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私見 司馬遼太郎 2

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/03/09 08:54 投稿番号: [279 / 402]
さて、司馬先生が『見つけた』14代沈寿官氏とはいかなる経歴を持った人なのだろう。他に情報のないわれわれは、氏は薩摩焼の窯元として延々と伝統の焼き物を続けてきたものの子孫で、薩摩焼の宗家として今日にまで至っていると、自分の知識内に取り込んでしまう。自然なことである。実際に知らないことはイメージが先行し、やがて固定するのだ。
そして先生はこう書く、p48「・・その秘法も一子相伝の口伝とされてきた。十二代は十三代に口伝をあたえることなしに死んだためにこの技法は絶えた・・」

ここで、「御前黒」の秘法(そんなものないが)を一子相伝としているが、先生も書いているとおり、藩主義弘は苗代川の工房を薩摩藩の藩立工場としたのである。そして改良を重ねた技術で焼き上げた白薩摩は、藩の重要な財源になった。その工房に参加したのは漂着した者だけだったはずがない。藩内の工人も大いに参加したはずだ。白薩摩は島津藩の集団による合理的な管理体制のもとで製作されてきたものなのだ。個人の技術や伝統が云々されるような工房ではないのである。実際、p40「幕末、薩摩藩はこの苗代川に大規模な白磁工場をつくり、十二代沈寿官を主任とし、・・」

幕末の十二代沈氏の身分は「主任」にしか過ぎない。宗家もへったくれもないのである。
では次の十三代はどうであったであろう。十三代沈寿官氏は京大法科を卒業したあと朝鮮総督府の役人をつとめ、戦後は郷里で村会議員をしていた。
「故郷・・」に出てくる職人気質の父とはそうとうイメージが違う。名人どころか、彼は専門の陶工家ではないようだ。
そして当の一四代沈寿官氏は昭和35年まで東京で鹿児島選出政治家の秘書をしていた。鹿児島に帰ってからも氏が陶業に従事したという話はない。昭和46年には鹿児島県PTA連合会会長になっていて参院選挙の準備をしていたのだ。
司馬先生が沈氏を訪ねたのは昭和43年だから、沈氏の帰郷から7年しかたっていない。その時点で一四代沈氏が名陶工家であろうはずがないではないか。
せいぜい、p60「現当主は少年のころ、この父親から英語も数学も教わり、さらに少年のころから作陶の技術を教わった」と正直に書かれているように、作陶の伝授は英語や数学を習うのと同じ程度の熱意だったようである。まあ、「門前の小僧」くらいのものなのか。その証拠に昭和48年から始まる鹿児島陶芸展があるが、14代の名は受賞者欄にも、賛助出品者欄にも一度も出てこないだ。(他の、秀吉以来の朝鮮系陶工家の子孫である人たちは名を連ねているが)

しかし、この沈氏に対して司馬先生は奇矯ともいえる行動をとる。
司馬先生が苗代川をたずねて沈氏を世に出してから10年ちかく経った52年、沈氏は東京で個展を開いたのだ。そこに先生が駆けつけ「五〇歳を迎えた今、新しい自分の領域を広めて世に向かうことになった」と絶賛したばかりか、氏の作品の一つに井光黒(いかりぐろ)と、勿体つけた銘をあたえたのだ。

朝鮮総督府の役人勤務の後、故郷で村会議員をしていた沈氏の父13代、その父に少年時代作陶を教えられた当の14代。前述したように彼は東京で政治家の秘書をしており、その後自ら中央政界に打って出ようと帰郷したものである。その帰郷から司馬先生が尋ねるまで7年、個展を開くまでさらに9年、この間に沈氏はいっぺんに名工になったのか?   そんなことはあるまい。
個展を開くほどの作陶術がそのように形成されたなどという話は現実の陶工家に対し無礼であろう。
だから、個展で売れ残った作品は朝鮮系パチンコ屋が買い上げたという話も信憑性を帯びる。

さあ、ここまできたらもう司馬先生の精神分析に興味が湧いてくる。なぜこうなるのだろう。
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