南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
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南京への道(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/28 20:48 投稿番号: [40956 / 41162]
中支那方面軍に
はじめて南京攻略が
下令されたとき、すでに
その隷下の
上海派遣軍も
第十軍も、独断で
南京に向かって
進撃していた。
上海派遣軍は、11月29日には常州を占領し、
丹陽にむかって前進中であり、第十軍は11月30日に
広徳を
占領したうえで、「独断をもって南京に向かう追撃準備を促進せん
とす」
と称して、前進を命令していた。
12月1日、中支那方面軍は、一挙に南京に
向かうのではなく、
上海派遣軍は
磨盤山山系西方の線に、第十軍は
蕪湖の線に、
各々進出することを命じた。
南京防衛陣地の前面で一旦態勢を
整え、南京の包囲網を
完成しようとするものだった。
ところが、第一線の各部隊は、南京一番乗りの
功名心にかられ、
方面軍の統率をこえて急進撃を続けた。
このため兵站、輜重が
追随できないままに、南京へ向かって
殺到することになった。
こうして、無統制のまま
南京攻撃戦は
はじまった。
上海派遣軍は、第十六、第九師団を
並列して
南京に進撃させ、
天谷支隊と第十三師団を
鎮江に向かわせた。
12月5日には
第十六師団は句容を、第九師団は南京防衛の
第一線陣地である
淳化鎮を
占領した。
第十軍の
第六師団と
第百十四師団は
並行して
南京に向かった。
中支那方面軍は、12月4日の時点で
両軍の南京攻撃準備線を
上天門、小衛、高橋門、雨花台、棉花地に統制する措置をとり、
12月7日には
「南京戦攻略要領」
を示達した。
要領は、両軍の作戦地境(城内を東西に区分)と配当城門を定め、
各師団の入城部隊を制限し、軍紀風紀の維持ならびに外国権益の
保護などを
示したものだった。
12月8日、各方面とも
南京防衛陣地への
攻撃が始まった。
上海派遣軍では、第十六師団が
12日に紫金山の線を占領した。
第九師団は10日には光華門まで達したが、南京防衛軍の抵抗が
予想以上に強く、その後の戦況が
進展しなかった。
また第十三師団主力は、鎮江から揚子江を渡河して
左岸に渡り、
津浦線の遮断に
向かった。
同師団の一部は山田支隊となって
12日
鎮江を出発、第十六師団の
右翼に進出して
烏龍山、
幕府山の
砲台占領に向かった。
当初、第二線兵団として
第九師団の後方を
前進していた
第三師団からは、11日に
一部の兵力を先遣隊として
南京攻撃に
参加させた。
第十軍では、第百十四師団を右、第六師団を左に
並列させて、
8日から
雨花台の堅固な陣地を攻撃した。
第六師団の一部
(歩兵第四十五聯隊)は
左翼の揚子江岸を前進し、南京から
退却する中国軍の部隊を撃破して、下関に向かった。
国崎支隊は
11日に蕪湖北方の慈湖鎮付近で
揚子江を渡り、
退路を遮断するために南京対岸の浦口に向かった。
こうして
日本軍は
南京城を完全に包囲し、紫金山、光華門、
雨花台などで
激しい攻撃が行われた。
各部隊は、城内への
一番乗りの栄誉を
競っていたが、
国内では、“南京占領近し”
などといった報道が流され、
そのことも
現地軍の焦りを
誘うことになった。
これは メッセージ 40955 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/40956.html
南京への道(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/28 20:46 投稿番号: [40955 / 41162]
1937年12月1日、大本営は中支那方面軍に対し、戦闘序列を
発令し、そのうえで
「中支那方面軍ハ海軍ト協同シテ
敵国首都
南京ヲ
攻略スベシ」
という大陸命を
くだした。
戦闘序列とは、戦時に令する軍の編成のことを
指しており、
大陸命とは、大本営陸軍部を通じて発する天皇の命令を意味する。
すでに、半年も前に起きた
蘆溝橋での武力衝突を
発端として
両国の軍隊が
全面戦争に突入していた
にもかかわらず、
この大陸命で
大本営は、はじめて
中国を
「敵国」
と呼び、
首都南京への武力侵略を
正式に命令したのだ。
つまり日本は
当時、国際社会からの
大儀なき武力侵略に対する
批判を恐れ、
あくまでも「事変」
の鎮圧として、片付けようとしていたのだ。
もともと補給を軽視する日本軍の体質的欠点にくわえ、戦争方針が
数カ月程度の戦闘で中国軍を屈服させる
という甘い見通しのもと、
長期戦争の備えがないまま
中国に大軍を派兵したことが、のちに
深刻な食糧不足に伴う略奪行為多発や捕虜の大量殺戮につながった。
南京の攻略は、参謀本部が
初めから
予定していたわけではない。
第十軍を
杭州湾に上陸させたのは、予想外に厳しい上海の戦況を
打開するためであり、南京へ進撃するためではなかった。
中支那方面軍の編成も変則的で、司令部の機構も小さなものだった。
参謀長は
参謀本部第三部長
塚田攻少将、参謀副長は
参謀本部
第三課長
武藤章大佐、以下の参謀数名も
参謀本部の職員であり、
本部に在籍したまま
「出張」
の形式で
派遣された。
その他の司令部の人員の多くは、上海派遣軍司令部の人員が兼務し、
さらに
方面軍には、直属の兵站部隊が
まったく
無かった。
こうした
異例の編成は、上海から遠くへ侵攻するつもりがなく、
後方が局限されていたからであり、このために、中支那方面軍の
南京侵攻作戦には、次のような
問題点が生じた。
第1に、後方補給の準備が
まったく
欠けていたため、
南京へ殺到した
各部隊の給養は
ことごとく
徴発に依存し、
これが
略奪暴行多発の
原因になった。
第2に、方面軍司令部には
外交や渉外の
機能がなく、
国際法の顧問も
従来の戦争のように
置いていなかった。
各国の公館が集中している首都に攻め込むのに、これは
きわめて
不十分な編成で、しかも
南京の公使館、上海の総領事館など
日本の外務省の機関との
連携も
悪かった。
それどころか、
軍は
外交官を
邪魔もの扱いにし、暴行を
制止しようとした
外交官が、身の危険を
感じるほどだった
と報告している。
第3に、軍紀風紀維持についての配慮が、きわめて
不十分だった。
方面軍には
もともと
直属の憲兵がなく、急遽配属された少数の
憲兵で
大軍の犯罪非行を取り締まるのは
ほぼ不可能に近かった。
第十軍に配属された
憲兵隊長の
上砂勝七も
「何分
数個師団
二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らずでは如何とも
方法がない」
(『憲兵三十一年』東京ライフ社刊)と嘆いていた。
このように、方面隊の編成そのものにも、大虐殺事件に
つながる
大きな要因が
含まれていた
と言うことができる。
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即HNの能無しtyankonabejp
投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2012/12/28 11:27 投稿番号: [40954 / 41162]
しかしこいつはネトウヨに関しての統計がすでにあるのも知らないのだろう。
まあワダツミの別HNの可能性が高いがね。
他人の文を盗用して恥じないという事は共産支那人か鮮人やも知れん。
日中トピで失態晒した共産支那人がいるからな(嘲笑)
これは メッセージ 40952 (tya*k*na*ejp さん)への返信です.
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Re: ◆お粗末な肯定論の限界と大破綻①
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/28 09:26 投稿番号: [40953 / 41162]
人のことを馬鹿ウヨというのは感心しないね。
君の脳味噌は赤黴病に於かされているから、物事を正確に理解出来ないんだよ。
常にバイアスが掛かっているからね。
これは メッセージ 40950 (tya*k*na*ejp さん)への返信です.
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◆madabakayatuteruの馬鹿さ加減
投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2012/12/28 07:03 投稿番号: [40952 / 41162]
昔からそうだがこいつのやり方は大量の駄文コピペをひたすらに貼るだけ。
実は議論になると化石脳のお陰で勝てないから。
相手を辟易させる事で不戦勝を狙っているのだな。
暇なときはこの阿呆をからかって遊ぶか。
これは メッセージ 40944 (madabakayatuterunokaomae さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/40952.html
◆毎日コピペを貼る引きこもりよ
投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2012/12/28 07:02 投稿番号: [40951 / 41162]
新年も近いと言うのにお前の化石脳は固まったままだな(大笑)
これは メッセージ 40943 (madabakayatuterunokaomae さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/40951.html
Re: ◆お粗末な肯定論の限界と大破綻①
投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2012/12/28 07:00 投稿番号: [40950 / 41162]
『コピペ貼るだけの阿呆は頭の中が破綻』
しかしよ使い回しの進歩の欠片もないコピペをいつまで使ってるんだ阿呆。
ばかウヨの化石脳では柔軟な思考とか検証とか客観的に見るとか無理だわな(笑)
これは メッセージ 40942 (madabakayatuterunokaomae さん)への返信です.
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◆お粗末な肯定論の限界と大破綻⑧
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/28 03:31 投稿番号: [40949 / 41162]
13.中国共産党の洗脳工作と金目当ての「語り部」
元日本兵の証言や日記・手記を南京大虐殺の根拠とする肯定派は多い。しかしちょっと考えてみて欲しい。彼らの証言をそのまま根拠とするのはおかしいのではないか?自白のみを有罪の根拠とするのか?自白することによって彼らは何か利益を得ているのではないか?彼らの経歴を洗ってみる必要があるのではないか?
『元参戦兵士の中には、マスコミや運動体に担がれて不正確かつ誇大に罪行を告白する「語り部」として登場する例が少なくない。田所耕三、中山重夫、曽根一夫、舟橋照吉などで戦友会などとトラブルを起こしているが、もっとも有名になったのは東史郎上等兵(第16師団歩20連隊第3中隊)であろう。』
金のために「語り部」となり、本を出版したり取材を受けたりして金を得ようとする輩が存在するのは残念なことだが事実である。”従軍慰安婦”では吉田清治が有名である。
もうひとつ忘れてはならないのが「撫順戦犯管理所」である。1950年ソ連より引き渡された900人以上の日本人や満州国の戦犯を収容した中華人民共和国による戦犯管理所で、ここでは元日本兵を収容管理して洗脳教育を施したことが明らかになっている。Youtubeで検索すれば動画が見られるのでご覧になっていただきたい。戦犯として収容された元日本兵は中国人職員も不満に感じるほどの恵まれた環境に置かれ、戦時中の罪状を告白すると賞賛され認めなければ批難されるという恐ろしい洗脳工作が行われていたのである。「中帰連」(中国帰還者連絡会)という団体で帰国後も活動が行われている。
中間派がよく引用する資料に偕行社の「南京戦史」がある。これについては秦郁彦氏の著書にこのような記述がある。『1989年に中国側から撫順収容所の戦犯だった太田寿夫少佐(第二碇泊場司令部)の供述書が流され、一部のマスコミが大きく報道したことがあった。「12月15日に着任して15万(大多数は住民)の死体処理を目撃した」というのが供述書の要旨だったが、太田の着任は25日だったことを記入した部下の梶谷健郎軍曹の日記の出現で、太田ばかりで無く戦犯の供述書全般に対する信頼性が揺らいだ。』※6のp309
偕行社の「南京戦史」にも洗脳を受けた中国帰還者連絡会の証言が潜り込んでいると言うことである。
元日本兵の日記を根拠に使う肯定派も多いが、日記とは本来プライベートなものであって、必ずしも事実を書くとは限らないのである。はやく中国軍をやっつけて日本に帰りたい、という願望から少々勇ましい空想を書いたとしても何ら不思議は無いのだ。日記だけでは証拠として不十分で他の裏付けが必要なことは言うまでもあるまい。南京陥落時の混乱に際して几帳面に日記をつけるということができたのかどうかも疑問が残る。
まとめ(私見)
私は当時の南京で日本軍による虐殺が一件も無かったとは言わないが、日本軍による組織的な一般市民大量虐殺は無かったと思っている。しかし何らかの新事実が出てくればこの認識が変わることもあり得る。
”南京大虐殺”に関する私の認識は、『ラーベが日本軍に報告した49人が日本軍による一般市民殺害の上限・最大数で、この49人を精査すれば大幅に下回ることもありうる。』です。49人というのは当時の日本側に伝えられた被害数であり、その当時日本側も調査・反論できた被害だったからです。中国側戦闘員の死者については蒋介石・唐生智が降伏すれば救われたのですから、中国側が日本側を責めるのはおかしな話です。
私のスタンスは「日本を守るために命を賭けて戦ってくれた祖先の汚名・冤罪を晴らしたい」というものです。
北村稔立命館大教授『一般市民を対象とした虐殺はなかったとの結論に達する』
※2007年4月2日の外国特派員協会における講演。2007/04/19週刊新潮
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◆お粗末な肯定論の限界と大破綻⑦
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/28 03:29 投稿番号: [40948 / 41162]
11.当時の南京で頻繁に起こった「漢奸狩り」
文字が読めない人がほとんどだった当時の一般市民に中国側は絵で漢奸狩りを警告していました。
『日中戦争初期に日本で発行された『画報躍進之日本』の中で、陥落前の南京における「漢奸狩り」が報告されているほか、『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『東京日日新聞』、『ニューヨーク・タイムズ』も「漢奸狩り」について報道をおこなっている。戦争が始まると漢奸の名目で銃殺される者は南京では連日 80 人にも及び、その後は数が減ったものの1937年11月までに約 2,000 名に達し、多くは日本留学生であった(当時南京にいた外国人からも日本留学生だった歯科医が漢奸の疑いで殺された具体例が報告されている)。』
『中国では日中戦争が本格化すると漢奸狩りと称して日本軍と通じる者あるいは日本軍に便宜を与える者と判断された自国民を銃殺あるいは斬首によって公開処刑することが日常化した。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに処刑され、その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。』
スマイス報告の死者数の大半は、この「漢奸狩り」の被害者ではないでしょうか?
南京市民にとって自分たちを守ってくれたのは中国軍だったのか?それとも日本軍だったのか?
12.国際法を守り正々堂々と戦った日本兵の命よりも、便衣兵となり国際法を破った中国兵の命を重要視していないか?
捕虜の処刑やら安全区掃蕩をひたすら攻めるサヨクが多いのですが、この点は意外と忘れられがちです。
幕府山事件 釈放中の偶発事故
長江沿い下関の大量死体は同士討ちだった
安全区掃蕩
数千の敗残兵が区内に潜伏
日本側も無駄な戦闘などしたくなかったはずです。しかし司令長官が居なくなって統制が全くない中国兵に対して停戦交渉など平和裏に戦闘を終結することができず、やむを得ず悲劇が起こったことは想像に難くありません。そんな状況で卑劣な戦法を使った中国兵の命ばかりを尊重して日本兵の命は全く顧みない議論が続けられています。
安全区に隠れていた中国兵がのちに汪兆銘の親日政府の軍の軍長となった事例もあります。これは日本軍の対応が人道的だったからこその出来事ではないでしょうか?
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◆お粗末な肯定論の限界と大破綻⑥
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/28 03:26 投稿番号: [40947 / 41162]
9.南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入った
その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、欧米メディアで”南京大虐殺”を報道した記者はダーディンとスティールのみであった。しかもパネー号誤爆事件やアリソン事件(アリソン米国領事が日本兵によって殴打された事件)よりも小さい扱いだったのである。
「私はアメリカの世論を操るために(中国政府に)雇われたのだ。」
国民党中央宣伝部顧問
ティンパーリーの『WHAT WAR MEANS』
マスコミ報道でなく国民党自身によって南京陥落直後から約300回もの記者会見を行ったが、その中で一度も「南京虐殺があった」とは言っていない。
10.第二次上海事変から勃発したシナ事変は中国側の侵略行為
シナ事変(日中戦争)は中国側の「侵略」行為〜第二次上海事変
我慢に我慢を重ねて我慢の限界を超えてやむを得ず南京攻略に至ったのです。南京に誘い込んだのは蒋介石なのです。シナ伝統の人海戦術というやつです。
『国民党軍機による8月14日の空襲により民間人3000人以上の死傷者が出た事に対し、国民党政府は遺憾の意を表明したが、租界への爆撃、もしくは誤爆はその後も発生した。(中略)日本政府は、国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらには日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから14日夜から緊急閣議を開き、それまで日本側が取ってきた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した。』
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◆お粗末な肯定論の限界と大破綻⑤
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/28 02:24 投稿番号: [40946 / 41162]
7.スマイス報告は日本軍による虐殺の証拠にはならない
南京安全区国際委員会の事務局長であったルイス・S・C・スマイスが南京陥落の3ヶ月後に実施した戦争被害調査「スマイス報告」によると南京市街地(城内)での民間人の被害は、暴行による死者が2400、拉致4200(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、さらに南京周辺部(城外)での暴行による死者が9160、計15,760人が民間人の被害ということでした。これは「30万人」虐殺説には程遠い数字です。
Q)12月7日に中国軍によって城外の建物が焼き払われ近郊の住民は住む所がなくなり、8日に唐生智司令長官は城内のすべての非戦闘員に対し「難民区」に集結するよう布告し、9日には日本軍が飛行機で「勧告文」を城内に散布したのに、それでも南京城外に9160名もの住民たちは降伏勧告回答期限まで残っていたのでしょうか?
Q)戦闘員ですら軍服を脱ぎ捨てて便衣兵となって安全区に隠れていたのに安全区外に6600名、南京城外に9160名も非戦闘員が残っていたのでしょうか?
Q)ラーベら国際安全委員会がいた安全区で日本軍はどうやって非戦闘員を何百人何千人も虐殺したのでしょうか?
Q)何千人、いや何百人であっても民間人が日本軍に虐殺されたというのなら、日本側が管理している安全区の人口がどうして5万人も増えたのだろう。逆に日本軍を恐れて人口が大量に流出・減少するはずではないでしょうか?
A)私個人の見解ですが、南京周辺部の死者9160名も城内の6600人も、ほぼすべてが中国軍による殺人(清野作戦や徴兵徴用、漢奸狩りなど)と見て良いと考えます。
さらに国民党の外交戦略に基づいて故意に歪められた情報であることも指摘されている。
中間派と呼ばれる秦郁彦氏と板倉由明氏は、日本軍による民間人殺害をスマイス報告による死者数の1/2から1/3と非常に大雑把に結論しています。私は彼らに上記の質問をしてみたいのですが、すでに板倉氏は他界なさっていらっしゃいます。
8.捏造・水増しされた埋葬記録
東京裁判にも書証として提出された二つの「埋葬表」によれば、一九三七年十二月から翌年秋にかけて崇善堂という慈善団体が十一万体、紅卍字会という慈善団体が四万体それぞれ埋葬したという。しかし、本当に十五万体もの死体を埋葬したのだろうか。
『紅卍字会の倍以上の埋葬を行ったはずの崇善堂の名はどの記録にも出て来ない。ベイツがまとめた『南京救済安全区委員会報告書』(一九三九年)にも、南京で埋葬活動をしたと記録されているのは紅卍字会だけであった。そもそも崇善堂の活動内容は「施料(衣料給与)・救恤(寡婦の救済)・哺嬰(保育)」であり「埋葬」は含まれていなかった。しかも市来義道編『南京』(一九四一年、南京日本商工会議所発行)によれば、崇善堂は南京陥落の一九三七年十二月から翌年八月まで活動を停止していた。崇善堂が当時、埋葬作業に従事したとする証拠は存在しないのだ。そもそも崇善堂の埋葬表は、事件から九年経った後の一九四六年に作成されたものであって、一九三八年当時作成されたものではなかった。』
捏造されたのは崇善堂だけではない。「紅卍字会」の埋葬数も不自然なところがあり賃金を多くもらいたいばかりに埋葬数を水増し報告してきた可能性が高いのである。
『以上のことから、紅卍字会の埋葬数は一万前後であり、その素性はほとんどが中国軍の戦死者だと推測できる。』紅卍会の埋葬記録(約4万3千体)には女子供は皆無に近い。※
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/40946.html
◆お粗末な肯定論の限界と大破綻④
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/28 02:21 投稿番号: [40945 / 41162]
5.ラーベは日本軍に49人の殺人しか報告していない、日本兵による非合法殺人を安全区委員会のメンバーが全く目撃していない。
『ただの1件も殺人事件を目撃していないラーベが当時、本国のヒトラーに対しては犠牲者数を「5万から6万」、上海のドイツ大使館には「数千」と報告しながら、同時期の1月28日付けの南京のイギリス大使館宛手紙には「南京の25万難民のうちほとんどが、南京市内と近郊で起きた広域にわたる放火のために家を失いました。そして、1家の働き手が連行されたり殺されたりして、赤貧に陥っている家族が数千と言わないまでも、数百あります。」と書いている。(中略)おそらくラーベも中国側の申し立てが単なる噂に過ぎないことを知っていたに違いない。なぜなら安全区の人口が減るどころか増えたことを彼ら自身が一番よくわかっていたからだ。また、何よりもラーベら安全区委員会は69通にも及ぶ日本当局への手紙の中で、ただの一度も「日本軍による民間人大量殺人をやめて欲しい」とは書いていないのだ。(中略)南京にいる日本当局には反論される恐れがあるので、ある程度信憑性のある情報に基づいて“犠牲者49人”という「被害届」を送付した一方、南京にいないジャーナリストやドイツ外交官、ヒトラーには中国人が語る噂話に基づいて数万もの市民が日本軍によって殺害されたかのように報告したのである。(中略)つまり、ハーケンクロイツ(ナチス)の腕章をつければ自由に動き回れたはずのラーベを初めとする欧米の安全区委員会メンバーは誰も、約六週間の間に日本軍兵士が実際に非合法殺人を行った現場を目撃していないのである。』虐殺するどころか疫病防止のため南京市民に予防措置を施す日本の衛生兵の写真も残っています。【写真1】
6.中国側の証言も十分に集まらなかった上、信憑性が著しく低い
『東京裁判に提出された「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」によれば、第二次大戦後、日本の「戦争犯罪」を裁くため連合国が開廷した「東京裁判」に備え、中国国民政府は一九四五年十一月七日「南京敵人罪行調査委員会」を設置し、中国人に南京における日本軍の犯罪を申告するよう呼びかけた。ところが、日本軍の残虐行為を申告する者が「甚だ少なき」ばかりか、聞き取り調査を行うと唖然として「口を噤みて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいたという。やむなく中国政府は暫定的な報告を一九四六年一月二十日、東京裁判に提出したが、「日本軍による大量虐殺」の証拠は埋葬記録を除けば、魯甦という人物の「目撃証言」ただ一件であった。』たとえ100人の虐殺であっても、安全区に20万の市民が集まっていたのです。証言はたくさん出てくるはずです。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/40945.html
◆お粗末な肯定論の限界と大破綻③
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/28 02:19 投稿番号: [40944 / 41162]
3.南京城は「防守都市」で無差別爆撃できたが、日本軍は国際安全区にできるだけ被害が及ばないように配慮した。
このことについて国際安全区委員長ジョンラーベは日本軍に感謝状を贈った。
※防守都市とは「地上兵力による占領の企図に対し抵抗しつつある都市をいう」(原爆訴訟東京地裁判決、昭和38年12月7日)砲爆撃における軍事目標主義では、軍事目標および防守都市に対する砲爆撃が認められる。防守都市に対しては無差別攻撃が認められ、無防守都市に対しては軍事目標に対する攻撃が認められる。
日本軍の処置に問題があったとしても、それが無差別攻撃を回避したがために起因し、より少ない不利益であるのなら許容されるべき。
蒋介石はなぜ南京城を防守都市にしたのでしょうか?蒋介石の判断によって南京市民は危機にさらされることになったのです。
4.当時の中国兵の実態「匪賊同然」
現在の中国軍である「人民解放軍」は中国共産党のための軍であり、中国人民を守るための軍では無い。そのことは辛亥革命以降シナ事変当時でも同様で、中国共産党の軍と中国国民党の軍がそれぞれ存在し、シナ大陸での覇権を争っていたのであり、中国人民を守るための軍では無かった。
『ハルビンでは次のような話が信用できるものとして流布していた。すなわち兵士の多くは、いつでも変えられる2種の腕章を持っている。彼らはあるときは、吉林軍すなわち「満州国」軍のしるしをつけ、また他の時には、反吉林軍、すなわち「満州国」軍および日本軍と敵対する中国軍のしるしをつけているというのだ。ここで問題になるのは伝統的な中国兵のあり方である。昔から中国に長いこと居住する欧州各国人の話によると、兵士は圧倒的に下層階級出身者が多かった。彼らは兵士も職業の一つと見なしていた。給料は月に2,3ドルに過ぎず、生計を保つのは難しく、金持ちになるためには戦利品を略奪するのが一番簡単であった。上流社会の中国人は一般に兵士を見下し、自ら軍隊に入ろうとはしなかった。古くからの考えによれば、軍隊に入るのは恥ずかしいことであった。』※2
『それでは実績のある軍に入ったらどんな良い目ができるだろうか。殺し文句はこうである。「一つ町を手に入れたら略奪は思いのまま、女も思いのまま」これが中国人が考える「ロメオとジュリエット」である。これを目当てに新兵さんは鉄砲を担ぐ。鉄砲が「食券」だ。さらに、遅れ気味ではあっても、寝返り防止に数ドルお手当ももらえる。大義名分まであるから言うこと無し。ただし、中身は学生のスローガンと何ら変わらない。お題目は立派でも悪事を働くのには変わりない。』※3
『唐生智は11月28日、外国人記者会見で、中国兵は訓練も足りず規律も良くないので不祥事が起こるかもしれない、無用の外人は退去されたいと警告している。
一方、日本軍は「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を南京城攻略にあたり全軍に示達した。
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◆お粗末な肯定論の限界と大破綻②
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/28 02:18 投稿番号: [40943 / 41162]
2.蒋介石・唐生智は卑劣な戦法を使った。「堅壁清野作戦」「督戦隊」「便衣兵」
『蒋介石は城外の同国人の財産・家屋を焼き尽くして敵に一物も与えないという中国伝統の「堅壁清野作戦」を命令、中国軍は南京城近郊の建物や民家が日本軍に利用されないように、これを徹底的に破壞・焼却した。』※1
さらに中国兵は「便衣兵」となって国際安全区に進入し南京市民に紛れ込んだのです。便衣兵の処刑には裁判が必要だと主張するサヨクが時々居ますが、ハーグ陸戦法規によると便衣兵は交戦資格をもたず、さらに部下の責任を負う指揮官が存在しなかった南京では中国側は誰も交戦資格を持っていなかったので、捕虜としての処遇を受ける資格を持つ兵はいませんでした。停戦交渉をすることも出来なかったので戦闘は継続していたとみなせるのです。第一、安全区に居た20万もの一般市民に紛れ込んだ何千人もの便衣兵を一人一人裁判にかけるのはどれだけの時間と労力がかかるか想像したことがあるのでしょうか?日本側は一般市民を巻き添えにしないように良民証を発行するなどできる限りのことをしていたのです。
『交戦資格を有しないものが軍事行動に従事する場合には、敵に捕らえられた際、捕虜としての待遇は与えられず、戦時重犯罪人としての処罰を受けなければいけない』(田畑茂二郎著「新訂国際法」(下)203ページより)。
便衣兵の処刑に裁判は必要ない
南京督戦隊の跡が見れる動画です。
中国側は「督戦隊」という敵軍から逃げようとする味方を銃殺する非人道的な戦法を使っているにもかかわらず、「日本軍が戦意を喪失した敗残兵を銃殺したのは虐殺だ」と責めることは、果たして中立的な立場からの発言といえるのでしょうか?
兵器を捨てて降伏する者の殺傷は絶対的な禁止事項か?
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◆お粗末な肯定論の限界と大破綻①
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/28 02:17 投稿番号: [40942 / 41162]
南京大虐殺、南京事件について、肯定派は、最低限、何月何日どこで(安全区?城内?城外?)誰が(民間人?中国兵?)誰に(中国兵?日本兵?)何人殺されたのか?
せめてこれくらいは明確にしてほしいものです。
この程度も確定できないのに、何があったと言えるのでしょうか?
『南京大虐殺(南京事件1937年)』とは、日本がシナ(中国)から度重なる挑発を受け、やむをえず宣戦布告の無い戦争をするに至り、当時のシナの首都南京で起きたとされる事件のことです。
いまだに政治カードとしてこの事件を利用している中国共産党は本来刑事訴訟に準ずる立証責任を背負わなければいけませんが、具体的事実(時間や場所、被害者や殺害状況)については全く曖昧なままです。へたに具体的事実を明示してしまうと嘘であることがばれてしまうので曖昧なままにしておいた方が良いのです。曖昧なままでも日本政府は謝罪するのですから。
以下の13のポイントを踏まえて、当時の南京で何があったのか、あなたなりの想像をしてみてください。
1.南京を戦場にしたのは蒋介石、日本軍は降伏勧告をしたが、司令長官の唐生智は勧告を無視して中国兵を置き去りにして逃亡した
『十一月十四・十五日、国民政府は作戦会議を開き、この南京で日本軍と戦うか、それとも南京を放棄して他の場所で戦うかを論議した。席上"南京放棄論"が多数を占めた。同席したドイツ軍事顧問団団長のファルケンハウゼン将軍もこれに賛成したが、蒋介石はあくまでも南京を固守するという防衛方針を決定した。蒋介石は唐生智を南京衞戍司令長官に任命した。トラウトマンによる和平交渉が実らず、停戦合意が成らなかったため、奇しくも安全区委員会が申し入れを行った同じ日である十二月一日、日本軍は南京を攻略することに決定、九日には国際法学者とも協議して作成した「攻略要領」に基づき、「和平開城の勧告文」を飛行機で城内に散布した。国際法に則って“無防備都市”つまり「防守都市に非ず」と宣言して開城すれば攻撃しないと中国側に通告したのである(第二次大戦におけるパリがその例で、これによってパリは破壊を免れた)。しかし、翌十日午後一時の回答期限に至っても何の回答もなかったので、日本軍は総攻撃に踏み切った。南京城外に中国軍が設けた主要な抵抗陣地で激戦が展開され、日本軍は十二日までに郊外の要衝(紫金山・雨花台・工兵学校など)を占領、その日の午後八時には唐司令官は麾下の軍に退却命令を出すとともに、自らも幕僚とともに脱出した(蒋介石は十二月七日早朝、南京を脱出している)。』
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wadatumi_voice21の馬鹿さ加減
投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2012/12/28 01:49 投稿番号: [40941 / 41162]
昔からそうだがこいつのやり方は大量の駄文コピペをひたすらに貼るだけ。
実は議論になると化石脳のお陰で勝てないから。
相手を辟易させる事で不戦勝を狙っているのだな。
暇なときはこの阿呆をからかって遊ぶか。
これは メッセージ 1 (ザ・スーパー・愛国者 さん)への返信です.
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毎日コピペを貼る引きこもりよ
投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2012/12/28 01:46 投稿番号: [40940 / 41162]
新年も近いと言うのにお前の化石脳は固まったままだな(大笑)
これは メッセージ 40938 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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コピペ貼るだけの阿呆は頭の中が破綻
投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2012/12/27 22:25 投稿番号: [40939 / 41162]
しかしよ使い回しの進歩の欠片もないコピペをいつまで使ってるんだ阿呆。
あまアカの化石脳では柔軟な思考とか検証とか客観的に見るとか無理だわな(笑)
これは メッセージ 40934 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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否定論の限界と破綻(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/27 22:06 投稿番号: [40938 / 41162]
犠牲者数の確定は困難であるものの、殺人や掠奪、強姦など
残虐行為が発生した事実は、軍や国際機関の
関係者などの
さまざまな
記録、証言によって
覆すことはできない。
このため、南京虐殺否定派は、苦し紛れに
根拠に乏しい
珍論・奇論の類を
持ち出してくることも
少なくない。
たとえば、「南京虐殺は、日本軍の仕業にみせかけるために
中国軍の反日攪乱工作隊がやったこと」
などもその一つだ。
南京市内に潜伏した
中国軍の敗残兵がいたのは
確かだが、
身を守るために
用心深く
潜伏していることが重要であり、
攪乱するなどという
状況になかったことは、明白だ。
南京を退却する時の中国軍が
脱出・避難のために
必要な
物資を略奪したり、不法行為を働いた可能性は否定できない。
しかし、問題視されるのは、中国軍が退却した後、日本軍が
占領した後に発生した事件であり、それは
中国軍の行為を
はるかに凌ぐ規模の蛮行にこそ
問題があるのだ。
N・Yタイムズのダーディン記者は、以下のように報告する。
「南京に
中国軍最後の崩壊が訪れた時、人々の間の安堵の
気持ちは非常に大きく、また
南京市政府及び防衛司令部が
瓦解した時の印象はよくなかったので、人々は喜んで日本軍を
迎えようとしていた。
しかし、日本軍の蛮行がはじまると、
この安堵と歓迎の気持ちは
たちまち恐怖へと変わっていった。
日本への憎しみを
いっそう深く
人々の心に植え付けた」
(1938年1月9日付「ニューヨークタイムズ」)
南京市は
12月13日以降、日本軍に制圧され、7万人もの
日本兵が
警備に当たっていた下で、反日攪乱工作なるものが
どのように展開されたのか、はなはだ疑問と言わざるをえない。
もしも
南京市民が「反日感情を扇動」
されたと仮定しても、
武器を持たない市民が
軍事的に反抗することは
不可能だ。
百歩譲って、もしも、中国軍の便衣兵が
ゲリラ戦を企図して
潜伏していたと
仮定すれば、当然
日本軍に摘発される際に
武器をもって
抵抗しないということは
あり得ないし、
散発的な武器による抵抗が
あったならば、その記録が
日本軍側に
まったく
残らないはずはない。
否定派が
苦しまぎれに吹聴する珍論奇説は、他にもある。
「中国兵の捕虜は
指揮官の命令なしに降伏したのだから
捕虜の特権がなく、処刑しても違法ではない」
という
主張や、中国軍の死者の大半が「同士打ち」
によるもの
などという
証拠資料も示せない主張などは
その典型だ。
国際社会共通の歴史認識とは
大きく
かけ離れた主張を
大真面目に繰り返す者たちのレベルは、この程度なのだ。
これは メッセージ 40937 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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否定論の限界と破綻(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/27 22:06 投稿番号: [40937 / 41162]
南京市に残留した中国軍の敗残兵は、捕虜要件に該当しない
便衣兵であり、日本軍に
抗戦するものであるから、処刑は
妥当であった
という主張がある。
しかし、すくなくとも
安全区内において
敗残兵が
不法なゲリラ活動をしていた
ということを証明できる史料は、どこにも
存在しない。
南京陥落後に
「便衣兵」
によって
日本軍は、はたして
どれほどの損傷を
受けたというのだろうか。
そもそも
「便衣兵」
とする根拠は
どこにあるだろうか。
当時の
新聞の報道を、以下に
引用してみよう。
「なお潜伏二万五千
敗残兵狩り続く
外国権益を特別保護」
敗残兵にして便衣に着替えている市中に潜伏する者二万五千名
と推定されているので、我が軍は清掃に努力し、一方敗残兵の
嫌疑あるものは
取り調べ、老人婦女子に
保護を加えている」
(1937年12月16日付
東京朝日新聞)
この記事は、記者が
独自に取材したものではなく、
軍司令部の発表を
記事にしたものだ。
ここには、「便衣兵」
という文字は
出ていない。
潜伏した2万5千人については
敗残兵との表現であり、軍司令部の認識だったことが伺える。
次に
外国の新聞報道も確認しておこう。以下に引用するのは、
N・Yタイムズ
1937年12月17日付の記事だ。
「昨日
南京の日本軍司令部は、南京城内で
1万5000人
以上の捕虜を得たと発表した。市内には、このほか軍服を捨て、
武器を隠し、平服を着た兵士2万5000人がいると信じられ
ている」(「南京事件資料集・アメリカ関係資料編」青木書店)
これも
日本軍の発表を
記事にしたものだが、南京城内で
1万5000人以上の「捕虜を得た」
としているところに
注目すべきだ。
便衣兵は
捕虜資格がないのであるから、
軍司令部には、正規兵ないし敗残兵を捕まえた
という認識が
あったことになる。残りの2万5000人については、前掲の
東京朝日新聞の記事にある通り、敗残兵と認識していたのだ。
仮に、武器を捨てずに
日本軍に対し危害を与える目的で
市内に潜伏しているのであれば、たしかに
便衣兵であり、
非合法戦闘員として
殺害することは
違法ではない。
しかし、実際には
武器を捨て、ひたすら
自衛のために
身を隠していた敗残兵を
狩り出して殺害したことになる。
ジョン・ラーベの12月16日の日記には次の記述がある。
「たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人
兵士がまた数百人、安全区から連れ出されたという。銃殺
されるのだ。
そのうち五十人は
安全区の警察官だった。
兵士を
安全区に入れたというかどで
処刑されるという」
安全区内で武装解除した兵士は、国際法上
保護の対象だ。
ましてや
警察官まで処刑したとすれば、明白な違法行為
であり、ゲリラの掃討だったなどとは、到底
言い難い。
これは メッセージ 40936 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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否定論の限界と破綻(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/27 22:04 投稿番号: [40936 / 41162]
南京大虐殺が国際的に知られるようになったのは、市内での
敗残兵の掃蕩が
外国人の眼に
触れたことによってだった。
否定派は、敗残兵が「便衣兵」
であり、陸戦条約の要件を
満たさない
ゲリラの一種であるから、捕虜待遇を受ける
資格はないのだ
と主張するものも
少なくない。
南京防衛軍司令官
唐生智は、12月12日夕刻
ひそかに
揚子江を渡って逃走した。
このため防衛軍は一挙に崩壊し、
脱出を図る者、武器を捨て投降する者、軍服を脱いで市内に
潜伏する者など、日本軍の入城前に
完全に四散してしまい、
組織的にはもちろん、各個の戦闘能力さえも
消失していた。
中国兵の大量処刑は、南京が陥落し
日本軍が制圧した後に
行われたものであり、戦闘行為と
見なすことは
できない。
すでに
抗戦の意図はなく、専ら逃亡目的で
平服を着用し
隠れていた兵士を
便衣兵と見なして
殺害したり、市民を
一方的に便衣兵と見なして殺害した行為は、明らかな虐殺だ。
南京陥落後に中国軍が
市内でゲリラ戦を展開した事実はない。
陥落直後の南京で、墜落した日本軍機搭乗員の遺体捜索活動に
従事した海軍将校
奥宮正武の記述を
以下に引用しておこう。
便衣兵或は便衣隊といわれていた中国人は、昭和7年の
上海事変の際はもとより、今回の
支那事変の初期にも
かなり積極的に日本軍と戦っていたが、南京陥落直後は
そうとは
いえなかった。
わたしの知る限り、彼らの
ほとんどは
戦意を完全に
失って、ただ生きるために
軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。
したがって彼らを
通常いわれているゲリラと同一視することは
適当とは
思わない。(『私のみた南京事件』PHP研究所1977年)
多くの記者が南京を脱出したが、市内に残った者も
数人いた。
N・YタイムズのF・ティルマン・ダーディンは
その一人だ。
彼の12月22日発航空便記事は、以下のように伝えていた。
袋の鼠となった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。
何千という兵隊が、外国の安全区委員会に出頭し、武器を
手渡した。
委員会はその時、日本軍は捕虜を寛大に扱う
だろうと思い、彼らの投降を
受け入れる以外なかった。
たくさんの中国軍の集団が
個々の外国人に
身を委ね、
子供のように
庇護を求めた。
(中略)
南京を
掌握するにあたり、日本軍は、これまで続いた
日中戦争の過程で犯された
いかなる虐殺より野蛮な虐殺、
略奪、強姦に熱中した。抑制のきかない日本軍の残虐性に
匹敵するものは、ヨーロッパの
暗黒時代の蛮行か、
それとも
中世のアジアの征服者の残忍な行為しかない。
無力の中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降する
ばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、
処刑された。安全区委員会にその身を委ね、難民センターに
身を寄せていた何千人かの兵隊は、組織的に選び出され、
後ろ手に縛られて、城門の外側の処刑場に
連行された。
これは メッセージ 40935 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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否定論の限界と破綻(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/27 22:04 投稿番号: [40935 / 41162]
捕虜殺害に機関銃が使用された場合、たとえば1時間以上も
連射し続けていれば、銃身が加熱して撃てなくなる、だから
何十万もの捕虜を殺害することは不可能だなどという主張を
大マジメに
吐き散らす
可笑しな否定論者もいる。
何万もの捕虜を
同じ場所で、一度に殺した
わけではなく、
もちろん
同じ機関銃だけで
殺害したわけがない。
実際の
捕虜殺害に、さまざまな方法が採られていたことは
多数の資料で確認できるが、たとえば
そのひとつとして、
第十軍第百十四師団歩兵六十六聯隊第一大隊戦闘詳報がある。
この資料には、数日間にわたり収容した捕虜を、上部からの
命令で組織的に殺害した事実と方法について
記述している。
同戦闘詳報の
12月13日の記事を
以下に引用する。
(13日)
午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
左記
イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ
其ノ方法ハ
十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
(中略)
午後三時三十分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附キ意見ノ
交換ヲナサシメタル結果、各中隊ニ等分ニ分配シ監禁室
ヨリ五十名宛連レ出シ、第一中隊ハ路営地南方谷地、
第三中隊ハ路営地西南方凹地、第四中隊ハ露営地東南
谷地付近ニ於テ刺殺セシムルコトトセリ
(中略)
各隊共ニ午後五時準備終リ刺殺ヲ開始シ
概ネ午後七時
三十分刺殺ヲ終リ
聯隊ニ報告ス
第一中隊ハ当初ノ予定ヲ変更シテ一気ニ監禁シ焼カント
シテ失敗セリ
捕虜ハ観念シ恐レズ軍刀ノ前ニ首ヲサシ伸ブルモノ、
銃剣ノ前ニ乗リ出シ
従容トシ居ルモノアリタルモ、
中ニハ泣キ喚キ救助ヲ嘆願セルモノアリ
特ニ隊長巡視
ノ際ハ各所ニ其ノ声起レリ
この大隊には、連隊長を経由して旅団命令が伝達された。
命令内容は、「捕虜は全部殺すべし」
というものであり、
捕虜殺害を禁じた国際法規に反する非人道的処置だった。
聯隊からは、ご丁寧に、殺害の手順についても、「十数名
ずつ逐次銃殺してはどうか」
と提案されている。
命令を受けた大隊は、各中隊で分担して、50名ずつを
露営地外の
窪地や谷地など要所に連行して
刺殺した。
各隊とも午後5時から開始し、午後7時30分頃に終了。
聯隊に報告したが、中には
一気に焼き殺そうと試みて
失敗した中隊もあった
ということが
記録されている。
一旦収容した捕虜を
軍の命令で不法に殺害したことは
あきらかであり、これは
国際法に違反し、人道に背く
組織的な犯罪行為
そのものだった。
これは メッセージ 40934 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/40935.html
否定論の限界と破綻(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/27 22:03 投稿番号: [40934 / 41162]
南京事件を否定する者の中には、「当時の日本軍の
規模では
何十万もの虐殺は不可能」
「大虐殺を行う余力はない」
などと
主張するものがいる。
また「何万もの膨大な数の
遺体は
どこに消えたのか」
などと疑問を呈し、
大量虐殺はなかったと
主張する否定論者もいる。
南京での捕虜の殺害は、数時間程度で
行われたものではない。
城内の掃蕩だけでも数日を要し、その前後の攻略戦を含めたら
さらに
期間は長い。
その間に、10万を超える大兵力が
一人平均数名の捕虜を処断しただけで
膨大な殺害数になる。
捕虜の
大量殺害の方法と
遺体の処理については、たとえば
第十六師団長中島今朝吾中将の日誌などからも
推測できる。
以下に引用してみよう。
(12月13日)
一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の
森林村落地帯に出て又一方鎮江両塞より逃て来るもの
ありて到る所に捕虜を見到底其始末に堪えざる程なり
一、大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くる
こととなしたる(れ)ども、千五千一万の群集となれば
之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を
失ひ、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、之が
一旦掻擾(騒擾)せば始末に困るので
部隊をトラック
にて増派して監視と誘導に任じ
十三日夕はトラックの
大活躍を要したり乍併戦勝直後のことなれば中々実行は
敏速には出来ず
斯る処置は当初より予想だにせざりし
処なれば参謀部は大多忙を極めたり
一、後に至りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せし
もの約一万五千、大平門に於ける守備の一中隊長が処理
せしもの約一三○○
其仙鶴門附近に集結したるもの約
七八千人あり尚続々投降し来る
一、此七八千人之を片付くるには相当大なる壕を要し中々
見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のヶ処
に誘きて処理する予定なり
12月13日の時点で、第十六師団だけで
始末に困るほどの
大量の捕虜を捕らえたが、これは「予想だに」しなかったため
「参謀部は大多忙を極めた」
としている。
そのうえで、
7〜8千人を「片付ける」には、「相当大なる壕」
を要するが
なかなか見当たらない。
そこで、100〜200人に分割し、
適当な場所に誘導して「処理する」、と記している。
否定派の中には、文中の「大体捕虜はせぬ方針」
とあるのは
殺害の方針ではなく、銃器を取り上げて釈放するという意味だ、
と唱えるものもいる。しかし、上記の文脈を素直に読解すれば、
捕虜は片端から
殺害するつもりだったが、数が多すぎるため
現場での処刑が難しい―
このため、小分けにして殺害しよう、
という意味だと
理解できる。
すくなくとも、「相当大なる壕」というのは、死体の処理か、
あるいは
捕虜を入れて周囲から銃撃するためには使えるが、
釈放するのであれば、大きな壕などは
必要がない。
遺体は
消えたのではなく、埋められたもの
と考えるのが
ごく自然であり、常識的な解釈だろう。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/40934.html
wadatumi_voice21の珍論の奥にあるもの
投稿者: newdendenmaru2 投稿日時: 2012/12/27 18:00 投稿番号: [40933 / 41162]
相も変わらずお馬鹿投稿を繰り返す wadatumi_voice21なる反日バカサヨが以前、こんな珍論を披歴していた。
↓
『他国を
武力を用いて
攻撃・占領するためには、
少なくとも
「軍事力の脅威を排除する」という口実が必要だ。
軍事力を持たない日本には
「脅威」は
存在し得ない。』
by wadatumi_voice21
笑いを止めるのに苦労するが、笑ってばかりもいられない。
なにせ本人は「本気で言っている」のだか・・・・
なぜこのようなバカげた珍論を大真面目に語るのか?
それは、wadatumi_voice21をはじめとする頭空っぽのバカサヨが「念仏平和主義者」であるからに他ならない。
例えば日本がどこかの国に攻められる。そして占領される。そして「日本国憲法」が停止されるということは、世界の歴史を見れば、充分に考えられることである。するとそういうことがないようにはどうすればいいかというと、当たり前の話だが、そのための軍隊を持っておく。つまり憲法を護るための軍隊を持っておくということである。これはバカ以外は当然そう考えるから、どこの国でもちゃんと憲法に規定された軍隊がある。永世中立国といわれるスイスにもある。いや、むしろ自前のしっかりした軍隊があるからこそ、永世中立を掲げることが出来るのである。ところがバカだけは、軍隊があると戦争を呼ぶんじゃないか。だからないほうがいい。しかしまったくないのも不安だから、軍隊とは呼ばずに「自衛隊」といおうと。内容でも変わっているのかというと、全然変わっていない。ただ、言葉で誤魔化しているだけである。
自衛隊は常識的に見れば、どこの国の誰が見ても、軍隊でる。しかし、軍隊といわずに自衛隊といおうと。日本には軍隊はないんだと安心する。だけど自衛隊はある。それで安心する。こういう奇妙な言葉の上での誤魔化しの二重構造の上にバカの論理(「日本に軍事力は無い」)は成り立っているのである。
「雨が降ると言えば雨が降るという世界」では、日本に軍隊はありませんといえば、無いんです。実際にはあっても、それはどう見ても軍隊じゃないかというものがあっても、言葉の上だけで打ち消しておけば、無いんです。そして、そのことによって安心する。
全くもって呆れ果てて屁も出ないとはこのことである。
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Re: 志気衰退(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 08:35 投稿番号: [40932 / 41162]
片山部隊第九中隊
陸軍歩兵一等兵
藤原正二
一.全般ノ情況
昭和十二年十二月六日片山部隊ハ水陽鎮攻略ノ後高淳ニ進出ノ命ヲ受ケ
前進中水陽鎮等南方約三粁ノ地点ニ於イテ重火器ヲ有スル有力ナル敵ニ
遭遇ス此ノ時中隊ハ此ノ敵ヲ攻撃シ前面ノ敵情地形ノ捜索ヲ命ゼラレ附
近ノ地形ハ全ク氾濫地帯ニシテ行動不可能ナリ堤防ニヨルモ水深浅キ所
ニテ約四米幅二十米ノ「クリーク」アリテ橋梁ナク小隊ハ舟ニ依ルノ外
策ナシ宗田小隊ハ堤防ヲ利用シ渡河点迄攻撃ヲ続行セシガ渡河点ニ於イ
テ小浮船ハ敵ノ為焼却或イハ対岸ニ係留セラレ一時攻撃頓挫セル状態ト
ナル
二.本人ノ行動
此ノ際宗田小隊ニ属スル軽機関銃手藤原一等兵ハ勇敢ニモ裸体トナリ手
榴彈二個ヲ携行シ水中ニ跳ビ込ミ飛沫ヲ揚ゲテ対岸ニ猛進ス之ヲ見タル
敵兵ハ俄然乱射ヲ浴ビセタルモ藤原一等兵ハ之ニ屈セズ勇躍敵ニ近接シ
手榴彈ヲ投擲シ大ナル損害ヲ与ヘ且繋留シアリシ小舟ヲ持チ帰リ小隊ヲ
容易ニ渡河セシメ敵陣地占領ノ因ヲナセリ
其ノ沈着豪膽ニシテ犠牲的好意ニヨリ中隊ノ任務遂行ヲ容易ナラシメタ
ル功績ハ顕著ナリ
↑兵隊の志気が下がっていたという事は無いよね。
こんなのもあるよね。
各隊は午前七時三十分迄ニ概ネ展開ヲ終リ攻撃前進ニ支障ナシ時既ニ天明トナリ敵ハ射撃ヲ開始シ大隊長ハ一地ニ止マルノ不利ヲ知リ独断攻撃前進ヲ命ジ情況ヲ無電ニテ報告ス同時第一大隊トノ戦闘地境七段山―城内中央二ツ部落―浦口東端攻撃前進ノ無電ヲ受ク
これは メッセージ 40929 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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志気衰退(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/25 23:32 投稿番号: [40931 / 41162]
「極メテ悪質ナルモノ多発シアリ」
として、日本軍部自身が
認識していた
犯罪や非行の中でも、とりわけ多発した強姦は、
軍にとって
深刻な問題だった。
相手国民に与える影響も大きく、日本への憎悪と敵愾心を
かきたてるものだ
ということは、自覚されていた。
その唯一の対策が、軍が管理統制する「慰安施設」の設置だけ
というのは、近代軍の考え方としては、やはり次元が低かった
と言わざるを得ない。
前述した陸軍の「軍紀振作対策」には
「主トシテ事変地ニ於テ著意スベキ事項」
として、
次のような
慰安施設にかんする事項が
掲げられている。
事変地ニ於テハ環境ヲ整理シ慰安施設ニ関シ周到ナル注意ヲ
払ヒ、殺伐ナル感情及劣情ヲ緩和抑制スルコトニ留意ヲ要ス
環境ガ軍人ノ心理延イテハ
軍紀ノ振作ニ影響アルハ贅言ヲ
要セザル所ナリ。
故ニ兵営ニ於ケル起居ノ設備ヲ適切ニシ、慰安ノ諸施設ニ
留意スルヲ必要トス。
特ニ
性的慰安所ヨリ受クル
兵ノ精神的影響ハ
最モ率直深刻ニシテ、之ガ指導監督ノ適否ハ志気ノ振興、
軍紀ノ維持、犯罪及性病ノ予防ニ
影響スル所大ナルヲ
思ハザルベカラズ
性的慰安所に対する指導監督の適否が、志気の振興、軍紀の維持、
そして
犯罪及び性病の予防に大きくかかわる
と指摘している。
南京攻略にあたって、日本軍将兵による
中国人女性にたいする
おびただしい数の強姦、強姦殺人が発生したことは、前述のとおり
日本軍自身が認めており、当然のことながら
被害を受けた中国、
さらには
世界中に
知られることとなった。
軍中央は、このことが
相手国の敵愾心をかきたてることを危惧し、
また、性病の大量発生が
戦力を低下させるほどに増加したことで、
戦争遂行に有害である
と認識したのだ。
その対策が、慰安婦動員と
慰安施設整備、指導監督の強化だった。
このことに、当時の
日本軍の特質を
見ることができる。
軍が組織的に慰安所を設けることは、たちまち
全戦線に広がった。
そのため必要となった大量の慰安婦は、朝鮮、台湾などの植民地、
あるいは
占領地から
直接に「調達」
された。
その多くは、「婦人児童の売買禁止に関する国際条約」
が禁じている
21歳以下の未成年であり、換言すれば
軍の管理統制下におかれた
“組織的な強姦”
に
ほかならなかった。
これは メッセージ 40930 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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志気衰退(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/25 23:32 投稿番号: [40930 / 41162]
志気が衰退していたうえに
上海の戦場では、予想を超えた
中国防衛軍の
はげしい抵抗に直面し、死傷者が続出した。
軍の志気が沈滞しただけでなく、傷病を負って帰還する兵を通じ、
実情が知られるようになると
国内にも重苦しい空気が広がった。
そのため
陸軍省は、38年2月19日に
通牒を出している。
表題は
「帰還部隊ノ軍紀風紀及防諜上ノ指導取締ニ関スル件」
その中で
帰還兵の「言動ニ関スル事項」
として、
次のように
戒めている。
今次事変ニ於ケル派遣将兵竝傷病帰還者ノ言動通信等ニ依ルニ
故意ニ上官ニ対シ誹謗的言動ヲ為シ軍紀上注意ヲ要スルモノ、
或ハ第一線ノ苦戦、損害ノ状況、支那兵ノ戦闘力等ヲ
誇大ニ
伝ヘ為ニ一般ノ志気ニ悪影響ヲ及ボス虞アルモノ、或ハ我軍
将兵ノ行動ニ関シ殊更ニ其ノ非行ヲ誇称シ軍ノ威信ヲ失墜スル
虞アルモノ等一局部又ハ特種ナル事象ヲ捉ヘテ誇称スル等
言動上注意ヲ要スルモノアリ。
戦線の志気の沈滞が、国内にも波及することを危惧していたのだ。
戦争目的の不明確さからくる
軍隊の志気の低下が、
軍紀風紀の紊乱の理由の一つだったのだが、とりわけ兵の大部分が
生活をかかえ、家郷に心残りの大きい予後備の召集兵だったことも
軍紀風紀の頽廃と
志気の沈滞に
つながっていった。
陸軍省が、開戦2年間の
戦場における事例をまとめて作成した
「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」
は、この点について
次のように
述べている。
在郷軍人ニ対スル教育指導ニ就テ
今次事変勃発後二ヶ年間ニ発生セル在支全軍ノ犯罪ヲ
役種別ニ就テ調査スルニ
予備役
四六三
後備役
六一四
補充兵役
二八五
現役
三一二
ニシテ応召者ニ極メテ多ク又応召者ノ犯セシ罪質ハ軍成立ノ
根元ニ触ルル対上官犯或ハ聖戦完遂ヲ妨害スベキ掠奪、強盗、
強姦等極メテ悪質ナルモノ多発シアリ。
此ニ依リテ観ルモ
軍紀振作上在郷軍人ノ教育指導ニハ格別ナル配慮ヲ要スルモノ
ト思料セラル。
(陸密第1955号「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」)
とくに応召者に
掠奪や強姦など悪質な犯罪が多発しているとして
注意を喚起し、在郷軍人の指導に配慮が必要であると指摘している。
日中戦争初期の2年間に限っても、すでに軍紀上の犯罪が多発し、
傾向としては
やはり予備役、後備役など召集された兵隊に多く、
それは「聖戦完遂ヲ妨害スル」ほど悪質なものであるということを
軍部当局においても
認識されていた
ということだ。
これは メッセージ 40929 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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志気衰退(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/25 23:31 投稿番号: [40929 / 41162]
中国戦線の
日本軍について
注意すべきことは、
軍隊の志気が
衰退していた
という事実にある。
このことは、軍紀風紀頽廃の
原因の一つになり、
犯罪非行の背景となっていることから
見逃せない点だ。
戦場に送られた兵士の大部分は、突然の令状で召集された
予後備兵か
補充兵だった。
彼らは
予期しないときに、急遽
戦場に駆り出された。
その彼らに、祖国の危機に馳せ参じた志願兵にみるような、
愛国の熱情を
期待するのは
土台から無理なことだった。
そもそも
国民の愛国心に訴えるような
戦争目的、
つまり
大儀名分が、この「事変」には
存在しなかった。
近代日本が
それまでに経験した戦争、日清・日露・日独の
いずれも、戦争目的は
天皇の宣戦の詔書で
明示された。
しかし
事変と称した日中戦争では、過去の
どの戦争よりも
大規模な戦争となったにも関わらず、宣戦布告は
なされず、
したがって
宣戦の詔書も
だされなかった。
宣戦の詔勅に
かわるものとして
発表されたのが、
上海への陸軍派兵を決めた際の
政府声明
だった。
この声明では、「支那軍ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ
促ス為今ヤ断乎タル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ」
として、
「暴戻支那ノ膺懲」
が、この戦争の
目的だとしている。
日本の国土が
侵略の危機に
さらされているわけではなく、
国家存亡の危機ではないため、自衛の名目は成り立たなかった。
そこで「暴支膺懲」を
国家的な合言葉に
したわけだが、
ふとどきな支那人を
懲らしめてやる、というだけでは
国民を奮起させるのに十分なスローガンとは
言えなかった。
国民にとって
戦争目的が明確でなかったばかりでなく、
軍の幹部でさえ
それをはっきり理解できないのが実情だった。
たとえば、第十六師団
歩兵第二十聯隊長
大野宣明大佐が、
部下にあたえた訓辞でも、次のような
苦しい表現をしている。
出征ノ目的理解ニ就テ
今次事変ノ原因一ニシテ足ラズト雖、要ハ蒋介石政権ノ
長期ニ亘ル排日侮日ニ由来スルモノニシテ、之ヲ膺懲シ
抜本塞源ノ道ヲ講ズルハ実ニ我ガ皇軍ノ使命ニシテ天業
恢弘ノ一過程ナリ。
諸官ハ克ク今次出師ノ目的ヲ部下軍隊ニ徹底セシメ、
忠勇ナル下級幹部以下ニ対シ確乎不動ノ信念ヲ培養
セシムルヲ要ス。
(防衛研究所所蔵、第十六師団関係資料綴「出征ニ方リ
将校ニ与フル辞」より引用)
将校に対してさえ
こういう訓示をしなければならなかった。
したがって、下士官以下の兵隊に
戦争目的を理解させ、
志気を奮い立たせることは
容易ではなかった。
しかも
兵士の大部分が、年齢の高い予備や後備の召集兵で、
当然、一般社会に馴染み
後顧の憂いを抱えた人々だった。
これでは、とても志気旺盛とはいえないのが実情だったのだ。
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◆南京で略奪の限りを尽くす中国軍兵士
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/25 18:29 投稿番号: [40928 / 41162]
南京攻略した日本軍の先兵の記述によると、国民党軍は戦闘を放棄し、南京市内で略奪の限りを尽くす中国兵士たち。
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあった。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。
そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです。
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◆真実の証言 欧米人の証言
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/25 18:28 投稿番号: [40927 / 41162]
南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。
アメリカのパラマウント・ニュースも、南京占領の記録映画をつくっていますが、その中に「30万人大虐殺」は報じられていません。また当時、中国で「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞が発行されていましたが、たとえば1937年12月24日(南京陥落の11日後)の紙面をみると、日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。
南京占領後、安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは、「日本軍が安全区を攻撃しなかったことを深く感謝いたします」との感謝状を松井大将に手渡しています。
南京に便衣兵は居た
南京の城壁内で、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン記者は、「軍服を一斉に脱ぎ捨てる中国兵たち」に出くわしています。
「私は一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣(民間人の普通の服)に着替えてくる者もあった。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(ニューヨーク・タイムズ
1937年12月22日付)
また南京陥落後、南京城壁内へ入った日本兵たちもみな、この「脱ぎ捨てられた中国兵の軍服」が街路の至るところに散乱しているのを目撃しています。彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました(南京のジェームズ・エスピー副領事の報告)。
中国軍が自ら村や農村に火をつけた
アメリカのティルマン・ダーディン記者は、南京で日本軍を迎え撃つ中国軍の様子を、こう書いています。「中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」(ニューヨークタイムズ)。
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◆真実の証言 中国軍による虐殺
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/25 18:28 投稿番号: [40926 / 41162]
実は日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体が存在していた。十一月二十九日の様子を、ドイツのリリー・アベック記者はこう記している。
「もはやどこに行っても、規律の解体と無秩序が支配していた。南京駅に二千人の負傷者を乗せた汽車が到着したが、誰も見向きもしなかった。看護兵も付き添っていなかった。負傷兵たちは二日間も放置された後、その二日間に死んだ者と一緒に降ろされ、駅のホームに並べられた。死骸が空気を汚染し、悪臭を放った」
十二月七日、中国軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、焼け出された市民が難民となって城内に流入、商品流通が麻痺し食料難が加速、一部では暴動が起こった。中国軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。
十日頃には完全な無政府状能心に陥り、統制を失った中国兵たちによる掠奪が横行した。在南京アメリカ大使館のエスピー副領事は、陥落直前の南京の様子を漢口のアメリカ大使館にこう報告している。
「日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって市民と財産に村する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件をたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」
南京にはたくさんの死体があった。それも平服の死体があった。
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◆反対尋問に耐えられない証言ばかり
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/25 18:27 投稿番号: [40925 / 41162]
中国政府は、中国国民党が戦後、多大の苦労をしてようやく集めた十一件
の証言によって「十九万人が集団殺戮された」と主張している。
しかし、その計算の仕方は杜撰極まりない。どこそこでAという中国人
が、日本軍が何万もの中国人を集団殺害しているのを目撃したというよう
な《十一件》の証言の犠牲者数を単純に合計して十九万人という数字を主
張しているに過ぎないのである。
しかも、この十九万に関して『資料選輯』は「集団殺戮に会い、死体を焼
かれて痕跡をとどめなかった者は十九万以上に達」したと主張し、死体なき
殺人事件だと言い張るのである。
数名ならともかく、十九万人もの死体が跡形もなく消えたと言われて、誰が
信じることができるだろうか。
実はこれら十一件の証言は、事件から八年も経った後に集められたもので
あり、反対尋問も受けていない。その内容も合理性を著しく欠く。
何故なら、これらの証言を信じれば、陥落直後の十二月十四日から十八日ま
でのたった五日間に、一日平均三万八千人もの中国人が、約千六百人の日本
軍歩兵第七連帯第一、第二大隊(その多くは治安維持や警備を担当していた)
の手によって安全区及びその付近において殺害され、十九万もの死体はすべ
て石油などで焼かれて痕跡をとどめなかったことになるからである。
大量殺害施設として名高いナチスのアウシュヴィッツでさえ、殺害数は一
日平均約七百十人であった。一日平均三万八千人も殺害するためには、アウ
シュヴィッツ並の施設が五十三箇所も必要となる。もちろんそんな施設はな
かった。
では十一件の証言はどのようなものか。〈起訴状〉にその内の一件、「魯
甦」の証言に基づいて次のように書かれている。
日本軍は十二月十八日、南京城北の草鞋狭で捕虜と老若男女の避難民を含
めた五万七千余人を一ヵ所に集めて、まず機関銃で掃射し、さらに生きてい
る人を銃剣で刺殺し、その上にガソリンをまいて焼いた。おなじような大規
模な虐殺は南京陥落後の一週間のうち数件おこなわれた。
東京裁判にも証言を提出した「魯甦」によると、日本軍は、近郊の村に包
囲・拘禁していた五万七千四百十八名もの難民と兵士を十二月十六日夜、ワ
イヤーロープで二人ずつ括り、四列に並べて下関・草鞋峡まで追い立て、機
関銃で掃射しつくした後、さらに銃剣でやたらめったら突き刺し、最後に石
油をかけ、火をつけて焼き、残った人骨をことごとく揚子江の中に投げ入れ
た。この一部始終を、南京城内の「市街戦」に際して「砲弾」を受け「腿」
に負傷し上元門大芽洞に避難した証言者が「目の前で」目撃したという。
この〈証人〉が法廷に出廷していたならば当然、次のような〈反対尋問〉
を受けただろう。
一、証人は闇夜の中でいったいどうやって五万七千四百十八名もの犠牲者
を一桁まで正確に数えることができたのか。
二、日本兵が要所を固めている城内から城外の下関までの道を、証人はど
のようにして通って、殺害現場を目撃できる場所に行けたのか。
三、六万人近い中国人をワイヤーロープで縛り上げるのに日本兵は何人く
らいおり、どれくらいの時間を要したか。中国人はおとなしく縛られたの
か。
四、六万人もの中国人を殺害現場まで押送するのに、警護の日本兵は何人いたのか。
五、六万体もの死体が骨になるまでにどのくらいの時間がかかったのか。
また六万体もの人骨を揚子江に流すために、どのくらいの日本兵がどのくら
いの時間をかけたのか。
更に、数時間にわたる機銃掃射の音が夜間に下関で鳴り響けば、安全区に
いた安全区委員会のメンバーなど誰かが気づいたはずだが、他に傍証は存在
するのか。
この疑問に、本〈証人〉を採用した告発側は、答えねばならない(安全区委員
会の記録には、この時期に日本軍によって殺された中国人の数は十四人と記
録されている)。
こうした〈反対尋問〉を想定すれば、この証言に証拠としての立証能力を
認めるのはほとんど不可能だ。中国側が懸命に集めて、ようやく採用した証
言でさえ、かくもいい加減なのである。ほかも推して知るべしであろう。
「十九万人殺害」の根拠たる中国側証言に〈証明力〉はもとより〈証拠能
力〉すらない。
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◆集まらなかった中国側証言
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/25 18:27 投稿番号: [40924 / 41162]
東京裁判に提出された「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」によ
れば、第二次大戦後、日本の「戦争犯罪」を裁くため連合国が開廷し
た「東京裁判」に備え、中国国民政府は一九四五年十一月七日「南京敵
人罪行調査委員会」を設置し、中国人に南京における日本軍の犯罪を
申告するよう呼びかけた。
ところが、日本軍の残虐行為を申告する
者が「甚だ少なき」ばかりか、聞き取り調査を行うと唖然として「口
を噤みて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいたという。やむ
なく中国政府は暫定的な報告を一九四六年一月二十日、東京裁判に提
出したが、「日本軍による大量虐殺」の証拠は埋葬記録を除けば、魯甦
という人物の「目撃証言」ただ一件であった。
その後も調査を進め、ようやく「五百件の調査事実」を発掘したが、
「資料を獲得する毎々一々これを審査」した結果、新規に採用できたの
は僅か四件であった。ともかく「魯甦」証言と、慈善団体である「崇善堂」
と「紅卍字会」の二つの埋葬表と新規四件の証拠、計七件の証拠に基づい
て「被殺害者確数三十四万人」という結論を出し、一九四六年二月に東京
裁判所へ提出した(速記録第五十八号)。しかし《七件》の犠牲者数を
単純に積算しても《二十二万八千人》にしかならず、結論の《三十四万》
と大きく食い違っている。
その食い違いを東京裁判の国際検察局から指摘されたのだろう。
『資料選輯』によれば、中国国民政府は「極東法廷証拠法の要求するとこ
ろに合致させるため」、東京裁判開廷から二ヶ月後の一九四六年七月一日
から十一月十一日まで約五ヵ月間にわたって再調査を実施した。
その結果、「確かな証拠にもとづいて出廷し証言した者は二千七百八十四
件分、その中でも被害状況が重い被害者で出廷し証言し得た者は十一
件分」あったという(この内、三件は東京裁判に提出済み)。ともかく二つ
の埋葬表と、この十一の証言とによって、ようやく犠牲者数は三十四万と
なった。
以上のような経緯から、次の二つの真相が浮かび上がってくる。
一、八年前のこととはいえ、南京には当時、二十万人以上の中国人が住んでいた。
にもかかわらず、当時の中国人は、敗戦国となった日本軍の犯罪を告発する
のに消極的であったり否定的であり、かつ信憑性のある証言をする者もほと
んどいなかった。
二、東京裁判に提出した証拠だけでは「犠牲者三十四万人」を立証できな
かったため、東京裁判中も中国側は証言集めに奔走した。言い換えれば、
中国側は証拠も揃わない内から予め犠牲者を「三十四万」以上と決めてい
たとの疑念を生じるのを禁じ得ない。
「大漢和辞典」によれば、中国では「白髪三千丈」などというように、
「三千」には「大変多い」という意味がある。南京ではその百倍もの犠牲
者が出たとする中国側の一方的な発想によって、あくまで政治的に決定し
た数字だったのではないか。
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Re: ◆南京で略奪の限りを尽くす中国軍兵士
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/25 06:43 投稿番号: [40923 / 41162]
これは メッセージ 40920 (sho*jou** さん)への返信です.
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Re: ◆南京で略奪の限りを尽くす中国軍兵士
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/24 07:38 投稿番号: [40922 / 41162]
>ん?何で「城」なのかわかるかい?敵から攻めこまれた住民が城壁の
内側に避難して味方の軍がこれを守るというのはごく普通の行動だが?
おまえ、こぴぺするだけで自分で考えてねえだろ?
↑中国兵が避難民から掠奪していたという報道があるよね、脳死君。
その中国兵が、城内外で次々と中国兵の手で銃殺されて居たという報道があるよね、脳死君。
常識が通用しな中国だよ、脳死君。
>ってことは、おまえさんは日本軍がジンギスカンの軍と同様に殺し
尽くし、犯し尽くし、焼き尽くす「蝗軍」だったことを「中国の農民が
認識していた」から逃げたに決まっている、と言ってるわけだ。日本軍は
紳士的だと思っていたから農民が逃げなかった、という可能性をおまえは
全く考慮しないわけだな(藁
↑観戦武官達は、日本軍が余りにも整然としていたので、批評が出来なかったようだね、脳死君。
これは メッセージ 40920 (sho*jou** さん)への返信です.
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犬の馬鹿話は面白いな
投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2012/12/24 00:32 投稿番号: [40921 / 41162]
相変わらずの馬鹿に失笑。
これは メッセージ 40920 (sho*jou** さん)への返信です.
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Re: ◆南京で略奪の限りを尽くす中国軍兵士
投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/12/24 00:03 投稿番号: [40920 / 41162]
>日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む
馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
ん?何で「城」なのかわかるかい?敵から攻めこまれた住民が城壁の
内側に避難して味方の軍がこれを守るというのはごく普通の行動だが?
おまえ、こぴぺするだけで自分で考えてねえだろ?
>安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
ってことは、おまえさんは日本軍がジンギスカンの軍と同様に殺し
尽くし、犯し尽くし、焼き尽くす「蝗軍」だったことを「中国の農民が
認識していた」から逃げたに決まっている、と言ってるわけだ。日本軍は
紳士的だと思っていたから農民が逃げなかった、という可能性をおまえは
全く考慮しないわけだな(藁
これは メッセージ 40919 (madabakayatuterunokaomae さん)への返信です.
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◆南京で略奪の限りを尽くす中国軍兵士
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 20:52 投稿番号: [40919 / 41162]
南京攻略した日本軍の先兵の記述によると、国民党軍は戦闘を放棄し、南京市内で略奪の限りを尽くす中国兵士たち。
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあった。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。
そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです。
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◆真実の証言 欧米人の証言
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 20:50 投稿番号: [40918 / 41162]
南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。
アメリカのパラマウント・ニュースも、南京占領の記録映画をつくっていますが、その中に「30万人大虐殺」は報じられていません。また当時、中国で「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞が発行されていましたが、たとえば1937年12月24日(南京陥落の11日後)の紙面をみると、日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。
南京占領後、安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは、「日本軍が安全区を攻撃しなかったことを深く感謝いたします」との感謝状を松井大将に手渡しています。
南京に便衣兵は居た
南京の城壁内で、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン記者は、「軍服を一斉に脱ぎ捨てる中国兵たち」に出くわしています。
「私は一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣(民間人の普通の服)に着替えてくる者もあった。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(ニューヨーク・タイムズ
1937年12月22日付)
また南京陥落後、南京城壁内へ入った日本兵たちもみな、この「脱ぎ捨てられた中国兵の軍服」が街路の至るところに散乱しているのを目撃しています。彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました(南京のジェームズ・エスピー副領事の報告)。
中国軍が自ら村や農村に火をつけた
アメリカのティルマン・ダーディン記者は、南京で日本軍を迎え撃つ中国軍の様子を、こう書いています。「中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」(ニューヨークタイムズ)。
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◆真実の証言 中国軍による虐殺
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 20:49 投稿番号: [40917 / 41162]
実は日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体が存在していた。十一月二十九日の様子を、ドイツのリリー・アベック記者はこう記している。
「もはやどこに行っても、規律の解体と無秩序が支配していた。南京駅に二千人の負傷者を乗せた汽車が到着したが、誰も見向きもしなかった。看護兵も付き添っていなかった。負傷兵たちは二日間も放置された後、その二日間に死んだ者と一緒に降ろされ、駅のホームに並べられた。死骸が空気を汚染し、悪臭を放った」
十二月七日、中国軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、焼け出された市民が難民となって城内に流入、商品流通が麻痺し食料難が加速、一部では暴動が起こった。中国軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。
十日頃には完全な無政府状能心に陥り、統制を失った中国兵たちによる掠奪が横行した。在南京アメリカ大使館のエスピー副領事は、陥落直前の南京の様子を漢口のアメリカ大使館にこう報告している。
「日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって市民と財産に村する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件をたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」
南京にはたくさんの死体があった。それも平服の死体があった。
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