美しい国日本
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Re: 美しい国日本 詐欺 ペテン 猫ばば?
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/01/16 20:42 投稿番号: [41 / 402]
例えばスペースシャトルに活きた小魚を持ち込んだ飛行士は、生の欠片もない暗黒の宇宙で共生し、水槽で泳ぐ姿を生き物として再確認させられ、なんともいとおしく感じたそうだ。
もっとキミに分かりやすい例は、刑務所の独房に長く入れられていた囚人は、その独房で誕生し大きくなっていくゴキブリを大切に見守っていたそうだ。人間は孤独に弱い。
この不人気トピを見てくれたうえレスまでいただけるとは望外の喜びだ。しばらく気がつかなかったほど。
オレの心情で言えば、たとえ小魚であろうとゴキブリであろうと、はたまた毛の生えたO玉フェチであろうと大事な来訪者だ、まじめに応対しよう。
キミの言いたいことはよく分かるし共感もする。特に大物官僚から小役人に至るまで国体の血を啜る『国民の下僕』の悪行は全員さらし首にしたいほどだ。
でもね、およそ国として見つめた場合、しかも客観的に他国と見比べた場合、日本国が特段淫らとはいえないだろう。
キミの大好きな社会主義国はどうなっている?
日本はシナから日本文化を成すさまざまな習俗やシステムを学んだが、中には学ぶべきではなかったものもある。代表的なのは科挙制度だ。平安時代にものにならなかった制度を、下級階層であった明治の元勲たちが憎い武士階級の代わりに、『民間』から武士道を心得ぬ者たちを政治の中枢に置いたのが誤りであった。
試験秀才をただ集めるのではなく、公務員希望者には特別な倫理観、使命感を身につける特別教育が必要だとおもう。
>こどもの学力もアジアでは最下位ランク
英語に至っては北朝鮮と並ぶほどの学力ブリ・・
ゆとり教育は日教組が提唱したものだが、ために学童の学力は目に見えて低下した。その目的は勉強のできる者をできない者のレベルに合わせるというおぞましき「平等」主義、亡国を狙ってのものとしか思えない蛮行だ。
また、運動会で一等、二等の順位をつけず、みんな一緒にゴールインというルールにしたのは、運動弱者に配慮しようという「平等」思想だ。
そして、女の子に赤いランドセルはダメ、男子にもスカートをはかせようと言うたわけ話は男女「平等」主義からくる。
このように、「平等」を看板に掲げる集団はキミのはまっている社会「平等」主義者だ。
もちろんこの集団にも上下の階層がある。上は朝日新聞、末端価格はお前らだ。だが、さすがに朝日新聞はお前みたいにダラダラした文章は書かない。収入も違うだろう。お前らが言うのは、朝日の編集委員とお前ら末端工作員と同じ待遇を与えろということだ。
>老人は年金だけでは生活できず
医者にも行けず、国民から税金をむしりとり、海外へ金を貸し続けて銀行だけが儲かる、この国が
美しいかい?
確かに問題はいっぱいある。これが良いとは言えないからその思いを投稿に託している。『美しい国』を再生しようということだ。それには戦後レジュームからの脱却だ。それだけで「日本人」は甦る。
言いたいことは分かるが邪魔をしないでくれ。
>子供が勤勉で年寄りの笑顔が絶えない国。働きがいのある希望のある国、学校の先生が薄給でありながら尊敬される国、国民が等しく公平で平等な扱いを受ける国を言うのだけどね。
たしかに。理想だな。で、古今東西キミの言うような国があったのか?
こういうのを絵に描いた餅、空念仏、書生論というんだよ。
理想を目標に置いてそこに近づくよう努力するというのが現実論だ。
現在、ロシア、中国どころか、米英仏に比べても日本が劣っているとは思えない。
そう考えるのだったら具体的に他国と比較してみよ。
>せめて
教科書くらいはウソ書かすなよ、国定教科書なんだからね、
おまえらプロ市民の仕業によって書かれた「うそ」を正そうというのが良識者の思いだよ。
ま、またなにかあったら相談に来い。下品な表現を控えるだけで、キミは師を得ることができるだろう。
これは メッセージ 38 (yominokuni56 さん)への返信です.
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番外 東ティモールの日本軍
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/01/16 15:30 投稿番号: [40 / 402]
横道だけど、年末の週刊誌で面白いコラムを見つけた。
産経新聞の元編集委員で現帝京大学教授の「変見自在」だ。博識な人は知っているでしょうが、わたしは初耳だった。中々に痛快なエピソードなので掲載させてもらう。
2002年東ティモール民主共和国として改めて独立を果たし、日本の自衛隊も国連平和維持活動の一環として選挙監視などに派遣された。
大戦後、日本軍が撤退したときから独立まで幾度も血なまぐさい殺戮に見舞われたがその因はもちろん白人の非人間的な支配制度にあった。
「昭和17年秋、第48師団がポルトガル領東ティモールに進駐した。
理由は二つあった。ひとつはこの島がオーストラリアの最も近くに位置し、豪州軍が反攻に出るとき、その最前線になるからだ。
もう一つの理由はおかしな話だが、ここを支配するポルトガル人総督らの保護にあった。
この国は戦前から日本には友好的だった。
日本がアジアに向けて航空路を開設しようとしたときアジア諸国を支配する米英仏蘭はそろって日本機の乗り入れを拒絶した。
飛行機は白人の偉大さの象徴だった。それを日本人がやって見せたら白人神話が綻びるからだ。
そんな中でポルトガルだけがOKを出し、日本からパラオ経由でこの東ティモールまで日本製の大型飛行機が飛んだのである。
やがて日米開戦。日本はフィリッピンを持つ米国を叩きマレーの英軍を潰し、インドネシアに進駐してオランダ人を追っ払った。
ティモールで言えば蘭領の西半分は自由になったが、ただ東半分は日本の友好国ポルトガル領ということで事情が違った。
島民にはそれが解せなかった。日本軍がやらないなら自分たちがやる。島民はポルトガル人を見れば石を投げつけた。
ポルトガル人は現地の女に産ませた混血児を島民支配の手先に使っていた。島民はこの白人顔を鼻にかける混血児を最も憎んで襲いかかった。
これを仲裁したのが日本軍で「植民地政府には島民を苦しめる人頭税を止めさせ、島民にも襲撃を止めるよう説得した」とここに駐屯した山下信一元昭和女子大教授は語る。
島民も税金が消え、塩も専売でなくなって大喜びで仲裁を受け入れた。
駐屯して1年が過ぎたとき南部の村民から豪州軍のスパイが侵入したという通報があった。
日本側は村民の協力で道案内人のポルトガル混血児ピリスと豪州軍のエリウッド軍曹、それに荷物運びの現地人の計5人を無傷で捕らえるのに成功した。
日本軍の兵員数、火器、飛行機の状況などを調べてそれを暗号で送信するというのが任務で、暗号表も押収できた。
スパイは戦場ではすぐ処刑される。しかし日本側は彼らの安全を保障し、協力を要請した。
契約は成立し、日本軍の行動を織り込んだ電文が打電された。
豪州側は何の疑いも持たず、活動に必要な食料や医薬品などを指定場所に投下すると返事が来た。
日本軍の一人が軍曹に付き添い、指定の河口で待つとやがてB24が飛来し落下傘が投下された。
日本軍はこれに味を占めラッキーストライクなどタバコや医薬品、食料品など不足している物資を発注した。
豪側は律儀に応じてB24や双胴のP38が飛んできて物資を投下した。
翌19年、豪軍は反抗が迫ったらしく新たに諜報員数人を送り込んできた。日本軍はこれも島民の協力で拘束した。
反抗は秒読み段階にあるようだった。それで「日本側は兵力20万。陣地は堅牢」と実際の15倍近い数字を打電し続けた。
おかげで豪州軍はとうとう東ティモール進行計画を実地しないまま昭和20年夏を迎えた。
そして8月8日。『いい情報だ。日本は無条件降伏した』の電文が届く。
日本側は驚くが、事態を理解し返事を送った。『長い間、貴重な情報を感謝する。日本軍司令官』
翌日、豪軍から『貴官の通報に接し驚愕に絶えず。よろしく当方の将兵を保護されたし』
1週間後に日本降伏が発表され捕虜は帰還した。
豪州側はこの件についてはあまり自慢にならないからか無視を決め込み、丸2年間、豪州軍を騙して物資を貢がせてきたわが東ティモール守備隊には一切の咎めがなかった。
この島について朝日新聞や北海道新聞は『島民を虐殺した』だの『占領した』の好きに嘘を並べてきた。
意味のない自虐は止めてたまには老兵の話を聞いてみたらどうか。
このケースでも彼らは長崎原爆投下前に日本の降伏を知っていた。(にもかかわらず落とした
注私見)
日本は『10日に受諾』は公式の歴史だ。これだけでも面白いと思わないか。」
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負け犬yominokuni56が
投稿者: koudousuru009 投稿日時: 2008/01/15 09:11 投稿番号: [39 / 402]
こんなところまで逃げてきて、
負け惜しみを書いてる
(笑
よっぽど口惜しいんだな
(笑
ノータリンのくそまみれのくせに
(笑
アーリントンのことでも書いてやろうか、あん
(笑
(笑
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Re: 美しい国日本 詐欺 ペテン 猫ばば?
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2008/01/15 07:03 投稿番号: [38 / 402]
>日本民族の歴史を語り、戦後レジュームからの脱却をどう果たしていくのか、賢者の議論を期待したい。
まず
詐欺
ペテン
猫ばばをやめることだよ。
歴史問題
年金問題
薬害問題
道路建設汚職
公務員の税金国税に対する予算の認識を変えることだぜ。
先日
太田審議官(防衛省)が言ってたが、、そもそも
憲法で保障もされていない自衛隊に
国会で予算が成立し
年間5兆円もの
資金をくれるのだから
その金を
どのように使おうが
省の勝手というものだよ。
それととやかく言われる筋合いはないって、、どこの省庁も同じ事やってんだから、、守屋が一人
ババ踏んだだけなんだよ
って
笑ってたが、、そうなんだろうね
この国の官僚ってのは、、国民が認めて
予算をあたえてるんだから、、今更文句も言えないってことなんだよ(笑)
今
日本は経済大国2位ってのも昔話で
現在は第14位の地位に甘んじております
中国
マレーシアにも大きく
話されている現状を
しっかりと認識すべき
でしょうね(笑)
国際間では
とっくに
見放された
中国大陸の切れ端くらいの扱いしかされてませんね。
自給率も先進国といわれる中では最低のようでっせ、、借金大国ですが
世界最大の債権国でもあるようで、、なにやら
やり手ババアの
あこぎな金貸し根性みたいな
醜い国となってるようです(笑)
こどもの学力もアジアでは最下位ランク
英語に至っては北朝鮮と並ぶほどの学力ブリ
若年層は
国際貢献って言う名の海外研修生制度によって賃金は最低賃金を下まわる給与単純労働しかなく、消費者金融問題
薬害問題
年金問題と
壮年を
悩ませ苦しませている
結果
年間自殺者約3万人
老人は年金だけでは生活できず
医者にも行けず、、国民から税金をむしりとり
海外へ金を貸し続けて
銀行だけが儲かる
この国が
美しいかい?
オイラの美しい国って
おもうのは、
子供が勤勉で
年寄りの笑顔が絶えない国
働きがいのある
希望のある国、学校の先生が薄給でありながら
尊敬される国、国民が等しく公平で平等な扱いを受ける国を言うのだけどね。
詐欺
ペテン
猫ばば
ドロボウ国家に
明日はないぜ(笑)
せめて
教科書くらいはウソ書かすなよ、、国定教科書なんだからね、、
民間教科書会社はただの印刷所だよ、検閲してるのは文科省だぜ(笑)
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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白人児童誘拐殺人事件 2
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/01/15 06:50 投稿番号: [37 / 402]
「惨死体発見で、騒ぎはますます大きくなった。そのうちに、少年の父親を脅迫して奪った4000ドル中の5ドル紙幣があちこちで出はじめたので、警察では、捜査網をしぼってゆき、9月22日真犯人を逮捕した。
犯人は、マイルス福永寛という19歳の日系2世青年であった。
犯人が逮捕されたというので、アロハ・タワーからは、サイレンが鳴らされ、身柄を拘留する警察には約2万人の野次馬が殺到し、国民軍が出動して整理にあたった。
福永は、普段は真面目いっぽうのシェイクスピアを好む文学青年で、凶悪犯人を想像していた大方の人びとは、意外の感に打たれた。
福永青年の家庭は貧乏人の子沢山の典型で、6人の姉妹があり、極度の貧困にあえいでいた。
彼は、誘拐の動機として、家具の取立てでののしられる母親の姿を見るにしのびなかったことをあげ、検事の取調べに対しては、次のように答えている。
どうしてこんな考えを起こしたのか?
『金を得るためです』
金さえ入るなら、誰でもよかったのか?
『いいえ。私は、金を得るといっしょに復讐したかったのです。だからハワイ信託会社に関係のある人を狙ったのです』
どうしてハワイ信託会社でなければならなかったのか?
『わたしたち一家は家賃を支払うために、ずいぶんハワイ信託会社に苦しめられました。これまでどんなに血を吐く思いで泣かされたことでしょう。私は同社に対して猛烈な恨みを持ちました。そして同社に関係している人は、金を持っていることを知っていました。
それではじめは社長のゴルト氏を選んだのですが、わたしが病院勤務時代に個人的に知っていたので、手を下す気になりませんでした。そこで副社長のディミソン氏を狙ったわけです』
家賃のことで、お前の父や母が家から追い出されたことはあるか?
『それはありません。しかし集金人は、いつも必要以上の罵詈雑言を浴びせて、私を怒らせました。ある日などは、私が病気で次の部屋で寝ているとき、母親が十分英語がわからないことをいいことにして、とても聞くにたえない、人間扱いとは思われない悪口を吐いて、寝て聞いていた私を泣かしたのを記憶しております』
お前は少年に対してすまぬと思わないのか?
『私は彼に対してなんとも謝罪する方法がありません。実に残酷の極みでした・・・。少年の泣き声が夜となく昼となく私を悩ませます。私はいま悲哀と悔恨に暮れています・・・。』
金を得てから、どうするつもりだったのか?
『親たちを助けるつもりでした。彼らは、いつも郷里の山口県に帰りたいと言いつづけていましたから、金を与えて日本に帰してやりたかったのです』
お前は精神の異常を申し立てようと思わぬか?
『まったく正気です。つつしんで服罪するつもりです』
平和な島ハワイでは、外出するにも家屋に鍵をかけることがなかったほどだから、突如降って湧いたような誘拐殺人事件は、全島人の心胆を寒むからしめるに充分なものであった。
しかも犯人が、いまや多数派になった日系人の一人であることが、火に油をそそぐことになった。
従来日系人は、自他ともに正直で、勤勉で、命令や法律に従順であることを認めていたのだから、波紋は大きかった。
そして従来の排日気運横溢とあいまって、がぜん白人間では、『これを機に、徹底的にジャップに思いしらせよ』という声が強まった。
福永が、自首をすでに決心していたと供述しながら、ただちにそれを実行しなかったこと、さらに誘拐殺人というのは、犯罪ではもっとも悪質であったことから、白人間の日本人への憎悪は、想像以上のものがあったに相違ない。それでも福永の悪びれない態度や、罪を罪として反省していること、さらに犯罪動機に同情酌量の余地ありとして、日系人間から除名運動が猛然と起こった。
福永に対する公判は、こうした状況の下で行われたが、12名の陪審員は、一等謀殺罪として有罪判決を下し、1928年10月8日、ホノルル巡回裁判所において、ステットマン判事は、死刑の判決を下した。
そのとき、瞑目して頭を垂れていた福永めがけて、傍聴席から若い3人の女性が走りよって泣きながら握手した。
からりと晴れ上がった11月19日、オアフ監獄で、福永の死刑が執行された。福永は落ち着いた声で祈りの言葉を終えると電気椅子のスイッチが押された。
静かに逝った福永に対して、幅広い同情と、潔い日本人の死に方という評価が起こった。」
幼児誘拐殺人という許しがたい犯罪ではあるが、私は彼を『日本人の名を汚した』と、責める気にはとてもなれない。
これは メッセージ 36 (hendazo04 さん)への返信です.
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白人児童誘拐殺人事件
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/01/15 06:40 投稿番号: [36 / 402]
「惨死体発見で、騒ぎはますます大きくなった。そのうちに、少年の父親を脅迫して奪った4000ドル中の5ドル紙幣があちこちで出はじめたので、警察では、捜査網をしぼってゆき、9月22日真犯人を逮捕した。
犯人は、マイルス福永寛という19歳の日系2世青年であった。
犯人が逮捕されたというので、アロハ・タワーからは、サイレンが鳴らされ、身柄を拘留する警察には約2万人の野次馬が殺到し、国民軍が出動して整理にあたった。
福永は、普段は真面目いっぽうのシェイクスピアを好む文学青年で、凶悪犯人を想像していた大方の人びとは、意外の感に打たれた。
福永青年の家庭は貧乏人の子沢山の典型で、6人の姉妹があり、極度の貧困にあえいでいた。
彼は、誘拐の動機として、家具の取立てでののしられる母親の姿を見るにしのびなかったことをあげ、検事の取調べに対しては、次のように答えている。
どうしてこんな考えを起こしたのか?
『金を得るためです』
金さえ入るなら、誰でもよかったのか?
『いいえ。私は、金を得るといっしょに復讐したかったのです。だからハワイ信託会社に関係のある人を狙ったのです』
どうしてハワイ信託会社でなければならなかったのか?
『わたしたち一家は家賃を支払うために、ずいぶんハワイ信託会社に苦しめられました。これまでどんなに血を吐く思いで泣かされたことでしょう。私は同社に対して猛烈な恨みを持ちました。そして同社に関係している人は、金を持っていることを知っていました。
それではじめは社長のゴルト氏を選んだのですが、わたしが病院勤務時代に個人的に知っていたので、手を下す気になりませんでした。そこで副社長のディミソン氏を狙ったわけです』
家賃のことで、お前の父や母が家から追い出されたことはあるか?
『それはありません。しかし集金人は、いつも必要以上の罵詈雑言を浴びせて、私を怒らせました。ある日などは、私が病気で次の部屋で寝ているとき、母親が十分英語がわからないことをいいことにして、とても聞くにたえない、人間扱いとは思われない悪口を吐いて、寝て聞いていた私を泣かしたのを記憶しております』
お前は少年に対してすまぬと思わないのか?
『私は彼に対してなんとも謝罪する方法がありません。実に残酷の極みでした・・・。少年の泣き声が夜となく昼となく私を悩ませます。私はいま悲哀と悔恨に暮れています・・・。』
金を得てから、どうするつもりだったのか?
『親たちを助けるつもりでした。彼らは、いつも郷里の山口県に帰りたいと言いつづけていましたから、金を与えて日本に帰してやりたかったのです』
お前は精神の異常を申し立てようと思わぬか?
『まったく正気です。つつしんで服罪するつもりです』
平和な島ハワイでは、外出するにも家屋に鍵をかけることがなかったほどだから、突如降って湧いたような誘拐殺人事件は、全島人の心胆を寒
むからしめるに充分なものであった。
しかも犯人が、いまや多数派になった日系人の一人であることが、火に油をそそぐことになった。
従来日系人は、自他ともに正直で、勤勉で、命令や法律に従順であることを認めていたのだから、波紋は大きかった。
そして従来の排日気運横溢とあいまって、がぜん白人間では、『これを機に、徹底的にジャップに思いしらせよ』という声が強まった。
福永が、自首をすでに決心していたと供述しながら、ただちにそれを実行しなかったこと、さらに誘拐殺人というのは、犯罪ではもっとも悪質であったことから、白人間の日本人への憎悪は、想像以上のものがあったに相違ない。それでも福永の悪びれない態度や、罪を罪として反省していること、さらに犯罪動機に同情酌量の余地ありとして、日系人間から除名運動が猛然と起こった。
福永に対する公判は、こうした状況の下で行われたが、12名の陪審員は、一等謀殺罪として有罪判決を下し、1928年10月8日、ホノルル巡回裁判所において、ステットマン判事は、死刑の判決を下した。
そのとき、瞑目して頭を垂れていた福永めがけて、傍聴席から若い3人の女性が走りよって泣きながら握手した。
からりと晴れ上がった11月19日、オアフ監獄で、福永の死刑が執行された。福永は落ち着いた声で祈りの言葉を終えると電気椅子のスイッチが押された。
静かに逝った福永に対して、幅広い同情と、潔い日本人の死に方という評価が起こった。」
幼児誘拐殺人という許しがたい犯罪ではあるが、私は彼を『日本人の名を汚した』と、責める気にはとてもなれない。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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白人児童誘拐殺人事件
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/01/14 03:38 投稿番号: [35 / 402]
国内の貧窮から逃れてきたはずの日本人移民の中には、さまざまな事情からその貧困から脱け出せない者も数多くいた。要因の一つには前項で書いたように、貧しい同国民の衣服をはぐような経済家の跋扈があったことは否めない。
日本人がイ集するホノルルで貧困が因となった悲惨な事件が発生する。身代金目当てに誘拐された白人幼児が無残な他殺死体となって発見されたのだ。発見場所はロイヤルハワイアンホテルの近くとなっているが、この事件の発生が1928年9月、その前年に同ホテルは落成していた。
ロイヤルハワイアンホテルは、ワイキキの浜辺に面したハワイ王朝の別荘地に建てられたものだが、現在では一流ホテルや有名店が立ち並ぶカラカウア通りの中心にあり、夜遅くまで人通りの絶えることのない繁華街であるが、当時は違った。
買い求めた写真集に当時のカラカウア通りを撮ったものが何枚かある。
ワイキキを撮ったほとんど総ての写真がそうであるようにレンズは東向き、ダイヤモンドヘッドを背景に収めている。
アラモアナ港からダイヤモンドヘッドの麓近くまでのワイキキ海岸に寄せる白波が上下にラインを描き、その少し内側にカラカウア通りが白波と並行にダイヤモンドヘッドに向かって伸びている。通りと波打ち際までの間は細く長いエリアとなって残され、ほとんどは砂地だが何点かハワイ王室の各別荘地であろうか、植樹された区域が見える。
通りから200メートルほど山側にはやはり平行してアラワイ運河が同じ距離を伸びていて、そのカラカウア通りとの間の地域にも小さな家を含んだ植樹した地域が点々と見えるが、大半は更地である。
東西、アラモアナ港からダイヤモンドヘッドまでと、南北、海岸から運河までがワイキキ地域であるが、その中心にあるロイヤルハアイアンホテルの近くの藪から幼児の死体が捜索の末、発見されているので、その付近はまだ写真のように閑散とした地域だったことが推察される。
参考本から全文を掲載する。
「オアフ島第2次ストライキが終了してから八年経った1928年ホノルル市の名門校の生徒生徒ギル・ジェミソン(10歳)が何者かによって誘拐された。ギル少年の父親レデリック・ジェミソンは、ホノルル市キング街のハワイ信託会社の副社長であった。
犯人は、少年の母が怪我して入院したといつわって、病院から出迎え人を装って誘拐したものであった。
少年が誘拐された午後1時、会社の副社長室で、父親は、ハワイ便達会社のボーイの手から1万ドルを身代金として要求した脅迫状を受け取った。署名は、KKKキングとあった。
その夜、父親は、指定のトマス公園に行き、ハンカチーフで覆面した東洋人青年と思われる小柄な男にあった。父親が1万ドルの内4千ドルを渡したところ、犯人は逃走し、少年は戻らなかった。
『ギル少年誘拐、4千ドル強奪事件』は、発生したその夕刻に英字新聞にすっぱ抜かれたのを皮切りに各紙に大々的に報道され、ハワイ全土を震撼させた。
犯人は、とにかく東洋人に相違ないというところから、捜査当局は、日本総領事館、日本人商工会議所などへ援助方を依頼するいっぽう、アメリカ人側は、当局のほか商工会議所までが血眼になって活動を開始し、あちらこちらに捜索隊が組織された。ハワイ信託会社社長ゴルトは、ギル少年を安全につれ帰った者に対しては、5000ドルの懸賞金を提供すると発表した。『諸君はギル少年を見たか』という写真入のビラが、全ホノルル小学校の生徒へいちいち手交された。ビラをもらった小学生たちは、家の周辺、空き地、藪の中などを教師から言われたとおりくまなく捜索したが、手がかりは報告されなかった。
民間有志の捜索隊もたち、全市総動員の形をとったが、成果が上がらない。犯人は東洋系、なかんずく日系人らしいという疑いが深まり、警察は6000ドルの懸賞をかけて大捜索を開始し、二十余名の日系人不良分子が警察に連行されて取調べを受けたが、真犯人はその中にいなかった。
事件発生後3日後の午前11時45分、ギル・ジェミソンは、ワイキキのロイヤル・ハワイアンホテル近くの藪の中で惨殺死体となって発見された。
死体には、サンフランシスコ発行の新聞紙がかぶせており、枯れたデートパーム樹の葉が三葉ていねいに載せてあった。さらに木片を糸でくくり合わせて作った十字架が、その上に置かれていた。
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悪い奴ほどよく肥える
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/01/12 12:42 投稿番号: [34 / 402]
日本領事館のこのような姿勢をみて、アメリカ側の日本人労働者に対する迫害は暴虐の度合いを増していく。
本国から離れた外務官が『友好』という名のもとに自堕落な外交に陥って行ったのはここが端緒であったろうか。
そしてその自堕落さは後年日本が打った宣戦布告文書を遅れて米側に手交し、アメリカ人に『卑怯者』の銘文を与えてしまうという、末代まで消えない汚点を日本史に残すことになる。
「耕主側の手先の観のあったハワイ官憲は、ひたすら圧迫と威嚇をもって大ストライキに対処した。まず根を絶ち枝を枯らす手段として、増給期会のメンバーを皮切りに、日布時事、オアフ時報の各新聞者社長を捕縛拘束するにおよんだ。
特に日布時事社の場合は、社長だけでなく、記者連や一般事務員たちにまで、もっともらしい名目をつけて類をおよぼした。
この耕主側と結託した官憲の出方は、ストライキ中の労務者にとっては心理的に大きな打撃であった。
また耕主側がポルトガル人、朝鮮人、ハワイ人などを相場の倍で雇い、毎日オアフ鉄道の汽車で送迎する手段に出たことも、スト側の足元を乱すことになった。
この第一次オアフ島耕地大ストライキは、人種差別待遇を排除し、増給要求を掲げたものだったが、他の被差別人種労働者とのスト共闘体制がとれなかったことが、全面降伏につながる一因となった。とはいえ、組織的で本格的な体制で臨んだため、耕主側も後日、賃金を白人並みに引き上げ、従来の惨めな境遇から脱するきっかけとなった。」
日本では(それでも)高収入のアメリカへの渡航熱が沸騰していた。
「1885(明治18)年の第1回官約移民600人の募集に対して約2万8千人が希望した。そのうち944人が第1回移民に選ばれた。(参:海を渡る心のきずな)」
このような状況からハワイのみならず米本土、ニューカレドニア、フィジー、オーストラリアなどへ移民を斡旋する民間会社が暗躍し、1894年に政府の許可を得ると、その倫理なき企業魂は大蛇のように貧しい移民を締め付けた。
「彼らはホノルルに事務所を開き、移民と砂糖会社の双方から手数料を徴収し、鉄道や汽船会社からは移民輸送費の割戻しを受けて莫大な利益を得た。そのほかに横浜に集まる渡航希望者が泊まる宿からもバックマージンを取ったというから恐れ入る。
彼ら移民会社は京浜銀行を設立するが、その実態は‘移民喰い機関‘ともいうべき搾取機関だった。
京浜銀行を通して体のいい詐欺行為を容易にしたりもした。また、検疫料、眼部診察料というもっともらしい名義のもとに医師と共謀して搾りとった。
ハワイにおいても、手先を耕主組合に放って移民たちがハワイに上陸すると、その無知につけこみ、脅迫や威嚇的言語を弄し、移民の意思を無視して、移民留置所から砂糖耕地に直送したり、留置所からの外出を禁じたりした。
京浜銀行がとった悪辣な方法の一つは、米国移民法を逆手にとってガンジガラメにする方法である。(以下煩雑になるので搾取の方法は略すが)・・言を左右にして支払いせず、ついには曖昧模糊のうちに葬り去ったケースが多かった。
移民が月賦納金を滞納した場合には、日本の保証人から取り立て、保証人が躊躇しようものなら、直ちに強制執行で財産を差し押さえた。
移民会社は、在留人保護のために設けられていたが、彼らは保護するどころか移民を苦しめ、異名同体の京浜銀行と結託して、手を変え品を変え搾取したのであった。
その間ハワイで7年間駐在した『帝国総領事』斉藤幹は、彼らの横暴に目を瞑るどころか、かえって擁護したのであった。
ここにおいて、1905年5月、ハワイ在留日本人有志は総領事斉藤幹の更迭を含む要望書を日本国外務大臣に送りつけ、同時にハワイの日系新聞者に資料その他を送りつけ移民会社、京浜銀行、帝国総領事の結託と横暴を指弾した。
明治政府は強制貯金をさせて騙し取る詐欺的行為を禁止、以前に作成した貯金契約についても、移民およびその保証人からの取立てを厳禁した。総領事は『賜暇』のなのもとに帰朝を命じられた。」
ハワイで豪奢な邸宅に住み、ホノルルの花柳界まで牛耳った京浜銀行の中心的人物に、後の『日本郵船』の初代社長吉川泰次郎と『大日本印刷』初代社長佐久間禎一の名が見える。
いつだって、えぐい奴ほどよく肥える。
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排日と抵抗
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/01/10 09:50 投稿番号: [33 / 402]
「労働者の流出で、ハワイ耕主側の衝撃は、日本人社会以上であった。彼らはただちにハワイ議会を動かし、「州外」に労働者を斡旋するものに対して1ヵ年500ドルの営業税賦課法を実地したが流れは止まらない。そこで、さらに一歩進めて合衆国上院に、転航禁止令を提出し「ハワイおよびフィリッピンより日本人の米本土転航を禁止す」という移民法を通過させた。ハワイから数年間堰を切った水のように、カリフォルニア州各地に溢れでた日本人出稼ぎ人は、やはり「錦衣帰郷」を第一目標に置いた貯蓄、送金第一の『エコノミック・アニマル』で、勤勉ではあったが、粗末な風体で、生活程度低く、教養は乏しく、にもかかわらず『大日本帝国臣民』意識と、郷土意識が異常に強く、他人種と容易に融合しなかった。彼らによって、カリフォルニアの農園や土木工事などの労賃低下や、一部に生活環境を乱すなどの影響がもたらされた。
このことは主たる原因で、排日運動が根強く展開されるようになる。」
「1893年、サンフランシスコ市教育委員会は、日本人子弟の公立学校入学を拒絶し、中国人隔離学校に入学することを決議した。
日本人がやってくると、とにかく生活のペースが乱され、労賃ダンピングがなされ、恐慌を来たすという理由から、排日の機運は、日に日に醸成されていった。そして1900年5月、サンフランシスコ労働同盟会は、市民大会の名の下に市長など有識者を集合して大演説会を開き、日本人排斥を決議した。」
それに対して日本人も抵抗する。この抵抗は日本人労働者のバックに、いまや白人の強国ロシアを破って『世界の1流国』の仲間入りを果たした『日本国臣民』という支えがあったことだろう。
白人の侵略で嫌でも民族意識、国家意識の喚起がなされた時代だ、国家を構成する『国民』の保護は政府の責任であると同時に国家の威信でもあった。しかし日本外務省は必ずしも『日本臣民』の拠り所ではなかった。
「1909年5月、半奴隷的立場からの脱却、人種差別廃止、待遇改善を要求する声が急激に高まり、ハワイ発の本格的な組織による日本人の団結大ストライキがオアフ島耕地に起こった。
このストライキには7000人の日本人労働者が参加し、4ヶ月間の長期にわたる大がかりなもので『第一次オアフ耕地ストライキ』と命名された。
このストライキに対して耕主側が打った手はストライキ参加者のキャンプ立ち退き命令である。労働者たちは黙々として『命令』にしたがい、ワイパフでは朝日劇場などに臨時炊事場を設け、アイエアのおいては耕地を出たところにテントを張り、やはり劇場に炊事場を設けて、急遽発足した「増給期成会員」が世話にあたった。
ストライキ側の意外ともいえる長期作戦に対し、耕主側は一層の威嚇手段をもってそれに応えた。
まず増給期成会のメンバーのみならず、ストライキと全く関係のない地元商店の主人などを逮捕投獄するという暴挙に出た。
しかし、強硬手段によって日本人側の出鼻をくじこうとした耕主側の思惑は外れる。
日本人労働者は夜陰に乗じてこぞってホノルルに向かった。他の耕地の労働者もこの挙に呼応して合流、その数は約3000人もの人数にのぼり、ホノルル市内はさながら戦場の様相を呈した。
増給期成会は市内や近郊に炊事場を設けて収容し、有志の夫人たちが総出でその世話にあたった。
しかし、時の日本総領事はストライキ決行者に『告諭』を発した。
すなわち、棒給問題などは新聞社など、労資以外の第三者が余計なくちばしを入れるべきではない。また労働者は、そういう者に扇動されてストライキなどを行うというのは持ってのほかだ・・という訓辞をたれたわけである。
彼は全ハワイの新聞社に『告諭』を掲載するよう求めたが日布時事社長相賀安太郎は拒絶した。
副領事の阿部嘉八が、『総領事の命に背くのはけしからん』と難詰したのに対して相賀は、『紙上への掲載と不掲載とは主筆たる自分の権限内にある。たとえ総領事でも大使の命でも、そんなことは問題でない』と突っぱね、反骨を示した。」
ここにすでに萌芽していた外務省のことなかれ主義と、記者クラブなどに毒されない記者魂を見ることができる。
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日露戦争後のハワイ
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/01/09 09:09 投稿番号: [32 / 402]
19世紀から20世紀にかけて日本は激動の渦中にあった。日清、日露両戦争を戦い、その間に義和団の騒乱時にも各国が目を見張るような活躍をした。
また日露戦争の結果権利を得、南満州鉄道株式会社を設立、鉄道運営のみならず広範囲にわたって事業を展開した。
「児玉源太郎が後藤新平の影響を受けて献策した「満州経営梗概」には「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ。」とあり、それを具現したのが満鉄なのである。
満州を中心とした鉄道経営のみに留まらず、炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力、農林牧畜、ホテル(ヤマトホテル)などの多様な事業を行なった。後藤の発案で設けられた満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクとして知られた。」Wikiより
日露戦争勝利を受けて日本社会は活発に動いた。この波はハワイの日系社会においても同じであった。しかしこの波はアメリカ人の疑惑を生むことになる。
「日本からのアメリカへの自由出稼ぎ志望者が急増したのは、日露戦争後の不況に襲われた農村に、戦地から帰還した壮丁が溢れたことと、「戦勝」による海外発展熱であった。そのため多くの「帰還兵士」たちが、どっとハワイに渡航する結果になった。
戦争終了直後の1906年には、ハワイ渡航者が前年の4,3倍に膨張し戦後2年目にも2,2倍強の日本人が「アメリカ」を目指している。
だが翌年になると、ハワイ渡航が5分の1に激減しているが、その最大要因は、前年2月に米本土への転航が禁止されたからである。
日露戦争直後の2ヵ年のハワイ渡航者の合計は、4万6150人、うち男子が4万人近くであり、女子の約6倍であった。
男子の多くは戦争帰りの軍人だったことはすでに述べたが、この傾向は日清戦争直後の1896年ハワイ男子渡航者についても、はっきり数字上に現れ、前年の4倍近くを示していた。
後年アメリカの排日家が、この事実をとらえて、ハワイには日本軍の在郷軍人が政府の差し金で満ち満ちており、日米間にいったん破綻が起これば、いつでも命令一下、銃を取って「祖国日本」のために戦う準備がなされている・・・と排日の材料にした。」
また「ハワイで成功できなかった者の中には、アメリカ本土に転航して、夢を新天地に賭ける者が現れるのは、官約初期移民の契約が満了になった1888年ごろからであった。最初は、借金で首が回らなくなったり、悪事を働いたあげくの逃亡手段に過ぎなかったが、次第に「新天地」の魅力に惹かれ、「心機一転」して渡航するようになった。
そのうち本土転航が流行のようになり、日本への錦衣帰郷に次ぐ2番目の目標にまでなった。
1900年に労働契約制が廃止され、労働者が一気に自由の身になると、それまでの束縛と圧制から解放された反動で、どっと米本土転航になだれ現象を起こした。
ハワイを踏み台にする米本土渡航者も増えた。彼らは手続きが煩瑣なうえ、許可がなかなかおりない米本土直接渡航を避け、諸事が簡単なハワイを選び、対外3−4ヶ月以内に本土に転航した。
当時アメリカでは労働需要が増大していたので、労賃が安く、馬車馬のように働く日本人移民は歓迎された。
1901年末から17年まで、ホノルルからサンフランシスコ、シアトルなどに向けて転航した日本人は5万7千人にのぼった。
最初の3年間にハワイに3万5289人上陸したがその内ハワイ残留者はわずかに3865人に過ぎなかったのである。
中にはもちろん日本に帰国したものがいるが、大部分はアメリカ本土への転航者であった。これにはハワイ耕地とアメリカ西海岸の労働賃金に著しい差があったからである。
これは後の「黄渦論」、排日運動につながるのだが、「日本人は西部をめざす」というわけで、この流れは1907年アメリカ大統領令によってハワイ在留日本人の本土転航禁止まで続いた。
転航者続出で、各耕地の日本商店はたちまち営業不振に落ち入り、倒産閉店するところも多かった。また当時盛んだった頼母子講を取りっきりにしたり、借金の不払い、買掛金の踏み倒しをして米本土に逃れる者もおり、秩序は失われ、経済界は混乱し、日本人間のすべての事業は、一時安定を失うに至った。糖価は下落し、賃金も低下、恐慌状態を呈したのであった。」
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暗殺された岩吉と大富豪になった国蔵
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/01/08 06:26 投稿番号: [31 / 402]
タイトル付け替えです。
この項は本来「ピクチャーブライド」の前に送る予定だったが間違えてしまった。つながりが悪いけどご容赦。
昔日本の大女優がアメリカから帰国した際『私日本語忘れちゃった』と言って日本国民に大顰蹙をかったという。いかに戦後の復興をアメリカに世話なっていたとはいえ、そもそも因縁をつけて国土を焼け野原にしたのはアメリカだ。芸能人とはいえなんとも能天気で薀蓄のない言葉ではある。
また、兄や親のように慕ったマッカーサーが帰国するとき『日本は12歳の子供だ』、と言ったとたん日本人の熱はさめた。
こと、外国との関係は、たとえ作為の切れ端で目隠しされていようと条件反射的にナショナリズムを喚起させるものである。現在はそんな健全なナショナリズムさえ、やれ国粋主義だ、軍靴の音が聞こえるなどと、元連合国やわけのわからない国が合唱するが、そんなことで民族の「火種」が消滅するものではない。
例えば去る日、韓国の金泳三大統領が「植民地支配責任?」にかこつけ、「今度こそ日本のバカタレどもの悪い癖を直してやる!」なんて小生意気なことを江沢民に言った後、アジア経済危機が起こった。そのときの日本政府・経済界の対応は彼らの期待を大きくはずした。かなり「冷たかった」のである。
韓国政財界は金泳三の「舌禍」が原因と怨嗟の声を洩らしたものだ。
(彼らの反省は次の個性的な金大中・ノムヒョンの登場で生かされなかったが、死人顔の次期大統領はどうか)
ましてや時は攘夷の嵐が吹き荒れる幕末である。アメリカンナイズを鼻にかけ大げさなゼスチャーで外人と会話する一町民が、攘夷論者の憎悪をかうのは必然であった。
「彦蔵と同じく栄力丸の乗組員中の一人紀州塩津浦の岩吉は、1852年に漂流し、米捕鯨船に救われたが、後セントメリー号に移乗して、ハワイ島ヒロに寄港後、同年五月香港に到着した。59年、岩吉は広東でアメリカ彦蔵と7年ぶりに邂逅したが、そのとき彼は「ダン」と名乗り、日本駐在英国総領事に随行し、近く帰朝することになっていた。
そして帰国した岩吉は、英国総領事館の「通弁」として品川の東禅寺に寓居を構えたが、万事ハイカラ風でやることがオーバーなうえ派手だったため攘夷論者に狙われた。
ある日の夕方、東禅寺の近くで岩吉が凧をあげて子供を遊ばせていると、深編み笠の武士が背後に忍び寄るなり、いきなり短刀で岩吉の胸の辺りを抉った。そしてとどめも刺さず立ち去った。
岩吉は悲鳴をあげながら倒れ、気息奄々として寺門まで這い寄ったが、おびただしい出血のためについに精根尽きて息絶えた。
海外通と英語力で「密航者」「漂流者」の烙印者から浮かび上がった岩吉だったが、万次郎や彦蔵とは対照的に攘夷論者の凶刃に倒れたのである。」
今までハワイに最初に移住した者、最初にハワイの地に埋葬された者、最初に帰化した者などが登場したが、今度はハワイにおける最初の密航者で最初の富豪に成った男を紹介しよう。
彼の名は鈴木国蔵、千葉県印旛郡の生まれである。
ドイツ人船長の手引きで仲間2―3人とハワイに密航した。数年間マウイ島の耕作地において月給4ドルで重労働に従事したが、ハワイ貴族の下僕となり150ドルの貯金を得る。しかしそのとき彼は47歳、ハワイ上陸後20余年を経ていた。
月4ドルなら年約50ドル、150ドルなら約3年分とちょっとだが、なかなかに金は貯まらない仕組みになっていたのでしょう。
47歳といえば当事は人生の終盤にかかっているが、彼は此処からがんばった。
「彼はこの金を元手にして86年ヒロ市に店を開業した。はじめは、店頭にパイナップルとかパパイヤなどの果物を並べた一膳飯屋だったが、後には貿易商になった。国蔵は体躯隆々、抜群の記憶力のよさと真正直さで、何事にも全力投入した。商売は繁盛し、信用もその輪を広げ、Quniと彼が署名した手形なら、ハワイ中どこでもモミ手で金が融通されたという伝説がある。『成功者』となった国蔵はヒロ市で御殿のような豪邸に住み、開店後10年目には、約40万ドルの産をなしたといわれた。
彼はハワイ渡航から39年目の1896年に『成功者として錦衣帰郷』し、村人たちをことごとく村長宅に招待し、皆に大盤振る舞いをした。村の神社には大額面を奉納し、厳島神社には石灯籠を献納した。
ポルトガル人の妻を先に失った国蔵は長女を連れて帰国、東京本所に邸宅を建て住んだが、1916年、享年78で逝った。
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Re: 美しい国日本
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/01/08 06:22 投稿番号: [30 / 402]
この項は本来「ピクチャーブライド」の前に送る予定だったが間違えてしまった。つながりが悪いけどご容赦。
昔日本の大女優がアメリカから帰国した際『私日本語忘れちゃった』と言って日本国民に大顰蹙をかったという。いかに戦後の復興をアメリカに世話なっていたとはいえ、そもそも因縁をつけて国土を焼け野原にしたのはアメリカだ。芸能人とはいえなんとも能天気で薀蓄のない言葉ではある。
また、兄や親のように慕ったマッカーサーが帰国するとき『日本は12歳の子供だ』、と言ったとたん日本人の熱はさめた。
こと、外国との関係は、たとえ作為の切れ端で目隠しされていようと条件反射的にナショナリズムを喚起させるものである。現在はそんな健全なナショナリズムさえ、やれ国粋主義だ、軍靴の音が聞こえるなどと、元連合国やわけのわからない国が合唱するが、そんなことで民族の「火種」が消滅するものではない。
例えば去る日、韓国の金泳三大統領が「植民地支配責任?」にかこつけ、「今度こそ日本のバカタレどもの悪い癖を直してやる!」なんて小生意気なことを江沢民に言った後、アジア経済危機が起こった。そのときの日本政府・経済界の対応は彼らの期待を大きくはずした。かなり「冷たかった」のである。
韓国政財界は金泳三の「舌禍」が原因と怨嗟の声を洩らしたものだ。
(彼らの反省は次の個性的な金大中・ノムヒョンの登場で生かされなかったが、死人顔の次期大統領はどうか)
ましてや時は攘夷の嵐が吹き荒れる幕末である。アメリカンナイズを鼻にかけ大げさなゼスチャーで外人と会話する一町民が、攘夷論者の憎悪をかうのは必然であった。
「彦蔵と同じく栄力丸の乗組員中の一人紀州塩津浦の岩吉は、1852年に漂流し、米捕鯨船に救われたが、後セントメリー号に移乗して、ハワイ島ヒロに寄港後、同年五月香港に到着した。59年、岩吉は広東でアメリカ彦蔵と7年ぶりに邂逅したが、そのとき彼は「ダン」と名乗り、日本駐在英国総領事に随行し、近く帰朝することになっていた。
そして帰国した岩吉は、英国総領事館の「通弁」として品川の東禅寺に寓居を構えたが、万事ハイカラ風でやることがオーバーなうえ派手だったため攘夷論者に狙われた。
ある日の夕方、東禅寺の近くで岩吉が凧をあげて子供を遊ばせていると、深編み笠の武士が背後に忍び寄るなり、いきなり短刀で岩吉の胸の辺りを抉った。そしてとどめも刺さず立ち去った。
岩吉は悲鳴をあげながら倒れ、気息奄々として寺門まで這い寄ったが、おびただしい出血のためについに精根尽きて息絶えた。
海外通と英語力で「密航者」「漂流者」の烙印者から浮かび上がった岩吉だったが、万次郎や彦蔵とは対照的に攘夷論者の凶刃に倒れたのである。」
今までハワイに最初に移住した者、最初にハワイの地に埋葬された者、最初に帰化した者などが登場したが、今度はハワイにおける最初の密航者で最初の富豪に成った男を紹介しよう。
彼の名は鈴木国蔵、千葉県印旛郡の生まれである。
ドイツ人船長の手引きで仲間2―3人とハワイに密航した。数年間マウイ島の耕作地において月給4ドルで重労働に従事したが、ハワイ貴族の下僕となり150ドルの貯金を得る。しかしそのとき彼は47歳、ハワイ上陸後20余年を経ていた。
月4ドルなら年約50ドル、150ドルなら約3年分とちょっとだが、なかなかに金は貯まらない仕組みになっていたのでしょう。
47歳といえば当事は人生の終盤にかかっているが、彼は此処からがんばった。
「彼はこの金を元手にして86年ヒロ市に店を開業した。はじめは、店頭にパイナップルとかパパイヤなどの果物を並べた一膳飯屋だったが、後には貿易商になった。国蔵は体躯隆々、抜群の記憶力のよさと真正直さで、何事にも全力投入した。商売は繁盛し、信用もその輪を広げ、Quniと彼が署名した手形なら、ハワイ中どこでもモミ手で金が融通されたという伝説がある。『成功者』となった国蔵はヒロ市で御殿のような豪邸に住み、開店後10年目には、約40万ドルの産をなしたといわれた。
彼はハワイ渡航から39年目の1896年に『成功者として錦衣帰郷』し、村人たちをことごとく村長宅に招待し、皆に大盤振る舞いをした。村の神社には大額面を奉納し、厳島神社には石灯籠を献納した。
ポルトガル人の妻を先に失った国蔵は長女を連れて帰国、東京本所に邸宅を建て住んだが、1916年、享年78で逝った。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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ピクチャーブライド
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/01/07 05:54 投稿番号: [29 / 402]
「写真花嫁は、ハワイに定住を余儀なくされた多くの日本人独身男性が、写真交換で花嫁を決めて、日本から呼び寄せたところからこの名がつけられた。まず男性本人の写真を日本の親元か知人に送って花嫁候補者を求め、それに応じた女性の写真をハワイに送ってくる。そこで本人が承諾すれば、日本の女性の戸籍を男の籍に入れて、法規上の結婚を成立させ、3ヵ月後に夫の呼び寄せでハワイに渡航できる仕組みになっていた。
写真花嫁は、日本の法律では夫婦として認められたが、アメリカ合衆国では夫婦と認めなかったので、ホノルルに無事上陸するには、上陸前に結婚式を挙げなくてはならなかった。そこで船がホノルルに着くと、迎えに出る花婿になる男性と移民局で挙式するわけだが、船から下りた何十人かの花嫁は、写真とはあまりに違う花婿を見て、唖然とする場面もしばしばあった(当然その逆もあった)。
とにかく新郎新婦何十組かがずらりと並び、牧師がその前に立って、一斉に司式した。このWharf Marriage(波止場結婚)のキリスト教のみの挙式に対し、その後非難の声が高まり1912年以降は、移民局外で、仏教でも神道でも結婚式が挙行できるようになった。
波止場結婚当時は、混乱したうえに、官憲の話す英語が理解できず、親に呼び寄せられた娘が、迎えに出た父親と手を握り、結婚式を挙げる悲喜劇もあった。
写真花嫁の多くは地方出身の娘だったが、学力程度の低い者もいたので、17年7月からは、入国に際して学力試験を課すことになり、小学校4年程度の試験を実地したが、それに不合格になり送還される者もでた。
写真結婚により、ハワイ出身の日系児童数は急激に増加した。
12年にはハワイ各国人種出生数で日系人出生児童が約40%を、15年46%、更に23年には51%を記録した。
だが、この写真花嫁も、24年に排日移民法案が議会を通過、実地されてからは、まったく影を潜めた。
アメリカ本土において、アメリカ人が特に日本人を意識せず、単なる東洋人と見ていたのが、1900年から日本人のハワイからカリフォルニア州への転航が、農園や鉄道工事に日本人労働者が潮のようにはいりこみ、アメリカ労働界を刺激するようになると、風俗、習慣その他にからんで、ついに日系人児童隔離にまで発展した。
排日論者が現れ、とくにV・Sマクラッチィの排日論は広くアメリカに浸透し、1913年には、カリフォルニア州の排日土地法が制定されるに至った。
この法規はハワイには直接影響はなかったが、ハワイのアメリカ人の間に精神的な影響を及ぼした。」
日露戦争における日本の勝利には、米・英・仏などの反ロシア白人国家と、ロシア領内で続くユダヤ人迫害に反発し且つ戦後の中国進出を狙うユダヤ資本の協力が大きかったが、何よりも日本の対ロシア戦にかける使命感が大きな原動力、要因だったろう。
しかし同戦争の結果として、日本の敵は米英に代わり、米国内における日本人差別もその流れの中にあった。
『臥薪嘗胆』、これが3国干渉という屈辱に耐えたときの日本国民の合言葉だった。
ロシアが、日本から清国に返還させた遼東を面つけなくも租借し、旅順要塞を強化、念願であった太平洋における不凍港を旅順に設けてロシア東洋艦隊基地にしたとき、日本人は覚悟した。この大国は必ずやわが国土を侵略し、わが国民を奴隷化するつもりだと。
ペリー以来日本は乱れに乱れたが、白人どもの牙を避けるには自からがその牙を持つしかないと決心した日本は、富国強兵に勤めながら決して「先進国」のルールを踏み外さないよう必死に努力した。
鹿鳴館などと、西洋から失笑されるような文化まで創った生真面目さは愛らしい限りである。
さて、3国干渉した親玉の帝政ロシアは、敗戦後王朝崩壊への坂道を転げ落ち、ついにはニコライ2世一家殺害、死体は凍土の立坑に放り込まれるというという無残な悲劇で幕を閉じる。
またドイツは、第一次大戦で連合国に加わった日本にいたぶり続けられ、彼らの太平洋の拠点南洋諸島をそっくり取り上げられた。ドイツ皇帝はクーデターでオランダに逃れ、神聖ローマ帝国は滅亡した。
フランスは第2次大戦時、直後に日本の同盟国となるドイツに首都を占領され、ドイツ傀儡政権下に支配されるというこの上ない屈辱を味わい、鬱憤晴らしにユダヤ人虐殺の手先を喜んで勤めた。
また金の生る植民地ベトナムにおいては日本軍の進駐に息を潜め、同じ黄色い顔の日本人におびえるフランス人の「実体」を間近に見たベトナム人は意を強くし、戦後フランス兵の尻を蹴飛ばして簡単に追い出してしまった。
日本は干渉した3国にきっちり「借りを返した」のである。
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ピクチャー ブライド
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/01/05 16:53 投稿番号: [28 / 402]
昔日本の大女優がアメリカから帰国した際『私日本語忘れちゃった』と言って日本国民に大顰蹙をかったという。いかに戦後の復興をアメリカに世話なっていたとはいえ、そもそも因縁をつけて国土を焼け野原にしたのはアメリカだ。芸能人とはいえなんとも能天気で薀蓄のない言葉ではある。
また、兄や親のように慕ったマッカーサーが帰国するとき『日本は12歳の子供だ』、と言ったとたん日本人の熱はさめた。
こと、外国との関係は、たとえ作為の切れ端で目隠しされていようとナショナリズムを喚起させるものである。現在はそんな健全なナショナリズムさえ、やれ国粋主義だ、軍靴の音が聞こえるなどと、元連合国やわけのわからない国が合唱するが、そんなことで民族の「火種」が消滅するものではない。
例えば去る日、韓国の金泳三大統領が「植民地支配責任?」にかこつけ、「今度こそ日本をきっちり教育する」なんて小生意気なことを言った後、アジア経済危機が起こった。そのときの日本政府・経済界の対応は彼らの期待を大きくはずした。「冷たかった」のである。
韓国政財界は金泳三の「舌禍」が原因と怨嗟の声を洩らしたものだ。
(彼らの反省は次の個性的な金大中・ノムヒョンの登場で生かされなかったが、死人顔の次期大統領はどうか)
ましてや時は攘夷の嵐が吹き荒れる幕末である。アメリカンナイズを鼻にかけ大げさなゼスチャーで外人と会話する一町民が、攘夷論者の憎悪をかうのは必然であった。
「彦蔵と同じく栄力丸の乗組員中の一人紀州塩津浦の岩吉は、1852年に漂流し、米捕鯨船に救われたが、後セントメリー号に移乗して、ハワイ島ヒロに寄港後、同年五月香港に到着した。59年、岩吉は広東でアメリカ彦蔵と7年ぶりに邂逅したが、そのとき彼は「ダン」と名乗り、日本駐在英国総領事に随行し、近く帰朝することになっていた。
そして帰国した岩吉は、英国総領事館の「通弁」として品川の東禅寺に寓居を構えたが、万事ハイカラ風でやることがオーバーなうえ派手だったため攘夷論者に狙われた。
ある日の夕方、東禅寺の近くで岩吉が凧をあげて子供を遊ばせていると、深編み笠の武士が背後に忍び寄るなり、いきなり短刀で岩吉の胸の辺りを抉った。そしてとどめも刺さず立ち去った。
岩吉は悲鳴をあげながら倒れ、気息奄々として寺門まで這い寄ったが、おびただしい出血のためについに精根尽きて息絶えた。
海外通と英語力で「密航者」「漂流者」の烙印者から浮かび上がった岩吉だったが、万次郎や彦蔵とは対照的に攘夷論者の凶刃に倒れたのである。」
今までハワイに最初に移住した者、最初にハワイの地に埋葬された者、最初に帰化した者などが登場したが、今度はハワイにおける最初の密航者で最初の富豪に成った男を紹介しよう。
彼の名は鈴木国蔵、千葉県印旛郡の生まれである。
ドイツ人船長の手引きで仲間2―3人とハワイに密航した。数年間マウイ島の耕作地において月給4ドルで重労働に従事したが、ハワイ貴族の下僕となり150ドルの貯金を得る。しかしそのとき彼は47歳、ハワイ上陸後20余年を経ていた。
月4ドルなら年約50ドル、150ドルなら約3年分とちょっとだが、なかなかに金は貯まらない仕組みになっていたのでしょう。
47歳といえば当事は人生の終盤にかかっているが、彼は此処からがんばった。
「彼はこの金を元手にして86年ヒロ市に店を開業した。はじめは、店頭にパイナップルとかパパイヤなどの果物を並べた一膳飯屋だったが、後には貿易商になった。国蔵は体躯隆々、抜群の記憶力のよさと真正直さで、何事にも全力投入した。商売は繁盛し、信用もその輪を広げ、Quniと彼が署名した手形なら、ハワイ中どこでもモミ手で金が融通されたという伝説がある。『成功者』となった国蔵はヒロ市で御殿のような豪邸に住み、開店後10年目には、約40万ドルの産をなしたといわれた。
彼はハワイ渡航から39年目の1896年に『成功者として錦衣帰郷』し、村人たちをことごとく村長宅に招待し、皆に大盤振る舞いをした。村の神社には大額面を奉納し、厳島神社には石灯籠を献納した。
ポルトガル人の妻を先に失った国蔵は長女を連れて帰国、東京本所に邸宅を建て住んだが、1916年、享年78で逝った。
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ジョン・万次郎とアメリカ彦蔵
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/01/03 10:35 投稿番号: [27 / 402]
23
ジョン・万次郎とジョセフ・彦
「ジョン万次郎の業績を見ると、まず短艇をつくり、航海書原書を翻訳し、捕鯨方法を伝授、指揮した。さらに日米談判などの通訳や、海外事情進講に至っては枚挙にいとまがない。
アメリカからウェブスター英語辞書を輸入した者は万次郎と福沢諭吉だけだ。
彼が2回にわたりアメリカから輸入した主な物は、辞典、伝記、年鑑、航海書などの書籍14冊、銃砲、鉛玉、地図、ガラス板、鉄槌、ラシャ着物、パン、コンパス、絵具、膏薬と丸薬・水薬各種、剃刀、写真機、裁縫ミシンなど、文明機器・用品が多い。
万次郎が烏島から救出されてハワイに来た年1841年に、摂津西宮の永住丸乗組員5名が救出されハワイに上陸する。彼らは帰朝をはかるが失敗に終わった。
50年になると紀州天神丸の漂流者のうち5名がアメリカ船でハワイに立ち寄り万次郎たちに会っている。一行中の吉松は、のちにハワイの地理や風物を記録した。
2年下った52年には、播州加古郡の栄力丸が遠州灘で遭難、米船に救出されハワイ島のヒロに立ち寄った。
この一行中の茶汲み・彦太郎が後年『アメリカ彦三』などの異名をとった浜田彦蔵(後年自称)である。
栄力丸の船頭・万蔵はヒロ入港直前に病死したので、ヒロ郊外の共同墓地に埋葬された。彼の墓標には『南無阿弥陀仏・日本万歳』と記されてあったという。
彦太郎は『自叙伝』の中で、船頭・万蔵の死を次のように述べている。
『・・午前11時ホロ湾に投錨、(サンフランシスコより)一週日を過ごしたり。この朝予等が最も尊敬せる船長万蔵は6ヶ月以前より病気にて悩みしが、六十三を一期として、朝日を待たぬ露のもろくも消えて虚しく異域の塊となれり。闇中の灯滅して予等は霧中に彷徨するの思い、嘆き悲しめど及ばず、さてあるべきにあらざれば、船が碇を入れるるを待ちて棺を調へ、彼の死体を洗い、頭髪と顔の剃り納めをし、新しい衣服を纏わしめた。
大きな箱を求めて棺となし、正午少し過ぎる頃までに一切の用意を了った。
昼過ぎる頃(米人)少尉補の指揮にて上陸せり。それは素晴らしいなぎの日で、海面はガラスの如く平らかであった。
土人は面白きことと思いしや、黒山の如く集まり来たり予等の列に加わり、共同墓地に導き呉れたり。
予等はここに万蔵の葬りて大きな石を標となし、懇ろに回向した。此処より帰途ヒロの町を歩き見るに、多くは小屋のごとき家に住まい、戸数は多からねども、地味は甚だ豊饒にして野生の果実は有り余りて採る人さえなく、沿海また魚類多し。
容貌黒く裸体なる土人は、見掛けこそ恐ろしけれど、性質温和にして親切なり。耶蘇教に化されており英語を解し、多くは教徒になりしものとぞ。
1週間碇泊の後香港に向け出帆し、一八五二年五月二十日に着、二日の碇泊の後マカオに向かいたり』」
しかし彼は日本に帰らず中国より再び航海に出る。ハワイには58年に再度訪れ、103日間を過ごす。その間ハワイの文化風物を研究する。ハワイ滞在中やはり米国捕鯨船に救出された政吉と会う。政吉は淡路の人で、乗組員3名で紀州に向かう途中遭難、他の2人は死亡していた。
「彦蔵は米測量船の乗組員としてたまたまハワイに寄港していたが、他の米船に掛け合い、政吉を炊事係りとして、月13ドルで採用させ、日本に送還することを約束させた。一方彦蔵は、アメリカ合衆国に帰化した最初の日本人とみなされるが、米本土では第16代大統領エィブラハム・リンカーンや国務卿シュウォードに会見し、政府高官や各界名士とも交遊を持った。
1859年に彼は帰朝したが、米国公使ハリスや京浜地方の外国人との交際が多かった。ために国粋主義の浪士たちに狙われ、身辺が危うくなったので、一時米国に難を避ける。
彼は日米通商条約の折衝をはじめ、さまざまな通訳や斡旋を果たしている。
64年には『海外新聞』を発行し、その前後に英文で『漂流記』と『開国の滴』を出版した。木戸孝允や伊藤博文などにも英語を教え、重用された。」
万次郎もジョンも、日本の重大な岐路に『漂流者』ならではの才覚を発揮し、大いに報国したといえよう。二人とも大往生である。
しかし、彦蔵と同じ栄力丸の乗組員、岩吉の場合はそうは行かなかった。
岩吉は暗殺されてしまうのである。
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日本とハワイの縁 2
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/31 20:59 投稿番号: [26 / 402]
『日本の文書に現われている最初の日本人ハワイ上陸の記録は、1804年6月、仙台領の船が8ヶ月の漂流の末、千島に漂着、水主・津太夫他3名は聖ペテルスベルクまで行きロシア皇帝アレキサンダー一世に拝謁の後、ロシア船で帰国の途中ハワイに寄港した。津太夫が『見聞録』を書いている。
『島の長さ、伊豆の大島ほどもあるべき。島中山も見ゆ、ただし高山とは見えず、男は髪をザンギリにし、はなはだ奇怪なるは、必ず前歯二枚を抜きたり、丈は日本人ほどもあるべし、女は髪長く額のところ少しザンギリにし、其跡の髪の毛真っ白なり、これ自然なるかまたは白きものをつけたるかは不明、木の皮の如き物を前に巻き足り』」
津太夫が奇怪に感じたハワイ人の奇習には分けがあった。この年、外来のペストが猛威を振るい、主だった酋長が次々倒れた。
「・・といった大酋長が病死し、ハワイ全土は喪に服していた。原住民の男は、喪章として、前歯を抜き、頭髪も異様に刈り、女は髪に白粉を塗っていた。」
まあ、事情の知らない一行がペストに罹病しなかったのは僥倖だろう。
「次は2年後の1806年五月、芸州の水夫・平原善松ら六名が五百石船で漂流中ハワイ国の船に救助されて、オアフ島に到着した。
彼らは95日間ハワイに滞在し、アメリカ船で中国、マカオ、広東、「ジャガタラ国キャラハア」に至り、その年オランダ船に乗って1年ぶりに長崎に帰着した。」
彼の手記に、
「三月二十日、ハワイ国船に助けられ、その日は砂糖入れて茶ばかり与えさせ、翌日より三日間かゆを給えさせ、五日目より朝夕ご飯を食べ、昼はパンと云うもの食べさせしなり、パンと言うは彼の地の菓子のことにて、日本に有す東山と言う菓子のごとくなり。
即ちこの船に乗りて、五月五日ハワイという国に着く。
この国暖国にして、四季の差別なし、常々日本の六月土用位の暖気なり。
・・およそ九州ほどの島国なり、山中谷に人家多し、・・メリケン船本朝国往来に、この島に寄りて水、薪を仕込むなり、島中五穀の類なし、飛鳥類は雁のような鳥あり、雉は多し、・・牛、豚、犬多し、島人常にむして食うなり、暖国なれど蚊はいず、蠅、蚤多し・・」
1832年、尾張の国の船頭以下17名が遭難、1年2ヵ月後にカナダの小島に生き残った3人が漂着、日本に帰る途中ハワイに寄港、しかしこの三人は結局帰国できず、米本土で客死した。
1839年、長者丸が遭難、捕鯨船に救助されオアフ島に来る。
そのうちの一人平四郎は当地で病死、米人牧師によってカワイアリオ教会に埋葬される。
「彼は、記録に明記されているうちでは、日本人としてハワイに骨を埋めた最初の人である。他の一行はカムチャッカ経由で帰国した。
一行の次郎吉は『蕃譚』を著した。」
これまで見たとおり漂着したのは船頭や水夫ばかりなのに皆見聞録を残している。文字も書けるし、状況描写も適格だ。日本平民の基礎教養が知れる。
「土佐の中浜万次郎、通称ジョン・万次郎は、土佐沖合いで漁業操業中遭難、伊豆の烏島に漂着、島で海鳥や魚を食べ、雨水で露命を繋ぐこと6ヶ月、ホーランド号に救助されハワイに寄港する。
15歳の万次郎は、非常に可愛がられ、船長は彼を伴って帰米、苦学を続けながら英語を習得、航海術や捕鯨も習った。
ハワイに戻り、一人は現地で妻を娶り帰国を拒んだので、他の二人と共に琉球経由で9年ぶり、鹿児島に上陸した。
藩公島津斉彬にアメリカの政治、軍事、宗教、商業などの『アメリカ事情」を進講した。
しかし彼は密航者として幕府から厳しい取調べを受け、琉球上陸7ヵ月後に釈放された。
まもなく万次郎は土佐藩山之内公に士分に取り立てられた。
ときあたかも日本はロシアからは通商開始の要求を突きつけられ、フランス船は琉球に来航し、53年6月にはペルリが久里浜に来て開国をせまるなど、内外は多事多端の時期に直面していた。
幕府は『漂流人・万次郎』を江戸に召しだし幕府出仕を命じる。
万次郎は諸閣老に海外事情を進講した。その後軍艦教授所の教授を経て、60年には遣米使節の通訳として渡米、帰路ハワイに寄る。
その際彼は滞在中世話になった米人牧師に会い、銘刀・関兼房と香炉を贈呈した。
69年開成学校教授となり、伊藤博文、木戸考允にも知遇を得た。
1898年東京で没し、正五位を贈られた。
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すばらしいトピができました。
投稿者: splash_dvd 投稿日時: 2007/12/30 09:51 投稿番号: [25 / 402]
トピ主さんの御主張に全面的に賛同いたします。
このトピの発展を期待しています。
日本民族の誇りを高らかに語り合えるトピの誕生を祝します。
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日本とハワイの縁
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/30 09:37 投稿番号: [24 / 402]
毎年今の時期、年末年始になるとハワイは日本からの観光客で活況を呈す。彼らはアラモアナやその先の新興のワード地区などへも足を伸ばすが、なんといってもホテル郡を貫き、有名ブランドが1キロ近くも軒を連ねるカラカウア・ストリートが散策の中心地で、みんな肩をぶつけ合うように行き交いごったがえす。
たまに有名ブランド店をのぞいてみるが、日本客以外は見たことがない。
いちど友人二人とホテル前のオープンテラスで休んでいるとき、一目でユダヤ系と分かる老人に声をかけられた。「ここはいつから中国人や日本人の街になったのか?」と聞く。何のことか分からず聞き返すと、老人は前の言葉を繰り返し「ここはアメリカだと思ったけど」と付け加える。返事に戸惑っていると、「いや、いや、」と言って去っていった。
狐につままれたような気分で帰宅してから話題になった。
アメリカ人の友人の解釈は、「かの老人は米本土に住むユダヤ系米人で、東洋人が闊歩するカラカウア通りに複雑な思いを抱き、皮肉ってみたんだろう」で、みんなそれで納得した。
あの日のカラカウア通りはツーリストであふれていて渋谷駅前状態だった。ざっと見渡しても人々は白人より「東洋人」のほうが多い。
この「東洋人」を老人は「中国人と日本人」と解釈したが、それは違う。カラカウア通りのツーリストに中国人や韓国人は稀だ。老人の言う「東洋人」の実態は日本人だ。
ハワイはアメリカが武力で自らの領土に組み入れたが、両国の縁はそれほど古いものではない。
一時は英国やフランスも領有権を主張して争った。
日本とハワイの縁を辿れば、まず、メインストリートの名前として残っている、
「カラカウア王が執筆した『ハワイ神話と伝説』に1257年にオアフ島に2回ほど、日本船らしい『異形船』が漂着した」と記されている。
その12年後、マウイ島に異形船が漂着し、乗員の船頭も水夫も、ともに皮膚の色がさほど黒くない男3人、女2里の外国人だったが、キャプテンの妹ともう一人の女は島のチーフと結婚し、3人の男たちはそれぞれハワイ貴族の夫人を娶ってハワイに永住した。
彼らは、ハワイにおける色の黒くない種族の祖先になった。」と記されている。
イスパニア船が太平洋に現われたことは1500年代以前にはないことから、「異形船」の一行は、多分日本からの難破船であったろうという憶測がある。
ハワイ耕主組合出版の『砂糖の起源』には次のような記述がある。
When Captain Cook discovered the Hawaiian Island in 1778, he found a number of varieties of sugar cone. Tradition tells us that sugar cone was brought here by foreigners a Japanese junk is supposed to have landed here in the 13th century, and a Spanish vessel two hundred years later.
もしこの記述のように、ハワイの砂糖キビが日本人漂流者によってもたらされたとすれば、当時の日本のいずれかの地にサトウキビが栽培されていなければならないが、そもそも『唐黒』と呼ばれた黒砂糖が日本に渡ってきたのは753年ころで、甘蔗もほぼそのころ唐からもたらされたという記録がある。そして中国と古くから通交のあった琉球には、唐時代に甘蔗が伝わり植え付けられていた。
ハワイに漂着した船は、移植の甘蔗などを積んで諸島間を航海中に、たまたま暴風雨に遭遇し、流れ着いた可能性はあり得る。」
ハワイの主であるハワイアンにわれわれ日本人の血が薄くても流れていると思ったとき、なんとはない親しみを感じる。
ただ、当時のハワイアンは白人が持ち込んだ疫病で人口が激減してしまって回復されていない。
今、ハワイで出会うローカルは戦後サモアやトンガなどから移住してきた人たちがほとんどになってしまった。
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■ 右翼団体の本当の目的
投稿者: merits336rakon 投稿日時: 2007/12/28 17:46 投稿番号: [23 / 402]
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Re: 美しい国日本
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/28 15:55 投稿番号: [22 / 402]
アゲ。
今の時期はTVでちょくちょく「ハワイの観光スポット」的な番組が放映される。この間も柳沢真吾とかという顔は面白いが恐ろしく頭の回らない奴が、見たこともない中年女とスポットガイドをしていた。
芸能人もいっぱい来るらしいが、オレは一組しか会ったことがない。
ワイキキの蕎麦屋で野村監督夫婦と一緒になった。
監督はなんと紫色のヴェルサーチのジャケットを着用していた。
ああいうのは芸能人かやくざしか着ないとおもったが、監督は芸能人でサチヨは暴力団みたいなもんだからいいのかな。
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柳橋芸者小染のハワイ流離譚 3
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/26 20:29 投稿番号: [21 / 402]
大内蔵の、小染への恋慕の念はやみがたく、ついに彼は下田を出奔して江戸に急ぐ。
だが、捨てられた妓楼の娘はそれなりに哀れであり、また婿殿の失踪という大恥をかかされてしまった親からすれば、大内蔵を許すわけにはいかなかった。婿が禁を破り出奔したことを即座に訴え出る。
大内蔵は江戸到着の前、藤沢の宿で捕縛された。そして吟味の上江戸に送られることになる。知らせをきいて小染が藤沢に駆けつけ、唐丸籠の大内蔵と愁嘆場を演じたのはこのときであろう。
公儀が指定した在所を無断で抜け出すのは島抜けと同じ御法度である。大内蔵は打ち首獄門となる。
こうして小染に惑った二人の男の情念は、いずれも悲惨な結末を迎えることになってしまった。
獄門といえば二日三晩市中にさらし首にされるが、その首を小染は目にしたのであろうか。だとしたらなんと語りかけたのであろうか。
この事件から何年が経ったのだろう、小染は28になっていた。
とにかくこの年の春、刑死した二人の菩提を弔いながらの上方見物に出かけることを思い立つ。
しかし、そんな愁傷な小染にいかなる仏がなおも禍を課すのか、便船は猛烈な春の嵐に襲われる。
どうにか沈没は免れたが、帆は折れ舵も修復のきかないほど破損した便船はただ波間に漂う木箱と化した。
60日にも及ぶ漂流である。食料、水は底を尽き、乗り組んだ者たちは体力のない順に死んでいく。どこの海でも繰り返される地獄図であった。
「乗組員は、ほとんど死亡したが・・」、しかし、彼女は生き残った
船はハワイ諸島で発見される。結局上陸後に生き残ったのは小染一人だけだ。
そのころの海に生きる者の掟として、難破して異国にたどり着いた者を、本国に寄港する各国の船を探し出し、送り出していた。
小染もその都合を待つことになるが、ハワイとはなんの折衝もない幕末の時期、直行便はあてに出来ず、まず英国人の進出している上海に行き、そこで日本行きの船を捜すことにする。
彼女はアラモアナ港の船員宿で便を待つことになるが、それとていつになるか分かったものではないし、そもそも小染に帰国の希望があったのか疑わしい。
言葉の通じない異国で、自分を見つめる時間は充分すぎるほどあったろうし、考えざるを得ない、あまりに過酷な半生である。
振り返れば、彼女は10代の半ばを過ぎたあたりで、親に強制されて大名の妾になる。
そして母親を目の前で夜盗に斬り殺され、その夜盗を小染自身が刺殺するという凄絶な体験をする。
相思相愛の大内蔵との間は、藤吉郎も絡んだどろどろの愛憎劇を演出し、ついには圧倒する悲劇で幕を閉じた。
挙句は漂流船で2ヶ月間も塗炭の責め苦を味わい、何度もあきらめた命が、今なぜか異国で永らえているのである。
ホテルの部屋の薄暗いランプの下で仏の説く「業」を思い詰めれば、先祖に悪業があったに相違なく、因果応報、自分の数奇な運命は定められたものと、自暴自棄に陥っていたことだろう。このまま帰国する故国にこの先なにがあるというのだろう。
そんな時同宿の米国人宣教師に米本土行きの声をかけられる。
いっそ知る者とてない異国で身を朽ち果てたほうがとまし、と考えたのだろうか、「行こか
メリケン
戻ろか
ジャパン」、思案の末小染はサンフランシスコに向かう。
小染の転機点はハワイオアフ島であっただろうが、彼女の魂を救ったのは清廉なアメリカ人宣教師だろう。無償の愛を超える美しいものはこの世に存在しない。小染を救ってくれた彼に感謝したい気持ちだ。
一方、刑死した二人の情人からは近松の「冥土の飛脚」が思い起こされる。十両盗めば首の飛ぶ時代である。それを百も承知でなお禁を犯す、おろかな奴という言葉に間違いはないであろうが、わが身を燃え尽きさせての女への情念は、もしかしたら男の根底を為すものが顕れたと思いを致すことが出来るかもしれない。また、それほど男に惚れられるのは、女と生まれての冥加といえるだろう。
ともあれ、日本で得られなかった心の安寧を図らずも米国で見出した小染は、生涯帰国することはなかったようだ。
もしかしたら、もしかしたら小染の子孫がアメリカ社会に今も溶け込んでいるのかも知れない。
そう想像するもの楽しいものである。
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柳橋芸者小染のハワイ流離譚 2
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/25 10:44 投稿番号: [20 / 402]
片や実家に戻されたとはいえ、清和源氏につながる名門佐竹氏の寵愛を一度は受けた身だ。小染の親が大内蔵との交際を断固として許さなかった可能性がある。
もしかしたら二人は幼いころから淡い恋心を抱いていたかもしれない。それだからこそ、親の強制で妾奉公に出されたことが小染には我慢できなく、自ら悶着を起こして大名屋敷を飛び出したとも推理を飛躍できる。
勘当されたか、または自ら家を出たか、とにかく小染は実家を離れ芸者になることによって、誰はばかることなく大内蔵を間夫に出来たのだ。
そんな時恋敵の藤吉郎が現れる。小染の美貌に懸想したのだ。
与力というから、現代でいえば公社の係長補佐といったところか。
人の恋路に水をさす藤吉郎は絵に描いたような横恋慕振りを示す。まず密告して大内蔵を罪に落とす。ただし、これは冤罪ではない。大内蔵にとって、芸者の小染とつき合うには金が要っただろうし、女に対する男特有の見得もある。公金に手をつけなきゃならないほどに彼も小染におぼれていた。そこを恋敵に突かれたのだ。
「(藤吉郎は)いやがる小染を伊豆下田まで追いかけて行き・・」「伊豆下田の妓楼の入り婿になっていた(大内蔵)」とあるから、時系列を踏めば、横領が発覚し、江戸所払いの上下田に住居を定められた大内蔵のもとに小染が追いかけていく。都落ちだ。
小染は芸者家業だ。どこの土地でも生活は出来る。しかし流れてきた大内蔵はろくな職も甲斐性もない。小染に食わしてもらう形で二人は一緒に住み始めた。
しかしながら二人の蜜月はごく短期間で終わった。
横恋慕男藤吉郎がいよいよ思いを遂げようと下田に顔を出す。とんだところに北村大膳である。
下田は伊豆半島の突端付近に位置するが、江戸からどのくらいの旅程になるのだろう。もちろん通える距離ではない。親が死んだので故郷に帰るとでも言いつくろったか、藤吉郎は与力の職を長期に休んで下田に現れたことになる。
現代でいえば強度のストーカーでかなり危ないものがあるが、本来食い物も女も奪い取るのがオスの習性だろう。金や権力という野蛮が、金も力もない優男を蹴散らして獲物を奪い取る、本来的なオスの姿ともいえる。
とまれ、藤吉郎は下田の小染の座敷に毎日顔を出し口説きに口説く。こんな鄙であたら一生を潰さず江戸に一緒に帰ろうと必死に誘う。
女は、「男が自分をどれだけ欲しているか」というのがオス選別の重要な条件だ。。
一生をオスに託すのだから当然の選択眼といえる。小染はついに藤吉郎の「もの」になる。
藤吉郎は即座に小染を江戸に連れ帰り一緒に生活を始める。
一方置いてけ堀にされた罪人の大内蔵にしたところで、女の不実を責めるわけにはいかない。甲斐性のない身を捩りながらも去っていく小染を見送るしかなかった。
しかし救う神がいたということか、もとより好男子であり士分でもあった男だ、地元下田の妓楼の出もどり娘のところに入り婿の話が来る。これも運命と観念したか、大内蔵はその話に乗った。
小染にしても大内蔵にしても、想い想われた相手ではなかったが、結局は互いに伴侶を得たことになり、ドロドロした恋の鞘当は終局を迎えたはずだった。
しかし、運命という綺麗ごとではすまない、生々しい現実が藤吉郎を待っている。
「男の甲斐性」で小染を江戸に連れ帰った藤吉郎だが、彼とて安棒給の小役人に過ぎない。小染のような金のかかる女の世話は彼の器量を超えている。
そこで「役目を利用してのお蔵米買占め」という経済犯罪に手を染める。
そして発覚、藤吉郎は死を以って処罰される。
ここで訂正を試みたい。先稿で、(藤吉郎は)「役職を利用しての「お蔵米買占め」が暴露して自刃させられてしまう。」と書いたが、参考本では「暴露して‘毒殺‘されてしまう。」となっている。一方「刑死」とも書かれている。
武士の刑罰に‘毒殺‘という手段があったのか、どちらにしても浅学な私には初耳である。だからあえて「自刃」と書き換えたが、僭越であったかもしれない。
どなたか、江戸時代の武士階級の公の処罰に‘毒殺‘という慣例があったのかどうか、教えていただきたい。もしかしたら、家から縄付きが出るのを恐れた親族が藤吉郎を毒殺したのかとも、想像してみる。
また、参考本の巻末に筆者が引用した日米の資料が列挙されているが、小染の話が、そのうちどの資料を基にしたのか判断が出来ない。
ともあれ、藤吉郎という支えを失い独り身となった小染は大内蔵にその旨を文にて伝える。
恋しい小染が途方に暮れていることを知った大内蔵は居ても立ってもいられなくなるが今は妓楼に入り婿の身、想いは募っても如何ともしがたい。
大内蔵は悶々とした日を過ごすことになった。
つづく。
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柳橋芸者小染のハワイ流離譚
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/24 13:23 投稿番号: [19 / 402]
参考本に見逃しがたいエピソードがある。
「元年者」ハワイ渡航より遡ること9年前、小染という江戸柳橋の売れっ子芸者が難破船でハワイに流れ着いた。
太平の眠りを蒸気船に破られてから6年を経ていたが、なんといっても将軍様のお膝元である、江戸庶民は数百年変わらぬ江戸文化の元で穏やかな生活を営んでいた。
小染の話とは、その時代数奇な運命を美貌と厚情ゆえに辿ってしまった女の物語である。
「小染は江戸神田今川橋の材木河岸の材木問屋・津の国や惣兵衛の一人娘だが、生まれついての美貌が禍のもとで、さまざまな事件を巻き起こした。
まず彼女は、三味線掘りの佐竹候の屋敷に強制的に妾奉公に出されたが、悶着を起こして屋敷を出た。
自宅に帰ってしばらくしたある夜、盗賊が侵入し無残にも母親を斬殺した。小染は落ち着いて、賊に度胸があるなどといって褒め上げ、金を差し出して安心させ、隙が見えたところを、親の敵、覚悟!とばかりに刺殺に及んだ。
この刺殺事件は正当防衛と認められて無罪となり、小染の名はパッと広まった。
柳橋芸者になった小染の‘思い人‘は、幼馴染の繫吉こと、寺侍・杉田大内蔵であった。
大内蔵は長じるまで小染の実家で小僧をしていた男である。
しかし、芸者小染の美貌にぞっこん参っていた与力・鈴木藤吉郎は二人の仲を嫉妬し、大内蔵が勤める寛永寺「お手許金」を小染のために使ったことをさぐり出し、訴えて罪に落とした。
そして、いやがる小染を伊豆下田まで追いかけて行き、ついに思いを遂げ、一度そうなった後は小染も憎からず思うようなる。
だがその後まもなく藤吉郎は、役職を利用しての「お蔵米買占め」が暴露して自刃させられてしまう。
一方の大内蔵は、寺侍から町人に戻って、伊豆下田の妓楼の入り婿になっていたが、「お手挙金」をさらに小染めのために手をつけたことが発覚して捕らえられた。
小染は、唐丸籠で送られる大内蔵に藤沢で出会い、人前もかまわず籠にしがみついて身を震わせて号泣した。
大内蔵は、取調べの後、獄門にかけられた。
このように「二人の情人」は刑死したのである。
その後小染28の春、1859年3月16日、浦賀から出る便船で上方見物に出かけた。
二人の亡くなった情人の菩提を弔いながら、見物を兼ねて京都、奈良の仏跡を巡るつもりであった。
だが便船は遠州灘の入り口で大風に遭遇した。船は暴風波浪に翻弄され、漂流し、波面に漂った。
60日間の生き地獄を体験して、船は奇跡的にハワイ諸島に流れ着いた。
乗組員のほとんど死亡したが、小染は女性特有の生命力を発揮して生き残り上陸した。
奇禍にあって奇跡的に一命をとりとめた小染が、寄辺のない身をホノルルのダウンタウンの小ホテルに置いて、途方に暮れているのを見て救いの手をさしのべたのは、同宿のアメリカ人宣教師ジャンセーであった。
ジャンセーは小染をサンフランシスコに連れて行き、富豪の保母に周旋した。
ジャンセーは今まで接してきた多くの男が例外なく迫った行為にけっしておよばなかった。
男が親切にするときは、必ずその代償行為をせまると思い込んでいた小染にしてみれば、何だかはぐらかされたような、期待はずれのような気持ちであった。
米本土に渡ってからの小染は、好きだった酒もきっぱり断ち、熱心に英語を習い、聖書に親しみ、まるで別人のようになったと言う。
小染は、明治10年の春頃までは、時々故郷に便りをしたためたといわれるが、その確かな記録は残っていない。」
参考本にはここまでしか書いていないし、この顛末の出典がなんなのかもわからない。
そこで説明不足の行間を勝手な憶測で埋めてみると、まず、「材木問屋の一人娘が大名のところへ強制的に妾奉公に出される」という、現代では通用しない性風俗に戸惑わざるを得ない。
もし殿様の子でも宿せば一族の名誉ということになるのだが、ここに現代の通常である自由恋愛の出る幕は寸毫もない。
「妾奉公」を文字とおり読めば、小染は佐竹候の手がついたと考えられる。それがどんな「悶着を起こして」家に帰ることになったのか。大店の一人娘であった小染は、それこそ蝶よ、花よと育てられたはずだ。相当勝気であったのは後日の夜盗刺殺事件に見るとおりだ。厳格な武家屋敷勤めが性に合わなかったろうし、美形ゆえに正妻との確執があったのかもしれないと想像してみる。
しかし裕福な家の一人娘がその後どうして芸者になどならなければならなかったのか。
これを大内蔵への思慕ゆえと推量できないだろうか。大内蔵とえらそうに改名していても前身は小染の実家の小僧の繁吉であったし、今とても取るに足らない安棒給の寺侍である。
この項つづく。
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行こか アメリカ西海岸へ
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/23 05:44 投稿番号: [17 / 402]
そのころ日本では米国への渡航熱に浮かれていたが、向かう先は本土西海岸である。一方ハワイからも本土に渡るものが急増し、ハワイ耕地では人手不足に陥った。
「1884年に中国人排斥方が実地された結果、88年ころからカリフォルニア州の各農園では、著しく労働者の不足を訴えるようになっていた。すなわち農園は、穀物耕作よりも果実栽培のほうが、収入が大きかったため、競って穀物から果実へ転向することをはかった。
だが果実栽培には、多数の労働者を必要とするにもかかわらず、その点において充分な配慮が欠いていたため、収穫時に至り労働者の不足を来たしたのであった。
果実摘み取りに必要な労働者は、きわめて短時日に、敏活かつ軽快に能率を上げ得る者でなければ、思惑通りの成績を収めることは出来ない。
多年中国人だけを農園労働者にしていた白人農園主は、排斥法により、中国人を得ることが困難となり、ヨーロッパからの移民を代わりに充当しようとした。
だが、彼らははなはだ効率が悪く、技能も低劣であった。そのころ(1888年)から、カリフォルニア州ヴァカビル地方に日本人農園労働者が多数入り込んできた。その就労振りは、勤勉で敏活であり、果樹園におあつらえ向きだったので、農園主の信頼は日本人に傾き、たちまち中国人や、その他の労働者を駆逐してしまった。
以来、年とともに、日本人労働者はその数を増し、各方面に配属された。とくにサリナス方面における砂糖大根耕作は、従来ポルトガル人、中国人の独裁的独占的事業だったものを占有してしまった。
またヨーロッパ移民が好まない低湿地に居住し、ジャガイモ、たまねぎなどを耕作して成績をあげた。
折から日本は、日清戦争が集結し、国民の海外飛躍熱は、いやがうえにも燃えさかり、一方合衆国においては1897年、貿易上に保護政策を採用したため国内産業は急速に発展し、ことに鉄道方面における労働者の需要は急増した。
それらの背景から在米日本人は約4万を数えるに至った。」
「日本人労働者は、農園だけではなく、鉄道人夫や、鉱夫にも進出した。
特にハワイからの転出を試みた人たちには、鉄道人夫になるものも多かった。
彼らは米本土に上陸早々サンフランシスコ市内の見物もせず、直ちに汽車に乗り、ユタ、アイダホ、ワイオミングなどの各州に送られ、ロッキィ山脈以西の鉄道その他の工事に就労した。
日本人労働者の最盛期には、実に16813人を数えた。」
‘西部の鉄道の枕木下には、中国人の骨がひとつずつ埋められている‘という象徴的なフレーズがある。私たちはそのフレーズによって一瞬に状況を理解?するが、「南京大虐殺」の例もあるし、詳細を知って印象を固めたほうがいいだろうと思う。
たしかに、鉄道建設労働者は圧倒的に中国人が多かったが、上記のように日本人の他アイルランド人やイタリア人も従事している。
おそらく国により差別に微妙な違いがあったと推測するが、不勉強のためここに書けない。
ただ、米本土一般における日本人と中国人の差別は違いがあるように見える。
中国人は米政府の恣意的な差別法によってさまざまな迫害を受けるが、大規模な暴力事件に限って列挙してみると、
1848 カリフォルニアで金が発見される。多くの中国人が西海岸へ渡来
1865
中国人労働者が大陸横断鉄道建設のため採用される(ピーク時は1万人以上の中国人がセントラル・パシフィック鉄道会社に雇われた)
1871
ロサンゼルスで反中国人暴動が発生
無法な群衆に一人の中国人がしばり首にされ、暴徒化した人々によって他の中国人たちも殺される
1877
カリフォルニア州チコで反中国人暴動が起こる
コロラド州デンバーで反中国人暴動が発生
住宅やビジネスが破壊された
1885
ワイオミング州ロックスプリングで反中国人暴動が発生
約30人の中国人が殺害され、財産が破壊される
1887
アイダホ州とオレゴン州の州境沿いで、中国人鉱夫が白人から攻撃を受け、31人が死亡
1905
サンフランシスコでアジア系排斥同盟が結成。中国人に対するアメリカ人の差別と偏見に抗議するため中国国内でアメリカ製品に対する大規模な不買運動(アメリカ、ハワイ在住の中国人もそのボイコットを支持)
アメリカの中国移民に対する差別は日中戦争が勃発し、さらに米中が同盟国となって改善された。しかし、共産シナが誕生するに及んで人の往来は途絶えることになる。
1980年に中国系米人は80万だが、もし蒋介石政権が続いていたら何百万人と言う中国人が米市民となっていただろう。
そうなった場合の日本への悪影響を考えると、共産シナ誕生は日本にとって僥倖と言えるかもしれない。
注
帰国したてでちょっと忙しい。毎日は投稿できないかも。
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悪の華
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/22 09:20 投稿番号: [16 / 402]
軍の駐留するところで兵隊の不祥事は国の内外を問わず発生する。
戦士には休息が必要である。そして、その場所には酒と女とギャンブルが付き物だ。
焼き払いの後、「新たな大規模な売春屈が市外パイナップル缶詰工場付近の一画に現出した。
当時オアフ島には約8000人のアメリカ兵士が駐留しており、この兵隊たちへの必要的罪悪として売笑婦たちを市内各地に散在させることは、風紀上および教育上好ましくないので、一ヶ所に集中すべきだともっともらしい口実の元に、日本人の増田知次郎が一部のアメリカ人と組み、当局を説得して、‘合法的に‘設立したのである。」
当時の新聞、雑誌に、
「‘新醜業婦街‘
遊郭の現況
同所はエワ側にあり、高塀に囲まれし五棟よりなる。その部屋の数二百二十五室、現在醜業婦の数百四十七人の内百三十五人は日本人にして、皆政府に登録せられしものなり、同所内の万事は警察と衛生局の監督の下に行われ、よく行き届くなり。
醜業は今この一区域に限られ各所に散在するの不体裁は止みたり。
警察および他の官庁が賄賂を請求し、また受け取りおれりなどの説あれど、その証拠得がたし。」
「醜業婦取り扱い
寡婦或いは処女(十六才以上)の、他に寄るべきなく衣食住に窮するものは、その理由を政府に具陳して娼婦となるの鑑札を請う。
政府は医師をして身体検査を行わしめ、娼婦として差し支えなきや否やを確かめ、しかる後にこれに鑑札を付して開業せしむるなり。
而して別に徴税なし。」
「焼き払いにあった中華街花街の小屋は表口一間、奥行き2間ほどで、表の一方にハ璃窓があった。娼婦はホーロク姿か和服に束髪で、厚化粧して客を待つ。
客はハ璃窓から中をうかがい、己の好みにあえば玉代をたずねた後に入室する。
商売は、毎夕七時ころから十一時までで、玉代は{並等}が50セント、「上等」は1ドル。
娼婦たちは1夕20ドルから50ドルをかせいだ。その内毎日50セントを「倶楽部」(やくざ組織)に税金のように納入した。
また、女たちのほとんどは亭主もちであり、その亭主は「倶楽部」の会員であった。」
「これらの倶楽部は、例えば日清戦争祝勝会や天長節などの国粋的な行事には格好づけ、権威付けに参加協力したが、本業は売笑婦のヒモで無頼の徒の集団だった。彼らは賭博、喧嘩、人身売買、さらには脅迫、ゆすりもやった。」
「彼らは人の弱みに付け込んで強請りもし、もし手向かいすれば、たちまち得たりとばかりに殴る、蹴るの暴行に及んだ。そして彼らに不利な事態になれば、直ちに警察にはせ参じ、使い慣れたブロークン・イングリッシュで事実を曲げて自分たちに有利に吹聴報告し、裏からは金銭で警吏を買収した。」
倶楽部は芸者組合も作った。巻頭写真に、10人の芸者が横一線に並んだ記念写真がある。1899年とあるから、焼き払われる直前のものだ。
もとより白黒で不鮮明な写真だが、ループでよくみると彼女らは10代から30代で、それぞれ帯び下に派手な模様をあしらった着物を着ている。全員髪を盛り上げ後ろで束ねているみたいだが、正面から見ると髷のようにも見える。暑苦しいが皆美形だ。
「ホノルルには、日本人芸者が二十余名いて、彼女たちの1ヶ月の収入は七,八十ドルから百ドルで、客に招かれた際は、通常一席二時間で二㌦の席料をとった。芸妓たちの年齢は二十才以下が多く、一夕にして客の散財額は百ドル、最低額は十ドル内外であった。
ホノルル芸者の奇習の一つは、毎年一月一日には数名が三味線をたずさえて馬車を駆り、「お得意様」宅の門に至り、「万歳!」を三唱することである。」
どうしてこんな「奇習」が生まれたんだろ。
移民の国アメリカでは、さまざまな出身地のコミュニティでギャング組織が形作られた。
移民ギャングの代表はなんと言ってもイタリアマフィアだろう。彼らが登場する映画は100を超える。
そんな中「ワンス
アポン
ア
タイム
イン
アメリカ」というユダヤギャングの創成期を描いた傑作があった。(R・デニーロ、J・ウッズ)
また、「イヤー
オブ
ザ
ドラゴン」というマイケル・チミノ監督のこれも傑作がある。主題はチャイニーズマフィアだ。(M・ローク、J・ローン)
いずれも上位ギャングとしてイタリアンマフィアがあり、その確執が興味深い。
「ギャング
オブ
ニューヨーク」はWASPとアイリッシュの対決だった。
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ペスト
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/21 12:25 投稿番号: [15 / 402]
中世ヨーロッパを襲った黒死病は東アフリカから運ばれたと長い間考えられていたが、最近中央アジアから運ばれたという説が有力になっているようだ。中央アジアへは中国西域から持ち込まれた。
四川省、雲南省など中国の山側ではペストは風土病のひとつであって、局地的な発生は珍しいことではなく、さほど恐れられてもいない。
この細菌は元来ノミを介して野ネズミ間で巡回しているのだから、野ネズミと接触しなければ人間への感染はない。
厳しい飢饉などがあったりして、餌を求めて野ネズミが人家に現れたりすることもあるが、一部の中国人のように野ネズミを食す風習があれば感染の可能性は高くなる。
感染が局地にとどまっていれば問題は小さいが、交易によってネズミが人口密集地に運ばれることで大流行を引き起こす。
だからネズミが跳梁する不潔な環境が大問題だ。抗生物質がまだ発見されてない時代ではワイン消毒、ネズミ退治、焼却がペストへの対抗策だった。
日本には1926年横浜で発生したのが最初で最後だとするが、おそらく発生源は中華街だろう。
楽園ハワイの発生源もチャイナタウンだった。
「1899年十二月に、はじめてホノルルの中華街に発生して、全ハワイを恐怖のどん底に陥れたペストはその月の十二日、ヌアヌ街在の中国人ユー・チョンが罹病したのを皮切りに、十二月中に十三人が発病、翌年1月中に42人・・・」
折から世紀末である。終末論を信じるキリスト教信者は協会にこもり一心不乱に許しを乞い、仏教徒の多い日本人は念仏を唱えたことだろう。
幸い20世紀はやってきたが罹病者は増えてきた。ここで為政者は一気の解決を試みる。新世紀が始まったばかりの1900年正月20日に実行された焼き払いである。
「当時の中国人街は、極端に衛生状態が悪かったので、当局は徹底消毒を行ういっぽう、外部との接触を遮断した。またオアフ島と他島との交通を禁止し、さらに病毒一掃のため、当時中国人と日本人が主として群居していた下町の一部に対し、あらかじめ立ち退き準備をさせて、焼き払いを断行した。
ところが折からの突風にあおられて火はベリタリア街の突き当たりにあった協会の尖塔に燃え移った。」
巻頭写真の一枚に、2階建ての建物が並ぶ大通りの軒下に人々が立ち現れ、また交差点を行きかう人も馬も歩を止め、全員、一方の空を唖然と見つめているものがある。猛煙が空いっぱいに広がり、一部は建物の屋根にかかっているように見える。
「そして火勢は、猛烈の度を加え、あらかじめ用意していた消防の手も及ばず、海寄りのキング街、山手はスクール街近くの下町区域全体にひろがった。
当局の命で立ち退いた地域以外にも焼け広がったので、その地区の住民は着の身着のままの状態で、戦災にあったようなかっこうで避難した。」
「この大火については、さまざまな臆説がある。すなわち下町地域全体があまりにも不潔、不衛生であるところから、ふたたびコレラ禍のような不祥事が起きないように、意図的に大火にしたとも、さらには商業界に台頭してきた中国人と日本人の勢力を削ぐための白人商業家の仕業とも言われた。」
まさかとは思うが、この噂から日中の耕地労働者が、契約が切れたあと小銭をためて都会でなにかを開業するなど、ハワイ社会への経済的進出が活発になっていたことと、それに対する白人の警戒と悪意が見てとれるのである。
「このペスト病大火事件のための被害者総数は約7000人、被害総額は約300万ドルといわれ、芽生えかけていた中国人、日本人の経済的基礎は、一朝にして崩壊した感があった。
ハワイ政府は、56万ドルをその損害補償の総額に当てていたが、被害者側の損害要求額は316万ドルで、政府側とはもめにもめた。」
被災者総数の半分は日系人であった。清国人もほぼ同じであろう。焼けた店舗を見るとそのころの両国人の経済活動が見える。
「理髪店23、時計店7、裁縫店6、旅館10、料理店11、金物店2、倉庫8、写真館4、大工工場5、湯屋、劇場1、射的場10、団体事務所4、教会1、水屋16、菓子商13、貸長屋9、新聞社1、診察所3」などである。
「ところで、例の「魔窟」もこの焼き払いにあい、資金源を失った「やくざ」な連中は四散してしまった。」
この焼き払いによって黴菌ともども娼妓も賭博も、それに日中の経済基盤でさえ一掃されたことになり、米人為政者にとっては万々歳といったところであった。
ところがどっこい、日中人はそんなことでは潰されるほど柔ではない。
まして「悪の華」は雑草より強靭なのである。
時を経ずして「悪の華」は以前より一掃咲き誇ることになる。
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ハワイの「侠客」
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/20 11:34 投稿番号: [14 / 402]
日本には「やくざ」という特殊で伝統的な集団がある。その起源は江戸時代初期の幡随院長兵衛とされている。
その理想とされるのは12世紀の中国北宋時代に跋扈した反権力の湖沼賊といわれている。
実態はともかく、明時代に書かれた小説「水滸伝」に義賊として登場、それが日本に入り講談などで人気を博したのだが、本邦でいえば石川五右衛門やネズミ小僧の団体版といったところか。いわゆる義賊である。
弱きを助け強気をくじく、義を見てせざるは勇なきなり、江戸庶民の溜飲を大いに下げさせたものだが、日本の「やくざ」はそれを倣ったものだから、庶民からそれなりの支持や敬意を得ていた。
もう少し言うと、日本で有名な「やくざ」である新門辰五郎は火消し、大前田栄五郎は名主の子、清水次郎長は運送業と、いずれも正業を営んでいる。ただ辰五郎は喧嘩が飯より好きという暴行傷害の常習者だし、後の2者は若いころ私事で殺人を犯している。やはりその「気」がある人方とは言えよう。
彼らは町奉行や寺社奉行とは治安上密接な関わりがあった。俗に「2足のわらじ」というが、世情に通じたやくざに十手を預からせ探索方の一翼を担わせた。
またご法度であった賭博を、寺社奉行管轄のお寺で催すことで、町奉行の追及から逃れることができた。だから賭博を催すことを「ご開帳」、利益金を「寺銭」という。
この「やくざ」と「公権力」の関係は戦後まで続き、闇市で跋扈した三国人に手の出なかった警察は、日ごろのよしみ?からその対策をやくざに依頼する。
やくざと三国人の衝突を詳しく描いた映画に、浜松事件をモデルにした1962年製作の大映映画、「やくざの勲章」というのがある。(井上梅次監督
田宮一郎主演)
さて、アメリカに移民したイタリア系のマフィアは有名だが、かれらは明白な犯罪集団であり、自分たちの存在を極力隠そうとするギャングである。チャイナマフィアも同様であるが、日本やくざは趣がちょっと違う。彼らは、自分たちを勝手に「狭客」に擬えているので目立つのが大の大好きである。
ハワイ日系人移民も「やくざ」を組織し、同国人の社会で歌舞伎者を演じる。
様子を見てみると、
「当時ホノルルのリヴァー街に「魔窟」と称する無頼の徒のたまり場があり、酒と女の嬌声が満ちていた。無頼の徒たちは白昼肌もあらわに浴衣を着、縮緬の幅広い帯をぐるぐる巻きにし、大きな金時計に金鎖をちらつかせ、下駄履きのまま肩で風切って歩いた。
キング街にあった横浜証金銀行出張所にも博徒の連中が押しかけ、浴衣の尻をまくりあげてサルマタから金貨や銀貨を出し入れし、人々の顰蹙をかった。」と当時の新聞に書かれている。
どうもに「侠客」とは言い難く、絵に描いたようなゴロツキだ。
彼らの活動の源は「魔窟」における「博打魔女屋(まめや)」で、
「資金源は、連中の細君や、情婦からなる「魔窟」であり、そこに巣食う売笑婦は二百数十名の多きを数え、一人平均一ヶ月250ドルから300ドルの収入を上げていた。
売笑婦の中には、「耕地で血反吐を吐きながら働く男たちの収入は、たかだか15ドルたらず。それに比べりゃ、女の身で、毎月300ドル近くも稼いで、日本に送金している私たちゃ愛国者だわ」と胸を張る者もいた。」
地元紙は中華街にある「魔窟」を、
「同所は高塀に囲まれし五棟から成り、その部屋数225室。現在醜業婦の数147人のうち135人は日本人にして皆政府に登録せられしものなり。」とあり、「一八九八年には、売春婦の数が、ハワイ人二十六人、フランス人五人、イギリス人二人、アメリカ人一人、日本人百十五人だったが、翌年には日本人売春婦が二百二十六人に増えた。女たちは自分の職業を隠そうとせず、一九〇〇年の国勢調査では、「チオ、二十二歳、日本人、売春婦」、「チノ、二十四歳、売春婦」、「カソ、二十三歳、売春婦」などと書いている。」
また、「ホノルル娼婦の悉くは日本婦人にして、政府は何故に斯く日本婦人のみこれを許すのかと言う問いに答えむ。
(日本人は)在留移民中にて最も多数を占め、支那人の如きは数に於いてこれに次ぐも、婦人は割合に少なく、またその風習として外出をさえ厭うものなれば其の醜骸を万人蔑視の下に晒すを欲せず。
またハワイ通の言に依れば、日本婦人は割合身体健全且つ清潔にして伝梅の患少なし」とも載っている。
悪の華が淫靡に咲きそろう「魔窟」をとんでもない災禍が襲う。
新世紀を目の前にした1899年12月12日、チャイナタウンに住む2人のシナ人が罹病した。
ペストである。
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Re: 日清戦争 in Hawaii 2
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/19 10:45 投稿番号: [13 / 402]
「日本勝った」の報でホノルルでは歓喜の祝勝会が催された。やくざの2組織が擬似官軍と陸軍を作り、司令長官以下音楽隊まで作って「観兵式」を挙行した。
副領事の音頭で万歳三唱・君が代奏楽に続き領事が「五箇条のご誓文」を「奏読」、「101発の砲声が殷々と響いた。」
各界の祝辞に続いて余興に入る。
花火・相撲・撃剣・綱引き・狂言などなど、村のお祭りをはるかに凌ぐ大変な祝勝会だった。
「市内の日本人商店は、すべて日の丸と球灯で装飾し、日本領事館の門前には見上げるばかりのアーチが設けられ、上に「天皇陛下万歳」、その左右に「海軍万歳」が大書されていた。」
同様の祝勝会はハワイ島のヒロでも催された。
「現在でも日本語のできる日本人の中には、中国人のことを支邦人と言い、またそのように書く者がいる。これは♪日本勝った
支那負けた(支那の兵隊さん
あやまった
○| ̄|_ ○| ̄|_ ガバガバッ♪)・・・と狂喜乱舞した当時の世相が凍結した形で継承されているからであろう。」
このような乱痴気騒ぎを横に見て、シナ人移民の鬱積は耐え難いものがあったろうし、当然日本人との緊張の度合いが臨界点に近づいていた。
ついに両者はオアフ島で激突する
日清戦争以後、日本人と中国人との間の感情的対立の溝は、日ごとに深まっていった。1998年3月、オアフ島でついに日中人が真っ向から衝突し、集団暴動になった。別名「日清小戦争」と呼ばれるカフク事件がそれである。
オアフ島の耕地には日本人が300人に達していたが、シナ人も多数就労していた。「日清戦争日本勝利」以来、日本人は大いに気勢を上げたが、なんと言っても中国人は古参であり、その面から優位を保っていたので、戦勝続きで意気軒昂たる日本人とは、何かにつけて反目し合っていた。
最初は小さな個人間の口論から集団暴動に発展し、乱闘の末、中国人3人を日本人が殺す結末になった。」
「地元新聞に関係者の回顧談が残っている。
「最初些細なことから日支の個人間に喧嘩が起こったが、これを見聞きした同地の日本人一同は、平素から圧え抑えていた遺恨が一時に激発してしまった。
日本人は皆一致して大挙支那人キャンプを襲い互いに乱闘してついに支那人3名を殺し二十余名の重軽傷者を出さしめ凱歌を上げた。
この日清小戦争に首謀者とみられて逮捕されしは・・・。」
東洋人同士の事件である、白人で構成された裁判は公正慎重にこれを裁いた。
首謀者井原は死刑を宣告されたが14年ほどで出獄した。
現在では日系、中国系ともにハワイ州社会にはなくてはならない存在である。確保した位置には違いはあるがお互いに現地に根を下ろし、その根はハワイ諸島をゆるぎなく支えている。日系移民、チャイナ系移民、どちらも勝者といえよう。
オアフ島のノースショワは貿易風が山脈に当たり、それが豊かな雨と森林をもたらす。山を越えた風が吹き抜けるホノルル側とは異なった気象になる。
ハワイは熱帯植物や蘭の栽培に適していて、その種類は実に多様だ。
ハワイ海の湾の最奥部にNii
Nursery
という農園があってよく訪れる。Niiと言う語感とペイのときだけ出てくる婦人の顔からなんとなくチャイナ系と思っていた。
その隣の、主にハイビスカスを扱っている農園に行ったとき、受付のベンチに座った穏やかそうなご婦人から日本語で声をかけられた。二人の女の子と犬がそばにいた。
聞けば隣のNii
Nurseryとは親戚で日系移民だという。
元の名は「新井」さんで、新=にい=Niiと改名したと笑って話してくれた。
Nii
Nurseryの向かいがアフリカンインパチェンスを改良・販売している園芸店だが、そこの経営者は中国系だ。中国系は土地持ちだ。ハワイで彼らが一番不動産を持っているという。
日本人の経営する日本食レストランも、店は彼らが家主という事が多い。
中国系は商売人が多いようだ。一方日系は政治家、公務員、警察、教師など、公的な職業が目立つ。しかし、それはあくまでも割合の問題で、わたしが関わりあった2人の弁護士はチャイナ系だし、不動産屋は日系だった。両系統の移民は、民族問題でいがみ合うことがなく、この狭いハワイで共存している。
(ただ、強力なチャイニーズマフィアはいるが、日本やくざはいない。この辺は後れを取ったようだ。)
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日清戦争 in Hawaii 1
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/18 11:01 投稿番号: [12 / 402]
ハワイ耕作移民の嚆矢は清国人だったが、彼らの金品に向ける情熱は日本人のそれをはるかに凌ぐ。確かにどこの世界でも、金持ちー貧乏では社会的な地位にある種の階層がつくのは世の習いである。しかし、現在でも多くの地域で、貧しくても深い学識がある人や自己奉仕を厭わない人、又は人格が優れているというだけでも人々に尊敬される社会風潮が存在する。それがなければなんとつまらない世の中か。
シナ人は、その砂を噛むような社会に数千年も生き抜いてきた。
シナ社会では上から下まで「お金
お金」で、貧乏人は侮蔑嘲笑の対象でしかない。
日清戦争時、すでに「官約移民」から10年を経ていた。日本人移民は23000人に達していて、「輸入制限」を受けていたシナ人とほぼ同等の数になっていた。しかし彼らは先住の先輩であり、なにより民族意識として他の東洋人の上位に位置すると勝手に決めている人たちだ、日本人移民をまるで自分の配下のような接し方だった。
そんな彼らにとって驚天動地の出来事が起こった。
「1894−5年にかけて行われた日清戦争における「日本大勝利」は、ハワイ社会での日本人と中国人の立場と発言力を逆転させた。
それまでの日本人労働者は、先輩格を中国人に占められ、同じ東洋系といってもふだんからとかく軽蔑と圧迫を受けて、たとえば家庭奉公においても、中国人の、更に下位に居る者としての扱いを受けた。
そんな背景もあったからか、日清両国が開戦になると、ハワイの「日本人」は、兵役法に従って勇んで帰国し、参戦した者も大勢いた。」
一報は、緒戦に東郷平八郎率いる軍艦浪速、吉野、秋津が、7月25日、朝鮮豊島沖で清国軍艦広乙、済遠を撃破し、操江を鹵獲、ついでに清国兵1100人を移送中の英国汽船をも撃沈した。
この報がサトウキビ畑にもたらされたとき、日本人移民は作業を放りだし、地を蹴ってバンザイを絶叫したという。
その後も、
「ハワイの日本人は日本軍の身体に一喜一憂して仕事も手につかず、毎日刻々と伝えられる情報や着船のもたらす戦況報告を待つ焦りに骨身を削る思いをした。」
同29日日本軍は、すでに4000の兵で朝鮮半島に上陸、戦端を待っていた成歓・牙山城の清国軍を猛撃、わずか5時間で制圧した。日本兵死傷者82名だったのに比べ清国兵の死傷者は500名を越え、残りは武器を捨てて平城に敗走するという日本軍の一方的な勝利だった。
さらに「朗報」は届く。清国軍は半島の最後のボーダーとして8月平城に12000の兵を終結させる。9月15日、先端は開かれ午後5時に清国軍が白旗を掲げる。
翌日の開城を約したが、清国軍は夜陰にまぎれて逃走してしまう。軍約違反である。
さらに黄海開戦において、清国軍の定遠以下十数隻を撃破、威海衛に閉じ込める。
続いて鴨緑江を渡り要塞旅順を目指す。旅順攻略開始は11月21日、清国軍の士気は低くわずか1日で陥落する。
このときの日本軍の死者40名に対して清国軍の死者は4500、捕虜600という世界戦史上未曾有の瞬殺となった。
最後の戦いは明けて1995年2月、威海衛に閉じこもった清国艦隊への殲滅戦になる。これで清国軍は戦意を喪失し下関条約へと物事は進む。
このときの逸話として、「丁汝昌提督は将兵の助命を日本側に懇願して自決をする。伊東司令長官は、鹵獲艦船の中から商船康済号を外し、丁汝昌提督の亡骸を最大の礼遇を以て扱い、丁汝昌提督の最期の希望を聞き届け、清国兵を助命する。このことは、通常例を見ない厚遇であった。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレイ精神の例として日露戦争の上村彦之丞提督とともに、各国海軍の教本に掲載されていると云う。」(ウィキ)
その一方、日本軍の民間人に対する「旅順大虐殺」も世界に報じられるが、私はこの件について詳細を知らない。識者の教えを乞う。
とまれ、これらの報がハワイに届く度に日本人のボルテージは上がる一方。
「そのような状況だから、対中国人関係がうまくいくはずがなく、各所で感情の対立、もつれあいから口論と小ぜり合い絶えなかった。
そして「日本勝」の報に接すると、在留邦人の狂気は頂点に達した。」
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移民キャンプでは
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/17 02:46 投稿番号: [11 / 402]
キャンプの風呂は野外にあった。どこにもしっかり者がいるようで、そのうち混浴の大浴場を造り大当たりをとったという。
「耕地における日本人移民の食事は、例えばシナ人のそれと比べると、はるかに見劣りした。貯蓄と錦衣帰郷を夢見て楽しみを一切放棄した者が多かったのだ。米飯に手作りの漬物で3年を耐えた者もいる。」(暑いので漬物はすぐできる)
「夕食をとり、就寝まで講談本を読んだり、仲間と語らったり、花札などをしてすごした。ハワイの夜は快適である。常に貿易風が山から吹いていて湿度がないので実にさわやかだ。キビの葉末をさやさやと微風が鳴らし、誰かが奏でるウクレレの音が、そぞろ郷愁を誘った。」
しかし、つつましい人たちばかりではない。男女比は5人対一人であったのでキャンプ内は性的に乱れ、例えば女房の売買が行われた。馬やミシンと取り替えた例もあったという。
土曜日は深夜までドンちゃん騒ぎの酒盛りをし、賭博も開帳された。
給料日の後の土曜日はホノルルから本職の博徒や売笑婦もやってきた。
本職の博徒の親分には「元年者」の何人かの名が見える。
やくざ組織は4−5団体を数え、その中の代表的な組織「日の出クラブ」は子分150名を擁し、おどろいたことに石版刷りの週間新聞まで発行した。「とにかくオソマツなものだが、やくざが発行した世にもまれな代物であることは間違いない。」
さて、ハワイ人の日本人移民への好意に反して、ハワイ政治に深く関わっていたアメリカ人はそうではなかった。
かれらは王国政府に迫り議会を通さずに勅令憲法を発布する。旧憲法で保障されている、各国移民に一定の条件で付与されていた公民権、参政権、国会議員の選挙・被選挙権を、欧州白人以外事実上廃止にしたのだ。
渡航条約が締結されてから10ヶ月でこの仕打ちである。
耕地においての白人農場主は温情のかけらもなく、彼らと雇用者の関係はアメリカ本土の白人が黒人に対するものに近かかった。最下層は日本人、シナ人、一部のポルトガル人であったが、最下層同士が連携するということもなかった。
日本人移民の「各耕地で反抗と闘争が起こり移民住民局や総領事館に問題が持ち込まれた。明治政府は移民を一時中止し日本より特使を派遣する。その結果両国間に移民渡航条約が締結され、日本人労働者は、ハワイ国法律の適用により保護されることになった。」
「この年、官約移民の一人がハワイ人の牛使いに鞭打たれ重傷を負った。しかしその牛使いは罰せられることがなかったので他の日本人は一斉ストライキに入った。そのため参加したものは一人5ドルの罰金と裁判費1ドルを科された。」
「同耕地では病気になって休業すると牢獄に投じられ、裁判の結果は必ず敗訴で、やはり同額の罰金と裁判費が科せられた。」
「またハワイ島で89年大ストライキを起こす。その理由は労務時間が他所と比べてあまりにも長いので同条件にせよというものだ。双方譲らなかったが日本領事がオアフ島から出張するに及んで、耕主が折れてストは終結した。」
同じ年、「官約移民」の後藤某が身体をぐるぐる巻きに縄で縛られ、電柱に首吊り状態で発見された。当局は犯人探しにやる気を見せず、解決は長引いた。
ハワイ移民住局の顧問桂木は白人検事の協力を得てついに犯人を逮捕する。
5人の白人の共犯で、英語ができる後藤が日本人移民の代表者として耕主側に粘り強く食いつくので報復されたのである。
5人はそれぞれ長期の有期刑を宣告されるが、すぐに全員脱獄?し米本土に逃れた。
その桂木も耕主に蛇蝎のごとく嫌われていた。弁護仕上がりを自称する桂木は弁がたち、大小をたばさみ、国士気取りで強気の代弁をしていたのだ。一度など袋叩きにあい納屋に監禁されたこともあった。
「各耕主は連署して桂の処分方を移住民局長中山に申し出た。だが、中山は、桂を処分するどころか、逆に局の顧問格にしてしまった。」
日本の官憲、なかなかやるではないか。今の外務省とはえらい違いだ。
移民たちは非道な白人達の振る舞いに官民一丸となって立ち向かった。しかし、ここは異国であり、その支配者の米人は極めてダーティである。
ソルトレイク冬季五輪とWBCのインチキぶりには口をあんぐりとさせられたものだが、暗然とさせるのが、そのインチキを抵抗なく米国民が許容するということだ。
アメリカ人はフェアプレイをまるで彼らに身についた良心みたいに言うが、失笑せざるを得ない。まったく口は便利なものだ。彼らの口はひょっとこみたいに捩れているのだろうか。
亀田VSランダエタ戦の結果に見せた日本人の反応こそ、真のフェアプレイ精神といえるものだ。
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「官約移民」
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/16 09:34 投稿番号: [10 / 402]
ハワイ耕地に「元年者」が赴いてから満期になるまでの3年間、わずか3年間であるが現地労働者の境遇は劇的に変わりつつあった。たかだか150人の「元年者」は静かであった古池に大きな石を投げ込んだのである。
シナ人「輸入」(白人側はこう表現した)から20年、その数は2万人を越えていたが、ついに彼らはさざ波ひとつ立てられなかった。その差はどこにあった?
ひとえに国家の「存在」だろう。
清末期、シナ大陸にイ集した列強は清王朝の全身に齧りつき生血を啜っていた。彼らの世界制覇の痕跡を見よ。インカ、アステカは滅ぼされ、インド、イラン、エジプトなど、冠たる文化を花開かせた文明国が辿った奴隷化の軌跡に、シナ帝国もしっかり乗っていたのだ。
今日中国は往時の怨みを日本にぶつけているが西欧にはなにも言わない。お門違いもはなはだしい。
ともあれ、眠れる獅子ではないとバレバレになったシナに、自国移民救出にエネジーを使う気概はなかったろうし、そもそも移民自体も、故国政府が自分達のために何かしてくれるとは思いもしなかったろう。シナ国家と国民の関係はまことに酷薄である。
翻って、ここに見る日本政府と臣民の間は悩ましいほどに濃密である。
怪人リードがハワイ総領事の肩書きを得て幕府はしぶしぶの移民許可を出したが、その後を継いだ新政府は許可しなかった。臣民に不利益なことありや、慮ったのである。「元年者」は密出国者である。
グアム移民ケースでは、残酷な白人農園主から迅速に臣民を救出したし、密出国者の「元年者」は新政府に、“俺達を放って置くのか”と文句を言う。それに新政府は応えて特使を派遣、「略奪された臣民を取り返しに」来たと、言わしめる。この相互信頼の基礎は何なのであろう。
今日、北朝鮮拉致事件をめぐっての、怪しげであやふやな日本の政治家の対応を聴くにつけ、国家とは何なのか、国家と国民の間柄はどうあるべきものなのか、答えを探っても漠然として纏めることができない。
でも、その答えのひとつが日清戦争勃発時に見られないだろうか。あの時日本移民の少なくない数が参戦のため帰国したのである。
1885年、ハワイ王国の強い要望で「労働条約」が結ばれることになり、リードの移民から17年目にして初の日本政府「官約移民」が始った。
「元年者」問題が片付いてからハワイ王国は数カ国から労働者の「輸入」を試みた。が、すべて失敗に帰していた。そんな事情であれほど手を焼いた日本人ではあるが、
滅私奉公的働き振りが再評価されたのだろう、破格な条件を提示してきた。
当時の日本は西南の役の直後で、軍事景気による紙幣乱発とその後のデフレでどん底の経済状態だった。おまけに凶作が重なり農家においても疲弊貧窮その極みに達していた。
移民の条件は住居、医薬品、薪炭を与えられ給料食費で男子15ドル、というのは日本における農耕賃金の90倍にも達するものだった。
こんな倍率は日中国交回復時の日中経済格差を髣髴とさせる。
この移民は長州出身の井上馨の配慮で山口県と広島県からが多かった。移民合計945人、「元年者」の6倍以上である。
そして夫婦者で渡航した者が1年後に130円送ってきた。この村の農夫の日給が11銭、月30日働いても3円30銭だ。殺人的な差である。
この「官約移民」はハワイで大歓迎を受ける。カラカウア王自ら移民収容所を訪れハワイ娘のフラダンスを披露したほどだ。
「地元のハワイ人も白人も非常に好意的で、「アローハ!」と白い歯で笑いかけ、移民達の中には彼らから帽子や洋服をもらう者もあった。
移民の中に「東京組」と名乗る一団があり、「外国人に媚を売って金品をもらう輩がいるが、これは国辱であり、日本人の恥だ」として「外国人には決してぺこぺこしないよう」と諭した。」
この意見は極端だとしても、明治時代の日本臣民の矜持をうかがい知ることができる。
休養の後「官約移民」たちは耕作地に向かった。
参考本に16ページ、30数枚の写真が巻頭に載っている。その中のハワイ島ヒロの移民住居地を高所から撮ったものがある。それを見ると緩やかな斜面の中央に大きくカーブした道が通り、その曲がりに沿った両側に30戸ほどの家々が見える。白く輝く屋根々はサトウキビの葉で葺かれている。手前の大き目の家3件はどうやら家庭菜園を営んでいるようだ。菜園の上をV字に渡した長い物干し竿が見え、幾枚かの洗濯物が干してある。彼らの生活の息吹が感じられる。
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Re: 美しい国日本
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/15 12:11 投稿番号: [9 / 402]
ここで史実として正確を期してみよう。
怪人ヴァン・リードが企画した「元年者」ハワイ移民は、実は日本初の海外移民でも明治元年者でもなかった。
慶応―明治の改元は旧暦9月に交付されたのであって、元年者がハワイに旅立った4月には改元に着手してもいなかった。したがって正確に言えば彼らは「慶応四年者」であろう。
余談だが、その頃江戸っ子は「上から明治というけれど、下から読んだら治まる明」と田舎者の新政府をからかっていた。
また、「元年者」出帆の15日前、神奈川奉行扱いで怪人リードは42名の日本人移民労働者を3年契約でグアムに送り出していたのである。
後日談になるが、契約の3年が過ぎた頃、外国船が小舟で漂流する4人の日本人を救助した。
グアムから逃げ出してきた彼らは、新政府に奴隷以下の酷使虐待振りを報告したので大騒ぎになった。事実13人が死亡していた。新政府にとってあずかり知らぬ移民であったが、直ちに交渉を開始、13名の遺骨と25人の残留者を帰国せしめた。
結局グアム移民は一人の定住者も生まず完全な失敗に終わった。ハワイとは好対象を為したのだ。
史実上「明治元年者」は「元年者」でも「日本初の海外移民」でもなかった。
さて、ハワイの元年者は明治新政府に、ハワイでの窮状をなんとかしてくれと甘えに甘える。
文字が書ける移民の代表者牧野富三郎は、リードによる契約違反と奴隷労働を綿々と訴えた嘆願書を4通も出している。最後の書には「多忙の中申し訳ないが、1年を過ぎても一片のご沙汰もない。洋上の孤島で呻吟しているのに、今までの嘆願書は届かなかったのであろうか」と政府の無為無策を詰ってまでいる。
元年者ハワイ上陸より約1年半後、明治新政府は上野監督正敬介影範に髄員を一名付けてハワイに送った。
後に初代横浜税関長になる当時25歳のエリートであるが、上陸時の上野の井出たちはといえば、羽織袴に草鞋履き、大小をたばさみ、扇子を片手に持ち頭にはまだちょん髷が乗っかっていた、とある。ハワイ人が目にしたラスト侍であろうか。
日本政府の申し入れは「日本政府不許可の国民を“奪取”されたのだから取り戻す」というものだった。
上野は、即時帰還希望者は即時、3年の満期を終えたときには全員をハワイ政府の費用で送り返すよう主張した。さらに残留者に対する常軌を逸した酷使や鞭打ちを禁止させ給料も若干上げさせた。
ハワイ側はこんな厄介者の元年者でも、「王国に禍根を残す」と恐れられたシナ人よりはましと考えたか、希望者はハワイに残留させるよう強く要求した。
紆余曲折はあったが上陸数ヵ月を経て、上野特使は条件を飲むことになる。これで晴れて「元年者」は公認移民となり、「違法渡航者」の立場から解放された。
しかし、これほど大騒ぎを繰り広げたのに関わらず、不満分子の即時帰国は43名に留まった。残りの100余名はとりあえず満期まで勤めて、そのときに考えると動向を保留した。
その後労働条件は徐々に改善し争議は起きなくなったというから、元年者が起こした争議は一応の成功を見たといっていいだろう。それどころか、1984年の正式な官斡旋移民時には、破格な条件をハワイ側から提示されるまでになった。
やがて「元年者」の満期がやってきた。ハワイに残ろか米本土で新天地を切り開くか、それとも故国に帰ろうか、まさに「行こかメリケン
戻ろかジャパン」、即時帰国をしなかった100余名は悩みに悩むことになる。
結局、新たに帰国したのは100余名のうちわずか12人しかいなかった。
また、契約の3年間で7人が死亡し3人が生まれていた。
「世話人の牧野富三郎は最後まで忠実に役目を遂行した。すなわち満期終了の数ヶ月前から各人の要望を聞き、ハワイに残る者の再就職、小売業への転進、本土に渡る者は日本政府よりパスポートを発行させるなど、献身的に対処した。
残留希望者の約半数が米本土移住希望者だった。彼らは主にカルフォルニアに向かったが少数はメキシコ、南米に行った。
牧野は帰国希望者を日本に送り出し、移民配置の各種統計と報告書を日本・ハワイ両政府に提出してすべての責務を終了した。彼は10月、単身サンフランシスコに向かう。
しかし、その後の牧野の消息はわからない。帰国したという話もあるがその痕跡はない。わずかに、サンフランシスコのダウンタウンで代書人をしているのを見た、という伝聞が残るのみである。」
「
」はほぼ参考本記載のまま。
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サトウキビ畑の元年者
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/14 11:38 投稿番号: [8 / 402]
2週間の休養が終わった「元年者」はオワフ、マウイ、カウアイ、ラナイの諸島に配属される。
実はハワイ王国の移民に対する要望、いや切望といっても良いかも知れないが、それは定住、同化である。
1778年キャプテンクックがハワイ諸島を「発見」したとき現地人口は30万人くらいと推定されている。それが約百年後の1872年の調査で57,000人と恐ろしいほど減っている。言うまでもない、白人が身に持つ毒素、疫病にやられたのだ。
一方、1835年に始まった砂糖黍栽培はハワイ王国の主要産業に育っていった。
単純労働をローカルにやらせてもどうにも効率が悪い。もともと暖かい地域に住む人は温厚でのんびり長生きする。凍え死ぬことも、野生の果樹が豊富なので餓えることもないからだろう。
地球上の南北経済格差問題も、このDNAと無縁ではないと思う。
(宮崎産の1個1万円もする恐ろしいマンゴーがあるというが、ハワイでは家の庭でよく見られる。10メートルほどの大木に実が数百個もつける。高木なので採取もままならず熟して落果するにまかすが、それらが無数に地面に激突、砕け散り果肉を散らし、周り一体を異様な臭気が立ち込める。ハワイではあまり人気のない果物だ。)
まずハワイ王国は1851年からシナ人の「輸入を」始める。
彼らは「性従順にして低廉」と歓迎され、「元年者」が上陸したころは2万人にもなっていた。
しかし年を重ねるごとに雇い主側に不満が鬱積してくる。
「シナ人労働者は、頑迷固陋にして、風俗習慣などもすこぶる排他的なため、将来のハワイ発展のために、禍根を残す。」とまで嫌われ、「元年者」到着の1868年にはシナ人の入国を制限するようになっていた。
「風俗習慣などすこぶる排他的なため・・」とは、日本人もそう評価されているし、別に気にすることでもないが、その結果「ハワイ発展のために禍根を残す」とは聞き捨てならないものがある。
実は7代カラカウア王が執筆した「ハワイ神話と伝説」に、日本船らしき異形船が古来何度も漂着し、ハワイの「色の黒くない種族の祖先になった」と言い伝えられている、と書かれている。
「色の黒くない種族」ならシナ人も同じで、混血同化してハワイ種族になって欲しいと王国も願っていたはず。
参考本には、嫌われる他の理由は何も書かれていないが、私は一重にシナ人の人種的偏見が原因だと思う。
例えば中国人(韓国人も)の黒人差別には驚くべきものがある。実際の黒人を見たこともなくたってかまわない、「黒人」と聞くだけで、蛮族として最下位に置かれ顔をしかめる軽蔑の対象となる。
さすが中華思想、ご立派!と誉めたくなるくらい、白人に対するを除き彼らは傲慢なのである。
そんなわけでハワイ王国の日本人移民に対する期待は大きかった。但し、ハワイ人との混血はやはり進まなかったが。
さて、オアフに残った36人を追ってみると、彼らは親日の英国人が経営する耕地に向かわされる。そこには20人の地元民と50人のシナ人が従事していた。
期待された日本人だが、いざ仕事をやらしてみると彼らはさっぱり働かない。仲間内で固まってしゃべってばかりいる。いくら注意しても改まらないのでシナ人と混合させたが効果なし。
それもそのはずである、彼らは農作業のプロではない。田舎で身をもてあまし都会に出てきたが、その日暮らしのあぶれ稼業、そんなときのハワイ行き募集で、じゃあ、ちょっくら行ってみるか、てな軽い感じで来たのだったし、故国に送金しなきゃならない切実な理由もない。
結局、地味も悪かったこともあって、その耕地は1年半で廃畑となり「元年者」はマウイ島に転属となる。
そこには他に15人の「元年者」が配属されていて合計51人になった。多数派はやはりシナ人で、労働者の合計は300人という諸島有数の大耕地だ。
元年者が配属された各耕地で耕地主とのトラブルが頻発するようになっていた。
不満は雇用主側も同じで、新移民のやる気のなさ、反抗、それに伴う秩序の崩壊など、双方の申し立てがハワイ移住民局に殺到した。
元年者にすれば、鞭に追われて1日10時間、30分の昼休憩だけで炎天下での作業は過酷だ。おまけに食事は粗末で食料を補足しなければ体力が持たない、その出費がかかって貯金などできない。
また、耕地主にすれば、シナ人、ハワイ人を使っているときになかった労働争議が頻発し、迷惑この上ない。
「この混乱と鬱憤に乗じて博徒風情の不良分子が扇動的態度をとったので、混乱はいっそう増し、拡大した。」
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航海
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/13 12:12 投稿番号: [7 / 402]
ハワイは貿易風がさわやかに島を吹き過ぎ、風通しのいい造りの家々はエアコンなど必要ない。暑いなー、と思っても日陰に入ると一息つけるのである。私もタイ、エジプト、ユカタン半島など、暑さの名所?を旅したことがあるが、それらの地の、上から叩きつけられるような熱波の威圧感はハワイにはない。楽園とされる所以だ。
1968年(明治元年)5月17日(新暦)、帆を張り上げ、碇を巻いた英国籍帆船サイオト号は横浜を午後2時ごろ出港した。
しかし房総沖で黒潮に乗った翌日、船は春の季節風に襲われる。
「強風は3本マストを折れんばかりにし、荒れ狂う怒涛は舷側を噛み、甲板を滝のように洗う。みな生きた心地もなく、唸る声、念仏を唱える声がゴッタに船室に充満した。」
という大変な時化だったらしい。
このとき体調を崩した和吉は回復することなく出帆から20日目に死亡、33才だった。亡骸は帆布に包んで水葬に付された。
一ヶ月余の航海を、移民の一人が簡単な航海日誌にして残している。抜粋してみよう。
閏四月六日
十時ごろより雨降る。大風に相成り又々心配仕し候。長吉,厳禁の煙草を飲み、手錠嵌められ候。
閏四月八日
朝は天気。西南風殊の外寒し。武助、虎吉を召捕り、手錠を嵌められ候。
閏四月十四日
天気。夕の四時頃より船側にあしか沢山に出で候。
閏四月十七日
浜猫という鳥五匹ばかり捕り申候とも相捨て候。
閏四月二十二日
朝は東風、夕方より南風に相成り候。東の方より蒸気船相見え候。
それまでは島山なるもの一切相見えず。
閏四月二十四日
今以て島のようなものは相見えず。長途の航海にて一同の倦怠思うべし。
移民の大半はいわゆる遊び人である。退屈を紛らわすため必然的に花札・丁半博打が盛んになり夜を徹して耽ったりした。また火災を恐れて禁煙は厳禁だったが、破って3人が手錠をかけられている。品行方正とは言いがたい人方ではある。
「また或る日移民の一人がシナ人コックといさかいを起こし熱湯をかけられるという事件が起こった。だまっていては日本人の恥だと、博打組を中心にコック部屋に押しかけた。」
シナ人もアイヤーっと、まな板ほどの中華包丁を構えて立ち向かう。あわや血の雨が降ろうかというとき元締めの富三郎が仲介に入り事なきを得た。
煮え湯をかけたり菜切り包丁を持ち出したり、どうにもシナ人は乱暴だ。
当時のシナはアヘン戦争でプライドを粉砕されたあげくに、西欧人による被支配は既に定着していた。
開国後上海を訪れた明治政府の高官は、白人に奴隷扱いを受け、また、路上で白人に殴打されるシナ人を幾度も目撃、列強の脅威をひしひし感じ国防の意を硬くしたという。
しかし、相手が弱いと計ったらとことん強くなるのはシナ人の変わらぬ特性である。
とまれ、シナ人との確執は日清戦争勃発をハワイで聞いたとき流血を見ることになる。この件は後ほど記す。
閏四月二十五日
西南風烈しく船は南に行く。永々の海上生活、追々病人出づ。
閏四月二十七日
船中段々病人出来候へば大掃除あり。
初の航海は元年者にとって辛いものだった。しかし、ついに、
閏五月一日(陽暦6月19日)この日よりハワイ国ホノルル沖に到着致し候。
ホノルル国王より塩一樽贈られ候。船は桟橋の横に着し安心致し候。
閏五月二日
天気。船の儀は波止場へ小舟にて引き舟相成り候。早速上陸見物いたし候。
34日間の過酷な航海を経て「元年者」は終にハワイの地を踏んだのである。
一人は航海中に死亡したが、妊婦の一人が船中で出産しており、人数的には出発時と到着時で同じだった。
彼らは2週間の休養をもらい、その間自由な上陸を許される。
出で立ちといえば、男は船出前に支給されたそろいの印半纏に股引、船中で髷を落としたので散切り頭である。女は胸もあらわに単を帯でぐるぐる巻き髪は束ねているだけ、
「白人はもとよりハワイ人、中国人から見ても異様に映った。でも地元民はみんな親切でバナナやパパイアなどをもらったものも少なくない。調子付いた者は妙な手振りで疎通を図り相手と友達になるものもいた。」
地元紙は、
「・・彼ら日本人は、一見するに人が好さそうで、元気旺盛のようである。
これら日本帝国の人民達は外国に行ったことがないらしく、物珍しそうに市内を歩き回っていた。彼らは非常に丁寧な人種で、我々の“アロハ”の言葉をすぐおぼえ、“アロハ,アロハ”とすぐ挨拶した。
彼ら日本人は一般に好印象を与え、ハワイ人からも白人からも好意を以って迎え入れられている。現在の観察では優良なる労働者であることが想像できる。」
と「元年者」の印象を伝えた。
しかしこの元気の良い「元年者」は一筋縄ではいかなかった。
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怪人 ヴァン・リードというオランダ人
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/12 12:10 投稿番号: [6 / 402]
「元年者」渡航のプロジューサーはアメリカ国籍を持つオランダ人ヴァン・リードだ。
この漢はとんでもない奴で、後にわが国の総理大臣になる高橋是清をアメリカに連れて行き、奴隷として赤の他人に売ってしまうということをやってのけたのだ。
リードの新聞広告「アメリカへ学問修行交易又は見物遊歴に、渡海被成度ものは随分お世話可申候」にさっそく応募した当時13才の是清は、サンフランシスコのリードの邸宅で3年契約の家僕として働く傍ら勉学に勤しんだ。しかし、そのうちリードは是清を騙して奴隷契約にサインさせ、他人に同じ3年契約で売ってしまったのだ。
リードは1859年に来日し武器貿易や銀相場で瞬く間に巨利を成した人物である。米本土、ハワイ、横浜に邸宅を持ち、徳川幕府に金を貸すほどの大金持ちであった。
この本(行こかメリケン、戻ろかジャパン)では、「ヴァン・リードが高橋を「転売」したのは、高橋から受け取ったアメリカ行きの船賃を着服してしまい、後にその船賃立替を口実として年季奉に売ろうとしたものである。」とだけしか書いていない。
どうもよく分からない文章である。
ともかく稀代の大金持ちが前途有望な外国青年を奴隷労働に売り払ってしまうなど、なんとも理解しがたいものがある。
オランダ人というのは今に至るも極端に性格が悪いが、ユダヤ人の国でもあるし、独特な金銭感覚、日本では強欲というが、そんなセオリーが染み付いた漢だったのであろうか。
彼は横浜山下町に船員相手の売春宿を作ったり、異人館通りの女郎の鑑札を作らしたりと怪しい振る舞いが多いが、一方伊藤博文、大隈重信の明治新政府が京浜鉄道施設資金の融資を、高島嘉右衛門を仲介に頼んだりする大物でもあった。(この融資話は断られている)
「巨体、鉤鼻にくぼんだ青い目で赤毛、しょっちゅう緋ラシャの陣羽織に唐桟のアワセを身にまとい、朱羅宇のキセルで、刻みタバコをプープカ吹かして、・・」
「亜米利加人ウィンリウと申すは商人なり、日本の身振り音色にて交わり至て通人なり」などと記されている。
まさに怪人であろう。
とまれ、牧童や果樹労働などの辛酸を舐めさせられた是清は、旧縁のある亡命仙台藩士の元に逃げ込み、翌年やっと帰国を果たすことができた。まったくフー(嘆息)である。
この漢が企てた初のハワイ移民は紆余曲折を経ることになる。彼が渡航許可を粘り強い交渉の上獲得したのは徳川幕府からであったが、その幕府が出航直前に崩壊してしまったのである。
新政府は、“リードは奴隷として日本人渡航者を売り払うつもりだ“との風評を聞き及んでいて移民許可を出さなかった。
既に公募審査を終えた約150人の日本人移民希望者は6日前から船への乗り込みを開始し、ひたすら出帆を待っていたが、船は動き出さない。
1週間近くも軟禁状態にあった移民者達が騒ぎ出し騒然としてきた。
リードは“国際慣例を無視するものだ”と新政府に猛烈に抗議していたがまったく相手にされない。業を煮やしたリードは無許可のまま出航を強行する。
ともあれ、漸くにして「元年者」は大いなる夢を抱いて異国の地へと旅立ったのである。
実は、18年後から始まる明治新政府の官斡旋移民の対象は貧農村の若者が対象だったが、リードの場合は横浜で一般に人を対称に移民募集を行ったもので、応募してきたものは町人が大半だった。職歴を記してみると江戸時代の職掌が知れて面白い。
左官・瀬戸物焼き・料理人・植木屋・青物渡世・生糸師・煙草切り・桶屋・絵師・紺屋・髪結・仕立屋・魚屋・鍛冶屋・こんにゃく焼き・酒造り職・印刷師・櫛挽き・なめし師・棒屋・箔屋・木挽き、等である。
彼らのほとんどは地方から横浜に出てきた自由人、ある意味遊び人的な階層で、事実彼らのうち数人は地元で「やくざ組織」を作り上げる。
6人の女性はいずれも人妻で、「単衣にぐるぐる巻きの帯をしめ、髪は無造作にたばねていた」とある。
単身赴任者は定めし女不足であっただろう。
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明治元年者
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/11 15:30 投稿番号: [5 / 402]
時代の状況に応じて価値観というものは変化するものであろう。
江戸時代と、開国・終戦・現代と続いた激動後とでは、大いに変わっていて当然といえる。
しかし、そこに他国の独善的な思惑から押し付けられ価値観あるならば格段の注意が必要だ。
我々は日本の現・近代史を学校教育で詳しく学ぶことができず、ひたすら東京裁判史観に沿った価値観の保持を求められてきた。その東京裁判史観とは、敵であったアメリカや中国などの連合国が自国の利益のため編み出した噴飯ものの価値観である。
それに対する反発は確かに今日本社会に広がっていて、掲示板で活発に議論が交されている。歴史を確認することは良いことだ。
しかし、戦争を実体験とした人たちはまもなく全員がこの世から去ってしまう。日本人が連合国に押し付けられる以前に持っていた日本人の価値観も記憶の彼方に遠ざかるばかりであろう。
ハワイで生活し始めた頃日系ガーデナーがボロボロの文庫本を一冊持ってきて購読を勧めてくれた。
牛島秀彦著「行こかメリケン
戻ろか
ジャパン
ハワイ移民の100年」講談社文庫だが既に廃刊になっていた。
タイトルで分かるように一般読者層向けで読みやすく、一般人の私にも読めたW
それほど多くないが、種々の日本人移民のエピソードを現地新聞や図書館の資料などからまとめている。
「ハワイ移民の100年」とサブタイトルにあるが、登場する日本人は明治元年から大東亜戦争終結までの約80年間に限られる。
この80年は、まさに日本史に刻み込まれたエポックであった。
エポックの初っ端、明治元年、嚆矢である日本人のハワイ移民が始まった。
その後続々と続く日本人移民の構成は、喰うにも事欠いていた貧しい農民が主体だった。支配者とはかなり距離が離れた社会層だが、鎖国以来トンとなじみの薄い外国に、それも日本から遥かに遠い南洋の地へ、彼らは故国の何を引きずりながら渡ったのだろう。
後に「元年者」といわれるといわれる日本人の3年契約労働者150人は、800トンの英国帆船に身を委ね1968年新暦の5月ハワイに向け旅立った。
先に渡っていた清国人の下に置かれた日系人は、奴隷労働に従事しながら、外国生活のさまざまな確執を克服して現在のゆるぎない地位を築いた。でもその躍動感と悲哀にあふれた歴史を知る人は少ない。
ピンクパレスの異名を持つワイキキのロイヤルハワイアンホテルは日本人旅行客にも人気だが、78年前の或る日、そのホテルの近くの藪の中からアメリカ人の幼児の他殺体が発見された。遺体の胸の上に、小枝を紐で結んで十字架に模したものが丁寧に置かれていた。
この事件の背景に日系移民のリアルな存在があったが、我々はその深層を知ることはない。
カラカウア通りの山側に、通りと平行してアラワイ運河が流れていてる。その畔にあった日本人経営のダンスホールに、米軍将校の夫とともに遊びに来ていた若妻が、日本人を含む5人のローカルに強姦されたという奇怪な「アラモアナ事件」が発生した。
その顛末は、支配者である白人のエゴを噴出した醜悪な結果に終わったが、日系移民が関わったこれらの想像するしかない「遺跡」に佇めば、また違った感慨が身の内に訪れてくるだろう。
ともあれ、自分がトピ主になるという幸運に恵まれたので、一つの願いであったこの文庫本に書かれた日系移民のエピソードを順次紹介したい。
彼らの生き様を通して、トピの主題である「美しい日本」を探ることができるかもしれない。
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Re: 真珠湾の東郷平八郎
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/10 18:30 投稿番号: [4 / 402]
北朝鮮による日本人拉致問題は一向に解決に向けて進んでいない。
今“残念ですが娘さんは亡くなりました”と無感動に有本さんに宣言した福田康夫が日本のトップだ。
その時国家の中枢にいた福田は、国家と国民の間柄をどのように捉えていたのであろうか。その訝しさは今も変わらず福田の身辺を覆っている。
我々は国家の一員として、もし徴兵されれば国家の敵と戦わなければならない。これは逃れられない、いや、逃れてはいけない義務であろう。
戦いは文字どおりの命がけで、地獄の責め苦を負うが如しという状況に陥ることも珍しくはない。
そのような責を国民一人一人に負わせることのできる国家という共同体に、逆に国民は何を求めているのだろう、いや、求めるべきなのだろう。
故牛島秀彦著
「ハワイ移民の100年」に興味深い記載がある。
カメハメハハワイ王朝が、アメリカ人主導のクーデターで崩壊したとき、日本政府は2万5千人の居留民保護を名目に軍艦2隻を派遣した。
後に清国艦隊とバルチック艦隊を殲滅して軍神とあがめられる、当時47歳の東郷平八郎大佐が戦艦浪速の艦長として赴いた。随艦は戦艦金剛。
東郷平八郎は入港するとすぐ全員を艦橋下に集め、「本艦がこのホノルル港に停泊する以上は、皇国の領土の一部が、ここに延長したと同様の意義を有するものである。従って、われわれの一挙一動は、直ちに帝国の品性にまで影響を及ぼすものであることを自覚し、いやしくも軽挙妄動のことあるべからざると同時に、いよいよ決行する場合に至っては、少しも躊躇することなく、断固として進むべきに進み、以って皇国武人の本領を十分発揮するよう切望する。」と訓辞を述べた。
このときハワイでは、“日本の戦艦が武力行使で王党を援助し仮政府転覆を企てている”という噂が流れ、地元ハワイ人は狂喜し群れをなして海岸に殺到した、とある。
不穏な空気の中、東郷平八郎と米国が後ろ盾のハワイ仮政府との緊迫したやり取りは考えさせられるものがあり、ぜひ紹介したいと思うが、今は別のエピソードを。
日本軍艦が真珠湾に停泊したその日のことである。スコールの中を一人の日本人が浪速に泳ぎ着き救助を請うた。
男の名は今田与作、移民農民であるが、就労中些細なことから同僚を殺害、21年の有期徒刑を宣告されていたのを脱獄したのだ。
今田は、はずみとはいえ人を殺した犯罪者である。しかも出生は日本の貧しい農村、帝国海軍に何らのコネがあるとは考えられないのだ。それでも外国の中に突如出現した「日本」に、泳ぎ着けさえすればなんとかなると考えた、・・甘えた、そこに当時の国家と国民の間にある心情を伺えないだろうか。
ともあれ、ハワイ仮政府の再々の引き渡し要求を、東郷艦長は「彼も等しく帝国臣民なり」として断固拒否した。
業を煮やした仮政府は「日本軍艦がなおも犯人引渡しを拒絶する場合は、停泊中のアメリカ艦隊に応援を頼み、武力を擁しても犯人を引き取ると通告した。
そして同様の要求はアメリカ艦隊からもあった。
東郷は一言「やむを得ず」と返答し、数分のうちに戦闘準備を整え金剛ともども港外に出る。そしてすべての艦砲を港と米艦に向け静かに待機した。
米艦隊としてはもとより殺人犯人引渡し外交交渉のつもりだったが、本気になって戦闘準備をなした日本軍艦の対応に驚愕し、直ちに要求を取り消してしまった。
しかし、これはやはり無茶であろう、ハワイ領事から連絡を受けた明治政府から「今田を退艦させ、問題の紛糾を避けるべし」との内訓が届いた。
東郷は今田を日本総領事に引き渡したがその際、「予は軍人の本分として、今は内訓に服従するの外なし。さりながら、彼犯人も予等と同じく日本臣民の一人ならずや。其の同胞が救助を求め来たりしを、おめおめ引き渡すは返す返すも心外なり。
定めし陸上には仮政府の獄吏等が諸手を拡げて待ち居るべし。予は彼を彼らに引き渡すにあらず、貴下等に渡すものなり。請う東郷の目の届かざる場所に於いて、貴下等の為さんと欲するところを為せ。」と申し渡したという。
ここに見る国家と国民の濃密な間柄は、国家命令で死地に赴くのを厭わない国民の義務・責任と合い混じった相互信頼が醸し出すものではないだろうか。
のび太面の福田のこのエピソードを聞かせても、“ふんふんそうですか”くらいの反応しかないだろうな。
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Re: 美しい国日本 真珠湾攻撃外伝 2
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/09 22:11 投稿番号: [3 / 402]
戦後、原田の妻梅乃が地元紙のインタビューに答えた記録が残っている。
「急報によって主人が駆けつけると、着陸の激突で、搭乗者は軽症を負い気絶していた。土民たちはまだ日本軍の真珠湾攻撃を夢にも思わなかったが、戦雲急を告げている日米の昨今、日本機が偵察に来たのだろうと察し、殺そうか捕虜にするかと騒いでいました。主人は大勢をなだめて手当てを加え、蘇生させた上家に連れ帰ろうとしましたが、群集は強硬に反対して妨害しました。」
その間群衆の一人ハウイラというハワイ人は原田のポケットから航空地図と戦術略語、それに航法諸元を奪っていた。元より機密というほどの書類ではなかったが・・。
とまれ、不時着ゼロ戦を囲む群衆はふくれあがり200人にもなっていた。彼らはまだ真珠湾攻撃を知らなかったが、機体の生々しい弾痕を見て騒ぎ出した。そのうち気付いた西開地飛行士にあれやこれや大声で詰問するが、カナカ語と英語のチャンポンなのでさっぱり通じない。逆に書類を奪われたことに気付いた日本人飛行士は、これまた血相を変えて群集を追及するがブロークンイングリッシュなのでこっちもチンプンカンプン。
原田はこのとき日本軍の真珠湾攻撃を知った。原田はなにも言わずにこの若き飛行士を自宅に連れ帰るが、群衆もついてきて家を取り囲みその数は300人にもなっていた。原田と西開地は監視の目を掠め書類を取り戻そうと裏口から脱出、ハウイラの家に急ぐ。そしてかれらはハウイラの妻が居るのにもかかわらず強引に家捜しを開始した。
二人の脱出に気付いた群集は今度はハウイラの家を取り囲み投石を始めた。もはやこれまで、家ごと書類を燃やしてしまおうと、二人はハウイラの家に火を放った。群集がひるんだ隙を捉えた二人は脱出し不時着したゼロ戦に急いだ。
原田の中に巣くっていた最も日本的な心情が、日本兵士特有のはりつめた責任感と悲壮感に合致したのだろうか、二人は、お互いの視線にうなづき合ってゼロ戦に油をかけ炎上させた。
このときすでに二人は暗黙裡に死への了解があったのだろう。追いついた群衆は二人を捕縛しようと迫る。二人は裏山に逃げ込んだ。元より長く身を隠す術もない孤島である。二人は、原田の拳銃で順に頭を打ち抜いて自決した。
翌日、通報を受けたFBIとMPがやってきて原田夫人を逮捕した。主人と一体のスパイ容疑である。
日本機がニイハウ島に不時着したのも予定の行動であって、放火したり拳銃自殺を遂げたのはその証拠とされた。
婦人は結局3年2ヶ月もの間刑務所に収監された。
この事件には不明なところが多い。夫人の口が重く多くを語らなかったからだ。
当時のアメリカの日系人に対する世評は、
「ジャパニーズは、しょせん異人種と同化できない。またアメリカ市民権を得ても、天皇の誕生日には日の丸の国旗を掲げて忠節を誓い、生活ではタクワンと味噌汁を離せない人種である。
平時でさせアメリカ人の生活基盤を乱す傾向のある彼らは、いったん有事の際には、どういう結果を招くか予測できない。
日本人は、全部を警戒し、監視する必要がある」という根強い、厳しい評価があった。
治外法権の島ニイハウでの事件に、軍の機密保持のためなら殺人、放火、自殺をもあえて断行することこそ、帝国軍人の面目とする日本の若者と、アメリカ市民として生きようとしていた日系二世の意識の裏にある「日本臣民」という自覚が織りなした、あまりにも痛ましい悲劇であった。
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Re: 美しい国日本 真珠湾攻撃外伝 1
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/09 22:09 投稿番号: [2 / 402]
「日中トピ」と「韓国カウントダウントピ」にも載せた、「真珠湾攻撃外伝」だけど、思いがけずにトピを作ってしまったので、何か投稿しなければならないと焦ってしまい、三度目だけど掲載させてもらう。
ご容赦。
一冊の文庫本がある。
著者は故牛島秀彦氏、早稲田を卒業後ハワイ大学東西文化センターに留学、更に、1973年からのハワイ生活のとき現地の文献を漁り同書を書き上げた。
「行こか
メリケン、戻ろかジャパン
ハワイ移民の100年」である。
明治元年から始まった日本人ハワイ移民の100年史であるが、さまざまなエピソードで成り立っている。
ただしここの載せるに、著者の趣旨を損ねないよう気をつけて若干削除、又は加筆することを許されたい。(著者の遺族と講談社の了解を得ている。また、ホノルルと日本国内の相当数の図書館に同書が置かれている)
ワイキキのあるオワフ島の西北に位置する隣島カウアイ島は、「ジェラシックパーク」で有名な観光地であるが、そのすぐ西隣にニイハウ(Niihau)島という小島が浮かんでいる。ハワイ8島の中で最も西北に位置する島でもある。
面積はカウアイの五分の一ほど、しかしこの島は当時も現在も個人所有となっている。
賭け事が好きだったカメハメハ4世が英国籍の婦人に1万ドルで売り渡したのだ。
その後、ロビンソンという人に所有が移ったが島内は完全な治外法権、銃を担いだ漢が目を光らせ、ごくごく限定された人しか入島できなかった。
住民300人ほどのほとんどは現地ハワイ人の使用人で、全島が牧場、それに住民用の小さな畑で自給して、必要なものは船で搬入させていた。
蛇足かもしれないが、こういった特殊な環境のおかげで、他島では死語となっているハワイ語が現在でも日常的に使用されている。
現在は、オファーがあれば条件付でヘリコプターを使って入島、観光することも可能だが、前日にカウアイ島に一泊しなければならないなど煩雑で、来訪者は多くはないようだ。
このような特殊な島に日系二世の原田義男(39)が夫人と2歳の娘を連れて支配人格として赴任、半年を経ていた。
1941年11月26日、大日本帝国海軍艦隊は遥か択捉島からハワイ真珠湾に向かい進撃を開始した。遮るものとてない茫々たる海原を,無線封鎖をした大艦隊が文字とおり静々粛々と、巨人との一大決戦に向けて航海を続けた。
米船と邂逅することなく、日本艦隊は奇跡的な13日を経てオワフ島北方にたどり着いた。
運命の‘41年12月8日の夜明け(現地時間)、日本海軍空母甲板上の飛行隊は、真珠湾に停泊する米空母・戦艦を殲滅すべく、乾坤一擲の気概を持って飛び立った。
そこにゼロ戦を駆る西開地重徳一等飛行兵曹(21)も参加していた。
彼が真珠湾上でどのように活躍したのかは定かではないが、自軍猛撃の最中、敵の機銃弾1発が西開地の操縦するゼロ戦のガソリンタンクを貫いた。
母艦に帰ろうと試みたがコントロールを失った原田機は、ニイハウ島に車輪も出せずに不時着した。
つづく
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美しい国日本
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/09 22:01 投稿番号: [1 / 402]
安倍政権の終了によって「美しい国日本」再生は一頓挫を余儀なくされている。
そして今は、親中の福田が権力の椅子に浅く腰掛け、古賀、山崎が口から炎を吐きながら闊歩、暗躍している。まるで時代遅れの妖怪村だ。
相対的な見かたをすれば日本という国は、世界史の中で突出した芳しさを醸す国だ。これは地政学的な天恵であるといえるが、その好ましい環境の中、日本民族としての我々を形作った。
人間性としても、侘び、寂び、ものの哀れという、大陸人にはその片鱗もうかがえない心情を抱く民族でもある。
なにも日式ホルホルではない。
それは世界史と日本史を比べ、また古来日本を訪れた外国人の感想を聞けば誰もが納得できるだろう。
それが今、世界から正当な評価を得られているだろうか。
日本民族の歴史を語り、戦後レジュームからの脱却をどう果たしていくのか、賢者の議論を期待したい。
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