
番組はこう切り出しました。
「今から70年前の1941年、日本はアメリカとの破局的な戦争「太平洋戦争」へと向かいました。
当時のリーダーはアメリカとの圧倒的に国力差という現実を無視して開戦に突き進んだと考えられてきました。しかし事態はもっと複雑でた。・・・」
「現実を無視した」と思っていたら「事態はもっと複雑でした」というNHK.。
「日本は好戦的で、戦争こそ命」とでも本気で思っていたようです。
どれほど馬鹿でも「現実を無視して開戦に突き進む」わけがあるまい。
「国家の指導者たちはなぜ不利と承知の戦争を避けられなかったのか、これは開戦前半年前の衝撃的な記録です。・・・・今回、取材をしてみてわかったことは、この段階で日本はアメリカと戦争をしなくてはいけないんだ、というふうに本気で思っていたリーダーたちはいなかったということです。では皆さん、なぜ、日本は戦争へと向かっていってしまったのでしょうか。・・・」
その後、番組で強調したのは、「日本が大東亜戦争に突入したのは首相や閣僚たちが迷走して決断できないからだ」ということでした。そのために番組で繰り返し使う言葉は「先送り」でした。
1941年7月2日、
「南進、北進、どれかに絞ることなく全て進めるというその場的プランでした。しかも具体的なことは状況を見て別に定める、つまり何も決めず準備だけするという実質様子見、先送りでした」
これは6月24日の大本営が策定した「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」の、
「支那事変処理に邁進し、自存自衛のために南進し、独ソ戦が帝国に有利となれば武力で北辺の安定を期す」という三面作戦を打ち立てたもので、
これを元に7月2日に御前会議で「独ソ開戦に伴う新情勢に対応する国策決定」としたものです。南部仏印進駐し、北方は日本に有利となるまで待つことでした。
9月3日、
陸・海軍の共同提案を議する連絡会議で「帝国国策遂行要領」を決定しましたが、「外交交渉で10月上旬にも我が要求のめどなき場合にはただちに対米開戦を決意し、10月下旬に戦争準備を完成する」としたこれも「先送り」だと言いました。
また、近衛首相から東條首相となって、陛下から「国策の大本を決定するには9月6日の御前会議にとらわれることなく内外情勢を検討して慎重に」という「白紙還元の御諚」を伝達されて、日本が譲れる最後の線として12月1日まで外交交渉すると決めたことも「またも先送り」したと言う。
戦争を避けるため最後の最後まで外交交渉をしようと期限を決めたことを「先送り」というNHK。
NHKは外交交渉で先送りせずに「戦争はしない」と決断すればいいと言わんばかりでした。
つづく
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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腐れテレビ局NHKのつづき
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 05:18 投稿番号: [8127 / 8458]
「『昭和12年12月13日、敵の首都 南京を攻略せり・・・』
首都・南京の陥落が伝わると国民は熱狂しました。
デパートでは南京陥落セールが行われ、東京では戦勝祝賀のちょうちん行列に40万人が参加しました。
(ここで画面は昭和13年1月のアメリカ・ニュース映画「南京占領」を流します)
一方、海外では日本軍による南京での非戦闘員への殺害などが伝えられ非難が起こります。日本国民にはこうした状況が知らされず、日本世論と世界の認識が離れていきます。しかし、首都が陥落しても日中戦争は終わらず長期戦に突入。国民の戦意を保つためにラジオの戦争放送は熱狂を作り続けます・・・」
NHKはいわゆる「南京大虐殺」はあったとして放送しました。
海外では虐殺を報道しているのに、日本のメディアはそのことを日本国民に知らせずにいた。
だから戦後まで日本人は知らなかったのだ、つまり軍やメディアに騙されていたのだ、ということを言いたいのでしょう。
しかし、ありもしない非戦闘員の虐殺をあったように放送するそのNHKのやり方こそ国を誤った方向へ向けていくものです。
この南京大虐殺20万人説を最初に流布したのはアグネス・スメドレーです。
彼女は米英の機密文書でコミンテルンスパイということが確定しています。
このスメドレーの仲間がゾルゲであり尾崎であります。
「しかし国民の間には不満が生まれてきます。報道では日本は連戦連勝なのに、なぜ中国は屈しないのか。戦争は長引き経済は悪化の一途だ」
支那事変が長期化するのはコミンテルン会議の予定通りであり、そうなるようにしていったのがメディアに多くいたのは説明したとおりです。
1938年、コミンテルンのスメドレーの親友の石垣綾子らは米国で「反日」活動や支那事変反戦集会とともに「日本に石油を売るな」「日本を孤立させよ」という集会をアメリカ各地で開催していました。
これが1939年の日米通商航海条約破棄へとつながる要因ともなるのです。
こうしてみても日本人の中には数多くのコミンテルンの手先が存在し、第七回コミンテルン会議の指令に沿って日本を戦争に巻き込んでいったのです。
しかし、NHKはこの核心には一切触れなかった。
・・・番組はさらにこう続く・・
「作られた国民の熱狂とともに日本は太平洋戦争への道に大きく踏み出すことになりました」(画面は紀元二千六百年式典となり)
式典を指して「熱狂はピークになった」
とNHKは解説しました。
ここで次のようなラジオ放送を流します。
「皆様もこの時、電波に伝わる首相の発声に和して、声高く万歳を
お叫び下さい」「天皇陛下万歳、万歳、万歳」
(ここで画面は、式典で皇居に集まった多くの国民たちが一斉に万歳をする)
天皇皇后両陛下行幸啓の下で行われた「紀元二千六百年式典」と戦争は全く関係ないことです。番組ではこの関係ない二つを結びつけて「熱狂」を演出するNHK。これではまるで天皇陛下を中心に日本は戦争に熱狂していったといわんばかりです。これは陛下と国民をNHKの偏向番組に利用するものではないか。・・・
そして最後を迎えて、NHKの松平定知キャスターはこう語った。
「日本のかじ取りを任された指導者たちは、自分たちの行動に自信がないために世論を利用しようと思った。世論の動向に一喜一憂したわけですけれど、しかしその世論はメディアによって熱狂と化しておりました。
そしてその熱狂は最後の段階で日本人を戦争に向かわせる一つの要因となりました。
本来ジャーナリズムの役割というのは世の中に起きているいろんな事象を
的確に把握してチェックして国民が冷静な判断を下せるよう提供することでありました。
しかし、こうして戦争を迎える時代のメディアのありようを見て思うことは、メディアがおかしくなれば国家はすぐにおかしくなるということです。
本当にわずかな時間、期間の中で国家の運命が狂わされてしまう。
そういう力をメディアは持っている。そのことを改めて突き付けられた思いでございます」
ありもしない南京大虐殺をあったように報道するNHK。
偏向報道のために「紀元二千六百年式典」をも利用するNHK。
多くの共産主義者たちが戦争を長引かせ戦争に駆り立てた核心部分には触れず軍とメディアこそが悪と決めつけて番組を制作するNHK。
「メディアがおかしくなれば国家はすぐにおかしくなるということです・・・」
この言葉は誰に言っている言葉か、言わずと知れたことです。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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腐れテレビ局、NHK・受信料返せ!
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 05:01 投稿番号: [8126 / 8458]
あるブログより引用。
NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」の第3回“熱狂”はこうして作られた、をやっていました。
「軍に批判的な新聞には言論弾圧が忍び寄りました。
そのひとつ、信濃毎日新聞、きっかけは「関東防空大演習を嗤(わら)う」と題する記事でした。
これまでも軍部に批判的記事を書いてきた、主筆 桐生悠々(きりゅう ゆうゆう)は、木造家屋が密集する日本は空襲されたら終わりであり、防空演習は役に立たないと論じました。
この記事が軍部の目にとまり信濃毎日新聞は言論機関としての岐路に立たされます。
<1933年9月
長野市 信濃毎日新聞本社>
9月の暑い日、信濃毎日新聞常務
小坂武雄のもとに信州郷軍同志会と名乗る団体が突然訪れた。
「我々は会員八万を代表して、主筆桐生と、編集局長三沢の退社、並びに貴殿による謝罪文掲載を要求する」自分たちの主張にそぐわない新聞には不買運動を持って圧力を掛けました。・・・」
左翼新聞の信濃毎日新聞。
桐生悠々は乃木大将が明治天皇に殉死したのを悪い習慣であると「陋習打破論」を書いた。
また、朝日新聞から信濃毎日新聞に来たマルキストの風見章は、信濃毎日新聞でマルクスの「共産党宣言」の記事を書いたり、1927年の「女工哀史」問題の岡谷製糸の労働争議の女工たちのストの先頭に立って共産主義の主張を新聞の社説で書いていました。
風見章は信濃毎日新聞社を退社後に第一次近衛内閣の内閣書記官長になります。この時に尾崎秀実を内閣嘱託に入れました。
尾崎は内閣に入り込んで日本政府の重要情報をゾルゲを通してモスクワに流し、ソ連を防衛するために日本を戦争に巻き込んでいきました。
風見は戦後、社会党左派指導者として伊藤武雄、細川嘉六、西園寺公一などと日中国交回復と称して台湾と断交させて、日本をチャイナに売り渡すような知識人やマスコミ勢力をつくりました。
また、近衛首相が1938年1月16日に「帝国政府は爾後国民政府を相手にせず・・」とした一・一六声明に対し、1月19日の読売新聞夕刊で三木清は「長期戦の覚悟」を書きます。
そこには、「いよいよ長期戦の覚悟を固めねばならぬ場合となった。
それはもちろん新しいことではなく事変当初からすでに予想されていたことである。・・・これに処して行くには強靭な精神が必要である」
これは国民に支那事変の長期化を覚悟せよということです。
三木清も共産主義者であり、1942年に治安維持法違反で検挙され獄中で悲惨な死を遂げました。しかし戦後、三木清は「戦争に反対したがゆえに軍閥政治の犠牲となって獄死した」と伝えられたが、反戦どころかコミンテルンの指示通り読売新聞で真っ先に長期戦を訴えたのです。
また、朝日新聞論説委員の佐々弘雄は尾崎秀実の友人であり、笠信太郎も尾崎秀実の朝日新聞での同僚でありコムミニストであった。
さらに同盟通信編集局長の松本重治もコムミニストであり、彼は支那事変の最中に、まとまりかけた日本と支那の和平交渉をぶち壊し、コミンテルンの指示通り支那事変を長期戦にさせるために汪兆銘の傀儡政府をつくっていったひとりでした。
日本には1923年の関東大震災の時に各国の救援団が入り込み、その中にはコミンテルンの国際労働者救援会もいました。
1926年にはコミンテルン秘密宣伝部が日本の新聞や雑誌の19のメディアをコントロール下においたと実際に工作したアーサー・ケストラーが告白しています。
このように、当時の新聞社や言論界には多くのコミンテルンの手先がいて、
モスクワでの第7回コミンテルン会議の方針通り、支那事変を長期化させ、日本を戦争に導くために国民世論を煽っていったのです。こうしてみると、国民を戦争に煽ったのはコミンテルンの手先であったといえます。
・・・番組はこのように続く・・
ラジオが新聞とともに日本を戦争に駆り立てた。
そのラジオを独占していた日本放送協会総裁は戦後まで近衛文麿であった。
近衛が首相になると直後に支那事変が起き、世論を味方につけるために7月11日、メディアの代表40人を首相官邸に集めました。近衛は政府への全面協力を要請する。同盟通信の社長が代表して協力を約束した。政府とメディアの挙国一致報道の始まりだった。そして、ラジオ放送として近衛首相の演説を流した・・
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戦争と共産主義
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/07 21:54 投稿番号: [8125 / 8458]
三田村武氏の著書「戦争と共産主義」に岸信介氏がこのように書いています。「読むほどに、私は、思わず、ウーンと唸ることしばしばであった。
支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人はソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者尾崎秀実であった、ということが実に赤裸々に描写されているではないか。
近衛文麿、東條英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなればスターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人はスターリンでなければならない。しかるに、このスターリンの部下が東京裁判の検事となり判事を務めたのだから、まことに茶番というほかない。・・・」
1926年12月に第二次日本共産党が結成されました。
27年テーゼによって、「ブルジョア政府を倒してプリレタリア共産党政権を樹立せよ」と労農革命戦術を行います。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は破壊と非合法の暴力革命闘争を行い、資本主義崩壊と天皇制打倒の革命闘争を行います。
当時の社会情勢は、まさに経済恐慌であり、世界は不景気となり、
日本も年々不景気となっていきました。
米価は下がり、農家の負債がどんどん増え続け、ついに農家は田畑を売り、首をつるもの、親子心中する者などが多くなっていきました。
また、都市でも倒産者が相次ぎ、失業者があふれ、
資本家は労働者の首切りや工場閉鎖を強行していきました。
これに対抗するため、労働者の組織的闘争が急激に増えはじめ、
「資本主義制度はもはや末期症状だ」
と言われはじめ、社会主義運動に拍車がかかっていきました。
1928年3月15日、
内務省は共産党関係を一斉検挙しました。
これにより530人が収容され、5000人以上が取り調べを受けました。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は
内務大臣より結社禁止処分を受けました。
これが、いわゆる三・一五事件であります。
この三・一五事件があった同じ年、
モスクワで「第六回コミンテルン会議」が開催されました。
その中で資本主義国家同士の戦争に反対するのではなく、奨励推進し、
しかもその国の政府の敗北を助成し、
ブルジョア政府とその軍隊を自己崩壊に導き、戦争を通じてプロレタリアート革命を遂行する。
「資本主義戦争を敗戦革命へ」の戦略コースを巧妙に実践せよという、
レーニンとコミンテルンの敗戦革命への戦略戦術論が日本の軍部と政府に巧妙に適用されました。
これはどういうことかというと、コミンテルンの究極目標は全世界で共産主義革命を完成させることでした。そのために資本主義の支柱である米・英・日・独の強大国を倒さねばならない。倒すにはその国の共産勢力を強化して革命を起こし内部から崩壊させること、外部から武力で叩きつぶすことでした。
しかし、これらの国では共産党の力が弱く革命は成功しない。
また外部武力で叩きつぶす力がコミンテルンにはなかった。
ならば資本主義国家同士二つの陣営に分かれて大戦争をやればどちらかが負け、戦時中の消耗で経済も弱まり資本主義体制が弱体する。
このための第二次世界大戦が好ましい。
まずヨーロッパではドイツが邪魔でありました。
ドイツと英・仏を対立させ米国を戦争に引き込む。
ドイツとイギリスのどちらが負けても欧州の地図は一変し混乱するはずである。
また、極東で邪魔なのは日本と米・英をバックにした蒋介石である。
そこで日本と蒋介石を戦わせる。
すると背後にある米・英は必ず乗り出してくる。
そうすれば支那と南方植民地を舞台に戦いが起き、
日本が敗北する寸前に我がソ連が兵を進めてその止めを刺す。
日本と蒋介石が崩壊し後には中国共産党が残る。・・・
1928年の段階でこのような方針で謀略を立てていきました。
日本と支那を戦わせることは1918年のユダヤ人による日支闘争計画にもありました。
そして、実際に支那事変が起きたのは1937年、大東亜戦争は1941年です。
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/07 21:18 投稿番号: [8124 / 8458]
中国が生産拠点であるというだけで品質を心配する奴はバカである。
日本なら三人で担当する工程でも中国なら六人かけられる。そのシステムをよく考えてみろ。
日本人は残業が当たり前の社会でこそ経済発展が出来た。今はもう無理。政治や不況のせいじゃない。
国民がバカなんだからどうしようもない。
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コミンテルンの罠
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/07 21:04 投稿番号: [8123 / 8458]
1935年の7〜8月、モスクワで第七回コミンテルン会議が開催されました。
この会議は日本の命運を決めるものでした。
ここで日本とドイツを敵国とし、
敵国日本を崩壊させるために思い切った戦略戦術の転換をはかります。
(日本とドイツはこの翌年に日独防共協定を結びます)
まず、支那では中国共産党と蒋介石の国民党を提携させて、
抗日の人民戦線を確立し、支那全民衆を抗日戦線に動員することとしました。
これは翌年1936年12月に西安事件に表われてきます。
ソ連は蒋介石の唯一の息子・蒋経国を1925年から留学を口実に事実上人質にしており、
蒋介石は何度か帰してもらうよう交渉していましたが帰されず、
この西安事件を機に帰されたことは、何を意味するものかわかろうというものです。
また、日本の官憲が最も神経をとがらせていた非合法の反国家運動や
天皇制打倒の革命闘争は犠牲ばかりが多いので、
天皇制打倒はしばらく隠して表面には出さず、
合法的に日本の体制を内部から切り崩していくこと、
そして従来から日本で行っていた「戦争反対」運動を引っ込め、
逆に軍部を操って戦争に追い込み、軍閥政権を自己崩壊させるとしました。
ここでは日本の軍部の中でも陸軍は特異であるという位置づけでした。
当時、日本は世界五大強国の一つであり、
その国力の中心は軍部、特に陸軍であると認識されていました。
その陸軍の兵士の多くは貧農、小市民、勤労階級で構成されており、
将校の多数は中産階級以下の出身でありました。
従ってその傾向は反ブルジョア的である、としたのです。
この時期の軍人は、資本主義はもう駄目だ、国家改造しなければ救われない、
という考えとともに、特に若い軍人たちには1923年に北一輝が上海で書き上げた著書
「日本改造法案大綱」が広く受け入れられていました。
この青年将校の国家改造運動が軍部政治への源泉であります。
彼ら軍人の思想には二つの面がありました。
一つは天皇陛下の軍隊である立場で国体への全面的信仰による反共産主義と、
もう一つは貧農生活を守る立場から反資本主義です。
つまり、青年将校が共産主義に対抗したのは、
共産主義が資本主義を打倒して全世界を共産主義化にしようという目的があったからではなく、
共産主義が反国体であったために反対したのです。
この資本主義擁護の立場でないことが共産主義から利用されることになりました。
軍人には天皇制を戴いた社会主義国家の建設を理想とさせ、
その建設がなされたときに天皇制を破滅させればよいとしたのです。
さらに具体的手段として、日本の軍閥に政治の実権を与えること、
官僚を軍部に同調させ権力専制政治を強行させること、
さらには支那事変を長期化させるため蒋介石との和平を遮断する楔として
日本の傀儡政府を支那に作ることとしました。
この傀儡政府は国民党のナンバーツーであった汪兆銘の南京政府となるのです。
日本でこの傀儡つくりに奔走したのが軍務課長であった影佐禎昭でした。
この影佐の孫が現自民党総裁・谷垣禎一です。
この大会でコミンテルン日本代表として参加したのは野坂参三でした。
野坂は戦時中は支那で抗日に協力し、戦後は帰国して日本共産党議長となった人物です。
さて、この大会で敵国とした日本とドイツに対して、
ソ連をナチスと日本軍の両面作戦に立たされないようにソ連防衛のための諜報と日本の力を弱めるために労農赤軍参謀本部第四局(GRU)のウリツキーからゾルゲに対して、尾崎秀実を日本でソ連のスパイとして使うこと、
そして、日本のドイツ大使館にて諜報するよう指令を受けたのです。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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NHKよ、国内だけの犯人探しは止めよ!
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/07 11:18 投稿番号: [8122 / 8458]
日本が先の大戦に突入したのは「○○のせい、○○の判断ミス、○○がこうすれば良かった」。NHKの解説者は偉そうに毎回こればかり言っている。
当時、自分が指導者だったら正しい判断ができたというのか。
日本は止むを得なく戦争を始めたのである。
いつも戦争を計画し、仕掛けたのは欧米の国々であり中国でありコミンテルンであった。日本は常に受身であった。
私はこのようなNHKに受信料を払っているのではない。
特に中国の顔色を伺うような番組を作るな!
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/06 16:44 投稿番号: [8121 / 8458]
日本はだめだ
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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中国が仕掛けた日中戦争
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/05 03:57 投稿番号: [8120 / 8458]
この通州事件で約260人の日本人が虐殺された。一度に起きた虐殺事件としては当時最大かもしれない。
しかしこのような残虐な殺人事件は中国大陸のあちこちで頻繁に発生している。
日本人が満州に渡った頃からだとおそらく数百回を超えるだろう。
一度の殺人事件や暴動で殺された日本人の数は1人から数人と数が少ないのがほとんどであるので、中国はもちろんであるが日本の歴史書や教科書からこれらの殺人事件のほとんど全部が消されている。
通州事件や済南事件はかろうじて記録に残されている氷山の一角の事件なのである。
それではこれから中国側がよく言う「日本の侵略」の発端とされる「満州事変」「盧溝橋事件」「上海事変」とこれら数多くの日本人虐殺事件との関係を見て行こう。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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中国の歴史は殺戮と人食いの歴史
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/04 04:29 投稿番号: [8119 / 8458]
これはけして誇張ではない。
歴史的事実である。
それ故、中国人の頭の中は策略と陰謀に満ち溢れている。
「中国人は見かけほど善良で大人しい民族ではない」
戦前、大陸に渡った日本人は「自分が善良であれば、相手も善良に接してくれるだろう」と思い込んだために、そのほとんどが失敗しこのように虐殺された。
もう一度言う。「中国人は羊の仮面をかぶった狼である」
群集全体が狂気じみた段階:特徴は一言で概括できる。
人食い集団。
例えば、武宣市では、まるで伝染病が氾濫した時、死体を食べて目を赤くした犬の群れのようであった。
人々は人肉を食べる。気が狂ってしまったように食べまくる。何かするとすぐに人を 引っ張り出して「批判闘争」を行う。そして、批判闘争の後は必ず彼らを食べる。
一人が倒れれば、息を引き取ったかどうかも構わずに、大勢の人が群れをなして押し寄せる。
それぞれが事前に用意してきた包丁やナイフを倒れた人を目がけてどこの部分でも構わずに 人肉を切り取る。…ここまで来ると、一般の群集も人食いの流れに巻き込まれて行く。
ほんの僅か残された罪悪感と人間性も、「12級台風の階級闘争」によって、
綺麗さっぱり吹き飛ばされてしまう。人食いの疫病は武宣市を席巻した。
最頂点に達した時の形式は、「人肉宴席」と言っても、全く誇張ではなかった。
人の肉、心臓、腎臓、ひじ、関節、関節の筋を…蒸す、煮る、焼く、炒める、餡かけにする、 油で焼くなど、盛りだくさんの料理を作り出した。そして、酒を飲み、拳を打ち、 論功行賞を行う。まさに人食い最高の時期に達した。最高権力機構である「武宣県革命委員会」の食堂でさえ、人肉を調理したことがあるのだ!
これら人食い宴会は、決して民間での自発的な行為ではない。全体主義組織としての 中国共産党の社会に対する制御は、一つ一つの細胞まで浸透している。背後の中国共産党の 煽りと操縦がなければ、このようなことは決して起こりえない。
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中国人による芸術的「地獄絵図」のつづき
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/02 21:26 投稿番号: [8118 / 8458]
世界広しといえども、中国人にしかできない虐殺センスに満ち溢れたみごとな「地獄絵図」である。
「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
(東京裁判の証言より)
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中国人による芸術的「地獄絵図」を見よ!
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/02 21:03 投稿番号: [8117 / 8458]
ここで一服してコーヒーでも飲みながら、中国人のおこなった芸術的ともいえるような「地獄絵図」をじっくりと鑑賞しよう。
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は十四、五歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に箒を押し込んである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引き廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの塵箱の中やら塀の陰から出て来た」(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』昭和三十八年・中巻30ページ)
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日露戦争の世界史的意義のつづき
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/02 02:25 投稿番号: [8116 / 8458]
当時、日本が提案した「人種差別撤廃条項」は、時代を先取りした極めて画期的なものでした。しかし、皆さんの中には、
あの提案は、米国内における日本人移民に対する不当な差別や排斥を撤廃させる為になされたもので、それ程、崇高な理念の為に提案されたものでは無かった。
と仰る方もおありでしょう。確かに、そう言った側面があった事は事実です。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか? 例えば、根強い有色人種差別社会であった米国において、人種差別撤廃を求めて戦っていた全米黒人新聞協会は、当時、
我々黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。
全米1200万の黒人が息を呑んで、会議の成り行きを見守っている。
と論説し、日本提案の行方に対して、非常に大きな期待を寄せていました。又、欧米列強によって分割・植民地支配されていたアジア・アフリカ地域の民衆も、日露戦争の際、面積で60倍、国家予算・鉄鋼生産高・造船能力も約10倍であった「超大国」ロシアを破り、有色人種国家で唯一、「列強」(一等国)に数えられる事となった日本の提案に、有色人種の「民意」(人種差別撤廃・植民地解放)をダブらせて支持をしたのです。しかし、結果は前述の通り、米英のエゴによって、葬り去られてしまったのです。
日露戦争における日本の勝利は、白人による全世界のアパルトヘイト化が、白人のアメリカ到達の後400年にして挫折した、20世紀最大の重大事件であった。
白人の帝国主義に苦しむアジア始め世界の諸国を覚醒・奮起させ、民族独立への希望と勇気を与えた。アジアではベトナムのホーチミン、インドのネールも日露戦争で大きな感銘を受けている。
アジアは日本の勝利を跳び上がって喜んだ」(『日露戦争全史』ウォーナー)と言われるように、独立の気運は、フィリピン、ベトナム、ビルマ、インドネシアなど東南アジア全域に及びました。
「日本の情熱が私の情熱をかき立てた……民族主義的な思想が私の心を満たした。私はヨーロッパの束縛からインドとアジアの自由を取り戻すための瞑想にふけった」(ネール)というように、インドにも波及しました。
またあるイギリス人がインドを旅行した際には、「大きな興奮がインド全土をかけめぐった。片田舎の村でさえ、インド人たちは車座になって、また夜は水煙草の壺の周りに集まって日本の勝利について語り合っている」とも述べているようです。
結果的に、日露戦争以後、白人の植民地は一つも増えていない。
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日露戦争の世界史的意義
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/02 02:04 投稿番号: [8115 / 8458]
日露戦争において、有色人種の一小国が白色人種の強国ロシアを打ち破ったことは、まさに13世紀の蒙古帝国以来絶えて久しいことであった。アジアの感激は大きく、シルクロードの宿場の多くには、明治天皇の御真影と東郷元帥の写真が飾られたほどで、インドのネールは、「青年時代最大の感激は、日露戦争で日本が勝利したことである」と記している。有色人種の志気を鼓舞し、民族意識を高めたことは論を待たない。
日本は、戦前の国際連盟で何度も《人種差別撤廃》を訴えていたのだよ。
人種的差別撤廃提案(じんしゅてきさべつてっぱいていあん)とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議において、大日本帝国が提案した議題の1つ。大多数の賛成を得るがアメリカ合衆国や大英帝国などの反対で否決され、実現しなかった。
第一次世界大戦後の大正9(1920)年1月、スイスのジュネーブを本部に発足した「国際連盟」(League of Nations)の事です。この国際連盟 ── 当時の「国連」において、日本は常任理事国だったのですが、その日本が連盟設立に際して、ある一つの重要な提案をしていた事は、余り知られていません。そして、その「提案」の行方が、後に、日本と世界の歴史に重大な影響を及ぼしたのです。と言う訳で、今回は、日本が発議した「提案」と、その行方について書いてみたいと思います。
大正8(1919)年2月13日、第一次世界大戦の戦後処理を行う為に開催されたパリ講和会議の際、米国大統領・ウィルソンの首唱による「国際連盟」設立の為に同時開催されていた国際連盟規約委員会の席上、日本は既に固まっていた14ヶ条に加えて、「第15条」として、
人種あるいは国籍如何(いかん)により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す
と言う条項、所謂「人種差別撤廃条項」を盛り込もうとしました。しかし、欧米列強社会に蔓延(はびこ)る根強い人種差別意識を目の当たりにした日本は、より採択可能な修正案として、「人種」の文言を削除した
国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す
を提案し、評決にかけられたのです。(「国民の公正な処遇」によって、人種差別撤廃を実現しようとした) 同案は、16票中11票の賛成多数だったにも関わらず、議長であったウィルソン・米国大統領が突如として、「重要案件は全会一致でなければならない」等として勝手にルールを変更し、不採択を宣言、日本提案の「人種差別撤廃条項」は「幻の第15条」として葬り去られてしまったのです。しかし、この評決については、さすがに同じ欧米列強の一員であったフランス全権団からも、
それ迄2回の票決では、全会一致の規則が適用されていなかったにも関わらず、今回に限って全会一致の規則を適用する事には納得出来ない
との抗議がなされた程でしたが、これに対して、ウィルソン・米国大統領は、
我々の一部にとっては余りにも障害があるので、規約にそれ(人種差別撤廃条項)を挿入する事は出来無い
と嘯(うそぶ)いた挙げ句、議長役を放り投げてとっとと帰国、自らが提唱した「国際連盟」にも米国は参加せず、「米国不参加の「国際連盟」のお手並みを拝見」と言った態度を取ったのです。ちなみに、米国が自認する「民主主義」(デモクラシー)とは、「多数意見の尊重」が基本の筈です。それを、採択に際して、突如、「全会一致」の論理を持ち出した米国の論理。ここに図らずも、欧米列強の「本音」(論理)が垣間見られた訳です。
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米国黒人社会の日本観のつづき
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/01 07:10 投稿番号: [8114 / 8458]
■6.日本での「忘れがたい経験」■
1936年、黒人運動の指導者デュボイスは、
満州に1週間、中国に10日間、日本に2週間滞在して、
「ピッツバーグ・クリア」紙に「忘れがたい経験」
と題したコラムを連載した。
デュボイスが東京の帝国ホテルで勘定を払っている時に、
「いかにも典型的なアメリカ白人女性」が、
さも当然であるかのように、彼の前に割り込んだ。
ホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせずに、
デュボイスへの対応を続けた。
勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々とお辞儀をし、
それからやっと、その厚かましいアメリカ女性の方を向いたのだった。
フロント係の毅然とした態度は、これまでの白人支配の世界とは違った、
新しい世界の幕開けを予感させた。
「母国アメリカではけっして歓迎されることのない」一個人を、
日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。
日本人は、われわれ1200万人のアメリカ黒人が
「同じ有色人種であり、同じ苦しみを味わい、同じ運命を背負っている」
ことを、心から理解してくれているのだ。[1,p109-118]
さらに、この旅で、デュボイスは日本人と中国人との違いを悟った。
上海での出来事だった。
デュボイスの目の前で4歳くらいの白人の子どもが、
中国人の大人3人に向かって、どくように言った。
すると、大人たちはみな、あわてて道をあけた。
これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。
上海、この「世界一大きな国の世界一立派な都市は、
なぜか白人の国によって支配され、統治されている。」
それに対して、日本は、
「有色人種による、有色人種の、有色人種のための国」である。
■7.日本人と戦う理由はない■
日米戦争が始まると、黒人社会の世論は割れた。
「人種問題はひとまず置いておいて母国のために戦おう」という意見から、
「勝利に貢献して公民権を勝ち取ろう」、
さらには「黒人を差別するアメリカのために戦うなんて、馬鹿げている」
という意見まで。
デュボイスは、人種戦争という観点から捉え、
「アメリカが日本人の権利を認めてさえいれば、
戦争は起こらなかったはずだ」とした。
黒人たちは、
白人が日本人を「イエロー・バスタード(黄色い嫌な奴)」、
「イエロー・モンキー(黄色い猿)」
「リトル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」などと
蔑称をさかんに使うことに、ますます人種戦争のにおいをかぎつけた。
アメリカは日本兵の残虐行為を理由に、
「未開人」という日本人イメージを広めようとやっきになっていた。
それに対して、「ピッツバーグ・クリア」紙は、ビスマーク沖での海戦で、
アメリカ軍は多数の日本の艦船を沈めた後、
波間に漂っていた多くの日本兵をマシンガンで皆殺しにした、
本土爆撃ではわざわざ人の多く住んでいる場所を選んで、
大人から赤ん坊まで無差別に殺した、
さらに「広島と長崎に原爆が落とされた時、
何万という人間が一瞬にして殺された。
これを残忍と言わずして、何を残忍と言おう」と主張した。
軍隊の中でさえ差別に苦しめられていた黒人兵たちにとって、
白人のために、同じ有色人種である日本人と
戦わなければならない理由は見いだせなかった。
ある黒人部隊の白人指揮官は、隊の95%は戦う気力がまったくない、
と判断を下した。
黒人兵の間では、やりきれない気持ちがこんなジョークを生んだ。
墓石にはこう刻んでくれ。
白人を守ろうと、黄色人種と戦って命を落とした黒人、
ここに眠ると。[1,p120-140]
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米国黒人社会の日本観
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/01 06:48 投稿番号: [8113 / 8458]
「20世紀の日本人
アメリカ黒人の日本人観
1900-1945」
レジナルド・カーニー、五月書房、H7.8
人種平等への旗手、米国黒人社会の日本観
■1.われわれ黒人は日本に最大の敬意を払う■
全米1200万の黒人が息を飲んで、会議の成り行きを見守っている。
1919年、パリ講和会議。第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことのないよう、
国際連盟創設のための議論が進められていた。
米国の黒人たちが注目していたのは、国際連盟規約に「人種平等の原則」を
入れるという提案を掲げて参加した日本であった。
日本の全権使節団がパリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄った時には、
「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロー・トロッターなど、
黒人社会の指導者4人が、
「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、
と嘆願書を出した。
自国のウィルソン大統領が講和会議の議長役をするというのに、
それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に嘆願したのである。
われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で「人種問題」について
激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。
全米黒人新聞協会が発表したコメントである。
人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、
有色人種でありながら世界の大国の仲間入りした日本を、
人種平等への旗手と見なしていた。
[1,p71-76]
しかし、本誌52号[a]で紹介したように、日本の提案は16カ国中、
11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領ウィルソンの
「全会一致でない」という詭弁によって退けられた。
ウィルソンは、人種平等を盛り込んだ連盟規約が、
米国南部や西部の議員たちの反対で、
批准されるはずのない事を知っていたのだ。
アメリカの黒人は、自国の政府の措置に怒り、
全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動が続発した。
■2.茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている■
アメリカの黒人社会が、日本に期待をかけるようになったのは、
日露戦争の時であった。白人の大国に、有色人種の小国が独立をかけて、
果敢な戦いを挑んでいる、と彼らは見た。
米国黒人として最初の博士号をハーバード大学でとった黒人解放運動の
指導者W・E・B・デュボイスは、
ヨーロッパによる支配から有色人種を解放してくれる可能性の
もっも高い国として、日本を支持した。
日本が勝てば、やがて「アジア人のためのアジア」を
声高に叫ぶ日が来るだろう。
それは、彼らの母なる大地アフリカに同じような声が
こだまする前兆となる、と米国黒人の指導者たちは考えた。
黒人紙「インディアナポリス・フリーマン」は次のような社説を掲載した。
東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている。
事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、
セコンドは今にもタオルを投げ入れようとしている。
有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間の問題だ。
長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている。
日露戦争は、有色人種は白色人種に決して勝てない、
というヨーロッパ人による世界侵略の近代史で生まれた神話を
事実として否定してみせたのである。[1,p53-66]
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パール博士の言葉
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/28 23:34 投稿番号: [8112 / 8458]
パール博士は、広島の爆心地本川小学校講堂で開かれた世界連邦アジア会議にゲストとして参加された。この会議は独立したばかりの新興アジア諸国の指導者を交えた14カ国、45名の代表と千余名の世連主義者によって構成された。
博士は45分間にわたる特別講演をおこなった。この講演は、アジア会議の性格を規定する重大な意義をもつものとして注目された。
「人種問題、民族問題が未解決である間は、世界連邦は空念仏である。」と前提して博士はこう述べられた。
「広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。日本は投下される何の理由があったか。当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。それにもかかわらず、この残虐な爆弾を《実験》として広島に投下した。同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。そこに人種的偏見はなかったか。しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。彼らの手はまだ清められていない。こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。」
白人代表を目の前にしての痛烈な民族・人種問題についてのこの講演は、会議の性格を一変したといっていい。
原爆慰霊碑と博士の追悼詩
11月5日、博士は原爆慰霊碑に献花して黙祷を捧げた。その碑に刻まれた文字に目を止められ通訳のナイル君に何がかいてあるかと聴かれた。『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』・・・博士は二度三度確かめた。その意味を理解するにつれ、博士の表情は厳しくなった。
「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。
この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である。」
このことが新聞に大きく報ぜられ、後日、この碑文の責任者である浜井広島市長とパール博士との対談まで発展した。
このあと博士はわたくしに「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった。」と嘆かれた。そして「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ。」と慨嘆された。
その夜、わたくしたちのホテルに、広島市小町の本照寺の住職筧義章さんが訪ねてこられこういわれた。「わたくしの寺の檀徒も大勢原爆でやられています。また出征して多くの戦死者も出しています。これらの諸精霊に対して、どうゆう言葉を手向けたらよいか。パール博士に『過ちは繰り返しませぬから』に代わる碑文を書いていただきたい。」と懇願された。
これを聞かれた博士は、意外にも快く引き受けられた。そして一夜想いを練られて、奉書紙と筆をとりよせ次のような詩を揮毫された。その詩が今も本照寺に建立されている『大亜細亜悲願之碑』である。ナイル君がベンガル語を和訳し、さらに英訳して三カ国語で大きな黒御影石に刻んだ。
それは次のような格調高い詩である。
激動し
変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛の想いを抱いて死んでいった
しかし
大地深く打ちこまれた
悲願は消えない
抑圧されたアジア解放のため
その厳粛なる誓いに
いのち捧げた魂の上に幸あれ
ああ
真理よ!
あなたはわが心の中にある
その啓示に従って
われは進む
1952年11月5日
ラダビノード・パール
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人種差別の世界を叩き潰した日本・つづき
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/28 22:24 投稿番号: [8111 / 8458]
5、日本が連合国に敗れた後、今でこそ、日本の植民地支配を非難する連合国は、どのような行動をアジア諸国に対して起こしたのか。日本の教科書がこういうことをきちんと教えていないのは、「自国に対する正しい歴史観が欠落している」からである。連合国は、日本によって追い出されたアジア植民地を「再び取り返しに来た」のである。インドネシアは、3万人のイギリス軍と15万人のオランダ軍による連合軍と、4年間に渡る死闘を繰り広げている。その結果、住民80万人以上が犠牲となった。しかし、生き残った人々の証言によると、彼らが連合国と戦い抜く事ができた理由は、日本統治時代に、日本軍が軍事的能力を自分たちに与え、また四万丁にも及ぶ小銃や弾薬を、日本敗戦後渡してくれたからだと言う。そうでなければ、誰が彼らに武器を与え独立を支援してくれただろう。また、敗戦後も日本へ帰る道を選ばず、「インドネシア人と共に戦った日本兵が約2000人もおり」、この半数以上がインドネシア独立の為に戦死している。何より、彼らインドネシア人が独立を勝ち得たのは、死をも恐れぬ頑強な精神力、すなわち日本人が教えた「日本精神」であったと言う。この精神があったおかげで、武力では圧倒的に優位であったイギリスでさえ、最後には、とうとうインドネシア人を支配する事を「あきらめた」。
6、「大和魂」、これは、今の日本では必要無いように思われているかもしれない。しかし連合国から独立を目指す我々(当時の独立運動の指導者)には、独立のために不可欠な精神だった。民族として正しい意志を持つこと、これなしに独立を勝ち得ることはできなかっただろうと言う。
7、1955年バンドンで行われたアジア・アフリカ会議において「民族の自決」と「反植民地主義」が掲げられ、アジアで起こったドミノ倒しは、アフリカ諸国へ波及して行った。アジア独立運動に関わった人々は、「大東亜戦争が無ければ、アジア・アフリカ会議は無かった。日本はアジアの国々の独立を助け自由をもたらした」と言っている。
以上の事が、アジアの国々で、当時の事を「本当に知っている」人々によって守られている。それが正しく伝えられず、後にさまざまな政治的意図で歪められて子供たちに伝えられるのは、自らの悪事を認められない「勝った」連合国の情報操作によるものである。日本の行った戦争には、はっきりとした「思想」があったと、独立運動の指導者が言う。日本は、敗れはしたが、結果としてアジアは、数百年に渡るヨーロッパ人の支配から解放された。日本がやらなければ誰にできたであろう。当時、日本の人々の心の中に「アジアの共栄」があった事は紛れも無い事実であり、それが作り事であったと物知り顔で言うことこそ、後の作りごとである。
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人種差別の世界を叩き潰した日本
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/28 22:13 投稿番号: [8110 / 8458]
あるブログより引用。
戦時中から始まった、アジア諸国の独立
(欧米諸国から独立のため、日本に支援を求めたアジア諸国)
日本の敗戦後、植民地を取り返しに来た欧米諸国、敗戦後も原住民義勇軍といっしょに、彼らの独立のため戦った日本軍人たち。
アジア諸国は、死をも恐れぬ「日本精神」で連合国と戦いぬき、白人はついにアジア人を支配する事をあきらめた。
(ヨーロッパ人に、日本を裁く権利がはたしてあるのか?)
世界じゅうで始まったドミノ倒し、白人はその瞬間、神ではなくなった
最初のドミノは日本が倒した
(日本が、アジア諸国の独立に火をつけ、それはやがてアフリカに広がった)
大東亜戦争で、日本はアジア諸国を侵略し、耐えがたい悲しみと苦痛を与え、アジアの人々から憎まれている。このため、政治家が繰り返し謝罪し、歴史教科書を通じて罪悪感だけを植え付ける教育が行われている。しかし、この歴史観は、大東亜戦争のほんの一面しか表していない。事実、アジア諸国には、親日的な人々、あるいは、日本に感謝する人々が大勢いる。我々が目にすることのできる情報と言うのは、やはりマスコミによって一度ふるいに掛けられ、「操作されている」と言わざるをえない。
1、日本が戦ったのは、アジアの国々の住民ではなく、そこを200年も支配してきた、白人(ヨーロッパ人)である。
2、日本の植民地支配がひどく、欧米のそれは緩やかであったような認識は、誤りである。日本は、住民に学校を作って教育を与え、病院を建てたり、子供たちに予防接種をすることを始め、道路港湾、鉄道など社会資本を整備した。(「日本が現地人に現地語を禁止し日本語を強制した」と言うのは間違いである。日本語はあくまでアジア共栄圏の中で、アジア人が意思の疎通を図るための言語であり、例えばインドネシアでは、それまで250もあった島々の言語を「バハサインドネシア」に統一し、学校教育で普及させた。「言語の統一」は、インドネシア人の「感情、行動、民族」の統一に驚くべき力を発揮した。)また、議会を開設し、現地人にも政治参加の機会を与えた。また日本は、アジア諸国の独立を助けるため、現地人に軍事教育を与え、軍事的な能力を与えた。これが決定的な欧米支配との違いである。それに反して、欧米人は武器を持たせるどころか、現地人には、「人間としての価値を認めなかった」。共に泳ぐ事も許されず、青年の団体行動は(反乱に結びつくとして)禁止され、教育どころか徹底的な「愚民政策」により、識字率はわずか数パーセントであった。土地は奪われ、住民は農場で強制労働に借り出され、オランダ統治時代のインドネシア人の平均寿命は35歳だったと言う。もちろん、独立運動の指導者は投獄されたり、処刑されたりした。イギリスやオランダ経済の三分の一以上が、植民地からの収奪でまかなわれ、現地人はただの奴隷であった。当時、多くのアジア人にとって、白人は抵抗しがたい「神のような存在だった」。
3、インド、インドネシア、マレーシア、ビルマを始めとするアジア諸国では、「日本軍が独立の為に戦ってくれた」ことを忘れていない人も多い。インパール作戦など、まさにインド独立の為に、日本がインド国民軍と共にイギリスと戦ったのであり、「我々インド人は、我々のために死んでくれた日本人戦死者に子々孫々まで感謝したい」と言う。インドやビルマの人達は、自分たちの独立の為に日本の青年20万人が死んでくれたと言う事を未だに忘れていない。
4、日本が、アジア諸国の人々に与えた衝撃とは、今まで神のように犯しがたい存在であった「白人が、同じアジア人の軍隊に破れて白旗を掲げた」のを見た瞬間であった。これが、アジアの人々の潜在意識に革命的な転換をもたらした。
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アメリカが虐殺した日本人の声を聞け!
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/28 07:44 投稿番号: [8109 / 8458]
その火事場に中学校の生徒がいっぱい、
檻〈おり〉(木のわく)に押えられて下敷きになってんですよ。
足も手もバタバタ、こうしてるのが下から見えるんですよ。
傍〈そば〉が、火が、ドンドン燃えとる。
そこをやっと通って後ろを向いたら、
そこは焼けきってしまって、向こうへ移ってましたからね。
全部の学生は、そこで焼け死んだいう事になるんですね。
そしてこの広い道路は、全然、隙〈すき〉の無いだけに、
何千人の学徒〈がくと〉が、ワーッと来たんです。
真っ裸の者が、全部ですけど、5人に1人位は
血だるまになってる子がいるんです。
そして女と男の区別は全然つかないんです。
皆もう真っ裸になって、女の子の髪がポンと空向けに
パッと上向いてるんです、立ってるんです。
ほいで、あの子は女の子じゃという区別しかつかない。
そしてもうワーッ…
それが地下壕〈ちかごう〉の上へ、建物が潰〈つぶ〉れたもんですから、
その地下壕〈ちかごう〉の中の、奥の方に居る人や、
小使室〈こづかいしつ〉の方でマゴマゴしてる女達や、
小使いのお年寄り夫婦なども、皆、生き埋めになったわけ。
下で『助けてー、助けてー』
『誰それさん助けてー、お母さーん!!』と云う声が
地底から聞こえるんです。
それを助けようにも道具が無い、つるはし一つ、何も無い訳〈わけ〉です。
一瞬になくなってしまった。
それがもう、皆、逃げ切れないわけです。
ところが間もなく気が付いた時、辺り木材が、
全部火を含んでおって、火災となった。
その熱気が、今度は我々の身体へ反射しまして、耐えられなくなった。
『とり巻け!』と、もうこれ以上は我々も共死にすると、
火に囲まれてしまった、と。
皆…、皆、念仏〈ねんぶつ〉を唱〈とな〉えよ!
という事で、期せず、自発的に
『南無阿弥陀仏〈なむあみだぶつ〉、南無阿弥陀仏〈なむあみだぶつ〉』と云って、
生き残りが下で地底で泣き叫〈さけ〉ぶ『助けてー、助けてー』と云う、
その、食い入る様な、後髪引かれる様な気持ちで…
まだ生まれて間もない赤ん坊を抱いて、
こぅ、来るのを見たところ、
赤ん坊が、全身もうひどいケガをして、
真っ赤になってるんです、血でね。
「アメリカの野郎め、酷〈ひど〉い事をしやがるな」と思ってもう、
本当その時になって初めて怒りが燃え上がって来たんですよ。
それから。私達の部隊の演習場〈えんしゅうじょう〉を、ずうっと入って行ったら、
夥〈おびただ〉しいヤケドをした人達が居る。
薬らしい、薬は無いんです。
なにか、黒い油みたいなモノを背中に塗ったり
ヤケドしたとこをズーっと塗ってたんだけどね。
そしたらもう広島駅の方から、俗にいう、ユーレイ、皆手を上げて、
ブルブル震〈ふる〉えながら、焼けた服着て、ゾロゾロゾロゾロ来るんですよ…
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アメリカの大犯罪原爆投下「被爆者の声」
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/28 07:19 投稿番号: [8108 / 8458]
ありゃまぁ、どうした(どのような)爆弾落としたのだろうか、
思うておって暫〈しばら〉くしてると
向こうの方から破れ着物を着た人が、こっからか血を流した人、
パーっと手の先が、皮膚が垂れておる、ぶら下がっておる人、そういう人、
女でも髪を乱した人が、
半裸体〈はんらたい〉ですね、半裸体〈はんらたい〉になって人が次々次々、
ダラーッと首を垂れてやって来おるんですよ。
女学生なんかがスカートを、破れたヤツを、手を覆〈おお〉う様にして、
それがズンズンズンズン続いて来る、
それがもう何十、何百なのか続いて来る。
これはもう酷〈ひど〉い事じゃ、それを見ると、
もう、本当、私共はこの世ながらの、いわゆる地獄ではないか…
空がすごく暗くなりましてね。暗くなったいうのが、
日食ですかね、あれ全部、お日さんが隠れますでしょ、
そん時暗くなるでしょ、あれ位だったか、
あれよりまだ暗かったか思うんですが、
空は真っ黒い雲ですね。
皆、煙突から抜け出た様に、煤〈すす〉もぐれのような感じで、
髪は逆立ちに立ってますし、勿論〈もちろん〉、服なんか真っ黒ですよね。
だからあの時は、灰色よりまだ黒い色と、真っ赤な血と、
いう色しか無かったと思います。
それで雨が叩〈たた〉きつけるように降ってきました。
その中学の1年生、2年生位のちっちゃいのが、全身もう焼けて、
風船の様に膨〈ふく〉れてますね。皮はボロボロ下がってる。
男の子は、帽子被〈かぶ〉ってる所は髪が残ってるんですけど、
その帽子の下から全部ヤケドですから、
髪も溶〈と〉けて無いし、耳も溶〈と〉けた様な感じです。
『もしもし』って呼ぶ子が居るんです。女の子でしたね。
女の子か男の子かわかりませんけど、声聞いてわかりますで。
『雨に打たれて寒いから、何か着る物ないですか?』云って、
云うわけなんですよね…
黒く焼けた人達、真っ黒い丸坊主になったのが、
皮ぶら下げて、手の皮が、丁度〈ちょうど〉ブラブラっと身体に下がってる。
それが列をなして逃げたんじゃないですかね。
その逃げる途中、川が二つありました。
橋が一カ所燃えてたんです。怖がって、皆、川へ入る。
川へ入るもんだから、途中で皆、歩けん様になるんですね、
水の中に入った為に、だから川ん中が、
何かもう埋まってましたね、広い天満川〈てんまがわ〉が。
それから、道路の縁に水槽と防空壕〈ぼうくうごう〉が掘ってあった。
水槽の中へ、ちょっと水を飲もう思うんでしょうな、
水槽…立ったままでね、顔だけ突っ込んで死んでる。
行きよる人は、水の中に手をつけたり顔にかけよる、
そうすると水…、そのままポッと首を突っ込んでしまう。
そんなんが一つの水槽に数人居る。
道端に防空壕〈ぼうくうごう〉掘ってたもんだから、防空壕〈ぼうくうごう〉の中に足をとられてコケるんです。
いっぺんコケるとダメになる。動かん。
目だけ上げて、真っ黒いやら、皆、一杯になっとる。コケるともうダメ。
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東京裁判はデタラメ裁判だった
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/28 06:47 投稿番号: [8107 / 8458]
東京裁判に隠された真実
東京裁判:戦勝国による集団リンチ
〜パール判事が訴えたこと
法の不可遡に反し事後法で敗戦国のみを裁いた
日本を「侵略国」に仕立てるための東京裁判
< 問題点 >
事後法によるもので国際法上違反
「戦争」そのものは犯罪ではない。第二次大戦後の多くの戦争も責任者は裁かれていない。
「戦争」は国家行為であり、個人の行為ではない。
戦勝国の戦争犯罪不問
裁判長は「東京裁判は日本を裁く裁判であって、連合国を裁くのが目的ではない」とし、日本弁護側の主張や証拠書類は悉く却下された。
中国側の出した証拠書類や証人の証言を偽証罪なしでそのまま認めた。
11人の判事はすべて連合国側の人間であり、国際法の専門家はインドのパール判事のみ。
パール判事だけが日本を擁護し全員無罪を主張した。
ポツダム宣言は「有条件」
戦争犯罪についても同宣言10条の「我らの俘虜を虐待した者を含む戦争犯罪人」だけが対象になる。
↓
ポツダム宣言以降に作られた「平和に対する罪」「人道に対する罪」は仮にあったとしても日本には適用できない。
共同謀議の捏造、協定済みの事件の断罪など
証言
マッカーサー証言
1951年(昭和26年5月3日)
「日本が戦争に突入した理由の大半は安全保障だった」
トルーマンとの会談でも「東京裁判は平和のため何ら役に立たなかった」と述べたと言われている。
オランダのレーリング判事
「東京裁判は勝者による復讐劇だといったのは、まさに正しかった。・・連合国側の犯罪行為については一切取り上げられなかった」
米国務省のジョージ・ケナン政策企画部部長
「東京裁判はいかさまな法手続きで装飾された裁判のための裁判」
判決1948年(昭和23年)
11月23日
東條英機など7人は死刑、終身刑16人、有期刑2人
7人の死刑は判決の翌月12月23日
巣鴨拘置所において執行された。
12月23日は皇太子(現天皇陛下)の誕生日。
1951年9月
サンフランシスコ講和条約締結
戦犯既決囚の管理が日本政府に移される。
4月7日11カ国は刑の残りを免除を通告
10人が放免された。
パール判事の言葉
1952年(昭和27年)4回目の来日したパール判事の言葉
「日本とドイツに起きたこの二つの国際軍事裁判を、他の国の法律学者がこのように重大問題として真剣に取り上げているのに、
肝心の日本において、これがいっこうに問題視されないということはどうしたことか。
これは敗戦の副産物ではないかと思う。
すなわち一つに戦争の破壊があまりにも悲惨で、打撃が大きかったために、生活そのものに追われて思考の余地を失ったこと、
二つにはアメリカの巧妙な占領政策と、戦時宣伝、心理作戦に災いされて、過去の一切があやまりであったという罪悪感に陥り、
バックボーンを抜かれて無気力になってしまったことである」
パール判事の日本無罪論 (小学館文庫)
結語
「時が熱狂と偏見とを
やわらげた暁には
また理性が虚偽から
その仮面を剥ぎとった暁には
その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを
要求するであろう」
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アメリカ兵の残虐行為
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/27 23:03 投稿番号: [8106 / 8458]
太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッセル・スーパーは述べています。
「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに、気がとがめなかった。彼らは太平洋において人種戦争を常に派手に戦ってきた。新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの高官連中は公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すよりも悪いことではないと言明した。
サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した
昭和19年7月、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺したいわゆる“バンザイ・クリフ事件” 実は米軍による婦女暴行や虐殺が誘発した事件であったことが生々しい自殺説として『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著に綴られていた。彼は敗戦後もゲリラ活動で戦い通した元陸軍大尉である。
その手記の一部であるバンザイ・クリフ事件の項を紹介する。
「いまだにジャングル内に残っている日本の兵隊さん、住民に告ぐ。いまかけた歌は、なんと懐かしい歌ではありませんか。みなさんの幼い頃を思い返してください。一日も早く、平和な日が訪れるのを、故郷の父母が待っていることを忘れないでください」
そしてさらに、「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」
投降を勧める放送は再三くり返された。
投降呼びかけの放送とはうらはらに、米軍は人道上許しがたい残虐な行為を次々と展開しだした。
我々は、バナデルの飛行場を見おろせる洞窟に潜んでいた。距離にして1000米くらい先に、上陸してすぐの3月20日から作業をはじめ完成させた滑走路が横たわっていた。しかしいまは米軍の砲爆撃で無惨な姿をさらけだしている。
そこへ、三方から追いまくられた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。
幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理やりトラックに積み込まれた。積み終ったトラックから走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。
その声がマッピ山にこだましてはねかえってくる。
やがて、次のトラックも、次のトラックも走り出した。
絶叫する彼女たちの声はやがて遠ざかつていった。
……なんたることをするのだ!
小銃だけではどうすることもできない。もし、一発でも発砲すれば敵に洞窟の場所を知らせることになる。この悲劇をただ見守るより仕方ない。(この婦女子はその後、1人として生還しなかった)
婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴かあがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供たち。その悲鳴・・・。米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい……。
あの投降勧告はー体なんだったのか。常夏の大空をこがさんぱかりに燃え上がる焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。そのすさまじいばかりの叫びが、中天高くあがり太平洋の波をゆさぶらんばかりである。
残虐な行為は凄絶をきわめた。火から逃れようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴りとばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げこんでいる。
二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げこんだ。「ギヤッー!」という悲鳴。人間がまるで蛙のようにまた裂きにされ殺されていく……。彼らは、それをやっては大声で笑った。無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。
『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著からの抜粋
ここにこんな写真がある。
これは1943年の「ライフ」誌に載っていた、南太平洋戦線で戦った米兵が婚約者に送った日本人の頭蓋骨である。
「あれがパリの灯だ」で有名な飛行冒険家のリンドバーグの手記に載っていたが、日本兵の捕虜を飛行場に集め、ブルドーザで生きているまま踏み潰した話、たくさんの日本兵の捕虜を殺害し残飯捨て場に捨てた話、この写真のように日本兵の頭蓋骨をお土産に持って帰るのが流行った話おまけにまだ緑色した頭蓋骨(皮を剥いで間もない)を衣のう(軍隊の大型の袋)に入れていて飛行場で注意を受けた話、大たい骨を削って靴べらにするのが流行った話等。
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日本人に対する人種差別意識
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/27 22:49 投稿番号: [8105 / 8458]
あるブログより引用。
ルーズベルト「日本人は獣である」
「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。
一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。 当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。
「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」
「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない。」
当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。
「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。日本人を根絶しなければならない!」
ウィリアム・ハルゼー海軍元帥
日本軍との戦闘に際し「敵を殺せ!敵をもっと殺せ!猿肉をもっと作れ!」
など度々過激な発言を繰り返したことで知られているが、日本への原爆投下
に対しては批判的だった。
ハイドパーク協定
1944(昭和19)年9月18日
フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相が
米ニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原爆投下と将来の核管理について 申し合わせた秘密協定
1972(昭和47)年に初めて公開された
ニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸でルーズベルトと会談した英国の
ロナルド・キャンベル大使がルーズベルトから「劣等アジア人種」の品種改良と いうとんでもない提案を受けたと本国に宛てた書簡に書き残している。
「インド系、あるいはユーラシア系とアジア系を、さらにはヨーロッパ人とアジア 人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。 ただ日本人は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる」
トルーマンのカバートへの返事
1945年8月11日
日本人の理解する唯一の言語は、彼らを爆撃することのように思われます。
獣と相対したときは、獣として扱う他はありません。
トルーマン回想録
"Japanese are beast. So are treated as"(「日本人は獣だ。だから、そのように扱った」)
アメリカからみると対独戦より対日戦の方が、はるかに「人種戦争」という面が濃厚であった。
ダワー教授によれば、アメリカ側の、日本人に対するステレオタイプの典型は「猿」であり、野蛮人、劣等人間、人間以下、害虫、と続いた。それは、個性もなく次々とわいてくるものであったという。
原爆投下は人間以下の動物とみなされた日本人の大量虐殺が目的だった
ハーバード大学総長で連邦科学行政官のジェームズ・B・コーナントの提案により、陸軍長官ヘンリー・スティムソン
は、就業労働者が多数いて、周囲に労働者住宅が密集する軍需施設がもっとも望ましい原爆投下の攻撃対象になるだろうと同意した。
これについてネーション誌は次のように解説している。
お上品な婉曲表現を剥ぎ取って考えれば、この議事録は非戦闘員である労働者とその妻子を殺戮する意図をはっきりと謳っている。これは第二次世界大戦の残虐行為の一部であった。
さら続けて、ネーション誌は指摘する。
広島は軍事上の攻撃目標ではなかった。住民の大部分は非戦闘員だった。広島を原子爆弾の攻撃目標とするにあたって、米軍参謀部と文官指導層はそのことを正確に予想していた。原爆を投下する第1の目的は、敵の非戦闘員を大量に殺戮することにあり、さらにこれによって生存者を威嚇することにあった。
リンドバーグが見たもの
彼は1944年(昭和十九年)にニューギニアの米軍基地で陸軍将校として四ヶ月過ごしたが、その体験を日記に記して後に「第二次大戦日記上巻、下巻」として出版した。
それによると彼は戦場で見たものにショックをうけた。それは兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、米兵が日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。
たとえ敵味方に別れて戦い軍服に違いがあるとしても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命は使命として認めなければならないにもかかわらず、太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラもないことを発見した。
そこでは士官も兵士も日本人に対する人種差別、蔑視から自分達と同じ人間とは考えず、人間以下の単なる動物としか見ていなかった。
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トルーマンという人物像
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/27 10:58 投稿番号: [8104 / 8458]
あるブログより引用。
実は、トルーマンは、もともと、ルーズベルト大統領の副大統領にすぎず、それも、ほとんど偶然のように就いた地位であった。周囲だけでなく、本人も、重責を担う器量があるなど信じていない。それが、ルーズベルトが突然1945年4月12日に病死すると、トルーマンは大変ショックを受けた。意図せず、自分が、ある意味世界で最も重い責任を負わなくてはならなくなったからである。マスコミはすかさず、新大統領の経験のスキルの不十分さを揶揄した。それで、トルーマンは意地になって男らしく素早く決断しようと強がった。
トルーマンは南部の出身で、リンカーンが大嫌いだった。とても人種差別的で、日本人を心から軽蔑しようとした。いや、本当はその潜在能力を恐れていたのかもしれない。それで一層、真珠湾攻撃を卑怯だと煽った。バターン死の行進などの捕虜虐待に憤り、硫黄島や沖縄本土決戦の頑強な戦いから、今後も戦争が続くなら、米軍にも多数の犠牲者が出ると憂慮した。そこで、決定的に日本の戦意を挫く武器としての原子爆弾に着目したのである。それはソ連に対する十分すぎる示威にもなる。
実際、ある米軍関係者は、日本本土上陸作戦による米軍の被害を50万人と踏んだ。本土上陸は、1945年10月1日に、九州、と予定されていた。もし、原爆で日本の戦意を挫いて降伏に追い込むなら、それは有意義だ、とトルーマンら首脳は、思った。原爆は、軍事施設ではなく、都市部に落とさなくてはならないとも思った。そのために民間人の犠牲もやむをえない。そこに、トルーマンらの人種的偏見があったのは否めない。
ところが、アイゼンハワー、マッカーサ、レーヒという米軍の指導者達は、戦争の終結に、原爆の使用は不要と思っていた。寧ろ、無条件降伏を要求する代わりに、天皇制の保持を含む条件をつけて降伏を要求することの方が重要と考えた。しかし、当初、トルーマンはそれで同意しなかった。その条件が最期に入れられたのは、グルー元駐日大使の進言による。
一方、マンハッタン計画に携わったオッペンハイマー、シラード、コンプトンなどの物理学者達は、原爆の日本の民間人への使用に反対し始めた。明らかに人倫に悖るというのである。スティムソン陸軍長官も強く反対した。それは、民間人の大量殺傷となって、フェアプレイの精神に悖る。下手したら後世、米国がヒットラー・ドイツ以上の残虐国家として記憶されるかもしれない。その信頼失墜は覆いがたい、というものであった。
しかし、バーンズ国務長官ら強行派の意見を留めるのは難しかった。ジャップをやっつけろ、の乗りである。いろいろな意見を聞いていたトルーマン大統領は、昔からの知り合いでもあるバーンズに弱虫と思われたくなかった。それで、俺は男だと言わんばかりに、1945年7月25日に、ついに日本に原爆を落とす決断を下した。
1945年8月6日の夜、テニアン島では、能天気な兵士どもによって、祝賀パーティが開かれた。しかし、爆弾装備を手伝った物理学者達は、祝賀パーティへの出席を拒んだ。恐るべき兵器の開発に関与した物理学者のほとんどは、深い悔恨の念を共有したのである。
さて果たして原爆投下が、日本の無条件降伏受諾を早めたのかどうか、その判断はまだ歴史的に決着がついていない。なぜなら、「終戦秘史」下村海南、講談社学術文庫によると、天皇の玉音放送を力ずくで阻止しようとした軍部の一部の不逞の輩は、原爆投下の事実は知らなかったからである。ただ、天皇のご聖断の決意を強めたのは確かであった。
一方のトルーマンであるが、大統領の職から降りても、原爆投下決定のことで後悔したという、そぶりは全く見せなかった。寧ろ、ベストの判断だったといい続けた。しかしそれは精一杯の虚勢であったかもしれない。なぜなら、後年の取材で広島のことが話題に出ると、動揺の色を隠せなかったという。
私は責任をとるという意味をときどき考える。トルーマンは一体、どうやって来世に亙って、この巨大な責任をとるのだろうか。あるいは、天は、トルーマンに責任はないと見過ごすのだろうか。
ともあれ、トルーマンは、原爆投下決定を決定をした空前絶後の首長であるべきである、これだけは言える。
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原爆投下の正当性について
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/27 04:43 投稿番号: [8103 / 8458]
あるブログより引用。
原爆投下がソ連に対する抑止力というのは間違いであろう。何故なら少なくとも当時のアメリカはソ連に対して戦友としてよい印象を持っており、例えば日本占領時に於いて日本側が捕まえていた社会主義者やソ連のスパイらを解放して彼らを『反戦』を唱えた英雄に祭り上げ、日本の間接統治に利用している。他にも戦争直後におけるアメリカの行動には、ソ連や社会主義者らに対して敵対するような行動は皆無といっていい。このような実例は多いのだ。ソ連との関係が悪化したのは朝鮮戦争以後のことである。
そもそも、もし仮にアメリカがソ連に対して何らかの警戒心が存在していたら、日米戦争自体起こらなかったはずである。何故なら当時のアメリカ国内における親日派の人たちは『社会主義に対抗するために日本と協調するべきだ』と声高に叫んでいたのである。それを無視して日本との戦争を望み実現したのはアメリカ自身ではないか。そんな彼らが『ソ連脅威論』を支持するわけがない。そんなことをすれば日本と戦争をしている自分達の行為そのものを否定してしまう事になるからである。日本が正義である事を認めてしまう事になるのである。
因みにアメリカがソ連の参戦よりも早く原爆投下を急いでいた事は知られているが、それは単に日本という領土の取り分を独り占めにしたかっただけである。ドイツをソ連と半分に分ける事になってしまった事から、最低限日本だけでもアメリカが独り占めにしなければ、今回の戦争に使った費用の利益が出ないからである。赤字になるからである。ただそれだけなのだ。ソ連と利益の取り分の競争をしていただけなのである。ゲーム感覚だったわけである。彼らにとって戦争とは楽しい楽しいゲームであり、野球と同じスポーツの一種だったのである。戦争でアメリカ人が日本人を殺してもいいが、日本人がアメリカ人を殺すのはルール違反というゲームを。だからこそ日本への原爆投下は当然であるという認識。これが当時の世界の、そしてアメリカの常識なのである。
つまり、戦後に於いて原爆投下の正当性に疑問が持たれたことから、その頃には既にソ連との関係が悪化していた事を利用し、正当な理由として捏造され、こじつけられたと考えた方が正しいようである。
Last Updated : 2009-5-17
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原爆で虐殺された日本人は60万人
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/26 20:17 投稿番号: [8102 / 8458]
原爆・長崎・広島の被害者数は,広島40万長崎20万,(現在まで年々原爆被災で死んでいく原爆被災者を含む。)
(1)当時、日本は戦争終結に向けソ連に仲裁を求めていました。ソ連はそれを無視し連合国側となったわけですが、日本政府の関心はもっぱら終戦に向け「天皇の立場」の保障でした。最初のポツダム宣言に保障は書かれていませんでした。返答の期日も明記してありませんでした。
(もっとも原爆投下命令はポツダム宣言以前に出されていましたが)日本側は原爆という具体的なものではなく特殊な強力兵器の一種を米が開発したとの情報は知っていたようです。
アメリカは返事を待たずに二発目の長崎型(プルトニウム)を投下したのですが、その後に連合軍は天皇の地位を保証する旨を通達してきました。そして終戦です。
広島の被害(原爆の正体)が分る前に二つ目が落とされた事、軍が政治を握っていた事も”動き”が遅くなった要因のようです。日本は壊滅状態にあり市民はそれどころ
ではない状態でした。当時の価値観は今と相当の開きがあります。
(2)戦後ラジオなどを使い「真相はこうだ」といった番組が1年近く流されました。GHQによる統治の始まりです。軍関係の事はほとんど「悪」に塗り替えられたようです。様々な記録も軍やGHQにより破棄されました。公的記録が事実ともいえないところです。
アメリカの良心について
当時アメリカはオサマビンラディンに対するように集団ヒステリー状態でした。最初の原爆を自国で実験したときにその威力に驚きはしても計画中止には至りませんでした。中には開発に反対の人も居ましたが少数でした。「世界警察」として強いアメリカを誇りにする軍人に殺人の命令が来れば人としての心は影を潜めるのでしょう。
現場が彼らを動かしたのです。もちろん宋美齢が涙ながらに教会で巡礼をしたことは、日本を「東洋の極悪国」に位置付ける格好の材料になったのですが・・・
当時の先進諸国がどの様であったかはすりかえられているのでしょうね。
歴史は作られるとは良く言ったものだと思います。
「原爆投下は多くの命を救った」事を信じる事で殺人者の汚名を着ない(着せない)のですから悪夢は見るかもしれませんし、後の支援は行ってもそのこと自体はどうでしょうか・・資料館で涙を流されるアメリカの方は少数派です。これが現実だと思います。
広島原爆資料館,説明指導員の話をまとめました。
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アメリカによる日本人虐殺・原爆の被害
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/26 17:43 投稿番号: [8101 / 8458]
デルタ地帯(三角州)の広島は、爆風や熱線を遮る山などがあまりないため、建物が全焼し倒れたところが広い範囲にわたっています。 浦上谷という谷間に原子爆弾が投下された長崎は、被害が谷部分である北半分に集中しました。広島よりは狭い範囲だったにもかかわらず、爆弾の威力は約2倍だったと言います。
広島はほぼ平坦なデルタ地帯(三角州)の真中に原子爆弾が投下されました。爆風や熱線を遮る物があまりなかったため、爆心地から離れていても外傷を受ける確率は高かったようです。爆心地から1キロメートル熱傷(やけど)をおった人々は一週間以内に死亡したのです。 長崎は三方を小高い丘陵地に囲まれた細長い市街地のほぼ北部に原子爆弾が投下されました。谷間に投下されたため、爆心地から離れるほど外傷を受ける確率は低かったようです。しかし、熱傷(やけど)は広島とは違って爆心地から離れても10%程受ける確率があったようです。
黒い雨
黒い雨は広島だけに降ったもので、被爆後の調査で、爆心地から11〜19キロメートルの範囲で大雨が、15〜29キロメートルの範囲で小雨が降ったと分かりました。この「黒い雨」は、原子爆弾の爆発20〜30分後頃から広島市の北西部に降り始めました。雨の間は夏にも関わらず急に気温が低下して裸や薄着で逃げ回っていた人々は寒くてふるえました。しかも、降り始めの1〜2時間は爆発の時の泥やほこり、すすなどを含んだ黒い大粒の雨で、しかも強い放射線が含まれていて、池や川の魚がたくさん死んで浮き上がったと言います。雨の降った地域で水を飲んだ人の多くは下痢になったりその後雨に含まれていた放射能のため体調を崩したりしました。
後遺症
後遺症の一つにガンがあります。1960年頃から、甲状腺癌・乳ガン・肺ガンなどの発生率の増加が疑われるようになってきました。現在は放射線がガンの発生に重要な関係があると認められる報告もされています。放射線との関係が認められているガンの中でも、乳ガン・肺ガンのように被爆20年後(1965年)に増加が始まったものや、胃ガン・骨髄ガンのように被爆30年後(1975年)に増加したものもあります。『被爆したときの年齢が若いほど、ガンになりやすいとされています。』
白血病は後遺症の一つで、後遺症の中ではもっとも早い被爆5年後(1950年)に発生率が高くなり始めました。『白血病とは血液を作り出す役目をしている骨髄が、何らかの原因で白血球を無限に作り続けてしまう病気です。』白血球が増殖し続けると、正常な機能を失ってしまい、病原菌が入ってきても抵抗しにくくなくなります。広島や長崎は近い距離で被爆した若い人たちが多くかかり、放射線による血液の後遺症と考えられるようになりました。被爆から5年後の1950年に発病する人が多く、原爆による後遺症の代表として人々に不安を与えました。
後遺症は他にも、ケロイド・体内被爆・原爆白内障があります。
放射能
原子爆弾最大の被害は放射線による放射能障害です。放射能は人の体の奥深くまで入り込んで細胞を破壊したり、血液を変質させます。それとともに骨髄などの血を作る機能を破壊して、内臓を侵すなどの大変重度な障害を起こす原因となりました。『放射線を遮る物のない屋外で被爆した場合、爆心地(島病院)から1キロメートル以内にいた人々は放射能による高度の障害をうけ、1〜2キロメートル以内にいた人々は中度の障害をうけ、2〜4キロメートル以内にいた人々は軽い障害をうけました。』うえの表を見るとたとえ屋内でも木造だと放射能によって後に10〜50%の確率で障害が起こるということがわかります。放射能による障害は、爆発して1分以内に出された爆発とともに出た放射能(初期放射能)によるものと、黒い雨や灰などに含まれ、呼吸などにより人体に入った放射能(残留放射能)による物の2種類に分けられます。初期放射能の影響で、爆心地から焼き1キロメートル以内にいた人々は重度の影響を受けて、多くの人は数日たつと死亡しました。また、けがをまったくしていなくても被爆後何年か経過して発病し、死亡することもありました。残留放射能によっても、初期放射能と同じようになったり、被爆後広島に入ってきた人々の中に直接被爆した人と同じようになる人も現れたのです。
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アメリカの最大の日本人虐殺は原爆投下
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/26 17:09 投稿番号: [8100 / 8458]
原爆による被害は、熱線、爆風、放射線の影響の3つに大別されます。直接被爆した人は市民、街に入った人、軍人をあわせて約35万人にのぼると推定されています。正確な被害を特定することはできませんが、1945年の終わりまでに約14万人前後が亡くなったと考えられています。爆心地から半径2キロ以内の建物がほとんど焼き尽くされ、破壊されました。
(1)熱線による被害
原爆の爆発の瞬間、空中に発生した火球は1秒後には直径280メートルの大きさとなり、表面温度も7000度にも達しました。
▽人への影響
爆心地に近い所にいた人は、原爆の爆発を黄色がかった赤色と感じ、遠くにいた人はマグネシウムの燃焼のような青白色の感じだった、と言います。爆発で放射された強烈な熱線は、爆心地から3.5キロメートルまでの地域にいた人々にひどいやけどを負わせました。特に、爆心地から約1.2キロメートル以内でさえぎるものがないまま熱線の直射を受けた人は、皮膚が焼きつくされ、体内の組織や臓器に致命的なダメージを受けたため、そのほとんどが即死か数日のうちに亡くなりました。
■中学生の残したツメと皮膚
県立広島第二中学枚1年生の手島範明(てしま・のりあき )さんは、爆心地から600メートルの中島新町で建物疎開作業中に被爆。全身の皮膚が垂れ下がるほどの大やけどを負い、友人に助けられて帰宅しました。のどの渇きに耐えかねてか、ツメのはがれた指先から出るウミを吸ったといいます。苦しみなから、翌7日に亡くなりました。母親がツメと皮膚の一部を出征中の父親への形見として残しました。
私の強みは、アメリカ批判も中国批判もできること。
あなたの弱みは、アメリカ批判はできても中国批判はできないこと。
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日本兵が捕虜のアメリカ兵に加えた虐待
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/02/26 13:14 投稿番号: [8099 / 8458]
太平洋戦争で日本兵が捕虜のアメリカ兵に加えた虐待の実態を詳細に描くノンフィクションだ。
アメリカ人の反日感情を確実に高めるに違いない本書が今、アメリカでよく売れている。
ニューヨーク・タイムズ紙の週間ベストセラーリストの単行本ノンフィクション部門で
トップ5に13週連続でランクイン。直近は2位に落ちたが、それまでは6週連続でトップだった。
本書は、次のように具体的な数値をあげ、日本による捕虜の扱いが、ナチス・ドイツよりもひどかったと断じている。
「東洋を暴れ回った日本は、想像を超える規模の残虐な行為と死をもたらした。
その最たるものが戦争捕虜の扱いだった。日本はアメリカ兵やイギリス兵、カナダ兵、
ニュージーランド兵、オランダ兵、オーストラリア兵ら約13万2000人を捕虜にした。
そのうち3万6000人近くが死んだ。4人に1人を超える確率だ。特にアメリカ兵の捕虜の待遇がひどかった。
日本に捕らえられた3万4648人のアメリカ兵のうち、37%超に相当する1万2935人が死んだ。
ちなみに、ナチス・ドイツやイタリアに捕らえられたアメリカ兵のうち、死亡したのはわずかに1%だった」
「何千人もの捕虜たちが、殴られたり焼かれたり、銃剣で刺されたり、こん棒で殴られたりして
殺され、銃殺され、人体実験で殺され、人食いの風習で生きたまま食われた。ごくわずかしか食事が与えられず、
不潔な食品や水のために、さらに何千人もの捕虜たちが餓死し、容易に予防できるはずの病気のために亡くなった」
捕虜に対する虐待がなぜ日本軍では日常的に行われたのか、本書は次に引用するように日本軍の特異なカルチャーにその原因の一端をみる。
「当時の日本陸軍では、下士兵に対する殴打は日常的に行われていた。『鉄は熱いうちに打て。兵士は下っ端のうちになぐれ』ということが
兵士の間ではよく言われていた。『殴られてはじめて強い兵士ができあがる』とも言われていた。」
兵士たち自身が、日常的に殴られた経験があるため、そのうっぷんが捕虜に向かったというのだ。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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