南京への道(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/28 20:46 投稿番号: [40955 / 41162]
1937年12月1日、大本営は中支那方面軍に対し、戦闘序列を
発令し、そのうえで 「中支那方面軍ハ海軍ト協同シテ 敵国首都
南京ヲ 攻略スベシ」 という大陸命を くだした。
戦闘序列とは、戦時に令する軍の編成のことを 指しており、
大陸命とは、大本営陸軍部を通じて発する天皇の命令を意味する。
すでに、半年も前に起きた 蘆溝橋での武力衝突を 発端として
両国の軍隊が 全面戦争に突入していた にもかかわらず、
この大陸命で 大本営は、はじめて 中国を 「敵国」 と呼び、
首都南京への武力侵略を 正式に命令したのだ。 つまり日本は
当時、国際社会からの 大儀なき武力侵略に対する 批判を恐れ、
あくまでも「事変」 の鎮圧として、片付けようとしていたのだ。
もともと補給を軽視する日本軍の体質的欠点にくわえ、戦争方針が
数カ月程度の戦闘で中国軍を屈服させる という甘い見通しのもと、
長期戦争の備えがないまま 中国に大軍を派兵したことが、のちに
深刻な食糧不足に伴う略奪行為多発や捕虜の大量殺戮につながった。
南京の攻略は、参謀本部が 初めから 予定していたわけではない。
第十軍を 杭州湾に上陸させたのは、予想外に厳しい上海の戦況を
打開するためであり、南京へ進撃するためではなかった。
中支那方面軍の編成も変則的で、司令部の機構も小さなものだった。
参謀長は 参謀本部第三部長 塚田攻少将、参謀副長は 参謀本部
第三課長 武藤章大佐、以下の参謀数名も 参謀本部の職員であり、
本部に在籍したまま 「出張」 の形式で 派遣された。
その他の司令部の人員の多くは、上海派遣軍司令部の人員が兼務し、
さらに 方面軍には、直属の兵站部隊が まったく 無かった。
こうした 異例の編成は、上海から遠くへ侵攻するつもりがなく、
後方が局限されていたからであり、このために、中支那方面軍の
南京侵攻作戦には、次のような 問題点が生じた。
第1に、後方補給の準備が まったく 欠けていたため、
南京へ殺到した 各部隊の給養は ことごとく 徴発に依存し、
これが 略奪暴行多発の 原因になった。
第2に、方面軍司令部には 外交や渉外の 機能がなく、
国際法の顧問も 従来の戦争のように 置いていなかった。
各国の公館が集中している首都に攻め込むのに、これは きわめて
不十分な編成で、しかも 南京の公使館、上海の総領事館など
日本の外務省の機関との 連携も 悪かった。 それどころか、
軍は 外交官を 邪魔もの扱いにし、暴行を 制止しようとした
外交官が、身の危険を 感じるほどだった と報告している。
第3に、軍紀風紀維持についての配慮が、きわめて 不十分だった。
方面軍には もともと 直属の憲兵がなく、急遽配属された少数の
憲兵で 大軍の犯罪非行を取り締まるのは ほぼ不可能に近かった。
第十軍に配属された 憲兵隊長の 上砂勝七も 「何分 数個師団
二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らずでは如何とも
方法がない」 (『憲兵三十一年』東京ライフ社刊)と嘆いていた。
このように、方面隊の編成そのものにも、大虐殺事件に つながる
大きな要因が 含まれていた と言うことができる。
発令し、そのうえで 「中支那方面軍ハ海軍ト協同シテ 敵国首都
南京ヲ 攻略スベシ」 という大陸命を くだした。
戦闘序列とは、戦時に令する軍の編成のことを 指しており、
大陸命とは、大本営陸軍部を通じて発する天皇の命令を意味する。
すでに、半年も前に起きた 蘆溝橋での武力衝突を 発端として
両国の軍隊が 全面戦争に突入していた にもかかわらず、
この大陸命で 大本営は、はじめて 中国を 「敵国」 と呼び、
首都南京への武力侵略を 正式に命令したのだ。 つまり日本は
当時、国際社会からの 大儀なき武力侵略に対する 批判を恐れ、
あくまでも「事変」 の鎮圧として、片付けようとしていたのだ。
もともと補給を軽視する日本軍の体質的欠点にくわえ、戦争方針が
数カ月程度の戦闘で中国軍を屈服させる という甘い見通しのもと、
長期戦争の備えがないまま 中国に大軍を派兵したことが、のちに
深刻な食糧不足に伴う略奪行為多発や捕虜の大量殺戮につながった。
南京の攻略は、参謀本部が 初めから 予定していたわけではない。
第十軍を 杭州湾に上陸させたのは、予想外に厳しい上海の戦況を
打開するためであり、南京へ進撃するためではなかった。
中支那方面軍の編成も変則的で、司令部の機構も小さなものだった。
参謀長は 参謀本部第三部長 塚田攻少将、参謀副長は 参謀本部
第三課長 武藤章大佐、以下の参謀数名も 参謀本部の職員であり、
本部に在籍したまま 「出張」 の形式で 派遣された。
その他の司令部の人員の多くは、上海派遣軍司令部の人員が兼務し、
さらに 方面軍には、直属の兵站部隊が まったく 無かった。
こうした 異例の編成は、上海から遠くへ侵攻するつもりがなく、
後方が局限されていたからであり、このために、中支那方面軍の
南京侵攻作戦には、次のような 問題点が生じた。
第1に、後方補給の準備が まったく 欠けていたため、
南京へ殺到した 各部隊の給養は ことごとく 徴発に依存し、
これが 略奪暴行多発の 原因になった。
第2に、方面軍司令部には 外交や渉外の 機能がなく、
国際法の顧問も 従来の戦争のように 置いていなかった。
各国の公館が集中している首都に攻め込むのに、これは きわめて
不十分な編成で、しかも 南京の公使館、上海の総領事館など
日本の外務省の機関との 連携も 悪かった。 それどころか、
軍は 外交官を 邪魔もの扱いにし、暴行を 制止しようとした
外交官が、身の危険を 感じるほどだった と報告している。
第3に、軍紀風紀維持についての配慮が、きわめて 不十分だった。
方面軍には もともと 直属の憲兵がなく、急遽配属された少数の
憲兵で 大軍の犯罪非行を取り締まるのは ほぼ不可能に近かった。
第十軍に配属された 憲兵隊長の 上砂勝七も 「何分 数個師団
二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らずでは如何とも
方法がない」 (『憲兵三十一年』東京ライフ社刊)と嘆いていた。
このように、方面隊の編成そのものにも、大虐殺事件に つながる
大きな要因が 含まれていた と言うことができる。