東中野信者による数字遊びに過ぎない
投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/20 17:29 投稿番号: [5216 / 29399]
私は30万虐殺などとは一言も言っとらんがね。
「南京地区における戦争被害」(スマイス報告)
南京市の戦前の人口はちょうど一〇〇万であったが、爆撃が繰り返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(十二月十二〜十三日)の人口は二十万人から二十五万人であった。我々が三月に行った抽出調査で報告された人員を五十倍すれば、すぐさま市部調査で表示されている二十二万千百五十人という人口数が得られる。この数は当時の住民総数のおそらく八十ないし九十パーセントを表していたものであろうし、住民の中には調査員の手の届かぬところに暮らしていたものもあった。(人口についてさらにつっこんで問題するには、第一表の注を見よ)
二万七五〇〇名は国際委員会の維持していた難民収容所に住んでいたもので、調査人員の一二%に当たる。収容所に入らなかったが安全区内に住んでいたものは六万八〇〇〇人で、全体の三一パーセントを占めている。調査の記述によれば、建物総数の四パーセントがあるだけであり、また、城内の総面積のおよそ八分の一に過ぎなかった地域に、市の陥落以後、一四週立った後でも、住民の四三パーセントが住んでいたのである。
注:
十二月末から一月にかけて日本軍当局によって行われた不完全な登録に基づいて、国際委員会のメンバーが推定したところでは、当時の南京の人口は約二十五万人であって、数週間前に彼らが特に慎重に推定した数をはっきりと上回るものである。中国の半官半民筋はほぼ三十万と推定していた。2・3月には大した変化はなかったが、市の近辺の秩序の乱れた地域から著しい人口の流入があったので、恐らくそれは流出をわずかながら上回っていた。これも明らかに重要なことであった。我々が推定してみたところでは、3月下旬の人口は25万ないし27万であって、このうちには調査員の手の届かぬ人々もあり、また移動の途中の人々もあった。調査した人員は22万1、150である。5月31日には市政公署の5つの地区の役所で登録された住民(下関を含むが、明らかに城外のその他の地区を含まない)は27万7000人であった。この数字は特に婦女子について不完全であることが認められており、普通はほぼ40万と修正されている。
一年前、南京市の人口はちょうど100万を越したところであった。この数字は8月・9月にかけて急減し、11月初旬にまた50万近くに戻った。旧市街は今日考えられているよりも広い地域を含み、その地域は少なくとも人口の10分の1を占めていた。
これは メッセージ 5212 (s_ackey さん)への返信です.
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