獨島問答 Q29-30
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/11/09 20:07 投稿番号: [2662 / 18519]
Q29.当時、朝鮮の朝廷はそうも弱腰で、国土守護の意志もなかったのか?
穏健対応派の決定を批判する勢力がなかったということか?
ANS.そうではない。まず史官たちがこれを取りあげて立ちあがった。
史官たちは「倭人のいういわゆる竹島は、まさにわが国の鬱陵島であるばかりか、鬱陵島の名前は新羅や高麗の歴史書籍にもみえる」と指摘し、鬱陵島と竹島は一島二名(ひとつの島にふたつの名前)なのに、倭人が「鬱陵島」の名を隠し、ただ「竹島」だけ持ちだしたのは、わが国の回答書における「貴国(日本)境地の竹島」「竹島漁採」を禁止するという文言を証拠にして、鬱陵島を後日占拠する画策であると分析し、わが彊土を他国に与えるのは不可なので、すぐ明確に判別し、狡猾な倭人をして二度と鬱陵島占拠のむら心を生じさせないようにするのが当然の道理なのに、(穏健対応派)一部臣下たちはみな慎重さが過ぎ、鬱陵島占拠の根拠となる文書などつくって与えたり、鬱陵島に入った罪のない漁民に罪を与えようとする話をしているなどと激烈に批判した。
また、武臣たちは、日本が鬱陵島を持てば、近い時期に東海岸で倭寇のために被害をみることになろうと国王に申し上げ、穏健対応派を批判した。
政界元老である南九萬は国王に上訴をあげ、歴史書籍や「芝峰類説」をみれば、鬱陵島は新羅時代から朝鮮の領土であり、鬱陵島を日本では「竹島」「磯竹島」というが、祖先が残してくれたわが領土に他国の人間を容認してはならず、前回、対馬島主に送った模糊とした回答文書は回収し、新しい回答書を作成して送るべきだと懇々と建議した。
国王の粛宗は強い批判の世論に当惑し、南九萬の建議を採択し、南九萬を領議政(総理格)に任命し、前回の回答文書は取り消して回収し、新しい回答文書を作成して対馬島へ送るよう命令した。
こうして1694年(粛宗20年)陰暦8月14日付で新たに作成して送った回答文書の内容は下記のとおりである。
<わが国の江原道 蔚珍縣に属する島があり「鬱陵」と称するが、蔚珍縣の東海中にある。・・・わが国の「東国輿地勝覧」という本に記載され歴代にわたり伝えられており、ことの次第は非常に明瞭である。
今回、わが国沿海の漁民たちがこの島に行ったが、思いがけず貴国の人たち自ら国境を侵犯してやって来て、お互い対置し、かえってわが国の人を拘束して江戸に送った。さいわいにも貴国の大君が事情を明確に調べ、多くの路銀をくだされ帰してくれた。
しかし、わが国の民が漁をした地は本来「鬱陵島」であり、竹が多く産出するのであるいは「竹島」と称するが、これは一島(一つの島)二名(ふたつの名)にすぎない。一島二名は単にわが国の書籍に記録されているだけでなく、貴州の人も皆よく知っている。
今回もらった書簡をみると、「竹島」を貴国の地とし、わが国の漁船の往来禁止を望み、貴国の人がわが国の境地を侵犯してわが国の民を拘束した失策は論じられていない。これでは誠実な信頼の道に傷となるといわざるを得ない。
将来、この文の意味を深くくみとり、東都(江戸:今の東京であり、ここでは幕府の将軍をさす)に伝え報告し、貴国沿岸の人たちに徹底して鬱陵島に往来しないようにし、二度とこのような事が起きないようにするのが相互間の友誼にとってこの上なく好ましいことである>
朝鮮の朝廷と強硬対応派が作成し対馬島に送ったこの新しい回答文書は「鬱陵島=竹島」の一島二名をとりあげ「鬱陵島=竹島」が朝鮮領であることを明確に宣明すると同時に日本漁民の「鬱陵島=竹島」への往来を厳重に禁止することを要求した堂々とした外交文書である。
Q30.日本の朝鮮にたいする公式窓口である対馬島主は朝鮮政府のうえのような堂々たる外交文書にどのような反応を示したのか?
ANS.そうではない。まず史官たちがこれを取りあげて立ちあがった。
史官たちは「倭人のいういわゆる竹島は、まさにわが国の鬱陵島であるばかりか、鬱陵島の名前は新羅や高麗の歴史書籍にもみえる」と指摘し、鬱陵島と竹島は一島二名(ひとつの島にふたつの名前)なのに、倭人が「鬱陵島」の名を隠し、ただ「竹島」だけ持ちだしたのは、わが国の回答書における「貴国(日本)境地の竹島」「竹島漁採」を禁止するという文言を証拠にして、鬱陵島を後日占拠する画策であると分析し、わが彊土を他国に与えるのは不可なので、すぐ明確に判別し、狡猾な倭人をして二度と鬱陵島占拠のむら心を生じさせないようにするのが当然の道理なのに、(穏健対応派)一部臣下たちはみな慎重さが過ぎ、鬱陵島占拠の根拠となる文書などつくって与えたり、鬱陵島に入った罪のない漁民に罪を与えようとする話をしているなどと激烈に批判した。
また、武臣たちは、日本が鬱陵島を持てば、近い時期に東海岸で倭寇のために被害をみることになろうと国王に申し上げ、穏健対応派を批判した。
政界元老である南九萬は国王に上訴をあげ、歴史書籍や「芝峰類説」をみれば、鬱陵島は新羅時代から朝鮮の領土であり、鬱陵島を日本では「竹島」「磯竹島」というが、祖先が残してくれたわが領土に他国の人間を容認してはならず、前回、対馬島主に送った模糊とした回答文書は回収し、新しい回答書を作成して送るべきだと懇々と建議した。
国王の粛宗は強い批判の世論に当惑し、南九萬の建議を採択し、南九萬を領議政(総理格)に任命し、前回の回答文書は取り消して回収し、新しい回答文書を作成して対馬島へ送るよう命令した。
こうして1694年(粛宗20年)陰暦8月14日付で新たに作成して送った回答文書の内容は下記のとおりである。
<わが国の江原道 蔚珍縣に属する島があり「鬱陵」と称するが、蔚珍縣の東海中にある。・・・わが国の「東国輿地勝覧」という本に記載され歴代にわたり伝えられており、ことの次第は非常に明瞭である。
今回、わが国沿海の漁民たちがこの島に行ったが、思いがけず貴国の人たち自ら国境を侵犯してやって来て、お互い対置し、かえってわが国の人を拘束して江戸に送った。さいわいにも貴国の大君が事情を明確に調べ、多くの路銀をくだされ帰してくれた。
しかし、わが国の民が漁をした地は本来「鬱陵島」であり、竹が多く産出するのであるいは「竹島」と称するが、これは一島(一つの島)二名(ふたつの名)にすぎない。一島二名は単にわが国の書籍に記録されているだけでなく、貴州の人も皆よく知っている。
今回もらった書簡をみると、「竹島」を貴国の地とし、わが国の漁船の往来禁止を望み、貴国の人がわが国の境地を侵犯してわが国の民を拘束した失策は論じられていない。これでは誠実な信頼の道に傷となるといわざるを得ない。
将来、この文の意味を深くくみとり、東都(江戸:今の東京であり、ここでは幕府の将軍をさす)に伝え報告し、貴国沿岸の人たちに徹底して鬱陵島に往来しないようにし、二度とこのような事が起きないようにするのが相互間の友誼にとってこの上なく好ましいことである>
朝鮮の朝廷と強硬対応派が作成し対馬島に送ったこの新しい回答文書は「鬱陵島=竹島」の一島二名をとりあげ「鬱陵島=竹島」が朝鮮領であることを明確に宣明すると同時に日本漁民の「鬱陵島=竹島」への往来を厳重に禁止することを要求した堂々とした外交文書である。
Q30.日本の朝鮮にたいする公式窓口である対馬島主は朝鮮政府のうえのような堂々たる外交文書にどのような反応を示したのか?
これは メッセージ 2656 (hangetsujoh さん)への返信です.
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