南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

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knkic様

投稿者: fine2983 投稿日時: 2004/05/22 23:57 投稿番号: [5240 / 29399]
どうもです(ペコリ)

「彼ら」からマトモな反論が
無いのなら、俺もそろそろ傍観に戻ります。

酔っぱらいのトラちゃん早く北朝鮮にお帰り

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/22 16:10 投稿番号: [5239 / 29399]

南京防衛軍は五十個師団もありませんよ

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/22 16:07 投稿番号: [5238 / 29399]
13個師団81,000人説をとれば、戦死者を除くと5〜6万人ですから、
話がおかしくなってしまいます。

宇垣一成

一方、支那戦線では、我が参謀本部が北支那方面軍と中支那派遣軍の合計七個師団を投入し、徐州付近に集結していた李宗仁を最高司令官とする支那軍精鋭五十個師団を南北から包囲殲滅すべく徐州作戦を発動し、五月十九日、我が軍は徐州を占領したが、包囲兵力の不足によって、北支中支両戦線でしばしば経験した如く又しても殲滅の一歩手前で支那軍主力を逃してしまい、国民政府の抗日戦力を破砕することはできなかったのである。

戦争終結への期待を込めて徐州会戦の勝利を祝賀した国民の間では、動揺と失望が広がり始めた為、東京では、徐州陥落から一週間後の二十六日、近衛首相が、国民政府との和平交渉打ち切りに加わった広田外相と杉山陸相に辞職を求め、内閣改造を行い、外相に宇垣一成大将、陸相に板垣征四郎中将を起用してみせた。宇垣大将は外相就任の条件として、

1、閣内一致結束を一層強化す。

2、速に対時局の方針を決定す。

3、対支外交の一元化を期す。

4、蒋介石を対手とせず云々に拘泥せず。

を提示しており、彼の入閣により、近衛内閣は、「蒋介石を対手とせず抹殺する」との対支強硬方針を転換したといえよう。
「小川平吉関係文書1」

歴史修正主義者=北朝鮮工作員でしたか

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/22 15:32 投稿番号: [5237 / 29399]
どうりで、日本政府自身が南京大虐殺を認めているのに、
それに対して反抗的な態度をとると思いましたよ。

まぁ、奴らは、日本語読解力が著しく欠落していれば、
根拠に欠ける妄想の類しか垂れ流せませんから、
何方でもお気付きのことと思われます。

一度やってしまったことを後でグダグダ言わない。
それが本来「侍」の持つ美徳でしたが、北朝鮮工作員なら
今更過去を否定することにより蒸し返し、
日中離間計に走るのも致し方ないといったところでしょう。

支那など今時何処にも存在しないのにねー。(苦笑)

>「わたしの見た南京事件」奥宮正武3

投稿者: yume215 投稿日時: 2004/05/22 14:36 投稿番号: [5236 / 29399]
>私の知る限り,彼らのほとんどは,戦意を>失って,ただ、生きるために、軍服を脱
>ぎ、平服に着替えていた。したがって、彼>らを通常言われているゲリラと同一視す
>ることは適当とは思われない。

南京戦のつぎの徐州作戦では、
南京で日本軍が取り逃がした
南京防衛中国軍が大挙して出て
きたそうですよ。
それで日本軍首脳は残念がったと
戦史叢書「徐州作戦」に書いてあります。

>北朝鮮のスパイ戦略に乗る日・中・韓

投稿者: toraneko_yh 投稿日時: 2004/05/22 14:06 投稿番号: [5235 / 29399]
日本人を装って虚偽の事実を流したり、敵対行為をしたりっていうのは、支那人、朝鮮人の十八番ですが。

  しかし、北チョーセンがどうのこうのというより、支那人、チョーセン人が日本人を貶め、攻撃するのは民族的DNAによるものですよ。
  北だけでなく、南も支那も日本人を攻撃します。
  彼らにとって事実がどうとか、本当の日本はこういう国だとかは全く関係ないのです。
  彼らが侮蔑する日本が明治以来世界の表舞台で活動するのに支那チョーセンが常に遅れをとっていることが気に入らないだけなのです。
  日本人はこの国があの国より上だなんて余り気にかけませんが、支那文化圏である支那、チョーセンでは人も国家も序列が何よりも大切で、彼らが下位と考えている国や人が活躍するのはそれだけで許せないことなのです。
  なんとも狭量で馬鹿らしいことですが、彼らの行動原理はどの国が格上か格下かで決定してしまうので仕方ありません。そして、この上下は実力とは関係なく、彼らだけの中華秩序で決まります。つまり、支那が1番、チョーセンが3番、その他は3番以下ということです。

  勿論日本が支那文化圏の妙な序列を受け入れることは全くないので無視するだけです。
  しかし、これがまた支那チョーセン人の気に入らないらしく、webを使って日本を侮蔑するための捏造情報を流しまくり、それを支那チョーセンの新聞、テレビがフレームアップするの繰り返しです。

  日本人が目覚めなければなりません。
  支那チョーセン人とは友好などありえません。
  友好とは対等な立場の者の間でしか成立しませんが、支那チョーセンは格上か格下かだけで、対等ということがないので、友好はないのです。
  支配するか、されるか、だけなのです。
  日本人が友好のつもりで、支那、チョーセンに譲っても、彼らは格下の日本が当然のことをしたとしか感じません。
  支那、チョーセン人に感謝という行為がないのはこういう理由からです。
  恩を仇で返されたような事例を皆さんもすぐ思いつくでしょう。

  繰り返しますが、日本人は一刻もはやく支那チョーセンとは友好はあり得ず、関係を絶つしかないことに目覚めるべきです。

北朝鮮のスパイ戦略に乗る日・中・韓

投稿者: knkic 投稿日時: 2004/05/22 09:10 投稿番号: [5234 / 29399]
これは、人の書き込みだが、私もそう思う。北朝鮮のスパイ戦略?


   このYahooの掲示板に、明らかに、周りを煽っている、
   北朝鮮の人の書き込みがあると思う。
   日本人と中国人・韓国人が対立するような書き込みを故意にしているのでは?

↓ここからが、納得の情報

   その手法を、中国と韓国でも、ずいぶん以前から行っているのでは?
   そして、南京大虐殺の証拠写真などと称して、デマ写真のHPをを解説or便乗。
   中国人(韓国人)が、掲示板で、日本人と思いこんだ北朝鮮人相手に、腹を立て、
   反日感情をむき出しにさせる。

   中国や韓国のネット利用者の反日感情の異常さを見れば、明かではないでしょうか。
   16年ぐらい前に中国に出張した時や18年位前に韓国に出張した時と比べ、
   明らかに対日感情が悪化している。
   しかも、当時中国人や、韓国人が、事実を疑問視していた事まで、
   現在のネットの掲示板やHPで真実のように語られ、日本批判が花咲いている。
   事実、おかげで、北朝鮮は孤立を免れている。

   私は、15年ぐらい前から(当時はITではないが)、意図的に進められてきたような気がします。


君は正しい。
早く気づくのだ、韓国・中国の人々よ。

ついでに。

投稿者: fine2983 投稿日時: 2004/05/21 23:20 投稿番号: [5233 / 29399]
ちなみに、貴方が頑張って投稿しているマギーさん。

日本軍の「虐殺」を訴える為に映画まで撮っていたマギーが、何千何万と
言われる「虐殺」を自分で実際に見たのは一件だけだったのですね?

「マギーの息子がメディアと会見したときのビデオテープを改めてみてみると、そこにはいろいろな作為が残っていました。まず、彼の示した映写機と映像であるが、この中には虐殺された市民とはっきり言える死体は一つもありません。キャプション上は日本軍が残虐行為を働いたことにはなっているが、このフィルムでは、生きている人間が映ってはいても、例えば日本軍が捕虜を殺害する瞬間が載っていないとか、大量虐殺されたはずの死体と言われるものがあまり映っていないとか、どうも肝心でないものばかりでお茶を濁しているようです。

しかもそのマギー一家の証言の後に出てくる中国人女性の証言は、これまたいい加減なものです。李秀英という女性は開口一番、こう言っている。

「奴らの一人が叫んだんです。ここに女がいるぞーって。」

彼女は一体、どこで日本語を学んだのか。当然、その日本兵は、日本語で言ったはずだが、南京には日本の租界はなかった。ところが彼女の証言は全部中国語で行われているし、日本語と英語の同時通訳が付けられている点も興味を引く。本来日本語を話すことができない人が、何と日本語を聞いて理解できたと言う。」

http://f1.aaacafe.ne.jp/~iserlohn/IrisChang.htm

自分で「虐殺」をロクに見ていないラーベさんの日記といい、
肯定派の方々はこんな史料ばかりを持ってくるんですねぇ(笑)

中国人留学生らしい

投稿者: japanese_judgments 投稿日時: 2004/05/21 18:58 投稿番号: [5232 / 29399]
本当に優しい日本人の男性と知り合いたいです。真剣ならメールください

n7skztn9@ezweb.ne.jp

東京裁判 マギー証言3

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/21 18:51 投稿番号: [5231 / 29399]
マギー証人   (略)   聖書会に属する婦人即ち私共の教会に属して居る「エヴァンジェリスト」の牧師さんであったのでありますが、此の方が約八十歳以上の年取った老母と一緒に住んで居る ---- 七十八歳か七十九歳になる中国人の老母と一緒に住んで居られたのでありますが、其の家へ或る日に、日本の兵隊がやって来て、外へ出ろと云ふ話で、外へ出ますると、其の着物をまくり上げろと云ふ命令を出したのであります。共の老母は自分はもう非常に婆さんだからと言ひました所が、兵隊は直ぐに老母を射殺したのであります。

東京裁判 マギー証言2

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/21 18:50 投稿番号: [5230 / 29399]
マギー証人   (略)   一月の終り頃になりまして、私は南市の方へ参りまして沢山の街で色色な事件が起ったのを承知したのでありますが、其の中で特に私の申上げようと思ひますのは、新開路六番(地)の家で起った事件であります。

サトン検察官   それは何年のことですか。

マギー証人   一九三八年のことであります。私が参りました道は南門の丁度内側にあったのでありますが、そこで中国人の話します所に依りますと、其の辺りで約五百人の中国人が殺されたと云ふ話でありました。私は新開路の六番地の家へ連れて行かれて見せられたのでありますが、それは案内したのは非常に年を取った母方の祖母さんでありましたが、そこでは多数の中国人の子供が死んだと云ふ話でありました。其の家に十三人の人が住そで居ったのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。其の中に一人の少女、其の年は約八歳から九歳位の一人の少女でありましたが、其の少女の話に依りますと、日本兵が入って来た時に背中を二度ばかり刺された、さうして其の時にはもう傷は大体治って居りましたが、其の刺された傷を私は現に見たのであります。写真を撮って参りました。約三十名の日本兵がやって来まして入口の所で大きな声で怒鳴ったのであります。回教徒の人が戸を開けました所が、即座に日本兵はそれを殺したのであります。さうして其の人の奥さんが少し……
〔宮本モニター   訂正。其の後ろに脆づいて居る男を殺し、又共の妻を殺したのであります〕
  それから此の兵隊は、私が先程申しました一寸広場の横の所へ是等の人を連れて行きまして、さうして十四歳から十六歳位の女の子を裸にしようとしたのであります。先程申しました非常に父方の祖母が其の女の子を保護しようと致しました所が直ぐに殺されたのであります。其の人は七十九歳でありました。其の主人は七十六歳でありましたが、腕を妻の方に差延べようとした所を殺されました。それから是等の日本兵は此の少女達を強姦したのであります。先程申しました案内役に立った其の祖母は、其の部屋に行って、竹の棒を女の膣から引摺り出して持つて来たのであります。
〔宮本モニター   追加。是等の女は強姦され且つ殺されたのであります〕
  其の時には其の小さな娘と、それから彼女自身とが居たのでありますが、それ以外に其の娘の子の弟になります四歳になる男の子が居たのでありますが、其の男の子は女の子の着物を着て居った為に、其の竹で突き刺されたと云ふことであります。男の子が女の着物を着て居った為に竹で突き刺された、と云ふことは、それが男であるか女であるかと云ふことの証明にはなりませぬが、兎に角其の子供が二回突かれたのであります。其の広場に面して居る他の家の出来事でありました。一人の母親が小さな一歳の子供と共に「ベッド」の下に隠れて居ったのであります。日本兵は其の女の人を強姦して、それから殺しました。それから只今申しました一歳の少女の脛の中に棒を突込んだのであります。
〔通訳   其の女を強姦し、さうして後に其の女も殺し、又赤ん坊も殺してしまったのでありますが、後程行って見ますと、其の殺された女の膣の中には瓶が入れてあったのであります〕
  其の小さな女の子は更に外の事件を私に話したのでありますが、もう一人「他の一人の女の子供は刀に依って首を斬られたのであります。
〔宮本モニター   一寸訂正します。或る女の子から、他の殺人に付て話を聞きましたが、其の子供の年は分りませぬけれども、頭から日本刀で斬られたのであります〕
  其の死体は家の中から外に引摺り出されたのでありますが、私が行った時は丁度其の事件が起ってから約六週間後のことでありましたが、到る処に血が散乱して居ったのであります。若し私が色を出す活動写真の映写機を持って居ったならば、其の時の血の色の工合をハッキリと写し取ることが出来たらうと思ふのであります。即ち其の中の一人の少女が強姦された机の上、それから他の少女が殺された床の上には到る処に血が散乱して居ったのであります。
  其の老婆は私を更に其の広場の近くに連れて行って案内したのでありますが、さうして其処で、竹の菰が其の死体の上に掛けてあるのを取除けて其の死体を私に見せたのであります。其の死体は一つは約十四歳の少女、もう一つは十六歳の少女、それからもう一つは其の老婆の娘である一歳の嬰児のお母さんと一緒に其処に死んで居りました。

東京裁判 マギー証言

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/21 18:47 投稿番号: [5229 / 29399]
サトン検察官   それでは一九三七年十二月十三日、日本軍が南京を占領しました後に、日本兵の中国一般人に対する所の態度はどう云ふ所で、どんな行動を取りましたか。

マギー証人   日本軍の暴行は殆んど信用することの出来ない程ひどいものでありました。最初其の日本軍に依りまする中国人の殺戮が始まりましたのは、色々な方法で行はれたのでありますが、先づ最初には日本軍の兵隊が個々別々に凡ゆる方法に依って中国人を殺したのでありますが、其の後になりまして三十名若しくは四十名の日本軍が一団となって、其の殺戮行為を組織的にやって行ったのであります。是等の日本兵は其の市(手)中に全く中国人の生命即ち死活の権を全然握って居ったやうに思はれるのであります。間もなく是等の日本軍に依りまする殺戮行為は到る処で行はれたのであります。暫く致しますると南京の市内には到る所に中国人の死骸がゴロゴロと横(た)はって居るやうになったのであります。是等の殺戮行為は或は機関銃に依り死んだ者もあり、其の他の方法に依って殺されたのでありますが、時々中国人が列を作って引張られて行く、さうして殺されるのを私は目撃したのであります。例へば或る一例を述べますると、一人の婦人が自分の主人が手を縛られて引張てれて行って殺され、さうして池の中に放り込まれるのを見たけれども、其の女の人は主人を助けることを許されなかった事例もあったのであります。


マギー証人   (略)   其の次の日の出来事でありますが、私は他の三人の外国人、其の外国人の二人は「ロシヤ」人、一人は私の同僚の「フォスター(Ernest H. Forster)」さんでありましたが、私共是れだけの外国人は家の「バルコニー」から外を見まして、実際中国人が一人殺されるのを目撃したのであります。それは中国人が私の家の前を歩いて居ったのでありますが、それは何れも絹の着物を着て居りました。それを日本の軍人が後から誰何したのであります。さうしますると此の中国人は非常に驚きまして、歩行を早めて逃げ去らうとして、丁度其の先の所にありました角の所を曲らうと致しました所が、其処には丁度竹垣がありまして行詰りになった為に、逃げることが出来なかったのであります。それを日本の兵隊が追掛けまして、さうして殺したのであります。

マギー証人   (略)   或る夕方のことでありますが、午後四時三十分頃でありましたが、私の居りました所に一人の日本兵が入って来まして、其処に居る中国人の妻を強姦しようとしたのであります。其の際、其の中国人の主人は窓から逃げて行ったのでありますが、其の日本兵は明かに其の主人が、其処に逃げて隠れて居ると云ふことを知らなかったやうでありました。
〔英語速記者朗読〕
〔通訳   訂正致します。或る日のことでありまするが、私は四時三十分頃に或る中国人の家に呼ばれて行ったのであります。それは其の家で一人の日本兵が、其処の中国人の妻を強姦せんとして居ると云ふ情報があると云ふことの為に、私は其処に呼ばれて行ったのでありますが、其の際、其の女の主人は、自分の妻を何処かに逃がさうと思って大いに努力したのであります。そして其の家の後尾にあった日本兵が、知らなかった戸口から逃がさうとしたのであります〕
  其の日本兵は其処に入って来た時には、武器を持って居てなかったのでありますが、一応立去って今度帰って来た時には武器を持って居りました。さうして其の婦人の主人を殺したのでありました。其の婦人は私を其の家の裏庭に連れて行って其の夫の死骸を見せたのであります。

東京裁判 ベーツ証言

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/21 18:43 投稿番号: [5228 / 29399]
サトン検察官   日本軍が、南京を支配し始めて後に於ける日本軍の対中華民国民衆の態度は如何でありましたか。

ベーツ証人   あなたの質問が非常に範囲が大きいので何処から姶めて宜いか分りませぬ。自分自身全然理由もなく民間人の個人が銃殺された事件を数々知って居ります。又、中国人で私自身の家から連出され射殺された者もあります。私の隣人の家では彼等の妻が強姦されたので、二人の男が驚いて起きました所、私の家の庭の角にある池の先きで二人とも射殺されました。

渡辺さん、東中野真理教の狂信者は

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/21 18:33 投稿番号: [5227 / 29399]
相手にしちゃいけませんよ。

悪い病気うつされちゃいますから。(笑)

>>ドイツに帰ってから編集、リライト

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/21 18:29 投稿番号: [5226 / 29399]
貴方の好きな漫画本も原稿があり、それが編集されて一冊の漫画本になるのですが、
それすら今までご存知ありませんでしたかな。(苦笑)

しかし、原稿が無くても本が出来ると思っているとは、
貴方方はつくづく不思議な生き物だと呆れ返ってしまいました。

原本は、Harvard Universityで公開されましたが、それもご存じなかったらしいですね。

お暇なようなので、直接伺ってご覧になってくれば宜しいと思いますよ。

>>史料等級論のナンセンス

投稿者: sksyhsg 投稿日時: 2004/05/21 10:01 投稿番号: [5225 / 29399]
横から失礼します。

一、二等史料とか一次史料、二次史料と云う区別は、資料の信頼度とは、何の関係も有りません。(多少はあるかな?)
個々の資料の編者や、資料そのものを考証し、信頼度を判別します。

逆の言い方をすれば、三等史料の方が信頼度が高い場合も、よくあります。

要は南京大虐殺の証拠資料と云われるモノに、考証に耐えうる、一級の資料はありません。
いわゆる、状況証拠がほとんどであり、その状況証拠も、
日時と場所を特定できるモノは大変少なく、
中国のHPで氾濫している証拠写真はその典型です。

学問を志す者からすると、写真の多くは、大変悪質と言わざるを、えません。

>史料等級論のナンセンス

投稿者: fine2983 投稿日時: 2004/05/21 01:50 投稿番号: [5224 / 29399]
>一次史料、二次史料くらいは使いますが、きょうび、一等、二等はないだろ。

呼び方はお好きにどうぞ(笑)
等級云々は誰が言い始めた事でしたっけ?

>一等史料とは、史実の発生当時、同所において責任者が自ら作成した文書類で、例えば当該責任者の日記・書簡・覚書の類。

>三等史料とは、一、二等史料を材料として作成した伝記とか、家譜の如きがその中に入る。

↑これらはYellowFluteさんの書き込みですが、同時に彼は「1997年」に編集され発行されたラーベの日記を
一次史料と称しています。その説明もまだの様ですが。まあ、watanabe1937さんによれば、等級云々はナンセンスらしいです。

史料等級論のナンセンス

投稿者: watanabe1937 投稿日時: 2004/05/20 23:56 投稿番号: [5223 / 29399]
domadoma01さん:>
-- -
ちなみに一等資料とは、ある事件が発生した時に、その場所で、当事者が残した資料を言います。
二等資料は、当事者が、異なる時間か、場所で残した資料。
三等資料が、一、二等資料を基にして、編集・公表したものですから、後からリライトされたラーベの日記は第三次史料となるハズですが?
-- -

一次史料、二次史料くらいは使いますが、きょうび、一等、二等はないだろ。
「ある事件が発生した時に、その場所で、当事者が残した資料」が一等なんて、通信の発達した時代におかしいとは思わないの。せいぜい江戸時代までのことだろ。東中野先生の等級論のでたらめさは、下記の元ネタの元で明らかです。なんか、ちょっと違うぞ。

「坪井九馬三『史学研究法』の史料等級分類法 」
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/8/kzsqrf/kzsqrf.html

<参考>実際に東中野先生が史料を分類すると、こんな結果になってしまった...
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/6/cieqrf/txcqrf.html#txcqrf

>ドイツに帰ってから編集、リライトした

投稿者: fine2983 投稿日時: 2004/05/20 21:35 投稿番号: [5222 / 29399]
>ですから、ラーベの日記というのは、南京に設けられてた国際安全区委員会の委員長であるジョン・ラーベが
つけていた日記のことであり、南京にいたラーベが当時書き残した残したものなので、一等資料と言えます。

ちなみに、ラーベの日記が「発見」されたのは『1995年』で、編集され
一般に発行物として大々的に日の目を見たのが『1997年』との事ですが。

これのどこが一次史料なのでしょうか。

http://www.ywad.com/books/5.html

「わたしの見た南京事件」奥宮正武3

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/20 17:46 投稿番号: [5221 / 29399]
国際法の解釈

  また、この章の「虚構説」の冒頭で紹介した論文には、「南京市民立ち会いのもと兵士と市民を区別した」とある。そうであれば、たとえ便衣を着ていようとも、中国兵がわが陸軍部隊に捕らえられていたことになる。そうであれば、彼らを処刑することは、へーグ条約はもとより、ジュネーブ条約の違反ではないか。

  なお,同じ論者達が別の著作で、南京での便衣兵をゲリラと同一視していることにも問題がある。というのは、ゲリラとは元々欧米諸国で使われてきた用語で、通常、愛国心やその他の特殊な意図から、積極的に、大敵行動をする軍人ではない人々を指す言葉である。従って、彼らは積極的に武力の行使や妨害活動に従事している人々である。
・・・・
  私の知る限り,彼らのほとんどは,戦意を失って,ただ、生きるために、軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。したがって、彼らを通常言われているゲリラと同一視することは適当とは思われない。

捕虜を捕らえた場合

  勇敢な将兵が、個人で敵兵を捕らえた事例は珍しくない、そのような際には、総司令官の命令の有無は関係がない。その逆の場合も同様である。戦勝や病気のために動けなくなっている状態で、自らの意志に反して、敵に捕らえられることもあり得る。また、空腹に堪えかねて、自ら降伏を申し出る場合すらあり得るからである。

「わたしの見た南京事件」奥宮正武2

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/20 17:43 投稿番号: [5220 / 29399]
第二日目

  十二月二十七日。この日は市内の西部を重点的に見回る予定であった。が、前々日の光景があまりにも鮮明に記憶に残っていたので、念のために、まず、再び下関に行くことにした。
  下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、中国人を乗せた無蓋のトラックが、続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。
  再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。そこで、ある種の疑間が生じた。
  それは、
「多数の中国人を、大した混乱もなく、どうして、ここまで連れてくることができるか」
ということであった。
  そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を尋ねた。ところが、彼は、何のためらいもなく、
「城内で、戦場の跡片付けをさせている中国人に、〃腹のすいた者は手を上げよ〃と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのようにして、トラックに乗せているとのことです」
  と説明してくれた。
  そこで、更に、
「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」
と質間したところ、
「上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられているからです」
との答が返ってきた。
  このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の二十五日と二十七日に手際よく行なわれていた。もっとも二十六日と二十五日前と二十七日後にどのような処刑が行なわれていたかは分からなかったが(註   第三○旅回長佐々木到一少将の手記によれば、十二月二十四日までに約一万五千人以上、十二月二十四日から翌年一月五日贖までに数千人の処刑をしたとのことである)、二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、一時的な、興盲状態での対敵行動であるとは私には思われなかった。この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。
  私は、この二目間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれぱ、少なくとも合計五百人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。もっとも、どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。
  それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。
  そうだとすれば、それは、明らかに、国際法上の大間題ではないかと思われた。が、当時の私には、そのことを突っ込んで検討する時間的な余裕がなかった。その後間もなく、私自身が作戦飛行に従事せねばならなかったからであった。
  下関での第二日目の処刑場を確認したのち、本来の遺体捜索活動に移った。そして、下問付近を見回ってから、再び福一江門から城内に入り、主として、市内の北西部と中心部にある難民区を調査した。
  城内では、幹線道路の両側を、なしうる限り、約一千メートルの問隔をおいて支線に入って、日本機の消息を間いて回った。難民区には大勢の中国人がいて、車から見た限りでは、平時の中国の他の都市とあまり変わらないようであった。そこでは、一軒の民家に日本機一機が墜落して、家族全員が死亡したとの気の毒な話を聞いた。が、機体は片付けられていたし、搭乗員の遺体は他に持ち去られていた。
  その後、市の南部にある中華門を出て、雨花台方面を調査したところ、計九名の遺体を発見することができた。二人は九六式艦爆の搭乗員で、七人は九六式陸攻の搭乗員であった。いずれも土葬で、立派な木製の棺に納められていた。私はそのような手厚い取り扱いをしてくれた紅卍会の人々に感謝せずにはいられなかった。
  この日、多くの中国人と接触したが、城内でも、城外でも、多くの人々が積極的に、私の質問に答えてくれた。また、雨花台方面の道路で出会った農民たちは、笑顔さえ浮かべ、頭を下げて、われわれに挨拶をしていた。それは、わが国の地方の農村にもよくある光景と同じであった。

「わたしの見た南京事件」奥宮正武

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/20 17:42 投稿番号: [5219 / 29399]
二度見た虐殺の現場

そこでその付近を捜索した後、玄武門外に出た。そこには広大な玄武湖があった。ところが、そこで、目もあてられないような惨状を目撃した。湖岸やそこに近い湖上に数え切れないほどの数の中国人の死体が投棄されていたからであった。どうしてこのようなことになったか、と尋ねようとしたが、付近には人影がなかった。が、このことは、それまでの南京で異常な事態が発生したことを示唆していた(註   十三日、一部の部隊がここで敗残兵を処刑したとの記録があるが、私の見たところではそれだけではないようであった)。
  玄武門から再び城内に入り、近くにあった広い道路を北進しながら、付近を調査することにした。その後、西進したり、南進したり、また西進したりしているうちに、市の中心部と下関(しゃーかん)を結ぶ中山北路に出た。そこで、その道路を北西進しているうちに拒江門についた。そして、そこから三たび城外に出て、下関とその付近を捜索することにした。
  下関は、南京と揚子江の対岸にある浦口とともに、交通の要衝であった。浦口は、私が上海着任直後に、最初に、爆撃したところでもあった。下関にはかなり大規模な停車場と開源碼頭(波止場)があった。そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が多数の中国人を文字通り虐殺している現場を見た。
  碼頭の最も下流の部分は、揚子江にそって平坦な岸壁があり、やや広い敷地を挟んで倉庫群があった。そして、その倉庫群の中に、約三十名の中国人を乗せた無蓋のトラックが次々と消えていた。不思議に思ったので、何が起こっているかを確かめようと、警戒中の陸軍の陸軍の哨兵にことわって、構内に入った。私が海軍の軍服を着た将校であったこと、海軍の車から降りてきたこと、軍刀や拳銃で身を固めていたためであろう、私の動きを阻止する者はいなかった。また付近には報道関係者などの姿はなかった。
  構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江上に投棄されていた。
  岸辺に近いところは、かなり深く、目に見えるほどの速さの流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去っていた。が、一部の死にきれない者がもがいているうちに、江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので、その付近は血の川となっていた。そして、死にきれないものは銃撃によって、止めが刺されていた。
  この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行なわれていた。大声で指示する人々もいなかった。そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると推察せざるをえなかった。したがって、部外者である私が口を出す余地はないと感じた次第であった。
  そこで、私は、付近にいた一人の若い陸軍士官に、尋ねた。
「なぜこのようなことをするのか」
  答えて日く、
「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが陸軍の小隊長級の若い士官十名か十一名かは分かりませんが寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです。そこで、彼らの戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の住民を処刑しているとのことです」
  彼の説明が正しかったか否かは私には分からなかった。あるいは、そう説明するように教えられていたのか知れなかった。
  その日、私は、しばらく一連の処刑を見たほか、合計十台のトラックが倉庫地帯に入るのを確認したのち、現場から退去した。そして、その後は、主として、市内の東部を捜索しながら飛行場へ帰った。
  人間とは不思議な性格を持っているようである。最初に下関で処刑を見た時には、私は甚だしい衝撃を受けた。ところが、しばらくその場にいると、次第に異常さを感じなくなった。処刑をしている将兵たちの中にも同様に感じていた者がいたかも知れない。その場の雰囲気は、平時には考えられないほど特異なものであった。
  また、現場にいた将兵の中には、上海から南京に至るまでの間に、自らの上官、同僚、、部下などを失ったための憤りにも似た特異な感情を持っていた人々がいたことであろう。
  ところが、そのような異常な感情は軍人や男たちばかりにあるのではなかった。昭和七年の上海事変が一段落したのち戦跡を見て回ったさい、私は、その場に居合わせた上海在住の日本人の若い女性たちが、放置されていた中国兵の死体を指差しながら、私がそれまでに想像だにしていなかったような言葉を使って、平然としていたからであった。
  二十六日には、隊務のために、基地を離れることができなかった。

>ドイツに帰ってから編集、リライトした

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/20 17:35 投稿番号: [5218 / 29399]
東中野の受け売りではなく、その確たる根拠を示すのが議論の流れというものだがね。

東中野信者による数字遊びに過ぎない2

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/20 17:31 投稿番号: [5217 / 29399]
38年 1月17日(ラーベ日記)

  昨日の午後、ローゼンと一緒にかなり長い間市内をまわった。すっかり気が滅入ってしまった。日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりのことに言葉もない。近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。かつての目抜き通 り、イルミネーションなら上海の南京路に引けをとらないと、南京っ子の自慢の種だった太平路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。無傷の家など一軒もない。行けども行けども廃墟が広がるだけ。大きな市が立ち、茶店が建ち並んでいた繁華街夫子廟もめちゃめちゃで見るかげもない。瓦礫、またがれきだ!いったいだれが元通 りにするというんだ!帰り道、国立劇場と市場の焼け跡によってみた。ここもなにもかもすっかり焼け落ちていた。南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一どころか半分が廃墟と化したといってよいだろう。
  日本軍は安全区から出るようにとくりかえしていっているが、私は逆にどんどん人が増えているような気がする。上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。いまは道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、なかには盗まれた故宮宝物まで混じっている。
『難民の数は今や二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからない。』

「1937年11月23日に国民党政府軍事委員会後方勤務部宛書簡」
調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50万余りである。将来は、『およそ20万と予想される』難民のために食糧送付が必要である。

「松井指揮官・山本実彦対談」
  三軍を統べて我民族のために上海、蘇州、講習、南京で大捷し、歴史的の偉業を、基地でホット休養している松井指揮官を私は大晦日の午後に訪問いたしまして約一時間会談を遂げることができました。
・・・
山本:   南京もよく行きましたね。あれほど早く陥ちるとは思ひませんでした。
松井:   実は僕らも、もう二週間ぐらいは後になるだらうとおもっていたが、案外に早かった。蒋介石の教導総隊だけは相当に抵抗をつづけたが、後はたいした抵抗をしなかった。だから南京は都合の好いことには余り破壊されていない。蘇州も十分の一位しか壊れていないが、占領地域の人民の帰って来るまでにはやはり一月位はかかるだらうね。今でも『一日に六百人位』は帰って来るとか云ふ話だ。

東中野信者による数字遊びに過ぎない

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/20 17:29 投稿番号: [5216 / 29399]
私は30万虐殺などとは一言も言っとらんがね。

「南京地区における戦争被害」(スマイス報告)
南京市の戦前の人口はちょうど一〇〇万であったが、爆撃が繰り返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(十二月十二〜十三日)の人口は二十万人から二十五万人であった。我々が三月に行った抽出調査で報告された人員を五十倍すれば、すぐさま市部調査で表示されている二十二万千百五十人という人口数が得られる。この数は当時の住民総数のおそらく八十ないし九十パーセントを表していたものであろうし、住民の中には調査員の手の届かぬところに暮らしていたものもあった。(人口についてさらにつっこんで問題するには、第一表の注を見よ)
  二万七五〇〇名は国際委員会の維持していた難民収容所に住んでいたもので、調査人員の一二%に当たる。収容所に入らなかったが安全区内に住んでいたものは六万八〇〇〇人で、全体の三一パーセントを占めている。調査の記述によれば、建物総数の四パーセントがあるだけであり、また、城内の総面積のおよそ八分の一に過ぎなかった地域に、市の陥落以後、一四週立った後でも、住民の四三パーセントが住んでいたのである。

注:
  十二月末から一月にかけて日本軍当局によって行われた不完全な登録に基づいて、国際委員会のメンバーが推定したところでは、当時の南京の人口は約二十五万人であって、数週間前に彼らが特に慎重に推定した数をはっきりと上回るものである。中国の半官半民筋はほぼ三十万と推定していた。2・3月には大した変化はなかったが、市の近辺の秩序の乱れた地域から著しい人口の流入があったので、恐らくそれは流出をわずかながら上回っていた。これも明らかに重要なことであった。我々が推定してみたところでは、3月下旬の人口は25万ないし27万であって、このうちには調査員の手の届かぬ人々もあり、また移動の途中の人々もあった。調査した人員は22万1、150である。5月31日には市政公署の5つの地区の役所で登録された住民(下関を含むが、明らかに城外のその他の地区を含まない)は27万7000人であった。この数字は特に婦女子について不完全であることが認められており、普通はほぼ40万と修正されている。
  一年前、南京市の人口はちょうど100万を越したところであった。この数字は8月・9月にかけて急減し、11月初旬にまた50万近くに戻った。旧市街は今日考えられているよりも広い地域を含み、その地域は少なくとも人口の10分の1を占めていた。

60年以上も昔のことじゃ。

投稿者: ihciajp 投稿日時: 2004/05/20 16:50 投稿番号: [5215 / 29399]
60年過ぎた今も同じことじゃ。
かどわかされたって言わなきゃ言い訳できない。
今も昔も結構な金に成ると聞きます。

補足

投稿者: fine2983 投稿日時: 2004/05/20 14:25 投稿番号: [5214 / 29399]
>安全委員会委員長として、日本大使館に
当てた文書の価値は、どのように取られますか?

この史料は、作られた場所、時間が分かっていて、食料の援助要請と言う
目的もハッキリしてるので、当時の状況を知る上での第一史料と言えます。

書いた人間は同じでも、この文書と
ラーベの日記は、検証史料としては等価ではありません。

資料について一言

投稿者: nennenkosaisa_i 投稿日時: 2004/05/20 14:18 投稿番号: [5213 / 29399]
誰かが、手紙に書いた。
本に書いてある。
誰かが話していた。
2人で二百数人たたき斬った。

これを、証拠として事実を論じるなら、
古事記のスサノウは実在して、八岐大蛇も実在して、・・・

そんな分けないでしょ。
文献考証は基本注の基本。

s_ackeyさん、話すだけ無駄なのでは?

彼らは、ただヒステリックに、日本人をバッシングしたいだけでの様だし。

ラーベと言えば

投稿者: s_ackey 投稿日時: 2004/05/20 12:32 投稿番号: [5212 / 29399]
こういう公文書が一等史料というのではないでしょうか?
安全委員会委員長として、日本大使館に当てた文書の価値は、どのように取られますか?

1937年12月18日に、ラーベが日本大使館に宛てた手紙の中で、[We 22 Westerners cannot feed 200,000 Chinese civilians and protect them night and day.]と書かれています。
また、1938年1月14日の文書では、[〜 probably 250,000 to 300,000 civilians in the city.]となっています。
12月18日に20万人いた、安全区の人口が、1月14日に25〜30万人と増えています。このような状況で、30万人虐殺があったとしたら、当時の南京には、殺されるとわかっていなかがらも、35万人の人たちが流入してきたと言うことになります。35〜40万人の人が流入してきたことになります。

また、ラーベは南京安全区委員会委員長でありますが、安全区委員会が日本大使館に対して、毎日のように日本軍の犯罪の被害届けを出していることがわかっています。12月12日から翌2月7日までで、殺人49人です。これも、ラーベ自身は殺人の現場を直接目撃していません。

仮に49人が事実だと認められたとしても、30万人の虐殺とは数字がかけ離れすぎています。このギャップを埋めるべく、虐殺が行われていたという資料を出していただけますでしょうか。

>言葉遊びですか。一等史料でしたね

投稿者: fine2983 投稿日時: 2004/05/20 11:50 投稿番号: [5211 / 29399]
IDを変えて、こんにちは。

>ですから、ラーベの日記というのは、南京に設けられてた国際安全区委員会の委員長であるジョン・ラーベが
つけていた日記のことであり、南京にいたラーベが当時書き残した残したものなので、一等資料と言えます。

↑これも初耳です。

肯定派の方々が史料としているラーベの日記は、当時の南京でラーベが書いた物では
なく、戦争終了後にラーベがドイツに帰ってから編集、リライトした物ですが?

戦争終了後、ラーベがドイツに帰ってから編集、リライトされる
以前のラーベの日記が存在するというなら、ソースをお願いします。

>後に、900カ所に渡って南京事件を否定する方向に改竄されてる
ことが発覚した「松井岩根大将の陣中日誌」(田中正明)とは根本的に異なりますね。

ラーベ本人が実際に目撃した虐殺って、「何件」でしたっけ?(笑)

言葉遊びですか。一等史料でしたね

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/20 11:05 投稿番号: [5210 / 29399]
史学概論によれば、一等史料とは、史実の発生当時、同所において責任者が自ら作成した文書類で、
例えば当該責任者の日記・書簡・覚書の類。
二等史料とは、史実発生当時の同所に、最も近き場所、最も近き時、
又は同じ場所で時間が幾分異なるもの、又は時が同じで、場所が幾分異なる所で、
責任者が自ら作り上げた報告とか、日記・遺言・覚書・追記類の如きもの、
ないしは後日に作り上げた日記とか、随筆類の如きがこの中に入る。
例えば当事者が後日、暇を得て作成した文書類
三等史料とは、一、二等史料を材料として作成した伝記とか、家譜の如きがその中に入る。
もちろん、この場合人物も年代も場所も違っているのであるが、編纂の方法が正確である限り、これは三等史料という。
そして、一から三等史料までが根本史料とされ、参考資料、当該史料とは区分されています。

ですから、ラーベの日記というのは、南京に設けられてた国際安全区委員会の委員長である
ジョン・ラーベがつけていた日記のことであり、
南京にいたラーベが当時書き残した残したものなので、一等資料と言えます。

後に、900カ所に渡って南京事件を否定する方向に改竄されてることが発覚した
「松井岩根大将の陣中日誌」(田中正明)とは根本的に異なりますね。

さて、いい加減なのはどちらでしょうかな。

私は事実が知りたいのであり、君ら情緒主義者のように、
否定の為の否定、肯定の為の肯定をしてるわけではありませんがね。

> Re^3:百人斬り競争を裏付ける

投稿者: toitatoi 投稿日時: 2004/05/20 08:27 投稿番号: [5209 / 29399]
>訴訟の濫用だと私は思います。民事訴訟を提起することは簡単です。しかし、被告にとっては、それだけでも経済的・時間的な打撃になります。
>本多氏の議論は『落日燃ゆ』のように創作を交えたものではなく、資料によって論証したものです。   代理人は一体何を考えているんでしょうか。
>南京軍事法廷での判決に対し、実際はどういうことであったのか、そういう議論は認められなければなりません。
>それでは、歴史というのは、当事者の子孫以外には「他人事」だから子孫の諒解なく語るなということになってしまいます。


watanabe1937さん。勘違いしてませんか?   そんなこと言ってないですよ。
自分の親というレベルでは、それによって生じた不利益というのは子供という立場では直接的な物です。自分の直接的なことで裁判を起こすのは日常茶飯事です。そういう子供のレベルについて裁判を起こす、という行為自体を否定するのですか?   このような近しい時代のことを述べるときは、「名誉毀損」がつきまとうのはあたりまえです。『落日燃ゆ』が創作なのに対し、本田氏は事実としていますので、余計問題視されやすいです。まさか、織田信長の残虐行為を批判するのはけしからん、ということで子孫が訴訟を起こす、ということとごっちゃにしてませんか?
『落日燃ゆ』裁判判例の「年月を経るに従い、歴史的事実探求の自由への配慮が優位に立つと考えるべきである。」というのは、そのようなことでしょう? 少なくとも子供のレベルが裁判を起こすということは、まだ許容の余地がある、という風に私は考えますよ。また、家族は、何度も裁判を起こすような「濫用」をしたのでしょうか。初めてでしょう?

>どういう名誉でしょうか?戦犯になったことが不名誉ということなら、本多氏や出版社にではなく、軍事裁判の判決に対して向けられるべき言葉です。

軍事裁判の判決に対しても向けたいのはあたりまえです。中国へ行ってそんなことが現実的に可能ですか?  

>東京日日に至っては、当時は地元で栄誉とされた記事を掲載したのです。だから、「おかどちがい」です。

遺族としては、捏造である(これについてはホラ話説も含め私は事実判断は難しいと思います)、および、訂正をしない、ということを問題視していますので、焦点は捏造部分だけではないですね。
認められるかどうかは別問題です。

>おっ!一級史料がいい加減とは

投稿者: domadoma01 投稿日時: 2004/05/20 06:14 投稿番号: [5208 / 29399]
>>ラーペ日記、ベイツの回状自体がいい加減です。

>おっ!一級史料がいい加減とは

ラーベの日記等が、一級史料とは初耳です。

ちなみに一等資料とは、ある事件が発生した時に、その場所で、当事者が残した資料を言います。

二等資料は、当事者が、異なる時間か、場所で残した資料。

三等資料が、一、二等資料を基にして、編集・公表したものですから、後からリライトされたラーベの日記は第三次史料となるハズですが?

ラーベの日記が第一次史料とする根拠はいかに?

同じ事を何度も何度も言っても、史料以前に「史料の裏付け」も
取れてない代物ばかり持ってくるから肯定派の方々は、いい加減と言われるのですよ。

以上。

おっ!一級史料がいい加減とは

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/20 03:06 投稿番号: [5207 / 29399]
君の妄想は超ド級ですね。(笑)

まぁ、私としては思考能力のないハゼにまで知性は要求しませんので、ご自由に。

Re^3:百人斬り競争を裏付ける

投稿者: watanabe1937 投稿日時: 2004/05/20 02:56 投稿番号: [5206 / 29399]
toitatoiさん:>どうせ、負けるんだから、裁判は無意味だ、迷惑だ、と言う考えでしょうか。結果は判りません。

  訴訟の濫用だと私は思います。民事訴訟を提起することは簡単です。しかし、被告にとっては、それだけでも経済的・時間的な打撃になります。
  原告代理人が『落日燃ゆ』裁判の判決を参考にしていることは、故人の「敬愛追慕の情」というような表現から明らかです。しかし、その裁判は原告が完全敗訴したものです。しかも、本多氏の議論は『落日燃ゆ』のように創作を交えたものではなく、資料によって論証したものです。   代理人は一体何を考えているんでしょうか。
  一部でも文言が認められて判決に入っていたら、実質勝訴というつもりとしか思われません。

>残された家族にとっては、「名誉回復」したい、というのは自然。

  どういう名誉でしょうか?戦犯になったことが不名誉ということなら、本多氏や出版社にではなく、軍事裁判の判決に対して向けられるべき言葉です。東京日日に至っては、当時は地元で栄誉とされた記事を掲載したのです。だから、「おかどちがい」です。

>家族にとって、この件について「歴史探求の自由」というのは他人事でしょう?

  それでは、歴史というのは、当事者の子孫以外には「他人事」だから子孫の諒解なく語るなということになってしまいます。
  南京軍事法廷での判決に対し、実際はどういうことであったのか、そういう議論は認められなければなりません。
  あるいは、山本七平氏が「百人斬り」論争を挑んだとき、本多勝一氏は黙していなければならなかったのでしょうか。
  『落日燃ゆ』裁判の控訴審判決はこのように述べています。
-- -
もっとも、死者に対する遺族の敬愛追慕の情は死の直後に最も強く、その後時の経過とともに軽減して行くものなのであることも一般に認めうるところであり、他面死者に関する事実も時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行して行くものということができるので、年月を経るに従い、歴史的事実探求の自由への配慮が優位に立つと考えるべきである。(中略)右行為の違法性を肯定するためには、前説示に照らし、少なくとも指摘された事実が虚偽であることを要するものと解すべく、かつその事実が重大で、その時間経過にかかわらず、控訴人の故人に対する敬愛追慕の情を受認し難い程度に害したといいうる場合に不法行為の成立を肯定すべきものとするのが相当である。
  しかし、前認定によれば、本件文章に記載された問題の個所が虚偽の事実と認めることはできないから被控訴人の行為について違法性はなく、控訴人主張の不法行為の成立を認めることはできない。
[『判例時報』918号, p.23]
-- -

>確かに慰安婦強制連行は事実かな

投稿者: fujkaz5582 投稿日時: 2004/05/19 21:30 投稿番号: [5205 / 29399]
今から60年以上も昔のことじゃ。
朝鮮人の人買い業者が大勢の朝鮮人女性をかどわかしては売春婦にして、日本軍の前線基地にまとわりついて、ピー屋を開き大もうけをしたそうな。
ところが女性をかどわかした罪を、後になって、こともあろうに全部日本軍になすりつけたそうな。

朝鮮むかし話じゃなくて今もまだやってたんだ。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/05/19/20040519000031.html

【百人斬り裁判】原告側のサイトから

投稿者: dorawasabi5000 投稿日時: 2004/05/18 23:19 投稿番号: [5204 / 29399]
☆新発見の【新聞記事】(手紙と歌が記載されている)・・・



大阪毎日鹿児島沖縄版

昭和13年1月25日“253人を斬り
今度千人斬り発願  


さすがの波平も無茶苦茶   野田部隊長から朗信“



南京をめざして快進撃を敢行した片桐部隊の第一線に立って、壮烈無比、阿修羅の如く憤然快絶“百人斬り競争”に血しぶきを飛ばしで鎬を削った向井敏明、野田毅両部隊長は晴れの南京入りをしたが、

その血染めの秋月に刻んだスコアは106−105、いづれが先に百人斬ったか判らずドロンゲームとなったが、その後両部隊長は若き生命に誓って更に一挙”千人斬“をめざし、野田部隊長は自慢の【敗残兵掃蕩に253人を斬った、】


かくして鮮血もゆる両部隊長の刃こぼれした白刃に刻んでゆく”血刃行“はどこまで続く?


このほど豪快野田部隊長が鹿児島県枕崎町中村碩郎氏あて次のごとき【書信】を寄せたが,



同部隊長は死を鴻毛の軽きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刀をふるふ壮絶な雄姿そのままの痛快さがあふれてをり、勇猛野田の面目躍如たるものがある。



―目下中支にいます。約50里の敵、金城鉄壁を木っ端微塵に粉砕して敵首都南京を一呑みにのんでしまった。極楽に行きかかったのは5回や10回ではないです。

敵も頑強でなかなか逃げずだから大毎でご承知のように【百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来たのです。】



小銃とか機関銃なんて子守唄ですね。迫撃砲や地雷はジャズに等しいです。

その後、滅茶苦茶に斬りまくって253人を叩き斬った。おかげでさすがの波平も無茶苦茶です。

【百や二百は面倒だから千人斬りをやろうと向井部隊長と約束したのです。】



支那四百余州は小生の天地には狭すぎる。


【戦友の六車部隊長が歌を作ってくれました。】

百人斬り日本刀切れ味の歌(豪傑節)

1.今宵別れて故郷の月に冴えて輝くわが剣
2.軍刀枕に露営の夢に飢えて血に泣く声がする
3.嵐吹け吹け江南の地に斬ってみせたや百人斬り
4.長刀三尺鞘を払えばさっと飛び散る血の吹雪
5.ついた血糊を戎衣でふけば傷も残らぬ腕の冴え
6.今日は顔かよ昨日はお顔明日は試さん突きの味
7.国を出るときや鏡の肌よ今じゃ血の色黒光り(以下略)


まだ極楽にも行けず靖国神社にも行けず、253人も斬ったのでぼつぼつ地獄行きでしょう。

武運長久を毎日念じています。小生戦死の暁には何卒路傍の石を拾いて野田と思い、酒それも上等の酒を一升頭から浴びせ、煙草を線香の代わりに供えられたく、最後に大元帥陛下万歳。(註:特派員の名前無し)野田少尉の顔写真あり、


  大毎   小学生新聞

  昭和13年1月26日
千人斬りの誓  

   斬りまくる253人   百人斬り競争の野田部隊長


上海戦線○○部隊の第一線の勇士、向井敏明、野田毅両部隊長が百人斬りの誓いをたて、斬って斬って斬りまくり、以下略。

  野田部隊長は敗残兵を追いまくって進みに進み,斬りにも斬った、253人,伝家の宝刀「波平」も鋸の歯のようになりましたが、以下略

http://homepage2.nifty.com/60hp/100sosyou.htm

>Re^2:百人斬り競争を裏付ける2

投稿者: toitatoi 投稿日時: 2004/05/18 23:15 投稿番号: [5203 / 29399]
>100人斬りは、野田、向井両氏が自分で言っていたことで、

言い出しっぺは、記者なのか野田、向井両氏なのか、確定はできませんが、少なくとも、戦時中は、本当にやったかどうかは別にしても、野田、向井両氏は内容を容認していたと考えています。名誉なことですし。

>本多氏が言い出したことではありません。また、東京日日報道は、3人の記者がそれぞれに、両氏の語ったことを記事にしたと言っているわけです。

その通りです。「あった」派、「なかった」派にかかわらず、みなさん知ってますが。

>次回、佐藤振壽氏が証言をするようですが、すでに『南京戦史資料集Ⅱ』などで発表されたものと、内容に大きな違いはないものと思います。

原告側からの情報ですと、今回新たに作成された供述調書で、証拠で提出している佐藤証人の供述調書のなかには、「百人斬りはうそである。浅海は嘘っぱちを書いた」と記載してある、とのことですので、実際の証言を聞いての判断が妥当かと思います。

>私自身は、人数が100人かどうかは分かりませんが、競争自体はしており、実態は他の兵士がしていたような捕虜の斬首で、当時の一般的状況から非戦闘員も含まれていたと判断しています。

当然、両少尉とも何らかの形で戦闘行為に参加していたでしょうが、実際に100人斬りと称する、突出した特別な行為があった、ということを証明するものは何もありません。本人話関係のみです。仮に記者達の捏造記事でなく、本人達発だとしてもです。

>手紙が存在したこと、また一部に編集者の手が加わっているにしても宛先が実名になっている手紙は、ほぼそのまま内容が掲載されたことを疑う理由はありません。

なぜでしょう?

>これは、特派員の取材によるものではなく、本人が書いたという点で重要な意味を持ちます。少なくとも「百人斬り競争」記事が「記者の捏造」と主張することは難しくなりました。

少なくとも、筆跡鑑定など行ったのでしょうか?   書いた本人が、認めていたのでしょうか。また、仮に本人が書いたとしても、「記者の捏造から始まった」ということを否定する資料ではないと思います。始まりは「記者の捏造」で、その後本人がその話に乗っかった、ということを否定するものではありません。

>もっとも、大阪毎日新聞が、当時、他人の手紙を勝手に創作していたことを、他の事例で示すことができれば別です。

意味ないと思います。

>一般的に、当時(1937-1939年)の新聞は規制の範囲内で事実については比較的正確で、歴史の資料として十分価値があります。

少なくとも、今回の「100人斬り」関係では説得力がありません。
100人斬りの発端となった記事について、記者たちも本人達以外に取材すらしていません。物証も含め、ウラを何も取らずに記事にして、易々と掲載するというのは、事実認定上、軽率すぎます。その後もウラを取ってませんし。こんな取材姿勢のものを正確だと言われても・・・。だから逆に捏造説も否定できないと言われてしまいます。

>作者の六車氏は、野田氏と同期の同じ連隊の第1大隊副官と思われますので「百人斬り」のことと考えるのが自然です。

六車氏は歌や「100人斬り」について、どのように述べていますか?


>それが戦闘行為、捕虜殺害、両氏のホラ話しのいずれか、あるいはそれらの混じったものなのかは、証拠によって論じればよいことで

その通りだと思います。

>Re:百人斬り競争を裏付ける

投稿者: dorawasabi5000 投稿日時: 2004/05/18 23:10 投稿番号: [5202 / 29399]
watanabe1937さん、提示されたリンクは勉強になります。
皆さん詳細に研究されていてすごい。
ありがとうございました。
まだ途中ですが。



>   下記 url で、ご指摘の記事を検討しています。
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/9/ejfqrf/vrkqrf.html#vrkqrf

・・・




>   結局、
  1.東京日日の記事は野田、向井両氏の語ったことを記事にしたもの。
  2.両氏とも「百人斬り競争」をしていたことや、東京日日の記事を否定していない。
  3.その実態がどうであったかということについては、さまざまな議論がある。
ということになります。
更に、
  4.本多勝一氏の『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房)などの「百人斬り競争」についての記事は相当の理由に基づく。
わけです。その理由となった証言などについて信憑性を議論するのは自由ですが、本多氏の虚偽虚妄に基づいたわけではありません。



>死者の「名誉毀損」は、少なくとも指摘された事実が虚偽であることを要します。[1]   上記1、2、4の事実から、「百人斬り競争」の議論を制限しようとする「百人斬り競争」裁判の原告請求には、もともと無理があるのです。
  大阪毎日に掲載された手紙は、上記2.について新たな根拠となるものです。




全くその通りですね。

わざわざふるさとの友人に手紙で事情を綴り、戦友に【百人斬りの歌】を作ってもらう事までしていますからね。



これからもまた、新しい史料が発見される事を期待しています。

やあ!醤麺狂師クン(にこにこ)

投稿者: inuwokuuna_bakatyon 投稿日時: 2004/05/18 19:25 投稿番号: [5201 / 29399]
最近、バカわさびクンも遁走したっきりだし
醤麺狂師クンもレスくれないから寂しいよ(大笑い



>まあ私がアジアの映画を見ろ!ていうのは、歴史の勉強ばかりじゃない。
>無惨に殺された一市民の顔や生活全般を想像する助けになるか是非必要だ
>ということだ。だから天皇教カルトの馬鹿者というか若者にアジアの映画を見よ
>って口酸っぱく言っているわけだ。

醤麺狂師クンの話にはいつも映画がでてくるねぇ(藁

で、
アジアの映画を見たらどうなるんだって?
言ってごごらん?



>インドが米国の約2倍・年間800本以上を生産する映画大国であることは
>知られている。
>インド映画の特徴として特筆すべきは、米国映画にありがちなジンゴイズム
>(好戦性)が希薄なことだ。
>一つには、特定の民族なり宗教を攻撃する作品の公開は認められないからである。
http://www.seikyo.org/article235.html

きっと世界最大の映画大国インドでは、皆ニコニコと仲良くやってるんだろうね(藁
まさかヒンズー教とイスラム教がいがみあって鉄道を爆破したりって話はないよな?
(大笑い

なのに、カシミールではしょっちゅう「ドンパチ」やってると報道されてるよ。
あれはインドとパキスタが互いに相手国の国民に花火を披露してるんだよね(藁
「カシミール紛争」なんて絶対マスコミの捏造話だよね。
まさかインドには、核爆弾なんてあるハズもないよね(藁

だよね?

(大笑い


・映画を見れば・・・
・「戦争はんた〜い」と叫べば・・・
・憲法九条があれば・・・

           平和さんがニコニコしてやって来る。

という、君達バカサヨのこの「平和三原則」をイラク人たちに教えてあげなよ。
どうだ醤麺狂師クン?

(大爆笑
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