美しい国日本

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

私見 司馬遼太郎 最終章

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/03/18 11:23 投稿番号: [283 / 402]
私ら凡人が、ひときわ優れた人物の思考をあれこれ推測するのは不遜なのかもしれない。ただ、凡人であるがゆえに、秀才の思考様式がなんとも納まりが悪く、落ち着かなくてしようがない場合もあるようだ。

先生が一定のラフスケッチを胸に苗代川の集落を訪れたのは間違いないだろう。
そして沈氏から話を聞いたとき「故郷忘れじがたく候」のテーマが決まった。
力なき庶民の悲哀を、日本の文化的資産である陶業を軸に数百年の歴史的スパンを以って語られるのだ。先生が顔を真っ赤にして‘もらった!‘と、叫んだのも無理がない、真によい題材である。ただし、小説家が生み出す創作としてであって、それを先生があえて事実を語る随筆としたところから、後世に我らごときに批評される羽目になったのだ。

ただ、先生は圧倒的に支持されている国民的作家であり、そのインテリジェンスと人柄はそのような疑問を霧中に隠してしまう強みを持っている。
だから先生の意図はともかくも結果として「故郷・・・」は、戦後を通じてやはり大衆作家の松本清張や森村誠一らが、彼らの属する日本共産党の主張に沿った作品を数多く送り出し大いに大衆を『啓蒙』したのと、同じ軌道に位置してしまったのである。
清張らの作品は、城山三郎や大江健一郎などの書く文学と違い、生来善良で疑うことの苦手な日本人大衆の心をがっちりつかんだ。よって日本人の心の深奥に、『小説帝銀事件』や『日本の黒い霧』で731部隊とアメリカの陰謀を植えつけ、中国共産党の資料と証言を基に書き上げた『悪魔の飽食』では罪悪感を、これでどうだ!と、ばかりにかき立てたのだった。かれら左翼文士(じつに多い)の著作群が、中国に対する日本の経済、技術協力に影響を与えないはずがない。
そしてボロ服のシナ人がふんぞり返って日本人の血税を受け取り、金満日本人はひれ伏しながらシナ人に血税を捧げるという、まことにコミカルな儀式が出来上がってしまった。

司馬先生の主義主張ははっきりと分からないが、満州赴任時は物書きとして世に出る前の経験だ。陸軍は、新兵にとっては地獄に近いものがあったという、いやな思いをしたことだろう。
結果として、日露戦争までの日本はすばらしかった、しかし昭和の日中戦争からの日本はバカ者だ、というのが先生の歴史観になったのか。
その歴史解釈を近代左翼人が掲げるところとなり、『司馬史観』なる怪しげな『史観』を生み出してしまった。「故郷・・・」のエッセンスは人を奪い文化を奪った相手、韓国に対する「原罪」であろう。

語るに多すぎるが、わたしを含む(それなりに)多くの日本人には到底受け入れられない、いびつな歴史観である。

先生とて、取材を通じて『漂着者』が、そして主人公の沈寿官氏が何者であるか分からないはずがない。そこを先生はどう咀嚼したのだろうか。
思うに、すべてを自分の作品に沿わすため犯した天才ゆえの異常な思い込みなのか、それとも自作のためには歴史の捏造を厭わないという確信犯なのか、どちらかなのだろうが、それにしても、14代沈寿官氏の個展に最大限の賛辞を贈り、その中のどうということもない一作品に勿体つけて銘名するなど、韓国人が『従軍慰安婦』の資料館を作るような物的な確証をも与えたのは飛び過ぎといえるだろう。

長々と大先生にものを言ってきたが、作家としての司馬遼太郎は日本の大衆文壇の一方の金字塔であることは間違いないし、明治までの日本を、愛情を込めて語る名文章家である。尊敬に値しないはずがない。
ただ、縷々述べてきたように、司馬遼太郎という作家の真髄はあくまでも大衆小説家であって、歴史を語る人としては著しく公平性に欠けるキャラであることは納得していただけただろう。したがって、その人が醸しだした『司馬史観』なるものは参考資料程度の意味しか持ち得ないということになる。

最後に、日露戦争のことを知りたくて「坂の上の雲」を昨年末通読したことを白状しておく。おもしろい。薄氷の勝利だったことがよく分かる。(用兵は資料が残っているのでそう恣意的には書けないだろう)
どなたか、他の作家で日清・日露戦争のデティールを書いた作品があれば教えてほしい。・・なるべく面白く読めるものが好ましいですが。

ここで「故郷・・」に関する私の愚見は終らせ、また朝鮮通信使に随行して江戸に下ることにします。

Re: 私見 司馬遼太郎

投稿者: zxneuro 投稿日時: 2009/03/17 19:20 投稿番号: [282 / 402]
司馬遼太郎さんの事について、ブログで取り上げアップしました。
詳しくは↓を見てください。
http://yuuki-ran.cocolog-nifty.com/blog/

安倍元総理の「美しい国日本」とは

投稿者: ilovejapan338373 投稿日時: 2009/03/15 17:44 投稿番号: [281 / 402]
>安倍政権の終了によって「美しい国日本」再生は一頓挫を余儀なくされている。


<スポンサーは韓国系パチンコ業者>
…。謄本を見ると、安倍事務所の土地は、…「株式会社東洋エンタープライズ」という会社の所有なのだが、
実はこの会社、…パチンコ業者なのである。
…。清廉潔白な「政界のプリンス」というイメージの強い安倍の地元事務所がパチンコ業者の持ち物だったのである…。
…業者が安倍に提供しているのは、地元事務所だけではない。
…、敷地2000平方メートルにも及ぶ(安倍の)超豪邸もやはり以前、同社所有で、
地元では「パチンコ御殿」と揶揄されているのである。
「…。晋太郎(父親)が存命していた時代には、同代議士の福岡事務所とそのスタッフを、
親会社の七洋物産が6年間にわたり無償提供していたことが発覚したこともある」(地元政界関係者)
しかもこの関係は今も地元で囁かれ続けている。…。
<祖父と父から引き継いだ「利権構造」>
…、地元事務所が七洋物産=東洋エンタープライズの土地に今も居座っていることからも明らかなように、
安倍が父親の築いた利権構造を解消できないまま引きずっているのは、明白な事実である。
「安倍晋三は中央では清廉潔白なイメージのようですが、地元での評価はかなり違って、
『父親と同じ利権政治家』という声がかなり多い。
実際、七洋物産以外でも、いろんな疑惑で安倍事務所の名前が登場していますし。
例えば、周辺の港湾土木事業を一手に掌握する関門港湾建設という会社があるんですが、
この会社とは、安倍事務所の責任者だった人物が監査役として就任していたほどの近い関係。
また、安倍は大学卒業後、父親の後援者と関係の深かった神戸製鋼に入社していますが、
その神戸製鋼が最近、…下関市の総額200億円にも及ぶ大型公共事業を次々と落札。
『官製談合ではないか』と地元で問題になっている。
他にも下関市長選挙の不正をめぐって、安倍の元地元秘書の関与が囁かれたり、…キナ臭い話は絶えないんです。…」(地元紙の記者)
「…、ようするに安倍はたんなるボンボンなんだよ。
地盤や利権は父親からそっくり引き継ぎながら、祖父の受け売りをして『憂国の士』を気取る。…」(政治評論家)
だが、こんなボンボン政治家の仕掛けにまんまと乗って、「次期首相」などと持ち上げているのが、この国のメディア状況なのである。…。

Re: 美しい国日本 あげ

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/03/14 04:37 投稿番号: [280 / 402]
インデックスは100件と、少なくなったのかな。油断したら消えちゃうな。

私見 司馬遼太郎 2

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/03/09 08:54 投稿番号: [279 / 402]
さて、司馬先生が『見つけた』14代沈寿官氏とはいかなる経歴を持った人なのだろう。他に情報のないわれわれは、氏は薩摩焼の窯元として延々と伝統の焼き物を続けてきたものの子孫で、薩摩焼の宗家として今日にまで至っていると、自分の知識内に取り込んでしまう。自然なことである。実際に知らないことはイメージが先行し、やがて固定するのだ。
そして先生はこう書く、p48「・・その秘法も一子相伝の口伝とされてきた。十二代は十三代に口伝をあたえることなしに死んだためにこの技法は絶えた・・」

ここで、「御前黒」の秘法(そんなものないが)を一子相伝としているが、先生も書いているとおり、藩主義弘は苗代川の工房を薩摩藩の藩立工場としたのである。そして改良を重ねた技術で焼き上げた白薩摩は、藩の重要な財源になった。その工房に参加したのは漂着した者だけだったはずがない。藩内の工人も大いに参加したはずだ。白薩摩は島津藩の集団による合理的な管理体制のもとで製作されてきたものなのだ。個人の技術や伝統が云々されるような工房ではないのである。実際、p40「幕末、薩摩藩はこの苗代川に大規模な白磁工場をつくり、十二代沈寿官を主任とし、・・」

幕末の十二代沈氏の身分は「主任」にしか過ぎない。宗家もへったくれもないのである。
では次の十三代はどうであったであろう。十三代沈寿官氏は京大法科を卒業したあと朝鮮総督府の役人をつとめ、戦後は郷里で村会議員をしていた。
「故郷・・」に出てくる職人気質の父とはそうとうイメージが違う。名人どころか、彼は専門の陶工家ではないようだ。
そして当の一四代沈寿官氏は昭和35年まで東京で鹿児島選出政治家の秘書をしていた。鹿児島に帰ってからも氏が陶業に従事したという話はない。昭和46年には鹿児島県PTA連合会会長になっていて参院選挙の準備をしていたのだ。
司馬先生が沈氏を訪ねたのは昭和43年だから、沈氏の帰郷から7年しかたっていない。その時点で一四代沈氏が名陶工家であろうはずがないではないか。
せいぜい、p60「現当主は少年のころ、この父親から英語も数学も教わり、さらに少年のころから作陶の技術を教わった」と正直に書かれているように、作陶の伝授は英語や数学を習うのと同じ程度の熱意だったようである。まあ、「門前の小僧」くらいのものなのか。その証拠に昭和48年から始まる鹿児島陶芸展があるが、14代の名は受賞者欄にも、賛助出品者欄にも一度も出てこないだ。(他の、秀吉以来の朝鮮系陶工家の子孫である人たちは名を連ねているが)

しかし、この沈氏に対して司馬先生は奇矯ともいえる行動をとる。
司馬先生が苗代川をたずねて沈氏を世に出してから10年ちかく経った52年、沈氏は東京で個展を開いたのだ。そこに先生が駆けつけ「五〇歳を迎えた今、新しい自分の領域を広めて世に向かうことになった」と絶賛したばかりか、氏の作品の一つに井光黒(いかりぐろ)と、勿体つけた銘をあたえたのだ。

朝鮮総督府の役人勤務の後、故郷で村会議員をしていた沈氏の父13代、その父に少年時代作陶を教えられた当の14代。前述したように彼は東京で政治家の秘書をしており、その後自ら中央政界に打って出ようと帰郷したものである。その帰郷から司馬先生が尋ねるまで7年、個展を開くまでさらに9年、この間に沈氏はいっぺんに名工になったのか?   そんなことはあるまい。
個展を開くほどの作陶術がそのように形成されたなどという話は現実の陶工家に対し無礼であろう。
だから、個展で売れ残った作品は朝鮮系パチンコ屋が買い上げたという話も信憑性を帯びる。

さあ、ここまできたらもう司馬先生の精神分析に興味が湧いてくる。なぜこうなるのだろう。

Re: 美しい国日本 やべー

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/03/09 07:13 投稿番号: [278 / 402]
今朝覗いたら一番最後、200番目だった。

即座に排除されてしまうのかな?

Re: 私見 司馬遼太郎

投稿者: oroti98 投稿日時: 2009/03/01 12:54 投稿番号: [277 / 402]
そうですね

坂の上の雲は兎も角   司馬史観には私も抵抗を覚えます
何故昭和になって急速に日本人が変になってしまったのか
統帥権とはそもそも戦争をする時に発揮するもので平時には余り用もないものですが    之を大袈裟に取り上げたり   とても国民的作家とは思えません(文章がうまく書けずなかなか意を伝えられませんが)

私見 司馬遼太郎

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/03/01 07:52 投稿番号: [276 / 402]
私見   司馬遼太郎
オレは基本的に司馬遼太郎の本は読まない。そう決めていた。だからあれだけの人気作家であるのに『竜馬が行く』も『街道をいく』も、読んでいない。それにはちょっとした、オレなりの分けがあった。

ある日だれかが面白いぞと紹介してくれたのは、一連の司馬作品の初期にあたるのか、新撰組物だった。すごく面白かった。つづいて「豊臣家の人びと」を耽読した。これもいけた。
特に、後に『新撰組血風録』としてまとめられた短編の一つに登場する、久留米藩出身の篠原泰之進という下級武士にほれこんだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E4%B9%8B%E9%80%B2

高邁な思想は他者にまかせ、朴訥に武士であろうと勤皇側についていく。その不器用で欲のない剣豪ぶりが愛おしかったのだ。
しかし「新撰組血風録」の他の一遍を見て仰天した。そちらでは、篠原泰之進が緻密に陰謀をめぐらす間諜として描かれていたのだ。(こちらのほうが史実にちかいキャラだが)
子母澤寛の『新撰組始末記』や観音寺潮五郎の「武将列伝」「悪人列伝」と同じレベルの史実感は無理としても、吉川英二などではみられない主要登場人物のキャラ変換を、司馬先生はやってのけたのだ。(あらゆる分野における作者という意味においても)これは禁じ手といえないか?   歴史小説家としての矜持に欠けるところはないのか?   少なくともオレはしらけてしまった。筆先ひとつでどのようにでも書き換えられる小説家の『特権』に節操が欠けていたら、それはトンデモ本のコーナーに並ぶべき本になってしまう。

で、しばらくして月刊誌に掲載されていた『義経』の、途中の一回分を目にした。そこで語られる義経は非常識な軽薄者、とり得は戦だけ上手の天才アホとして描かれていた。
オレは義経の筆による『腰越状』の切々たる文章に心をいため、吉野山を遠望したときは義経と静の結界での別れに思いをめぐらし、鎌倉八幡宮の舞殿の前では頼朝の非道に憤ったりする平均的日本人だ。そんな日本人が共有する民族の大英雄を、一小説家が辱めていいのか、オレは頭に来て、以来司馬先生の本を読まないと決めたのだ。
そんな先生の所感が、日露戦争以後の日本を否定する『司馬史観』としてかなりの支持を受けている。それにどうにも違和を感じる。だから「日本人による朝鮮人強制連行の悲劇」をテーマにした本小説にいちゃもんをつけた。

「故郷忘れじがたく候」のメイキングも書いてみよう。
島津義弘以来連綿と続く朝鮮密航者の子孫沈寿官を最初にたずねて取材をしたとき、じっと話を聞いていた先生は「この話もらった!」と手を打って叫んだそうだ。そのとき顔を真っ赤にして大粒の汗が額に浮かんでいたと同行者は語る。凡人ならざる先生の随筆「故郷・・」の骨子はこのときに決められたのだ。この骨子はゆるぎなく、そこに物語として肉付けされる。だから論理的にどんどん無理を重ねることになる。

それでも先生は良心的だとおもう。なぜなら、かれらの『漂流の謎』について先生は頭をかしげ、『なぜ彼らは島津藩撤兵2年後に姿を現したのか?   なぜ風や潮流に逆らって薩摩半島に流れ着いたのか?』と根源的な謎を紙面に提示する。しかし前述したように、すべての事象は先生の『骨子』に沿ってわずか数行で解説されてしまうのだ。
他にも70余名17姓の謎、自活食料の謎、などなどがあり、漂流者は実は密航者だったと、であるから、かれらの悲嘆に日本人が心を痛める必要はまったくないのだ、と結論づけざるを得ないのだ。

もう少し話を広げてみよう。
13代沈寿官氏の甥っ子である14代沈寿官氏の本名は吉本恵吉である。彼が沈氏を名乗ったのは祖母の養子になった都合上の半年間だけだった。その後すぐ大迫=祖母の嫁ぎ先の姓を名乗る。
したがって作中にある朝鮮名であることを理由に、

P41−42「このクラスに朝鮮人が居っとじゃろ。手をあげい」とわめいた。沈少年が名乗らなかったということで、少年たちは激昂した。精神を注入してやる、と吼え、沈少年を教室のそとへ出し、屋上へつれてゆき、十人ほどが寄ってたかって殴った」

は、「司馬史観」に沿った完全な創作だ。しかし、それは在日朝鮮人迫害の実証として在日韓国人作家の筆で折々に書かれつづけ、NHKまでも全国ネットでその話を踏襲する。そして観た人は秀吉から現代に至る「朝鮮人いじめ」を素直に信じる。困ったものである。国民的作家の標榜する「司馬史観」なるものには、やはり検証が必要なのだ。
つづけよう。

Re: 美しい国日本 やべー!

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/02/28 08:56 投稿番号: [275 / 402]
落とされるとこだった。

Re: 美しい国日本 アゲアゲ

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/02/27 05:16 投稿番号: [274 / 402]
あがった!

Re: 美しい国日本 あげ

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/02/24 13:11 投稿番号: [273 / 402]
何でこんなに早く下がるんだ。   出張中なのに。

Re: 美しい国日本 あげた!

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/02/21 13:29 投稿番号: [272 / 402]
やた早く下がっていく。

Re: 美しい国日本 あげ

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/02/19 23:39 投稿番号: [271 / 402]
あげあげ。

変見自在 黒と黄色

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/02/16 11:17 投稿番号: [270 / 402]
「朝日新聞はオバマがよほど好きみたいだ。
先日の論説委員コラムは『オバマの尊敬するリンカーンが徳川家茂に宛てた書簡があった』という、それがどうしたみたいな話を載せていた。
書簡は南北戦争のさなかに書かれ、そのすぐ後に彼は奴隷解放を宣言している。
それから百五十年。今オバマ大統領が登場した。家持から現代までの年月と重ねてみて『これを長いと見るか短いと見るか』と問う。

問いがよく分からない。大体百五十年前まで奴隷を使っていたこと自体、米国は恥ずかしいほど遅れていた。
やっと奴隷制をやめてなお、百五十年も人種の壁を崩さなかったのは正気の国とも思えない。
奴隷制を憎んでその歴史ももたない日本と重ねたら、なおさらこの国のお粗末さは際立つだけだ。
このコラム子はそれも分からずに、あたかも米国がいい国のように語る。
この国の正体は百五十年前だけ見ただけではダメだ。

遡ってメイフラワー号でやってきた清教徒から見れば理解できる。
彼らは知られるようにワンバノグ族の酋長マサソイトが恵んだ食料で冬を越す。感謝祭の謂れだが、よさそうな話にはけったいな続きがある。
七面鳥で元気になった清教徒らは酋長の死ぬのを待って彼らの領土を奪い始める。抵抗した息子は殺され、その首は二十年間プリマスの港に晒された。
かれの妻子と一族もまとめてカリブの奴隷商人に叩き売られた

土地を手に入れた清教徒は働き手と妻を最寄りの奴隷市場に買いに行った。
奴隷市場は実はメイフラワー号が着く一年前に店開きしていて、最初の売り物は百四十人の英国産の白人女囚だった。
新大陸は先ず男どもが入植したから圧倒的な女日照りだった。それで英政府は万引き程度の罪でもみな島流しを宣告して新大陸に送り込んだという。
女が行き渡ると市場の主商品は黒人になった。
こちらも当初は酷使に耐える男の奴隷が主だったが、やがて女の奴隷も入れるようになった。
輸入に頼らず、国内で&#32363;殖させればコストは安上がりになる。
ちなみに独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンは黒人女性サロー・ヘミングスを隠し妻にしたことで知られるが、彼女は正確には八分の一の黒人混血児だった。
つまり&#32363;殖用に輸入された祖父母が先ずブリーダーの白人に犯され、生まれた娘はまた犯され、孫も犯されてサリーが生まれたということだ。
彼女がずっと隠し妻だったのは当時、黒人女性など有色人種と白人が性交すること自体が罪とされていたからだ。
それでもジェファーソンは『人は等しく創造され、生命と自由と幸福追求の権利を持つ』と書いて恥じるところがなかった。

こうした裏切りや背徳が山と積まれたころ、リンカーンが登場する。
彼は確かに黒人奴隷制度の廃止を宣言した。
いかにも人道的な人のように見えるが、この宣言に前後して彼はダコタ族の討伐命令を下し、その処刑まで命じている。
発端は白人側の裏切りで、挑発されたダコタ族が決起すると、待ってましたと騎兵隊が殺到して全滅させた。いつもの手口だ。
このときは法に則って裁判を開いたというが、たった5分で結審して3百人のダコタ族に死刑判決が下された。ミネソタ版の東京裁判といっていい。
リンカーンはそれを支持した。人道的というにはほど遠くないか。

奴隷廃止も額面通りではない。米国は国際世論がうるさい黒人奴隷に替わる格安の支那人苦力をとっくに見つけていた。実際、ペリー来日前に米の奴隷船から苦力が石垣島に逃げ込み、戦艦サラトガが砲撃、上陸する騒ぎもあった。
コラムはリンカーンの筆跡からきっと「正直に違いない」と見る。そして日本に書面をしたためるとき「どんな日本を思い浮かべたのだろう」と結ぶ。
ダコタ族を虐殺し、苦力を代替奴隷に使う米人大統領が日本人をどう思っていたか、コラム筆者は想像もつかないのだろうか。」
09年2月12日号

ワンバグノ族の話、具合悪くなる。

Re: 故郷忘れじがたく候

投稿者: and_so_on1 投稿日時: 2009/02/14 08:36 投稿番号: [269 / 402]
>大先生の作品にけちをつけてみよう。

私もケチをつけてみたい。
聞いた瞬間に耳障り。
「故郷忘れじ・・・がたく・・・候」

忘れじ、で忘れないと言う否定を含む。
忘れまじ、としたら決して忘れないぞ、という決意。

で?
忘れがたく候が違和感なしに耳に残る。

ちょい、調べてみないと分からんが。
??(;¬_¬) ぁ ゃι ぃ

司馬遼太郎ともあろう御仁が、こんなケアレスミスをするんだろうか。
来週いっぱいかけて調べてみます。
近所に図書館あるし。

天皇でさえ、詠んだ和歌の「けり」の用法にケチつけるのが日本国、日本文法。
超有名人とは言え、間違えないとは限らない。

う〜〜〜〜、時間あるかなあ。
すごく引っ掛かる話だ。

故郷忘れじがたく候 7

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/02/14 08:16 投稿番号: [268 / 402]
戦国期茶道が勃興するが、当時窯を開いていたのは瀬戸とか備前とか、一部に限られていた。それぞれの藩の重要な地域産業なので他藩は技術の獲得が難しい。
以外は、陶器といえば須恵器のような素焼きに近いものであった。朝鮮半島の作陶技術は諸大名にとってたしかに憧憬の的だったのだ。中でも朝鮮白磁は、儒教の純化という朝鮮哲学(そんなのあるんかいと言わないで。あるよ)からイメージされたものであったこともあり、薩摩階層社会の長である義弘は白磁を切望した。
『国中のすみずみまで掘りかえせばどうか』との、義弘の異常な肩入れにより白磁の含んだ地層が発見され『薩摩の白磁』が焼かれた、が、それは土質から白いというだけで朝鮮白磁の世界観とは似て非なるものだった。

P39「白は、李朝の特色である。卵白あり乳白あり灰白があるが、いずれも白にこれほど複雑な表情があるかとおもわれるほどの膚質を、とくに李朝前期の工人たちはつくりだした。朴平意がつくりだした白薩摩は、義弘が言ったように似ているのみで、李朝の白さではない。李朝は、白磁である。薩摩には朝鮮ほどの良質の土器の土がないため、朴平意はやむなくこれを陶器とし、しかもこの白陶をできるだけ白磁に近づけるべく皮を薄くした。このため李朝がひらいた白とはまったく独自な、世にいう白薩摩の世界を作り出した。」

早い話が、流浪者たちは高温で焼く白磁の窯業に失敗したのだ。日本で始めて磁器を焼いたのは同じ九州の鍋島藩朝鮮人陶工、李参平、1616年のこととされる。
藩主義弘は落胆したであろうが、転んでもただでは起きない戦国の闘将は、この薩摩産擬似白磁をやむなく陶器として工夫させた。皮を薄くさせると独特の色合いを持つ陶器ができた。それに絵付けを施し、朝鮮白磁とはまったくちがう、当時の主流であった景徳鎮に近いものを確立していく。

P40「−かれ(義弘)はこの島津家の新しい象徴をいよいよ醇化するために苗代川を藩立工場にし、専心製陶の指導につとめる一方、―」

このように、薩摩焼はひとえに流浪者の技量によるものとの従来の見解より、義弘肝いりの国家プロジェクトが第一の功としてあって成功したものだ、といったほうが正鵠を射ているのだ。

確認するが、そもそも「故郷忘れじがたく候」といった70余名の漂着者は文禄・慶長の役のさい薩摩軍に連れこられた陶工たちではないのは前述したとおりである。
新たな考証として、両役でつれこられた朝鮮人陶工は総勢500人ほどと言われている。そのうち半分が薩摩に来たとしても250人でしかない。70人もの遭難者が出ればわからないはずがない。しかも、その大事な連行者が6年間も薩摩領内に無許可で暮らしていたのだ、「再発見」できないはずはないだろう。大事な「遺失物」だ、ふつうは回収にかかるはず。
しかし、島津家のいかなる文書にもそれらの連行者と70余名の漂流者とを関連づける記録がない。そんなことあり得るか?

前に書いたが、かれらが薩摩の人間に現認されたのが慶長の役から2年を経た1600年という事実。逆潮の薩摩半島に流れ着いた不思議。70名17姓の謎、などなど、かれらは被強制連行者ではないのは明らかだ。
生き地獄のような李氏朝鮮社会の最底辺に位置する工人たちが、生き延びるための食を求めて日本に密航してきたと解釈するほかない。

であるから、「故郷忘れじがたく候」といわれても、それはあんたの勝手でしょ、と返す以外にないのだ。
そして思い起こされるのは日本に強制連行されて来て、帰る基盤も失ったとする在日の主張だ。

関連する例を出そう。前述の、日本で始めて白磁を焼いたとされる鍋島藩の李参平は、文禄の役の折家族揃って日本に帰化した陶工だ。日本の協力者でもあったと伝えられてきた。
佐賀県有田町にかれを顕彰する碑文が建立されている。それに参平の出身地公州からクレームがついた。
原文の一部に、「豊臣秀吉の文禄の役の当時、李参平は日本に協力的だった」とあるが、補助碑を並立させ、それに「豊臣秀吉が朝鮮に出兵した時、鍋島軍に捕らえられ、道案内などの強力を命令されたと推定される」と書かせたのだ。

このように歴史的事実を捻じ曲げても日本を加害者、自らを被害者とする、ある意味打ち出の小槌ともいえる金づるを、朝鮮人は離そうとしないのだ。

つづく

Re: 美しい国日本 あげ

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/02/11 21:01 投稿番号: [267 / 402]
ました。

故郷忘れじがたく候 6

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/02/09 09:38 投稿番号: [266 / 402]
感情表現は大陸と日本列島とはかなりちがう。
大陸人は喜怒哀楽のたびに大声でわめき、手を振り回し、顔の筋肉を最大限に伸縮させて感情を表現する。
日本人はそういう大仰には眉をひそめる。はしたないとされるのだ。
欧米人の、ものを表現するのに大げさなこと、明治以来の日本人はもう慣れている。しかし、その大陸の極東に存在する半島の住民は、本家の大陸人の感情表現を悪しき形で攪乱濃縮し、いっそうの禍々しさを身につけた。それは決して日本人が慣れることのできない代物だ。
たとえば、かれらは実に騒がしく『愛国』を口にするが、なのに欧米に渡航した韓国人はその国の国籍を取ることに狂奔し、成功すれば簡単に韓国籍を捨てる。
またソウルの大学生のあるアンケートでは、今度生まれてくるとき韓国人はいやだという学生が60%を越えたという。このような事実に裏付けされた『愛国』とはどういうもので、韓国人はどう咀嚼消化しているのだろう。

とまれ、島津義弘をして感動させた漂流者の口上とは、「−理由ハ、二ツアル。ヒトツハ鹿児島ニハ朱嘉全ト言フ韓人ガイルト聞ク。カレハ裏切リ者デアル。君父ノ仇ハ倶ニ天ヲ戴カズ。」
南原攻城のとき日本軍に寝返った者が、島津軍撤兵に従い鹿児島に逃れてきていたのだ。主君の仇と同じ鹿児島城下に住めない、という。
義弘はこれを『忠』とみた。朝鮮文化に慣れていなかったのであろう、手のつけられないほど固陋な朝鮮人の『恨』を、『忠』と読み違えたのだ。武士団は『忠』あってこそ成り立つ階級社会だ。流浪者の申し立ては戦国武将の義弘を痛く感激させた。
もう一つの移住したくない理由とは、p37「『故郷、哀シク候。』『アノ丘ヲ御覧ゼヨ。丘ノ名ハ、山侍楽ノ丘ト申ス』
その山にのぼればわれわれがやってきた東シナ海がみえる、その海の水路はるかかなたに朝鮮の山河が横たわっている。われわれは天運なく朝鮮の先祖の墓を捨ててこの国に連れられてきたが、しかしあの丘に立ち、祭壇を設け、先祖の祀りをすればはるかに朝鮮の山河が感応し、かの国に眠る祖先の霊を慰めることができるであろう、かれらは涙をうかべつついうのである。」

上記の文章のうち『   』以外はなにかの記録にあったものか、または司馬先生の創作かわからない。ともかくも義弘は『忠』に加えての先祖を想う『孝』に重ねて感激、
p38「されば苗代川に土地と屋敷をあたえよ。扶持もあたえ、なお不足のことがあらば申し出させよ」(留帳)
これによってかれら島平の漂着組一七姓の身分が決定した。
『朝鮮筋目の者』という呼称のもとに階級を飛躍させ、武士同様に礼遇することになった。門を立て、塀をめぐらすことをゆるし、さらには『武道師範ニ入門スルコトモ許』とされた。ただし侍といっても軍役には服する義務はなく、この点医官と同様であり、いわば非戦闘員たる郷士、ということであろう。」

運命は切り開かれた。近隣の農民の助けで食うや食わずの困窮生活を送っていた集団全員が、破格の待遇で召抱えられたのである。この僥倖をもたらしたのは彼らが『忠』と『孝』であった。
しかし現代のわれわれは、流浪者の言う南原城の「忠」は実は「恨」であり、誰かを恨むことで自らの不満を解毒する病理に近いものだと知っているし、かれらの「孝」は、自ら切望して故郷を脱出したのなら、いっそ『強制連行』されたとする在日韓国人の申し立てに近くなる。責任を強引に感じさせられた現代日本は、かれらに在日特権をあたえた。そして薩摩の猛将義弘は流浪者に扶持を与えたのだ。

結果良ければすべて良し、とすると、かれらが薩摩焼確立に大きな力を発揮したことは確かなのだ。それは認められる。しかし、それが島津藩の国家プロジェクトによるところが大きいのはあまり知られていないようだ。
P38−39「かれらの活発な作陶活動がはじまった。   まず陶土や釉薬の石を探さねばならなかった。
しかし容易にみつからず、韓人たちは『韓や唐土とちがい、この国の山河はそういう土を産まないのではないか』となかば望みを失いかけた。島津義弘はこのころになると、異常なほどの肩の入れ方をみせ、『国中のすみずみまで掘りかえせばどうか』ということで地理にあかるい家臣を韓人たちにつけて捜索させた。
(やがて)―白土であった。朝鮮本来の白焼きをつくりだすその土が、揖宿郡と川辺郡でみつかり、さらに釉薬にするための楢木も発見された。

Re: 美しい国日本 あげ

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/02/07 19:43 投稿番号: [265 / 402]
ますた。

故郷忘れじがたく候 5

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/02/05 05:50 投稿番号: [264 / 402]
最初の居住地では、
p32『・・まるで本能であるように窯をきずき、老人は山を歩いて陶土をさがし、ほそぼそながら茶碗の類をやきはじめた』
かれらの生活は、それらの焼き物をもって村々を回り、物々交換で必要品を手に入れていたものと思われる。日本の「山窩」の生活形態と同じだ。
山窩の住まいを訪れる里人はいない。降ってわいたようなかれらが3年間も勝手に居住していてとがめられなかったのは、山窩のほかに、日本には炭焼きや木地師、あるいは製鉄などといった職業集団が山中に仮住まいすることは常態であったからだろう。かれらは一種の治外法権をもって自らの集団を律する。里人とは交わりが薄いのである。
しかし3年は長い。ようよう近くの村の鼻っぱしの強い青年が集落を訪れ、見たことのない轆轤に興味を示す。
回る轆轤に自分の指を添えたり、形作った茶碗に触れて変形させたりした。いかにも好奇心豊かな日本人的所作である。しかし朝鮮人にとっては迷惑だ。言葉が通じないので意思が行き違い、朝鮮人は村の青年を『打擲』する。(打擲 ちょうちゃく=こぶしや棒でうちたたくこと。広辞苑)
ただ殴りつけたという以上のものがあったろう。リンチ的なものだったかもしれない。
しかし、かれらは断りもなく3年間も地元民のテリトリーでくらすよそ者、それも言葉の違う朝鮮人だ。
例えば同時期でも、いやもっと近代に近づいても、仮に先進ヨーロッパ各国の、行政府から離れた寒村に難破船が漂着したら、その船は地元民に襲われ皆殺しの上積載物はすべて奪われ、船は解体されて燃やされる可能性はかなり高い。これは異国船とは限らないところがすごい。中国や朝鮮でも同じだろう。
難破船の異国人が地元民を「打擲」し、その報復で1人の死人も怪我人も出ていないのだ。日本農民の民度の高さを示すエピソードと捉えるのか正確だろう。

それなのに司馬先生は報復に走った農民を非難のまなざしで語る。
本書p33−34『この事件が慶長八(1603)年十二月のことであるらしい。韓人たちは、この所のものの圧迫で、かれらが最初に居を定めた地から再び流亡せざるを得なくなった。
・・極月の寒風の中で全員が荷を背負ってその住居を捨てたのはよほどのことであったであろう。」

最後の1行は、読むものに詩的で哀切な情景を浮かべさせる至極の一行といえようか。
十二月の冷たい月に照らされ、寒風の中を言葉もなく、行くあてもなく、とぼとぼと山中をさまよう白衣の集団、見ようによっては不気味だが、先生のたった一行がまるでチェロキー族の「涙の旅路」のように描かれる。さすがである。

ただこの場合、流亡と言うにはかなり大げさで、最初の土地からわずか2里(約8キロ)ばかりの苗代川(ノシロコ)にかれらは落ち着いてしまう。(ちなみに『涙の旅路』は1000キロ。)
土地名とは裏腹に水脈の乏しい荒地である。
『木の下などを頼り、哀れがましき体にまかりおり候』(留帳)
畑は持って来るわけにはいかないのだから、生活は困難を極めたろう。近隣の農民が「−追々、食べ物を食わせ申し候由」(留帳)とある。
短慮を起こし『打擲』などしなければ日本の地元民はこのような人柄なのだ。
だから、p35「−海浜の住民とちがって心優しかったに違いない。」の解釈は、いささか不穏当であろう。
「その後小屋を結び、あるいは百姓の家などを頼り、両3年も相過ごし候」(留帳)
彼らは近隣農家の助けを借りながらさらに3年を過ごす。そして漂着してから6年後、p35「この苗代川の現状がようやく島津の当主の耳に達した。とにかく当初は、韓人が哀れである、ということで、『−者どもすべて鹿児島城下に居住せよ。屋敷もあたえ、保護も加える。』という仕儀になった。」

藩主島津義弘は稀代の猛将である。慶長の役では現在の朝鮮の英雄李瞬臣の首を挙げ、関が原ではわずか1000名の手勢で敵陣を中央突破し鹿児島に奔った。
かれは数々の戦で自ら戦陣に分け入り、何度も重傷を負っている。臣と生死をともにし、臣を叱咤し、また助けられ、現在あるのはその積み重ねの人生であった。忠・孝の儒教的精神はことさら強いものがあったろう。
かれが死んだとき18人もの追い腹があったという事実もそれを裏付ける。

しかし、せっかくの義弘の申し出を朝鮮人漂流者は辞退する。その理由が猛将であった義弘を感激させた。漂流者の展望は一気に開ける。

つづく

変見自在 『虎の檻』

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/02/03 14:23 投稿番号: [263 / 402]
「ドゴールは先の大戦でルーズベルト仏印の所有権確認を迫った。仏印は栄光のフランスを再建するため必要だからと。
植民地ではなんでも宗主国の勝手にできた。フランスでは犯罪になる阿片も仏印では専売公社を作って住民に売りつけられた。
本国にはない税も創設した。十歳以上のすべての者に人頭税をかけ、他に婚姻勢や葬式勢もとった。
ベトナム人は魚醤が好きだった。それをカネにしようとフランスは『魚醤には仏製のビンの使用』を義務化し、ビンを法外な値で売りつけた。
税が払えないと政治犯として監獄に放り込まれた。

鎖で繋がれた囚人には老人や子供が多かったと西尾幹二「GHQ焚書図書開封2」にある。
働きの悪いものは処分してしまえというフランス人の思いが覗いて見える。獄死すれば葬式税も取れる。
だからフランスは都市の数ほど監獄を作り、それでも足りないからとサイゴン南の島コンダオに四つの監獄と、ベトナム戦争の折に知られるようになった拷問棟「虎の檻」を建てた。
ここは屋根がなく、鉄格子越しに生石灰と水を素裸の囚人の上に撒いた。囚人はやけどを負い、さらに熱帯の太陽に焙られた。
フランスはベトナムに監獄をつくりにきたと歴史学委員会のアイ・ディンタン教授が皮肉る。
独立後は殆どが壊されたが、旧サイゴン刑務所は堅牢さゆえにいま図書館として使われている。

こういう支配者にどう対応するかでベトナム人は2派に割れた。
一派はベトナムがどうなろうと気にしない、時の流れに乗って社会的地位を得、私腹を肥やせばいいと思う者たちだ。
日本で言えば世渡りのためにいち早く戦後民主主義に乗った大江健三郎とか防衛大学校の五百旗頭真とかになるか。
あるいは日本の将来を気にもしなければ仕事もしなかった元社保長長官の横尾和子、汚染米を産んだ農水局長の町田勝弘らがこの類になるか。

これに対して植民地支配に命がけで徹底抗戦した一派もあった。
最初に登場したのは日本に学んだ潘佩珠が主宰する越南光複会だった。彼らはサイゴンの仏政府庁舎やハノイの高級ホテルを爆破し、ビン市のベトナム人高級官吏を暗殺した。
仏総督アルベール・サロー、二代目のメルラン総督も仕掛け爆弾で危うく殺されるところだった。
仏側はこれをテロと呼び、怪しいものは片っ端からしょっ引いてコンダオの監獄で拷問し、殺した。

戦後ドゴールが栄光のフランス再生のために戦前に増す搾取を始めると抵抗はさらに輪を広げた。
十三才の少女ボー・ティサオは一九四九年七月のパリ祭の夜、身の回りを片づけ、両親に別れを告げたあと村長レ・タンチュンの家に行って彼を射殺した。レは仏政府の手先になって徴税と阿片売買を担当し、充分に私腹を肥やしていた。
彼女はコンダオに護送され、銃殺された。
処刑の朝、彼女は目隠しを断り、仏政府に禁止された国家を歌いながら処刑台に立ったと前述のブイ教授が話してくれた。

小泉毅は当たり屋を正業にする社会の屑だった。
だが最後だけはベトナムの少女に似ていた。かれは親しい女性と最後の晩餐を取り、家具を売って身辺整理をし、親に手紙を書いた上で元役人宅を襲って二人殺した。彼は動機も語らず、弁護士も断って死刑判決を待っている。
狙われた厚労省は年金を流用して官舎や天下りポストのためのハコものを作ってきた。明らかな犯罪だ。
それで国民年金が破綻すると厚生年金と一緒にして背任をごまかしてきた。
国民健保も破綻すると大企業の健保組合に肩代わりさせようとした。
小泉の犯行後、厚労省はこっそりと大企業の肩代わりを延期した。
警察は国民が何を頼んでも動かない。殺されてからなら動く。
しかし小泉事件では彼が逮捕された後も十八日間に渡って丁寧に元役人の身辺を警戒し続けた。

警察の仕事は悪い役人の保護ではなく、悪い役人を逮捕することだ。そうすればテロは防げる。」

『変見自在』高山正之   週刊新潮   09・1・29号

Re: 故郷忘れじがたく候 4 訂正

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/31 21:28 投稿番号: [262 / 402]
>500人もの捕虜を連れ帰った島津藩に、主語の一行以外にすぐれた陶器を焼いた実績はない。

確認していないのに書いてしまった。   この文は未確認なので取り消します。。

故郷忘れじがたく候 4

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/31 19:41 投稿番号: [261 / 402]
p31では「かれらが串木野に漂着したのは、関が原ノ役の直後―つまり島津家が国境に・・」と不思議がる。
「この翌年・・」はいささか不正確である。島津勢が朝鮮半島から撤兵したのは慶長3年の11月、関が原の役は慶長5年9月だ。70余名の朝鮮人は約2年後に鹿児島に姿を現したのである。
この矛盾について先生は苦しむ、苦しんで破れかぶれになったのだろう、
30pに、「いまとなれば想像の手がかりもないが、おそらく途中風浪に遭い、筑前か肥前あたりの島にいったん漂着したのではあるまいか。その島で魚貝を獲って露命をつなぐうちに日本人の船頭も逃げたのであろう。あとは韓国にひきかえすわけにもいかず、かれらの手で船を修理し、九州西岸の島々をつたいつつゆるゆると南下したのかもしれない。かれらの時代の航海上の条件からいえば、この想像は最も当を得ているように思われる。」

ゼーンゼン当を得てなんかいないね。それどころか、なんでもありの状態だ(笑
五島列島のある肥前は確かに小島が多く、当時は無人島も少なくなかっただろう。しかし肥前・筑前の島々が蝟集する範囲は極めて狭い。「ロビンソン・クルーソー」も「15少年漂流記」も『蝿の王』も、ロケーションはすべて絶海の孤島だ。70人もの人間が2年間も原始人みたいな生活をして誰にも気付かれないですむものではない。それに、逃げたとみなした日本人の船頭は島津藩ゆかりの者であろうが、距離的に遠くない朝鮮遠征出航地である肥前名護屋に報告せずに姿をくらましたとするのも合理的でない。だいたい70人もの捕虜を積んだ船に船頭一人のはずはないだろう。
日本人乗組員は逃亡したのではなく、いっそ飢えた朝鮮人たちが喰ってしまったと推測したほうがリアルだ。   合掌。
それでも2年はもたない。
なにも苦しむことはない。選択するのは単純な公理でよいのである。かれらは半島から日をおかずに直接薩摩半島西海岸に漂着した、とするのが単純な公理だ。
理由は現代でも見られる不法入国者である。ただし、陶工人の入国は島津藩にとってウェルカムだった。
『不法』ではなくてWelcomeなのだ。秀吉の軍勢が押しかけ、朝鮮人言うところの残虐さを発揮された半島の住民が、その戦数年を経て、島津藩に高麗町を設けさせるほどに不法に移民してきたのである。
畢竟、かれらは密貿易船や倭寇などから日本には『差別』がないことを耳にしていたのであろう。その中でも薩摩は密と乳があふれる約束の地と映ったに違いない。現在世界各国政府の頭を悩ませている、中国人の密航バイタリティをみれば納得できるだろう。
とにかく朝鮮下層民の本国における境遇は惨めそのものだった。主語の70余名はすぐれた陶工人である必要がなく、とにもかくにも新天地を求めたボートピープルだったのだ。ケンチャナヨスプリッツである。
だいたい、陶器の傑作朝鮮白磁は王朝御用達以外の窯を禁じられていたのだ。とうぜん工人も門外不出だろう。
地方都市の南原城内にそれらの工人がいたとは考えにくく、この地の陶工人は素朴というか、土の塊みたいな重たく色彩のないどうでもいい陶器を焼いていたのにちがいない。その証拠に、500人もの捕虜を連れ帰った島津藩に、主語の一行以外にすぐれた陶器を焼いた実績はない。

もう少し彼らの足取りを本書から追ってみよう。
串木野に流れ着いたかれらはそこに住まいを始め、p32『3年もそのようにしていたというから、薩摩の領民政治も江戸中期以後のようなせせこましさはなく、よほど大味なものであったのであろう。』と、彼らは同地域で3年を過ごしたことをいう。が、『むろん、うわさは、政庁に達していないにしても、近隣に広がっている。
・・・ということで、あたりの土民どもがのぞきにくるようになった。言葉も通じない」。

薩摩藩領の良民を『土民』と形容する先生の心奥はともかく、島津家の役人は『・・言語不通、なおもって自由体に御座候故、そのものを打擲仕り候よし。しかるところにその日より所中のものより徒党を組み、返報狼藉仕り候よし』(留帳)と書き残す。
珍しがってのぞきに来た日本人が無礼だったので殴り倒したところ地元民から報復を受け、同地にいられなくなり彼らは再び彷徨することになる。

つづく。

故郷忘れじがたく候 3

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/30 13:50 投稿番号: [260 / 402]
薩摩は暖地である。雨も多い。耕地として適しているのだろうが70人の口を漂着の日から糊さなければならない。しかし、土地の人間と交わらず自己完結の生活を送れる最低条件を、この70余名は充たしていないのである。
確認しておくが、彼らが地元の人間と接触するようになったのは3年目のことであり、すぐに摩擦を起こし再び流浪の憂き目にあってしまう。それまで地元民と交易・交流はなかったのだ。
しかし、暖地といえども雨も降れば風も吹き、冬季には零下までさがる朝もある。かれらの住居はどのように作られたのだろう。最低減の工具や縄類、あるいは暖衣・寝具も必要と思われる。
言葉が通じ、ある程度の金子や物々交換できる物を持っていただろうと思われる日本国内の落人とは事情がちがう。
また、退却戦の中移送された捕獲人の船に、都合よくそのような諸物が積載されていたとは考えにくく、したがって最低限の自活道具は彼ら自身が持ち込んだと思考するほかなく、70余名と当面の食料、種子、農耕具と工具は同じ舟に積載されていたと仮説をたてるのが、一番無理がない。
さらにそれを補強する不思議な文章がある。

本書26p「ともかくも逃げおくれた沈姓以下17姓、70人ほどの男女が島津勢に捕まったのである」と、あるが、
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/seimei.htm   によると『朝鮮の姓は、「金、李、朴、崔、鄭」の5種類だけで人口の半ばに達し、100種ほどで大半の人が網羅できる』とある。
漂着したのは70余名、17姓で割ると1姓約4人である。一家族の構成といえよう。阿鼻叫喚の落城時ランダムに拉致された70余名の中に、17姓もの違った姓が存在する可能性はきわめて低い。先生はこの点にまったく触れないが、例えばオレが思索するとすれば、『ある朝鮮の村落レベルで日本への密航が企てられる。一艘を仕立て密航船とするが、乗り込めるのは諸道具のほか70名ほどだ。職種は、日本で厚遇されていると聞く陶工を中心として農民、職人で構成される。しかし密航希望者は多い。紛糾の後、村落に存在するすべての一族から、公平に一家族を選出することになる。
日本に吹く風は春一番、台風も含め西からの風が大勢で、さらに対馬海峡で遭難したとすれば大河のごとき黒潮に流され、船は必定日本海に流れ込むであろう。
しかしかれらは舳先を逆しまに取り必死に櫓を漕いだのである。もちろん約束の地、薩摩を目指して。
而して無事?船は到着し、密航は成功した   ( ^_^)/ドモドモ」
と纏めるが、いかがなものか。

本書29pに「奇妙なことに、かれらは釜山―対馬―博多の航路をとらず、この当時の船舶としてはもっとも困難な東シナ海の外洋を南下しつつ直接薩摩半島の浜辺に漂着しているのである。」とあるが、この航路の疑問も密航説なら氷解する。

追求を続ける。
本書36pに「ちなみにこの時期より少し前、鹿児島城下には他の経路でこの国にやってきた韓人がすでに相当数にのぼっており、島津家ではとくに町割をして一区画をつくり高麗町と称して彼らを住まわせていた。」
とある。日本勢が半島から撤兵したあとに、相当数の韓人が鹿児島にやって来ていた。その他の経路とはいかなる手段を言うのか?
交戦直後である。朝鮮政府が日本への渡航を許可するはずがない。先生でも、‘日本の工作船がひそかに半島に上陸し韓人を拉致した‘とはしないだろう。そう、彼らは望んで薩摩にやってきたのである。大半は密航者として。
とまれ、今までの考察から「故郷忘れじがたき」と嘆いた朝鮮陶工の先祖たちも密航の一団体に他ならず、彼らは被捕獲者などではなく、生を求め、過酷悲惨な朝鮮半島の生活から逃れて薩摩に密航してきたのである。そう考えるのが自然であろう。
さらに決定的ともいえる考察がある。

本書30pで薩摩半島漂着直後のかれらに「どうゆう船で来たのかわからないが、日本人船頭が操船していた形跡がない。しかも薩摩にやってきたのは、この翌年なのである。途中、なにをしていたのであろう。」
31pでは「かれらが串木野に漂着したのは、関が原ノ役の直後―つまり島津家が国境に・・」
と不思議がる。
「この翌年・・」はいささか不正確である。島津勢が撤兵したのは慶長3年の11月、関が原の役は慶長5年9月だ。70余名の朝鮮人は約2年後に鹿児島に姿を現したのである。
この矛盾について先生は苦しむ、苦しんで破れかぶれになったのだろう30pに「・・

字数制限が来た。   つづく。

Re: 故郷忘れじがたく候 2

投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2009/01/29 21:10 投稿番号: [259 / 402]
ユダヤ人のシオニズム運動の様に、朝鮮人もチョンシズム運動でも起こして自国に帰って貰いたいものと思う今日この頃です。

故郷忘れじがたく候 2

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/29 20:18 投稿番号: [258 / 402]
さて、司馬先生は言う。「「故郷忘れじがたく」といった彼らの故郷は、全羅南道南原城である。(略)
豊臣秀吉の高麗陣のとき、大明帝国の朝鮮における都督は本営を星州から南原に移した。」
そして先生の対面相手の沈寿官の先祖たち全員は、落城時この城に立てこもっていたとする。朝鮮の資料に、「賊、進みて南原を囲む」「倭、蹂躙して城に登る。すでに城中大いに乱る。聞くならく『倭、城に入ると』。」

城は3日で陥落した。「薩摩苗代川の人々の先祖は、この陥落の日、よほど奮戦したらしいことは家々の伝説に残っているがどこでどう奮戦したのか、いまとなればよくわからない。沈寿官氏の先祖は貴族であったことは確かで、どうやら王子を護っていたらしい。いつ、どのようにしてつかまったのか。」

日本のわらべ歌に『過ぎし昔の戦をかたる。いろり火はとーろとーろ、外は吹雪』というのがある。
先祖の武勇伝はこのように語り継がれていくものである。一世一代の大悲劇の場に居合わせ、我はこう敵を防いだ、我はそうやって危機を脱したとか、脚色されながらも詳細に語られていくものだ。
しかし沈寿官氏から、先祖はどこの門で奮戦したか、王子をどう守ったのか説明がない。どうして王子を守る立場にあったのかということも説明できない。先生の筆はそこを飛び越えますます飛翔する。

「・・やがて島津勢も日本に向って出航した。撤退にともなうこれだけの困難のなかで、右の陶工たちはどのように扱われていたのであろう。どこに収容され、いつ出帆したのかはわからない。すくなくても、島津義弘が直接指揮している船団のなかにはかれらは居なかった。義弘は博多湾に入ったが、右の陶工たちは博多湾には入っていない。」と、不審を呈しながらも「よほどあとの船にのせられていたのか。あるいは撤退騒ぎの中でかれらのことは忘れ去られていたのかもしれない。」と思索を続けるが、ここで確認されるのは、帰還した島津軍船の中に、彼ら70人の動向に一片の情報もない、ということだ。

とまれ、島津領に流れ着いた70余名の朝鮮人陶工は、南原城堕落時ほんとうに城内にいたのか、ほんとうに王子の守役をしていたのか、ほんとうに島津勢に拉致されたのか、その考証は一切ないのである。沈氏の、周囲の補強のまったくない、いわば片言は、貴種流離譚の一バージョンにすぎず、自らの素性をことさら高位に述べることは、いかにも人間性のなせる仕業であろうし、沈氏の弁も同様に考えるといいのではないか。

不審な記述は漂着後も続く。朝鮮工人らは薩摩半島西海岸の無人の浜に流れ着く。
「彼ら韓人たちは、島平に漂着した。‘呼ベドモ人ナシ‘という荒涼たる風景であったろう。
・・どこに誰を訪ねていくあてもなく、白装のすそを踏んで砂浜をさまよい、病人は伏し、婦人は泣き、哀号の声はあたりに満ちた。
・・たまりかねた数人が故郷に帰りたさのあまり、乗ってきた船のふなばたにすがりつき、「狂乱セシガゴトク船ヲ海中ニ浮ベタリシガ、小舟ユエ風浪ノママニオシカエサレ」たというが、このときの望郷の悲しみはかれらの家々に伝承され、家霊のように家々に棲みついたであろう。航海中、病気になった何人かは、この浜で死んだ。かれらは遺骸を抱いて砂浜をのぼり、松林のかげに葬った。石碑を建て、朝鮮文字で名を刻んだ。墓はいまなおそこにある。
が、いつまでも砂浜に居るわけにもいかなかった。そのあたりの野をみると、なお人は住まずあれ野が多く、とにかくも国主に無断ながらも丘のかげに小屋をつくり、野を開いて食物を得ようとした。」と、愁嘆場を見てきたように描写する。

さて文章中、かれらは『船ヲ海中ニ浮ベタリシガ、小舟ユエ風浪ノママニ・・』というほどの小船、おそらく不忍池のボートくらいの舟で流れ着いたらしいが、不忍池のボートに70余名は乗れない。最低10艘は必要だろう。
ものの例えとしてはともかく、島津藩が捕獲した大事な工人をそんな小舟に乗せて対馬海峡を渡らせたとは考えられない。また複10艘もの舟が同じ浜に漂着する可能性はないではないが、現実としては否というほかない。

さらに、かれらは3年間に渡り『隠れ里』で自給自足の生活を送っていたとするが、たしかに、日本でも落人伝説で、山中で一族郎党が粟・稗などを栽培して自己完結の生活を送った例はあるが、それには大きな前提条件がある。
種子と農具である。

つづく。

Re: 美しい国日本 アゲ

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/28 19:48 投稿番号: [257 / 402]
なんか、いそがしくて。

変見自在 チベットを売る

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/24 12:23 投稿番号: [256 / 402]
「二千年前のコロッセオがローマに鎮座する。
古きよきものを大事にしてきたとイタリア人は胸を張り、日本人はそれを見習わなくては、なんてその昔によく言われた。
でもコロッセオもカラカラ帝の大浴場も本当はもっとちゃんとした形で残っていた。それを例えばフランス王がランス寺院を建てるときには大理石の壁を売り払っている。
よさそうなものは取り尽し、今残っているものはその滓でしかない。つまりイタリア人は自分たちで言うほど立派ではなかった。

性根も同じ。先の大戦で負けが見えたら、あれほど支持してきたムッソリーニを逆さに吊るして連合軍に寝返った。
日本が降伏したときはちゃっかり連合軍側に名を連ねて、日本から戦勝国面して賠償金百二十万ドルを取っていった。
昨日まで枢軸同盟国だったのに。百歩譲って連合軍に与したとして、日本と戦ったわけでもなし。
いったい何を根拠に賠償請求したのか。京産大教授のロマーノ・ベルビッタ氏に聞いたことがある。
彼はその根拠について明言を避けたが、ただ「ムッソリーニを倒して連合軍とともに日独に対して祖国解放戦争を戦った」という形にはなっているという。
戦ったかどうかは問題でないのだと。

では実際に解放戦争を戦ったドイツからはいくら賠償を取ったのか。
答えは『一銭も取ってはいない』だった。
日本からは取ったのに、その対応の差はなにか。
イタリア人は言葉を濁すが、平たく言えばイタリアとドイツはお隣同士。付き合いは長く、おまけにドイツはやたら強い。
イタリアがちょっと有利だからと、いい気になれば酷いしっぺ返しを喰うことは歴史が教えている。
一方の非白人国・日本は何をしようと仕返しはできない。だから取れるだけ取った、というところだろう。

ここで独伊はお隣と書いたが、正確には間にスイスを挟む。
永世中立国で、戦前から超然とした存在。映画『サウンド・オブ・ミュージック』ではジュリー・アンドリュースとトラップ一家がナチの魔手を逃れて落ち行く先がここになる。
実はムッソリーニが倒されたとき、ラケーネ夫人と子どもたちも同じようにスイス国境を目指した。
しかし現実のスイスは映画とは違った。ラケーネ夫人らは入国を拒否され、彼女らは狂気のパルチザンの手に落ちてしまう。
「スイスは人道を選ばない。スイスは常に勝利者の味方を選ぶ」と、これはイタリア人の評価だ。
スイスも見かけと違ってイタリア以上にえげつない生き方をしている。
実際、対日賠償交渉ではイタリアの後ろに並んで戦勝国並みのたいそうな「賠償金」を取り立てている。

スイスの銀行は『国際紛争に晒されない』という売りに加え『顧客情報は絶対に漏れない』スイス銀行法もあって、先の対戦ではナチから逃れるユダヤ人が資産を集中的に預けた。
しかし、その多くはホロコーストの犠牲になる。
戦後、身内が、預けた資産を調べようとするが、ここにスイス銀行法が逆に立ちはだかった。
分かり易く言えばユダヤ人資産の多くはネコババされ放題だった。
さすがにこれは国際非難を呼び、九十年代、米政府の介入でスイスもやっとユダヤ人資産の調査と返還に応じるようになった。
これはごく例外で、金正日の隠し口座だろう犯罪組織の汚い金だろうと、各国政府からの開示要求には一切応えていない。
ただスイスが儲かるときはこの限りではない。ヤミ金融の五菱会が五十八億円の上がりをスイスの銀行に預けていることを知るとスイスは『資金洗浄』と決めつけ全額没収した。

日本側がそれは阿漕すぎると交渉して返してもらったのはやっと半分。スイスはヤミ金の上を行く。
それでもスイスやイタリアはまだ可愛い方で、英国はシナが有り余ったドルで経済危機を救ってくれる条件で「シナのチベット領有」を公式に認めた。

紳士の国でも貧すれば堂々と鈍して、かつ恥じないところが凄い。』

変見自在   チベットを売る   高山正之   週刊新潮09   1・22号

ウンチにたかる銀バエのごとき各国の所業には、この中で生きていかねばならいという、ある種の諦観を持ってこやつ等と接する心構えが必要だ。

故郷忘れじがたく候

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/23 18:05 投稿番号: [255 / 402]
司馬遼の「故郷忘れじがたく候」は長めのエッセーといったもの。ただしエッセーといっても、他の多くの司馬作品に顕著なように、思弁というよりこうあるべき、という小説家としての物語の色合いが濃い。
しかし、文庫本の表紙の裏にこう謳われ、「16世紀末、朝鮮の役で、薩摩軍に日本へ拉致された、数十人の朝鮮の民があった。以来400年、やみがたい望郷の念を抱きながら異国薩摩の地に生き続けた、その子孫たちの痛哭の詩。」史実として売られている。

この本が上梓されたのが1968年だが、上記のコピーがいつから謳われたのかは定かでない。ただ現在も使われているのに引っ掛かりを感じる。
日本国民を拉致したことに関する北朝鮮の抗弁に「日本は戦時中強制連行でわが国民を数十万人日本に拉致した。」と、根拠のない話を事実と決め付け、現在の国家犯罪『拉致』と相殺する論理がある。例のコピーはそれを増強するものになるにちがいなく、日本人の意識に微妙な影響を与えるだろう。
それにしても売らんがための宣伝コピーとはいえ、往時はとうぜんであった戦利品としての人員捕獲を「拉致」とわざわざ形容することもあるまいに。
それにこの本の内容には飛躍が多すぎる。暇があるので大先生の作品にけちをつけてみよう。

冒頭に著者が朝鮮人陶工の集落を訪ねるシーンがある。
「最後に低い峠を越えた。車が前に傾き、しずかにくだりはじめたとき前方に広がり始めた風景というのは、これをどう形容すればよいであろう。丘陵は低く、天が広く、その下に海を隠しているらしく地物は海照りであかるかった。道は白い火山灰のせいか晒したように白く、どの樹の緑もわざとらしいほどに淡い。朝鮮の山河であった。」
列島の水際で見られるごくありふれた村落を著者はこう描写する。さすが司馬遼、筆運びがちがう。
しかし筆力はともかく、上記の風景、列島を貫く脊梁山塊の喫水線やその奥の山あいの小さな平地・集落は、日本列島の、いわば原風景の一つであろう。
なぜそれを唐突に「朝鮮の山河であった」と決め付け感嘆しなければならないのか。分けがわからん。
著者の履歴に、兵役として満州の牡丹江に赴任した記録があるが、そこは内陸部であり朝鮮半島とは相当な距離がある。かれに「朝鮮の山河であった」といわしめた実見聞はいつ得たものであろうか。著者の筆はそんな疑問を飛び越えて進む。

本作の核心である「忘れじがたく・・」は、江戸時代の旅行家が同集落を訪ねた場面に登場する。
主役の朝鮮人陶工の子孫たちは、『拉致』されたとされる秀吉以来既に二百年、世代として五〜八代経た後の人びとだ。
旅行者「しからば、故郷の朝鮮はすでに思い出されることもございますまい。」
陶工「そのことは奇妙なものでございます。なるほど二百年近くも相成り、しかもこの国の厚恩を受けてかように暮らしております上はなんの不足もあるはずもございませぬが、ひとの心というものは不思議のものにて候。故郷のことはうちわすれられず、折にふれては夢の中などにも出で、昼間、窯場にいてもふとふるさと床しきように思い出されて、いまも帰国のことを許し給うほどならば、厚恩をわすれたるにはあらず候えども、帰国いたし心地に候。−故郷忘れがたしとは誰人の言い置きけることにや。」

この言葉から司馬先生は「痛哭・望郷」の念をピックアップしたが、この陶工の言い分はずいぶんと大げさに感じられる。
アメリカ合衆国につれてこられた黒人奴隷の子孫は数知れぬが、200年前の先祖の故地アフリカに『忘れがたじ』と痛哭の念を抱き、即刻なる帰国を切望する者がいるのだろうか。
しかも多くのアフリカ系黒人とちがって、薩摩の朝鮮人陶工は朝鮮とは比較にならないくらい優遇されているのに、である。
(多くの土地で迫害・殺戮を受け続けていたユダヤ人のシオニズム運動は理解できる。朝鮮人陶工とは事情がちがう)

先祖の故地に対して特別な思い入れは理解できるとしても、上記の文言は半島人特有の大仰な感情表現と理解するのが正しい。著者はそこをつまんで本書のテーマとしたが、小説家である、さまざまな思索(推理)はテーマの肉付けとしてのみ紡ぎだされる。

つづく

Re: 美しい国日本 あげ

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/22 16:51 投稿番号: [254 / 402]
あげますた。

朝鮮通信使 7

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/18 13:29 投稿番号: [253 / 402]
韓国に最初に観光客として訪れ名所?回りをすると、韓国人ガイドは必ず秀吉の侵略を非難する。
しかも、それはつい最近起きたかのごとく語るのである。経験した人は多いだろうが、だんだん語り部の目は吊り上り薄い唇の端に泡がたまり始めたころ、やっと日本人は、『ほんとに怒ってんだ』と気付く。時間、というより時空の概念や歴史観がひどくちがうことに途惑ってしまうのである。
およそ現代の日本人で、元寇で残虐の限りを尽くした蒙古人を恨んでいるものなんかいない。それどころか成吉思汗も成吉思汗鍋も非常に人気が高い。朝青龍や白鳳に文句を言った日本人がいたとも聞かない。危ないしな。(うん?   ・・もしかしたらジンギスカンも朝鮮起源か?)

それに対する反論など用意している日本人はいないので、本気で責め立てる韓国人につい「ごめんなさい」の言葉が出てしまったりするのではないか。
しかし、これはひどく身勝手な言い草である。
元寇の役の先兵たる高麗兵による対馬・壱岐島の住民に対する想像もつかないような残虐さは、白村江の戦以来、6世紀にわたって外国との戦闘がなかった日本の武士団を驚愕させた。しかしこの残虐さは、600年のあいだに大陸での戦闘形態が変わったということではない。
それは弘安の役の後、万を数える捕虜が出たが、南宋人は釈放され、望みに応じて帰化も、機会をとらえて帰還もできたが、蒙古・高麗兵はすべて首を切られたことで現れる。対馬、壱岐での残虐行為は偏に朝鮮人である高麗兵によっておこなわれたのだ。無抵抗の者には恩讐もへったくれもなく冷酷無残になれる朝鮮人の特性は、清に降伏して明を討ったとき、先の大戦中日本兵の先兵となって中国人に当たったとき、また終戦後に手のひら返しに日本に噛み付いてきたように、いままで服従、依拠してきた恩人に対するしがらみを無視する、なんとも人間性に欠けるものである。

とまれ、秀吉に対する恨みつらみは慶長の役からおよそ150年後の第9回の通信使に、秀吉ゆかりの大仏殿での饗応はネバハップンと言わせることで顕われた。ある意味格好がいい。
実は、徳川幕府に対する1−3回の通信使の名称は『回答兼刷還使』となっており、意は、家康の招聘に対する回答と文禄・慶長の役の際発生した朝鮮人捕虜・拉致者の返還である。
自国の民の返還を第一に思うのは国家としての矜持であろうから、この辺も格好がいい。
しかし、なにか腑に落ちない。

大仏殿での饗応は既に前3回行われていて、今回は4回目になる慣例行事なのだ。なぜこの期に及んで?   さらに、韓国人は、「日本人が朝鮮の優秀な陶工を還さなかったので、韓国の陶器文明は衰退した、どうしてくれる!」と簡単に目を吊上げる。この辺も異論があるので後で一めくりしてみよう。

幕府は、この大仏殿は徳川家の建立でありその証拠に史書「日本年代記」を見せて説明した。種本では、
「先例がありながら饗応拒否に出た真の理由は史料にはない。大仏殿の近くに耳塚がある。(略)信使が立ち寄る際には高い竹垣で遮断して、一行の目に触れぬようにした。仲尾宏著『朝鮮通信使と江戸時代の三都』に、第八回の信使が、新井白石の強硬・唐突な聘礼改革にことごとく妥協を余儀なくされたあげく、犯諱問題で前代未聞の国書改作を強いられ、ようやく使命を果たして帰国したものの「辱国之罪」に問われ、三使は『削奪官爵、門外ちゅっ送』の処分を受けた記憶が第九回目の使節には生々しく、これに逸し報いたのでないか、と書いている。」(ちゅっ=黒出の一文字   更迭の意)

どうもこれは本国に対する格好づけのようだ。その証拠に三使は説得されて饗応の席についている。彼らの『怒り』は、その形相どおりには受け取れない。『怒り』の演技が上手いのである。

一方『朝鮮陶器の壊滅』についてはどうだろう、
エッセイの金字塔といわれる(オレはたいしたことないと思うが)司馬遼太郎の『故郷忘れじ難き候』を読み直してみた。

朝鮮通信使 6

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/14 03:02 投稿番号: [252 / 402]
さて、彼らは淀城の水車に興味を示す。
奉使録『・・城外に水車2基を設置して水を引いて城に入れており、その情景は糸車のごとくで、高さは数丈で、これを湖中に垂れ下げて波に従ってひとりでに回る。
その輪の桟はすべてで十六であり、桟ごとに小桶をつけて輪が回るときに、桶が水を入れて輪に従って上がっていき、自ずと傾いて城の穴に注ぐが、木をくりぬいて作った桶が見た目には甚だ奇異である』

これを単純にコカコーラのビンを拾ったブッシュマンと同一に見るのは皮相であろう。彼らを分析するにはもう一めくりが必要だ。ま、ひと捲りではあるが。

これより300年前の1429(永享9)年、足利義教の将軍襲職祝賀で通信使が来日している。ウィキによれば、
「1429年、日本に来た朴端生は、「日本の農人、水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀メッキ)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉などの製造法を祖国に報告している。日本の貨幣経済の実態や、店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術にまで言及していたのは、渡航前に世宗から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するように命じられていたからである。水車はその百年以上も前に、「徒然草」(第五十一段)に記されており、当時には農民達の手で取り付けられていた事を考えると、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったのではないかと考えられる[1]。」

このとき既に朝鮮王朝は自国の学生に命じ、造車の法を精査させ、模型までを作り本国に持ち帰っている。
結論をいえば、日本が朝鮮を植民地にするまでかの地には水車がなかった。もちろん、かといって、水車に代わる動力を開発したわけではない。水車という永久動力に関心を示し、その技術を学んで来いとの世宗からの命令は進取の気鋭に富んでいるといえる。命じられた者も忠実にそれを遂行した。
しかし、その貴重な技術をなぜ朝鮮人は自らのものとしなかったのだろう。いや、できなかったのか、と言ったほうが正確なのか。
日本の江戸時代には左甚五郎という匠が現れ、巧緻を極めたからくり人形が発達した。比べて、日本の農民が取り付けていた水車ごときを模倣できない朝鮮に、百済以降どのような工学が発達していたのだろう。

おまけに日本の造紙(紙漉)、朱紅、軽粉まで学んで来いと命じている。15世紀半ばのことである。日本の文化はすべて朝鮮人が伝えたとの彼らは広報に対し、なんとも居場所の取れない記述である。

ウィキでは貨幣経済のことにも触れている。
「日本の貨幣経済の実態や、店舗商業の発展等にも及んだが、・・」

朝鮮の貨幣経済は次の証言がある。

「通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行するものを例外なく悩ませ旅程を大きく左右した。日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。銀行や両替商は旅行先のどこにも一軒としてなく、しかも受け取ってもらえる貨幣は、当時公称3200枚で1ドルに相当する穴あき銭以外になかった。この貨幣は数百枚単位で縄に通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なければないでまたそれも厄介なのである。100円分の穴あき銭を運ぶには6人の男か朝鮮馬1頭がいる。たった10ポンドなのにである!」
「朝鮮紀行」   イザベラ・バード

これでは原始時代の、石の穴あき銭と一緒ではないか。
現在ウォンの価値が暴落しているが、近いうちに、彼らの好きな資生堂のスキンクリーム一瓶買うのにトラック一台分のウォンが必要になるかもしれない。

ついでに陶器のことにも触れておこう。

第六回通信使以来慣例化していた京都大仏殿饗応之儀を、第九回目のとき朝鮮側が辞退してきた。理由は『大仏殿は秀吉の願堂と聞いている。彼はわが国百年の敵である。なんでそのような地で饗応がうけられようか。』というものである。
大仏殿のそばに『耳塚』(実際には鼻塚。耳は一人二つだが、鼻は一人分だから人数確認が楽))がある。これは文禄・慶長の役で諸将が武功の証として塩漬けにして持ち帰ったものだ。検分の後に埋葬し供養してきた。血塗られた標ではあるが戦国の世である、それより敵をも弔う日本人の死生観こそ注目すべきだろう。これがシナ人や朝鮮人なら豚に喰わせるのがせいぜいだ。

朝鮮通信使 5

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/10 16:19 投稿番号: [251 / 402]
ここに、淀藩士朝鮮人饗応役渡辺善右衛門が墨筆で描いたスケッチが残されている。「朝鮮聘礼使淀城着来図」

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=72306

ご覧のように、これは朝鮮通信使が民家の鶏を強奪し、日本人がそれを取り返そうとしている乱闘の図である。
6人の朝鮮人と9人の日本人が登場しているが、うち日本人二人が路上に倒れている。ぶちのめされたのだろう。やつらは体が大きく骨太だ。日本人の首を締め上げている通信使もいる。横暴の限りと言える。

白昼堂々の強奪劇であり、なぜこのようなことになるのかさっぱり分からない。
理由として朝鮮の肉食文化をあげる人がいる。500人、三ケ月の道中、同行させる生きた食肉には限度もあるし、宿泊所が寺社の場合が多く肉食を禁止されたから肉食の彼らに耐えられなかった、と分かったようなことを言うが、本当かいな。

例えば、近代になるまでロンドンの市場の肉販売は鶏が主で、ウサギ、羊のほか、病死した牛などがたまに出る程度だったと聞く。しかも、やはり魚類に比べてかなり高価だ。牛肉などは貴族が自分の領地で飼育させていたもので、特権階級のみの食べ物だったはず。
当時の朝鮮人の貧しさはお話にならないほどだ。肉が恋しくなるほど食べ慣れていたはずがない。普段食べることのできない贅沢食物の『肉』が、ここでは人間を恐れることなくかっ歩している。

銀座のクラブの女の娘には在日が混じる。そこで受けたジョーク。
「ホステスの在日認定は簡単だ。ニンニクを床にばら撒けば良い。猫みたいにバーっと飛びついた女が在日だ」大笑いだった。
通信使たちもそんな感覚で鶏を捕まえた。いったん手に入れたら手放すなんてとんでもない。ヤッテマエー!   といったところだな。

それにしても、朝鮮でも強奪は罪であるはずだ。なぜ他国でこんな振る舞いに及んでいるのか。

彼らが淀を発った後、町中の猫が彼らに食べられていなくなったと噂が立った。
これは噂などではない。相当数が食べられただろう。
かわいそうに、日本の町屋で可愛がられて暮らしていた猫たちは、突然現れた丈夫な顎を持った朝鮮人の胃に納まってしまったのだ。ま、猫にも油断があった。日本の猫は、人間が猫を食べるはずがないと信じていたのだろう。普通そうだもな。   願う成仏。

彼らの狼藉は船旅の頃、上関(山口県)から始まったらしいが、下記の様な状態で日本の町々を往復したのだ。

『江戸時代を「探検」する』   山本博文   新潮社   に次の記述がある。
「通信使の随員の中には、そのような扱いに慣れ、段々と尊大な行動をする者も現れた。出船の時に、前夜出された夜具を盗んで船に積み込んだり、食事に難癖をつけて、魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、予定外の行動を希望し、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあったという」

Wiki=「屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる[12]、供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる[13]   魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり・・。」

さてさて横道にそれるようだが、昨年の夏ごろから韓国の外貨不足が指摘され、ウォンは各国通貨に対して大幅に下落、第2のIMF管理下入りが公然と語られるようになった。
かれらは日本・米国・中国に通貨スワップの貸付金拡大を要請し、成功した。

これらを報じる韓国マスコミや政府関係者の発言は、「東アジアの経済危機に対し、韓国は通貨スワップ拡大を積極的に米・中・日に提案し、各国を回り取りまとめた。」との論調だ。
自分の国が危機に瀕してしまい、他人に借金の補償を申し込んだのに、まるで対等の合意のような言い草には、確かにグローバル経済だから韓国が潰れたら他の国も困るだろう、ということがあるが、とてもじゃないが釈然とするものではない。
かれらは他人が自分をどう見ているかということに異常な神経を使う民族である。それは一面、自分を客観的に見られるということを意味し、あなたとはちがうんです、となる。確かに彼らとはちがう。
米国のスワップ協約から、もうすでに3度ドル調達をしている。そして、最近の新聞記事では、「米国とのスワップ協定金額は無制限とする事が世界経済のために望ましい」という。
自国の惨めな経済を直視することによってしか、韓国の経済的未来はないのに。

Re: 美しい国日本 あげ

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/09 00:38 投稿番号: [250 / 402]
あげますた。

朝鮮通信使 4

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/06 17:58 投稿番号: [249 / 402]
このトピは第十回通信使の動向を元に紹介しているが、タネ本の『朝鮮通信使による日本見聞録』には、次の十一回通信使の資料が何も書かれていない。
彼らは大阪に入りこう残している。
十一回朝鮮通信使金仁謙の著書『日東壮遊歌』千七百六十四年一月二十二日大坂にて。

「倭の十一隻の金の桜船が命を受けて迎えに来ていた・・・その豪華絢爛   万古に例を見ない見事さである」
「その昔、桜船で下る王濬(おうしゅん)が益州を称えた詩があるがここに比べてみれば間違いなく見劣りするであろう」
「百万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。」
「人家が塀や軒をつらね   その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)の万倍も上である」
「信じられない。三神山の金闕銀台(シナ伝説の楽園)とは、まことこの地のことであろう」
「大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の十倍以上の広さで、銅の屋根で、黄金の内装である。この贅沢さは異常だ。」
「北京を見たという訳官が一行に加わっているが   かの中原の壮麗さもこの地には及ばないという」
「我が国の都城の内は実際には一里に及ばない・・・(大阪は)ほぼ十里と言われる土地は全て利用され、その全てが繁栄している。
世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。」

ここまでは日本の地方都市でビックラこいていたのが、大阪という日本最大の商業都市を目の当たりにして素直に、その繁栄振りに腰が抜けて小便を洩らしたところだ。しかし、最後の行を見てくれ。

「穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。」

なんだこりゃ!
ま、怨念がらみの醜い嫉妬にいちいち抗弁するのも面倒くさいが、それにしても朝鮮人の主観とは、なぜ、こうもグロテスクなのだ?
ただ、周の時代に有力な一族が日本列島に渡ったと朝鮮人は認識していたらしい。もちろん一万数千年前の縄文時代から、日本列島には文化を養うだけの人口がいたのだから、周末の来航者はその時代のニューカマーといって良いだろう。
そして朝鮮人は、日本人を自分たちとはちがう民族とはっきり認識しているのだ。
確かに日本の幕末期から日朝や日ユ同祖論を唱えた学者がいたが、それらは学問や科学が発展するにつれ苦笑混じりのトンデモ論になり、今では誰も口にしない。
しかし、今さかんに韓国人が、日本人をわれらの子孫だなどと言っている。日本人にとってこのうえない迷惑である。
ともあれ、周の滅亡期、前3世紀に相当な勢力を持った周の遺臣たちが郎党・民衆を引き連れ、日本列島に渡ったということが推察される貴重な一文だ。

さて、大阪で、彼らはまた火事騒ぎを起こす。幸い火消し役の活躍で大火事には至らなかったが、出火原因は正使付下官金福才という者が、塩硝を取り扱った際、煙草の火が移って燃え広がったものだという。

塩硝=焔硝=硝石(硝酸カリウム)=つまり有煙火薬のことである。(広辞苑)
日本側への献上品目に焔硝は含まれていないので、これは通信使がアトラクション用に爆竹や花火に使ったものだろうか。
なんにしても、火薬を扱っているところで煙草を吸ったようだ。こんなのありなのか!

窓口役の対馬藩は信使付家老杉村大蔵を遣わし見舞いを述べた後、「鰐浦では副使船の火事があり、ここでまた火事を起こすのは火を粗末に扱うからであり、罪人は必ず罰するようにと申し入れたら、三使は見舞いの礼を述べ、火の用心は油断なく申し付けてはいるが、下々の者には不心得者もおり申し訳ない。罰の件は本人がやけどで静止をさまよっている状態なので見合わせるという。
火傷がひどいので、外科の医者を付けてほしいと上々官より願い出があり、外科医二人が遣わされ療治にあたった』

目眩めく大阪に十日間滞在の後、五月一日信使一行は淀に向けて川船で溯航する。
奉使録『河岸では雨のなか彩色した傘をさして見物する男女が、錦の幔幕を敷いたようでその豪華で華麗なことは筆舌に尽くし難く、・・・』

朝鮮というのはよほど色のなく、粒子の粗いモノクロみたいな社会だったようだ。
とまれ、奉使録では、「船団は逆風のため枚方で船中泊まりとなり、翌日無事淀の船着場に着く。ここから諸大名が徴用した人馬で陸路を江戸に向うのだ。
本土上陸である。
ここに、淀藩士朝鮮人饗応役渡辺善右衛門が墨筆で描いたスケッチが残されている。

朝鮮通信使 3

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/02 20:06 投稿番号: [248 / 402]
(通信使)三使が対馬藩信使奉行に対し『従者が色々不行跡を働いたようだが、厳しく申し付けるので穏便に取り計らってほしい』と申し出があった。上関での通信使随行者の無体振りのことだが、悪いことをしたが許してやってくれ、とは言っているが「申し訳ない」とかの遺憾の言葉はない。
『英祖実録』24年の項に、「正使が決断力で制御できず、また万里の道を随行する者としてあえて法を以って取り締まらなかったので、名武の輩が驕慢で気ままな振る舞いをして、また主将の寛大さを信じて至るところで横暴で憚ることがなかった・・・船の火事は故意に起こして欺いたのであるという人もいた・・・」

通信使たちの、憚ることのない驕慢・横暴は本国にも伝わっていたようだが、他国で法を破る理由を、長い旅の随行者だから、と評論を述べているだけで、それを是正するとか恥じるとかということは書かれていない。不行跡をおこなうのは朝鮮国を代表する外国使節団であるのにもかかわらず、だ。

ともあれ、三泊した蒲刈を四月十三日午前9時、雨の中広島藩の護衛船に守られ出帆、次の寄港地鞆の浦(広島県福山市)へ向うが100キロもあり、途中、午後5時ごろ忠海(同県竹原市)にはいり繁船する。
三使は揚陸して泊まりたいと願ったが、‘雨だし人家も少ないし、もしもう一日泊まるようなことになれば何とかするから‘となだめられ船中泊。
鞆の浦で一泊した15日午前8時出帆。備前で船中泊。翌16日牛窓(岡山県)に上陸、このとき備前池田藩が供した軽食の献立がある。ただし、池田藩では通信使一行に対し2日分の下向(食料現物供与)と1日分の代金を渡してあるので、用意されていたのはごく簡単なウェルカムスナックであった。

(三使及び上々官)湯素麺・味噌汁・鯛の吸い物・鉢の飯・いり鶏・香の物(奈良漬・大根)・酒・焼き物(麩・はすね・山椒みそ)・和物(うど)・子鯛焼・酢たこ・むき玉子・干し菓子。

結構なもんだね。

18日、朝食後出航、途中姫路藩の船団に引き継がれ播磨の室津(現御津町)に着く。このときの船団は合計で532艘、人数は三千人近くに上った。

翌日攝津兵庫(神戸市桜川のあたり)にむかい船中一泊で入港。
奉使録『山水が清麗で白砂が練り絹のごとくで、わが国の揚州の如き風景であり、港の船数は万を数えるほどであり、砂の上の清掃した人々は億を数える』。   なんと大げさな。
ところで揚州ってどんなん?

さあ、船は20日に木津川で川船に乗り換え大阪に向う。
奉使録「木津川に着いて暫くすると彩船と多くの小船が海を覆ってきた。河口で御座船に移乗するよう促されたが、船のあまりの豪華さに驚き、関白の御船ならば我々使臣は乗れないと言うと、これは大名の船だから遠慮はいらぬと説明されて、やっと乗り込んだ」。
随行の対馬藩士は、この田舎者め、と苦笑したことだろう。
「・・・河口から大阪までの両岸は石の堤であり、その上に人家が絶え間なく続き、財貨の豊かさをしめしている。夜になり堤の左右に提灯がかけられ、その光が水に映じて真昼のようである。
見物人が楼と堤に満ち満ちて幾千万億万とも分からぬが、静かで騒ぐ声もなく、幼児の泣き声だけが聞こえてくる。そのとき、空中に光り輝く火珠と万丈もある虹が近付いたとみると、虹は橋であり、火珠は橋上の提灯である。
中船が帆をかけたまま通れるほどの橋で、このような橋がおよそ七つあった。
夜が明けて大阪に着船した。駕籠、懸轎、馬が整然と待っている。
それらの鞍、諸具の全てが華麗である。町の中は屋根の端には幔幕を張り、金色の屏風を巡らし紅い毛氈を敷き、煌々爛々としてあたかも錦繍が積まれた中を通るようである。
館所に着くと、多くの部屋が入り組んで東西もわからぬが、入り口に表示があるのでどうにか迷子にならずに行ける』

日本領の町々で、その文化の発展振りに吃驚たまげていた通信使だが、いよいよ4大都市の一つ大阪に着いた。
まあ、その発展ぶり、そして文化の豪華絢爛に腰を抜かすほどたまげているさまが手に取るように分かる。それじゃー日本人を蛮族呼ばわりしたことを改めなきゃなんねえと考えるのがふつうの人びと、しかし半島から来たかれらの思考は斜め上を飛ぶ。
事項をごらんあれ。

Re: 美しい国日本

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/12/31 18:34 投稿番号: [247 / 402]
うわー!   ヤバイ、上げだ。

朝鮮通信使 2

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/12/29 19:16 投稿番号: [246 / 402]
通信使にとっての苦難の航海は続く。
季節を選ぶわけには行かない通信使隊ではあるが、いかにも時期が悪い。
第一回目の文永の役で高麗船が季節風で壊滅されたのは太陽暦で11月26日であった。冬の季節風が吹き荒れる対馬海峡・玄界灘・周防灘は半島民族にとってまさに[板子一枚下は地獄]であったろう。

通信使が釜山に到着したのが12月18日、以来悪天候のため同港で2ヶ月も足止めを食った。
前項で割愛したが、やっと釜山を出帆した船団は荒波で予定地佐須奈に接岸できず急遽近くの鰐浦に変更された。そのため用意されていた食料その他は急遽佐須奈より運ばれる。
その後も荒天はやまず、のっけから佐須奈に1週間の滞在を余儀なくされた。その間前述した船火事を起こし、下級役人30数人は礼服を焼失したため本国に送り返される。
次は鰐浦をでて同島の中央部芳浦(現芦浦)で船中泊となり、翌朝日の出の時刻に宗家のお膝元である府中に向かう。
3週間後の3月16日朝壱岐に向かい、これは無事到着するが、ここでも風雨に阻まれて2週間の滞在となり、接待側の平戸藩は多大の出費を余儀なくされる。

朝鮮側は、船火事の引け目もあり気の毒に感じたのか、一日の下向渡し(食料他の現物供与)の軽減を申し入れ、日本側が断ると現場においてできる限り軽減に努めた、とある。相手に気を使う心優しき朝鮮人、こういう事実も気にとめておくべきだろう。ま、すぐ帳消しになるけど。

さて、朝8時に壱岐をでて藍島までの54キロもかなり荒れて、通信使船がはぐれてしまい、全船が着岸したのは夜中の12時になった。
藍島からは次の、次の日の朝にあわただしく出奔したが、実は前回の第九回通信使も台風のためこの島に九日間滞在し、次の11回目はやはり台風で船が大破し、二十四日間も滞在している。

さらに難所の関門海峡を通り赤間関にようようたどりついたが、通信使たちはもう船に乗るのを嫌がっているようだ。ここを出るとき奉使録は「空は曇って風が激しく、とても出航できる日和とは思えなかったが、対馬の守の船から出航合図の太鼓がなり、全員乗船する。」と書く。
次港地の上関(岩国あたり)まで140キロもあり、その上、潮の変化も激しい。
「この日も、波が高く、船の傾きも外洋を渡るときよりひどかった」
「暗礁があちらこちらから波間に頭をみせ、避けねば船が破損するので、小船が先行して碇を下して旗を立て、標示した。」・・怖かっただろう。
通信使船は向浦(現防府市向島)に避難する。
波風がきつく船は翻弄され、とても安眠できる状態ではないが、民家六、七軒ほどの寒村で、泊まる施設もない。全員船中泊となる。

次の日、正規の寄港地上関につく。2日後、次の寄港地蒲刈に向うが、霧が立ち込め見通しをさえぎった。
船団は伊予灘から安芸灘への水路にある伊予松山藩の領地津和地島に避難する。また船中泊。もうヘトヘトである。
しかし対馬藩より[明朝の潮のよいのは朝のうちわずかな間だから正使はご不快ではあるが、早朝に乗船されたい]と非情に催促され、次の日の午前五時出帆、黒島沖で広島藩の三百三十四艘の護衛船に引き継がれ蒲刈(呉市)になんとか入港した。

やっと瀬戸内海の懐に入り、陸路に変わる大阪までは後5−6日の行程だ。
ここまで荒海を越えてきた通信使一行に充分な活力があるとは思えないのだが、ここに対馬藩家老から御馳走係に通達が入る。
「目付けからの知らせでは、各所において朝鮮人と日本人が入り混じり、特に上関では不行跡が甚だしく、夜更けまで朝鮮人が町中を徘徊し、夫人までもが入り混じり、また朝鮮船にも乗り込み、その中に脇差を差した町人もいたという。これでは武器の密売の恐れがある。
通詞下知役は三役たちと一緒に揚陸するが、横目は船に残って監視をする役目である。役目怠慢できつく叱るよう申し渡す。
また番所はどこの藩でも設けているのだから、家中の者以外は通さず、朝鮮人が外出したら対馬役人まで届け出るよう、往復とも厳重に申し伝える。
上関の朝鮮人外出の件は、内々報せを受けたので、裁判を客館に遣わし上々官に声高に三使にも届くよう叱りおいた。今後国法をしっかり守るよう厳重に申し渡す。」

ほう、日本夫人も浮かれていたようだな。韓流の走りか。
通達は、通信使の世話役である同藩御馳走係りに役目の履行を厳命し、わざわざ通信正使、副使に聞こえるよう大声で申し渡したとある。

彼らの不行跡とはいかなるものであったのか.
ともあれ、この注意が役に立たず、彼らの増長は行程を増すごとに騒がしくなる。

Re: 朝鮮通信使

投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2008/12/27 22:22 投稿番号: [245 / 402]
全く、勉強になります。感謝。

朝鮮通信使

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/12/27 09:13 投稿番号: [244 / 402]
悪天候のため、対馬の府中には1ヶ月も滞在することになり、一行はようよう3月17日壱岐島に向けて出帆する。対馬藩側は藩主を始め800名、100艘の大船団で随行した。距離は釜山―対馬北端と同じだが玄界灘は甘くない。荒波で「通信使はみな昏倒した」と記され、壱岐島寄航後も風雨は止まず2週間もの滞在になった。
ここは長崎平戸藩の領地で、藩は幕令で通信使一行の宿舎、納戸、縁、湯殿など443坪を新築している。ここでは二週間使用された。

次は玄界灘を横切って四月一日深夜関門海峡の西口、福岡(黒田)藩領藍島に着く。ここでは24軒が新築されている。
また、奉使録は触れていないが、藩では総力をあげて食料を調達、もてなしたことが記録されている。一方通信使側は各地のご馳走のランクをつけている。江戸、大阪、京は別として[ご馳走一番]は福岡藩の藍島、長州藩の赤間関、広島藩の蒲刈、彦根藩の彦根が選ばれている。ご馳走になったところにランクをつけるとは品がない振る舞いだ。

しかし、一流料理でもてなす藍島をわずか一日半であわただしく発つ事になる。
通信使一行は未明、順風の知らせに叩き起こされて目を擦りながら乗船する。
「航海には福岡藩の大きな曳き舟小船十四艘を率いて、縄を連ねて左右に分かれて引っ張った。大船の両側に出ている櫓が百足の足のようであり、櫓の動きが一人で漕いでいるように揃っているのを見て、何かにつけ日本人に厳しい目を向ける曹命采が{わが国の船夫たちはとにかく力仕事を避けようと怠けるので、このように真面目に仕事をする日本人を見ると恥ずかしい}といっている。」

しかし航海は難渋する。荒波にもまれるうちに日が暮れ船団はばらばらになった。信使船はやっと南泊浦港を見つけることができ避難したが、ここで従事官船は座礁している。
翌朝すべての船が南泊浦港に集合し無事を喜び合った。
船団を整え直ちに次の寄港地赤間関(下関)に向け出帆する。そのようすを奉使録では「小倉藩の曳き舟が合して引くので帆柱が海に満ち、旗標が軍陣の如くで、太鼓と角笛のやかましい音が関門を振動させた。船に棹差して見物に来る蛮人の男女老少もその数が分からないくらいである。」

むむ、彼らは日本人を蛮人というのか。
人の心のうちはその人の自由で、どのようなアイデアも妄想もご勝手に、というものだが、それを口外したり書に残すとなると話は別だ。朝鮮人が日本人を野蛮呼ばわりすることが妥当かどうか、答えはこの通信使からでも分かるかもしれない。
ともあれ、先に進もう。

船団は小倉城を南に見て関門海峡に入る。舟島あたりで長州藩の船に引き継がれ、引き潮の中難しい操船であったが無事に赤間関に入港した。
客館は阿弥陀寺の境内に新築されていた。
奉使録「国書を奉じて入っていくと絹の幔幕が二重に張られ、室内も美しく幕・帳で飾られる調度品もみな精巧で豪華である。・・楼閣は高所にあって海を俯瞰しており、帆船が通る様子や他の景色も絶景である。一泊するだけの所に百種類の豪華な諸具をみるとこの藩の財力のほどがしられる。
接待する礼儀、法度が他者の倍ほどであり、絹の寝具の支度は上官から下官にまで及んだ。」

従事官「多くの居酒屋が左右に続いて、絹の着物と彩色を施した着物を着た見物人が垣のように並んで立っていた。民家が稠密していて数万余戸に至り、白い楼閣と幾層にも積んだ垣がここまでおぼろげに映ずる。去来する商船の貨物が幅湊してそのまま美しい一都会であり、大阪城に次ぐというのはこのためである。」

さて、市井の蛮人がきらびやかな絹の着物を着ているとはいぶかしい話だ。
近代という区分の日本では、彩色豊かな友禅染は元禄時代に始まっているが、相対するように朝鮮の白衣は有名だ。その理由を
「白色は神聖であることから、清廉、潔白、忠節の心に通じるものと」と朝鮮人は説明する。
しかし日本の美術評論家柳宗悦は、「朝鮮人は花を愛でる心の乏しい民族」で、白色好みについても、「色を楽しむ心の余裕を失ったから」とする。

これに対して朝鮮新報はさらに、「この説が正しいとすれば、朝鮮人は一貫して{心の乏しい余裕を失った}民族ということになる。そうであるなら、世界にさん然と輝く朝鮮文化の華は、誰の心と知恵の結晶であったというのか。」と怒る。

うむ、かなり大きく出たな。[世界にさん然と輝く朝鮮文化の華]とは一体如何なるものなのか。説明可能なものなのか。
日本では、実体の伴わない大言壮語を[大風呂敷]とか「大法螺吹き」とかいう。かの国にはそういう言葉さえないのであろうか。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)