竹島

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

獨島問答 Q31-34

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/11/16 08:30 投稿番号: [2672 / 18519]
Q31.それなら、1693-1695年「鬱陵島=竹島」領有権をとりまく朝鮮と日本の外交論争はどのように解決されたのか?

Q32.そうであるなら対馬島の藩主は1696年1月、徳川幕府関白のうえの決定と命令を即刻遂行して朝鮮側に通告したのか?

Q33.安龍福はまたどのような活動をしたのか?

Q34.安龍福が二度目に日本を往来した後、朝鮮政府と日本政府間に正式外交交渉と論争終結の文書交換があったのか?

ANS.あった。徳川幕府 関白(将軍)が1696年1月28日に鬱陵島・獨島を朝鮮領土と再確認して日本漁夫が鬱陵島・獨島で漁をすることを禁止する決定をくだすと同時に、この再確認の決定に関連して対馬島主が対馬島の刑部大輔を朝鮮に送り朝鮮政府に知らせて外交交渉を終えた後にその結果を幕府将軍に報告するよう命令するや、対馬島主は帰ってこの外交手続きを徐々に執行し始めた。
   対馬島主は対馬島に帰るや、すぐには公式外交使節を派遣せずに、対馬島に来ている東莱府の朝鮮通訳に1696年末になってこの外交文書を筆写するようにさせ、まず朝鮮政府が幕府将軍に送る感謝の書簡を、対馬島主を経由して送るよう勧めた。

   鬱陵島・獨島を朝鮮領と再確認して日本人が国境を越え漁をするのを厳禁とするという日本徳川幕府将軍の外交文書(対馬島主が代理作成)を朝鮮中央政府が受取って読んだのは一年後である1697年2月であった。朝鮮政府は日本側に回答文書を送ったものか、あるいは受取だけをするのかなどを論議し、感謝の書簡は送らず、日本の決定は了解したので友誼を深めようと言う一般的な外交書簡のみ送ることにした。
   そうして朝鮮礼曹参議の李善溥と日本対馬州の刑部大輔 平義眞の間で二度にわたり外交書簡のやりとりがあったが、1699年1月、日本側から朝鮮側に朝鮮の返書を江戸の幕府将軍に伝達したという最後の確認書簡が到着し、外交手続きがすべて終結した。

   これで日本の対馬島主が長崎州の太守と結託して朝鮮の鬱陵島・于山島を奪取しようとして始めた鬱陵島・獨島領有権論争は1696年(粛宗22年)1月、徳川幕府将軍が鬱陵島・獨島が朝鮮領であり、日本漁民が越境して漁をするのを禁止することを再確認した決定にしたがい論争を完全に終了し、これに関する外交文書の交換も1696年1月最終的にみな終えたのである。

コメント:幕府は、竹島(鬱陵島)と松島(竹島=独島)が日本領でないことは下記のようなプロセスで確認しました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.6981
   老中・阿部豊後守は鳥取藩にたいし一七か条からなる質問「御尋の御書付」を問い合わせた。そのなかで注目される質問は「因州 伯州え付候竹嶋はいつの此より両国え附属候哉」「竹嶋の外両国え附属の嶋有之候哉」の二点である。幕府は、竹島が鳥取藩付属であると思いこんでいたようである。
  ・・・
   幕府の質問に対して鳥取藩は「竹嶋は因幡 伯耆附属ニては(ママ)無御座候」「竹嶋松嶋其外両国え付属の嶋 無御座候」と明言し、竹島、松島は自藩領ではないと回答した。

   この公文書ゆえに明治時代、内務省や太政官が松島(竹島=独島)を日本の版図外と決定しました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.6982
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)