竹島

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獨島問答39

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/11/30 09:26 投稿番号: [2678 / 18519]
Q39.17世紀末、日本との鬱陵島・獨島領有権論争がうまく解決された後、鬱陵島の「空島政策」は廃止されたのか?   鬱陵島の「空島政策」はいつ、なぜ始まり、17世紀末、「鬱陵島・獨島領有権論争」以後にも空島政策が継続されたなら、どうしてそうなったのか?

ANS.倭寇の侵略と略奪のために朝鮮の太宗が1417年(太宗17年)に鬱陵島「空島刷還政策」を確定し採択した。
   高麗末期〜朝鮮初期には倭寇が猖獗し、中国海岸と朝鮮沿岸を侵し略奪を行った。とくに高麗末には倭寇が内陸奥地にまで深く入りこみ、殺戮と略奪を行った。李成桂が民族の英雄として浮上し、新たに朝鮮王朝をひらく基盤になった業績のひとつが、全羅道 智異山麓の奥地まで侵入した倭寇を潰滅した功労であり、これは大きな比重を占めた。
   鬱陵島のケースをあげると 1379年(高麗 ウ王5年)7月、倭寇が鬱陵島に侵入して住民を殺戮し略奪を犯し 15日間とどまった後に引き上げた。

  (朝鮮時代)太宗は即位直後の1403年(太宗3年)8月11日に江原道 観察使の建議にしたがい鬱陵島住民を内陸に呼び寄せたが、島が空であることを知った対馬島主の宗貞茂は 1407年3月16日、土産物とその間に倭寇が捕らえた朝鮮人捕虜を送り、対馬島人を鬱陵島に移住させる許可を要請してきた。
   太宗は、よしんば島が空であっても他国の人間が国境を越えて入り、紛争の種になるようなことはできないという理由でこれを断固として拒絶した。

   太宗は 1417年(太宗17年)正月、金麟雨を按撫使に任命し、鬱陵島に派遣し、鬱陵島に居住する民をみな連れて来させた。
   しかるに金麟雨が1417年2月25日に帰還しておこなった報告によれば、鬱陵島に男女86名が居住しているが、継続して鬱陵島に住むことを請願しているので代表格の3名だけ連れてきたが、鬱陵島近辺に付属島嶼の于山島という小さな島があるとした。
   ここに太宗は 1417年2月8日、右議政をして政府の大臣をみな招集させて大殿会議を開催し、鬱陵島と于山島の管理政策を論議した。圧倒的多数の大臣たちは鬱陵島に軍事的な鎮を設置して防御し、民を居住させ農業と漁業を継続させるよう主張した。
   しかし、工曹判書の黄喜はこれに反対し、鬱陵島住民を速やかに陸地に刷出(連れてこさせること)するのが最も安全な方策であると主張した。

   太宗は、黄喜が提案した「刷出政策」をよしとして採択した。鬱陵島に居住する民を刷出すれば鬱陵島は空になるので、これを「空島政策」と呼ぶのである。
   太宗が鬱陵島にたいし「刷出政策」「空島政策」を決定したのは1417年2月8日であり、獨島に対し公式に「于山島」という名称を使用したのもこのころ(1417年2月5〜8日)であった。
   太宗は1417年2月8日「刷出・空島政策」を採択すると同時に金麟雨を于山・武陵島處按撫使(獨島・鬱陵島等地域 按撫使)に任命し、ふたたび鬱陵島に派遣し、鬱陵島住民を内地に連れて来させるようにした。
   于山・武陵島處 按撫使 金麟雨がふたたび鬱陵島に入り居住民をみな刷出して来た6か月後の1417年8月6日、倭寇が于山島(獨島)と武陵島にまた侵入したと「太宗実録」は記録している。

   しかし、鬱陵島出身者と遺民たちは朝廷の監視を避け、ひそかに鬱陵島に入って居住しつづけた。于山島(獨島)は人が住まなかったが、鬱陵島(武陵島)は人が住むのに適当な地域であったためである。
   しかるに日本が1592年、壬申倭乱を起こしたとき、倭寇はまた鬱陵島を侵略し殺戮と略奪を犯した。このとき、鬱陵島住民はほとんど殺戮されたとみられる。
   これ以後、東海岸漁民は鬱陵島に常住するのは念頭になく、季節的に漁業にでかけ、舟をつくる木を伐って帰るのが慣行であった。
(つづく)
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