侵略国日本は国際社会の前科者

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尾崎秀実という人物

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 12:01 投稿番号: [8131 / 8458]
東京裁判によって盧溝橋事件は日本軍が起こしたもの、とされました。
学校でもそう教えています。
しかし、今ではこれは中国共産党の仕業であったことが判明しており、
学校で教えなくてもそこは理解している人は増えてきました。
しかし、この事件は日本と支那を戦争に引きずり込むだけに起きたことなのでしょうか・・・

これを利用して日本の政府の中に深く入り込んで、近衛首相陣営、政府や軍部と密接な関係となり、支那事変処理の方向や国内政治経済体制に決定的な発言と指導的役割をしていた人物がいました。
それが尾崎秀実です。

尾崎秀実。
台湾育ちの尾崎は東京帝大時代にマルクスボーイの「新人会」に入り、
ペンネームを白川次郎と名乗っていました。
この東大の時に「共産主義を信奉するに到った」と尾崎は手記に書いています。

その後、朝日新聞社に入社すると社内の同志と「レーニン主義の諸問題」の研究会を行い、ペンネームを草野源吾として日本労働組合評議会に加入します。1928年、朝日新聞上海支局勤務となると中国共産党と関係が出来て抗日運動に加わります。
この時にコミンテルンのアメリカ人ジャーナリストのアグネス・スメドレーに出会い、日本から上海支局に送られてくる情報をスメドレーに提供していました。この時スメドレーは愛人であったゾルゲを尾崎に紹介しました。

尾崎は上海から日本の朝日新聞社に戻り、宮城与徳を通してゾルゲに再会し、ゾルゲと共にソ連のための諜報活動をすることになります。

当時、尾崎のことを日本の言論界では「進歩的愛国者」「支那問題の権威者」「優れた政治評論家」と呼んでいました。

しかし、尾崎は自分がソ連のスパイで共産主義者であることを、十数年連れ添った妻にも知らせてはいなかったのです。・・・

1934年頃、近衛が渡米した時に&#34847;山政道とともに牛場友彦も随行した関係で近衛と親しくなり、牛場は第一次近衛内閣の首相秘書官に起用されました。
牛場と尾崎は高校、大学を通じての同級生でした。

近衛内閣成立間もなく牛場友彦首相秘書官と岸道三は政治経済に明るい者の意見や情報を得るため近衛首相のブレーンたちと夕食の懇談をやっていました。メンバーは&#34847;山政道、平貞蔵、佐々弘雄、笠信太郎、西園寺公一、尾崎秀実、そして風見章書記官長もたまに顔を出したと尾崎は手記に書いています。

その後、尾崎は岸や牛場と相談して夕食の懇談を時間の融通のきく朝八時に開催する「朝飯会」にして、政治についての意見や希望を述べて近衛内閣を助けていくことにしました。しかし、助けるというのはあくまで名目でした。

「毎月二回位宛招集して、朝食を共にしながら政治外交、経済を初め
色々な時事問題につき相互に意見の交換を行って来ました」(尾崎手記)

「朝飯会は相当長期間にわたる会合ではあり、そのメンバーには近衛公の側近者である岸道三、牛場友彦、西園寺公一、松本重治、がおり、又牛場、西園寺、松本、犬養健等の如く外交に関連を持ったものがあったので、これ等の人達から日本の政治外交等に関する価値の多い情報を入手し得たのでありまして、この会合は私の諜報活動の上に相当の成果を挙げさせて来たものということが出来ます」(尾崎手記)
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