入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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済南事件4 防備撤去で掠奪開始

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/30 16:32 投稿番号: [1357 / 2250]
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫


170p

《 福田中将は、・・・到着後、前述した蒋介石の申し入れを

酒井隆少佐から聞くと、ただちに反駁の書簡をとどけさせた。

「本司令官ハ……貴見ニ依リテ   行動ヲ左右セラルベキモノニアラズ……

本司令官ノ軍統率ノ目的ハ……一ニ 居留民ヲ保護スルニ在リ。

従テ、承ルガ如キ 事項ノ要望ハ   受取ルベキ筋合ノモノニアラズ」


にべもない拒否回答である。

が、斎藤少将は、少なくとも警備態勢の緩和は必要だ、と考えた。


171〜172p

午後三時三十分、斎藤少将は師団長福田中将には連絡することなく、

同夜の防禦物撤去作業を各部隊に命令した。

・・・

日本側が徹夜で防禦物の撤去作業をしていると、あるいは中国兵の一団が

その作業を妨害したり、あえてその前で中国人市民に反日演説をおこなう者もいた。


そして、阻止されないとわかると、ぞろぞろと商阜地内に流れこみ、

中国人民家に強制民宿した。

斎藤少将の処置にたいする批判の適否はともかく、

五月二日夜、商阜地にはこれまで以上に中国兵が増え、

日本人の居住家屋は軍民を問わずに中国兵の宿舎に隣接する環境になった。


174〜175p

午前九時二十分ごろ、国民革命軍の暴兵約三十人が、麟趾門街の

『満州日報』   取次販売店吉房長平宅に乱入して、掠奪をはじめた。

付近の緯二路派出所に急報され、総領事館警察巡査岡田静雄、

同山下茂一が佩剣   (はいけん)   をにぎりしめて現場に走った。

ほぼ同時に、旧朝鮮銀行社宅の天津歩兵隊本部に   『済南日報』   社から電話がかかった。

事件を知らせて、現場に案内するから来社を乞う、という。



隊長小泉中佐は西田総領事代理に随行して蒋介石を訪ねている。

隊長代理・第四中隊長難波元吉大尉は、即座に第一小隊長

久米川好春中尉に出動を命じた。

天津歩兵隊は、ほぼ四月三十日から不眠不休で警戒態勢を維持し、

既述したように、国旗損傷その他の中国側の   「侮日」   言動を視認

かつ体験して、血圧上昇度と興奮度を高めていた。


「うぬッ」 「野郎ッ」


など、思わず洩れる怒声と罵声を吐き散らしながら、久米川小隊は

『済南日報』   社を経て現場に急行した。

吉房長平宅に到着してみると、先着した二人の巡査のうち、岡田巡査が

暴兵にふくろ叩きにされ、佩剣をうばわれて射殺される寸前であった。

久米川小隊は吶喊   (とっかん)   し、暴兵はあわてて東方的百メートルの

〝民宿〟 に逃げこんだ。》



つづく

*   南京でも済南でもそうだが、防備を外した後から襲撃されている。

   日本の平和主義者は   「軍備があるから攻撃される、無くせば攻撃されない」

   と言うが、それは日本人の発想であり、中国人相手では逆効果になる。



   中国は防備の無い所を攻める。   孫子の兵法

   虚実篇に曰く、

    「攻めて必ず取る者は、其の守らざる所を攻むればなり」

   計篇に曰く

    「兵とは詭道(きどう) なり。故に、・・・・其の無備を攻め、其の不意に出ず。」

1月12日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/30 16:20 投稿番号: [1356 / 2250]
一月十二日


《 南京が日本人の手に渡って今日で一カ月。

私の家から約五十メートルほどはなれた道路には、

竹の担架に縛りつけられた中国兵の死体がいまだに転がっている。



ドイツ、アメリカ、イギリスの大使館を訪ねて、昨日の家捜しを報告し、

ローゼン、アリソン氏、プリドー=ブリュン各氏と相談した。

この件について、全員の意見が一致した。

すなわち、日本の警察は、外国人の建物に入るときには、その国の大使館へ

事前に連絡するか、もしくはその国の大使館員を同伴する義務がある、ということだ。



こうしているあいだに、米の販売が全面的に中断されてしまった!

米だけではない、石炭も安全区に運びこめなくなった。

日本軍は塀に貼り紙をして、自分の住居に戻れといっている。

肝心の家が焼き払われたり略奪にあったりしていることなんか、

てんでおかまいなしなのだ。



日本人と友好的にやっていくにはどうするかとあれこれ考えた末、あることを思いついた。

南京安全区国際委員会を解体して、国際救済委員会を設立し、

日本人にも出席してもらうのだ。やってみよう。

これがうまくいくかどうかはやってみなければわからない。

まずはじめに仲間と各国大使館の人たちに相談しなくてはならない。》

済南事件3 国民党軍の反日的態度

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/29 19:00 投稿番号: [1355 / 2250]
児島襄著   『日中戦争1』   文春文庫


164〜166p

《 第十一旅団長斎藤瀏少将は、・・・、張孫軍の退却、

国民革命軍の入城という二つの危険な事態に直面して、

どのように商阜地在住の日本人居留民をまもるかを熟慮・・・


  −   「濁流ハ、須   (すべか)   ラク道ヲ造リテ排出スルニ如   (し)   カズ」


在留邦人を保護するためには、できるだけ張孫軍とも国民革命軍とも衝突をさけ、

武力行使以外の方法で始末すべきである。それには両軍ともに商阜地外を

通行させればよく、その通路をあたえればよい、と思案。・・・



五月一日、夜明けとともに、市内にちらちらと国民革命軍の斥候があらわれた。・・・

つづいて第一、第四十一軍が入城したが、そのころには、街の雰囲気は一変していた。



商阜地東部監獄から囚人が解放され、

中国人家屋にはいっせいに青天白日旗がかかげられ、

入城した部隊のうち、とくに第四十軍所属の少年兵が市内を走りまわって、

宣伝ビラを民家の壁にはった。「排斥日本帝国主義」「反対日本出兵」 など、

いずれも反日ビラであり、中には、張作霖と日本女性が   「乱舞」   している図柄もあった。



少年兵は、わざと日本軍歩哨に近づき、白眼をむいて敵意を示しながら、

その面前の街路樹にビラをはったりした。



斎藤少将は、不穏な空気を感得して警戒強化を下令したが、

午前八時二十分ごろ、中国兵による日本国旗損傷事件が発生した。

国民革命軍第一軍第二十二師第六十四団 (註、団は連隊に相当。

なお、その下に営〔大隊〕、連〔中隊]、排[小隊〕がある) が入城するさい、

兵士の一人が日本人民家に掲揚中の日章旗をうばい、破棄した。》


168p

《 五月二日午前九時、蒋介石は乗馬で済南城に入城した。・・・

そのころには、済南には国民革命軍将兵が充満し、約十万人と推計された。》


169p

《 蒋介石は入城後、佐々木中佐を通じて、日本軍の撤兵、後続日本軍の輸送中止、

警備区域の撤去などを斎藤少将に申し入れたが、

その第四項は次のように指摘されていた。



「人民代表ノ言ニ依レバ、日本兵ノ人民ニ対スル態度不良ナルニッキ取締ヲ希望ス」


  温厚な斎藤少将も、ムッとした表情をあらわにし、幕僚たちは、いきりたった。

  露骨な反日姿勢を示して   「態度不良ナル」   のは、中国兵のほうではないか   −。

「貴公はいったいどっちの味方なのか」

斎藤少将は、いずれ第六師団長福田彦助中将が到着してから返事すると述べたが、

幕僚の中には、そう、佐々木中佐に怒声をはりあげる者もいた。》



*   国民革命軍十万人に対して、日本軍の派遣予定人数は五千人、

   但しまだ全員は来ていない。

   日本軍は圧倒的多数の敵兵の海に埋没する形になった。

*   佐々木中佐とは、のち昭和12年12月に南京に駐屯した

   第16師団の佐々木到一少将その人。


つづく

1月12日 回答期限と中国の対応

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/29 18:35 投稿番号: [1353 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   264〜266p


《 外務次官堀内謙介は、十二日に駐日ドイツ大使館参事官G・シュミーデンに

「十五日期限」   をつたえ、中国側の回答は具体的なものが必要だ、

なお考慮中式のものはだめだ、と付言した。

報告を受けたドイツ外相ノイラートは、前日にも駐支大使トラウトマンに

中国側を督促するよう訓令していたが、堀内次官の言明を伝達するとともに、

かさねて中国側に早期回答を勧告させた。



大使トラウトマンは、蒋介石との会見を申しいれたが、

多忙との理由で会えず、かわりに外交部長王寵恵が応接した。

大使トラウトマンは、日本側はしびれをきらしている、

中国側に回答する気持があるなら早いほうがよい、と力説した。


「まだ遅すぎるとはいえないかもしれません。しかし、いまや十二時五分前です」


王外交部長は、至急に閣議をひらいて返事をすると述べたが、

王部長からことの次第を聞いた蒋介石は、閣議招集の指示もあたえなかった。



蒋介石は、前述したように、すでに和平拒否の方針を確立し、

前日は、陳誠を武漢衛戍総司令に任命するとともに開封に飛び、

第一、第五戦区の団長以上の指揮官をあつめて、

「抗戦検討與必勝要訣」   と題して訓示した。

こんごの抗戦の重心を武漢におき、そのためには津浦鉄道と、新郷で平漢線を

横断する道清鉄道の確保が最重要である旨を強調する内容であった。



また、同時に八項目の誓いをとなえ、一同に唱和させた。

「服従命令……厳守紀律……尽忠職守……実行主義……研究学術……

抗戦到底……貫徹始終……恢復『智信仁勇』的固有武徳……」

この 『八誓』 をうらがえせば、中国軍の内部には、命令にしたがわず、

軍紀を守らず、職務に不忠実であり、有言不実行、

勉強不足などの傾向があることがうかがわれる。



が、いずれにしても、蒋介石にとっては、戦う以外に   「生存」   の道はない。

王部長は、日本側の回答期限通告を報告するとともに、日本政府と大本営が

連日の会議をくりかえしているとの情報も、蒋介石に報告した。


「倭 今日 始知 対華戦争 非長期 不可乎!」


それじゃ、日本はやっと、中国との戦いが長期戦以外にはあり得ないことに気づいたのか。

蒋介石は、とっさにそう感想を述べ、もしそうであれば中国は

ますます有利な地位にたてる、と指摘した。

国際情勢は、必ず反日親中国の味方をもたらす。

戦ってさえいれば、「日本 亦終 必帰 於失敗 也」   蒋介石は、かねての持論を

くり返し、適宜に   (日本側に)   対応せよ、と、外交部長王寵恵に指示した。》



*   蒋介石は 「日本はやっと、中国との戦いが長期戦以外には

   あり得ないことに気づいたのか」   と言っている。

   これでは、日本がいくら和平を提案しても、ムダだろう。

   中国に和平の意思が無いのだから。

済南事件2 敗軍と掠奪

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/28 18:55 投稿番号: [1352 / 2250]
北軍が敗走するに及び、略奪が始まりました。


児島襄著   『日中戦争1』   文春文庫


162p

《   国民革命軍第一集団軍のうち、陳調元指揮の第二軍団は頭目劉黒七の

土匪軍約五千とともに済南東方の郭店にせまり、

張、孫軍の敗兵がしきりに退却途中に市内を〝物色〟 しはじめた》


163p

《 日本軍が位置する外では、夜陰を利用して暴民、窮民が掠奪をはじめ、

駅構内に山積していた張宗昌軍の小麦粉が、まずその対象となった。

数百人の窮民が、巡警の発砲にもひるまずに突進し、約四千袋の小麦粉をわずか

「三分間足らず」   できれいに奪取していった。

その間に窮民たちは一言も唱えず、一声も叫ばず、

立ち去ったあとには一握りの粉もこぼしていなかった、といわれる。



済南市内の中国人窮民は数万人を数える。もし彼らがいっせいに動きだしたら……。

「まるで蝗群   (いなご)   におそわれるにひとしいにちがいない」

小麦粉掠奪の手ぎわが水ぎわだっているだけに、無気味さの度合いも強まり、

斎藤少将は身震いしながら、憂慮した。》


つづく

1月11日決定の支那事変処理根本方針

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/28 18:49 投稿番号: [1351 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   470〜471p


《 一月十一日、御前会議が開催された。

この種御前会議は日露戦争以来初めてのことである。

陸海統帥部の両総長、次長、総理、陸、海、外、内、蔵各大臣及び特旨により

平沼枢密院議長が出席、外相が原案を説明、両総長が意見を陳述、

枢院議長が賛意及び希望を述べ、次のように決定し会議を終了した。



    支那事変処理根本方針

帝国不動ノ国是ハ   満洲国 及 支那ト提携シテ   東洋平和ノ枢軸ヲ形成シ

之ヲ核心トシテ 世界ノ平和ニ貢献スルニアリ

右ノ国是ニ基キ 今次ノ支那事変処理ニ関シテハ   日支両国間過去一切ノ相剋ヲ一掃シ

両国国交ヲ大乗的基礎ノ上ニ再建シ   互ニ主権及領土ヲ尊重シツツ

渾然融和ノ実ヲ挙クルヲ以テ 窮極ノ目途トシ   先ツ事変ノ再起防遏   (あつ)   ニ

必要ナル保障ヲ   確立スルト共ニ   左記諸項ヲ両国間ニ確約ス。



(一)   日満支三国ハ   相互ノ好誼ヲ 破壊スルカ如キ政策、教育、交易其他

   凡   (あら)   ユル手段ヲ全廃スルト共ニ

   右種ノ悪果ヲ招来スル虞   (おそれ)   アル行動ヲ禁絶スルコト。


(二)   日満支三国ハ   互ニ相共同シテ   文化ノ提携防共政策ノ 実現ヲ期スルコト

(三)   日満支三国ハ   産業経済等ニ関シ 長短相補有無相通ノ趣旨ニ基キ

   共同互恵ヲ約定スルコト



右ノ方針ニ基キ   帝国ハ特ニ 政戦両略ノ緊密ナル運用ニ依リ   左記各項ノ適切ナル実行ヲ期ス


(一)   支那現中央政府ニシテ   此際反省翻意シ 誠意ヲ以テ和ヲ求ムルニ於テハ

別紙 (甲)   日支媾和交渉条件ニ   準拠シテ交渉ス

    帝国ハ将来 支那側ノ媾和条項   実行ヲ確認スルニ至ラハ   右条件中ノ保障条項

別紙 (乙)   ヲ解除スルノミナラス   更ニ進ンテ 支那ノ復興発展ニ   衷心協力スルモノトス。


(二)   支那現中央政府カ 和ヲ求メ来ラサル場合ニ於テハ

   帝国ハ爾後 之ヲ相手トスル事変解決ニ期待ヲ掛ケス   新興支那政権ノ成立ヲ助長シ

   コレト両国国交ノ調整ヲ協定シ   更正新支那ノ建設ニ協力ス

   支那現中央政府ニ対シテハ   帝国ハ之カ潰滅ヲ図リ   又ハ新興中央政権ノ傘下ニ

   収容セラルル如ク施策ス


(三)   本事変ニ対処シ 国際情勢ノ変転ニ備ヘ   前記方針ノ貫徹ヲ期スル為

   国家総力 就中   (なかんずく)   国防力ノ急速ナル培養整倫ヲ促進シ

   第三国トノ友好関係ノ保持改善ヲ   計ルモノトス


(四)   第三国ノ権益ハ   之ヲ尊重シ専ラ自由競争ニヨリ   対支経済発展ニ

   優位ヲ獲得スルコトヲ期ス

(五)   国民ノ間ニ 事変処理根本方針ノ趣旨ヲ   徹底セシムル様 国論ヲ指導ス

   対外啓発ニツキテモ亦同シ



  別紙甲   日支媾和交渉条件細目

   〔十二月二十一日の独大使あて回答文細目に同じ〕

  別紙乙

   〔別紙甲のうちの保障条項、講和に関連して廃棄する約定〕



右会議において参謀総長は、とくに、本事変出兵の目的、事変処理の根本理念、

交渉による早期解決の期待、国防力の充実整備の必要について陳述し、

軍令部総長はこれに同感の意を表したほか、国防力の急速な培養を強調した。

平沼枢府議長は、現中央政府との和議が成立した場合現地新政権をいかにするか、

事変処理根本方針徹底のため世論指導をどのようにするか、

などについて意見を陳述した。》


注   ;   防遏   ボウアツ    防ぎとめること

済南事件1 出兵に反対する関西財界

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/27 19:20 投稿番号: [1350 / 2250]
1928年   (昭和3年) 、蒋介石が第二次北伐を開始すると、

日本は南京事件の二の舞はゴメンと、居留民保護の為に山東出兵を決めました。

さて国民党軍が来るまえ、済南には北軍   (孫伝芳軍と張宗昌軍)   がいました。



児島襄著   『日中戦争1』   文春文庫


155〜156p

《 四月十三日、済南 ― 徐州のほぼ中間のエン州で、米人宣教師W・セイモアが射殺された。

エン州は、孫伝芳軍のうち、李宝章が指揮する第三軍の守備地域であったが、

その日、李宝章軍の撤退のために駅は混雑していた。


宣教師セイモアは、夫人とともに李軍の将校に訊問されたが、乗車を許可されたので

荷物をとりにもどりかけたとき、背後から拳銃で射撃された。

射撃した将校が財布と鞄をうばったあと、市民多数が夫妻の死体にむらがり、

文字どおりに身ぐるみはぐ掠奪をおこなった、という。

ニュースは済南にもつたわり、日本人居留民の不安をさそった。



四月十六日、済南駐在武官酒井隆少佐の急電が参謀本部にとどいた。

「意見具申。 帝国ハ出兵ヲ決心スベキ時期ニ   到著   (ちゃく)   セリト認ム」

・・・

同時に、青島総領事藤田栄介、済南総領事代理西田畊 (こう) 一からも、

同趣旨の出兵要請電が外務省に到着した。》



156p
《 参謀総長鈴木荘六大将は、しかし、出兵を不要と考える部内の意見にもとづき、

政府が決定するならやむを得ない、との趣旨を陸相白川義則大将につたえた。

だが、翌日、四月十七日の閣議では、ほとんどの閣僚が積極的に出兵に賛成した。》


*   しかし、日本には、出兵を好まない人もいました。


159p
《 第二次山東出兵には、予想以上に野党のほか関西財界の反対が強かった。

出兵は中国の排日気運と国民党政府の反日感を刺戟   (しげき)   するので、

北伐が成功して国民党が天下をとったときは、

対中国貿易の面で手痛い報復をまねきかねない − との思惑による。》



*   何か、今の平和主義者とそっくりの意見ですね。

   そして、何度酷い目にあっても、中国に行きたがる、今の経団連とそっくりです。

   しかしてこれは、昭和3年の話です。

   あの平和主義者の能天気な感覚は戦前からあったのです。



   ついでに言えば、大正2年の第一次南京事件のとき、

   日本人が日の丸をかかげていたにも関わらず殺された件で   外務省阿部

   守太郎政務局長は   「国旗は一つの器具に過ぎぬ」   と言ったんですね。

   そして、中国との宥和を進めました。

   そういう態度に怒った二人の若者が、阿部局長を殺す事件がありました。


   平和主義者的感覚は大正2年にもあるのです。   古いでしょう。



註:   「到著」   は   「到着」   の古い字体。

   今、我々が使っている   「着」   は俗字で元は   「著」   です。

1月11日 和平関係の大本営御前会議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/27 19:03 投稿番号: [1349 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   263〜264p


《 一月十一日、政府、大本営首脳をあつめた御前会議がひらかれた。

近衛首相が回答期限を十日にしたのは、この日の御前会議が予定されていたので、

その前に中国側の姿勢を知っておきたい、と思ったからである。

だが、返事は来ない。



大本営御前会議は、日本にとっては、日露戦争いらいの行事である。

とかく〝欲ぼけ〟 的に長期戦にはまりこむことをおそれた参謀本部が、

とくに強硬に開催を主張した。

このさい、情勢の変化に応じて転変しないよう、

はっきりと和平交渉の基本方針を確立しておく必要がある。



その方針を最重要のものとして   「確固不動」   にするには、

閣議や大本営・政府連絡会議ではなく、御前会議での決定こそ望ましいし、

また、ふさわしい……。

外務省や海軍、陸軍の首脳部の間には、御前会議をひらくほどのこともない

との意見が強かったが、参謀本部はがんばった。



第二課員堀場一雄少佐は、海軍省軍務局第一課長保科善四郎大佐と激論し、

あわや、

「彼、逆上して短剣を抜きて迫らんか、余は水月をもって之に応ぜん」

と、身がまえる一幕もあったほどだが、ともかく御前会議開催にこぎつけたのである。



会議は、前年十二月二十一日の閣議で決定した和平条件を

「支那事変処理根本方針」   としたが、 「支那現中央政府」   が

「和ヲ求メ来ラザル場合」   の対策を、次のように規定した。


「帝国ハ、爾後   (じご)   之   (これ)   ヲ相手トスル事変解決ニ   期待ヲ掛ケズ

……之ガ潰滅ヲ図リ、又ハ   新興中央政権ノ傘下ニ   収容セラル如ク施策ス」



そして、中国側の回答期限を、あらためて   「一月十五日」   に設定した。

なぜ、十五日なのか。

一月二十日ごろに再開される第七十三帝国議会にそなえるためだ、と知り、

「血ノ気ノ多イ」   参謀本部第二課員堀場少佐は、またもカッとした。

「国家の運命を決する大事を、議会対策の便宜より割出す。本末顛倒も甚しきものなり」

第二次南京事件8 漢口10

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/26 18:41 投稿番号: [1348 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
94〜96p


《 このほか郊外なり競馬場なり出かけていた人々で、群衆のために帰路を絶たれ、

やむなく知り合いの支那人に頼んで支那服に着替え、

雑踏に紛れてようやく租界に入った者、見つかって袋叩きにされ、

散々の体で脱け帰った者、そのまま捉まって引き立てられた者など、

惨劇は処々に演ぜられた。


当日の死傷者は筆者には正確には分らぬが、

死者一人、重軽傷者四五十人と称せられている。



最後に特筆大書して記念すべき事柄がある。事変勃発当日、暴徒のために拉致せられ、

一時はその生死をさえ懸念された者に水兵十一名と、石井小兵衛   (同仁会病院)

石田倉之   (三井木行)   杉田悌蔵、服部又次郎など数氏があった。

これらは皆群衆のために包囲され散々に殴られ、こづかれした上で、

手取り足取り引きずり行かれたもので、皆フランス租界外の総工会本部に監禁された。



四月十一日海軍省着電によれば左の通り報告されてある。


水兵六名ハ事件ヲ知ラズ   又   飲食店ニアリシ者ニシテ

散々殴打サレタル上、 総工会ニ監禁サル。

唐生智四日朝之ヲ聞キテ   直   (ただち)   ニ   軍隊ヲ派シテ之ヲ引取ル。

総工会之ニ対シ、日本側ニ有利ナル条件ヲ   容レシムル人質ナレバ、

此儘   (このまま)   返サバ   承知セズト云ヘリ。

唐ハ之ヲ日本側ニ送ラントセシモ   糾察隊、衛戍   (えいじゅ)   司令部ヲ監視シテ渡サズ、

軍隊ト糾察隊衝突セバ   途中負傷者生ズべク、 完全ニ送還方 総領事ト協議、

七日夜漸ク   取戻シヲナスヲ得タリ。



或いは人質だと称し、或いは軍憲の命令にも反抗する、これではまったくの土匪である。

石井氏ら数名は領事館より支那側に厳談の結果、

ようやく四日夜十二時に釈放されて帰ってきたが、

監禁中は足と足を麻縄または鉄鎖でつなぎ合わせ、

まったく囚人同様の取り扱いを為せる上、

時々青龍刀を鼻の先に突き付けては散々に愚弄した。



殊に我水兵に対しては極度の暴虐を加えた。

総工会に監禁中は石井氏ら同様の迫害を受けたのはもちろん、

その当初は帽子も所持品も奪い去られ、兵服のままで後ろ手に縛り上げ、

群衆悪罵の中を総工会に曳   (ひ)   かれたとも伝えられている。

しかして当時の支那新聞にはこれらを指して   『捕虜』   と書いてあった。

ああ、幾多の我同胞は、千里の異域においてこうした暴虐に苛まれ、

こうした侮辱にさらされているのだ。》



*   日本人というのは、どうして歴史に学ばないんでしょうか。

   戦前は知らずとも、戦後、どれだけの日本企業が酷い目に遭ったか。

   団塊世代の社長なら知っているでしょうに。

   善人ぶって中国を美化し、何度、酷い目に遭っても、

   中国に進出する企業が後を絶たない。

   進出しても、儲ければ   「我々の財産を奪った」   と言いがかりをつけられ、

   襲撃されて、技術を奪われ、放り出されるだけなのに。



*   この他にも、 『もう一つの南京事件』   には、重慶・宜昌・長沙・蕪湖・

   鎮江・九江・杭州などでの記述もありますが省略します。


   次の中国による暴虐は済南事件です。

1月11日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/26 18:32 投稿番号: [1347 / 2250]
一月十一日

《 イギリス大使館を訪ね、プリドー=ブリュン領事、フレーザー大佐、

ローゼン、アリソン、ヒュルター各氏と会う。

イギリス、ドイツ、アメリカの大使館で私の頼みを引き受けてくれた。


頼みというのは、日本兵の違法行為に関する日々の報告を我々から受け取って、

日本大使館あるいはそれぞれの国の政府に転送することだ。

こうしてもらえれば委員会はうんと助かる。もし、それぞれの大使館が

今後も日本軍に抗議し続けてくれれば、じき、状況は良くなるかもしれない。



今日の昼、日本軍に米の輸送を禁止された。

これは我々が自治委員会のために計画したものだ。



午後、私がまだ本部にいたとき、日本の警察がやってきて家捜しをした。

脱走兵が略奪した古着を探しているという。

その服は、数日前、その兵士からうけとって本部のフィッチの事務所にしまってあった。

たまたまフィッチの部屋だけに鍵がかかっていたため、怪しまれてしまった。

だが、警官がドアをこじ開ける前に、クレーガーが現れ、

鍵を持ってこさせて、はいよ、と服を渡した。



まったく日本の警察のやりかたはわけがわからない。

おだやかに入ってきても、我々はやはりあっさり渡しただろう。

なにも完全包囲することなどないのだ。中国人脱走兵が服を略奪したと聞いて、

それをネタに   「事件」   をでっちあげようとしたらしい。

今度こういう目にあったときのために、大使館と連絡をとっておかなければ。》

ゴキブリ公安スパイ発見やで〜

投稿者: momentheight 投稿日時: 2011/12/26 12:21 投稿番号: [1345 / 2250]
福岡県警が誇る悪のショッカー岡元公安署長〜西南大学商学部岡元大輔〜ゴキブリ公安スパイ鹿毛信義〜ゴキブリ公安スパイ古賀麻里恵〜久留米大学院にて福岡県警岡元署長の息子で元福岡県警の岡元大輔から怪しいコンセントをもらい…それに反応した久留米市北野町鹿毛信義〜からの〜植物園前古賀麻里恵501〜パソコンには押収品のゲーム入れるからとプログラム入力されたねん〜日本保守はゴキブリに抹殺されよるで( ̄▽ ̄)外国人も公安スパイにやられよるで、結局みんなゴキブリ公安スパイにやられよるで( ̄▽ ̄)by Twitter FBIcommanding

ゴキブリ公安スパイ発見やで〜

投稿者: momentheight 投稿日時: 2011/12/26 00:02 投稿番号: [1344 / 2250]
福岡県警が誇る悪のショッカー岡元公安署長〜西南大学商学部岡元大輔〜ゴキブリ公安スパイ鹿毛信義〜ゴキブリ公安スパイ古賀麻里恵〜久留米大学院にて福岡県警岡元署長の息子で元福岡県警の岡元大輔から怪しいコンセントをもらい…それに反応した久留米市北野町鹿毛信義〜からの〜植物園前古賀麻里恵501〜パソコンには押収品のゲーム入れるからとプログラム入力されたねん〜日本保守はゴキブリに抹殺されよるで( ̄▽ ̄)外国人も公安スパイにやられよるで、結局みんなゴキブリ公安スパイにやられよるで( ̄▽ ̄)by Twitter FBIcommanding

第二次南京事件8 漢口9

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/25 15:55 投稿番号: [1343 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
93〜95p


《 四月三日の事変当日は二人の友人と郊外に出て夕方帰ろうとすると、

支那人の馬車屋で顔見知りの者があって、

今日本租界は支那人と日本水兵の衝突で非常の騒ぎだから、今行ったのでは命が危ない、

つい今しがた行った日本人は途中で殴られていたが、どうなったか分らぬと言う。



それだけの話では詳しいことは分らぬが、

とにかく水兵と群衆と衝突したとすれば容易ならぬ問題だ、

普通の道を行くのは危ないというので、まず間道を取って日本公園に入ることにした。

すると同じ方面に出ていた二三人の連中と途中で一緒になった。



そこで考えたのは公園内の日本人住宅に電燈がついていればまず大丈夫だが、

もしそうでなければ公園に入るのも危険だというのでお互いに相戒めつつ

公園の土堤下まで来ると電燈は見えない。

そっと住宅附近を覗いてみると七八人の支那人がやってくる。

薄暗がりで何者か分らぬ   が、いずれにせよ身体をむき出しにして行くのは危ないので、

皆が樹木の蔭に隠れつつ進むことにして土堤を伝うて乗馬会の厩舎に行き着いた。



そこにいる馬丁頭の支那人は知り合いなので取り敢えず様子を聞くと

やはり途中の馬車屋の話と同様である。

そして今は支那軍隊が出て固めているから通行はだめだ、

ここで今晩を明かしたらどうかと言う。

しかし馬と一緒の宿という訳にもいかず、それに家内のことが気にかかるので

皆で相談の結果、領事館に通じて自動車なり何なりで救出してもらおうというので

支那人を密使に出したが、三人出したのが三人とも通行止めだと称して引き返して来る。



電話は無論切断されて通じない。はなはだ困った。夜はだんだんに更けてゆく。

そのうちにまた二人のやはり郊外に出ていた者が加わった。

その話によると最初三人で歩いていたが、途中で四五十人の群衆に襲われ命からがら

逃げてきたが、その中の伊藤某氏は群衆に捕われ今頃は殴り殺されてるかも分らぬと言う。

これを聞かされた一同はますます気味悪さが募る、しかしどうすることもできない。

厩舎の薄暗い電燈の下で顔見合わしては吐息をついていた。



そこへ民団吏員の一人が公園内の住宅にこっそり帰ってきたので大体の様子が分り、

租界内もほとんど群衆は退散して現在は大した危険はないと言うので、

八人の者は始めて力を得て公園を出で途中で支那の巡警に護送され、

首尾よく日本租界に入ることができた。



さて自分の家に帰ってみると家中はがらあきである。妻女の影も見えない。

何がなにやらさっぱり分らぬ。

そのうちに友人が来て皆汽船に逃げたから早く行けというので、公園に残った

四人の救出方を領事館に届け出で、船に行くと避難民のすし詰めである。



女子供は極度の恐怖に脅えている。人間と人間が重なり合うたようにして

込み合うている。中には病人もあり実に悲惨なものと思うた。

ようやく妻女を尋ね出したが、着の身着のままではあるが無事に避難していたので、

自分は早速義勇隊に出ることにして、一応家に帰り服装を改め夜の十二時から

陸戦隊の歩哨と一緒に任務に就いた。(桜井悌吉氏談)》



つづく

ベイツの盗品リスト

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/25 15:46 投稿番号: [1342 / 2250]
つづき

松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   143〜144p


《 最後の三種類をのぞいた他の品物はすべて、私の敷地から持ち去られたのである。


一   食料品 − 果物・牛肉・魚の缶詰、砂糖、食料雑貨類   (現地通貨で)   三五元

二   道具、台所道具 − 鋸、手斧、金槌二個、ベンチ、バリカン、

   重たいアルミニウム製台所道具五個、ライター四個     四五元

三   羊毛製衣料 − 重い外套、セーター二枚、毛皮付の婦人コート      二二〇元

四   絵画 − 中国画五巻、金箔の額つき西洋画複製大型二枚、同小型三枚     一八一元



五   蓄音機とレコード − 蓄音機   (七五元)、レコード八五枚

   (すべてアメリカ製とイギリス製で平均四・五元)     四五七・五〇元

六   毛布 − 北京絹の大 : 一六〇元と一二五元、

   北京絹の小 : 一九元三枚    三四二元

七 ランプと傘   −   大きい石油ランプ一式、特製の傘付電気スタンド一個    一九元

八   磁器   −   高級な花瓶二個、古壺五個      五五元



九   テーブルクロスと刺繍飾り   −   大きいテーブルクロス四枚

   (アメリカ製リンネン高級品、単価五二元)、ナプキン二四枚   (七〇元)、

   昼食会用上質リンネンクロス六枚   (単価一二元)、ナプキン四二枚   (四〇元)、

   高価な絹の刺繍飾り七枚   六五元)           四五五元

一〇   寝具   −   尚級シーツ九枚   (単価七・五〇元)、枕おおい六枚   (単価四元)、

   掛布四枚(単価   一一元)    一三五・五〇元



一一   自転車   −   子供用            一五元

一二   切手アルバムと収集切手   −   二人の男の子の収集     五〇元

一三   机   −   上等なアメリカ製のウインスロップ総督型、机の上面とガラス戸、

   鍵付の引き出しが壊され、切り傷をつけられる         二五元

一四   鍵   −   (トランクや箱の破損も含む)   高価なダイアル錠五個     二〇元


一五   ドライ・クリーニングやアイロンないしは洗濯された物   −   家族の衣服と

   家庭所有リンネンの残りがすべて汚損され踏みつけられる      五〇元


      合計二〇一五・〇〇元

   アメリカ通貨による請求

          一ドル=三・四〇元    合計五九二・六五ドル)   〈①220〜221頁〉



この盗品リストを見るとき、明日にも前進命令が下るかもしれない日本兵が

持ち出したものか、それとも、スティールが表現した   「逸品」   ばかりの宝の山に

入った難民達が略奪して露店に並べた   (後述)   ものか、

正常な判断力を持つ者なら、ためらわず後者を指し示すだろう。》



*   二にベンチとあるのは、多分ペンチの誤植と思われるが一応元のままにしておく。

   三の毛皮付婦人コート   これも兵隊は着られない。

   一一の子供用自転車   こんなもの兵隊が盗んでどうするのだ。

   こういう物は中国人が略奪して、露店で売っていると解釈するのが自然だろう。

   ベイツ達外国人はあくまでも、日本軍の犯行にしたいらしい。



*   「リッグズが目撃者」   と書いているが、11回の略奪すべてに

   立ち会ったわけでもあるまいに。

   最初の徴発は本物だが、後はどうか判らない。

第二次南京事件8 漢口8

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/24 15:46 投稿番号: [1341 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
91〜92p


《 前後の事情が大分気になりだしたのでまた日本租界に電話したら、

今度は既に不通で日本租界の様子はサッパリ分らなくなった。

外は相変わらず騒々しい。



それで表戸をあけるのは危険なので二階の戸のシャッターをあけて覗くと、

路上に立佇った群衆が皆店の方に向っていて、自分がシャッターをあけたのを

気づいたのか、二階を見上げて何か言うている。

なんとなしに危険が予感されたので書類、帳簿、金庫などを一まとめにして

二階に持ち運びおき、しばらくして外を覗くと大分人も減っている。

それが午後の五時半頃であった。



今のうちに夕飯にしようと言うので三十分くらいで済まし、

店に出て腰を下ろすと店の入口の上のガラス戸に大きな煉瓦の破片が飛んできた。

続けざまに二三個ぶつかったと思うまもなく戸外に喊声が上がり、

正面の戸を打   (たた)   き破る音がする。



いよいよ危険が切迫したので、足の不自由な妻女をボーイに背負わせ、

友人を先頭に裏門口から飛び出し、近くのフランス警察署に駆け込んだ。

後から十四五人が追跡したようであったが、フランス警察の巡査が追っ払ってくれた。

落ち着いて見ると、これも競馬場帰りに群衆に追い掛けられた日本人三人が避難している。



そのうちに署長が応接に出て来たので、店の方の手配をしてくれるかと

思うていると何の沙汰もないようだ。

様子を見るとむしろ支那の群衆が日本人取り戻しに押し寄せしないかを

恐れているようであった。



それかあらぬか皆を招じて奥の部屋に入れ、仏租界内在住の日本人数を

問い糾しなどしたが、まもなく巡警が三々五々在留民を連れ出してくる。

夜になって五十余名の多数が集まった。

皆急場なためにバスケット一つくらいしか持ち出せない。

その間にフランス領事も出て来て、各室から椅子を集めさせたり茶を

勧めたりしてすこぶる親切に取扱ってくれた。



自分は店が気がかりなのでボーイをして探見さしたら、暴徒が店内に押し寄せて

掠奪最中とのことなのでいよいよ引揚げに決心した。

フランス警察から日本領事館に電話で交渉の結果、小蒸気船で救出に行くという

返事だったがなかなか来ない。再三電話してみてもだめだ。

皆憤慨するがどうにもならない。

そのうちに幾度目かの電話でようやく利泰碼頭に汽船を廻したことが分った。



そこでフランス領事の意見で、多数の日本海兵に来られては面倒を惹起す恐れあるから、

安南人の巡査で護送すると言うので二十人余りで前後を護衛し江岸まで送られた。

その頃はあいにく烈風で小蒸気船がうまくハルクに着かないので、

皆非常の危険を目しようやく乗り移ったのが夜の十一時半であった。



江岸までの途中では夜遅いのではありほとんど妨害者もなかったが、

皆が船に乗り込んだ前後に埠頭の支那人から酒手を強請された。

こうしてまずまず無事で五十幾名は大福丸に収容された。(湯浅九三二氏談)》


つづく

委員会が記録する日本軍の暴状

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/24 15:35 投稿番号: [1340 / 2250]
12月19日〜1月上旬

児島襄著   『日中戦争4』   250〜251p


《 十二月十九日から一月上旬にかけて、委員会が耳にした被強姦者は、

「七十五人」 である。

掠奪された品目は、次のとおり。



「自動車三輌、自転車六台、水牛二頭、牝牛九頭、ロバ一頭、

フトン二十六枚、フトン・カバー十二枚、ピアノ一台、タバコ七缶、

靴一足、時計一個、背広一着、トランク一個」

そして、なぜか、人力車一台、蚊帳 (かや) 三、消防自動車のタイヤが

〝強奪〟 された、という。



消防自動車のタイヤは、予備品としての効用があろうが、人力車はどうするのか。

とくに真冬の南京での蚊帳の利用法は、なかなかに推断し難い。

あるいは、死体が多いために冬でもハエが発生したのだろうか……。


この第二期は、まさに第十六師団が南京を管理した時期にはいっているが、同時に、

日本側が、本格的に兵士の悉意的行為の取りしまりにのりだしたころでもある。》



*   真冬に蚊帳を盗んでどうするのか、というのもあるが、

   背広も意味ないだろう。兵隊には着る時がない。

   第一、他人の背広は盗んでも、自分の体に合わない。



   それだけではない、ここには書いてないが、ベイツの   「盗品リスト」   によると

  「子供用自転車」   というのもある。

   こんな物、兵隊が盗んでも使えないだろうに。

そこで、次に、ベイツの   「盗品リスト」   を紹介しよう。



松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   142〜143p


《『資料集①』   に、「日本兵の略奪による損失に関するM・S・ベイツの申立て」

(南京、一九三七年十二月十八日から一九三八年一月十一日まで)という文書がある

  〈①219〜221頁〉。


ベイツは国際委員会の中心人物であり、金陵大学の教授で宣教師でもあった。

この文書の日付と宛名の明記はない。

しかしここには、彼の私宅へ日本兵が十回か十一回やってきて略奪し

破壊していったという品目が書かれている。

同じ国際委員会のリッグズが目撃者だったとか、日本軍補助憲兵も侵入したなどと書き、

その件を日本大使館に文書で連絡したが関心を示さなかった、と強調している。



ここに、日本兵が   「家の二部屋の床に排便を残していった」   とまで書きつつ

示した盗品リストを転載する。先の郭岐の文章にある盗品の品目と比べれば、

略奪の真相が見えてくるのではないだろうか。



  (以下に品目別に盗難および破損のリストを記す。

   しかし、多くの細かい物は除外してあるし、私の家族が危険を避けて

   不在であることにより、不十分さは避けられない。)》


ベイツの   「盗品リスト」   は次で

第二次南京事件8 漢口7

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/23 16:52 投稿番号: [1339 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書
89〜91p


《 租界で雑貨商を営業していた共益洋行主人湯浅氏は語る。

三日午後四時頃日露、租界の友人宅に居たら日本租界から水兵と車夫の衝突を

電話してきた。友人と相談して重要書類など始末しておくことにして店に帰った。

途中で糾察隊十数人を乗せた自動車が日本租界方面に向けて急速力で走るのを見た。

店に行き着いて五分間も経たぬうちに、またもや三十余の糾察隊が

東に向って急ぐ、その後から二三百人ほどの群衆が続く。



その頃までは店の附近は格別変わったこともない。これらの糾察隊は

租界鎮撫のために行くものと善意に解釈していたくらいであった。

当日は農民協会か何かの成立大会があり、これに参加した各地の労働代表を

歓迎するとかで、附近の支那店舗は大半店を閉めて休業していた。

平素同租界では事変の際には必ずフランス警察から店を閉めるように布令を出す。



しかし当日の支那店舗の閉店は主意が違うので気にもかけないで居ると、

日本租界の知人が飛び込んできて、『競馬場帰りに大智門の四辻まで来ると

にわかに車夫が車を止めて、今我々の仲間が日本人に殺された、

こうしているとお前も大変だから下りろと言うので逃げて来た』 という話。

しばらくすると二人の日本水兵を後ろ手に縛り大勢で引き立てて

総工会本部に連れ込んだとの噂が伝わってきた。



いよいよ物騒だと感じたので店の戸を閉めようとするところに、

人相の悪い三人の支那人が飛び込んできて、旦那は車夫事件を知ってるかと言う。

今聞いたと答えると、どんな仕返しするかも知れぬから早く閉めろと言う。

そしてキョロキョロ店内を見廻す。

なんだか不気味だが外はますます騒がしそうなので思い切って閉めた。

すると通行人が言い合わしたように店の前に足をとめたが

三人の支那人が出て行って追い払った。



妙に親切なことをすると思うて見ていると、旦那は見忘れてるか知らぬが、

自分どもはかねがね買い物に来てよく旦那を知ってるので注意しにきたのだと言う。

なるほどよく見ていると見覚えあるも頭毎日のようにサックか何か買いに来る

近所の女郎屋の主人どもだ。もちろん無頼の破戸漢である。

厄介なやつに見舞われたと思うたが仕方がない。



そのうちに何だかそわそわして外に出てみたり、また戸を閉めたりしていたが

しばらくすると大分人も減ったようで安心と思うからお暇すると言う。

そして酒手一ドルをくれと切り出した。気味悪いほど軽少だが増してやる必要もなし、

その通り出してやると店内を見返り見返り出て行った。》


つづく

1月10日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/23 16:44 投稿番号: [1338 / 2250]
一月十日

(前略)

《   九時

クレーガーが、石田少佐から返事をもらって帰ってきた。

日本軍はなんと、我々に米や小麦粉を売ろうとしない。

はっきり約束したくせに。自治委員会だけに売ろうというのだ。

我々のほうでは、言われたとおり今朝早々と米の販売を中止してしまった。

難民たちはひどくがっかりした。自治委員会がまだ専用の販売所を

開いていないからだ。これは大変なことになる!



ローゼンが本部に訪ねてきた。日本軍は、私にだけでなくローゼンにも、

報告書に少し手加減してもらいたいといってきたという。

ローゼンはいった。 「だから、 『あなた方に水と電気をとめられたと

報告しておきましょう』 といってやりましたよ」



  十六時

自治委員会は、安全区のなか、我々の本部の近くに販売所をつくった。

これで、さしあたっての最大の難問は解決したことになる。

アリソン氏に引き合わせるため、ミルズは私をつれてアメリカ大使館に行った。

これまで我々が日本大使館に毎日提出してきた、ひきもきらない

日本兵の犯罪に関する報告書を代わって作ってくれることになったのだ。



ヒュルターから聞いたところでは、クトゥー号の船内で、P氏とⅤ・S氏が

衝突したそうだ。その結果、P氏はⅤ・S氏に   (武器はピストル、距離は三十歩の)

決闘を申しこんだ。そうこうしているうちに、二人は香港についた。

だが、香港では決闘がゆるされていないので、ドイツにもちこすことになった。



その後P氏もⅤ・S氏も別々の船で帰国した。まったくなにをかいわんやだ。

われわれはここで、命がけで他人の命を救おうとしているというのに、

同じドイツ人が自分の命をもてあそんでいるとは。》

ゴキブリ公安スパイ発見やで〜

投稿者: momentheight 投稿日時: 2011/12/23 08:44 投稿番号: [1337 / 2250]
福岡県警が誇る悪のショッカー岡元公安署長〜西南大学商学部岡元大輔〜ゴキブリ公安スパイ鹿毛信義〜ゴキブリ公安スパイ古賀麻里恵〜久留米大学院にて福岡県警岡元署長の息子で元福岡県警の岡元大輔から怪しいコンセントをもらい…それに反応した久留米市北野町鹿毛信義〜からの〜植物園前古賀麻里恵501〜パソコンには押収品のゲーム入れるからとプログラム入力されたねん〜日本保守はゴキブリに抹殺されよるで( ̄▽ ̄)外国人も公安スパイにやられよるで、結局みんなゴキブリ公安スパイにやられよるで( ̄▽ ̄)by Twitter FBIcommanding

第二次南京事件8 漢口6

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/22 19:01 投稿番号: [1336 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房


87〜88p

《 時の指揮官は岡野海軍中佐。当時海軍省は左の如く発表している。


(前略)副領事帰ラントスルヤ   暴民ニ襲ハレ水兵ヲ追ヒ駆ク。

陸戦隊ノ揚陸半舷上陸中ナリシモ   急ヲ聞キテ陸戦隊ハ   直ニ準備ヲ為ス。



一週間以来   甚シキ支那人ノ愚弄ニ   慷慨シ居リ 且ツ 目前ノ暴行ヲ知レル乗員ハ

期セズシテ総員上陸ヲ願ヒ   直チニ準備ヲ整フ。   時二午後四時頃

一小隊総領事館前ニ整列ス   折シモ数千ノ   群衆小学校前迄来リ、小供ヲ先ニ立テ

赤旗ヲ振フ指揮者ノ下ニ   喊声ヲアゲテ   河岸ニ殺到セントス。



陸戦隊直ニ道路ニ散開シテ   小銃ヲ擬ス。 先ヅ空砲ヲ放チ   次デ数発ノ実弾ヲ射ツ。

暴民雪崩ヲ打ツテ退却、掠奪シツヽ租界外ニ向フ。平和街ニ接近スルヤ

頑トシテ退カズ。 己ムヲ得ズ   陸戦隊ハ本願寺ノ土堤ニ向ツテ   機銃ノ威脅射撃ヲ行フ。

群衆ハ 痛ク殴打サレタル 邦人四名ヲ残シテ 逃去レリ。



一隊ハ集合所ノ 兵員収容ノタメ   投石侮辱ノ中ヲ潜リツヽ   実包威嚇射撃ニテ

漸ク集合所ニ達シ、 上陸員一三〇名ヲ収容、 帰途鉄路外ノ邦人ヲモ   収容

租界内ニ引揚ケ   二百名ノ陸戦隊ニテ   租界ヲ護ル。

更ニ電燈会社ニ   機関兵ヲ派シテ   運転点燈ス。》



89p

《 機関銃の一撃により租界内群衆の掃除ができた。

と見る間に各戸から飛び出した邦人婦女子は、誰誘うともなく、

まだ消え失せぬ砲煙の匂いの中を大正会館さして押し寄せた。

飯椀や箸を持ったままで駆けつけた者、細帯一つで逃げ出して来た者、

血に染んだ手拭で包帯した者、びっこ引く者、

老幼さまざまの男女でたちまち一杯になった。



その後の租界は引揚げ者の処置、警備の手配、食事の準備に、

やはり戦場のような混乱状態が続けられた。

こうした混乱の半ばに、西の方はるかに火の手が上がった。

旧独租界の三井木行に暴徒が火を放ったのである。



大事に至らず消し止めたが一時は租界内はこのためにいやが上に騒ぎを大きくした。

陸戦隊によって租界を追われた群衆は、続々として支那街に引揚げる途すがら、

やはり邦人の店舗を見逃さなかった。三井木行を襲うたのもそれである。

さらに日ドイツ租界の、西口、田島の両靴店、仏租界の共益洋行などは、

租界内の各戸にも劣らぬ危険と惨害を受けた。》


つづく

1月9〜10日 日本人各人の対中意見

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/22 18:52 投稿番号: [1335 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   263p


《 (川越大使の談話の) 二日後 (9日) の閣議では、かねて強硬意見を

開陳している末次内相が、よりエスカレートして強調した。


「ことここにおよんで、なお国民政府が迷夢よりさめず、妄動をつづける以上、

断乎として宣戦布告によってさらに徹底的戦果をあげるとともに、軍需品の

送道をたち、軍事上、財政上、ともに最後的打撃をあたうべきである」



そうかと思えば、回答期限にさだめた一月十日、

駐独大使東郷茂徳はドイツ外相ノイラートに、通告した。


「日本政府は、もはや蒋介石を中国の中央政府の代表とは考えていない……。

中国側が軍事的勝利をおさめる可能性を考えるのは、幻想である」》



*   日本が宣戦布告をしなかったのは、元々戦争する気はなかったからで、

   中国から仕掛けられた戦争を、ある程度制圧した後、

   必ず停戦や和平を提案していました。

   しかし、中国がどうあっても戦争をやめないので、それなら、

   本気で叩いた方が早いのでは、という意見が台頭して来るわけです。


   ただし、宣戦布告はしませんでした。

   それは、米国が中立法を発動して、対日輸出を止めるからです。

第二次南京事件8 漢口5

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/21 18:56 投稿番号: [1334 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
86〜87p


《 南小路から平和街に出る角の理髪店の隣家の田村氏の宅では、産後まもなく

身を病床に横たえていた妻女が、暴徒の襲来と聞いて気絶してしまった。

主人は二階にいたが暴徒に支えられて降れない。


理髪店の城谷氏は変を聞いて駆け付けるところを暴徒に捉われ、

かろうじて本願寺の土塀を乗り越えて免れたが、残された病女は暴徒のために

蒲団を剥がれ足蹴にされた上に、醜い死骸となってそこに遺棄された。



同じ家並みの愛知亭では、妊娠五ケ月の妻女が暴徒のために二階から引きずり降され、

散々に殴打されて数ケ所の負傷に血まみれになって仆れていたのを、

おりから暴徒の包囲から遁れてきた隣家の一心堂主人に助けられた。



その次の花井洋行は事変勃発後直ぐに戸を閉ざし、家内中が二階に隠れたと

ほとんど同時に凶器を以って表戸を毀つ音がする。 続いて商店棚や商品の

毀される音、大勢の罵り騒ぐ声がして二階にまで押し寄する気配がしたが、

階段の仕切戸が固かったために断念したのか音もしないようになった。

と思うまもなく盛んに煙が漏れてくる。火を放けたなと思うが如何ともしようなし。

そのうちに隣の愛知亭では女の悲鳴が聞こえる。



一同生きた心地もなく、息を潜めていると、南小路の方面に銃声が起こり、

ドッという喊声とともに暴民が引き上げる様子、続いて店内を荒らしていた

一団も逃げ出したので始めて階下に下り、水道をあけて火を消し

皆で裏口から逃れて水兵に収容された。



この前後に本願寺に逃げ込んだ七八人の一団は、一室にこもって

内から戸を押えていると跡を追うて来た暴徒に苦もなく破られる。

次の室に退くとまた戸を破られる。こうして室から室を逃げ廻り

最後に隣家の薄暗い一室に隠れ、椅子卓子などを積み上げて入口を防ぎ、

本願寺の住持の最後の称名に一同覚悟を定めていたが、

支那人ボーイが機転でこの室には病人がいると言うたので

暴徒もそのまま立ち去った様子に始めて蘇生の思いをした。



顔見合した一同の頬には自ずから熱涙が伝うたという。

僅々二十分くらいの間にこれだけの凶暴を働いた群衆は、

勢いに乗じてまたもや南小路になだれ込み掠奪にかかった。

そこには雑貨店、呉服屋、食料品店、貴金属店などが軒を連ねている。

暴徒としては見逃せないところだ。各戸の運命は風前の灯火と迫った。



危機まさに間一髪、ドドドッと音立てて打ち放された機関銃の弾は、

猛り狂う暴徒の前面に火花を散らして四散した。

急を聞いて駆け付けた陸戦隊が、南小路の四辻近くに機関銃を据え付け

最後の処置を断行したのである。》


つづく

1月9日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/21 18:41 投稿番号: [1333 / 2250]
一月九日

《 午前十時。自治委員会のメンバー、王承○(字がない)(通称ジミー)との談合。

数日前、国際委員会の活動を日本軍が力ずくでやめさせようとしていたと聞かされる。

結局これは実行には移されなかったが、我々は今後難民に米を売ってはならないことに

なった。もし、自治委員会が販売を引き受けるというのなら、異存はない。



ローゼン家とヒュルター家、それから大使館にいってみた。

どこも問題はないが、電気も水もとまっている。

十一時にクレーガーとハッツが本部に来て、たまたま目にするはめになった

「小規模の」   死刑について報告した。

日本人将校一人に兵士が二人、山西路にある池のなかに中国人   (民間人)   を

追いこんだ。その男が腰まで水につかったとき、兵士のひとりが近くにあった

砂嚢のかげにごろりと寝ころび、男が水中に沈むまで発砲し続けたというのだ。



ローゼンとヒュルター、シャルフェンベルクの三人がイギリス砲艦クリケットで到着した。

イギリス大使館の役人三人とプリドー=ブリュン領事、フレーザー大佐、

空軍武官のウォルサー氏もいっしょだった。

だがウォルサー氏は、事前に報告しなかったといいがかりをつけられて、

上陸させてもらえなかった。

午後二時、クレーガー、ハッツ、私の三人で、ドイツ大使館にいった。

三時に、日本大使館の田中、福田両氏といっしょにローゼンたち三人がやってきた。



我々はクレーガーがどこからか接収してきたシャンパンで歓迎の意を表した。

ローゼンは、盗まれた車の代わりに、豪華なビュイック一台と、

ドイツ大使館用の公用車を一台、日本から借り受けた。

ぜったいに返すものかと息巻いている。

それからみなでシャルフェンベルクの家に行ってみた。

家中ひっかきまわされ、目も当てられない状態だ。

大切にしていた品のなかでも彼がとくに残念がったのは、シルクハットと

ネクタイだった。なにしろ四十本もあったのだ。

・・・・


夜八時。ドイツ大使館の三人とクレーガーを夕食に招いた。

ワインもある。クレーガーが以前、シャルフェンベルクの家から失敬してきたものだ。

そしてジャーディン海運社の船客のその後の様子、

それからピー号とパナイ号のことを話してもらった。》

(以下略)



*   「日本人将校一人に兵士が二人、・・・男が水中に沈むまで発砲し続けた」

   とあるが、本当に日本人将校なら、これは処刑ではなく虐殺にあたる。


   ただ、日本軍は弾薬を節約しており射耗報告がやかましい。

   ムダ弾は許されていない。

   日本軍の鉄砲はボトム・アクションと言って、一発撃ったらガチャンとやって

   次の弾を出せるようになっており、連発はできない構造。


   それほど、ケチケチしているのに、一発で仕留めず、わざと外して

   水に潜るまで弾を撃ち続けるのは不自然。

   わずかの守備隊で警備し、いつ中国軍が反撃に戻ってくるか判らない

   状態なのに、弾を無駄に消費するのは理解に苦しむ。

第二次南京事件8 漢口4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/20 18:49 投稿番号: [1332 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
84〜86p


《群衆が最初に目当てにしていたのは水兵であった。従って最初に襲われた

山吉、浪花食堂の如きもこれら水兵の逃げ込んだ家であった。

しかし事変勃発後十分間とたたぬうちに、いやしくも日本人と見れば一人免 (の) がさず

押っ取り囲んで殴打する。日本人の店と言えば手当たり次第に狼藉する。

それも初めの間はそこに一団、ここに一団とバラバラに行動していたのが、

いつの間にか指揮者ができ、群衆は呼子の笛一つで右往し左往する。



水兵がかつぎ去られた頃に、特別区方面から疾走してきた数代の自動車に

鈴なりになって乗っかってきた糾察隊は、その中の首領株らしき四五人の男が、

銀製の口笛を片手に指導にかかると、直ぐに群衆の中に飛び込んで先頭に立つ。

たちまちにして同仁会医院前の日本人青年会の建物の入口には赤旗が押し立てられ、

附近一面を埋めた群衆はそれを中心に物凄き叫びをあげている。

そのうちに指揮者の一人が手を挙げて領事館の方を指差すと、

ドッと喚いて山崎街を真直ぐに江岸目がけて潮の如く動き出した。



その瞬間である。領事館前の埠頭に当って喇叭   (ラッパ)   の音とほとんど同時に

三発の銃声が響いた。これが先の阿部氏の話にあった五時過ぎた頃のことである。

きびすを返した群衆はなだれを打って四散した。

街上はたちまちにして一掃され、糾察隊の自動車もいつの間にか姿を消した。

しかしそれは、ほんのひと時の静けさに過ぎなかった。

平和街の東西に亘って前にも増した喊声   (かんせい)   が挙がった。

一端銃声に怖気づいて引揚げた暴徒が、行きがけの駄賃に退路一帯の

掠奪を始めたのである。



北小路、山崎街、南小路となだれ込んだ暴徒の群れは、本願寺を中心にした一廓と

南小路から平和街にかけ鍵なりに立ち並んだ邦人商店を軒並みに襲撃し、

平和街を東に進んだ一団はこれまた沿道の邦商を物色しては押し寄せる。

山崎街から中街に出た一団は漢口日々新聞社ほか数軒を襲い凶暴の限りを尽くした。



これら暴徒の襲撃は陸戦隊の上陸以前になされたものもあるが、

いずれも徹底的にしかも巧妙に行われ、まず暴徒が凶器を以って

手当たり次第に破壊すると、その後から苦力が来る、乞食のような女が来る。

子供が来る婆が来る。来る者ごとに肩にかつげるだけ担ぎ、手に持てるだけは持って行く。

瞬く間に一物も残さない。中には羽目板をはずし床板を剥がして持ち去った者もあった。》



*   ここでは、暴動が自然発生的に起きて、それが拡大したかのように

   表現されているが、これは不自然。

   糾察隊などというものが、短時間に組織され、

   数台の車を調達して来れるはずはない。

   前もって準備された暴動かも知れない。


つづく

1月8日 便衣兵による反乱工作

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/20 18:40 投稿番号: [1331 / 2250]
松村俊夫著   『 「南京虐殺」   への大疑問』

154p   『資料集②』   の郭岐の手記


《 日本の獣兵は南京市を占領していたが、周辺のデマで日夜不安であり、

まるで針の延に座っているかのようだった。



あるとき、中央   〔国民政府〕   の便衣隊約五、六人が入城し、

中華路付近の地下室内に潜んでいた。

ちょうど五人の獣兵が三、四人の人夫をともなって北から南へやって来ていて、

わが便衣隊の近くに来た。彼らはすぐさま発砲して獣兵を皆殺しにし、

四人の人夫に   「中央軍はすでに入城した」   と言って、人夫たちを安心させた。

この四人の人夫は常態を失して狂気乱舞した。



彼らは大あわてで道をかけ、途中、日本人・中国人を問わず、人に会うごとに

「中央軍が来た!」 「中央軍が入城した!」   と大声で叫んだ。

中華路からずっと難民区内まで叫び続けたので、町中にうわさが広がり、

みな疑心暗鬼になった。・・・》



136p

《 ウィルソンの一月八日付の手紙にも次のような話がある。


〈南京市は絶えずでたらめの噂で一杯だが、私たちはこうした噂を

ラジオでチェックしている。きょう面白い事件があった。

中国人の噂によると、中国軍が城門のところまで来ていて、

再び市を奪還しようとしているというのだ。



日本大使館に行って衣類の洗濯をしていた女性が数人、

手に大きな包みを抱えて家に帰ってきた。

彼女たちが大学に近づくと、日本人が大使館を出ていったので、この女性たちが

略奪品を持って帰ってきたというニュースが野火のように広まった。



たちまち一群の女性たちが略奪の分け前にあずかろうと、

有刺鉄線のある柵を乗り越えて入って行った。

由々しい事態が発生しないうちに彼女たちは大使館の建物の裏から、

中国人使用人に押し出されたという。〉   (①297頁)》



注 : 松村俊夫氏の言う資料集とは、青木書店刊   『南京事件資料集』   の事

   ①はアメリカ関係資料編

   ②は中国関係資料編


*   この話は1月8日付けラーベの日記の内容と符合している。

   そして、中国人は女性といえども、かわいそうな被害者ではなく、

   隙あらば、大使館にでも略奪にはいる連中だということも示している。


   しかしながら、ラーベは、それでもなお、略奪者は日本兵と信じて疑わない。

第二次南京事件8 漢口3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/19 18:46 投稿番号: [1330 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
83〜84p


(阿部善三郎氏談つづき)

《〈窓口から見下ろすと物凄いほどの人だかりだ。

そこでまた領事館に引き返すと領事はやはりバンドに出ている。

そしてしきりに沖合いの軍艦と合図でもしていた様子だ。

『どうです』   と言うと、『イヤモウ大丈夫だ、すぐ陸戦隊が来ることになっている』

と言ってバンドを行ったり来たりしている。

そのうちに十五名の水兵があがって来た。時計を見ると五時に五分前。



しかし既に警察の前まで押し寄せた黒山のような群衆に対しては、十五名では

姿を見せるさえ危険だ。彼らは領事館の塀の蔭に身を隠して後続部隊の来るのを待った。

やがて水兵を満載した数隻のジャンクが軍艦を離れるのが見えたので、もう大丈夫だと

思いながら民団役所の二階にとって返した頃、三発の銃声が鳴り響いた。

打ったなと思うていると群衆は見る見る中に四散する。急いで倶楽部に行って

二階から見下ろすと、そこから目の届く限りほとんど暴徒の影もない。



逃げるとなると足の早い者だ。隊伍を整えて進んで来た陸戦隊は

倶楽部の角まで来て一隊を分って東進さした。

鉄路外の海軍集会所にある水兵と附近の邦人救出に赴いたのである。

それが拡張租界あたりまで行ったと思う頃、ドドッドッという機関銃の音だ。

これは後で分ったが、一端逃げ延びた群衆がまた盛り返して沿途を荒らし、

邦人を捉えて引きずりこみ危害を加えるので、海軍でも遂に火蓋を切ったのであった。

この一撃で初めて租界は蘇生した。〉



右の阿部氏の話にもある通り、当日の暴動は初め漢口銀行附近から倶楽部一帯を

中心として行われたのであったが、あたかも山吉、浪花食堂が襲われると前後して

山崎街の同仁会病院の前に差し掛かった三人の水兵とすれ違った一車夫が、

一足行き過ごして置いて振り返りざま何事か一声叫んだ。



と見る間に折柄倶楽部角の四辻を中心に騒いでいた群衆は、

『それ日本水兵だ、やっつけろ』   と叫びつつ一斉に押し寄せて袋叩きにかかった。

中二人は巧みにすり脱けて倶楽部の方に逃げ延びたが、残った一人は天秤棒や

石塊でしたたかに打ちのめされ、死体のようになって、そこに仆れてしまった。

寄ってたかって殴りつけていた暴民は、手取り足取りしてかつぎ出したが、

死んだと思うたのか路傍に遺棄して去ってしまった。



その時田中副領事は事変発生の現場を見て倶楽部前まで来たところを

暴徒に取り囲まれ、群衆の中で日本領事だ、日本領事だと叫ぶ者あるに拘わらず、

殺せ、殺せと口々に罵り喚きつつ、殴る蹴る突き飛ばす、

散々に暴行した上で特別区方面に運び去らんとした。

幸い通い合わせた国民政府外交部の役人で副領事を知った者のために

救出されたが、顔は血ににじみ両眼は腫れあがり実に痛々しい姿であった。



同仁病院の石井薬剤師が病院から出てくるところを、暴徒のために

手取り足取りして攫 (とら) われて行ったのもこの時であった。》


つづく

1月8日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/19 18:37 投稿番号: [1329 / 2250]
一月八日

《 ローゼン、ヒュルター、シャルフェンベルクの三氏が、

明日イギリス大使館の二人といっしょに南京にくると福井氏が知らせてくれた。

ローゼン、ヒュルターの家はどちらも無事だ。ドイツ大使館も。

ただローゼン家からは車と自転車、それから酒が数本盗まれた。

イギリス人の家の様子はわからない。シャルフェンベルクの家は

安全区の外だったこともあって、ひどい荒らされようだった。

ヒュルターの家に泊めてもらわなければなるまい。



こまったことに、どこも電気や水がとまっている。そこで福井氏にまた手紙を書いた。

アメリカ大使館の人たちの家も同じ状態らしい。

みな、寒い寒いと言いながら、大使館の大きな暖炉にへばりついているという。

電気や水が使えるよう、日本軍に要求すればいいと思うのだが。

福井氏がいうには、日本大使館が国から新しい車を取り寄せるそうだ。

ドイツ大使館に、おそらく他の大使館にもだろうが、盗まれた車を弁償するという。



今日、中国人の間で、中国兵たちが南京を奪いかえそうとしているという噂が、

またもやひろまった。

それどころか、市内で中国兵の姿をみかけた、という話まで出ている。

まず、安全区の家々に飾られていた小さな日の丸がそっくり姿を消した。

日本の腕章も。中国人のほぼ全員がつけていたのだが。

そしてつい今し方、ミルズが教えてくれたところによると、

相当数の難民が日本大使館を襲おうと考えていたという。



このときのささやかな暴動に加わった人たちは死刑になった。

いままで安全区が平穏でいられて、本当によかった。

どうかこういう悲惨なことにならないようにと祈るばかりだ。》



*   この中国人の反乱は、便衣兵による攪乱工作です。

   それは、安全区に潜伏していた郭岐が手記に書いています。


   その郭岐の手記は次で。

第二次南京事件8 漢口2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/18 15:22 投稿番号: [1328 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
81〜83p


(阿部善三郎氏談)1

《事変当日は午後から二三の人々と知人の宅に集まって、対時局問題に就き

民会を開く下相談をしていたら、領事館から五時に来るようにとの電話であったが、

少し時間が早過ぎるので日本人倶楽部に立ち寄り雑談していた。



そのうち四時過ぎたのでも少し待とうと言うているとにわかに喊声   (かんせい)   が

聞こえる。中街に面した球場の窓下を覗くと大勢の支那人が険しい顔して

江岸の方へ曲がって行く。

その時が午後の四時二十分。すぐ倶楽部の表門に出て見ると隣の小学校の前に

群衆が押し寄せ、中には入口に交叉した国旗に手を掛けている者もある。

自分はこれを制止すると顔見知りの男がいて、

実は今水兵が車夫を殺しここに逃げ込んだのだと言う。



そこへ学校のボーイが中から戸を開けて、水兵はとっくに裏口から

逃げたからここにはいない、何なら中に入ってみたらどうだと言う。

群衆は皆まで聞かずドカドカと入ったが水兵の姿が見えないので皆出てきた。

すると群衆の中から   『警察だ』   と叫んだと思うと、一団は雪崩を打って

領事館の方に殺到した。

その時まで自分はたいした騒ぎだとも思わず、その後から跟   (つ)   いて

行くと警察の中は既に群衆で一杯になっている。



その中に暴徒の一人がイキナリ電話機を取って総工会本部を呼び出している。

何言うかと思うと   『今工友が日本租界で日本水兵のために殺されたので

談判中だ、至急応援を頼む』   と言うている。

群れをなして日本官憲の公務室に乱入せるさえ沙汰の限りなのに、

その電話機を勝手に使用して暴動を企てるに至っては、言語道断、

いわゆる傍若無人の振る舞いとはまさにこれだ。

日本の巡査も支那人巡補も側にいるがまったく手の着けようがない。



そこでふと気がついたのは車夫の死体の始末だ。

巡査にどうしたかと聞くと、既に人が一杯で現場に入れないから

死体は取り出せないと言う。

これはいけないと考えたので、待たしてあった自分の車で駆け付けると、

漢口銀行の角に大瀬巡査昨年の秋、暴徒の群れから瀕死の邦人を救出した

剛勇な巡査が立っていて、手を振って止めている。

どうしたのですと聞くと、暴徒は今浪花食堂と山吉の掠奪を始めたところで、

とても危険で近寄れないとの話。



そこで引き返して直ぐに総領事の室に飛び込んだら領事はバンドに行ったと言う。

行ってみるとなるほどいる。総領事大変ですぞと言うと、イヤ分っとる、

それよりも君大分激昂してるようだが、マアマア僕の室に入っていたまえと

言って本館に導かれた。そして総領事自身はまた出て行く。

残された自分はいろいろ気に懸かってジッとしておれないので、裏口から

脱げ出て民団役所に行き、租界内ボーイを外出させぬように家々に注意書きを出さした。



というのはこんな際にボーイどもが参加して騒ぎが一層に大きくなった前例があるからだ。

その頃は街上は群衆の人波だ。もちろん表通りは歩けないので

裏手から学校の広庭を脱けて日本人倶楽部の裏口に行ったら戸が開かない。

やむなく学校の人に二階から窓をこじ開けてもらって倶楽部の二階に入ると

書記の高橋君がいて、今田中副領事が暴徒に乱打されそのまま引かれて行く所ですと言う。》



*   中国人は突き飛ばされただけなのに、殺されたことにされ、

   架空の殺人事件で日本人が暴行を受けている。


つづく

1月7日 川越大使の談話

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/18 15:13 投稿番号: [1327 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   261〜263p


《 近衛首相は、六日、四相会議   (首相、陸、海、外相)   を招集して、

十二日までは待てぬ、十日までにする、と定め、

回答を催促する内閣書記官長談を発表した。



この声明をうけて、翌日、駐支大使川越茂が、上海で、談話を発表した。

「日本軍占領地域内の支那民衆は、国民政府からはなれて

新しい国家の出現を熱望している   ―   。

新しい中支の政権は従来の南京政府の如き軍閥政権でもなく、

古い政治家の政権でもなく……財界人、実業家を中心とする

『経済的民衆的国家』   が出現するものと思われる。



新政権が出現するには、日本政府が南京政府を公式に否認することが必要だ。

……日本は腰をすえて、支那民衆を援助する。再び国民党政権の復活は

あり得ないことを、十分に認識させてやらねばならない」



蒋介石が和平を求めてこなければ、北支のほかに中支にも新政権を誕生させるぞ、

というよりも、もはや蒋政権に用はない、

はやく否認すべきだとの趣意がうかがわれる発言である。》



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   473p


《 このような情勢のうちに、現地にある川越大使もまた一月七日、

上海で新聞記者に対し

「中支新政権が出現するためには、日本改府が国民政府を公式に

否認することが必要だ」   という意見を発表した。》

第二次南京事件8 漢口1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/17 15:06 投稿番号: [1326 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
78〜80p


《 民国十六年四月、異郷にある人々にも春は訪れ、漢口市外の日本公園には桜が咲いた。

折からの神武天皇祭日に日曜日を兼ねた三日は、照りもせず曇りもはてぬ

頃合いの花見日和、それに数日来は市面も例になく平穏であり、

打ち続いての擾乱に久しい間、外出さえも控えがちであった在留二千の同胞は、

誰誘うともなく或いは公園に競馬場に、思い思いに春光を趁   (お)   うた。



しかも何たる運命の皮肉ぞ、その日の午後、日本租界は突如として阿鼻叫喚の巷と化し、

暴徒の毒手に仆れた同胞の血は真紅の花と散らされた。


事の起こったのはその日の午後三時過ぎ、半日の散策に空気銃を手にした二名の水兵が

日本租界燮昌路の料亭   「妻鶴」   の横手に来かかると、街上に遊んでいた

支那の子供が石を投げつける、これを追い払うとまた来て投げつける。

そうしているうちに何処から出て来たのか三十位の支那人が食って掛かってきた。

それとほとんど同時に附近にいた車夫の一団が、言い合わしたように殺到して

水兵を取り囲み殴り始めた。



水兵は言葉も分らず、何のことやら分らぬが事面倒と考えたのでその一人を突き倒し、

近くの料理店   「山吉」   に逃げ込んだ。そこには二三の水兵が遊んでいたのが

この騒ぎに顔を出すと、『それ日本水兵だ、やっつけろ』   とばかり、

たちまちの間に野次馬も加わって、「山吉」   とその隣家の   「浪花食堂」   は

瞬く間に跡形もなく破壊されてしまった。



先に水兵のために突き倒された一人の車夫と、これを取り巻く群衆は

この咄嵯の際にも金儲けを忘れない。微傷一つないのに気絶を装うた。

起き上がろうとすると側の群衆がこれを抑える。

『日本水兵が支那人を殺した』『車夫がナイフで刺された』   との謡言は

電光のごとく各所に喧伝された。



当日支那側では農民協会成立大会が催され、各地からの工会代表も参加し、

応援の各団体も混じって祝賀行列をやっていた。

租界内に事変の突発した頃は、ちょうどこの一行が旧ドイツ租界から

平和街に差し掛かる頃であった。



もし憶測を許さるべくんば、この事実は、事端を作った暴民と労農団体との間に

あらかじめ打ち合わせができていたことを証拠立てるものではあるまいか。

しかしその詮索は何   (いず)   れともあれ、

前記のような謡言にこの一団が時を移さず殺到したのは言うまでもない。

かくて半時を経たざるに、租界の三分の二は暴民によって埋められ、

処々に喊声   (かんせい)   が挙がる、警笛が鳴る、格闘、乱打、

悲鳴、叫喚、久々の安息日はたちまちにして未曾有の大厄日となった。


つづく

1月7日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/17 14:59 投稿番号: [1325 / 2250]
一月七日

《 福田氏に国際委員会の趣意書を渡す。氏の話だと、

なにがなんでも南京の秩序を即刻回復せよ、と東京から厳命があったとのこと。

また、行政的な職務   (この私、ラーベの   「市長職」   も?)   も我々   「よそ者」   ではなく、

すべて自治委員会が担当すべし、といってきたという。

そういわれてしまっては、手も足もでない。

願わくは自治委員会にそれだけの能力があらんことを。



南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。

「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。

なかにはすでに犬に食われているものもあります。

でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。

この二十八日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと

頼んできましたがだめでした」。   福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、

もう一度かけあってみると約束してくれた。



きょう午前十時ごろ、私の留守中のことだった。日本兵が一人、

使用人の部屋に押し入り、女たちが悲鳴をあげながら私の住居へ逃げこんできた。

屋根裏部屋まで追っていったところで、この日本兵は、

たまたま私を訪ねてきた通訳の日本人将校に取り押さえられ、放り出された。

占領されて今日で二十六日。南京のヨーロッパ人住宅の治安状況がどんなものか、

これでもわかるだろう。



リッグズが今日の視察の報告書をもってきた。

うつろな目をした女性がひとり、通りをふらふらさまよっていたという。

この人は病院に運ばれ、身の上を話した。

十八人家族だったが、生き残ったのはこの人ひとりだという。

残りの十七人は射殺されるか、銃剣で突き刺されるかして死んだ。

家は中華門の近くだそうだ。



わが家の収容所にやはり近くに住んでいた女性がいる。

弟が一緒だが、こちらは両親と三人の子どもをなくした。

全員日本兵に射殺されてしまったのだ。

せめて父親だけでも埋葬したいと、なけなしの金で棺桶を買ったところ、

これを聞きつけた日本兵たちが蓋をこじ開け、亡骸   (なきがら)   を放り出したという。

中国人なんかその辺に転がしておけばいいんだ、というのが、かれらの言い分だった。



*   義和団の前、清国の官憲が、“中国人の訴えを信用するな”   とやっていたが、

   まさにこういう事だろう。

   「なけなしの金で棺桶を買った」   というが、どこで棺桶を売っているのか?

   どこにそんな店が開いている?

   「棺桶を買ったところ、これを聞きつけた日本兵たちが蓋をこじ開け、

   亡骸   (なきがら)   を放り出した」

   と言うが、日本兵は中国語が分からない。そんな個人情報をどうやって知り得る?



   棺桶を買ったのが、どこの誰とも分からないのに、

   わざわざ捜し出して埋葬の妨害に出動するほど日本兵は暇か?

   仮に、中国人が日本軍に密告したところで、そんな事で一々出動するか?

   追い返すのが、普通だろう。

   それに、そんな怖い日本軍なら密告した当人が殺されるのでは。

第二次南京事件7南昌3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/16 18:48 投稿番号: [1324 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
73〜75p


九江埠頭の悪劇


《今回の引揚げに就いてはいよいよ避難引揚げの通知を受けましたのが

午後二時頃で、翌朝は立たなければならぬと言うのです。

それで何の用意もできずほとんど着の身着のままで引揚げました。

私ども三人は九江まで来て大元という宿に二三日いましたが、

経済のことも考えるので大東楼という支那宿に行った。



その内に漢口から船が来たというので急いでハルクに来ると船は出た後なのです。

ハルクまでの途中は支那服を着て支那語で話していたので、

苦力なども日本人とは気付かなかったのか、荷物は一円の約束で持って来た。

ところが最初お友達の奥さんと警察署の角で待ち合わせる約束していたのが、

その奥さんはとっくに船で立ってしまったことは知らないので、

約束の場所に行って   『奥さん、奥さん』   と呼んでみたのです。



真っ暗な所でしたが、すぐ日本人ということが分ったと見えて、

ハルクに行ったら十五六人の苦力が待ち構えていて、

荷物は一個二円でなければハルクに上げない、小さな手提でも二円だ、

自分で提げても二円よこせ、よこさなければ皆川の中に放り込むと言うのです。

やむを得ずその通り支払うと、今度は船賃を十六円出せと言う。

船頭との約束は二円だと言うと船頭を捉えて、なぜそんなに安くするのか、

これは日本人だ十六円でなければ駄目だとそそのかしている。



船頭も居直ってしまって十六円出さなければこのまま引き返すと言うて脅かす。

引き返されては大変なのでその通り払った。

恐ろしい顔した奴が十六人、荷物の上に腰掛けて威張っているのです。

まるで芝居のようです。



それから、やっとその一幕が済んだので、ボーイを大元旅館にやって様子を

聞かせようとしたら、また苦力どもがやってきてボーイの手を握り

二十円出さなければここを通さないと言うている。

仕方ないから二十円出す約束してようやくハルクに上がって来た。

いやもう大変な騒ぎの上に馬鹿な金を取られました。



後で水兵さんに話しましたら、早く呼んでくれればよかったのになど言われましたが、

その時はどうにもできないしまた随分遠くに離れていたのです。

それから領事館でも心配され水兵が銃を持ってハルクに立ち番しましたら、

苦力が一人も来なくなりました。

そうでなければまた船に乗る時に取られるところでありました。


(佐久間栄子氏談)》


南京事件はまだつづく

1月6日 和平案への回答期限を十日に変更

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/16 18:41 投稿番号: [1323 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   262p


《 駐日大使ディルクセンが、四日、広田外相にたいして、

ドイツ側は中国に回答を督促している、と語り、外相は、十二日まで待つと応えた。

だが、近衛首相は、六日、四相会議   (首相、陸、海、外相)   を招集して、

十二日までは待てぬ、十日までにする、と定め、

回答を催促する内閣書記官長談を発表した。》



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   472p


《 日本政府は、独大使を通じて示した和平交渉条件の中国側回答が

一月五、六日ころまでには到着するものと期待しつつ年を越した。

ディルクセン大使は、従来の責任上これを捨てておけないので、

一月四日、広田外相に対して国民政府との接触経過に関し中間連絡を行うとともに、

本国政府及びトラウトマン大使にあて、

日本政府から速やかに国民政府の諾否を求められていることを通告した。


(このとき、中国側回答期限を十二日ころとしたが、

のち六日の四相会議で十日ころとするよう変更した)



一月六日、しびれをきらした近衛総理は、陸海外三相を招き、

国民政府にだめを押す相談をした結果、

早く回答しないとためにならぬという意味の内閣書記官長談を発表した。

この談話のなかでは   「もし中国側が如実に反省の真意を示すならとにかく、

わが方としては、あくまで所期の目的達成に邁   (まい)   進すべく、

今後この決意のもとに百般の対策を講ずる」   と述べている。



このころ、すなわち年末から年始にかけて日本側の対支態度には非常な変化があった。

中・北支における軍事的進展と北支、蒙疆における新政権の成立等により、

軍部はもちろん政党、ジャーナリズム、有力な国民層とくに右翼団体等の間に、

蒋介石の国民政府を相手にしなくても中国側を屈服させることは

必ずしも不可能でない、という空気が濃厚に台頭してきたので、

講和促進論者は沈黙せざるをえない情勢となっていた。



従って、前記書記官長談も、一般国民には和平無用論のような印象を与えた。

しかし参謀本部首脳は、長期戦に対する戦力の限界を考え、和平策を堅持していた。》

第二次南京事件7南昌2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/15 18:49 投稿番号: [1322 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
72〜73p


《 私は一週間ばかり図書館にいてやや静まった様子なので家に帰って見ました。

実は今度は米国人の病院に避難するつもりでしたが、何を申し女ですから

良い着物だけでも持ち出したいと思うて、包みを抱えながら家に帰ったのです。

すると子供が一週間ぶりなので喜んで家に入ってしまった。

私も後からついて入りますと、北軍の兵士がイキナリやって来て、そっちを開けろ、

こっちを開けろという、仕方ないから開けると皆かっぱらって行くのです



海苔の缶詰など少しありましたが、これは日本の菓子だろうと言うて、

大変珍しがって皆持っていってしまった。

帯から着物、袷単物皆取られました。

蒲団だけは残していったので、それを持って病院に行ったのですが

高い入院料を取られるので家に帰ったら、またドンドンやり出す。



そして今度は何千人という南軍は外から北軍は城内から

一日一夜機関銃や小銃で戦争です。

それが八月二十日でしたが、南軍の兵士は割合に背が低いので

城外にある屋根に登って城門の中へ五六人が入り込んだそうです。


すると北軍は大変だというので、城の山下に立ち並んでいる家に火を放った。

屋根の瓦を破ってそこから綿に石油をつけ火を移して家の中に放り込んだ、

実に惨酷なことをしたものです。

逃げれば銃剣で殺される、逃げなければ焼き殺される、ほとんど皆殺しです。

幸い日本人は城内にいたのでその災難は免れました。



もう大丈夫だと思うているとまた掠奪です。

今度は前のこともあるので、兵士の侵入を防ぐつもりで、石などを運んで来て

門口や窓を固めていると、煉瓦壁に大きな穴を開け、そこから犬みたいに入ってくる。

そして剣付鉄砲を咽喉に押し当て金を出せと言う。

台所から出刃包丁を持ち出して脅かす、子供などはまったくたまげてしまうのです。》


つづく

第二次南京事件7南昌1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/15 18:42 投稿番号: [1321 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
71〜72p


《 当時南昌に居住していて親しく苦難を嘗めた佐久間夫人の談話。


九月に南軍   (革命軍)   が入りました際に敗残の北兵   (五省連軍)   が

盛んに掠奪をやりました。その時の師長は訒汝琢と鄭俊彦というのでした。

これより先市中では仲秋お月見をやることになっていましたが、

十三日に二三百人の南軍が突然入城した。



その時には鄭師長はいなかったですが、

市民では南軍が来たというので非常に喜んだのですが、

十三、十四の二日間は盛んに砲火を交えたので、私どもは図書館に避難しました。

すると、南軍が勝ったというので十六日に家に帰りますと、また大砲が鳴り出した。

まだ危険だというので、再び図書館に戻りましたが、

今度は十八日の明け方近く馬蹄の響きが聞こえる。

見ると、北軍がドンドン入ってくる。



これは大変だと申していますと、外の方が非常に騒がしくなって、

彼方でも斬られた、此方でもやられたという騒ぎです。

私の家の前でも大変な人死でした。こんな有様なので一歩も外に出られない。

二日二晩というものは一二椀の粥で過ごした上に、

コックやボーイはみな隠れてしまうし城門は閉めてあるし、

ですので水汲みに行くこともできないので、お湯さえも飲めない。

その間は弾丸よけのつもりで蒲団を張り廻らし、その蔭に小さくなっているという始末です。



こうして皆がすっ込んで出ないので北軍の兵士が大いに怒り出した。

お前たちは南軍というと饅頭を食わしたりして非常に歓迎するが、

我々が来ると店を閉めてしまって物も売らない。

実にけしからぬ、これから皆殺しにするのだと言うて脅迫する。

市民は皆おびえきってしまったのです。》


つづく

1月6日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/15 18:36 投稿番号: [1320 / 2250]
一月六日


《 ばんざい!   アメリカ大使館のアリソン、エスビー、マクファディエンの

三氏がアメリカの砲艦オアフ号で今日上海から到着した。

すでに十二月三十一日に南京を目の前にしていたのだが上陸の許可が下りず、蕪湖で

待機していたのだ。アリソン氏はかつて東京で勤務したことがあり、日本語ができる。


これで日本の軍当局から米と小麦粉   (これは軍が略奪したものだが)   が買える。

価格は高いが   (米一袋約十三メキシコドル)、約五万メキシコドル買うことにした。

石炭も一万二千メキシコドルぐらい買っておかなくては。

難民の蓄えが底をついてきたので早急に手を打つ必要がある。



韓はあまり乗り気ではない。

米屋から、中国軍が南京を奪還しようとしていると聞かされたからだ。

すでに南西部では砲声が聞こえたという。

「そうなれば米だって小麦粉だってただで手に入りますよ」。

けれども私は、心ならずも韓に言い聞かせなければならなかった。

「決してそんなことにはならないよ」



十時ごろ日本軍のトラックがきて、うちの収容所から下関の発電所の作業員を

十五人連れていった。みなしぶしぶ出かけていった。

前回、食事をちゃんと与えると約束しておきながら、

ろくなものを食べさせてもらえなかったからだ。

まったくありつけなかった者もいた。


それだけではない。発電所ではなく、

市の南部の門のちかくで塹壕   (ざんごう) 掘りをさせられた者も何人かいた。



午後五時、福田氏来訪。軍当局の決議によれば、我々の委員会を解散して、

その資産を自治委員会に引き渡してもらいたいとのこと。

自治委員会が今後われわれの仕事を引き継ぐことになっているからだという。

資産を引き渡す?   冗談じゃない。私はただちに異議を申し立てた。

「仕事を譲ることに関しては異存はありませんが、これだけはいっておきます。

治安がよくならないかぎり、難民は元の住まいには戻れませんよ」。

難民の住まいの大半は壊され、略奪されている。焼き払われてしまった家もあるのだ。



さっそく委員会の会議を開いて、福田氏にどう返事をしたものかと相談した。

また、治安や秩序をとりもどすためにどういう提案をするかについても。

日本から助言を得てはいるが、自治委員会はまるで無策だという気がする。

どうやら狙いは我々の金だけらしい。つまり、

「国民政府からもらったのだから、おれたちの物だ!」   というわけだ。

しかし我々の考えは全く違う。なんとしてもこちらの主張を通そうということになった。



アメリカやドイツの大使館が支持してくれると当てにしたうえでの結論だ。

といっても、先方が果たしてどう考えているのか、まるっきりわからないのだが。》

第二次南京事件6蘇州5

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/14 18:59 投稿番号: [1319 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
60〜62p


《 ところが巡捕側では総工会の廻し者もあり、必定日本人引揚げだと察知し、

即時に総工会に密告すると同時に館員全部監禁の暴挙に出たのである。

ここにおいてか領事を始め居合わせた重 (おも) なる在留邦人も

共々押し込められ如何ともすることができない。



職工側はまず日本人の引揚げはすなわち多数職工の生計を破壊するものとなし、

強いて引揚げを断行なるならば二ヶ年分の給料を払えと要求した。

邦人側では今回の引揚げは一時的のもので遠からず復帰する旨を説き聞かせると、

然らば日本人留守中は我々職工において工場を経営するから一ケ年分の給料を

保証として銀行に供托せよと主張する。



ずいぶん乱暴な要求とは思うが、何分館内にも工場にも人質的に

邦人を押えての談判である。すこぶる鼻息が荒い。

やむなく彼らの要求どおり約六万五千元の保障預け入れを承諾し、岩崎領事は

監視的に同行する職工代表十四名と共に上海に下り金策することとなった。

然るにその後で職工らは勝手に館内に押し入り、器具その他設備品全部を総工会に

持ち去り、木村署長以下館内にある者全部を完全に監禁してしまった。



超えて十二日には総工会緊急会議を開き、日本租界の回収、

休業中の職工生活費の保障並びに職工の精神的物質的損害の賠償要求、

排日大同盟の組織などを決議し、排日気勢を揚ぐると同時に

領事館支那人巡捕の武装を解除した。



上海にありてこれらの飛報に接した岩崎領事は、上海矢田総領事を通じ

国民軍東路総指揮白崇禧氏に対し取り締まり方を要求した。

その結果白崇禧軍二個中隊は十二日蘇州に到着、租界外の大路を包囲し

弾圧に取り掛かり不逞分子を捕縛し斬罪に処したので、

俄かに怖気づいた職工らは何時の間にか租界から引揚げ、

総工会本部では広間の正面に掲げてあった孫文氏の肖像や看板も取り除き、

役員は皆影を潜めた。



領事館と工場の監禁は自然に解かるることとなり、邦人一同始めて蘇生の思いをした。

岩崎領事も十三日には帰任する、各工場もそれぞれ折り合いが着く、

四月の二十三四日頃までには、引揚げその他ほとんど無事にこれを了した。

・・・

第三回引揚げの中絶により一番困ったのは城内とショウ   (門+昌)   門から

引揚げて来た人々であった。

これらは食糧の準備とてはなし、一時小学校で自炊生活をなし

汽車の開通を待って上海に避難した。



邦人が引揚げた後の留守宅は実に惨憺たるものであった。

飲料水甕   (かめ)   の中に放尿したり瓦石を投げ込んだりするのはまだしも、

井戸の中に猫の屍骸を投げ入れる、風呂桶に糞尿を詰める、畳の上は土足で汚される。

床板は踏み破られる、むしろきれいに持ち去られていた方がいいと思うほどであった。》

第二次南京事件6蘇州4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/14 18:47 投稿番号: [1318 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
58〜60p


ところが一難去ってまた一難、当日から瑞豊工廠内の日本人は

皆糾察隊のために監禁されてしまった。

この糾察隊は革命軍入城後直ちに組織されたもので、

工場内の男工は残らず毎日軍隊教練をやる。


彼らの武器である六尺棒は総工会から強要して絲廠に調整さしたもので、

最初二尺位のものを作ってやると、これではだめだから背丈より長くしろと言う。

やむなく杉木で作ると堅木にしろと言う。

在留邦人は自分どもで拵   (こしら)   えてやった六尺棒で

自分どもが引っぱたかれることになったのである。



十日の未明には邦人一同既に寝室に入ったまま監禁の形に置かれた。

六尺棒が張番しているのだ。夜が明けると一番に瑞豊工会長の汪が来た。

続いて押し寄せた大勢の職工はまず電話機を破壊し、次いで暴動にかかった。

手当たり次第に器物を毀す、目ぼしい物は持ち去る。

時の間に各室とも惨憺たる有様となった。



邦人が最初本式に監禁されたのは寄宿舎であったが、ここで職工らは

三ヶ年分の給料前払いを要求してきた。いわゆる人質を押えておいての難題だ。

網野廠長は彼らのために領事館に引き行かれそのまま領事館に監禁されてしまった。

十日夕刻には総工会執行委員長夏偉烈なる者が来て、邦人を呼び出し厳重な身体検査をした。

ピストルこそ突きつけなかったがまったくの脅迫だ。

いかんとも仕様がないので彼らの為すがままに任せていると、

検査済みの者は一人一人事務所の二階に押し上げる。



女子だけは舎宅に置こうとしたので万一の危難を恐れ、窓を突き破り二階に

飛び上がってきた。それで男女二十三名がそこに監禁されることになった。

その晩は七人の女だけを畳の上に寝かし男子は皆板の間に古新聞を敷いて休んだ。

その後十五日までの四日間はご飯はくれる、

用便にも出してくれたがその都度六尺棒がついている、まったくの囚人だ。



領事館巡捕の裏切り


これより先日本領事館では形勢の急転を慮り、在留邦人側とも凝議の結果

いよいよ引揚げに決定し、前の話にもあったように

十日午前二時を期してそれを決行する手筈であった。



然るにその手配中突然領事館雇用の支那人巡捕のために外部から錠をかけられ、

それらの注進によって殺到した各邦人工場の職工約五百名のために包囲されてしまった。

総工会並びにそれに従属する糾察隊がその先登であるのは言うまでもない。

これはその晩、領事館で領事館雇用の支那人巡捕を集め、

一ケ月余り留守にするから然るべく頼む旨を申し渡し一ケ月の給料を前渡した。》


つづく

1月5日 石川達三南京到着

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/14 18:39 投稿番号: [1317 / 2250]
『生きている兵隊』   中公文庫のあとがき・解説   (半藤一利)   205pより


《 南京に着いたのは、十三年一月五日。

念のために書くが、南京を日本軍が攻略したのは十二月十三日。

石川はずっと遅れてその地に着いている。

東京裁判でいう暴虐事件を目撃することはなかったが、

なお血なまぐさい、なまなましい事件後の状況を見聞することは可能であり、

そこで日本軍の実態に接してふかい衝撃をうけた。その回想が残されている。



「小便くさい貨車に便乗して上海から南京へゴトゴトゆられて行きました。

南京市民は難民区に隔離され、町のなかにゴロゴロと死体がころがっていて、

死の町という言葉がピッタリでした。

はじめて目撃した戦場は、ショックでした」



そして南京で八日、上海で四日、精力的な取材をすませると、

ただちに帰国する。》



*   ここでも、彼は、他の善良な日本人と   同じ勘違いしている。

   「南京市民は難民区に隔離され」   と言っているが、

   別に日本軍が隔離したわけではない。

   難民区は外国人が作ったのであって、便衣兵の温床・隠れ蓑となっていた。

   日本軍は逆に、難民区を解体しようとしていた。

   そして、それを外国人は快く思っていなかった。


   次に

   「町のなかにゴロゴロと死体がころがっていて、・・・ショックでした」

   と衝撃を受けた感想を述べているが、

   彼も、この死体を作ったのは日本軍だと決めつけている。

   本当は、中国軍が脱出の時の同士討ちや混乱で生じたものなのだけど。


   結果として、彼が、描きたかった残酷シーンに相応しい現場の状況を見聞でき、

   好材料を得て   『生きている兵隊』   という、

   日本兵が残虐行為を働く小説が完成する事になる。

第二次南京事件6蘇州3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/13 18:52 投稿番号: [1316 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
57〜58p


《 一同の手荷物はとっくに船着場に運び出してある。

船は十日の午前二時に租界に戻る手筈である。

それが十分たち二十分たち一時間たっても来ない。

小雨はシトシトと降り出す。東の空は明るくなるような気がする、皆気が気でない。

或いは職工らに感づかれはしまいかと思うと闇に響く靴音にも聞き耳を立てる。

万一見つかったらピストルに見舞われるは必定だ。一同の緊張は絶頂に達した。



そこにあわただしく駆け込んだのは領事館雇いの前川氏だ。

そして今領事館では領事館の巡捕のために武器も何も取り上げられ、

皆は一室に監禁されたので、自分はかねて勝手を心得ているので

窓の錠を外し脱出して注進に及んだという話。



一同はただ呆然として途方に暮れてしまった。

しかしこのままでは一刻もおれぬので互いに相励まし、

荷物の一部は廠内に入れ一部は近くの岡田氏の所に運び込んだ。

それが三時過ぎであった。

そして密かに様子を見ていると同氏邸前に最初二三人の男工だけだったが、

漸次に女工も加わって四五十人となり、日本人を叩き殺せと喚きながら

ガラス窓を開け、火をつけた蝋燭を突っ込んで見回している。



その中に一同のいるのを認めたのか戸を押し破って入ろうとする。

一同はそこを退いて奥の糀   (こうじ)   室に隠れた。

すると遂に扉を破って闖入した彼らは家宅捜索を始め、

糀室の前まで迫って来て一尺平方位の明り窓を打ち破って火を突っ込んだ。

同時にピストルが閃く。覚えず顔見合した一同は一語を発する者もない。

やがてピストルも火も引っ込ませたが、今度は外の戸を釘付けにしている。



これはたまらぬ、釘付けにした上に火を放けられたら大変だというので、

どうせ殺されるようならその覚悟でここを突破しようと言うことに一決し、

まずその前に嘆願的に救出の事を頼んで見ることにした。



そこに思いがけなくも救いの手が現われた。それは租界外の居住者政次氏である。

同氏は領事館差し回しの曳船に荷物を積み込み、

午前二時までに租界の船着場に集合するはずのところ、

小蒸気船の機関は何者のためにか破壊され動かなくなり、

やむなく自分で艪   (ろ)   を押して来たとのこと。



これで小蒸気船が待てども待てども来なかった理由もハッキリしたと同時に、

同氏から支那人を説得してもらって無事に出ることができた。

ところが一難去ってまた一難、当日から瑞豊工廠内の日本人は

皆糾察隊のために監禁されてしまった。》


つづく
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