戦争と共産主義
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/07 21:54 投稿番号: [8125 / 8458]
三田村武氏の著書「戦争と共産主義」に岸信介氏がこのように書いています。「読むほどに、私は、思わず、ウーンと唸ることしばしばであった。
支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人はソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者尾崎秀実であった、ということが実に赤裸々に描写されているではないか。
近衛文麿、東條英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなればスターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人はスターリンでなければならない。しかるに、このスターリンの部下が東京裁判の検事となり判事を務めたのだから、まことに茶番というほかない。・・・」
1926年12月に第二次日本共産党が結成されました。
27年テーゼによって、「ブルジョア政府を倒してプリレタリア共産党政権を樹立せよ」と労農革命戦術を行います。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は破壊と非合法の暴力革命闘争を行い、資本主義崩壊と天皇制打倒の革命闘争を行います。
当時の社会情勢は、まさに経済恐慌であり、世界は不景気となり、
日本も年々不景気となっていきました。
米価は下がり、農家の負債がどんどん増え続け、ついに農家は田畑を売り、首をつるもの、親子心中する者などが多くなっていきました。
また、都市でも倒産者が相次ぎ、失業者があふれ、
資本家は労働者の首切りや工場閉鎖を強行していきました。
これに対抗するため、労働者の組織的闘争が急激に増えはじめ、
「資本主義制度はもはや末期症状だ」
と言われはじめ、社会主義運動に拍車がかかっていきました。
1928年3月15日、
内務省は共産党関係を一斉検挙しました。
これにより530人が収容され、5000人以上が取り調べを受けました。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は
内務大臣より結社禁止処分を受けました。
これが、いわゆる三・一五事件であります。
この三・一五事件があった同じ年、
モスクワで「第六回コミンテルン会議」が開催されました。
その中で資本主義国家同士の戦争に反対するのではなく、奨励推進し、
しかもその国の政府の敗北を助成し、
ブルジョア政府とその軍隊を自己崩壊に導き、戦争を通じてプロレタリアート革命を遂行する。
「資本主義戦争を敗戦革命へ」の戦略コースを巧妙に実践せよという、
レーニンとコミンテルンの敗戦革命への戦略戦術論が日本の軍部と政府に巧妙に適用されました。
これはどういうことかというと、コミンテルンの究極目標は全世界で共産主義革命を完成させることでした。そのために資本主義の支柱である米・英・日・独の強大国を倒さねばならない。倒すにはその国の共産勢力を強化して革命を起こし内部から崩壊させること、外部から武力で叩きつぶすことでした。
しかし、これらの国では共産党の力が弱く革命は成功しない。
また外部武力で叩きつぶす力がコミンテルンにはなかった。
ならば資本主義国家同士二つの陣営に分かれて大戦争をやればどちらかが負け、戦時中の消耗で経済も弱まり資本主義体制が弱体する。
このための第二次世界大戦が好ましい。
まずヨーロッパではドイツが邪魔でありました。
ドイツと英・仏を対立させ米国を戦争に引き込む。
ドイツとイギリスのどちらが負けても欧州の地図は一変し混乱するはずである。
また、極東で邪魔なのは日本と米・英をバックにした蒋介石である。
そこで日本と蒋介石を戦わせる。
すると背後にある米・英は必ず乗り出してくる。
そうすれば支那と南方植民地を舞台に戦いが起き、
日本が敗北する寸前に我がソ連が兵を進めてその止めを刺す。
日本と蒋介石が崩壊し後には中国共産党が残る。・・・
1928年の段階でこのような方針で謀略を立てていきました。
日本と支那を戦わせることは1918年のユダヤ人による日支闘争計画にもありました。
そして、実際に支那事変が起きたのは1937年、大東亜戦争は1941年です。
支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人はソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者尾崎秀実であった、ということが実に赤裸々に描写されているではないか。
近衛文麿、東條英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなればスターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人はスターリンでなければならない。しかるに、このスターリンの部下が東京裁判の検事となり判事を務めたのだから、まことに茶番というほかない。・・・」
1926年12月に第二次日本共産党が結成されました。
27年テーゼによって、「ブルジョア政府を倒してプリレタリア共産党政権を樹立せよ」と労農革命戦術を行います。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は破壊と非合法の暴力革命闘争を行い、資本主義崩壊と天皇制打倒の革命闘争を行います。
当時の社会情勢は、まさに経済恐慌であり、世界は不景気となり、
日本も年々不景気となっていきました。
米価は下がり、農家の負債がどんどん増え続け、ついに農家は田畑を売り、首をつるもの、親子心中する者などが多くなっていきました。
また、都市でも倒産者が相次ぎ、失業者があふれ、
資本家は労働者の首切りや工場閉鎖を強行していきました。
これに対抗するため、労働者の組織的闘争が急激に増えはじめ、
「資本主義制度はもはや末期症状だ」
と言われはじめ、社会主義運動に拍車がかかっていきました。
1928年3月15日、
内務省は共産党関係を一斉検挙しました。
これにより530人が収容され、5000人以上が取り調べを受けました。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は
内務大臣より結社禁止処分を受けました。
これが、いわゆる三・一五事件であります。
この三・一五事件があった同じ年、
モスクワで「第六回コミンテルン会議」が開催されました。
その中で資本主義国家同士の戦争に反対するのではなく、奨励推進し、
しかもその国の政府の敗北を助成し、
ブルジョア政府とその軍隊を自己崩壊に導き、戦争を通じてプロレタリアート革命を遂行する。
「資本主義戦争を敗戦革命へ」の戦略コースを巧妙に実践せよという、
レーニンとコミンテルンの敗戦革命への戦略戦術論が日本の軍部と政府に巧妙に適用されました。
これはどういうことかというと、コミンテルンの究極目標は全世界で共産主義革命を完成させることでした。そのために資本主義の支柱である米・英・日・独の強大国を倒さねばならない。倒すにはその国の共産勢力を強化して革命を起こし内部から崩壊させること、外部から武力で叩きつぶすことでした。
しかし、これらの国では共産党の力が弱く革命は成功しない。
また外部武力で叩きつぶす力がコミンテルンにはなかった。
ならば資本主義国家同士二つの陣営に分かれて大戦争をやればどちらかが負け、戦時中の消耗で経済も弱まり資本主義体制が弱体する。
このための第二次世界大戦が好ましい。
まずヨーロッパではドイツが邪魔でありました。
ドイツと英・仏を対立させ米国を戦争に引き込む。
ドイツとイギリスのどちらが負けても欧州の地図は一変し混乱するはずである。
また、極東で邪魔なのは日本と米・英をバックにした蒋介石である。
そこで日本と蒋介石を戦わせる。
すると背後にある米・英は必ず乗り出してくる。
そうすれば支那と南方植民地を舞台に戦いが起き、
日本が敗北する寸前に我がソ連が兵を進めてその止めを刺す。
日本と蒋介石が崩壊し後には中国共産党が残る。・・・
1928年の段階でこのような方針で謀略を立てていきました。
日本と支那を戦わせることは1918年のユダヤ人による日支闘争計画にもありました。
そして、実際に支那事変が起きたのは1937年、大東亜戦争は1941年です。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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