竹島

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参考HP

投稿者: ms_sm2 投稿日時: 2003/12/02 22:54 投稿番号: [2681 / 18519]
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/

田中邦貴さんのホームページ

過去ログ

投稿者: ms_sm2 投稿日時: 2003/12/01 07:46 投稿番号: [2680 / 18519]
過去ログ
http://www.keroa.net/take/takeshima0.html

獨島問答Q39,40

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/11/30 09:27 投稿番号: [2679 / 18519]
   1696年1月、日本の徳川幕府将軍が鬱陵島と獨島を朝鮮領として再確認し、日本の漁夫たちの越境漁業を禁止した直後、朝鮮の朝廷は鬱陵島にたいする「刷出・空島政策」はそのまま継続したが、1697年(粛宗23年)4月13日、領議政 柳尚運の建議にしたがい「巡視制度」「捜討制度」を採択した。
  「巡視・捜討制度」とは2年間隔(3年目毎に1回)で東海岸の辺境武将をして規則的に巡視船団を編成し、鬱陵島に入り巡視・捜討して帰ってくる制度である。

コメント:『太宗実録』からわかることは下記のとおりですが、実録は武陵島と于山島を混同しているようです。
  <『太宗実録』と于山島 >
http://www.han.org/a/half-moon/hm093.html#No.677
1.流山国の島民の話では、武陵島に11家族、60名が住んでいる
1.かって朴習がきいたところでは、武陵島に方之用ら15家族が住んでいる。
2.また、武陵島の傍らに小島がある。
3.于山島から帰った武陵島等處 按撫使の金麟雨は3名を連れ帰った。その島
  には15家族、86名が住んでいる。


Q40.日本側は 1696年1月、徳川幕府将軍が鬱陵島・獨島を朝鮮領と再確認し、日本漁夫の漁を禁止した後、この禁令を順守し、鬱陵島・獨島に対する朝鮮の領有権を尊重したのか?

ANS.徳川幕府は鬱陵島・獨島を朝鮮領と再確認して尊重し、日本漁民が国境を越え鬱陵島・獨島に入って漁をするのを比較的よく防いだ。その結果は諸文献と古誌に部分的に反映された。
   たとえば、日本実学派の最高学者である林子平(1738-1793)は、1785年ころ『三国通覧図説』という本を刊行し、その付録地図5枚の一部に「三国接壌之図」と「大日本地図」を描いた。地図で国境と領土を明瞭に区分して表すために国別に彩色したが、朝鮮は黄色に、日本は緑色に彩色した。
   林子平は東海の中に鬱陵島と獨島(于山島)を正確な位置に描き、鬱陵島と獨島をみな朝鮮色である黄色に彩色し朝鮮領であることを明確に表示した。
   そうしておいても、後日あるいは無知な日本人たちのごり押しがあるやもしれないと考えたのか、これら地図は鬱陵島と獨島の二島の横にふたたび「朝鮮ノ持ニ(朝鮮の物に)」という文字を記入し、鬱陵島と獨島が朝鮮領であることを繰りかえし強調した。
   林子平が 1785年に描いた地図などに鬱陵島と獨島を朝鮮領の色で彩色し、その横に「朝鮮ノ持ニ(朝鮮の物に)」と描いた文字は、「獨島」が論争の余地なく朝鮮の領土であることを日本側で証明する決定的な資料とみることができる。
   また同じ時期、徳川幕府の日本地図である「総絵図」という地図も国境と領土を明白に区分するために、日本は赤色で、朝鮮は黄色で彩色したが、鬱陵島と獨島を正確な位置に描き、鬱陵島と獨島をみな朝鮮を表示する色である黄色に彩色し、鬱陵島と獨島がみな朝鮮領であることを明瞭に表示した。
   のみならず、この地図も鬱陵島と獨島の横に文字で「朝鮮ノ持ニ(朝鮮の物に)」と書き入れ、鬱陵島と獨島が朝鮮領であることを繰りかえし明確に表示した。

コメント:林子平の地図については下記に解説したとおりです。
  <林子平の地図>
http://www.han.org/a/half-moon/hm068.html#No.451

獨島問答39

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/11/30 09:26 投稿番号: [2678 / 18519]
Q39.17世紀末、日本との鬱陵島・獨島領有権論争がうまく解決された後、鬱陵島の「空島政策」は廃止されたのか?   鬱陵島の「空島政策」はいつ、なぜ始まり、17世紀末、「鬱陵島・獨島領有権論争」以後にも空島政策が継続されたなら、どうしてそうなったのか?

ANS.倭寇の侵略と略奪のために朝鮮の太宗が1417年(太宗17年)に鬱陵島「空島刷還政策」を確定し採択した。
   高麗末期〜朝鮮初期には倭寇が猖獗し、中国海岸と朝鮮沿岸を侵し略奪を行った。とくに高麗末には倭寇が内陸奥地にまで深く入りこみ、殺戮と略奪を行った。李成桂が民族の英雄として浮上し、新たに朝鮮王朝をひらく基盤になった業績のひとつが、全羅道 智異山麓の奥地まで侵入した倭寇を潰滅した功労であり、これは大きな比重を占めた。
   鬱陵島のケースをあげると 1379年(高麗 ウ王5年)7月、倭寇が鬱陵島に侵入して住民を殺戮し略奪を犯し 15日間とどまった後に引き上げた。

  (朝鮮時代)太宗は即位直後の1403年(太宗3年)8月11日に江原道 観察使の建議にしたがい鬱陵島住民を内陸に呼び寄せたが、島が空であることを知った対馬島主の宗貞茂は 1407年3月16日、土産物とその間に倭寇が捕らえた朝鮮人捕虜を送り、対馬島人を鬱陵島に移住させる許可を要請してきた。
   太宗は、よしんば島が空であっても他国の人間が国境を越えて入り、紛争の種になるようなことはできないという理由でこれを断固として拒絶した。

   太宗は 1417年(太宗17年)正月、金麟雨を按撫使に任命し、鬱陵島に派遣し、鬱陵島に居住する民をみな連れて来させた。
   しかるに金麟雨が1417年2月25日に帰還しておこなった報告によれば、鬱陵島に男女86名が居住しているが、継続して鬱陵島に住むことを請願しているので代表格の3名だけ連れてきたが、鬱陵島近辺に付属島嶼の于山島という小さな島があるとした。
   ここに太宗は 1417年2月8日、右議政をして政府の大臣をみな招集させて大殿会議を開催し、鬱陵島と于山島の管理政策を論議した。圧倒的多数の大臣たちは鬱陵島に軍事的な鎮を設置して防御し、民を居住させ農業と漁業を継続させるよう主張した。
   しかし、工曹判書の黄喜はこれに反対し、鬱陵島住民を速やかに陸地に刷出(連れてこさせること)するのが最も安全な方策であると主張した。

   太宗は、黄喜が提案した「刷出政策」をよしとして採択した。鬱陵島に居住する民を刷出すれば鬱陵島は空になるので、これを「空島政策」と呼ぶのである。
   太宗が鬱陵島にたいし「刷出政策」「空島政策」を決定したのは1417年2月8日であり、獨島に対し公式に「于山島」という名称を使用したのもこのころ(1417年2月5〜8日)であった。
   太宗は1417年2月8日「刷出・空島政策」を採択すると同時に金麟雨を于山・武陵島處按撫使(獨島・鬱陵島等地域 按撫使)に任命し、ふたたび鬱陵島に派遣し、鬱陵島住民を内地に連れて来させるようにした。
   于山・武陵島處 按撫使 金麟雨がふたたび鬱陵島に入り居住民をみな刷出して来た6か月後の1417年8月6日、倭寇が于山島(獨島)と武陵島にまた侵入したと「太宗実録」は記録している。

   しかし、鬱陵島出身者と遺民たちは朝廷の監視を避け、ひそかに鬱陵島に入って居住しつづけた。于山島(獨島)は人が住まなかったが、鬱陵島(武陵島)は人が住むのに適当な地域であったためである。
   しかるに日本が1592年、壬申倭乱を起こしたとき、倭寇はまた鬱陵島を侵略し殺戮と略奪を犯した。このとき、鬱陵島住民はほとんど殺戮されたとみられる。
   これ以後、東海岸漁民は鬱陵島に常住するのは念頭になく、季節的に漁業にでかけ、舟をつくる木を伐って帰るのが慣行であった。
(つづく)

最近も半尻は・・・

投稿者: hantukihasinda 投稿日時: 2003/11/27 15:56 投稿番号: [2677 / 18519]
最近の半尻(うんこちびってる)は、やっぱ、偽物か・・・?
北南朝鮮文献では、国際的に通用しないので、日本文献中心に書き始めた。
でも、これって、日本の領土って認めてるんじゃないの?
北南朝鮮文献では、竹島がどこか国際的に解らないですからね。

獨島問答Q38

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/11/23 21:13 投稿番号: [2676 / 18519]
Q38.安龍福は二度も日本へ渡り、鬱陵島と獨島(于山島)を守るのに大きな功をたてたが、朝廷はかれにそれなりに報償したのか?

ANS.報償どころか、罰を与えようとしたが、対日強硬派がやっとそれを押しとどめた。
   安龍福の第1次渡日は日本の大谷家の漁夫に拉致されて行ったのだが、朝鮮政府側では、空島政策が適用され入れないようになっている鬱陵島に入ったという軽い罪だけを問えばいいのであった。
   しかし、安龍福の第2次渡日は問題が単純ではなかった。まず当時はすでに朝鮮と日本の関係は、かならず対馬島主の窓口と朝鮮側が対馬島主に刻み与えた図章に依拠するよう約定されていた。しかるに、安龍福は対馬島の窓口を無視したまま、直接に伯耆州太守と外交交渉をしたのであり、日本側がこれを処罰せよと強硬に抗議してきたためである。
   また、安龍福の第2次渡日は拉致されたり漂流したのではなく、安龍福が初めから目的をもって準備したのち、政府の許可なしに故意に国境を越え日本へ行ったのである。
   このために安龍福が帰国して江原道の襄陽に停泊し、文書で前後の事情を報告するや、朝鮮の朝廷はまず安龍福をソウルに呼んで拘束したのだが、これをめぐって大臣間で論争がおきた。
   左議政の尹址善は穏健対応派の建議を受け、万一、安龍福を死刑に処しなければ今後よこしまな民の中には他国へ行き、事をしでかす者が多くなるであろうから、安龍福には極刑を与えるしかないと主張した。
   司憲部がこれに同調し、極刑を主張した。反面、知事の申汝哲は安龍福の功が罪より大きいのでかれに罪をかぶせてはならないとして即時釈放するよう主張した。
   領中枢知事 南九萬は、安龍福を殺せば対馬島主のみ喜ぶだけであり、国の弱体をみせると日本との外交において侮られるとして極刑に極力反対した。領議政の柳尚運は南九萬の主張を支持した。
   こうした争論のすえに、国王が南九萬の中間策を採用して安龍福を死刑から減刑して幽閉し、のちに強硬対応派がかれを釈放してやった。朝鮮王朝後期の実学派である大学者の星湖 李翼は安龍福の件に対し「星湖[イ塞]説」の鬱陵島条で次のように論評した。

  「考えるに、安龍福はまさに英雄豪傑である。微賤な一介の漁夫として万死をかえりみず国家のために強敵と対峙し、邪悪な心根をへし折り、何代も尾を引いた紛争を終わらせ、一郡県の地を回復したのであり、傅介子や陳湯に比べれば、その仕事はもっと困難なものであり、英明な者でなければできないことである」
   星湖 李翼以後では五州 李圭景をはじめ、あらゆる実学者が安龍福の業績を高く評価し、当時の朝鮮朝廷大臣たちの短見と愚かさを辛辣に批判した。

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

獨島問答Q35-37

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/11/23 21:12 投稿番号: [2675 / 18519]
Q35.1696年1月の徳川幕府将軍の決定が、あるいは鬱陵島だけ朝鮮領に再確認したのか、あるいは獨島を含め鬱陵島と獨島をみな朝鮮領と再確認したのか?

ANS.もちろん鬱陵島と獨島をみな朝鮮領に再確認したのである。当時、朝鮮側も日本側もみな鬱陵島と獨島の価値を今日より低く評価していた。そうして朝鮮側も鬱陵島住民が何回も倭寇に略奪されるや、島を空にして人が住まないようにする「空島政策」を実施した。
   日本側も鬱陵島を肥沃でない小島程度に低く評価した。このような状況で鬱陵島の付属島嶼でそれよりもっと小さい岩の島である「獨島」は鬱陵島に含め、名前もあげない場合が大部分であった。
   このために徳川幕府将軍が1696年1月、鬱陵島と獨島を朝鮮領に再確認する決定と命令をくだすときも簡単な記録には「竹島(鬱陵島)」とだけ記録され、詳細な記録には「竹島」と「その外一島」とし、「その外一島」は「松島(獨島)」という小さな島であると記録された。
   しかるに、簡単な記録において、このときの幕府将軍の決定を「竹島」(鬱陵島)のみをもって説明、記録する場合でもその付属島嶼である「松島(獨島)」が含まれるという事実に留意しなければならないということを日本の明治政府内務省も記録で残している。
   1696年1月、日本徳川幕府将軍が再確認した朝鮮領は鬱陵島と獨島をみな含んでいるのである。

Q36.そうなら、1696年1月以前の鬱陵島と獨島にたいする日本側の領有権の是非は徳川幕府将軍の朝鮮領再確認決定でみな消滅し、朝鮮と日本の間の領土論争はみな終結したのか?   徳川幕府が米子の日本人漁民の両家に許可した「竹島渡海免許」と「松島渡海
免許」はみな取り消されたのか?

コメント:「松島(竹島=独島)渡海免許」は存在しません。

Q37.そうであれば、今日、日本政府が「獨島」を「歴史的に日本の固有領土」と主張したのはまったく根拠がないではないか?

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

やばっ

投稿者: hagechabinzzz 投稿日時: 2003/11/22 19:22 投稿番号: [2674 / 18519]
一番下じゃん、あげあげ

半ケツの発言は竹島は日本領土。

投稿者: hokunantyoubaka 投稿日時: 2003/11/16 16:24 投稿番号: [2673 / 18519]
と言っています。
半ケツ発言は、江戸時代から日本領土と認めている発言です。

最近の半ケツは、
当時の朝鮮資料が不確かと解ったようです。
国際的に通用資料は日本にしか有りません。

半ケツは、不確かな朝鮮資料を最近は出しません。
東海発言の様に少ない資料+他国資料を、を最大限に利用しているだけの、半ケツは朝鮮工作員です。

獨島問答 Q31-34

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/11/16 08:30 投稿番号: [2672 / 18519]
Q31.それなら、1693-1695年「鬱陵島=竹島」領有権をとりまく朝鮮と日本の外交論争はどのように解決されたのか?

Q32.そうであるなら対馬島の藩主は1696年1月、徳川幕府関白のうえの決定と命令を即刻遂行して朝鮮側に通告したのか?

Q33.安龍福はまたどのような活動をしたのか?

Q34.安龍福が二度目に日本を往来した後、朝鮮政府と日本政府間に正式外交交渉と論争終結の文書交換があったのか?

ANS.あった。徳川幕府 関白(将軍)が1696年1月28日に鬱陵島・獨島を朝鮮領土と再確認して日本漁夫が鬱陵島・獨島で漁をすることを禁止する決定をくだすと同時に、この再確認の決定に関連して対馬島主が対馬島の刑部大輔を朝鮮に送り朝鮮政府に知らせて外交交渉を終えた後にその結果を幕府将軍に報告するよう命令するや、対馬島主は帰ってこの外交手続きを徐々に執行し始めた。
   対馬島主は対馬島に帰るや、すぐには公式外交使節を派遣せずに、対馬島に来ている東莱府の朝鮮通訳に1696年末になってこの外交文書を筆写するようにさせ、まず朝鮮政府が幕府将軍に送る感謝の書簡を、対馬島主を経由して送るよう勧めた。

   鬱陵島・獨島を朝鮮領と再確認して日本人が国境を越え漁をするのを厳禁とするという日本徳川幕府将軍の外交文書(対馬島主が代理作成)を朝鮮中央政府が受取って読んだのは一年後である1697年2月であった。朝鮮政府は日本側に回答文書を送ったものか、あるいは受取だけをするのかなどを論議し、感謝の書簡は送らず、日本の決定は了解したので友誼を深めようと言う一般的な外交書簡のみ送ることにした。
   そうして朝鮮礼曹参議の李善溥と日本対馬州の刑部大輔 平義眞の間で二度にわたり外交書簡のやりとりがあったが、1699年1月、日本側から朝鮮側に朝鮮の返書を江戸の幕府将軍に伝達したという最後の確認書簡が到着し、外交手続きがすべて終結した。

   これで日本の対馬島主が長崎州の太守と結託して朝鮮の鬱陵島・于山島を奪取しようとして始めた鬱陵島・獨島領有権論争は1696年(粛宗22年)1月、徳川幕府将軍が鬱陵島・獨島が朝鮮領であり、日本漁民が越境して漁をするのを禁止することを再確認した決定にしたがい論争を完全に終了し、これに関する外交文書の交換も1696年1月最終的にみな終えたのである。

コメント:幕府は、竹島(鬱陵島)と松島(竹島=独島)が日本領でないことは下記のようなプロセスで確認しました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.6981
   老中・阿部豊後守は鳥取藩にたいし一七か条からなる質問「御尋の御書付」を問い合わせた。そのなかで注目される質問は「因州 伯州え付候竹嶋はいつの此より両国え附属候哉」「竹嶋の外両国え附属の嶋有之候哉」の二点である。幕府は、竹島が鳥取藩付属であると思いこんでいたようである。
  ・・・
   幕府の質問に対して鳥取藩は「竹嶋は因幡 伯耆附属ニては(ママ)無御座候」「竹嶋松嶋其外両国え付属の嶋 無御座候」と明言し、竹島、松島は自藩領ではないと回答した。

   この公文書ゆえに明治時代、内務省や太政官が松島(竹島=独島)を日本の版図外と決定しました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.6982

竹島・北方領土の返還要求大会

投稿者: kyomo_2003 投稿日時: 2003/11/15 19:25 投稿番号: [2671 / 18519]
>竹島・北方領土の返還要求大会=6年ぶり、1500人出席−隠岐

  日韓両国が領有権を主張している竹島と、日ロ両国が領有権を主張している北方領土の返還を求める「竹島・北方領土返還要求運動島根大会」が15日、島根県などの主催で同県隠岐島の西郷町で開かれた。この大会開催は6年ぶり。県や地元町村関係者のほか、外務省、水産庁の代表ら約1500人が出席した。   <時事通信社

半月城様教えて下さい!皆様必見!!!

投稿者: yamatominzokuda 投稿日時: 2003/11/14 21:54 投稿番号: [2670 / 18519]
日本社会では、韓国・朝鮮人、在日の方々は身分差別思想が強いと言われてます。

そこであなたに質問です。

質問:   あなたの祖先は両班、中人、常人、奴婢、白丁、、他の被差別階級?
あなたには家系図   (=族譜、チョッポ)あるの?

あなたがこの質問に答えられなければ、あなたは差別主義者ということになる。
日本の在日韓国・朝鮮人差別問題など語る資格などないわけだ。

おっと「トピずれ」と言うのはは逃げですよ。あなたはそこらじゅうにあなたご自慢の
半月城通信なるトピずれを張りマクってますからね。

答えてくださいね。あなたがこの質問に答えないということは、
そこらの「オレの祖先は両班だ」と今だに韓国・在日社会でえばってる
マヌケか、、ただの身分差別主義者ですよね。

あなたが差別を否定し民族みな平等を語るなら、別にあなたの祖先が白丁だろうが、
恥じないわけですよね。
よろしく、

この質問には皆様が注目しておりますからね。

早い話、半ケツは詐欺師の犯罪者ですね。

投稿者: hakofugunoko 投稿日時: 2003/11/14 15:56 投稿番号: [2669 / 18519]
南朝鮮人・北朝鮮人・在日朝鮮人に国際レベルからして、詐欺師や犯罪者が多いです。

詐欺師半ケツの過去の投稿からの意図は見え見えで、日本の法律からすると、犯罪が成立する場合が多いですけど、
南朝鮮も北朝鮮も、賄賂しだいの国家ですから・・・
日本の裁判ケースとして、初めてのケースでかも?半ケツを訴える事は可能です。

半ケツは、高額で弁護士手配してね。

太宗実録12年の半ケツ流解釈

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/11/14 14:26 投稿番号: [2668 / 18519]
過去の半ケツ氏の太宗実録12年4月巳巳条の解釈を調べてみました。
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<原文>
命議政府議處流山國島人江原道觀察使報云流山國島人白加勿等十二名來泊高城於羅津言曰予等生長武陵其島内人戸十一男女共六十餘今移居本島是島自東至西自南至北皆二息周回八息無牛馬水田唯種豆一斗出二十石或三十石麥一石出五十餘石竹如大椽海錯果木皆在焉竊慮此人等逃還姑分置于通州高城扞城

<半ケツ解釈>
1412年、太宗は鬱陵島の実情調査を命じたところ、江原道観察使は「流山國島人 白加勿等十二名が江原道高城於羅津にやって来て、自分たちはもともと武陵で生長したが、その島には今11戸60名が住んでいると告げた」ことなどを報告しました
http://www.han.org/a/half-moon/hm093.html#No.677
------------------------------------------
いやいや。「今移居本島」が見事なまでにcutされてますな〜。

自称「厳密な史料解釈」

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/11/12 15:16 投稿番号: [2667 / 18519]
>あなたの大西俊輝『日本海と竹島』引用も、トリミングか
  引用部分は明記しておりますが(要約部分)、横線以降の記述が大西氏の引用なんて誰も書いてませんがな。後世の解釈を頭から盲信して絶対視する誰かさんほど、お人好しではありませんので。

>江原道の観察使は信じた。彼も、この海域に二島が存在することを知っていたからである。
  大西氏のこれだけど、拙い漢文読解能力で太宗11年以降を調べたが、これに該当するような記述は見あたりまへんな。

>江原道の沖合に鬱陵島および鬱陵島から区別されたもう一つの島(併せて二つの島)があるという認識なの
  竹島の存在は認識してるけど、人が住めない小さな岩だらけの島という認識はなかったということか。知り過ぎてもいけない、知らなさ過ぎてもいけない微妙な「共通認識」だね。都合主義も甚だしい「厳密な解釈」ですこと。

>この史料は、そのように解釈できる史料なのであり、そのように取り扱われるべき史料なの。
  nochonggakkちゃんの言う自称「厳密な史料解釈」は、既に素性がばれてるからな〜。ま、せいぜい自称「厳密な史料解釈」を振りかざして気張って下さいな。

あんたも変わってないね。

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/11/12 14:31 投稿番号: [2666 / 18519]
  下条の解釈を絶対視していたときと変わってませんな。
  大西氏の当該記述は根拠が提示されてないので、採用しなかったんだよ。私の説のほうが説得力が高いと思いますが。

>騙されるような共通の認識基盤があった
  そうだね。曖昧な共通認識しかなかっただろうね。だから騙された。若しくはchuk-doに連想してしまって巨大化したのかもね。

ところでnochonggakk流の厳密な史料解釈って、根拠も提示せずに、推測で話しを進めて、こんな断定をすることなの?俺と変わらないじゃん。→「江原道の沖合に鬱陵島および鬱陵島から区別されたもう一つの島(併せて二つの島)があるという認識なの」

原文

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/11/12 14:23 投稿番号: [2665 / 18519]
命議政府議處流山國島人江原道觀察使報云流山國島人白加勿等十二名來泊高城
於羅津言曰予等生長武陵其島?人?十一男女共?十餘今移居本島是島自東至西自
南至北皆二息周回八息無牛馬水田唯種豆一斗出二十石或三十石麥一石出五十餘石
竹如大椽海錯果木皆在焉竊慮此人等逃還姑分置于通州高城 城

全然変わってないのね

投稿者: nochonggakk 投稿日時: 2003/11/12 14:13 投稿番号: [2664 / 18519]
>何故、こんな嘘をついたのか?それは鬱陵島が空島政策中だったからである。つまり、空島政策を破った罪を誤魔化すために武陵(鬱陵)島以外の架空の島(後の于山島)が丁稚あげられた。

前々から言っているように、あなたは史料解釈が甘い。だいたい、ここに登場する人たちは竹島=日本領という前提でしか史料を見ないから、恣意的な解釈しかしない。そういう立場からしか他人の発言を見ることができない。ご都合主義も甚だしい。あなたの大西俊輝『日本海と竹島』引用も、トリミングか、さもなくば誤読です。

大西俊輝『日本海と竹島』では、太宗実録12年4月己巳条の和訳を引用したうえで、以下のように書いている。
  (中略)なぜ島人は、流山(于山)と武陵の二島の存在を語ったのであろうか。おそらく彼らは、家族も居る自分たちの本拠地を、官憲に補足されたくなかった。あるいは島を大きく見せ、複数にも見せ、逃亡後も捜索困難なることを示したかった。だがいずれにせよ彼らは、この鬱陵島を複数の島、二島として供述した。この海域を往来する彼らは、ここに複数の島を、もともと海の知見として有していたのだろう。
彼らが語る二島とは、いずれも人の住む島であり、その島の二島たるや、互いにそう遠くはないという。だが人の住めるような島は鬱陵島以外に無い。それは二島ではない。かろうじて竹嶼(ブソウル岩)に一家族の居住が語られることがあったが、本来余り住めそうにない。独島(リアンクール岩)の方は、草木なき岩山で、飲料水は無く、当然住めない。すなわち白加勿らの話は、虚偽の二島の話であった。
  しかし江原道の観察使は信じた。彼も、この海域に二島が存在することを知っていたからである。(以下略、291〜292頁)

  いいですか。たしかに白加勿らは嘘をついた。しかしながら、相手を騙すために嘘をつこうと考えた場合、そうした嘘が成り立つような共通の認識が前提されることが必要なの。江原道観察使は、白加勿らの嘘にまんまと騙された。それは騙されるような共通の認識基盤があったからです。それらの共通認識とは、すなわち、白加勿らにあっても、江原道観察使にあっても、当時、江原道の沖合に鬱陵島および鬱陵島から区別されたもう一つの島(併せて二つの島)があるという認識なの。

この史料は、そのように解釈できる史料なのであり、そのように取り扱われるべき史料なの。わかった?

于山・武陵2島説は、罪逃れの嘘が原因

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/11/12 02:50 投稿番号: [2663 / 18519]
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太宗実録12年4月巳巳条(要約)
流山国の島人の白加忽ら12名が殄羅津に来て停泊している。彼らが言うには、「武陵島で生まれ育ち、その島の人口は60人程度。本島に移住したが、この島は東西・南北共に6里あまりで周囲は24里。この島には牛馬も水田もないが、種豆一斗から2,30石、麦1石から50石程度の収穫がある。巨大な竹が生え、果木や海産物が豊富である」
江原道の役人は逃亡されるのを恐れ彼らを通州ら三カ所に止めている。

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要約の元となった訳文は「日本海と竹島(大西俊輝)」より。原文は未入手。


即ち、白加忽は武陵島(鬱陵島)以外に、60人が住める島があると報告しているのである。これはあり得ない。何故、こんな嘘をついたのか?それは鬱陵島が空島政策中だったからである。つまり、空島政策を破った罪を誤魔化すために武陵(鬱陵)島以外の架空の島(後の于山島)が丁稚あげられた。

朝鮮の古地図で、鬱陵島と同じくらいの大きさの島が隣接して描かれている理由もこれですね。

獨島問答 Q29-30

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/11/09 20:07 投稿番号: [2662 / 18519]
Q29.当時、朝鮮の朝廷はそうも弱腰で、国土守護の意志もなかったのか?   穏健対応派の決定を批判する勢力がなかったということか?

ANS.そうではない。まず史官たちがこれを取りあげて立ちあがった。
   史官たちは「倭人のいういわゆる竹島は、まさにわが国の鬱陵島であるばかりか、鬱陵島の名前は新羅や高麗の歴史書籍にもみえる」と指摘し、鬱陵島と竹島は一島二名(ひとつの島にふたつの名前)なのに、倭人が「鬱陵島」の名を隠し、ただ「竹島」だけ持ちだしたのは、わが国の回答書における「貴国(日本)境地の竹島」「竹島漁採」を禁止するという文言を証拠にして、鬱陵島を後日占拠する画策であると分析し、わが彊土を他国に与えるのは不可なので、すぐ明確に判別し、狡猾な倭人をして二度と鬱陵島占拠のむら心を生じさせないようにするのが当然の道理なのに、(穏健対応派)一部臣下たちはみな慎重さが過ぎ、鬱陵島占拠の根拠となる文書などつくって与えたり、鬱陵島に入った罪のない漁民に罪を与えようとする話をしているなどと激烈に批判した。
   また、武臣たちは、日本が鬱陵島を持てば、近い時期に東海岸で倭寇のために被害をみることになろうと国王に申し上げ、穏健対応派を批判した。

   政界元老である南九萬は国王に上訴をあげ、歴史書籍や「芝峰類説」をみれば、鬱陵島は新羅時代から朝鮮の領土であり、鬱陵島を日本では「竹島」「磯竹島」というが、祖先が残してくれたわが領土に他国の人間を容認してはならず、前回、対馬島主に送った模糊とした回答文書は回収し、新しい回答書を作成して送るべきだと懇々と建議した。
   国王の粛宗は強い批判の世論に当惑し、南九萬の建議を採択し、南九萬を領議政(総理格)に任命し、前回の回答文書は取り消して回収し、新しい回答文書を作成して対馬島へ送るよう命令した。
   こうして1694年(粛宗20年)陰暦8月14日付で新たに作成して送った回答文書の内容は下記のとおりである。

  <わが国の江原道 蔚珍縣に属する島があり「鬱陵」と称するが、蔚珍縣の東海中にある。・・・わが国の「東国輿地勝覧」という本に記載され歴代にわたり伝えられており、ことの次第は非常に明瞭である。
   今回、わが国沿海の漁民たちがこの島に行ったが、思いがけず貴国の人たち自ら国境を侵犯してやって来て、お互い対置し、かえってわが国の人を拘束して江戸に送った。さいわいにも貴国の大君が事情を明確に調べ、多くの路銀をくだされ帰してくれた。
   しかし、わが国の民が漁をした地は本来「鬱陵島」であり、竹が多く産出するのであるいは「竹島」と称するが、これは一島(一つの島)二名(ふたつの名)にすぎない。一島二名は単にわが国の書籍に記録されているだけでなく、貴州の人も皆よく知っている。
   今回もらった書簡をみると、「竹島」を貴国の地とし、わが国の漁船の往来禁止を望み、貴国の人がわが国の境地を侵犯してわが国の民を拘束した失策は論じられていない。これでは誠実な信頼の道に傷となるといわざるを得ない。
   将来、この文の意味を深くくみとり、東都(江戸:今の東京であり、ここでは幕府の将軍をさす)に伝え報告し、貴国沿岸の人たちに徹底して鬱陵島に往来しないようにし、二度とこのような事が起きないようにするのが相互間の友誼にとってこの上なく好ましいことである>

   朝鮮の朝廷と強硬対応派が作成し対馬島に送ったこの新しい回答文書は「鬱陵島=竹島」の一島二名をとりあげ「鬱陵島=竹島」が朝鮮領であることを明確に宣明すると同時に日本漁民の「鬱陵島=竹島」への往来を厳重に禁止することを要求した堂々とした外交文書である。

Q30.日本の朝鮮にたいする公式窓口である対馬島主は朝鮮政府のうえのような堂々たる外交文書にどのような反応を示したのか?

石原のぶちゃんも

投稿者: hangetsujou 投稿日時: 2003/11/03 22:30 投稿番号: [2661 / 18519]
ぼそっとテレビで言ってましたね。ちゃんとやりたいんだと。

のぶちゃんの選挙区が私の地区なので入れマース!

自民党は選挙に勝って領土問題を解決せよ!

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2003/11/03 20:58 投稿番号: [2659 / 18519]
こんなタイトルを書くと、この掲示板をご覧の皆さんのなかには、
「政権交代を起こさなきゃいけないときに、どうしてkunitakaさんは
自民党を支持するんですか。もう貴方のHPは読みません!」
などと言う人もいるかもしれませんが、自民党の政権公約には
キチンと領土問題に対する考え方が述べられています。

先週末、職場近くの駅前で選挙運動員が配布していた
自民党のマニフェストをGETしました。
これには「わが国領土の返還や領有権等について粘り強い外交を継続し、
2009年までに大陸棚の調査を終了、国連へ提出」と書いてあります。

大陸棚の調査がいかに大切かは、下記の記事を見れば分かります。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000576&tid=kunitakaa4nc0afbca38a65f&sid=2000576&mid=4

また、私は小泉さんと同じく、郵政三事業の民営化をライフワークとしてきました。
もし自民党が負けるようなことがあれば、民営化は抵抗勢力によって阻止されます。

私は新保守主義であって、民主党の管さんみたいに、リベラルではありません。

再び言おう。

自民党は選挙に勝って領土問題を解決せよ!

負け犬の

投稿者: hangetsujou 投稿日時: 2003/11/03 00:21 投稿番号: [2658 / 18519]
遠吠え中です。

わざと知らぬふりをして?

投稿者: jaway 投稿日時: 2003/11/02 23:09 投稿番号: [2657 / 18519]
知らなかったんでしょう。
それ以前に知っていた様な文書記録もないですしね。

獨島問答 Q28

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/11/02 22:50 投稿番号: [2656 / 18519]
Q28.そうであれば、このとき対馬島主は徳川幕府とどのような関係であり、対馬島主の要求に朝鮮の朝廷はどのように対応したのか?

ANS.島主は江戸(今の東京)徳川幕府の支配下にあったが、日本中世の特徴である封建制で若干の地方分権的な権利も有していた。朝鮮の世宗時代以来、日本の朝鮮に対する外交交渉は対馬島島主だけが公式窓口として公認されてきた。
   このとき、対馬島の島主である宗義倫は鬱陵島を侵奪し対馬島の住民を移住しようとして、自身が幕府を代弁するとの前提で正官の橘真重を使節に任命し、安龍福・朴於屯を釜山に護送するかたわら朝鮮政府に文書を送り、鬱陵島ではないがそれと似たような別の日本領土である「竹島」があたかも存在するかのような文章をつくり、今後は竹島に朝鮮の船舶が出漁するのをけっして容認しないので、貴国は(朝鮮漁民の出漁を)厳格に禁止せよなどととんでもない要求をしてきたのである。
   当時、朝鮮の朝廷では安龍福などを牢に入れたまま、執権の左議政 睦来善、右議政 閔Am 一派の穏健対応論と、南九萬、兪集一、洪重夏らの強硬対応論が対立した。当時、主導権を握っていた左議政 睦来善、右議政 閔Amは国王の粛宗に穏健対応論を建議した。「粛宗実録」1693年11月丁己(18日)条には強硬対応論と穏健対応論がつぎのように記録されている。

  <接慰官 洪重夏が王に別れの挨拶をすべく、左議政 睦来善、右議政 閔Amが洪重夏とともに王に拝謁をした。
   洪重夏が申し上げるには「倭人のいう竹島はまさにわが国の鬱陵島です。今、関係ないからといって放置なさるのならそれまでですが、そうでないならあらかじめ明確に判別せねばなりません。また、万一彼らの民が入って住むようになれば、いかにも後日の心配の種になりましょうや」とした。
   睦来善、閔Am が申し上げるには「倭人たちが民戸を移し入った事実はまだ明確にはわからないが、これは 300年間も空島にしたままの土地であり、これにより事を荒立てて友好を害することはけっしていい方策ではありません」とした。王は閔Am らの意見にしたがった>

   これで睦来善、閔Am 一派は対馬島主に礼曹をとおして次のような穏健な対応の回答を送った。

  <わが国が東海岸の漁民に外洋に出られないようにしたのは、ひとえにわが国の境地である鬱陵島といえどもやはり遠いので任意の往来を許可しないものであり、その他の理由はない。
   いま、この漁船が貴国の境地である竹島に入ったことでわざわざ捕らえて送り返す煩雑な手間のうえに、書状まで送ってくださり、隣国の親善の友誼に感謝する次第である。
   漁をして生計をたてている漁民は、海で漂流する心配がたえずあるが、国境を越え深く入りこんで本格的に漁をすることは法律で厳正に罰するものであり、今回、犯人たちを法律により罪を問い、今後は沿海地域で規則を厳重に制定し、これを取り締まるつもりである>

   朝鮮の朝廷が対馬島島主に送ったこの回答文書は穏健対応に徹するあまり、日本側が主張する「竹島」がまさにわが領土である「鬱陵島」であることをよく知りながら、わざと知らぬふりをして「貴国(日本)の境地、竹島」云々として「竹島」へ朝鮮漁夫が漁のために往来することを厳重に取り締まり、罰を与え、その結果を知らせると回答した屈辱的な外交文書であった。万一「わが国の境地である鬱陵島」という一節が含まれていなかったら、鬱陵島を「竹島」として日本領土であると主張する日本の文書を、朝鮮の朝廷が外交文書として承認する証拠文書となってしまうような回答文を作成し送ったのである。

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

獨島問答 Q26-27

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/11/02 22:48 投稿番号: [2655 / 18519]
Q26.そうであれば、当時 日本の大谷、村川 両家や「渡海免許」に関連した者たちは獨島が鬱陵島の付属島嶼であることを認知していたのか?

ANS.もちろんである。大谷家と村川家が 1661年「松島渡海免許」を申請する直前にその申請を論議する過程で 1660年9月5日付の大谷家の亀山庄左衛門(注1)が村川家の大屋九右衛門に送った手紙に「将来、また来年(1661年・・・原引用者)より竹島之内松島(鬱陵島内の獨島)へ貴様の舟がお渡りの筈に御座候」として、「松島渡海免許」を幕府に申請した根拠が、すでに「竹島(鬱陵島)渡海免許」を1618年に受けたので「鬱陵島内の獨島(竹島之内松島)」に越境して渡る「松島(獨島)渡海免許」は松島(獨島)が「竹島(鬱陵島)の内」にある島なので、申請するのがあまりにも当然であることを明白にした。
   また、このころ6月21日付で大谷家の亀山庄左衛門が村川家の大屋九右衛門に送った手紙に「竹島近辺松島(鬱陵島に近い周辺の獨島)に渡海の件」として、獨島を「鬱陵島に近い周辺の獨島」とみなしたために「竹島(鬱陵島)渡海免許」を受けた両家は「松島(獨島)渡海免許」も受けるべきと考えていたことを表している。
   また、亀山庄左衛門が1660年9月8日付で筆写して村川家に送った手紙において獨島(松島)にふれ、「竹島近所之小島」(鬱陵島近くの小さな島)に小舟で渡海する件」として獨島を鬱陵島近くの小さな島、つまり鬱陵島の付属島嶼と認知した。

(注1)亀山庄左衛門は大谷家の者ではなく、阿部四郎五郎の家臣である。著者の混同と思われる。また、著者は「松島渡海免許」の存在を信じているが、これは否定されていることは前回書いたとおりである。
(注2)大屋九右衛門とあるが、これは大谷九右衛門とすべきところを当時の亀山庄左衛門が書き間違えたと思われる。大谷九右衛門は大谷家の当主。

Q27.日本側は、朝鮮政府が知らぬ間に日本漁民の2家門に鬱陵島と獨島に国境を越えて漁をしてもいいと許可する免許証を出し、日本漁民が鬱陵島・獨島近海に出漁したが、朝鮮政府と朝鮮漁民はそのまま傍観したのか?

韓国語が出来る方にお願い。

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2003/11/01 23:56 投稿番号: [2654 / 18519]
最近、私のHPアドレスが変更になりましたのでお知らせします。
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/

韓国語が出来る方にお願いがあるのですが、上記HPの左にある
アイコンを韓国語で書いていただけませんでしょうか?
「home」と「田中邦貴」は勿論書かなくて結構です。

こぴぺ

投稿者: tinopure 投稿日時: 2003/10/31 22:47 投稿番号: [2653 / 18519]
韓国側でいう「独島」(竹島)が朝鮮の文献にあらわれたのは1906年(明治39年)のことであり、つい最近のことである。
  つまり、歴史的に立証できることは、同島を領有していたのは日本人しかいない、ということである。
  また韓国は、1905年(明治38年)1月に日本が閣議で竹島の領有権を明確にしたことに対し、一方的であり朝鮮は外交権を奪われていて異議を言えなかったとするが、この閣議決定は古来から領有していた竹島への領有意志を再確認したのであり、外国通告を要する国際法の原則もなく、朝鮮に通告する義務などどこにもない。つまり、朝鮮の外交権云々など全く無関係の問題である。
  むしろ問題は、紛争の原因が1952年(昭和27年)に韓国が一方的に「李承晩ライン」を引いて領有権を主張したことに起因していることであり、紛争の責任は韓国にあるということである。

http://www.nipponkaigi.org/reidai01/Opinion2(J)/territory/takesima.htm
より   抜粋

半月さんこないもんな・・だめだよ、さぼっちゃぁ。>保守あげ

竹島問題

投稿者: microvax2_2003 投稿日時: 2003/10/29 04:22 投稿番号: [2652 / 18519]
絶対に風化させては駄目だ。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/

韓国の犯罪を許すな。

質問

投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/10/26 23:14 投稿番号: [2651 / 18519]
シン・ヨンハの寝言はともかく、あなたの「コメント」が激しく矛盾しているような気がするのは気のせいでしょうか?(笑)

獨島問答Q24-25

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/10/26 22:19 投稿番号: [2650 / 18519]
Q24.その他に日本では「獨島」を日本領と記録した古文献はないのか?

ANS.日本側が現在までに公開発表した古文献には「獨島」を日本領土と記録したものはない。それどころか、今まで知られた日本の古文献において「獨島」を記録した古文献はみなこの島が鬱陵島の付属島嶼であり、朝鮮領と記録しているのである。
   一方、韓日間で古文献資料の調査などを活用し「獨島」領有権を熾烈に展開した過程において日本はすこしでも日本に有利と思われる日本古文献を総動員して論争を展開してきたという事実を考慮すると、非公開の日本の古文献で「獨島」が日本領だったと証明する資料が出てくる可能性はほとんどなく、「獨島」が韓国領と証明する資料が多数出てくる可能性が高まっている。

Q25.日本政府は最近「歴史的」にも「獨島」は日本固有領土と主張し、その根拠として1600年前後から約80年間にわたり日本が免許証を民間人に与え「獨島」を実効的に支配、占有したという証拠があると主張した。日本側の主張は根拠があるのか?

ANS.日本政府がそのように主張する根拠とするのは徳川幕府が日本の漁業家である大谷甚吉と村川市兵衛の両家に 1618年に与えた「竹島渡海免許」と 1661年に与えた「松島渡海免許」である。
   このふたつの「渡海免許」は一見すると「竹島(鬱陵島)と松島(獨島)の占有権を日本の徳川幕府がもっているかのように見えるかも知れないが、その内容をみれば、かえって「竹島(鬱陵島)」と「松島(獨島)」が朝鮮領であることをもっと明確に証明する資料である。なぜなら、このふたつの「渡海免許」は「外国」に渡るときに許可する「免許状」であったためである。
   これは重大な争点なので、その一部始終を調べる必要がある。壬辰倭乱(1592-98)前後、鬱陵島は日本軍(倭寇)に略奪を受け廃墟になってしまった。そこで朝廷は鬱陵島の空島・刷還政策、つまり鬱陵島を空け、そこに入っている民を本土に帰す政策を強化した。

   この直後、日本の伯耆国の米子に居住する大谷甚吉なる者が越後という所を往来した際に颱風にあい遭難して「鬱陵島」に漂着した。大谷が鬱陵島(竹島)を踏査したところ、人が住まない無人島ではあるが水産資源が豊富な宝に満ちた島であることを知った。
   そこで大谷はこの鬱陵島に渡り、漁をしようとした。しかし当時、鬱陵島は人が住んでいないとはいえ、朝鮮の領土であることを知っていたので、鬱陵島(竹島)に渡って漁をするために、まず幕府の許可がかならず必要であった。
   なぜなら鬱陵島が日本領でなく外国の領土なので、国境を越え外国に渡り漁をしても越境罪の処罰をまぬがれるならば、幕府の公式の許可証が必要だったためである。
   そこで大谷は徳川幕府の官吏と通じている村川市兵衛とともに1616年に竹島渡海免許を申請して許可を得ようと運動した。
   その結果、徳川幕府の官吏で当時の伯耆国の太守職をになっていた松平新太郎光政が1618年に大谷・村川両家に「竹島渡海免許」を与えた。

コメント1:韓国の愼𨉷廈氏は「松島(獨島)渡海免許」の存在を信じているようですが、そのような免許状は存在しなかったようです。これは池内敏氏により詳細に研究されましたが、竹島=独島日本領派の塚本孝氏も存在しなかっただろうと記しています。
http://www.han.org/a/half-moon/hm091.html#No.656

コメント2:「竹島(鬱陵島)渡海免許」の形式は奉書船制度による奉書でした。これも御朱印船制度と並んで異国へ渡る際に必要な許可の一形式でした。また、免許の出された年は、最近の研究では 1618年ではなく 1625年と考えられています。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm091.html#No.654

>三国間の問題?

投稿者: kusosyopparinisiwo 投稿日時: 2003/10/25 03:12 投稿番号: [2649 / 18519]
>民間レベルでは常に声を出し続けるしかないんでしょう

無駄な努力ご苦労さんw

やっぱり私は

投稿者: hangetsujou 投稿日時: 2003/10/23 17:00 投稿番号: [2648 / 18519]
自分のホームページ内で自慰行為してるしかないのね・・・

三国間の問題?

投稿者: llllowollll 投稿日時: 2003/10/22 13:48 投稿番号: [2647 / 18519]
今回半月城氏の北朝鮮歴史学会の独島見解を読んでちょっと考えさせられました
主張自体はこのトピで論破された内容ばかりで何も目新しいものは無いのですが、北朝鮮がこういう主張をしているということ事実に興味を持ちました

何故外務省は竹島問題に関して非常に消極的なのか?

単に職務怠慢ではないかと思ってたのですが、実は北朝鮮の存在がネックになっているのではと考えます

推測ではありますが、韓日漁業協定での韓国側の対応から見ても、日韓では実務レベルではある程度話がついているのではないか。韓国の官僚もそれほど馬鹿ではないでしょうから、竹島問題が本格的な論争になった場合自分達が圧倒的に不利であることぐらい理解していると思います

ただし、現状では日本も韓国も本気で解決に向かえない理由がある。一つは韓国の国内事情(世論)であり、もう一つが北朝鮮の存在ではないでしょうか。

日本としてもここで韓国との間で苦労して決着しても、北朝鮮と国交回復した場合、また問題を蒸し返される可能性がある。日韓基本条約の失敗(韓国を朝鮮半島唯一の国として調印したはずなのに!)を繰り返したくないのでしょう。

韓国としても勝手に日本と手打ちをして、将来統一が実現したときにどういう事態が起きるか想像もつかない、つまり現状維持しか選択肢がない。

このような状況のもと日韓の実務レベルで何らかの根回しや密約のようなものが行われたとして決して不思議ではないような気がします。

だからといって決して現状放置を許しておける訳ではないので、民間レベルでは常に声を出し続けるしかないんでしょう

半月氏とAHO師匠の埋め難い差

投稿者: llllowollll 投稿日時: 2003/10/21 22:58 投稿番号: [2646 / 18519]
AHO師匠は議論の相手と議論内容をちゃんと区別することができ、議論を「楽しむ」ということを知っている人ですね。
師匠はいつも罵倒・挑発から入ってくるので私も何度かペースに乗せられましたが、議論を「楽しむ」ための前菜、前座に過ぎないんだなあってようやく分かってきました。
罵倒合戦のあともなんか親近感が沸いてしまう不思議な人です

さて、それに比較して半月氏はというと、妙な民族の自尊心に凝り固まり、独り善がりの使命感に燃えて、議論が議論相手とのコミュニケーションであることも忘れ、余裕のない強がりばかりを垂れ流すだけで、結局何も生み出さず、あとに残るのは互いの嫌悪感のみ。

自分の意見に少しでも同調してくれる人には嬉々としてレスをつけるところを見ると、半月君自身実はつらいんだろうなあって、ちょっと同情します。

半月君、君自身も本当は気が付いているでしょう?なぜ自分は反論ができないのか、反論できない言い訳を考えることより先にまず少し「余裕」を持ちましょう。そして議論を楽しむことを考えませんか?

論破されたからって人生が終わるわけでもなし、また次の機会にでも論破しかえしたらいいではないですか。それよりか他人と真剣に議論することで得る満足感のほうが遥かに大きいと思いますよ

気持ちの持ちかたをほんの少し変えるだけで、ずいぶん楽になると思います。少しは師匠を見習いましょう(笑

>シン・ヨンハ

投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/10/21 22:15 投稿番号: [2645 / 18519]
http://sociology.snu.ac.kr/professor1.1.htm

1961 ソウル大 社会学科 卒業
1964 ソウル大 大学院 経済学 (修士)
1968~1970 アメリカ ハーバード大 大学院 修了
1975 ソウル大 大学院 社会学 (博士)

1965〜1974 ソウル大 経済学科 専任講師・助教授
1967〜1968 アメリカ ハーバード大 延慶研究所 客員研究員
1972 ソウル大 経済学科 助教授
1975 ソウル大 社会学科 助教授
1976 ソウル大 社会学科 副教授
(略)

…歴史学と関係ないじゃん。

こちらこそ

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/10/21 21:32 投稿番号: [2644 / 18519]
ありがとうございました。
>お相手頂き感謝します。本日は有り難うございました


翻訳掲示板の韓国人を相手にしてたのですが、話にならない。シン・ヨンハ等のcopyばかりでつまらないです。

貴方も

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/10/21 21:04 投稿番号: [2643 / 18519]
またお会いしましょう。

こだわり健在ですな

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/10/21 21:03 投稿番号: [2642 / 18519]
簡単に屈するようでは楽しめませんし、期待通りの回答を頂ける知己は得難いものと感じます。

お相手頂き感謝します。本日は有り難うございました。

>一時はそう思ったけどね

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/10/21 20:53 投稿番号: [2641 / 18519]
> ICJに持ち込むほどもないかなとも思い始めている

うん。大韓帝国が竹島を認識していたとは思えないからね。


>二国間で解決するか、日本側が一方的に取り下げるのが筋じゃないかな。

  筋的に、「韓国側が一方的に取り下げる」というのに同意します。
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