「わたしの見た南京事件」奥宮正武2
投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/20 17:43 投稿番号: [5220 / 29399]
第二日目
十二月二十七日。この日は市内の西部を重点的に見回る予定であった。が、前々日の光景があまりにも鮮明に記憶に残っていたので、念のために、まず、再び下関に行くことにした。
下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、中国人を乗せた無蓋のトラックが、続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。
再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。そこで、ある種の疑間が生じた。
それは、
「多数の中国人を、大した混乱もなく、どうして、ここまで連れてくることができるか」
ということであった。
そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を尋ねた。ところが、彼は、何のためらいもなく、
「城内で、戦場の跡片付けをさせている中国人に、〃腹のすいた者は手を上げよ〃と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのようにして、トラックに乗せているとのことです」
と説明してくれた。
そこで、更に、
「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」
と質間したところ、
「上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられているからです」
との答が返ってきた。
このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の二十五日と二十七日に手際よく行なわれていた。もっとも二十六日と二十五日前と二十七日後にどのような処刑が行なわれていたかは分からなかったが(註 第三○旅回長佐々木到一少将の手記によれば、十二月二十四日までに約一万五千人以上、十二月二十四日から翌年一月五日贖までに数千人の処刑をしたとのことである)、二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、一時的な、興盲状態での対敵行動であるとは私には思われなかった。この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。
私は、この二目間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれぱ、少なくとも合計五百人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。もっとも、どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。
それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。
そうだとすれば、それは、明らかに、国際法上の大間題ではないかと思われた。が、当時の私には、そのことを突っ込んで検討する時間的な余裕がなかった。その後間もなく、私自身が作戦飛行に従事せねばならなかったからであった。
下関での第二日目の処刑場を確認したのち、本来の遺体捜索活動に移った。そして、下問付近を見回ってから、再び福一江門から城内に入り、主として、市内の北西部と中心部にある難民区を調査した。
城内では、幹線道路の両側を、なしうる限り、約一千メートルの問隔をおいて支線に入って、日本機の消息を間いて回った。難民区には大勢の中国人がいて、車から見た限りでは、平時の中国の他の都市とあまり変わらないようであった。そこでは、一軒の民家に日本機一機が墜落して、家族全員が死亡したとの気の毒な話を聞いた。が、機体は片付けられていたし、搭乗員の遺体は他に持ち去られていた。
その後、市の南部にある中華門を出て、雨花台方面を調査したところ、計九名の遺体を発見することができた。二人は九六式艦爆の搭乗員で、七人は九六式陸攻の搭乗員であった。いずれも土葬で、立派な木製の棺に納められていた。私はそのような手厚い取り扱いをしてくれた紅卍会の人々に感謝せずにはいられなかった。
この日、多くの中国人と接触したが、城内でも、城外でも、多くの人々が積極的に、私の質問に答えてくれた。また、雨花台方面の道路で出会った農民たちは、笑顔さえ浮かべ、頭を下げて、われわれに挨拶をしていた。それは、わが国の地方の農村にもよくある光景と同じであった。
十二月二十七日。この日は市内の西部を重点的に見回る予定であった。が、前々日の光景があまりにも鮮明に記憶に残っていたので、念のために、まず、再び下関に行くことにした。
下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、中国人を乗せた無蓋のトラックが、続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。
再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。そこで、ある種の疑間が生じた。
それは、
「多数の中国人を、大した混乱もなく、どうして、ここまで連れてくることができるか」
ということであった。
そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を尋ねた。ところが、彼は、何のためらいもなく、
「城内で、戦場の跡片付けをさせている中国人に、〃腹のすいた者は手を上げよ〃と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのようにして、トラックに乗せているとのことです」
と説明してくれた。
そこで、更に、
「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」
と質間したところ、
「上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられているからです」
との答が返ってきた。
このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の二十五日と二十七日に手際よく行なわれていた。もっとも二十六日と二十五日前と二十七日後にどのような処刑が行なわれていたかは分からなかったが(註 第三○旅回長佐々木到一少将の手記によれば、十二月二十四日までに約一万五千人以上、十二月二十四日から翌年一月五日贖までに数千人の処刑をしたとのことである)、二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、一時的な、興盲状態での対敵行動であるとは私には思われなかった。この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。
私は、この二目間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれぱ、少なくとも合計五百人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。もっとも、どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。
それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。
そうだとすれば、それは、明らかに、国際法上の大間題ではないかと思われた。が、当時の私には、そのことを突っ込んで検討する時間的な余裕がなかった。その後間もなく、私自身が作戦飛行に従事せねばならなかったからであった。
下関での第二日目の処刑場を確認したのち、本来の遺体捜索活動に移った。そして、下問付近を見回ってから、再び福一江門から城内に入り、主として、市内の北西部と中心部にある難民区を調査した。
城内では、幹線道路の両側を、なしうる限り、約一千メートルの問隔をおいて支線に入って、日本機の消息を間いて回った。難民区には大勢の中国人がいて、車から見た限りでは、平時の中国の他の都市とあまり変わらないようであった。そこでは、一軒の民家に日本機一機が墜落して、家族全員が死亡したとの気の毒な話を聞いた。が、機体は片付けられていたし、搭乗員の遺体は他に持ち去られていた。
その後、市の南部にある中華門を出て、雨花台方面を調査したところ、計九名の遺体を発見することができた。二人は九六式艦爆の搭乗員で、七人は九六式陸攻の搭乗員であった。いずれも土葬で、立派な木製の棺に納められていた。私はそのような手厚い取り扱いをしてくれた紅卍会の人々に感謝せずにはいられなかった。
この日、多くの中国人と接触したが、城内でも、城外でも、多くの人々が積極的に、私の質問に答えてくれた。また、雨花台方面の道路で出会った農民たちは、笑顔さえ浮かべ、頭を下げて、われわれに挨拶をしていた。それは、わが国の地方の農村にもよくある光景と同じであった。
これは メッセージ 5219 (YellowFlute さん)への返信です.