故郷忘れじがたく候 2
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/29 20:18 投稿番号: [258 / 402]
さて、司馬先生は言う。「「故郷忘れじがたく」といった彼らの故郷は、全羅南道南原城である。(略)
豊臣秀吉の高麗陣のとき、大明帝国の朝鮮における都督は本営を星州から南原に移した。」
そして先生の対面相手の沈寿官の先祖たち全員は、落城時この城に立てこもっていたとする。朝鮮の資料に、「賊、進みて南原を囲む」「倭、蹂躙して城に登る。すでに城中大いに乱る。聞くならく『倭、城に入ると』。」
城は3日で陥落した。「薩摩苗代川の人々の先祖は、この陥落の日、よほど奮戦したらしいことは家々の伝説に残っているがどこでどう奮戦したのか、いまとなればよくわからない。沈寿官氏の先祖は貴族であったことは確かで、どうやら王子を護っていたらしい。いつ、どのようにしてつかまったのか。」
日本のわらべ歌に『過ぎし昔の戦をかたる。いろり火はとーろとーろ、外は吹雪』というのがある。
先祖の武勇伝はこのように語り継がれていくものである。一世一代の大悲劇の場に居合わせ、我はこう敵を防いだ、我はそうやって危機を脱したとか、脚色されながらも詳細に語られていくものだ。
しかし沈寿官氏から、先祖はどこの門で奮戦したか、王子をどう守ったのか説明がない。どうして王子を守る立場にあったのかということも説明できない。先生の筆はそこを飛び越えますます飛翔する。
「・・やがて島津勢も日本に向って出航した。撤退にともなうこれだけの困難のなかで、右の陶工たちはどのように扱われていたのであろう。どこに収容され、いつ出帆したのかはわからない。すくなくても、島津義弘が直接指揮している船団のなかにはかれらは居なかった。義弘は博多湾に入ったが、右の陶工たちは博多湾には入っていない。」と、不審を呈しながらも「よほどあとの船にのせられていたのか。あるいは撤退騒ぎの中でかれらのことは忘れ去られていたのかもしれない。」と思索を続けるが、ここで確認されるのは、帰還した島津軍船の中に、彼ら70人の動向に一片の情報もない、ということだ。
とまれ、島津領に流れ着いた70余名の朝鮮人陶工は、南原城堕落時ほんとうに城内にいたのか、ほんとうに王子の守役をしていたのか、ほんとうに島津勢に拉致されたのか、その考証は一切ないのである。沈氏の、周囲の補強のまったくない、いわば片言は、貴種流離譚の一バージョンにすぎず、自らの素性をことさら高位に述べることは、いかにも人間性のなせる仕業であろうし、沈氏の弁も同様に考えるといいのではないか。
不審な記述は漂着後も続く。朝鮮工人らは薩摩半島西海岸の無人の浜に流れ着く。
「彼ら韓人たちは、島平に漂着した。‘呼ベドモ人ナシ‘という荒涼たる風景であったろう。
・・どこに誰を訪ねていくあてもなく、白装のすそを踏んで砂浜をさまよい、病人は伏し、婦人は泣き、哀号の声はあたりに満ちた。
・・たまりかねた数人が故郷に帰りたさのあまり、乗ってきた船のふなばたにすがりつき、「狂乱セシガゴトク船ヲ海中ニ浮ベタリシガ、小舟ユエ風浪ノママニオシカエサレ」たというが、このときの望郷の悲しみはかれらの家々に伝承され、家霊のように家々に棲みついたであろう。航海中、病気になった何人かは、この浜で死んだ。かれらは遺骸を抱いて砂浜をのぼり、松林のかげに葬った。石碑を建て、朝鮮文字で名を刻んだ。墓はいまなおそこにある。
が、いつまでも砂浜に居るわけにもいかなかった。そのあたりの野をみると、なお人は住まずあれ野が多く、とにかくも国主に無断ながらも丘のかげに小屋をつくり、野を開いて食物を得ようとした。」と、愁嘆場を見てきたように描写する。
さて文章中、かれらは『船ヲ海中ニ浮ベタリシガ、小舟ユエ風浪ノママニ・・』というほどの小船、おそらく不忍池のボートくらいの舟で流れ着いたらしいが、不忍池のボートに70余名は乗れない。最低10艘は必要だろう。
ものの例えとしてはともかく、島津藩が捕獲した大事な工人をそんな小舟に乗せて対馬海峡を渡らせたとは考えられない。また複10艘もの舟が同じ浜に漂着する可能性はないではないが、現実としては否というほかない。
さらに、かれらは3年間に渡り『隠れ里』で自給自足の生活を送っていたとするが、たしかに、日本でも落人伝説で、山中で一族郎党が粟・稗などを栽培して自己完結の生活を送った例はあるが、それには大きな前提条件がある。
種子と農具である。
つづく。
豊臣秀吉の高麗陣のとき、大明帝国の朝鮮における都督は本営を星州から南原に移した。」
そして先生の対面相手の沈寿官の先祖たち全員は、落城時この城に立てこもっていたとする。朝鮮の資料に、「賊、進みて南原を囲む」「倭、蹂躙して城に登る。すでに城中大いに乱る。聞くならく『倭、城に入ると』。」
城は3日で陥落した。「薩摩苗代川の人々の先祖は、この陥落の日、よほど奮戦したらしいことは家々の伝説に残っているがどこでどう奮戦したのか、いまとなればよくわからない。沈寿官氏の先祖は貴族であったことは確かで、どうやら王子を護っていたらしい。いつ、どのようにしてつかまったのか。」
日本のわらべ歌に『過ぎし昔の戦をかたる。いろり火はとーろとーろ、外は吹雪』というのがある。
先祖の武勇伝はこのように語り継がれていくものである。一世一代の大悲劇の場に居合わせ、我はこう敵を防いだ、我はそうやって危機を脱したとか、脚色されながらも詳細に語られていくものだ。
しかし沈寿官氏から、先祖はどこの門で奮戦したか、王子をどう守ったのか説明がない。どうして王子を守る立場にあったのかということも説明できない。先生の筆はそこを飛び越えますます飛翔する。
「・・やがて島津勢も日本に向って出航した。撤退にともなうこれだけの困難のなかで、右の陶工たちはどのように扱われていたのであろう。どこに収容され、いつ出帆したのかはわからない。すくなくても、島津義弘が直接指揮している船団のなかにはかれらは居なかった。義弘は博多湾に入ったが、右の陶工たちは博多湾には入っていない。」と、不審を呈しながらも「よほどあとの船にのせられていたのか。あるいは撤退騒ぎの中でかれらのことは忘れ去られていたのかもしれない。」と思索を続けるが、ここで確認されるのは、帰還した島津軍船の中に、彼ら70人の動向に一片の情報もない、ということだ。
とまれ、島津領に流れ着いた70余名の朝鮮人陶工は、南原城堕落時ほんとうに城内にいたのか、ほんとうに王子の守役をしていたのか、ほんとうに島津勢に拉致されたのか、その考証は一切ないのである。沈氏の、周囲の補強のまったくない、いわば片言は、貴種流離譚の一バージョンにすぎず、自らの素性をことさら高位に述べることは、いかにも人間性のなせる仕業であろうし、沈氏の弁も同様に考えるといいのではないか。
不審な記述は漂着後も続く。朝鮮工人らは薩摩半島西海岸の無人の浜に流れ着く。
「彼ら韓人たちは、島平に漂着した。‘呼ベドモ人ナシ‘という荒涼たる風景であったろう。
・・どこに誰を訪ねていくあてもなく、白装のすそを踏んで砂浜をさまよい、病人は伏し、婦人は泣き、哀号の声はあたりに満ちた。
・・たまりかねた数人が故郷に帰りたさのあまり、乗ってきた船のふなばたにすがりつき、「狂乱セシガゴトク船ヲ海中ニ浮ベタリシガ、小舟ユエ風浪ノママニオシカエサレ」たというが、このときの望郷の悲しみはかれらの家々に伝承され、家霊のように家々に棲みついたであろう。航海中、病気になった何人かは、この浜で死んだ。かれらは遺骸を抱いて砂浜をのぼり、松林のかげに葬った。石碑を建て、朝鮮文字で名を刻んだ。墓はいまなおそこにある。
が、いつまでも砂浜に居るわけにもいかなかった。そのあたりの野をみると、なお人は住まずあれ野が多く、とにかくも国主に無断ながらも丘のかげに小屋をつくり、野を開いて食物を得ようとした。」と、愁嘆場を見てきたように描写する。
さて文章中、かれらは『船ヲ海中ニ浮ベタリシガ、小舟ユエ風浪ノママニ・・』というほどの小船、おそらく不忍池のボートくらいの舟で流れ着いたらしいが、不忍池のボートに70余名は乗れない。最低10艘は必要だろう。
ものの例えとしてはともかく、島津藩が捕獲した大事な工人をそんな小舟に乗せて対馬海峡を渡らせたとは考えられない。また複10艘もの舟が同じ浜に漂着する可能性はないではないが、現実としては否というほかない。
さらに、かれらは3年間に渡り『隠れ里』で自給自足の生活を送っていたとするが、たしかに、日本でも落人伝説で、山中で一族郎党が粟・稗などを栽培して自己完結の生活を送った例はあるが、それには大きな前提条件がある。
種子と農具である。
つづく。
これは メッセージ 255 (hendazo04 さん)への返信です.
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