竹島

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獨島問答Q39,40

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/11/30 09:27 投稿番号: [2679 / 18519]
   1696年1月、日本の徳川幕府将軍が鬱陵島と獨島を朝鮮領として再確認し、日本の漁夫たちの越境漁業を禁止した直後、朝鮮の朝廷は鬱陵島にたいする「刷出・空島政策」はそのまま継続したが、1697年(粛宗23年)4月13日、領議政 柳尚運の建議にしたがい「巡視制度」「捜討制度」を採択した。
  「巡視・捜討制度」とは2年間隔(3年目毎に1回)で東海岸の辺境武将をして規則的に巡視船団を編成し、鬱陵島に入り巡視・捜討して帰ってくる制度である。

コメント:『太宗実録』からわかることは下記のとおりですが、実録は武陵島と于山島を混同しているようです。
  <『太宗実録』と于山島 >
http://www.han.org/a/half-moon/hm093.html#No.677
1.流山国の島民の話では、武陵島に11家族、60名が住んでいる
1.かって朴習がきいたところでは、武陵島に方之用ら15家族が住んでいる。
2.また、武陵島の傍らに小島がある。
3.于山島から帰った武陵島等處 按撫使の金麟雨は3名を連れ帰った。その島
  には15家族、86名が住んでいる。


Q40.日本側は 1696年1月、徳川幕府将軍が鬱陵島・獨島を朝鮮領と再確認し、日本漁夫の漁を禁止した後、この禁令を順守し、鬱陵島・獨島に対する朝鮮の領有権を尊重したのか?

ANS.徳川幕府は鬱陵島・獨島を朝鮮領と再確認して尊重し、日本漁民が国境を越え鬱陵島・獨島に入って漁をするのを比較的よく防いだ。その結果は諸文献と古誌に部分的に反映された。
   たとえば、日本実学派の最高学者である林子平(1738-1793)は、1785年ころ『三国通覧図説』という本を刊行し、その付録地図5枚の一部に「三国接壌之図」と「大日本地図」を描いた。地図で国境と領土を明瞭に区分して表すために国別に彩色したが、朝鮮は黄色に、日本は緑色に彩色した。
   林子平は東海の中に鬱陵島と獨島(于山島)を正確な位置に描き、鬱陵島と獨島をみな朝鮮色である黄色に彩色し朝鮮領であることを明確に表示した。
   そうしておいても、後日あるいは無知な日本人たちのごり押しがあるやもしれないと考えたのか、これら地図は鬱陵島と獨島の二島の横にふたたび「朝鮮ノ持ニ(朝鮮の物に)」という文字を記入し、鬱陵島と獨島が朝鮮領であることを繰りかえし強調した。
   林子平が 1785年に描いた地図などに鬱陵島と獨島を朝鮮領の色で彩色し、その横に「朝鮮ノ持ニ(朝鮮の物に)」と描いた文字は、「獨島」が論争の余地なく朝鮮の領土であることを日本側で証明する決定的な資料とみることができる。
   また同じ時期、徳川幕府の日本地図である「総絵図」という地図も国境と領土を明白に区分するために、日本は赤色で、朝鮮は黄色で彩色したが、鬱陵島と獨島を正確な位置に描き、鬱陵島と獨島をみな朝鮮を表示する色である黄色に彩色し、鬱陵島と獨島がみな朝鮮領であることを明瞭に表示した。
   のみならず、この地図も鬱陵島と獨島の横に文字で「朝鮮ノ持ニ(朝鮮の物に)」と書き入れ、鬱陵島と獨島が朝鮮領であることを繰りかえし明確に表示した。

コメント:林子平の地図については下記に解説したとおりです。
  <林子平の地図>
http://www.han.org/a/half-moon/hm068.html#No.451
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