竹島
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Re: 于山島はやっぱり独島日本の主張覆して
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/01 23:06 投稿番号: [16074 / 18519]
これは メッセージ 16029 (yabutarou01 さん)への返信です.
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『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/01 22:50 投稿番号: [16073 / 18519]
yabutarou01さん
『西溪雑録』についての説明を有難うございます。
『西溪雑録』についてyabutarou01さんは次に様に書かれました(No. 16056)。
>本文にあたる箇所をよく読むと1530年成立の『新増東国輿地勝覧』とほとんど同じ内容であって違っているのは『輿地勝覧』では「于山島鬱陵島一云武陵一云羽陵二島在県正東海中 - - 一説干山鬱陵本一島地方百里」にあたる部分が、『西溪雑録』では「鬱陵島鬱陵或曰武陵亦曰羽陵 - - 沙汀樹木歴歴可指」になっている所だけです。つまり『輿地勝覧』では于山島と鬱陵島について二島説と一島説とを併記していたのが『西溪雑録』では一島説のみに変化しているのがわかります。
yabutarou01さんが指摘されたように、『西溪雑録』「欝陵島」で柳美林氏が四部に分けた(No. 16065)最初の章は『新増東國輿地勝覧』とほとんど同じ内容で、違っているのは欝陵島についての冒頭の説明です。
朴世堂は、「欝陵或曰武陵 - - 登高望之」と高く登り之(欝陵島)を望めば「三峰キフゲフ(キフ山の下に及とゲフ山の下に業:山の険しく高き貌)- - 南峰稍低」と、高所から見た欝陵島の地形を説明しました。次の「日初出時風恬浪靜則 - - 青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」は、『輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」に相当しますが、朴世堂は、欝陵島の高所から眼下の「沙汀」の「樹木」が「歴々可指」指さして示せるほど明らかに見える、と結びました。一方、『輿地勝覧』は何処から見たかを書かなかったので、これは朝鮮本土から見た欝陵島の姿との解釈も生れました。しかし140 kmも離れた朝鮮本土から、欝陵島の峯頭の樹木や山根の沙渚が歴歴と見えるはずはありません。
于山島については『輿地勝覧』では「干山欝陵本一島」とする一島説も併記しております。しかし、朴世堂は欝陵島渡航者の話を聞き、彼らは干山島と欝陵島を別々の島と認識していることを知り、「一説干山欝陵本一島」を削除しました。また、後でもっと詳しく述べているので、「二島在縣正東海中」や「風便則二日可到」も削除しました。
朴世堂は、僧からの伝聞として、于山島を「云盖二島(于山と欝陵)去此不甚遠一ハン(馬の右に風:風が船を吹いて進める『大漢和辭典』)風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」とさらに詳しく記述しました。この記述からは、于山島は日本人が称する松島を指しているとしか考えようがありません(No. 16054)。
于山島は欝陵島の東2 kmにある竹嶼(Chukdo)を指すこともあります。しかし竹嶼は、朝鮮本土からは全く見えず、欝陵島からは、天気が非常によい時でなくとも、また、標高の最も高いところまで登らなくとも、見ることの出来る島ですから、この于山島が竹嶼を表しているとは思えません。
朴世堂は多くの人から欝陵島の情報を集めたでしょう。その中で日本人と思しき「壬辰之亂の俘(の子孫?)」と自称する僧をインフォーマントとして最も高く評価し、『西溪雑録』「欝陵島」で一章を割いて、非常に詳しく彼の話を記録したことを、大変興味深く感じました。
これは メッセージ 16070 (ararenotomo さん)への返信です.
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Re
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/31 21:42 投稿番号: [16072 / 18519]
No.16071の投稿は文字化けしてしまいました。
削除して下さい。大変失礼しました。
これは メッセージ 16070 (ararenotomo さん)への返信です.
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〆廉露\xEBj\xE5h〇仝\x99鸛\xEA\x8Du々噐表\x8Duは防\x8Du
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/31 21:26 投稿番号: [16071 / 18519]
yabutarou01さん
〆廉露\xEBj\xE5h〇についての\xD5h苧を嗤\xEByうございます。
〆廉露\xEBj\xE5h〇についてyabutarou01さんは肝に\x98\x94に\x95琛ǂ譴泙靴拭\xA3
﹅仝囑匯筆徭\xB7Q班浬岻\x81y々參週は匯粁和げて\x95琛ǂ譴討い董△海譴茲蠻阿⓱称弔任△辰討海賻埆気⓱称弔砲弔い討倫a怎\xD5h苧であることが蛍かります。
﹅云猟にあたる\xB9w侭をよく\xD5iむと1530定撹羨の〆仟\x89\x88\x96|忽\xDD\x9B仇\x84搜E〇とほとんど揖じ坪否であって\xDF`っているのは〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇では仝噐表\x8Du\xF4d相\x8Du匯堝冷相匯堝嚼相屈\x8Du壓\xB1h屎\x96|今嶄眉\x8Do式\x98I嫺腎掴\x8Do敏碓\xEFL晩賠苧\x84t\x8Do\xEE^\x98篦昭杏集秞割\xBE\x9As?辛\xD2\x8A\xEFL宴\x84t屈晩辛欺匯\xD5h孤表\xF4d相云匯\x8Du仇圭為戦々にあたる何蛍が、〆廉露\xEBj\xE5h〇では仝\xF4d相\x8Du\xF4d相賜垰冷相呀垰嚼相鞠互李岻眉桁瓰\x98I嚇腎遇掴桁不詰晩兜竃\x95r\xEFL厄惜\xECo\x84t\xD0\桁\x94\x80\xECi冫柆格其紐諭\x98篦\xBE\x9As\x9As辛峺々になっている侭だけです。つまり〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇では噐表\x8Duと\xF4d相\x8Duについて屈\x8Du\xD5hと匯\x8Du\xD5hとを\x81穩\x9Bしていたのが〆廉露\xEBj\xE5h〇では匯\x8Du\xD5hのみに\x89篁唎靴討い襪里❹錣ǂ蠅泙后\xA3
yabutarou01さんが峺姜されたように、〆廉露\xEBj\xE5h〇仝\x99鸛\xEA\x8Du々の恷兜の何蛍は〆仟\x89\x88\x96|\x87癭\x9B仇\x84搜E〇とほとんど揖じ坪否で、\xDF`っているのは丹\xEE^の\x99鸛\xEA\x8Duの\xD5h苧です。個佩して\x95琛ǂ譴拭\xB8\x87L囑匯筆徭\xB7Q班浬岻\x81y拳々參週の猟嫗は、念の云猟についての\xD1a怎\xD5h苧というよりは、鏡羨の嫗として筆からの\x81斬\x84を\xD3\x9B\xE5hしたものと房います↙No.16065⇄。そして、酉弊銘は筆あるいは\x99鸛\xEA\x8Du局砂宀から\xC2\x84いた\xD4\x92によって、〆仟\x89\x88\x96|\x87癭\x9B仇\x84搜E〇の\x95畸舛△襪い浪師鋿_な\xD3\x9B並を\xD3\x86屎しました。
酉弊銘は、〆廉露\xEBj\xE5h〇仝\x99鸛\xEA\x8Du々の丹\xEE^で、仝\x99鸛\xEA - - 鞠互李岻々と互く鞠り岻↙\x99鸛\xEA\x8Du⇄を李めば仝眉桁キフゲフ↙キフ表の和に式とゲフ表の和に\x98I⦿表の\xEA\x93しく互き嘆⇄- - 掴桁不詰々と、互侭から\xD2\x8Aた\x99鸛\xEA\x8Duの仇侘を\xD5h苧しています。肝に、仝晩兜竃\x95r\xEFL厄惜\xECo\x84t\xD0\桁\x94e楳冫柆格其紐諭\x98篦\xBE\x9As\x9As辛峺々と、〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇の仝\xEFL晩賠苧\x84t\x8Do\xEE^\x98篦昭杏集秞割\xBE\x9As\x9As辛\xD2\x8A々の何蛍を\xD4\x94峰し、恷瘁に\x99鸛\xEA\x8Duの互侭からは仝紐諭\x98篦勝垢❶\xB8\x9As\x9As辛峺々峺さして幣せるほど苧らかに\xD2\x8Aえる、と\xBDYんでいます。この恷瘁の何蛍は〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇の仝\x8Do\xEE^\x98篦昭杏集秞割\xBE\x9As\x9As辛\xD2\x8A々に屢輝しますが、〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇は採\x84Iから\xD2\x8Aたかを\x95琛ǂ覆ǂ辰燭里如△海譴漏婷r云輿から\xD2\x8Aた\x99鸛\xEA\x8Duの徊との盾\xE1\x8Bも伏れました。しかし140kmも\xEBxれた云輿から、\x99鸛\xEA\x8Duの\x8Do\xEE^の\x98篦召簓集硑良割召\xAC\x9As\x9Asと\xD2\x8Aえるはずはありません。匯圭、〆廉露\xEBj\xE5h〇の\x99鸛\xEA\x8Du仇\x84櫃林\x9B峰は\x98Oめて醤悶議で、〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇に曳べ、はるかに措く尖盾できます。
噐表\x8Duについては〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇では仝孤表\x99鸛蟇紹\xBB\x8Du々とする匯\x8Du\xD5hも\x81穩\x9Bしております。しかし、酉弊銘は\x99鸛\xEA\x8Du局砂宀の\xD4\x92を\xC2\x84き、泳らは孤表\x8Duと\x99鸛\xEA\x8Duを\x84e?の\x8Duと\xD5J\xD7Rしていることを岑り、仝匯\xD5h孤表\x99鸛蟇紹\xBB\x8Du々を嵭茅しました。また、瘁でもっと\xD4\x94しく峰べているので、仝屈\x8Du壓\xBFh屎\x96|今嶄々や仝\xEFL宴\x84t屈晩辛欺々も嵭茅しました。
酉弊銘は、筆からの\x81斬\x84として、噐表\x8Duを仝堝固屈\x8Du↙噐表と\x99鸛蝪Ñゴ鵬刺栝h匯ハン↙\xF1R陶に\xEFL⇄\xEFL辛崛噐表\x8Du\x84蘖芦子鮑\xA3\x9A\xE2\x98O\x9C[席音鞠恷互\xED\x94\x84t音辛\xD2\x8A々とさらに\xD4\x94しく\xD3\x9B峰しました。この\xD3\x9B峰からは、噐表\x8Duは晩云繁が各する防\x8Duを峺しているとしか深えようがありません↙No.16054⇄。
噐表\x8Duは\x99鸛\xEA\x8Duの\x96|2 kmにある幢\x8EZ↙Chukdo⇄を峺すこともあります。しかし幢\x8EZは、劾\xF5r云輿からは畠く\xD2\x8Aえず、\x99鸛\xEA\x8Duからは、爺\x9A櫃ⅲ燃◀砲茲\xA4\x95rでなくとも、また、\x98妨澆臨遒盡澆い箸海蹐泙乃任蕕覆唎箸癲⊖\x8Aることの竃栖る\x8Duですから、この噐表\x8Duが幢\x8EZを燕しているとは房えません。
酉弊銘は謹くの繁から\x99鸛\xEA\x8Duの秤\x88鵑鮗唎瓩燭任靴腓Α◀修琳个波娜照砲繁爾靴①姑紐瞬\xAE\x81yの拳↙の徨\x8CO◦⇄々と徭各する筆をインフォ\xA9`マントとして恷も互く\xD4u\x81鈇掘◆採焠ɮj\xE5h〇仝\x99鸛\xEA\x8Du々で匯嫗を護き掲械に\xD4\x94しく泳の\xD4\x92を\xD3\x9B\xE5hしたことを、寄\x89篥d龍侮く湖じました。
これは メッセージ 16056 (yabutarou01 さん)への返信です.
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朴世堂「欝陵島」下條氏見解への異見
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/31 21:20 投稿番号: [16070 / 18519]
yabutarou01さん
yabutarou01さんが、下條氏の「半日の航程」とした解釈によって、欝陵島と寧海との距離を最初の「翌日」から「当日」に変更した経緯はよく分かりました。2ちゃんねらー自称漢文専攻の院生氏も「天將曉發船以來日纔ホ(日偏に甫:日暮れ)已到寧海地面」を「夜明け前に発船した。翌日夕方になったばかりにはもう寧海に着いた」と、初めは「翌日」と正しく訳しました。ただし後で、「「来日」は夜明け前から見て明けた日のこと。一応翌日と呼んでもいいが、要するにその日。」と解釈しなおしたようです。しかし、太陽が出たとたん日付が替わるわけではありませんから、その日に着いたのなら、「以其日纔ホ(日偏に甫)已到 - -」と書くはずです。
下條氏は、「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、「發船以來日」を「発船以来、日」と解釈しました。即ち、「来日」(今より後に来る日。あす。『広辞苑』)という熟語を無視しました。そして「半日の航程」としたわけですから、これは明らかに誤読でしょう。
下條氏は、朴世堂に欝陵島のことを話した僧侶は、「文禄の役で捕虜」となり、「丙午(1606年)の年、日本船で朝鮮に送還され、欝陵島を経由して半日で慶尚道の寧海に着岸していた。」としています。しかし私は、朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧は1666年倭船に隨い欝陵島に来た、と考えます(No.16054)。
朴世堂は「自稱壬辰之亂の俘」である僧から聞いた話を基に欝陵島のことを記しました。この僧は特に、欝陵島の自然地理に関して詳しいように見えます。恐らく欝陵島にかなりの長期間滞在し、欝陵島とは何回も往来していたと思われます(No.16054)。従って、yabutarou01さんが述べられたように、僧侶が、「半日の航程」と思っていたかはさて措き、欝陵島と寧海との距離が近い、と認識しているのは明らかです。ただし、「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」は勇み足でしょう。これを除いて、朴世堂の記述は殆んど間違ってはいないと思います。
なお、「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」に関して、前提の院生氏は、「「出来」は二島のどちらかに泳ぎ渡るんじゃなくて、こちら寧海に泳ぎ出てくるという意味。」としていますが、海洋島と見做せる欝陵島に大型哺乳類は棲んでいません。
下條氏は「朴世堂は、『東国輿地勝覧』の記事を基に僧侶からの旧聞を加え、八百字程で「欝陵島」を作文した」と書いています。朴世堂は、確かに下條氏が云われるように、『東國輿地勝覧』の記事に加えて僧侶や欝陵島渡航者の伝聞から『西溪雑録』「欝陵島」を書きました。その記事は当時としては出色の豊富な情報量を盛り込んでいるように見えます。そして朴世堂は、『新増東國輿地勝覧』の曖昧な記述を、もっと明瞭な表現に改めたことを、次に示します。
これは メッセージ 16061 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條批判
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/30 01:50 投稿番号: [16069 / 18519]
半月城さんへ
>>下條氏がこのように述べるのは、朝鮮日報の韓国語記事を引用してのことでした(注2)。しかし、同氏の翻訳には問題があります。下條氏が「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と翻訳した部分は、ふつうなら yabutarou01さんが No.16028 で紹介したように「たいてい二つの島(鬱陵島と于山島)があまり遠くなく」と訳されます。
すなわち、朝鮮日報は欝陵島と于山島がある場所から遠くないと書いたのに、下條氏は欝陵島と于山島がお互いにそれほど離れていないと無理な訳しました。これは下條氏が「韓文が読めないための誤謬」というより「故意」の我田引水をおこなったというべきかも知れません。
どうか落ち着いて下さい。。半月城さんは重大な勘違いをされていますよ。下條氏が、
朴世堂の「欝陵島」では、「(于山島と欝陵島の)二島、寧海を去ること甚だしくは遠からず」とし、「歴々見える」も寧海から見た于山島と欝陵島のことと解釈している。
と翻訳した部分は朝鮮日報の記事をこのように訳したのではなくて自分で原文を読んで訳したもので間違いないですよ。下條氏は、「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」と朝鮮日報には載っていない部分を引用されていますよ。「『東国輿地勝覧』の記事を基に」とあるのも原文を読まないと判断出来ません。「海洋水産動向」1250号を入手出来ていたのかどうかどうかは分かりませんが少なくとも『西溪雑録』と『臥遊録』のどちらかの原文を入手出来ていたのは間違いありません。
下條氏は自分の訳と朝鮮日報にある柳博士の訳を比較した上で、
柳美林氏は「二島此を去ること」の「此」が寧海である事実を無視し、旧来の説を繰り返したのである。これは故意というより、漢文が読めないための誤謬である。
と判断されているのではないでしょうか。
>>柳博士は「2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく」と正しく読みくだしており、下條氏の指摘が誤謬であることが明らかです。
下條氏は柳博士が「此」が寧海である事実を無視して訳したことを指摘されているのであって、柳博士が「去此」を読みくだしてないと判断されているわけではないと思いますよ。
>>柳博士は数年間にわたって朴世堂の『西渓集』を購読してきた方です。そのような専門家に対し、事実関係や原典をろくに確認せず「漢文が読めないための誤謬」などと誹謗するのは、いかにも下條正男教授らしいやり方ではないでしょうか。蛇足ですが「原典を確認せよ」は大学院教育の第1歩です。大学教授ならそれくらいは先刻承知済みでしょうが。
。。。
柳博士と半月城さんがまずなすべきは自説が正しくて下條氏の説が間違っていることを論証することではないでしょうか。
これは メッセージ 16064 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條批判2
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2007/12/30 00:52 投稿番号: [16068 / 18519]
半月城さんの論<朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條正男批判1〜3>にはいくつか疑問があります。
まず半月城さんは、下條氏の指摘について、「下條氏がこのように述べるのは、朝鮮日報の韓国語記事を引用してのことでした。」として下條氏が原典にあたっていないと断言しておられますが、下條氏の文章からは、彼が「海洋水産動向」1250号を読んだか読んでいないかは明らかではないと思いますよ。
次に、本件の核心部分である「蓋二島此(寧海)を去ること甚だしくは遠からず」の解釈についてですが、下條氏が、柳美林氏は「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と読み誤った、と指摘していることに対して、半月城さんは、柳美林氏は「ここからさほど遠くなく」と正確に読んでいるから、下條氏の指摘は見当はずれだという御意見のようです。しかし、そうでしょうか。
半月城さんの紹介するところによれば、柳美林氏は、朴世堂の『鬱陵島』のうち、
「たいがい、2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく、ひとたび大風が吹けば到達できる程度である。于山島は地勢が低く、天候がくっきり晴れていないとか、最頂上に登らないと見えない。欝陵が(于山島より、柳注)少し高い(注5)」
という部分が重要であるとした上で、それから分かる重要な事実の2つ目として、
「第2に二島の距離と位置関係が明らかにされており」
と言っていますね。
「ここからさほど遠くなく」という言葉は、もともと朝鮮半島から欝陵島、于山島を見ての表現であったはずなのに、あっという間に2島(欝陵島と于山島)間の距離の問題にすりかわっているのではないですか。
こういう矛盾があるから、下條氏が「柳美林氏は読み誤った」と言ったのは間違っていないように思います。
これは メッセージ 16065 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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2008年度の竹島問題 ラインナップ
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2007/12/29 22:36 投稿番号: [16067 / 18519]
先ずは下記をご覧下さい。文句なく面白いです。
http://www.youtube.com/watch?v=57EyaVI5NWcこれを竹島に例えるなら、以下のようになります。
半月城氏「安龍福が言ったことは、デタラメじゃないんだけどね、正確でもないんだよね」
kunitaka「正確じゃないことをデタラメって言うんだろ(笑)」
半月城氏「于山島には15戸、86人が住んでいました。これが証拠の太宗実録です」
kunitaka「于山島って良い所ですね〜。これホントに于山島ですか?」
半月城氏「于山島・・・に似てる島です」
掲示板一同「え?!話が違うじゃないか(笑)」
まだまだ私と半月城氏とのバトルは続きます。今年後半は尖閣諸島問題に力を入れてきましたが(その性で竹島サイト構築があまり出来ませんでしたが)、来年上半期は竹島問題をドーンとやります。
next, coming up
『日本外交文書』 18巻 534-5、573-6
『日本外交文書』 23巻 531、532、574-5
『日本水路史』海上保安庁S46
160-161
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
『陸軍省 大日記』
『通航一覧』
『大日本史料』
シリーズ「竹島の車窓から」米子編〜北九州編まで
2008年度から始まる「新シリーズ・韓国直送資料」
『三国史記』
『世宗実録地理志』
『増補文献備考』
『新増東国輿地勝覧』
『皇城新聞』1900年9月23日
『皇城新聞』1906年5月9日
『大東新報』 1905年9月
『大韓毎日申報』 1905年9月22日
『大韓毎日申報』 1906年5月1日
今年の書き込みは今日で終了します。半月城さん、皆さん、良いお年をお迎え下さい。
これは メッセージ 16063 (senkaku_islands さん)への返信です.
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朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條正男批判3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/12/29 10:34 投稿番号: [16066 / 18519]
これは メッセージ 16065 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條批判2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/12/29 10:18 投稿番号: [16065 / 18519]
下條氏は「海洋水産動向」1250号をきちんと確認せずに、新聞記事を誤読し、柳博士が「誤謬」をおかしたなどと書くのは余りにも独善的ではないでしょうか。同書にて柳博士は「2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく」と正しく読みくだしており、下條氏の指摘が誤謬であることが明らかです。つぎに同書の関連部分を紹介します。
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「海洋水産動向」1250号
「于山島は独島」を立証する朝鮮時代の史料を発掘
・・・・・
朴世堂(注3)の「欝陵島」(注4)は大きく四部から構成されている。
第1部は『新増東国輿地勝覧』を引用した部分
第2部は、壬辰倭乱の時に捕虜として捕えられ、日本の船に乗り、欝陵島へ行って帰った僧侶から聞いた話を記録した部分
第3部は 1694年9月2日に張漢相が軍官の報告を元に備辺司へ報告した内容
第4部は同年の1694年9月20日から10月3日まで張漢相が捜討した状況を備辺司へ報告した内容からなる。
この中で第4部は張漢相の『蔚陵島事蹟』に載っている内容とほぼ同じである。朴世堂は第2部、前述の僧侶から聞いた話を伝え、自分の意見を加えたが、ここで于山島が独島であることを物語る重要な記述が次のように含まれている。
「たいがい、2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく、ひとたび大風が吹けば到達できる程度である。于山島は地勢が低く、天候がくっきり晴れていないとか、最頂上に登らないと見えない。欝陵が(于山島より、柳注)少し高い(注5)」
このような内容がまさに于山島が独島であることを証明する重要な根拠といえる。上の文章をつうじて我々は次のような事実を知ることができる。
第1にこの文で欝陵島と于山島が明らかに違う島と区分される点である。
第2に二島の距離と位置関係が明らかにされており、これから于山島は少なくとも欝陵島近隣の島を指すものではないという点が明らかになったのである。
第3に于山島が欝陵島より少し低いところにあるので、欝陵島からは簡単に見ることができないということを知ることができる。欝陵島が于山島より少し高いので、天候が晴れているとか、高いところへ登って初めて于山島が見えるとしたためである。
第4に上に述べたように、朴世堂の記録は張漢相が于山島に対し、「東側に海を望んだところ、東南方向に島がひとつかすかにあるが・・・」と表現したこととぴったり合う点である。
張漢相は聖人峰から東南方向に島が一つかすかに見えるとしたが、朴世堂の記録は于山島は非常にくっきり晴れた日に欝陵島の高いところだけで見えるとした。こうした事実を考慮すると、朴世堂が語る「于山島」は張漢相のいう、まさに「かすかな島」に該当する。
欝陵島から離れていて、くっきり晴れた日に高いところだけから見える島は現在の独島以外にないためである。したがって、結論をいうと朴世堂のいう于山島と、張漢相のいう東南方向の島は現在の独島をさすのは明らかである。
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余談ですが、柳博士は数年間にわたって朴世堂の『西渓集』を購読してきた方です(注6)。そのような専門家に対し、事実関係や原典をろくに確認せず「漢文が読めないための誤謬」などと誹謗するのは、いかにも下條正男教授らしいやり方ではないでしょうか。蛇足ですが「原典を確認せよ」は大学院教育の第1歩です。大学教授ならそれくらいは先刻承知済みでしょうが。
(つづく)
これは メッセージ 16064 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條正男批判1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/12/29 10:16 投稿番号: [16064 / 18519]
半月城です。
下條正男氏の「事実求是」を読んで、どうしてもコメントを書かずにはいられない心境です。同氏は、Web竹島問題研究所のホームページ「事実求是」第1回、「朴世堂の『鬱陵島』 」において韓国海洋水産開発院の柳美林博士が「漢文が読めないための誤謬」をおかしたと断言し、こう記しました。
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朴世堂の「欝陵島」では、「(于山島と欝陵島の)二島、寧海を去ること甚だしくは遠からず」とし、「歴々見える」も寧海から見た于山島と欝陵島のことと解釈している。
に もかかわらず柳美林氏は、朴世堂の「蓋二島此(寧海)を去ること甚だしくは遠からず」を、「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と 読み誤った。柳美林氏は「二島此を去ること」の「此」が寧海である事実を無視し、旧来の説を繰り返したのである。これは故意というより、漢文が読めないための誤謬である(注1)。
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下條氏がこのように述べるのは、朝鮮日報の韓国語記事を引用してのことでした(注2)。しかし、同氏の翻訳には問題があります。下條氏が「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と翻訳した部分は、ふつうなら yabutarou01さんが No.16028 で紹介したように「たいてい二つの島(鬱陵島と于山島)があまり遠くなく」と訳されます。
すなわち、朝鮮日報は欝陵島と于山島がある場所から遠くないと書いたのに、下條氏は欝陵島と于山島がお互いにそれほど離れていないと無理な訳しました。これは下條氏が「韓文が読めないための誤謬」というより「故意」の我田引水をおこなったというべきかも知れません。下條氏は記事を『世宗実録』地理誌と結びつけて、こう記しました。
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日韓はこれまで、この「二島相去ること遠からず」の解釈で争ってきた。韓国側は「二島相去ること遠からず」に次いで「歴々見える」の一文があるため、欝陵島から竹島が「見える」と読み、欝陵島から竹島が見えることが、竹島を韓国領とする証拠としてきた(注1)。
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下條氏は、柳博士が韓国側の旧来の説を繰り返すために、朴世堂の『西渓雑録』を誤読して引用したと主張しているようです。しかし、そのような重大な指摘をする元ネタが新聞記事とは情けない話です。その記事には取材源が次のように記されました(yabutarou01さんの訳)。
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韓国海洋水産開発院独島研究センター責任研究員であるユミリム(柳美林) 博士は最近この開発院が発刊する「海洋水産動向」1250号で「朝鮮後期朴世堂・1629〜1703)」が書いた「鬱陵島」を分析した結果、于山島は鬱陵島ではなく独島を指すことが明らかにされた」と述べた。
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(つづく)
これは メッセージ 16058 (yabutarou01 さん)への返信です.
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『日本水路誌 第2巻下』 文章起し完了
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2007/12/28 20:57 投稿番号: [16063 / 18519]
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Re: 半月城さんへ
投稿者: boshind 投稿日時: 2007/12/28 14:11 投稿番号: [16062 / 18519]
ニフティのパソ通時代から、自分に都合の悪い質問や反論には殆ど答えないというのが彼の定評でしたが、検索すれば半月城氏への批判はまだ出てくるんじゃないでしょうかね?
特に半月城通信への一方的記載には批判が多かったように思います。
討論の相手の反論は著作権の問題とか(?)で一切載せない事に対する批判は当時からあったように記憶しております。
例えば、半月城通信では、今では有名になったラスク書簡ですら彼にとっては日本に有利とはならないようですw
1951.8.10
外交文書
ラスク書簡
米国政府はこの岩島は1905年から日本の島根県の管轄下にあり、韓国から自国の領土であるとの主張がなされたことはない
半月城通信記載による反論
1952.10.3
内部文書
Korians on Liancourt Rock(在日米大使館>米国国務省)
国務省はリアンコールト岩の歴史をすでに数回も検討したことがあるが、それをここで詳述する必要はない。その岩はアザラシの繁殖地であり、ある時期、朝鮮王朝の一部であった。その岩は、日本がその帝国を朝鮮に拡張した時、もちろん朝鮮の残りの領土とともに併合された。
とお書きになり、外交文書を無視して単なる内部文書を「アメリカも竹島=独島は朝鮮王朝の一部であったとの結論を出した事実は、今後の領有権論争に大きな影響を与えそうです。」と言い切ってしまうところが凄いです^^
でまぁ、実際には上の文書より後に
1952.11.27
外交文書で、韓国政府に対し駐韓米国大使館が「竹島の地位に関する合衆国の理解はラスク書簡のとおりである」と再度韓国外交部宛てに通牒を行う訳なんですがw
どのへんが半月城氏の仰る結論なんでしょうかねぇ。お馬鹿な私にはさっぱり解りませんがw
ということで返答は期待されない方がよろしいのではないでしょうか^^
これは メッセージ 16053 (kkgwsthm さん)への返信です.
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Re: 朴世堂「欝陵島」への下條正男氏の見解
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/27 23:09 投稿番号: [16061 / 18519]
ararenotomo さん
>>これはyabutarou01さんの最初の訳が正しいと思います。下條氏は「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」としています。しかし、私は「天将に暁にならんとするとき船を発し、以って、来日(翌日)わずか■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」と解釈します。来日は来月・来年と同意でしょう。
私はyabutarou01さんが難しい漢字の多い「天將曉發船以來日纔ホ(日編に甫:日暮れ)已到寧海地面」を見事に訳されたことに感心しておりました。
私の翻訳は2ちゃんねるにあった自称漢文専攻の院生氏の書き込みを参考にしたものです。
院生氏の書き込みにはこのようにありました。
「天まさに暁ならんとして発船す。来日の纔かに晡なるを以て、すでに寧海地面に到ると云う。けだし二島ここより去ること甚だしくは遠からず、一の■風にて至るべし。于山島は勢ひくく、海気の極めて清朗なるに因らず、最高頂に登らずば則わち見るべからず。鬱陵は稍や峻にして、風浪やめば則ち尋常に見ゆべし」夜明け前に発船した。翌日夕方になったばかりにはもう寧海に着いたとのこと。というのは、于山・鬱陵の二島はここ(多分寧海)から遠くなく、一度の大風で到達できるのだ。于山島は低いので、天気極めて晴朗か山の頂上に登らないと見えない。
鬱陵はやや険峻なので、風浪が無ければ普通に見える。
「けだし」は、朝出て夕方前に寧海に到着するわけを説明することば。この「けだし」を「総じて」と訳すのは誤訳。「蓋」が「総じて」になるのは文章全体の初めに置く場合だけ。「相去」だと、寧海到着の話と無関係の話題になり、繋がらない。
後ろに「麋鹿熊■、往往越海出來」麋鹿熊■、往往にして海を越えて出来す。とある。ぎりぎり望見できる距離を動物が泳ぎ渡るのは驚きだが、それは「相去」でも「去此」でも驚きとしては同じだが、「出来」は二島のどちらかに泳ぎ渡るんじゃなくて、こちら寧海に泳ぎ出てくるという意味。つまり寧海まで遠くないという文脈に繋がってる。でその前後文の間で突然無関係に「二島間の距離」の話になるのは通じない。
鬱陵島は寧海から見え易いが、于山島は少々見えにくいということ。どっちにしろ寧海から近いという話題。
「来日」は夜明け前から見て明けた日のこと。一応翌日と呼んでもいいが、要するにその日。
「蓋」以下は過去の地誌に基づく記述で、僧侶の話は「云」まで。で>>730の漢文では「去此」となってて、朝鮮半島からのこととなってるね。朝鮮半島から鬱陵は晴れの日に見えるそうだ。
歴代の地誌の記載で「可望見」というのは二島が寄り添う様が半島から見えるとも解釈できるし、二島が互いにぎりぎり視界に入る距離だとも解釈できる。つまり「相去」の場合は解釈確定は難しい。「去此」ならば半島からだと確定できる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私はこの書き込みを呼んでから最初の見解修正を行いました。これによると「来日」は夜明け前から見て明けた日とあり、「天將曉」とは夜明けの直前という意味ですから夜が明けて日暮れ少し前になってもまだ「当日」であるという解釈が可能になります。恐らく院生氏は「来日」の本来の意味は「After the sunrise」であり「in the next day」という訳 はここから派生したものと解釈していると思われます。
ただ「来日」は一般的には「らいじつ」と読んで明日という意味 に解釈されていますから、私は当たり障りのないように「翌日」と訳しました。
しかし『西溪雑録』の記事には「已到寧海地面」と「已(すでに)」という文字があり僧侶が鬱陵島と寧海との距離が近いと認識しているのは明らかにもかかわらず「当日」ではなく「翌日」と訳してしまうと近いというニュアンスが伝わらないので不満でした。
このような経緯があったため下条氏が半日の航程と解釈しているのを目にして「当日」でも差し支えないと判断して二度目の見解修正で「翌日」を「当日」に変更しました。どちらが正しいのかは率直に言ってよくわかりません。この判断は私の能力の範疇を超えていると言わざるを得ません。。
まあなんと言うか漢文の読解とは灯りをつけずにすり足で夜道を歩くようなものでとっても難しいものがあります。。。
これは メッセージ 16059 (ararenotomo さん)への返信です.
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朴世堂「欝陵島」への下條正男氏の見解
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/26 23:55 投稿番号: [16059 / 18519]
yabutarou01さん
朴世堂『西溪雑録』「欝陵島」の記事についての下條正男氏の見解の紹介を有難うございます。
>下条氏は「天將曉發船以來日纔ホ(日編に甫:日暮れ)已到寧海地面」の部分について「(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、半日の航程と語ったからだ。」と説明しています。
>私は「夜明け前に船を出発させたが、翌日午後三時になったばかりのころにはもう寧海に着いたと語った。」と訳しましたが、「翌日午後三時に」の部分は「当日午後三時に」の誤りでした。訂正します。
これはyabutarou01さんの最初の訳が正しいと思います。下條氏は「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」としています。しかし、私は「天将に暁にならんとするとき船を発し、以って、来日(翌日)わずか■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」と解釈します。来日は来月・来年と同意でしょう。
私はyabutarou01さんが難しい漢字の多い「天將曉發船以來日纔ホ(日編に甫:日暮れ)已到寧海地面」を見事に訳されたことに感心しておりました。『西溪雑録』の見解に対し、後ほどゆっくりと答えさせていただきます。
これは メッセージ 16058 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 于山島はやっぱり独島日本の主張覆して
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/26 02:32 投稿番号: [16058 / 18519]
これは メッセージ 16036 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/23 16:43 投稿番号: [16057 / 18519]
半月城さんへ
>>舩杉氏が熱心に収集して『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』に発表した多くの地図や絵図は「測量に基づかない」ことと、公的な地図でないので、国際司法裁判所においてほとんど意味をもたないということになります。ひいては、竹島=独島の領有権論争においてもほとんど意味をもたないということになります。『最終報告書』は、しょせんは趣味的に古地図を収集したようです。
これにはびっくりさせられました。そもそも最初に測量に基づかない絵地図を持ち出して地図にある于山島は竹島=独島に間違いないので領有権の根拠であると主張したのは韓国政府の方ですよ。ご存じないはずはありません。私はまるで鳩が豆鉄砲を喰らったような気分です。韓国政府は見る人によってさまざまである絵地図が根拠にならないのを知りながら卑怯にも絵地図を根拠に領有権を主張していたのでしょうか。私は韓国側の研究者が絵地図や民間の地図を根拠に領有権を主張している事例をいくらでも紹介することができますが、半月城さんは彼らは卑怯者または学のない人間であるとお考えでしょうか、それとも絵地図や民間の地図が領有権の根拠になるかどうかは見る人によってさまざまであるとお考えでしょうか。半月城さんは卑怯の限りを尽くして勝ち進めばそれでよいとお考えなのでしょうか。このあたりについてぜひお伺いしたいと思います。
>>結局、韓国の官製地図において于山島の記述はあいまいなままであり、証拠になる得る近代的な公的地図は存在しないようです。なお、有名な「大東輿地図」は民間人である金正浩が作成したといわれているので、その地図から国家の意志を読み取ることはできません。
半月城さんはなぜ1711年の鬱陵島の検察の際に描かれた朴昌錫「鬱陵島圖形」を無視しているのでしょうか。国際法上の効力はともかくとして半月城さんが自分の目で見て自分の頭で考えて于山島が竹島=独島ではない竹嶼(韓国名 竹島)として描かれている地図が存在していることを認めてはいただけないのでしょうか。半月城さんにはぜひとも私のホームページをご覧になって目を覚ましていただきたいと思います。
藪太郎の研究室
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/
>>日本は竹島=独島の領有を否定する公的な地図のみが数多く存在します。しかも、それらは国際司法裁判所にて日本の歴史的な竹島=独島領有を否定する有力な証拠になりそうです。
日本の歴史的領有権が否定されたとしても1905年の島根県編入が認められれば韓国にとって意味がないのではないでしょうか。1905年以前に韓国が竹島=独島を領有していたことを証明する国際法上有効な証拠にはどのようなものがあるのかぜひ伺いたいと思います。
これは メッセージ 16044 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 于山島はやっぱり独島
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/23 11:38 投稿番号: [16056 / 18519]
これは メッセージ 16054 (ararenotomo さん)への返信です.
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Re: 于山島はやっぱり独島
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/23 10:51 投稿番号: [16055 / 18519]
ararenotomoさん、
>>「壬辰之亂の俘」と称したのは朝鮮社会で生き抜くための偽称でしょう。彼らは竹島が物産豊富な島と聞き、自主的に竹島へ渡ったのかもしれません。
たしかに当時鬱陵島に行くことは国禁であり、朝廷にばれたら処罰されてしまいますから、偽称である可能性はあると思います。朴世堂も「自稱壬辰之亂俘入」と「自稱」という微妙な表現を使っていることを考えると僧侶の言葉を額面通り受け取っていなかったのかもしれません。
>>非常に大胆な推測ですが若しかすると、この僧は行方不明になったとされる船で欝陵島へ来たのかもしれません。
むう。。これは非常に大胆な推測と言うより荒唐無稽な話のように思います。ararenotomoさんが「彼らは竹島が物産豊富な島と聞き、自主的に竹島へ渡った」とお書きになったのは行方不明になった船で朝鮮半島から鬱陵島に渡ったという意味でしょうか。行方不明になった船は隠岐から鬱陵島に渡って隠岐に戻る途中で行方不明になったわけですからその可能性はありません。
それに私は行方不明になったとされる船は朝鮮に漂着した事実も自力で日本にたどり着いた事実もないからこそ行方不明になったとされているのだと思います。行方不明になったとされる船は乗員もろとも海の藻屑と消えてしまったというのが常識的な判断だと思われます。朴世堂に鬱陵島の話を語ったのはこの世に未練を残しつつ溺死してしまった僧侶の亡霊だったのでしょうか。。。
>>この僧は欝陵島や于山島を知悉しているように見えます。
『西溪雑録』で于山島について言及している箇所は朴世堂が自らの見解を述べている箇所であり僧侶が于山島について何らかの知識を持っていたと判断できる箇所はありません。これは決して私の我田引水的な解釈ではありません。朝鮮日報日本語版の記事には、
朴世堂は船に乗り鬱陵島に行ってきた僧侶から伝え聞いた話を記録し、次のように述べている。 「大体、2島(鬱陵島と于山島)はさほど離れておらず、1度大きな風が吹けばぶつかってしまうほどだ。(以下略)
http://www.chosunonline.com/article/20071206000065
http://www.chosunonline.com/article/20071206000066とあります。これは韓国の学者も「盖二島去此不甚遠」以降は朴世堂が自ら述べている箇所であり僧侶から伝え聞いた話の内容ではないと判断しているということではないでしょうか。
>>「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」即ち「オオジカや鹿や熊やノロが時々海を越えて出で来る」は、朝鮮半島から140kmも離れた欝陵島に、これらの動物が海を越えて来るとは、本来あり得ないことです。しかし欝陵島は、朝鮮本土に近く、自分たちが頻繁に往来していることを、示したかったのかもしれません。
むしろ朝鮮半島と鬱陵島との間の距離を鹿や熊が渡ってこれる程度の近い距離にあると勘違いしていたと判断すべきです。これは「盖二島去此不甚遠」以降は確実な情報をもとに書かれた文章ではないことを示唆しています。
これは メッセージ 16054 (ararenotomo さん)への返信です.
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于山島はやっぱり独島
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/21 22:22 投稿番号: [16054 / 18519]
yabutarou01さん
朴世堂『西溪雑録』と『臥遊録』「欝陵島地誌」の紹介を有難うございます。
『臥遊録』の「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘入日本丙午隨倭船至欝陵島」の記述に大変興味があります。「嘗って一人の僧に遇ったが、彼は壬辰之亂で日本に連行された俘(の子孫?)と自稱し、丙午の年、倭船に隨い欝陵島に至った」と書かれています。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/wayurok-ulleungdo.htmlhttp://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/early-1800s-gwang-yeodo-gangwondo.html 朴世堂(1629〜1703)が存命中の丙午は1666年です。この年は池内敏氏の「近世日本人の朝鮮漂着年表」(『近世日本と朝鮮漂流民』臨川書店, 1998)によると、米子の商船が「いそたけ」へ渡海し戻る途中で漂流し、3艘のうち2艘が行方不明になった、とされています。さらに川上健三氏の『竹島の歴史地理学的研究』(古今書院, 1966)には、寛文6年は大谷家の番で、13反帆の船2隻に50名が乗組み4月6日隠岐出帆、同8日竹島着、竹島で15反帆の船1隻を作り、3隻に分乗して7月3日帰路についたが、途中暴風にあって遭難し、新造の15反帆の船だけが朝鮮に漂着し乗員21名が救助された、とあります。
非常に大胆な推測ですが若しかすると、この僧は行方不明になったとされる船で欝陵島へ来たのかもしれません。『臥遊録』には「鄰船適有同俘七人夜與相語」と記されているので、彼には少なくとも7人の仲間がいたと思われます。「壬辰之亂の俘」と称したのは朝鮮社会で生き抜くための偽称でしょう。彼らは竹島が物産豊富な島と聞き、自主的に竹島へ渡ったのかもしれません。
「壬辰之亂の俘」と自称する人たちが、欝陵島周辺海域に住み着き欝陵島と往来していたことは極めて重要と思います。彼らは、欝陵島にかなりの長期間滞在し、大谷・村川両家の渡海事業とも関わり合いを持っていたかもしれません。「倭方伐竹採藥留渠守船」は、倭人と接触があり、実際に近くで見ていなければ書けないでしょう。
倭船に隨い欝陵島に至った僧は、松島を経由して来たと考えられます。従って、松島も彼にとっては甚だ遠い島とは思わなかったでしょう。「盖二島去此(寧海)不甚遠一ハン(馬偏に風)風可至」欝陵島も于山島=松島も「ひとたび風に乗れば至ることができる」と認識していたに違いありません。
この僧は欝陵島や于山島を知悉しているように見えます。特に、欝陵島内陸部は「- - 登岸則白沙平鋪 - - 江水流出縁江行十餘里則ウンタウ(竹の名)作藪 - - 又穿藪行十餘里則有竹林 - - 竹林既窮而原野夷曠有村居墟落 - -」と詳しく踏査したことが分かります。「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」は、yabutarou01さんが的確に訳された通り、欝陵島からは「于山島は標高が低くて天気が非常によい時に標高の最も高いところまで登らなければ見ることができない」ですから、彼は実際の経験に即して語ったのでしょう。
また、「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」即ち「オオジカや鹿や熊やノロが時々海を越えて出で来る」は、朝鮮半島から140kmも離れた欝陵島に、これらの動物が海を越えて来るとは、本来あり得ないことです。しかし欝陵島は、朝鮮本土に近く、自分たちが頻繁に往来していることを、示したかったのかもしれません。
日本側の資料によれば、竹島は元禄5(1692)年に多数の朝鮮人と出遭うまで、無人の島とされてきました。しかしそれ以前にも、朴世堂がこの『西溪雑録』で述べたような、日本の資料には決して記録することの出来なかった、友好的な交流があったと思われます。
これは メッセージ 16036 (yabutarou01 さん)への返信です.
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半月城さんへ
投稿者: kkgwsthm 投稿日時: 2007/12/20 23:27 投稿番号: [16053 / 18519]
半月城さんの投稿に対してたくさんの反論が出ています。
半月城さんは反論をしないのですか?
反論をしない=半月城さんの主張は間違いだと半月城さん自身が認めた
と受け取ってよろしいでしょうか?
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16053.html
Re: 証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判
投稿者: yukitanhanatan 投稿日時: 2007/12/19 20:36 投稿番号: [16052 / 18519]
>結論として、韓国には舩杉氏がいうように「国際裁判において証拠となる地図が1枚もない」といえるのに対し、日本は竹島=独島の領有を否定する公的な地図のみが数多く存在します。しかも、それらは国際司法裁判所にて日本の歴史的な竹島=独島領有を否定する有力な証拠になりそうです。
半月城さん
だいぶ、エビデンスは整ったみたいですね。
是非是非、本国の方へも、あと押しお願いしますね。
これは メッセージ 16044 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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獨島ならふたつ書きますよね。
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2007/12/19 10:58 投稿番号: [16051 / 18519]
位置的に無理がありすぎなのはさておき。
近くに寄っても、鬱陵島から見ても、ふたつ見えるわけですから。
于山島をひとつの島に描いたところからみても、変ですね。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16051.html
Re: 証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判
投稿者: gtomr1998 投稿日時: 2007/12/19 01:53 投稿番号: [16050 / 18519]
これは メッセージ 16044 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16050.html
地図は同一性検証の証拠になる
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/12/19 01:31 投稿番号: [16048 / 18519]
実効支配の証拠として地図は無効だけども、
島の同一性の検証において地図は有効なんですね。
ちなみに、パルマスの判例では実測に基づくものかどうかさえ不明だけども
メナドの知事が蘭印の総督に送った地図が島の同一性に有効とされてますな〜。
「それは大きさと形状において全く正しいのではないし、また、南に約40分、
東に20分も多いが最も信頼できる詳細な近代的地図、殊にイギリス海軍省海
図がタラウアー又はナヌサ諸島とミンダナオの間にパルマス以外の島を示し
てないので、パルマスに該当せざるをえない。」
そういえば、緯度経度もピッタリ、大きさ形状も竹嶼にピッタリな近代的な
大韓全図という地図があったね。
これは メッセージ 16042 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16048.html
Re: 県立博物館資料 変チンポコイダー氏に
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/12/19 01:16 投稿番号: [16047 / 18519]
>ここで変チンポコイダー氏に質問ですが、
>なぜ1724年にも鳥取藩は幕府に図を提出したのでしょうか?
なぜでしょうかね。私にはわかりませぬ。
これは メッセージ 16020 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/12/19 01:14 投稿番号: [16046 / 18519]
これは メッセージ 16044 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/12/16 13:50 投稿番号: [16044 / 18519]
2.公的な朝鮮地図
2−1.朝鮮の官撰地図
政府の担当機関による国土の近代的な測量は実施されなかったので、1905年以前に官撰地図はありません。
2−2.朝鮮の官製地図
1905年以前、学務行政を司る大韓帝国学部から「教材用」として、下記の地図2種類が発刊されました。
(1).『大韓輿地図』、1899年?
この地図で欝陵島の東北東に「于山」と記された島がすぐ近くに描かれました。また、欝陵島の南には実在しない島が5島も描かれました。欝陵島の形も不正確であり、測量に基づかないで描かれたことは明白です。この地図の成立年代を舩杉氏は1900年頃としましたが、愼𨉷廈氏は1898年(注4)、堀和生氏は1899年としました(注5)。
(2).『大韓全図』、1899年
この地図は経緯度が描かれたのが特徴ですが、欝陵島近辺に関するかぎり前項の『大韓輿地図』とほぼ同じです。地図の欄外に「光武三年一二月一五日 學部編輯局刊行」と記されました。
『大韓輿地図』および『大韓全図』に描かれた于山を韓国の多くの学者は独島であると主張するのに対し、舩杉氏はそれらの地図に竹島=独島は描かれなかったと述べ、意見が対立しました。一方、堀和生氏は『大韓輿地図』についてこう記しました。
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19世紀末、朝鮮政府が欝陵島の開発に着手すると、于山島への認識はより正確になった。その時点の朝鮮側の認識を示すものが、図1に掲げた大韓帝国学部編「大韓輿地図」(1899年 奎章閣所蔵)であり、古地図としては欝陵島と于山島がほぼ正しい位置関係に画がかれている(注4)。
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堀和生氏も于山を竹島=独島とみているようです。古地図の読み方は見る人によりさまざまです。このように位置や形状などが不正確な古地図は万人の共通理解を得られないだけに、国際司法裁判所において証拠とはなり得ないという荒木氏の指摘はもっともです。
結局、韓国の官製地図において于山島の記述はあいまいなままであり、証拠になる得る近代的な公的地図は存在しないようです。なお、有名な「大東輿地図」は民間人である金正浩が作成したといわれているので、その地図から国家の意志を読み取ることはできません。
結論として、韓国には舩杉氏がいうように「国際裁判において証拠となる地図が1枚もない」といえるのに対し、日本は竹島=独島の領有を否定する公的な地図のみが数多く存在します。しかも、それらは国際司法裁判所にて日本の歴史的な竹島=独島領有を否定する有力な証拠になりそうです。
(注1)朝鮮側作製の官製地図にみる竹島
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-d.html(注2)半月城通信<日本の公的な官撰地図、舩杉氏への批判>
http://www.han.org/a/half-moon/hm128.html#No.942(注3)半月城通信<『日本地誌提要』の竹島・松島、舩杉氏への批判>
http://www.han.org/a/half-moon/hm127.html#No.940(注4)愼𨉷廈『独島(竹島)』インター出版、1997,P126
(注5)堀和生「1905年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987,P100
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 16043 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/12/16 10:53 投稿番号: [16043 / 18519]
1.公的な日本地図
江戸時代から「竹島領土編入(1905)」以前の明治時代にかけて作成された竹島=独島関連の官撰地図、および官製地図は下記のとおりです。ここでいう「官撰地図」とは地理や国土の担当部署が作成した地図をさし、それ以外の政府機関により作成された地図を「官製地図」と呼びます。
1−1.日本の官撰地図
(a)1821年「大日本沿海実測全図(実測輿地全図)」、俗称「伊能図」、幕府作成
(b)1867年「官板 実測日本地図」、幕府出版(1870年に明治政府の開成学校から再版)
(c)1879年「大日本府県管轄図」、内務省地理局出版
(d)1880年「大日本国全図」、同上
(e)1881年『大日本府県分轄図』、同上(1883年に改訂版)
これらの地図の概略はすでに書いたとおりです(注2)。上記5種類の官撰地図で竹島=独島が含まれるのは、(e)『大日本府県分轄図』中の極東図「大日本全国略図」のみです。それ以外の地図に竹島=独島はまったく描かれませんでした。
ただし『大日本府県分轄図』ですが、その中の島根県など各府県図に竹島=独島は描かれませんでした。また初版では「大日本全国略図」に竹島と松島は山陰道と同色に彩色されましたが、これは作成者の無知による誤りと思われ、改訂版では訂正され無彩色にされました。すなわち、改訂版にて竹島=独島は日本領外と認識されました。蛇足ながらつけ加えれば、上記すべての地図ならびに下記の官製地図に「リアンクール」の名前は登場しません。
このように「竹島編入」以前、日本政府の官撰地図はすべて竹島=独島を日本領外と認識しました。
1−2.日本の官製地図
(a).陸軍参謀局「大日本全図」1877、竹島・松島なし。
(b).文部省「日本帝国全図」1877、竹島・松島は無彩色。
(c).陸軍陸地測量部「輯製二十万分一図一覧表」1885製図、1890修正、1892再修
松島はなし。竹島に相当する島は点線表示で島名がなし。
(d).「磯竹島略図」、『公文録』付属地図として取り扱われる。
上記(a),(b),(c)のすべての地図において、竹島=独島は日本領外として扱われました。また(d)「磯竹島略図」自体には領土の概念はありませんが、『公文録』本文で竹島外一島、すなわち竹島と松島を版図外とする際に付属地図として使用されたので重要です。このようにすべての官製地図においても竹島=独島は日本領外として描かれました。
まとめると、日本政府は竹島=独島に関して「主権を享有しないことを自ら認めている公的地図」を作成しましたが、主権の享有を示唆する地図は一時的に誤った「大日本全国略図」を除いてまったく作成しませんでした。
さらに官撰地誌『日本地誌提要』も竹島・松島を日本領外として記述し、明治時代の地理専門家もそのように確認していることはすでに書いたとおりです(注3)。こうした認識が明治初期の日本政府の公式見解です。
(つづく)
これは メッセージ 16042 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/12/16 10:50 投稿番号: [16042 / 18519]
半月城です。
最近、ここの会議室に書いた私の文に対して「Web竹島問題研究所」のホームページにて舩杉力修氏から「朝鮮側作製の官製地図にみる竹島」と題して、下記のような批判がありました。
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さて、最近地図の分析について次のような指摘がありました。「元来、地図は視覚的に訴える力が大きいだけに、ややもすると数枚の古地図をとりあげて領土を論じがちですが、実のところ、不正確な古地図は国際裁判においてはせいぜい伝聞証拠くらいの価値しか持たず、特に測量にもとづかない地図は証拠能力に乏しいのが実状です」(半月城通信No.127)。国際法が専門の荒木教夫氏の論文を引いて、不正確な古地図は国際裁判には価値がないとしています。
しかしながら、荒木氏の論文を読むと、一部のみの引用であることが分かります。荒木氏は、国際裁判において価値が認められてきた地図は、過去の国境画定作業に基づいた国境条約に附属した地図でも「当事国の合意」を示すものが基本であること、紛争当事国の公的地図は紛争解決の決定的証拠とならないものの、関係領土において、主権を享有しないことを自ら認めているような地図は重要な意味を有するとしています。
しかしながら、韓国側では、係争地(竹島)を自国にとって有利に描いた公的地図など1枚もなく、それ以前の問題であり、係争地そのものを描いた公的地図が存在しないのです。さらに、係争地での主権を行使した記録すらないのです。つまり、韓国側には、国際裁判において証拠となる地図が1枚もないということが明らかになったといえます(注1)。
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舩杉氏は荒木論文の趣旨を認めているようなので、それを土台に議論をすすめることにします。同氏は、古地図など測量に基づかない地図は国際裁判にて証拠能力に乏しいものであり、価値が認められる地図は下記の二つの場合に限られると理解しているようです。
(A).国境条約に付属した地図
(B).主権を享有しないことを自ら認めている公的地図
このように整理すると、舩杉氏が熱心に収集して『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』に発表した多くの地図や絵図は「測量に基づかない」ことと、公的な地図でないので、国際司法裁判所においてほとんど意味をもたないということになります。ひいては、竹島=独島の領有権論争においてもほとんど意味をもたないということになります。『最終報告書』は、しょせんは趣味的に古地図を収集したようです。
趣味の世界は好事家にまかせて、ここでは竹島=独島論争に価値のある地図をピックアップすることにします。上記(A),(B)ですが、竹島=独島に関していえば、国境条約自体が存在しないので、上記(A)に該当する地図は存在しません。したがって議論は(B)の公的地図に絞られます。それを踏まえて日韓両国の地図を概観することにします。
(つづく)
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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『明治三十七八年海戦史 第一部 巻十一』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2007/12/15 00:47 投稿番号: [16041 / 18519]
これは メッセージ 16040 (senkaku_islands さん)への返信です.
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『リアンコルド島略図』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2007/12/15 00:12 投稿番号: [16040 / 18519]
これは メッセージ 16037 (senkaku_islands さん)への返信です.
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独島で大統領選不在者投票、
投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2007/12/13 23:14 投稿番号: [16039 / 18519]
住民ら「感無量」
12月13日15時19分配信 YONHAP NEWS
【ソウル13日聯合】「独島で初の大統領選挙投票が行われ感無量。ここがまさしく韓国領だと実感しました」――。
慶尚北道鬱陵郡・独島の東島で13日に初の大統領選不在者投票が実施され、独島住民のキム・ソンドさん、キム・シンヨルさん夫妻をはじめ、独島を守る警察警備隊員、海洋警察隊警備艦の乗組員、航路標識管理所職員ら100人余りがそれぞれ1票を投じた。キムさん夫婦は普段は独島西島の漁民宿所で暮らしているが、昨年シンヨルさんが腰を痛めたことから、冬は鬱陵島で暮らしている。キムさん夫婦と参観者らを乗せた警備艦は同日明け方に鬱陵島の港から独島に向かい、万一に備えていたヘリコプターも難なくヘリポートに着陸した。
船着場には慶尚北道の選挙管理委員会により不在者投票所と臨時の投票本部が設置され、午前10時になると同時に投票本部前で独島警備隊員やキムさん夫婦ら不在者投票申告者が集まるなか、記念行事が行われた。行事では、大学生らで構成された独島アカデミーの会員らが「わが領土の独島で実施した大統領選挙投票に参加したという自負心を持ち、日本の領土侵奪の野望を国際社会に知らしめる」とする決議文を朗読した。続いて参加者らは、独島をテーマにした楽曲「独島はわが領土」を合唱し、たこ100枚をつなげて作った大型のたこ「独島愛」を揚げた。
投票を終えたキム・ソンドさんは、「昨年の地方選挙でもここで投票したが、5年間にわたり国を導く指導者を選ぶ選挙だけに、一層感無量だ」と語った。独島警備隊に所属する22歳のノイ・サンホさんは、「生まれて初めての大統領選挙投票を、ほかでもない独島で行い感激した。忘れられない思い出になるだろう」と話している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071213-00000035-yonh-kr
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東海呼称問題:「韓日で海域分割が理想的」
投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2007/12/11 11:20 投稿番号: [16038 / 18519]
国連地名専門家会議のレイパー元議長が提案
国際的な地名表記に関する学会に出席するため来韓した国連地名専門家会議(UNGEGN)のレイパー元議長(67)は7日、ソウル市内で記者団に対し、東海呼称問題の解決案として、海域を二つに分割し、韓日双方が主張する呼称をそれぞれに付けることを提案した。
レイパー議長は「東海と日本海を並行して使用するのが、韓日間の摩擦を解決する最も理想的な方法だ。わたしが今回の学会で行った発表が東海問題の解決に少しでも助けになればと思う」と述べた。
UNGEGNは全世界の地名表記に対する勧告案を作成し、上部機関の国連地名標準化会議に提出する専門機関だ。レイパー氏は1998年から2002年までUNGEGN議長を務めた。国連が採択した勧告案は、国際水路機構(IHO)が示す指針に反映される。
レイパー元議長が東海問題の解決に向けて示した新提案は「東海を適正な地点で二つの海域に分け、それぞれが呼称を付ける」というものだ。90年代に学会で同様の主張がなされたことがあるが、地名決定に影響力を持つ人物が公式の場で発言したのは今回は初めてだ。
レイパー元議長は、東海は公海に属するが、事実上は韓日両国が漁業協定を通じ、それぞれ特定水域で操業を行っているため、排他的経済水域の性格が強いと指摘。従って、中間のある地点を境界にして、自国に隣接する海域を呼びたい呼称を付けるのが合理的な解決策だとの認識を示した。
レイパー元議長は「特定のケースを念頭に置いたものではなく、一般的にこういう場合はこうしようという意味での提案だったが、東海がちょうどそれに該当する」と述べた。
レイパー元議長は東海呼称問題をめぐる韓日両国の対立に関する話を切り出すと表情を硬くして、「韓日両国の政治的状況に関してはよく知らない。自分は海や陸地の名前を定めるのが仕事であって、政治的、外交的な問題は韓日両国が協議を通じて調整を図るべきだ」と付け加えた。
記事/オ・ユンヒ記者
写真/チョン・ギョンヨル記者
朝鮮日報/朝鮮日報JNS
http://www.chosunonline.com/article/20071210000070
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臨時台湾土地調査局作成 『彭佳嶼図』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2007/12/09 00:17 投稿番号: [16037 / 18519]
これは メッセージ 16035 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 于山島はやっぱり独島日本の主張覆して
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/08 13:08 投稿番号: [16036 / 18519]
これは メッセージ 16029 (yabutarou01 さん)への返信です.
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『尖閣群島図』 『黄尾嶼』 『魚釣島』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2007/12/08 09:37 投稿番号: [16035 / 18519]
これは メッセージ 16034 (senkaku_islands さん)への返信です.
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『淡水庁志』 in 1871
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2007/12/08 08:57 投稿番号: [16034 / 18519]
これは メッセージ 16033 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16034.html
『続脩台湾府志』 in 1765
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2007/12/06 23:46 投稿番号: [16033 / 18519]
これは メッセージ 16027 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16033.html
Re: 于山島はやっぱり独島日本の主張覆して
投稿者: hisatukai 投稿日時: 2007/12/06 18:35 投稿番号: [16032 / 18519]
>二島は遠くないと最初に言ってのに、それを「二島は近くないと証明された」と逆の主張できる感性が分かりませんね。
分らなくて正解です。
分ることは、人間から朝鮮人に変異したことを意味します。
そうです、朝鮮人は人間ではないのです。
より正確には、朝鮮人には普通の人間であれば当然に理解できる
論理が理解できません。
理解しようとすると、決まって火病の発作を起こし泡を吹きます。
これは メッセージ 16031 (na_175 さん)への返信です.
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