「わたしの見た南京事件」奥宮正武
投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/05/20 17:42 投稿番号: [5219 / 29399]
二度見た虐殺の現場
そこでその付近を捜索した後、玄武門外に出た。そこには広大な玄武湖があった。ところが、そこで、目もあてられないような惨状を目撃した。湖岸やそこに近い湖上に数え切れないほどの数の中国人の死体が投棄されていたからであった。どうしてこのようなことになったか、と尋ねようとしたが、付近には人影がなかった。が、このことは、それまでの南京で異常な事態が発生したことを示唆していた(註 十三日、一部の部隊がここで敗残兵を処刑したとの記録があるが、私の見たところではそれだけではないようであった)。
玄武門から再び城内に入り、近くにあった広い道路を北進しながら、付近を調査することにした。その後、西進したり、南進したり、また西進したりしているうちに、市の中心部と下関(しゃーかん)を結ぶ中山北路に出た。そこで、その道路を北西進しているうちに拒江門についた。そして、そこから三たび城外に出て、下関とその付近を捜索することにした。
下関は、南京と揚子江の対岸にある浦口とともに、交通の要衝であった。浦口は、私が上海着任直後に、最初に、爆撃したところでもあった。下関にはかなり大規模な停車場と開源碼頭(波止場)があった。そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が多数の中国人を文字通り虐殺している現場を見た。
碼頭の最も下流の部分は、揚子江にそって平坦な岸壁があり、やや広い敷地を挟んで倉庫群があった。そして、その倉庫群の中に、約三十名の中国人を乗せた無蓋のトラックが次々と消えていた。不思議に思ったので、何が起こっているかを確かめようと、警戒中の陸軍の陸軍の哨兵にことわって、構内に入った。私が海軍の軍服を着た将校であったこと、海軍の車から降りてきたこと、軍刀や拳銃で身を固めていたためであろう、私の動きを阻止する者はいなかった。また付近には報道関係者などの姿はなかった。
構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江上に投棄されていた。
岸辺に近いところは、かなり深く、目に見えるほどの速さの流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去っていた。が、一部の死にきれない者がもがいているうちに、江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので、その付近は血の川となっていた。そして、死にきれないものは銃撃によって、止めが刺されていた。
この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行なわれていた。大声で指示する人々もいなかった。そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると推察せざるをえなかった。したがって、部外者である私が口を出す余地はないと感じた次第であった。
そこで、私は、付近にいた一人の若い陸軍士官に、尋ねた。
「なぜこのようなことをするのか」
答えて日く、
「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが陸軍の小隊長級の若い士官十名か十一名かは分かりませんが寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです。そこで、彼らの戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の住民を処刑しているとのことです」
彼の説明が正しかったか否かは私には分からなかった。あるいは、そう説明するように教えられていたのか知れなかった。
その日、私は、しばらく一連の処刑を見たほか、合計十台のトラックが倉庫地帯に入るのを確認したのち、現場から退去した。そして、その後は、主として、市内の東部を捜索しながら飛行場へ帰った。
人間とは不思議な性格を持っているようである。最初に下関で処刑を見た時には、私は甚だしい衝撃を受けた。ところが、しばらくその場にいると、次第に異常さを感じなくなった。処刑をしている将兵たちの中にも同様に感じていた者がいたかも知れない。その場の雰囲気は、平時には考えられないほど特異なものであった。
また、現場にいた将兵の中には、上海から南京に至るまでの間に、自らの上官、同僚、、部下などを失ったための憤りにも似た特異な感情を持っていた人々がいたことであろう。
ところが、そのような異常な感情は軍人や男たちばかりにあるのではなかった。昭和七年の上海事変が一段落したのち戦跡を見て回ったさい、私は、その場に居合わせた上海在住の日本人の若い女性たちが、放置されていた中国兵の死体を指差しながら、私がそれまでに想像だにしていなかったような言葉を使って、平然としていたからであった。
二十六日には、隊務のために、基地を離れることができなかった。
そこでその付近を捜索した後、玄武門外に出た。そこには広大な玄武湖があった。ところが、そこで、目もあてられないような惨状を目撃した。湖岸やそこに近い湖上に数え切れないほどの数の中国人の死体が投棄されていたからであった。どうしてこのようなことになったか、と尋ねようとしたが、付近には人影がなかった。が、このことは、それまでの南京で異常な事態が発生したことを示唆していた(註 十三日、一部の部隊がここで敗残兵を処刑したとの記録があるが、私の見たところではそれだけではないようであった)。
玄武門から再び城内に入り、近くにあった広い道路を北進しながら、付近を調査することにした。その後、西進したり、南進したり、また西進したりしているうちに、市の中心部と下関(しゃーかん)を結ぶ中山北路に出た。そこで、その道路を北西進しているうちに拒江門についた。そして、そこから三たび城外に出て、下関とその付近を捜索することにした。
下関は、南京と揚子江の対岸にある浦口とともに、交通の要衝であった。浦口は、私が上海着任直後に、最初に、爆撃したところでもあった。下関にはかなり大規模な停車場と開源碼頭(波止場)があった。そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が多数の中国人を文字通り虐殺している現場を見た。
碼頭の最も下流の部分は、揚子江にそって平坦な岸壁があり、やや広い敷地を挟んで倉庫群があった。そして、その倉庫群の中に、約三十名の中国人を乗せた無蓋のトラックが次々と消えていた。不思議に思ったので、何が起こっているかを確かめようと、警戒中の陸軍の陸軍の哨兵にことわって、構内に入った。私が海軍の軍服を着た将校であったこと、海軍の車から降りてきたこと、軍刀や拳銃で身を固めていたためであろう、私の動きを阻止する者はいなかった。また付近には報道関係者などの姿はなかった。
構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江上に投棄されていた。
岸辺に近いところは、かなり深く、目に見えるほどの速さの流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去っていた。が、一部の死にきれない者がもがいているうちに、江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので、その付近は血の川となっていた。そして、死にきれないものは銃撃によって、止めが刺されていた。
この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行なわれていた。大声で指示する人々もいなかった。そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると推察せざるをえなかった。したがって、部外者である私が口を出す余地はないと感じた次第であった。
そこで、私は、付近にいた一人の若い陸軍士官に、尋ねた。
「なぜこのようなことをするのか」
答えて日く、
「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが陸軍の小隊長級の若い士官十名か十一名かは分かりませんが寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです。そこで、彼らの戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の住民を処刑しているとのことです」
彼の説明が正しかったか否かは私には分からなかった。あるいは、そう説明するように教えられていたのか知れなかった。
その日、私は、しばらく一連の処刑を見たほか、合計十台のトラックが倉庫地帯に入るのを確認したのち、現場から退去した。そして、その後は、主として、市内の東部を捜索しながら飛行場へ帰った。
人間とは不思議な性格を持っているようである。最初に下関で処刑を見た時には、私は甚だしい衝撃を受けた。ところが、しばらくその場にいると、次第に異常さを感じなくなった。処刑をしている将兵たちの中にも同様に感じていた者がいたかも知れない。その場の雰囲気は、平時には考えられないほど特異なものであった。
また、現場にいた将兵の中には、上海から南京に至るまでの間に、自らの上官、同僚、、部下などを失ったための憤りにも似た特異な感情を持っていた人々がいたことであろう。
ところが、そのような異常な感情は軍人や男たちばかりにあるのではなかった。昭和七年の上海事変が一段落したのち戦跡を見て回ったさい、私は、その場に居合わせた上海在住の日本人の若い女性たちが、放置されていた中国兵の死体を指差しながら、私がそれまでに想像だにしていなかったような言葉を使って、平然としていたからであった。
二十六日には、隊務のために、基地を離れることができなかった。
これは メッセージ 1 (yuukouheiwa さん)への返信です.