私見 司馬遼太郎
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/03/01 07:52 投稿番号: [276 / 402]
私見
司馬遼太郎
オレは基本的に司馬遼太郎の本は読まない。そう決めていた。だからあれだけの人気作家であるのに『竜馬が行く』も『街道をいく』も、読んでいない。それにはちょっとした、オレなりの分けがあった。
ある日だれかが面白いぞと紹介してくれたのは、一連の司馬作品の初期にあたるのか、新撰組物だった。すごく面白かった。つづいて「豊臣家の人びと」を耽読した。これもいけた。
特に、後に『新撰組血風録』としてまとめられた短編の一つに登場する、久留米藩出身の篠原泰之進という下級武士にほれこんだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E4%B9%8B%E9%80%B2
高邁な思想は他者にまかせ、朴訥に武士であろうと勤皇側についていく。その不器用で欲のない剣豪ぶりが愛おしかったのだ。
しかし「新撰組血風録」の他の一遍を見て仰天した。そちらでは、篠原泰之進が緻密に陰謀をめぐらす間諜として描かれていたのだ。(こちらのほうが史実にちかいキャラだが)
子母澤寛の『新撰組始末記』や観音寺潮五郎の「武将列伝」「悪人列伝」と同じレベルの史実感は無理としても、吉川英二などではみられない主要登場人物のキャラ変換を、司馬先生はやってのけたのだ。(あらゆる分野における作者という意味においても)これは禁じ手といえないか? 歴史小説家としての矜持に欠けるところはないのか? 少なくともオレはしらけてしまった。筆先ひとつでどのようにでも書き換えられる小説家の『特権』に節操が欠けていたら、それはトンデモ本のコーナーに並ぶべき本になってしまう。
で、しばらくして月刊誌に掲載されていた『義経』の、途中の一回分を目にした。そこで語られる義経は非常識な軽薄者、とり得は戦だけ上手の天才アホとして描かれていた。
オレは義経の筆による『腰越状』の切々たる文章に心をいため、吉野山を遠望したときは義経と静の結界での別れに思いをめぐらし、鎌倉八幡宮の舞殿の前では頼朝の非道に憤ったりする平均的日本人だ。そんな日本人が共有する民族の大英雄を、一小説家が辱めていいのか、オレは頭に来て、以来司馬先生の本を読まないと決めたのだ。
そんな先生の所感が、日露戦争以後の日本を否定する『司馬史観』としてかなりの支持を受けている。それにどうにも違和を感じる。だから「日本人による朝鮮人強制連行の悲劇」をテーマにした本小説にいちゃもんをつけた。
「故郷忘れじがたく候」のメイキングも書いてみよう。
島津義弘以来連綿と続く朝鮮密航者の子孫沈寿官を最初にたずねて取材をしたとき、じっと話を聞いていた先生は「この話もらった!」と手を打って叫んだそうだ。そのとき顔を真っ赤にして大粒の汗が額に浮かんでいたと同行者は語る。凡人ならざる先生の随筆「故郷・・」の骨子はこのときに決められたのだ。この骨子はゆるぎなく、そこに物語として肉付けされる。だから論理的にどんどん無理を重ねることになる。
それでも先生は良心的だとおもう。なぜなら、かれらの『漂流の謎』について先生は頭をかしげ、『なぜ彼らは島津藩撤兵2年後に姿を現したのか? なぜ風や潮流に逆らって薩摩半島に流れ着いたのか?』と根源的な謎を紙面に提示する。しかし前述したように、すべての事象は先生の『骨子』に沿ってわずか数行で解説されてしまうのだ。
他にも70余名17姓の謎、自活食料の謎、などなどがあり、漂流者は実は密航者だったと、であるから、かれらの悲嘆に日本人が心を痛める必要はまったくないのだ、と結論づけざるを得ないのだ。
もう少し話を広げてみよう。
13代沈寿官氏の甥っ子である14代沈寿官氏の本名は吉本恵吉である。彼が沈氏を名乗ったのは祖母の養子になった都合上の半年間だけだった。その後すぐ大迫=祖母の嫁ぎ先の姓を名乗る。
したがって作中にある朝鮮名であることを理由に、
P41−42「このクラスに朝鮮人が居っとじゃろ。手をあげい」とわめいた。沈少年が名乗らなかったということで、少年たちは激昂した。精神を注入してやる、と吼え、沈少年を教室のそとへ出し、屋上へつれてゆき、十人ほどが寄ってたかって殴った」
は、「司馬史観」に沿った完全な創作だ。しかし、それは在日朝鮮人迫害の実証として在日韓国人作家の筆で折々に書かれつづけ、NHKまでも全国ネットでその話を踏襲する。そして観た人は秀吉から現代に至る「朝鮮人いじめ」を素直に信じる。困ったものである。国民的作家の標榜する「司馬史観」なるものには、やはり検証が必要なのだ。
つづけよう。
オレは基本的に司馬遼太郎の本は読まない。そう決めていた。だからあれだけの人気作家であるのに『竜馬が行く』も『街道をいく』も、読んでいない。それにはちょっとした、オレなりの分けがあった。
ある日だれかが面白いぞと紹介してくれたのは、一連の司馬作品の初期にあたるのか、新撰組物だった。すごく面白かった。つづいて「豊臣家の人びと」を耽読した。これもいけた。
特に、後に『新撰組血風録』としてまとめられた短編の一つに登場する、久留米藩出身の篠原泰之進という下級武士にほれこんだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E4%B9%8B%E9%80%B2
高邁な思想は他者にまかせ、朴訥に武士であろうと勤皇側についていく。その不器用で欲のない剣豪ぶりが愛おしかったのだ。
しかし「新撰組血風録」の他の一遍を見て仰天した。そちらでは、篠原泰之進が緻密に陰謀をめぐらす間諜として描かれていたのだ。(こちらのほうが史実にちかいキャラだが)
子母澤寛の『新撰組始末記』や観音寺潮五郎の「武将列伝」「悪人列伝」と同じレベルの史実感は無理としても、吉川英二などではみられない主要登場人物のキャラ変換を、司馬先生はやってのけたのだ。(あらゆる分野における作者という意味においても)これは禁じ手といえないか? 歴史小説家としての矜持に欠けるところはないのか? 少なくともオレはしらけてしまった。筆先ひとつでどのようにでも書き換えられる小説家の『特権』に節操が欠けていたら、それはトンデモ本のコーナーに並ぶべき本になってしまう。
で、しばらくして月刊誌に掲載されていた『義経』の、途中の一回分を目にした。そこで語られる義経は非常識な軽薄者、とり得は戦だけ上手の天才アホとして描かれていた。
オレは義経の筆による『腰越状』の切々たる文章に心をいため、吉野山を遠望したときは義経と静の結界での別れに思いをめぐらし、鎌倉八幡宮の舞殿の前では頼朝の非道に憤ったりする平均的日本人だ。そんな日本人が共有する民族の大英雄を、一小説家が辱めていいのか、オレは頭に来て、以来司馬先生の本を読まないと決めたのだ。
そんな先生の所感が、日露戦争以後の日本を否定する『司馬史観』としてかなりの支持を受けている。それにどうにも違和を感じる。だから「日本人による朝鮮人強制連行の悲劇」をテーマにした本小説にいちゃもんをつけた。
「故郷忘れじがたく候」のメイキングも書いてみよう。
島津義弘以来連綿と続く朝鮮密航者の子孫沈寿官を最初にたずねて取材をしたとき、じっと話を聞いていた先生は「この話もらった!」と手を打って叫んだそうだ。そのとき顔を真っ赤にして大粒の汗が額に浮かんでいたと同行者は語る。凡人ならざる先生の随筆「故郷・・」の骨子はこのときに決められたのだ。この骨子はゆるぎなく、そこに物語として肉付けされる。だから論理的にどんどん無理を重ねることになる。
それでも先生は良心的だとおもう。なぜなら、かれらの『漂流の謎』について先生は頭をかしげ、『なぜ彼らは島津藩撤兵2年後に姿を現したのか? なぜ風や潮流に逆らって薩摩半島に流れ着いたのか?』と根源的な謎を紙面に提示する。しかし前述したように、すべての事象は先生の『骨子』に沿ってわずか数行で解説されてしまうのだ。
他にも70余名17姓の謎、自活食料の謎、などなどがあり、漂流者は実は密航者だったと、であるから、かれらの悲嘆に日本人が心を痛める必要はまったくないのだ、と結論づけざるを得ないのだ。
もう少し話を広げてみよう。
13代沈寿官氏の甥っ子である14代沈寿官氏の本名は吉本恵吉である。彼が沈氏を名乗ったのは祖母の養子になった都合上の半年間だけだった。その後すぐ大迫=祖母の嫁ぎ先の姓を名乗る。
したがって作中にある朝鮮名であることを理由に、
P41−42「このクラスに朝鮮人が居っとじゃろ。手をあげい」とわめいた。沈少年が名乗らなかったということで、少年たちは激昂した。精神を注入してやる、と吼え、沈少年を教室のそとへ出し、屋上へつれてゆき、十人ほどが寄ってたかって殴った」
は、「司馬史観」に沿った完全な創作だ。しかし、それは在日朝鮮人迫害の実証として在日韓国人作家の筆で折々に書かれつづけ、NHKまでも全国ネットでその話を踏襲する。そして観た人は秀吉から現代に至る「朝鮮人いじめ」を素直に信じる。困ったものである。国民的作家の標榜する「司馬史観」なるものには、やはり検証が必要なのだ。
つづけよう。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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