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故郷忘れじがたく候

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/01/23 18:05 投稿番号: [255 / 402]
司馬遼の「故郷忘れじがたく候」は長めのエッセーといったもの。ただしエッセーといっても、他の多くの司馬作品に顕著なように、思弁というよりこうあるべき、という小説家としての物語の色合いが濃い。
しかし、文庫本の表紙の裏にこう謳われ、「16世紀末、朝鮮の役で、薩摩軍に日本へ拉致された、数十人の朝鮮の民があった。以来400年、やみがたい望郷の念を抱きながら異国薩摩の地に生き続けた、その子孫たちの痛哭の詩。」史実として売られている。

この本が上梓されたのが1968年だが、上記のコピーがいつから謳われたのかは定かでない。ただ現在も使われているのに引っ掛かりを感じる。
日本国民を拉致したことに関する北朝鮮の抗弁に「日本は戦時中強制連行でわが国民を数十万人日本に拉致した。」と、根拠のない話を事実と決め付け、現在の国家犯罪『拉致』と相殺する論理がある。例のコピーはそれを増強するものになるにちがいなく、日本人の意識に微妙な影響を与えるだろう。
それにしても売らんがための宣伝コピーとはいえ、往時はとうぜんであった戦利品としての人員捕獲を「拉致」とわざわざ形容することもあるまいに。
それにこの本の内容には飛躍が多すぎる。暇があるので大先生の作品にけちをつけてみよう。

冒頭に著者が朝鮮人陶工の集落を訪ねるシーンがある。
「最後に低い峠を越えた。車が前に傾き、しずかにくだりはじめたとき前方に広がり始めた風景というのは、これをどう形容すればよいであろう。丘陵は低く、天が広く、その下に海を隠しているらしく地物は海照りであかるかった。道は白い火山灰のせいか晒したように白く、どの樹の緑もわざとらしいほどに淡い。朝鮮の山河であった。」
列島の水際で見られるごくありふれた村落を著者はこう描写する。さすが司馬遼、筆運びがちがう。
しかし筆力はともかく、上記の風景、列島を貫く脊梁山塊の喫水線やその奥の山あいの小さな平地・集落は、日本列島の、いわば原風景の一つであろう。
なぜそれを唐突に「朝鮮の山河であった」と決め付け感嘆しなければならないのか。分けがわからん。
著者の履歴に、兵役として満州の牡丹江に赴任した記録があるが、そこは内陸部であり朝鮮半島とは相当な距離がある。かれに「朝鮮の山河であった」といわしめた実見聞はいつ得たものであろうか。著者の筆はそんな疑問を飛び越えて進む。

本作の核心である「忘れじがたく・・」は、江戸時代の旅行家が同集落を訪ねた場面に登場する。
主役の朝鮮人陶工の子孫たちは、『拉致』されたとされる秀吉以来既に二百年、世代として五〜八代経た後の人びとだ。
旅行者「しからば、故郷の朝鮮はすでに思い出されることもございますまい。」
陶工「そのことは奇妙なものでございます。なるほど二百年近くも相成り、しかもこの国の厚恩を受けてかように暮らしております上はなんの不足もあるはずもございませぬが、ひとの心というものは不思議のものにて候。故郷のことはうちわすれられず、折にふれては夢の中などにも出で、昼間、窯場にいてもふとふるさと床しきように思い出されて、いまも帰国のことを許し給うほどならば、厚恩をわすれたるにはあらず候えども、帰国いたし心地に候。−故郷忘れがたしとは誰人の言い置きけることにや。」

この言葉から司馬先生は「痛哭・望郷」の念をピックアップしたが、この陶工の言い分はずいぶんと大げさに感じられる。
アメリカ合衆国につれてこられた黒人奴隷の子孫は数知れぬが、200年前の先祖の故地アフリカに『忘れがたじ』と痛哭の念を抱き、即刻なる帰国を切望する者がいるのだろうか。
しかも多くのアフリカ系黒人とちがって、薩摩の朝鮮人陶工は朝鮮とは比較にならないくらい優遇されているのに、である。
(多くの土地で迫害・殺戮を受け続けていたユダヤ人のシオニズム運動は理解できる。朝鮮人陶工とは事情がちがう)

先祖の故地に対して特別な思い入れは理解できるとしても、上記の文言は半島人特有の大仰な感情表現と理解するのが正しい。著者はそこをつまんで本書のテーマとしたが、小説家である、さまざまな思索(推理)はテーマの肉付けとしてのみ紡ぎだされる。

つづく
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