獨島問答 Q28
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/11/02 22:50 投稿番号: [2656 / 18519]
Q28.そうであれば、このとき対馬島主は徳川幕府とどのような関係であり、対馬島主の要求に朝鮮の朝廷はどのように対応したのか?
ANS.島主は江戸(今の東京)徳川幕府の支配下にあったが、日本中世の特徴である封建制で若干の地方分権的な権利も有していた。朝鮮の世宗時代以来、日本の朝鮮に対する外交交渉は対馬島島主だけが公式窓口として公認されてきた。
このとき、対馬島の島主である宗義倫は鬱陵島を侵奪し対馬島の住民を移住しようとして、自身が幕府を代弁するとの前提で正官の橘真重を使節に任命し、安龍福・朴於屯を釜山に護送するかたわら朝鮮政府に文書を送り、鬱陵島ではないがそれと似たような別の日本領土である「竹島」があたかも存在するかのような文章をつくり、今後は竹島に朝鮮の船舶が出漁するのをけっして容認しないので、貴国は(朝鮮漁民の出漁を)厳格に禁止せよなどととんでもない要求をしてきたのである。
当時、朝鮮の朝廷では安龍福などを牢に入れたまま、執権の左議政 睦来善、右議政 閔Am 一派の穏健対応論と、南九萬、兪集一、洪重夏らの強硬対応論が対立した。当時、主導権を握っていた左議政 睦来善、右議政 閔Amは国王の粛宗に穏健対応論を建議した。「粛宗実録」1693年11月丁己(18日)条には強硬対応論と穏健対応論がつぎのように記録されている。
<接慰官 洪重夏が王に別れの挨拶をすべく、左議政 睦来善、右議政 閔Amが洪重夏とともに王に拝謁をした。
洪重夏が申し上げるには「倭人のいう竹島はまさにわが国の鬱陵島です。今、関係ないからといって放置なさるのならそれまでですが、そうでないならあらかじめ明確に判別せねばなりません。また、万一彼らの民が入って住むようになれば、いかにも後日の心配の種になりましょうや」とした。
睦来善、閔Am が申し上げるには「倭人たちが民戸を移し入った事実はまだ明確にはわからないが、これは 300年間も空島にしたままの土地であり、これにより事を荒立てて友好を害することはけっしていい方策ではありません」とした。王は閔Am らの意見にしたがった>
これで睦来善、閔Am 一派は対馬島主に礼曹をとおして次のような穏健な対応の回答を送った。
<わが国が東海岸の漁民に外洋に出られないようにしたのは、ひとえにわが国の境地である鬱陵島といえどもやはり遠いので任意の往来を許可しないものであり、その他の理由はない。
いま、この漁船が貴国の境地である竹島に入ったことでわざわざ捕らえて送り返す煩雑な手間のうえに、書状まで送ってくださり、隣国の親善の友誼に感謝する次第である。
漁をして生計をたてている漁民は、海で漂流する心配がたえずあるが、国境を越え深く入りこんで本格的に漁をすることは法律で厳正に罰するものであり、今回、犯人たちを法律により罪を問い、今後は沿海地域で規則を厳重に制定し、これを取り締まるつもりである>
朝鮮の朝廷が対馬島島主に送ったこの回答文書は穏健対応に徹するあまり、日本側が主張する「竹島」がまさにわが領土である「鬱陵島」であることをよく知りながら、わざと知らぬふりをして「貴国(日本)の境地、竹島」云々として「竹島」へ朝鮮漁夫が漁のために往来することを厳重に取り締まり、罰を与え、その結果を知らせると回答した屈辱的な外交文書であった。万一「わが国の境地である鬱陵島」という一節が含まれていなかったら、鬱陵島を「竹島」として日本領土であると主張する日本の文書を、朝鮮の朝廷が外交文書として承認する証拠文書となってしまうような回答文を作成し送ったのである。
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
ANS.島主は江戸(今の東京)徳川幕府の支配下にあったが、日本中世の特徴である封建制で若干の地方分権的な権利も有していた。朝鮮の世宗時代以来、日本の朝鮮に対する外交交渉は対馬島島主だけが公式窓口として公認されてきた。
このとき、対馬島の島主である宗義倫は鬱陵島を侵奪し対馬島の住民を移住しようとして、自身が幕府を代弁するとの前提で正官の橘真重を使節に任命し、安龍福・朴於屯を釜山に護送するかたわら朝鮮政府に文書を送り、鬱陵島ではないがそれと似たような別の日本領土である「竹島」があたかも存在するかのような文章をつくり、今後は竹島に朝鮮の船舶が出漁するのをけっして容認しないので、貴国は(朝鮮漁民の出漁を)厳格に禁止せよなどととんでもない要求をしてきたのである。
当時、朝鮮の朝廷では安龍福などを牢に入れたまま、執権の左議政 睦来善、右議政 閔Am 一派の穏健対応論と、南九萬、兪集一、洪重夏らの強硬対応論が対立した。当時、主導権を握っていた左議政 睦来善、右議政 閔Amは国王の粛宗に穏健対応論を建議した。「粛宗実録」1693年11月丁己(18日)条には強硬対応論と穏健対応論がつぎのように記録されている。
<接慰官 洪重夏が王に別れの挨拶をすべく、左議政 睦来善、右議政 閔Amが洪重夏とともに王に拝謁をした。
洪重夏が申し上げるには「倭人のいう竹島はまさにわが国の鬱陵島です。今、関係ないからといって放置なさるのならそれまでですが、そうでないならあらかじめ明確に判別せねばなりません。また、万一彼らの民が入って住むようになれば、いかにも後日の心配の種になりましょうや」とした。
睦来善、閔Am が申し上げるには「倭人たちが民戸を移し入った事実はまだ明確にはわからないが、これは 300年間も空島にしたままの土地であり、これにより事を荒立てて友好を害することはけっしていい方策ではありません」とした。王は閔Am らの意見にしたがった>
これで睦来善、閔Am 一派は対馬島主に礼曹をとおして次のような穏健な対応の回答を送った。
<わが国が東海岸の漁民に外洋に出られないようにしたのは、ひとえにわが国の境地である鬱陵島といえどもやはり遠いので任意の往来を許可しないものであり、その他の理由はない。
いま、この漁船が貴国の境地である竹島に入ったことでわざわざ捕らえて送り返す煩雑な手間のうえに、書状まで送ってくださり、隣国の親善の友誼に感謝する次第である。
漁をして生計をたてている漁民は、海で漂流する心配がたえずあるが、国境を越え深く入りこんで本格的に漁をすることは法律で厳正に罰するものであり、今回、犯人たちを法律により罪を問い、今後は沿海地域で規則を厳重に制定し、これを取り締まるつもりである>
朝鮮の朝廷が対馬島島主に送ったこの回答文書は穏健対応に徹するあまり、日本側が主張する「竹島」がまさにわが領土である「鬱陵島」であることをよく知りながら、わざと知らぬふりをして「貴国(日本)の境地、竹島」云々として「竹島」へ朝鮮漁夫が漁のために往来することを厳重に取り締まり、罰を与え、その結果を知らせると回答した屈辱的な外交文書であった。万一「わが国の境地である鬱陵島」という一節が含まれていなかったら、鬱陵島を「竹島」として日本領土であると主張する日本の文書を、朝鮮の朝廷が外交文書として承認する証拠文書となってしまうような回答文を作成し送ったのである。
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 2655 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2656.html