朝鮮通信使
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/12/27 09:13 投稿番号: [244 / 402]
悪天候のため、対馬の府中には1ヶ月も滞在することになり、一行はようよう3月17日壱岐島に向けて出帆する。対馬藩側は藩主を始め800名、100艘の大船団で随行した。距離は釜山―対馬北端と同じだが玄界灘は甘くない。荒波で「通信使はみな昏倒した」と記され、壱岐島寄航後も風雨は止まず2週間もの滞在になった。
ここは長崎平戸藩の領地で、藩は幕令で通信使一行の宿舎、納戸、縁、湯殿など443坪を新築している。ここでは二週間使用された。
次は玄界灘を横切って四月一日深夜関門海峡の西口、福岡(黒田)藩領藍島に着く。ここでは24軒が新築されている。
また、奉使録は触れていないが、藩では総力をあげて食料を調達、もてなしたことが記録されている。一方通信使側は各地のご馳走のランクをつけている。江戸、大阪、京は別として[ご馳走一番]は福岡藩の藍島、長州藩の赤間関、広島藩の蒲刈、彦根藩の彦根が選ばれている。ご馳走になったところにランクをつけるとは品がない振る舞いだ。
しかし、一流料理でもてなす藍島をわずか一日半であわただしく発つ事になる。
通信使一行は未明、順風の知らせに叩き起こされて目を擦りながら乗船する。
「航海には福岡藩の大きな曳き舟小船十四艘を率いて、縄を連ねて左右に分かれて引っ張った。大船の両側に出ている櫓が百足の足のようであり、櫓の動きが一人で漕いでいるように揃っているのを見て、何かにつけ日本人に厳しい目を向ける曹命采が{わが国の船夫たちはとにかく力仕事を避けようと怠けるので、このように真面目に仕事をする日本人を見ると恥ずかしい}といっている。」
しかし航海は難渋する。荒波にもまれるうちに日が暮れ船団はばらばらになった。信使船はやっと南泊浦港を見つけることができ避難したが、ここで従事官船は座礁している。
翌朝すべての船が南泊浦港に集合し無事を喜び合った。
船団を整え直ちに次の寄港地赤間関(下関)に向け出帆する。そのようすを奉使録では「小倉藩の曳き舟が合して引くので帆柱が海に満ち、旗標が軍陣の如くで、太鼓と角笛のやかましい音が関門を振動させた。船に棹差して見物に来る蛮人の男女老少もその数が分からないくらいである。」
むむ、彼らは日本人を蛮人というのか。
人の心のうちはその人の自由で、どのようなアイデアも妄想もご勝手に、というものだが、それを口外したり書に残すとなると話は別だ。朝鮮人が日本人を野蛮呼ばわりすることが妥当かどうか、答えはこの通信使からでも分かるかもしれない。
ともあれ、先に進もう。
船団は小倉城を南に見て関門海峡に入る。舟島あたりで長州藩の船に引き継がれ、引き潮の中難しい操船であったが無事に赤間関に入港した。
客館は阿弥陀寺の境内に新築されていた。
奉使録「国書を奉じて入っていくと絹の幔幕が二重に張られ、室内も美しく幕・帳で飾られる調度品もみな精巧で豪華である。・・楼閣は高所にあって海を俯瞰しており、帆船が通る様子や他の景色も絶景である。一泊するだけの所に百種類の豪華な諸具をみるとこの藩の財力のほどがしられる。
接待する礼儀、法度が他者の倍ほどであり、絹の寝具の支度は上官から下官にまで及んだ。」
従事官「多くの居酒屋が左右に続いて、絹の着物と彩色を施した着物を着た見物人が垣のように並んで立っていた。民家が稠密していて数万余戸に至り、白い楼閣と幾層にも積んだ垣がここまでおぼろげに映ずる。去来する商船の貨物が幅湊してそのまま美しい一都会であり、大阪城に次ぐというのはこのためである。」
さて、市井の蛮人がきらびやかな絹の着物を着ているとはいぶかしい話だ。
近代という区分の日本では、彩色豊かな友禅染は元禄時代に始まっているが、相対するように朝鮮の白衣は有名だ。その理由を
「白色は神聖であることから、清廉、潔白、忠節の心に通じるものと」と朝鮮人は説明する。
しかし日本の美術評論家柳宗悦は、「朝鮮人は花を愛でる心の乏しい民族」で、白色好みについても、「色を楽しむ心の余裕を失ったから」とする。
これに対して朝鮮新報はさらに、「この説が正しいとすれば、朝鮮人は一貫して{心の乏しい余裕を失った}民族ということになる。そうであるなら、世界にさん然と輝く朝鮮文化の華は、誰の心と知恵の結晶であったというのか。」と怒る。
うむ、かなり大きく出たな。[世界にさん然と輝く朝鮮文化の華]とは一体如何なるものなのか。説明可能なものなのか。
日本では、実体の伴わない大言壮語を[大風呂敷]とか「大法螺吹き」とかいう。かの国にはそういう言葉さえないのであろうか。
ここは長崎平戸藩の領地で、藩は幕令で通信使一行の宿舎、納戸、縁、湯殿など443坪を新築している。ここでは二週間使用された。
次は玄界灘を横切って四月一日深夜関門海峡の西口、福岡(黒田)藩領藍島に着く。ここでは24軒が新築されている。
また、奉使録は触れていないが、藩では総力をあげて食料を調達、もてなしたことが記録されている。一方通信使側は各地のご馳走のランクをつけている。江戸、大阪、京は別として[ご馳走一番]は福岡藩の藍島、長州藩の赤間関、広島藩の蒲刈、彦根藩の彦根が選ばれている。ご馳走になったところにランクをつけるとは品がない振る舞いだ。
しかし、一流料理でもてなす藍島をわずか一日半であわただしく発つ事になる。
通信使一行は未明、順風の知らせに叩き起こされて目を擦りながら乗船する。
「航海には福岡藩の大きな曳き舟小船十四艘を率いて、縄を連ねて左右に分かれて引っ張った。大船の両側に出ている櫓が百足の足のようであり、櫓の動きが一人で漕いでいるように揃っているのを見て、何かにつけ日本人に厳しい目を向ける曹命采が{わが国の船夫たちはとにかく力仕事を避けようと怠けるので、このように真面目に仕事をする日本人を見ると恥ずかしい}といっている。」
しかし航海は難渋する。荒波にもまれるうちに日が暮れ船団はばらばらになった。信使船はやっと南泊浦港を見つけることができ避難したが、ここで従事官船は座礁している。
翌朝すべての船が南泊浦港に集合し無事を喜び合った。
船団を整え直ちに次の寄港地赤間関(下関)に向け出帆する。そのようすを奉使録では「小倉藩の曳き舟が合して引くので帆柱が海に満ち、旗標が軍陣の如くで、太鼓と角笛のやかましい音が関門を振動させた。船に棹差して見物に来る蛮人の男女老少もその数が分からないくらいである。」
むむ、彼らは日本人を蛮人というのか。
人の心のうちはその人の自由で、どのようなアイデアも妄想もご勝手に、というものだが、それを口外したり書に残すとなると話は別だ。朝鮮人が日本人を野蛮呼ばわりすることが妥当かどうか、答えはこの通信使からでも分かるかもしれない。
ともあれ、先に進もう。
船団は小倉城を南に見て関門海峡に入る。舟島あたりで長州藩の船に引き継がれ、引き潮の中難しい操船であったが無事に赤間関に入港した。
客館は阿弥陀寺の境内に新築されていた。
奉使録「国書を奉じて入っていくと絹の幔幕が二重に張られ、室内も美しく幕・帳で飾られる調度品もみな精巧で豪華である。・・楼閣は高所にあって海を俯瞰しており、帆船が通る様子や他の景色も絶景である。一泊するだけの所に百種類の豪華な諸具をみるとこの藩の財力のほどがしられる。
接待する礼儀、法度が他者の倍ほどであり、絹の寝具の支度は上官から下官にまで及んだ。」
従事官「多くの居酒屋が左右に続いて、絹の着物と彩色を施した着物を着た見物人が垣のように並んで立っていた。民家が稠密していて数万余戸に至り、白い楼閣と幾層にも積んだ垣がここまでおぼろげに映ずる。去来する商船の貨物が幅湊してそのまま美しい一都会であり、大阪城に次ぐというのはこのためである。」
さて、市井の蛮人がきらびやかな絹の着物を着ているとはいぶかしい話だ。
近代という区分の日本では、彩色豊かな友禅染は元禄時代に始まっているが、相対するように朝鮮の白衣は有名だ。その理由を
「白色は神聖であることから、清廉、潔白、忠節の心に通じるものと」と朝鮮人は説明する。
しかし日本の美術評論家柳宗悦は、「朝鮮人は花を愛でる心の乏しい民族」で、白色好みについても、「色を楽しむ心の余裕を失ったから」とする。
これに対して朝鮮新報はさらに、「この説が正しいとすれば、朝鮮人は一貫して{心の乏しい余裕を失った}民族ということになる。そうであるなら、世界にさん然と輝く朝鮮文化の華は、誰の心と知恵の結晶であったというのか。」と怒る。
うむ、かなり大きく出たな。[世界にさん然と輝く朝鮮文化の華]とは一体如何なるものなのか。説明可能なものなのか。
日本では、実体の伴わない大言壮語を[大風呂敷]とか「大法螺吹き」とかいう。かの国にはそういう言葉さえないのであろうか。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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