入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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◆南京大虐殺捏造者のマヌケな曲解を糾す③
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/01 23:11 投稿番号: [1202 / 2250]
腐れ脳の南京大虐殺捏造派がよく持ち出す「石射猪太郎」についてもちょいちょいと片付けておこう。
石射は次のように書いている。
「昭和十三年一月六日の日記にいう。上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。 掠奪、強姦目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か」
その抗譲書は『外国人の見た日本軍の暴行』に付録として収められている「南京暴行報告」「国際委員会の書簡文」等々であろう。
ところで、この「南京暴行報告」は「日本兵が米人バーワー女教師のキャンデーを手づかみにした」(評伝社版、165頁)などと実に細かいことも書いているが、抗議した中国人被虐殺者の数は「三十三名」にすぎない。東京裁判で証言したマギー自身か見た「虐殺」はたったの一件。これも誰何されて逃亡した中国人か撃たれたというもであった。
さらに、この「三十三名」虐殺抗譲の報告も、南京の中国人が国際委員会の事務所に駆け込んでアレコレ訴えたことを、何ら検証することなく、全てを事実として認定したという代物である。
当時南京で外交官だつた福田篤泰氏は次のように述べている。
「当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務局へ出かけて いたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んで釆る。
「いま、上海路何号でー〇歳ぐらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは 「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された。」等々、その訴えを、フイッチ神父が、私の目の前で、 どんどんタイプしているのだ。 『ちよっと待ってくれ。 君たちは検証もせずに、それを記録するのか』と、私 は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。 とにかく、こんな 訴えが連日、山のように来た。
ティンバレーの原資料は、フイッチが現場を見ずにタイプした報告と考えられ る」
(『一億人の昭和史
日本の戦史3
日中戦争1』毎日新聞社、 p261
引用者注;名称の正確を期し、補った)
福田氏は現地で、実際に中国人や国際委員会の抗議を吟味された。石射や上村氏は本省のデスクで、送られてきた書類を見て目を蔽っただけである。
では何故、石射らはこうしたデタラメな抗議を信じたのか。
それは、石射ら外務省の陸軍に対する憎しみに基因する。 昭和十二年十二月十四日(南京占領の翌日)に開かれた「大本営連絡会議」について、石射は次のように憤激している。
「私はもう我慢ならなくなった。説明以外に発言権のない立境を忘れて立ち上 り『かくの如く条件が加重されるのでは中国側は到底和平に応じないであろう。」 と争った。この発言は冷く無視された。 [・・・・・]
こうなれば案文などどうでもよし。日本は行くところまで行って、行詰らねば 駄目と見切をつける(「日記」より) [・・・・・]
私はむしろサバサバした気持ちになり、反逆的な快味をさえ感じた」(300〜303頁) このように「反逆的快味」すら感じていた石射にとって、陸軍の失点は反軍のチヤンスになり得る。 「南京大虐殺」は石射らにとって陸軍を攻撃する格好の材料となったであろう。
石射の陸軍に対する憎しみは、反日的情念とさえ結びついた感がある。 なにしろ、石射の464頁もの大著は、日本と中国の関係を(「日中」ではなく)「中日」と呼称するに至るのである。 曰く。
「中日事変」(25頁、「中日直接会議」(87頁)「中日関係」(141頁)「中日会談」 (230頁)「中日の間」(231頁)「中日国交」「中日洋画人」(239頁)「中日軍衝突」(271 頁)「中日の共存共栄」(287頁)「中日両国」(294頁)「中、日話合い」(295頁)「中 日の将来」(297頁)、等々。
また石射は、日本からもらった勲章には「愛想をつかしていた」(495頁)が、 中国からもらった勲章は「光栄とし愉快とする」(460頁)
などと臆面もなく書いている。 このような人物が「南京事件」当時の東亜局長だったのである。石射の当時の日記に曰く。
「(上海事変について)無名の師だ。 それがもとだ。 日本はまず悔い改めね ばならぬ。然らば中国も悔い改めるにきまっている。 中日親善は日本次第と いう中国の言い分の方が正しい」(287頁)
「これが順序よくはこべば、中日の融和東洋の平和は具現するのだ」(287頁)
戦前の日記に「中日」などと記述する神経の持ち主が、上海経由で送られたウソ八百の反日デマ宣伝を全面的に信用して目を蔽い、陸軍攻撃の材料にするのは理の当然はあろう。 しかし、そのことが「南京大殺」について、何ほどの証拠となるであろう。
(もっとも、石射は当時、公職から追放れており、東京裁判史観におもねらねぱ自伝を書けないという事情があったのかもれない。この自伝は追放解除の翌日に出されている)
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◆南京大虐殺捏造者のマヌケな曲解を糾す②
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/01 22:52 投稿番号: [1201 / 2250]
上海派遣軍第十三師団司令部の通達
捕虜取扱にかんする訓令には「戦闘二問スル教示」という訓令がある。
これは昭和十二年十月九日、南京攻略ニケ月前に、上海派遣軍第十三師団司令部が発令していた。
そのなかの「11、俘虜ノ取扱二就テ」という規定は次のように命じていた
(適宜、読点と振り仮名を付している)。
《多数ノ俘虜アリタルトキハ、之ラ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、一地ニ集結監視シ、師団司令部二報告スルラ要ス。又、俘虜中、将校ハ、之ヲ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、師団司令部二護送スルヲ要ス。此等ハ軍ニ於テ情報収集ノミナラズ宣伝二利用スルモノニ付、此ノ点、部下各隊ニ、徹底セシムルヲ要ス。但シ、少数人員ノ俘虜ハ、所要ノ尋問ヲ為シタル上、適宜処置スルモノトス。》
この「戦闘ニ関スル教示」は、多数の捕虜がある場合「射殺スルコトナク」師団司令部にまで報告せよ、少数の捕虜の場合は「適宜処置」せよと訓令していた。
つまり、一方では射殺しないで報告せよとあったから、他方では射殺せよと訓令されていたかのように、両者対立的に映る。
たとえば秦郁彦『南京事件』は、右の規程を、「どうやら小人数のしかも下級兵士は、その場で処刑してもかまわない方針だった」と推定する。つまり「適宜処置」は「適宜処刑」であると両者対立的に解釈された。
しかし、そうすることは、陸軍次官が「降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト」を禁じた戦時国際法の規定を「努メテ尊重」せよと通達したことに反する。
昭和十二年八月の陸軍次官通牒(陸支密第一九八号)に反する指令を、上海派遣箪第十三師団司令部が昭和十二年十月に発令した!、とは考えられない。
誤った推定が陸支密第一九八号に違反することになったのである。
適宜処置とは、適宜処刑の意味ではなかったことになる。
適宜処置が適宜処刑の意味ではなかったとすれば、ではどうすればよいのか?
少数の捕虜を監視し続けるのか。しかし、それでは現状維持であって、処置したことにはならない。第一、戦闘中に、それでは自軍に危険が及ばないとも限らない。
そうなると、採るべき道は(処刑でもなく監視でもないから)捕虜を適宜追放することしかない。
第十三師団司令部の「戦闘ニ関スル教示」という通達は
●投降兵は射殺しないで武装解除後に適宜追放せよ、と訓令していたことになる。
しかもそうすることは、戦時国際法の規程を「尊重」せよという陸軍次官の通牒とも合致する。また、陸軍歩兵教範が指示する「捕虜ハ・・・・・・釈放シテ可ナリ」という原則とも矛盾しない。従って、この「俘虜ノ取扱ニ就テ」は、<捕虜は原則として現地にて釈放>という、従来の通達の線に立っていたのである。
では、なぜ「適宜釈放」とは書かれず、「適宜処置」と書かれたのか?
その理由も簡明であろう。適宜釈放と書けば、いかに悪質な投降兵でも、釈放が必至となる。それは絶対にできないことであった。命令に服さない捕虜は、処刑もありえるという含みを残した表現、それが適宜処置であったのである。
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◆南京大虐殺捏造者のマヌケな曲解を糾す①
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/01 22:51 投稿番号: [1200 / 2250]
「捕虜ハセヌ方針」の真の意味
今から十数年前に、第十六師団長中島今朝吾中将の陣中日記が公表された。『南京戦史資料集Ⅰ』によればその陣中日記(十二月十三日)には次のように記されていた。
一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタルモ千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノヽ之ガ一旦掻〔騒〕擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中〃実行ハ敏速ニハ出来ズ
斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、大〔太〕平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル(傍点筆者)
「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之をヲ片付クル」――これが師団長の日記の一節であった。そのため、これが読むものに衝撃を与えたのである。
(中略)
●文章の捩れ
六つの疑問点を列挙したが、実はもう一つある。
もし、即時銃殺が当初からの方針であったのであれば、中島師団長は、当初からの「投降兵即時銃殺」という方針に立って、その方針の貫徹に奮闘するのだが、千、五千、一万、の群集ともなると多すぎて、とても銃殺すらできない、と嘆いていたはずである。
これを、先の日記に模して文章化すると次のようになる。
大体捕虜にはしない方針なれば片端から之を片付くる(即ち銃殺する)こととなしたるも千五干一万の群集ともなると多過ぎて銃殺することすら出来ず
つまり「捕虜ハセヌ方針」が捕虜処刑命令であったと仮定すると、「片端から銃殺しようとするのだが、多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と書かれて当然であった。
ところが、そうは書かれなかった。「片端から銃殺しようとするのだが、武装を解除することすら出来ず」と書かれてあった。
捕虜処刑命令であったと仮定する時、文章に、不自然な捩れが生じてくるのである。この捩れこそ、この誤った仮定から生み出されていた。
捕虜即時処刑という命令など出ていなかったのではないか。そう仮定してみるのもよいであろう。
そうすると、右の不可解な疑問は、全て、氷解してゆくのである。
●「捕虜ハセヌ方針」の真の意味
この日記には、「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」とか、「当初ヨリ予定ダニセザリシ処ナレバ」というように、ダニとかスラといった強意の副助詞が用いられている。
『国語大辞典』を持ち出すまでもなく、だにもすらも、「程度の甚だしい一事(軽量いずれの方向にも)を挙げて他を類推させる」働きをする。
つまり、陣中日記の作者は「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」と書き記すことにより、「捕虜ハセヌ方針」の貫徹など、到底不可能、と匂わした。
換言すれば、「捕虜ハセヌ方針」という最終目的を達成する手段が、支那兵の「武装ヲ解除スルコト」であった。
では、問題の「捕虜ハセヌ方針」とは、何であったのか。三つのことが考えられる。
まず、銃殺の方針であったという従来の通説である。しかし、銃殺が当初からの方針であったのであれば、すでに述べたように、中島師団長は「大体捕虜にはしない銃殺の方針であったから、投降兵が来るや、これを片端から銃殺しようとするのだが、千、五千、一万の群集ともなると多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と記していたことであろう。
ところが、陣中日記の作者は、「銃殺することすら出来ない」とは書かなかった。従って、即時処刑の方針ではなかったことになる。
では、捕虜にする方針であったのか。しかし、これは、言うまでもなく、「捕虜ハセヌ方針」に反する。となると、残るは、投降兵の追放しかない。戦場の投降兵にたいしては、処刑するか、捕虜とする、追放するか、三つの方針しかないからである。従って、「捕虜ハセヌ方針」とは「投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針」という意味になる。
その「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」という表現から当初の方針(即ち捕虜にはしないで武装解除してから追放すること)など、とても遂行できないという悲鳴が聞こえてくるのである。
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Re: 南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/01 20:30 投稿番号: [1197 / 2250]
下関の死体
そりゃあるわな、
そこは、12日に中国軍が脱走しようとして、
その時の同士討ちで死体の山ができているから。
船を得ようとしても、船はすでに無くなっている。
小舟に大勢が集中し、殺し合い、顛覆で死体が大量に流れた。
兵隊の中には、女子供もい、かつ便衣で逃げているから、
あとから来た日本人が女子供を殺したのかと勘違いしても仕方ないわな。
一般の民間人は安全区にいて、城門の外に出してもらえなかった。
ラーベですら、簡単にはでられなかった。
連中が殺し合い、火をつけ、黒焦げの死体ができても、何の不思議もない。
翌日朝、佐々木隊がそこに来た。
しかし、既に死体の山があったと報告していないから、
手柄話を創作し、戦果に計上した可能性がある。
また、川に流れる漂流者や死体に銃撃して戦果にした。
そのあと、第6師団が揚子江を北上して下関にくる。
同じ死体を見て戦果にする。
海軍も、同じ漂流者や死体に銃撃して戦果にする。
つまり、彼らの戦果は三重に重複している。
本当は、中国軍の同士討ちによってできたものだが。
同じ死体を後から来たものは、日本軍がやったと、勝手にきめつけてしまう。
そして、大虐殺があったのだと、想像をしてしまう。
松井大将の副官
角良晴もその一人。
太平門でも、脱出の時の騒乱で大量の死者がでている。
それも日本軍の戦果に入れているだろう。
最初に発見したものの役得で。
ずっと後に来た者は、全部日本軍がやったと錯覚する。
そして、戦後、大虐殺があったと証言する。
そんなものだよ。
これは メッセージ 1194 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/01 20:01 投稿番号: [1196 / 2250]
>(石川達三著「生きている兵隊」より)
こういう追撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。
ばかだねー
石川達三は戦争を見てないよ。
彼が南京に向けて出発したのは
12月25日、
上海戦も南京戦も終わっている。
彼は、行く前から、残虐記事を書くつもりでいた。
巻末の解説を見てみろ。
彼は、それにふさわしい話を集めてきただけだ。
彼のは、実際の戦争ではなく、彼の頭の中にある残虐な戦争イメージを文字にしただけ。
これは メッセージ 1192 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 日本軍兵士が目撃・体験した南京事件5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/01 19:50 投稿番号: [1195 / 2250]
>前述したように、参謀総長が
異例の通達を出すほど、
日本軍の軍紀風紀は
頽廃していた。
開戦後2年間のみに限っての軍紀風紀に関する犯罪非違の
調査によると、日中戦争の
戦地における
犯罪非違は、
日清・日露に比べて
はるかに高率となっている。
日清戦役(全戦役)
3387
内地1906
戦地1481
日露戦争(全戦役)
5234
内地3780
戦地1454
日支事変(2年間)
5221
内地2047
戦地3147
要するに、犯罪ってことだろう。
国がやれって、命令してやらせたことではないんだよな。
いつの時代でも、犯罪者はいる。
今の時代でも、殺人、窃盗、強姦、たくさんあるだろう。
それとも、君は、南京に行った兵隊は、全員、聖人君子だとでも思っていたのか?
ありえるわけないだろう。
>日清・日露に比べて
はるかに高率
だってー?
君、日清、日露の戦争期間知ってるの?
日清戦争は陸海あわせても7か月程度。
日露戦争は陸海あわせて1年2か月程度。
で、支那事変が2年てのか。
支那事変2年は、日露戦争の陸戦の2倍はあるぞ。
比較する基準が間違っているだろう。
いつまで、バカをつづける気だ。
これは メッセージ 1185 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/01 19:47 投稿番号: [1194 / 2250]
前述の
最後の部分で触れた
村瀬守保氏の記録についても
触れておきたい。
村瀬氏は、給部隊として
南京戦の後を
辿りながら、貴重な戦場の
記録写真を多数
撮影した。
その中には、揚子江岸における
大虐殺を証明するうえで
貴重な現場を
撮影した写真も
含まれている。
以下、『村瀬守保写真集
私の従軍中国戦線』から引用する。
(16) 南京制圧
第一線に近づくにつれて、部落を通過するたびに虐殺死体が
目立ち始めました。
(略)土間にひく
アンペラを探して
穴蔵のようになっている奥の部屋に踏み込むと、下半身裸の
婦人が、下腹部を切り裂かれて、死んでいます。
少し奥には、五〜六歳の子供が、うつぶせに死んでいました。
プーンと、血生臭いにおいが、立ちこめています。 (略)
このような虐殺死体は、随所に見られました。 婦人に暴行を
加えて虐殺し、女性の性器に棒を差し込んでおくような、
残虐な事例も何回か目にしました。
南京の攻略が大幅に遅れたので、第一線部隊の兵隊は、
厳しい命令を受けて、目が血走っていました。
小休止で一緒に休んだ時の話をきくと、「南京一番乗りは
師団の至上命令だ。南京へいけば、女はいくらでもいるし、
酒もある。速くいったものは、やりたいほうだい、何でも
やれるぞ」
と上官からハッパをかけられているのです。
(略)
(17)大虐殺のうわさが…
ようやく足止めが解除されて、ある日荷物受領に揚子江岸の
下関埠頭へ行きました。
すると、広い河岸が一杯に死体で
うまっているのです。
岸辺の泥に埋まって、幅十メートル
位はあろうか、と思われる
死体の山でした。
揚子江岸で大虐殺が行われたという
その現場でしょうか、
軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の、民間人で、
婦人や子供も交じっているようでした。
死体に油をかけて、焼こうとしたため黒焦げになった死体も、
数多くありました。
死臭で息もつけない中を、工兵部隊が
死体を沖に運んで
流す作業を
やっていましたが、
こんなやり方では、一〜二ヵ月はかかりそうでした。
(写真キャプション)
虐殺されたのち
薪を積んで、
油をかけられて焼かれた死体。ほとんどが平服の民間人
でした。
(写真キャプション)
揚子江岸には、おびただしい
死体が埋められていました。
虐殺した後、河岸へ
運んだのでしょうか、それとも河岸へ連行してから
虐殺したのでしょうか。
おそらく
南京虐殺否定派は、村瀬氏を
ウソつき、または
妄想家の類と、例によって
根拠もなく
決めつけるだろう。
あるいは、村瀬氏が見たのは
兵士の死体であり、民間人と
いうのは間違いだと
主張するものも
出てくるに違いない。
参考として、第十六師団歩兵三十三連隊第二大隊に所属した
兵士の証言を
以下に
付記しておこう。
うちの中隊で警備に出るとき、揚子江の水際で死体を
ぎょうさん見ました。
兵隊やのうて住民みたいでした。
河べり一面に
死体が
寝ころんでるように
ぎっしり
つまっていました。
かわいそうとは思うたが、戦争や
から
やむを得ないわな。
上の人の命令やから・・・
これは メッセージ 1193 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/01 19:45 投稿番号: [1193 / 2250]
南京虐殺否定派による
曲解の一例として、亜細亜大学教授の
東中野修道が、著書
『南京「虐殺」の徹底検証』
に記した
第16師団長の日記に対する
不自然な解釈について論じたが、
以前、南京大虐殺の生存者の一人が、この著者と出版社により
名誉を傷つけられたとして賠償を求めた訴訟があり注目された。
この訴訟では、最高裁が
被告の上告を
退ける決定をくだし、
著者の東中野修道と
出版社に賠償金支払いを命じた
一審と
二審の判決が
確定し、原告側の
全面勝訴に終わった。
日本軍による
南京大虐殺の際、アメリカ人の
マギー牧師が
南京の2家族11人が
殺害された様子を
フィルムに撮影し、
この事件の
生存者の1人が
当時8歳の原告だった。
東中野教授は
『南京「虐殺」の徹底検証』
の中で、
フィルムの中の少女は
別人であり、証言は捏造されたものだ
と主張していたが、それは
じつに
お粗末な、初歩的ミスで
著者が
事実を誤認したものだったことが、判明したのだ。
虐殺否定派が
まともな検証作業もせずに、証言を「ウソ」と
決めつけることが前提になっていることの
証明となった。
証言者に「ニセ者」「ウソつき」
のレッテルを
貼ることで、
事件そのものを
否定しようという意図が
根本にあったが、
東京地裁の
判決が、被告による
資料の解釈について
「学問研究の
成果というに値しないと言って過言ではない」
と断じたほど、稚拙で低レベルの「研究成果」
によって
「南京虐殺はなかった」という主張が
垂れ流されているのだ。
このような
曲解や捏造が、彼等の中では
まかり通っている。
ちなみに、東中野教授は
「日本『南京』学会」
と称する
虐殺事件否定派の「研究者」を中心とする組織の代表を務める。
学会と称しているが、もちろん、日本学術会議の協力学術研究
団体には
加入していないし、学者間では評価もされていない。
実際、東中野教授の著書を
通読してみると、虐殺否定派が
どんなデタラメな手法を用いているかが、じつに
よく分かる。
些細な矛盾点を
針小棒大に取り上げて
証言全体を否定しようと
したり、文章を
引用する際、歪曲して
正反対の
意味にしたり、
都合の悪い記述は無視する一方、信憑性の低い資料を重視したり、
まさに
「好き勝手」としか、いいようがないものだ。
南京虐殺の犠牲者数については、「30万人」と「ゼロ」
という
両極端の説が
火花を散らしているが、東中野教授の
著書は、
その中でも
特にインチキだらけの
ひどい
シロモノなのだ。
彼が得意とする「南京事件証拠写真を検証する」
についても、
はじめから
南京事件の証拠ではない写真を持ち出し、検証して
「証拠とならない」
と言ってみせることで、事件の証拠はない
と思わせるトリックを
使っているにすぎない。
たとえば、目黒輜重連隊兵站自動車第17中隊に所属していた
村瀬守保氏が
撮影した写真などは
日時、場所、状況などが
はっきりしている。
しかし、東中野教授は、それらの写真には
触れていない。
信憑性の高い写真を
初めから
除いたうえで
「検証した」
というのは、まさに
トリックだろう。
これは メッセージ 1192 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/01 19:45 投稿番号: [1192 / 2250]
先に、第16師団長
中島中将の日記を
引用した。
否定派は、「片端より片付くる」は、捕虜を釈放する意味だという。
それでは、現実に
第十六師団の
現場指揮官たちが
どのような
命令を受けていたのかを、当事者の証言によって
確認してみよう。
(歩兵第三十八連隊副官の述懐古)
聯隊の第一線が京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り
乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として
「支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ」と電話で伝えらた。
(中略)
部隊としては
実に驚き、困却しましたが
命令やむを得ず、
各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告は
ありませんでした。
激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。
(独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊、観測班長の証言)
第一中隊(十五センチ加農砲)の任務は
太平門に突進する
佐々木支隊に
協力することであったが、南京が
陥落した
12月13日、仙鶴門鎮付近で首都防衛決死隊の夜襲をうけ、
かつ
多数の投降捕虜を得たので、その状況を
略述します。
(中略)
その行動は
極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、
取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。
(中略)
俘虜の数は約一万(戦場のことですから、正確に数えており
ませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速
軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」と言って
きましたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」
と命令されました。
(歩兵第十六師団司令部副官の遺稿)
私は
その時、“一万の捕虜をどのように収容するか”
を
考えなければ
ならなかった。
南京城内には刑務所があるだろうから、そこに入れるとしても
食わせるものが
ない。
我々自身が
イカモノを食いつつ、
その日を
過ごしているのに
如何とも
なし難い。
しかし、人間は水さえ飲んでいれば十日や二十日は保つと
いうから、食飼のことは
何とかなるだろう。
参謀長に
指示をうけようとしたが、参謀長は
即座に
「捕虜はつくらん」
と言われたので、後方参謀に話した。
いずれの事例でも、捕虜もしくは投降兵について、軍司令部なり
師団なり
参謀なりが、明確に「殺せ」という指示を出している。
この方針については、早くも1938年、石川達三氏が
中島師団長
麾下の
第十六師団に取材して書いた小説、「生きている兵隊」に
登場している。
(石川達三著「生きている兵隊」より)
こういう追撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。
自分たちが
これから
必死な戦闘にかかるというのに
警備をしながら
捕虜を連れて歩くわけには
いかない。
最も簡単に
処置をつける方法は
殺すことである。
しかし
一旦つれて来ると
殺すのにも気骨が折れてならない。
「捕虜は捕えたらその場で殺せ」
それは特に命令というわけ
ではなかったが、大体
そういう方針が
上部から示された。
笠原伍長は
こういう場合にあって、勇敢に
それを実行した。
彼は数珠つなぎにした十三人を片ぱしから順々に斬って行った。
南京事件を必死で否定し、その実態を隠そうと血眼になる連中は、
捕虜にしないとは
「釈放する」
という意味だ、壕を掘るのは
「収容監視する」
ためだ、などと
大マジメに
主張する。
勝手な憶測を前提に、捕虜の殺害はなかったと
主張してみせるが、
それは、まったく
説得力がない。
ただ
見苦しいだけなのだ。
これは メッセージ 1191 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/01 19:43 投稿番号: [1191 / 2250]
「捕虜はせぬ方針なれば
片端より之を片付くる」ことにしたが
「これを片付けるには
相当大なる壕を」
必要とした
という
記述を、先入観なく
素直に解釈すれば、「殺害方針」と見る方が
妥当である
と思える。
これに対し、東中野教授は苦し紛れに
以下の解釈を打ち出した。
「処理」というのを、「銃殺」
のような響きで解釈するのも
ちょっとおかしい。
参謀将校の話によると、あのあたりでは
土を掘った壕があったので、
「処理」というのは、その壕に
捕虜を入れて監視保護するというニュアンスだったとのこと
(『諸君!』2001年2月号
P140)
ニュアンスだった
というが、しかし、実際に
現場の兵士たちが、
「壕に捕虜を入れて監視保護」したなどという記録は
存在しない。
この
東中野教授の強引な解釈は、到底
説得力を
持ちえない。
むしろ、「壕」が
「死体処理」の場であったことを示す
資料が、
多数
存在しているのだ。
その一例を
以下に紹介しよう。
(第二野戦高射砲兵司令部副官の証言)
「二千の虐殺死体」とかいわれておりますが、門の外側で
見ましたのは千にも足らなかったと思います。一部の死体は
人に踏みつけられ、気の毒な状態でしたが、この人たちは、
紫金山の戦闘に敗れて城内に逃げ込まうとしたか、あるいは、
城内から脱出しようとしたかは判らないが、太平門まで来て
やられたのではありますまいか。
ここには門外に深い大きな壕があり、この壕の中に死体が
入れられて、土で覆われていました。
門の正面で
城壁の曲折部の下方には、一〇〇近い死体が
土もかけずにありましたが、これは爆弾を投げられたよう
でした。
(歩兵第九連隊中隊長の証言)
十三日右側支隊の紛戦救援のため急派され翌十四日歩九に
復帰する途中
太平門外を南進するとき地隙内に
かなり
多くの中国兵の死体が集められていたのを見た。
(歩兵第三十旅団長の手記)
守将が逃げた後にのこされた支那兵ほど
みじめな存在はない
のである。彼らに戦意の程がありや無しやは自明の理であるが、
彼らにはもはや退路がなかったので死にもの狂いに抵抗したの
である。
敗残兵といえども尚部落山間に潜伏して狙撃をつづけるものが
いた。
したがって抵抗するもの、従順の態度を失するものは
容赦なく即座に殺戮した。
終日各所に銃声がきこえた。
太平門外の
大きな外壕が
死骸でうずめられてゆく。
以上の証言から、「大なる壕」は、そのまま
死体処理の場と考えて
何の不審もない。東中野解釈は、あまりにも不自然で強引に過ぎる。
都合のよい推論ばかりが元になって展開される
南京虐殺否定論は、
ほとんど
読解力不足か
意図的な得歪曲
といって過言ではない。
これは メッセージ 1190 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/01 19:42 投稿番号: [1190 / 2250]
数多くの
日本軍兵士、国際機関の関係者、そして被害者たちの
証言や記録資料によって、残虐行為が
組織的に行われた事実を
伝えている。
そのすべてを信用しなくとも、少なくとも南京で
捕虜の大量殺害や
民間人に対する違法行為が
多発した事実を
うかがい知ることができ、軍の公式文書とも
整合性が取れる。
いずれも、現地における
体験に基づいて「あった」
「見た」
「体験した」
という、客観的で
具体的なものだ。
一方、南京事件を
必死で否定しようとする者の
論拠は、
「なかったはずだ」
「疑わしい」
「あるとは思えない」
といった類の、一部の論者が振り回す主観論に依拠している。
中には、自称体験者による
「なかった」
「見なかった」
という、数少ない証言を持ち出す場合もあるが、圧倒的多数の
記録を
怪しい、疑わしい、ウソ、捏造
と決め付けておいて
都合のよい証言だけを真実だと言い張るのは
厚顔無恥な話だ。
否定派には、記録資料に対する無理な
曲解が多い。
例えば
亜細亜大教授の東中野修道は著書『南京「虐殺」の徹底検証』で
第16師団長
中島今朝吾中将の日記に関して
言及している。
これは、捕虜の大量殺害を
記録している資料として有名だが
著者は、独自の解釈を加えて、虐殺はなかったと主張している。
中島中将の
12月13日付の記述は、以下のようなものだ。
「大体捕虜はせぬ方針なれば
片端より之を片付くることと
なしたる共千五千一万の群集となれば
之が武装を解除する
ことすら出来ず
唯彼等が全く戦意を失ひ
ぞろぞろついて
来るから安全なるものの
之が一端掻擾せば始末に困るので
部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ
十三日夕は
トラツクの大活動を要したりし
乍併戦勝直後のことなれば
中々実行は敏速に出来ず斯る処置は当初より予想だにせざり
し処なれば参謀部は大多忙を極めたり」
普通に考えれば、「捕虜にせぬ方針」で、「片端から片付け」る、
というのは、捕虜にしないで
殺してしまう、という
意味に
とるのが常識的解釈だろう。
ところが、南京否定派にかかると
「捕虜はせぬ方針」とは、「投降兵は
武装解除後に追放して
捕虜にしない方針」である
という意味に
解釈するらしい。
田中正明著
『南京事件の総括』
でも、
「この中島中将の『捕虜ハセヌ方針』というのを一般に誤解して、
南京の捕虜は
かたっぱしから殺害したかのごとく
主張するが、
決してそうではない。」
として、銃を取りあげ
釈放するという
意味だ、などと
主張している。
しかし、東中野などの
否定派は、「中島日記」
を引用する時、
意図的か否かは分からないが、次の部分を
完全に無視している。
「此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々
見当らず
一案としては百二百に分割したる後適当の処に
誘きて
処理する予定」
捕虜を追放するのに、なぜ
「大なる壕」
が必要なのか。
また、100人単位に分け
適当な所に誘導する必要があるのか。
これは メッセージ 1185 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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ブアッハッハッハ奥宮正武だってー!
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/01 19:23 投稿番号: [1189 / 2250]
バカだねー。
こいつが何したか知ってるの?
こいつ、米国船パネー号を爆撃・撃沈した張本人だよ。
無関係の欧米人を虐殺した張本人だけど。
こいつのおかげで、日本は米国から憎まれるようになったんだよ。
まー、こいつが、陸軍の南京大虐殺を言いたくなる気持ちは解るわなー。
そう言わないと、自分の罪が軽く見えないもんね。
陸軍が虐殺するのを見たということによって、自分の罪は他人から忘れられ、
立派な人だと君のような単細胞からほめられるもんね。
でもね、こいつ、人の事を言えないんだよなー。
こいつは飛行機に乗って、空から爆弾をおとしている。
高いところから、落としているから、爆撃の火炎が上がると「やったー」と喜ぶ。
でも、その下には、人がいるんだよなー。
体がバラバラにされたり、炎で焼き殺されたりしても、
その苦悶の表情は見えない。だから、平気でいられるんだよ。
陸軍は敵兵を処刑するとき、顔が見えるからね。
これ、結構つらいと思うよ。
奥宮は、空から爆弾おとしるから、下の被害者の顔見なくてすむ。
それで、陸軍を批判できるのか。
テメーはどれだけ、無辜の市民を虐殺したのだ。
バカものー!
これは メッセージ 1181 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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大正時代の第一次南京事件2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/01 18:54 投稿番号: [1188 / 2250]
〔大正2年9月5日
大阪毎日〕
北軍、また日本人を殺害
大掠奪、大虐殺「上海来電四日発〕
当地に達せる信憑すべき報によれば、
南京に進入せる北軍の暴逆無道はその極に達し、
武装なき南軍の新募兵の半ばは虐殺され、
掠奪隊のため市民の惨殺さるるものまた尠
(すく)
なからず。
貧富の別なく、城内の民家にして掠奪を免れたる者一もあるなし。
掠奪品は城内三千の人力車を徴発し、人夫を雇いてこれを曳
(ひ)
かしめ、
凱歌を奏して城外に在る司令部に運搬し、門前山をなせりと。
富める者は既に避難せるも、中流以下の者は自ら掠奪するため掠奪隊の
手先に使われ、竹竿にて運搬せしめらる。
最もはなはだしきは白昼路傍に於いて婦女の強姦せられたる事あり。
更に最も哀しむべきは、さきに惨殺されたる日本人三名の外、
二日朝、惨殺されたる邦人一名、行方不明の邦人数名あり。
南軍退却の今日北軍の犯せる掠奪状態は今や蔽
(おお)
うべからざるがごとく、
かかる不規律なる軍隊の行動は現代において見遁すべからざる罪悪なりとて、
内外人等しく憤慨せり。
これ一日、二日の概況なるが、三日に至りやや沈静の状あるも、
大体に於いて前日と異なるなし。張勲は四日入城のはずなり。
〔大正2年9月5日
大阪毎日〕
北軍、南京城占領
南軍全敗
〔南京来電二日特派員発上海経由〕
昨夜来南門内外及び雨花台を固守せし南軍は、二日午後に至りてついに敗れ、
赤旗翩翻
(へんぽん)
たり。ここに於いて北軍は、南京城全部を占領せり。
下関焼失
昨夜の火災にて、城外下関は全部焼失せり。
北軍兵の兇暴
北軍の暴行はその極に達し、支那人の住居は更なり、
日本居留民の住居もまた一軒として掠奪せられざるはなく、外国人も数戸掠奪に遭い、
その贓品は隊長指揮の下に兵卒、苦力
(クーリー)
を督して一カ所に収容しつつあり。
かつ白昼公然婦女を強姦し、ほとんど長髪賊以来かつて見ざる所にして、
内外人ともに憤慨措かざる所なり。
*
この記事では強姦も加わっています。
前日の日本人殺害のほかに二名の被害者が加わっています。
これは メッセージ 1187 (kireigotowadame さん)への返信です.
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大正時代の第一次南京事件1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/01 18:45 投稿番号: [1187 / 2250]
辛亥革命の2年後、袁世凱政府に対して、南方の孫文・黄興らが反旗を翻し、
第二革命を起こした。
これを討伐するために、袁世凱は南方に軍を送り、
その軍隊が、南京を占領したときのできごと。
〔大正2年9月4日
大阪毎日〕
日本陸戦隊が出動
北軍、邦人を惨殺す
〔上海来電三日発〕
一日午前十一時抵抗なく朝陽門占領され、続いて富貴山砲台陥り、
太平、神策の各門破れ、南軍は市内に於いて少しく抵抗しつつ南門より退却し、
雨花台に拠りて昼夜猛烈に交戦中なりしが、北軍各部隊の挟撃する所となり、
二日午前九時半頃漸次南方に退散し、雨花台附近北軍の占領に帰せり。
北軍の手に帰したる南京は大火災起こり、兵士は武装を解けるも惨殺を行い、
商店の掠奪に遭うもの多し。
邦人医師二軒、国旗及び赤十字旗を掲げたるに拘わらず二十回まで
掠奪
(りゃくだつ)
せられ、ほとんど一物を残さず。
十数個の日本商店またおおむね損害を蒙り、戦乱のため領事館に避難中なりし
理髪師二名、雑貨商一名帰店せるに、北兵の侵入して掠奪すること数回に及び
危険迫りたれば、急ぎ領事館に引き揚げんとする途中、国旗を立て
日本人なることを表明せるに拘わらず、張勲の兵発砲して一人を殺し、
一人は銃剣を以って惨殺せられ、他の一人は腹部に貫通銃創を負い、
その後ついに死亡せり。
船津領事は直ちに北軍司令に抗議を提出せり。
しかるに北軍占領以来、領事館と公渉使の通路たりし漢西門通行を許されず
交通杜絶せしかば、綱によって城壁を越え内外の連絡を保ちつつあり。
我が陸戦隊出動
南京警備の軍艦千代田は、出来得るだけ多数の陸戦隊を上げたり。
また軍艦新高
(名和中将坐乗)
は三日朝五時、上海より南京に急航せり。
*
大正2年に南京は中国の北軍に占領され、放火・略奪・虐殺されています。
武装を解いた兵士も惨殺されている。
赤十字旗も日本国旗も無視ですね。
24年後に日本軍がしたと言われている事と似たパターンですね。
これは メッセージ 1178 (kireigotowadame さん)への返信です.
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12月28日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/01 18:34 投稿番号: [1186 / 2250]
十二月二十八日
《 あいもかわらず、放火がくりかえされる!
まるで重い病いにでもかかっているようだ。
おそるおそる時計の針に目をやるが、針は遅々として進まない。
難民はだれしも新年のお祝いを恐れている。
酔ったいきおいで、日本兵がますます乱暴を働くにきまっているからだ。
慰めようとするが、いまひとつ力がこもらない。
それはそうだろう、そういう我々自身、信じていないのだから!
誰だか知らないが、今日が登録の最終日だといううわさを広めた人がいるらしい。
そのため何万人もの人が登録所につめかけた。
安全区の道路は人で埋まり、歩くこともできない。
私はドイツ国旗のおかげでかろうじて前へ進める。
ここではハーケンクロイツのついた私の車を知らない者はない。
なんとかして道をあけようとして、ぶつかり、押し合いへし合いしている。
そのわずかな隙間に滑りこみつつ、ようやく目的地に着いた。
私が通ったとたん、あっというまに元通り埋まってしまう。
休憩時間にでもあたったら、ここから抜け出すのは並大抵のことではないだろう。
今日、ほうぼうから新たな報告が入った。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ。
こうして文字にするのさえ、ためらわれるほどだ。
難民はいくつかの学校に収容されている。
登録前、元兵士がまぎれていたら申し出るように、との通告があった。
保護してやるという約束だった。ただ、労働班に組み入れたいだけだ、と。何人か進み出た。
ある所では、五十人くらいだったという。彼らはただちに連れ去られた。
生きのびた人の話によると、空き家に連れていかれ、
貴重品を奪われたあと素裸にされ、五人ずつ縛られた。
それから日本兵は中庭で大きな薪に火をつけ、一組ずつひきずり出して銃剣で刺したあと、
生きたまま火の中に投げこんだというのだ。そのうちの十人が逃げのびて
塀を飛び越え、群衆の中にまぎれこんだ。人々は喜んで服をくれたという。
これと同じ内容の報告が三方面からあった。もう一つの例。これはさっきのより人数が多い。
こちらは古代の墓地跡で突き殺されたらしい。ベイツはいまこれについて詳しく調べている。
ただ、いざ報告するときには、誰から聞いたか分からないよう、よくよく
気をつけなければならない。知らせてきた人にもしものことがあったら大変だ。》
*
掃蕩作戦は既に終了している。第7連隊はもういない。
「五人ずつ縛って、銃剣で刺し、火の中に投げ込む」
と言うが、
5人縛られたままで倒れた者を、どうやって火に投げられる?
一人を動かそうとしたら、つながっている他の四人が邪魔になって動かせない。
ロープを切ったら、そのロープは短くなって、次には使えなくなる。
また、五人ずつ縛られていて、どうやって塀を乗り越えられる?
三方面から、同じ内容の報告という事は、攪乱工作による、デマ宣伝の可能性大。
清国の官憲が
「中国人の訴えを信用するな」
と言った事が想い起こされる。
これは メッセージ 1177 (kireigotowadame さん)への返信です.
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日本軍兵士が目撃・体験した南京事件(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/01 01:29 投稿番号: [1185 / 2250]
前述したように、参謀総長が
異例の通達を出すほど、
日本軍の軍紀風紀は
頽廃していた。
開戦後2年間のみに限っての軍紀風紀に関する犯罪非違の
調査によると、日中戦争の
戦地における
犯罪非違は、
日清・日露に比べて
はるかに高率となっている。
大本営陸軍部が調査した
開戦2年後の調査によると、
軍隊内の犯罪数は
次のとおりだ。
日清戦役(全戦役)
3387
内地1906
戦地1481
日露戦争(全戦役)
5234
内地3780
戦地1454
日支事変(2年間)
5221
内地2047
戦地3147
(参考:無形戦力軍紀風紀資料第一号「支那事変に於ケル犯罪非違
ヨリ視タル軍紀ノ実相並ニ之ガ振粛対策」
大本営陸軍部研究班
昭和十五年十一月)
上記の数は、憲兵隊が
取り扱ったもの
だけであり、
「実数ハ之ヨリ増加スベシ」
とされている。
そのうえで
戦地での犯罪数については、日清・日露戦争よりも
「今次事変ニ於ケル犯罪数著大ナルヲ知ルベシ」
としている。
また、非違の発生件数については、日清・日露の記録がないので
比較できないが、「今次事変」
では
3万2964名にも達し、
しかも
「刑法処分ニ処スベキモノ本人ノ功績ト犯行ノ情状トヲ
酌量シテ行政処分ニ附シタルモノ相当数アリ」
「シカモ軍紀上
相当悪性ナルモノ多数発生シツツアルニ於テオヤ」
としている。
つまり、軍法会議に付された犯罪、懲罰権者の処罰ですませた
非違の双方とも、日中戦争下で
軍紀風紀犯罪が多発している
という調査結果が
示されている。
こうした
犯罪のなかで、もっとも多かったのが
掠奪だった。
上海から南京への
追撃戦は、補給を無視しての
急進撃で、
給養は
すべて徴発に頼った。
徴発といっても、そこは敵国であり
実態は掠奪にほかならなかった。
兵士の日記には、ほとんど例外なく、毎日
無人の集落から
何を徴発したかが書かれているが、それは無統制に、兵士が
勝手におこなう
掠奪であったことを
具体的に示している。
徴発には
国際法があり、規則があった。
しかし、中国戦線で
それが守られることは
ほとんどない
という実態にあった。
次のような南京攻略戦のさいの第九師団経理部将侯の記述がある。
徴発品の代金支払は如何にされて居つたか、軍隊は強盗でも
山賊でもない。
必ず代金を払って買はねばならないのである。(中略)
後日所有者が代金の請求が出来るようにして置かねばならない
故に徴発書はかねて印刷配付して所要の事項を記入すればよい
ようにして(中略)ある。
しかるに後日所有者が
代金の請求に持参したものを見れば
其記入が甚だ出鱈目である。例へば○○部隊先鋒隊長加藤清正
とか
退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量を箱入丸升とか
樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの甚だしいのは
単に馬鹿野郎と書いたものもある。
全く熱意も誠意もない。
でたらめな記入をした徴発書では、代金の支払いは
できない。
中国の人々は、食糧などの物資を
だまし盗られたことになる。
これは メッセージ 1184 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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日本軍兵士が目撃・体験した南京事件(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/01 01:28 投稿番号: [1184 / 2250]
なぜ、南京においては、大規模な
虐殺行為が、組織的に
行われたのか。
その背景には、もともと
日本軍の中に
中国人に対する侮蔑の感情、差別的意識が
存在していた
という実態があったからだ
と思う。
たとえば
敗戦後の山西省残留問題を告発した「蟻の兵隊」
という本が
ある。
「蟻の兵隊」の著者は、奥村和一という
元日本兵だ。
奥村は、早稲田大学附属早稲田専門学校在学中に徴兵され、
直ちに
中国山西省に
派遣されることになる。
そこで、初年兵教育を
3か月受けるが、最後に
「刺突訓練」と称される
「肝試し」を命じられる。
それは、軍服を着ていない
中国人の
処刑であった。
しかも、処刑は
銃殺ではなく
銃剣刺殺だった。
殺人をためらう初年兵は
急所を外すため、
処刑者は
生殺し状態が長く続く
悲惨なものだった。
初年兵の「肝試し」
として行われた
中国人の殺害は、
捕虜の人道的処遇を定めた戦時法に違反する犯罪だった。
虐殺事件の背景には、幕僚層の国際感覚の欠如とモラル低下
だけではなく、日本軍内部の
軍紀風紀の頽廃があった。
また、戦争の拡大と
軍隊の大量動員が、軍の素質の低下を
もたらしたうえに、それにともなって
軍の規律が
ゆるみ、
軍紀風紀が乱れたことが、犯罪非行続出の
原因となった。
大量虐殺は、軍の組織的行為での
捕虜殺害や敗残兵狩りが
原因であることは勿論だが、軍紀の乱れから兵士個人による
行為によって起こった場合も多出したことが、いっそう事件
大きくした。
この点は
軍上層部でも
認めており、南京事件が国際的な
非難を浴びたのを受け、南京占領直後の38年1月4日付で
参謀総長は中支那方面軍に、次のような要望を行なっている。
顧ミレバ皇軍ノ奮闘ハは半歳ニチカシ
其行ク所
常ニ必ズ赫々タル戦果ヲ収メ我将兵ノ忠誠勇武ハ
中外斉シク之ヲ絶賛シテ止マズ
皇軍ノ真価愈々
加ルヲ知ル然レ共一度深ク軍内部ノ実相ニ及ベバ
未ダ暇謹ノスクナカラザルモノアルヲ認ム就中
軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸ク繁ヲ見
之ヲ信ゼザラント欲スルモ
尚疑ハザルベカラザル
モノアリ
惟フニ一人ノ失態モ全隊ノ真価ヲ左右シ
一隊ノ
過誤モ遂ニ全軍ノ聖業ヲ傷ツクルニ至ラン
(中略)
遡テ一般ノ情特ニ迅速ナル作戦ノ推移或ハ部隊ノ
実情等ニ考ヘ及ブ時ハ森厳ナル軍紀節制アル風紀ノ
維持等ヲ困難ナラシムル幾多ノ素因ヲ認メ得ベシ
従テ露見スル主要ノ犯則不軌等ヲ挙ゲテ直ニ之ヲ
外征部隊ノ責ニ帰一スベカラザルハ克ク此ヲ知ル
然レ共実際ノ不利不便愈々大ナルニ従テ益々以テ
之ガ克服ノ努力ヲ望マザルヲ得ズ(後略)
(中支那方面軍参謀長「軍紀風紀ニ関スル件通牒」)
参謀総長から
このような要望がでたことは、異例だった。
それだけ在中国軍の軍紀風紀の頽廃が、軍中央部にとって
頭の痛い問題だったのだ。
同じ内容の要望は
北支那方面軍にも出されているが、
これは軍紀風紀の粛正が、この時期の
日本陸軍にとって、
大きな問題であったことを
示している。
これは メッセージ 1183 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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日本軍兵士が目撃・体験した南京事件(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/01 01:26 投稿番号: [1183 / 2250]
前述で引用した
海軍将校の記録は、当時の状況を
比較的冷静な視点から観察し、事実を客観的に述べている。
そのうえで、以下のように
率直な感想が記述されている。
私は、この二目間に
下関で見た
合計約二十台分の、
言いかえれぱ、少なくとも合計五百人以上の中国人の
処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。
もっとも、
どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、
人それぞれに
見解の相違が
あるかも知れないが。
それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体の
こととも考え合わせて、正確な数字は
分からなかったが、
莫大な数の
中国人の犠牲者が
あったのではないか、
と考えざるをえなかった。
そうだとすれば、それは、明らかに、
国際法上の大間題ではないかと思われた。
が、当時の私には、そのことを突っ込んで検討する時間的な
余裕がなかった。
その後間もなく、私自身が
作戦飛行に
従事せねばならなかったからであった。
(以上、奥宮正武「私の見た南京事件」より抜粋・引用)
南京事件当時
海軍大尉だった奥宮は、2日間だけで、しかも
限られた地域だけで、少なくとも
500人以上の
中国人が
殺戮された状況を目撃した。
彼は、それを大虐殺と断定する。
当時、現場において
真実に触れ得た者の証言が
ここにある。
次に、やはり現状を目撃した
陸軍兵士の記述を
引用しよう。
第16師団経理部予備主計少尉による12月14日付の日記だ。
(中山門外にて)
最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にして
きたので見に行った。
色々な奴がいる。
武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は
直ちに銃殺、間もなく
一人づつ
一丁ばかり離れた所へ
引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す
----
-
中に女一名あり、殺して
陰部に木片を突っこむ。
外に二千名が逃げていると話していた。
戦友の遺骨を胸にさげながら突き殺す兵がいた。
前者の海軍将校が目撃した処刑風景と比較すると、後者の方は
かなり
激情に駆られた
行動であるように
思える。
野蛮な戦争は、人間の心から
冷静さを奪い、理性を失わせる
という現実を
ここでも思い知らせられるが、一方で
これが
一部の
個人的な犯罪にとどまらず、組織的に行われた背景を
冷静に
探る必要があるのではないか
と考える。
これは メッセージ 1182 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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日本軍兵士が目撃・体験した南京事件(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/01 01:25 投稿番号: [1182 / 2250]
日本軍兵士のよる虐殺は、一部の不届き者が
衝動に駆られて
偶発的に引き起こしたものではないことが、多くの
目撃談や
記録資料によって
明白となっている。
さらに、前述の
海軍将校の記録の続きを
引用しておこう。
十二月二十七日。この日は市内の西部を重点的に見回る予定
であった。
が、前々日の光景が
あまりにも鮮明に記憶に
残っていたので念のために、まず再び下関に行くことにした。
下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、
中国人を乗せた
無蓋のトラックが、続々とやってきて、
倉庫地帯に消えていた。
再び、警戒中の哨兵にことわって、
門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。
そこで、ある種の疑間が
生じた。
それは、
「多数の中国人を
大した混乱もなく、どうして、
ここまで連れてくることができるか」
ということであった。
そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を
尋ねた。
ところが、彼は、何のためらいもなく、
「城内で、戦場の
跡片付けをさせている中国人に、“腹のすいた者は手を上げよ”
と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのように
して、トラックに乗せているとのことです」と説明してくれた。
そこで、更に、「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」
と質間したところ、
「上官から、弾薬を
節約するために、そうするように
命じられているからです」
との答が返ってきた。
このような処刑が、南京占領から
二週間近くを経た後の
二十五日と二十七日に
手際よく行なわれていた。
もっとも二十六日と二十五日前と二十七日後に
どのような
処刑が行なわれていたかは
分からなかったが(中略)
二日間のことから察して、それが戦場にありがちな一時的な、
興盲状態での対敵行動であるとは
私には思われなかった。
この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動で
あるように感じた。
戦争中であっても、また、たとえ
敵国の人民だからといって
何をしても許される
ということには、ならない。
ましてや、戦闘に巻き込まれたとか
敵対行為を働いたという
状況ではなく、戦闘終了後、占領から
2週間を経た時点で
無抵抗な人々を
言葉巧みに騙して
次々と命を奪った行為は
やはり、「大虐殺」
と言うほかに
適当な表現はないと思う。
そして
問題とすべきは、この蛮行が
上部の命令に従って
「統制のとれた行動」
として、遂行されていたことだ。
これは、一海軍将校の個人的見解に過ぎない
という反論も
あるかも知れない。
しかし、もしも
仮に、一部の兵士が
一時的な激情に駆られて対敵行動に走った結果だ
としても
その蛮行を制止できなかった
軍の管理監督責任が問われる。
これは メッセージ 1181 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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日本軍兵士が目撃・体験した南京事件(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/01 01:22 投稿番号: [1181 / 2250]
当時の中国の首都、南京を武力占領したのは
陸軍であるため、
大虐殺があった事実を示す
多くの証言や記録は、おもに陸軍の
関係者によるものだ。
さらに
参考として、海軍関係者による
記述についても
ここで
引用しておきたい。
南京周辺で撃墜された
海軍機の乗務員を
捜索するため、
占領直後の南京に入った
海軍将校が、そこで
目撃した
状況に関し、客観的な視点から
率直に記録している。
以下、奥宮正武『私の見た南京事件』より「下関の光景」引用。
下関は、南京と揚子江の対岸にある浦ロとともに、交通の
要衝であった。
浦ロは、私が上海着任直後に、最初に、
爆撃したところでもあった。
下関には
かなり大規模な
停車場と開源碼頭(波止場)があった。
そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が
多数の中国人を
文字通り虐殺している現場を見た。(略)
構内の広場に入って見ると両手を後ろ手に縛られた中国人
十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、
軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江に投棄されていた。
岸辺に近いところは、かなり深く目に見えるほどの速さの
流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去って
いた。
が、一部の死にきれない者がもがいているうちに、
江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので
付近は血の川となっていた。
そして、死にきれないものは銃撃によって止めが刺されていた。
この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく
行なわれていた。
大声で指示する人々もいなかった。
そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるもの
であると推察せざるをえなかった。
したがって、部外者である私が
ロを出す余地は
ないと
感じた次第であった。
----
-
奥宮が目撃した虐殺の様子からは、戦闘の混乱の中で中国兵を
殺害したのではなく、抵抗できない中国人たちを
組織的に、
「流れ作業のように、極めて手順よく」
処刑していたことが
分かる。
その状況からみて、上部からの指示によるものだと
軍人の専門的な視点から推察できた
という事実も判明する。
上記に続けて
奥宮は、次のように
記述している。
そこで、私は、付近にいた一人の若い陸軍士官に、尋ねた。
「なぜこのようなことをするのか」
答えて日く、
「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが
陸軍の小隊長級の若い士官十名か十一名かは分かりませんが
寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです。そこで、
彼らの戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の
住民を処刑しているとのことです」
彼の説明が正しかったか否かは
私には分からなかった。
そう説明するように教えられていたのか知れなかった。
奥宮に対する
陸軍士官の説明が、もしも
正しかったとしたら、
宿舎付近の住民を
つかまえて、「処刑」
したということであり
復讐心に駆られた日本兵による
非戦闘員の惨殺だったことになる。
これは メッセージ 1156 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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飢饉でも食糧を徴発した中国軍
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/30 19:14 投稿番号: [1180 / 2250]
劉震雲著
『温故一九四二』
中国書店
劉燕子訳
より
22頁
《「春になったとたんに、雨が一滴も降らん。麦は三割しか収穫できなかった。
一粒もとれない畑さえあった。・・・」
「餓死者が発生したのでしょう?」
花瓜おじはうなずいた。
「何十人
(註:その村だけの話、全省では3百万人)
も、餓死したぞ」
「麦の収穫は、三割あったはずでしょう?
なぜ餓死したの?」
おじは、ぼくを睨みつけた。
「おまえは小作料を払わんのか?
軍糧は払わんのか?
租税は払わんのか?
田畑を売ったって、まだ足りんかった。
たとえ餓死せんでも、お役所に殴り殺されるさ!」
31〜32頁
一九四三年一月一七日に書かれた
「預災実録」
より
△現在、木の葉は食べ尽くされ、村の出入り口にある杵と臼では、連日、
落花生の皮や楡
(にれ)
の皮をつき、それを蒸して食べる・・・
△最近、私は、どの被災者の顔もむくみ、鼻孔と目尻が黒ずんでいることに
あらためて気づいた。最初は飢えによる症状だと思い込んでいたが、後になって、
「黴花 (ばいか)」
と呼ばれる野草の毒にあたって、むくんでいるのだと知った。
・・・「旦那、こんなものさえ、もうねえよ! おれたちはみんな食っちまって、
歯も顔も手も足も痛いほど痺れちまってるぜ!」・・・
△河南では、原始の物々交換の時代に戻った。
女子どもを売ろうとしても買い手がないので、自分の若い嫁や十五、六歳の娘は、
ロバの背中に乗せて、河南省東部の駄河、周家口、界首などの人売りの市場まで
連れて行き、娼妓として売った。一人売っても、四斗の穀物も買えない。・・・
46頁
しかし、食糧徴発計画は変わらなかった。
45〜46頁
農民に課せられた軍糧は実際の必要を上回っていた。
中国軍隊において長い歴史があり、今も依然として横行している慣例では、
上級組織にたいして報告する部隊の人数は水増しされる。
こうして彼らは水増し報告によって支給された人件費を着服し、私利を貪るのである。
洛陽の公開市場に山積みされている穀物は、このようなルートを経たものである
・・・
楡の皮や乾いた木の葉を食べる被災民が、彼らの最後の食糧である種子を
納税機関に渡すことを余儀なくされた。
虚弱な身体で、ほとんど歩けないような農民も、軍隊に軍馬の飼料を
納めなければならなかった。
これらの飼料は、彼らが自分の口に押しこむものより、
ずっと栄養価値の高いものであった。
47頁
重大なのは、これらの被災民を統治する何人もの役人が、この災難を利用して、
金儲けのチャンスを狙ったことである。
アメリカの記者、ホワイトは、ある部隊の司令官が部隊の余った食糧を
被災民に売りつけ、大儲けしたことを、その目で確かめている。
西安と鄭州から来た商人、政府の木っ端役人や軍の士官、
そして、食糧を手にして儲けている地主らが、
しきりにあくどい低価格で農民の祖先が残してきた田畑を買いあさっていた。》
これは メッセージ 1179 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国軍の強制従軍慰安婦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/30 19:03 投稿番号: [1179 / 2250]
趙無眠の
「日中戦争中国も同罪だ」
文藝春秋
2006年11月号
より引用
186頁
《「総指揮部と縦隊、支隊司令部には、雑役をするという名目で集められた
民間の若くて器量のよい女性が配置されていた
(主に未婚女性)。
彼女たちは指揮部や司令部で軍服を縫い、布靴を修理し、洗濯をし、飯を炊いた。
彼女たちは家に持ち帰ってそれをするか、朝早く来て夜に帰ることを望んだが
かなえられず、例外なく軍営所に泊まることを義務付けられた。
毎回八から十人、一週間ずつ交替であったが、当番になった女性はほとんど強姦され、
この前後で強姦された女性の数は数百人に上ったという。
ある者は帰宅後に悲しみ怒り精神がやられてしまい、
輪姦されてそのまま自殺してしまった女性もあった。
たくさんの民がこの軍の蛮行に対し激しく怒り、恨みを刻んだ」
(純子、蔡農、老加「一江血水向東流 ― 中日武漢大会戦実録」)
これはどこの軍隊の話だろう?
日本の軍隊だろうか。いや、そうではない。
蒋介石の密命を受けてできた預鄂辺区遊撃総指揮部という抗日部隊である。
彼らは人と金を供出させ、青年を無理やり連れ出し、私物を運搬させて工費を稔出した。
それもひどいことではあるが、さらに許せないのは、民間の女性を強姦したことである。》
187頁
《 一九四四年十二月二十四日夜、重慶の歌楽山で軍統局が主催する中米合同の
クリスマスパーティーが催されていた。
このパーティーでは、舞台の上で歌劇が披露されていたが、
舞台下での秩序は大きく乱れていた。
中統局長の戴笠は特別に用意した数十名の美女をアメリカ軍の将校の
ダンスパートナーとさせたが、そのうち何人かは強姦されてしまった。
この事件が起きたのは国の府があった重慶のことである。
結果的に政府が表に出て中国を援助してくれる友軍に慰安婦をあてがったのである。》
これは メッセージ 1178 (kireigotowadame さん)への返信です.
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米英軍の残虐
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/30 18:37 投稿番号: [1178 / 2250]
http://www.tamanegiya.com/tutiyayasuo21.12.12.html
より引用
《 <昭和十八年十一月二十七日、ニュー・アイルランド島カビエン西方チンオン島沖で、
ラバウル野戦病院からの傷病兵千百二十九名を乗せた病院船
「ベノスアイレス号」(九六二五トン)
は、米軍B24に爆撃され撃沈する。
患者、看護婦、乗組員は十六隻の救命ボートと発動機艇二隻で漂流するが、
十二月一日、同じくB24に発見された、
この時、漂流中の乗員はB24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、
容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む百五十八名が戦死している。
昭和二十年四月七日、軽巡
「矢矯」(六六五二トン)
の測的長として
戦艦
「大和」
の沖縄水上特攻作戦に参加した池田武邦大尉
(海兵七二期)
も、
同様に米軍の不法行為をこう証言している。
「乗艦沈没後洋上を漂流したが、米軍艦載機の執拗な銃撃を受けた。
敵パイロットのゴーグルがはっきり見えるぐらい肉迫攻撃を何度も受けた」>
以上二つの史実は
「敵兵を救助せよ」(恵隆之介
草思社
平成十八年)
P二四三 より
そして、英軍は
<「川沿いの道に移送を待っていた重傷者三十人の担架が見えた。
グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけていった。
焼けつくような日差しだった。
おそらく傷病兵のために冷たい水をかけてくれたのだろうと思った。
次の瞬間、担架が燃え始めた。
見る間に黒煙が上がり辺りは火の波となった。彼らがかけたのはガソリンだった」
インパール戦においての昭和十九年六月二十二日第十五師団栃平主計曹長の証言
同じく六月二十二日、インパールのミッションヒルで島田上等兵は英軍戦車隊が
日本軍野戦病院を砲撃後、英印軍兵士が這って逃げた傷病兵を道路に並べ、
英軍士官が検分する。
将官クラスは尋問するのかインド兵にトラックに運ばせた。選別が終わると
「路上に残った傷病兵にガソリンがかけられ、燃やされた。その悲鳴が聞こえた」>
「WiLL
7月号別冊
歴史通」(ワック出版
平成二十一年七月)P二百一 》
*
赤十字船を攻撃し、漂流者を救うのではなく攻撃している。
また、傷病兵にガソリンを掛けて焼き殺している。
南京で日本軍が捕虜を処刑して、まだ死なないうちにガソリンをかけて
焼き殺したとか、反日連中は言ってるが、
英軍も生きたまま日本兵を焼き殺している。
同じではないか。
どこに、日本軍を特別扱いする理由がある。
これは メッセージ 1159 (kireigotowadame さん)への返信です.
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12月27日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/30 18:30 投稿番号: [1177 / 2250]
十二月二十七日
《・・・
鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎ込まれてきた。五カ所も銃剣で刺されている。
金陵中学の難民収容所では、およそ二百人の元兵士が選び出されたのだが、
そのうちの一人だという。
この元兵士たちは、射殺されたのではなく、銃剣で突き殺されたのだ。
目下この方法が取られている。さもないと、我々外国人が
機関銃の音に耳をそばだてて、なにかあったのか、とうるさいからだ。
今日、張と韓が、新街口
(ポツダム広場)
に日中合弁商店ができて、
ありとあらゆる食料品が買えると知らせに来た。私は韓といっしょに確かめに行った。
そして − はからずも、この建物に放火する現場を目撃したのだ!
日本軍はこの街を破壊しようというのか!》
*
日中合弁の店を日本軍が何のために放火しなければならないのか?
自分で金を出して、作って、自分で放火?
意味ないだろう。
なぜ、日本軍の放火と決めつける。
韓といっしょに行って、目撃した?
それは、目撃させるために、連れ出されたのでは?
こういう事をするのは、中国人が日本軍と仲良くするのを好まない、
便衣兵のしわざとは、考えないのか。
こういう、攪乱工作をする者がいるから、間違って処刑される市民が出てくる。
すべての責任は便衣を着た潜伏兵にある。
そして、彼らを匿ったラーベ達に。
これは メッセージ 1141 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 中国人大量殺害に関する日本兵の証言(
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/30 07:32 投稿番号: [1176 / 2250]
>南京の
和平門に着いた。
門が閉まっていて
野砲が
>どんどんと撃った。
抵抗がやんだので縄梯子で登った。
縄梯子は上から垂らすものだ。
下から、どうやって掛ける。
この
『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』
は、その証言が真実かどうか
検証せずに、出している。
というか、この松岡環という人、検証する気はないようだ。
その本の中で
「いきなり訪ねて行く方法をとった」「(告白させるために)
心理的なかけひきも必要であった」
と聞き取りについて語っている。
心理的なかけひきと言っているが、それは、引っ掛けてやろうという事だろう。
いかに嘘をついて強姦や殺害を語らせるかに腐心していたか分かる。
ある日のこととして松岡さんは、「今日の調査は南京レイプに関わった元兵士の記録が
二本も取れ、緊張と充実感に満ちていた。こんな日は疲れたと思っても、
心地よい充足感と疲労感が混じりあって、後に引くことはない」
と述べている。
その時聞けた告白が事実かどうか、普通なら、さらに、まわりの兵士から聞き取りをし、
確認を取り、裏を取ることが続けられるけれど、
それらには全く関心が無いことがここからわかる。
ひたすら強姦や殺害の告白を求め、強姦や殺害を語らせれば、
それで聞き取りは終わりなのだ。
その証言がリップサービスという事もありえるのだが。
話しているうちに、この松岡という人がどういう内容の話を求めているか、わかる。
じゃ、うるさいのを追い返すには、彼女の期待する話をしてやればいいということになる。
幸い南京の残虐話は溢れている。
自分の知っている事に、そういうのを加えて、脚色すれば、彼女は喜んで聞いてくれる。
そうやって、出来たものに何の価値もない。
これは メッセージ 1150 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 捕虜大量殺害に関する兵士の陣中日記(
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/29 20:50 投稿番号: [1175 / 2250]
ってこれ、基本的に幕府山のことだよね。
全員、同じ事を言っている。
狩り出された兵隊は数なんか良く解ってないから、
一番最初のニュースの数字を言っているようだな。
この兵隊らは、2万人と思い込んでいるが、
最初に捕虜にしたのが、一万四七七七名。
この中に非戦闘員が混じっていたので、非戦闘員をより分け釈放する。
なぜかって、食わす飯が大変だから。
残り八千人。
十六日午後九時、食事の準備中に火災を起こし、半分逃亡。
四〇〇〇人。
三分の一を処刑
一七日夜、残りを揚子江の対岸の中州に逃がそうとしたら、
中州にいた中国兵が撃ってきて、殺されると思った中国兵が暴れ出し、
結局銃殺という形になった。
「最初から殺すつもりだったろー」
って言いたいのかい。
それだったら、もっと早く殺しているよ。
軍からは、殺せという命令が出ていたのだから。
山田旅団長はこれに逆らって、捕虜に飯を食わせていた。
殺すつもりなら、苦労して、17日まで生かしやしないよ。
これは メッセージ 1156 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて」だって
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/29 20:45 投稿番号: [1174 / 2250]
ブァッハッハッハ!
これが信用できると思っているの。
バッカだねー、
とっくの昔に論破されてるのに。
テレビ朝日の
「ニュースステーション」
で紹介された元兵士は、
彼の生年月日から行くと、11歳で南京攻略戦に参加し、
虐殺しまくり、強姦しまくった事になるんだよ。
それから、あの本には、鉄舟から縄梯子でおりたという、証言もあったな。
鉄舟って鉄製のボートなんだけど、どうやって縄梯子でおりられるの。
そのまま、またいで降りるだけなんだけどね。
まったく、杜撰な証言ばかりだったな。
君ねー、証言者の名前くらい出せよ。
君が出さないなら、私がだしてやる。
『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P271
鬼頭久二(1916年8月生まれ)第16師団歩兵第33連隊
第1大隊
《 南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、
その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、
「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」
ちゅう命令やった。》
いやー、こわいですねー、恐ろしいですねー。
「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」
ちゅう命令
だそうです。
でも、こっちにも、よく似た命令の証言があるんだよねー。
『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P56-57
町田義成(1913年生まれ)第16師団歩兵第33連隊
第3大隊
《 昭和十二年八月松、大召集を受けて、九月に久居を出発し、大阪港から出航しました。
九月、十月、十一月は河北の戦闘で韓家頭や八里荘で初めて戦闘を体験しました。
(略)
韓家頭ではやられたので、部隊本部から
「韓家頭の部落を攻撃する。部落に入ったら、
猫の子でもいいから生きとる者は、男でも女でも全部殺せ」
と命令が出ました。》
イヤー、怖いですねー。
「猫の子でもいいから生きとる者は、男でも女でも全部殺せ」
ですって。そっくりですねー。これも朝香宮さんの命令でしょうねー。
ところで韓家頭ってどこです?
河北?
それって北支と違うの?
それも、九月、十月、十一月?
朝香宮さん、まだ、日本でノンビリしてたはずだけど。
何で、朝香宮さんのいないところで、おんなじ命令があるんだろうね。
似たような命令が、ある時は中島師団長だったり、ある時は松井大将だったり。
まー、松井大将は
「支那人をいたわれ」
という人ですから、
そんな命令は出しませんけど。
松井大将がそういう命令を出したと証言した時点で、その証言はアウト。
これは メッセージ 1146 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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◆世界一厳正だった日本軍の軍紀
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/29 19:50 投稿番号: [1173 / 2250]
フランスの国際法学者フォーシーユは、日本軍を賛えて次のように語っている。「日中戦争で日本軍は、敵が国際法を無視したにも拘らず自らはこれを守り、日本軍人であることに誇りを持っていた。中国兵は卑怯にして残虐極まりない軍隊で、例えば中国軍の捕虜になると、四肢を斬り分けられ、生きながらに火炙(あぶ)りにされたり、磔(はりつけ)にされたりしたのである。更に日本兵の屍に対しても、酸鼻を極めた蛮行を行っている。即ち死者の首を切り落とし面皮を剥ぎとり、或は男根を切り落し、胸部を切り開いて石を詰め込み、首は両耳を穿って紐や針金を通し、さながら魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通して持ち運びする等々、それが中国軍の戦争様式であり、日本軍には絶対に見ることのできない支那の戦争文化である」と。
フランスのフィガロ紙の従軍記者カレスコート・イリュスト、ラシオン紙の記者ラロ、両氏の『日本軍戦闘観戦記』によれば、
「日本軍隊は世界に対して誇るに足る名誉を有する。吾らは日本軍の如き慈愛心の富める軍隊を、この地球上広大なりといえども他に発見し得るか怪しむものなり」
と絶賛し、中国軍の暴虐蛮行については次のように記している。
「ひるがえって中国軍を見よ。日本兵のひとたび彼らの手に落つるや、あらゆる残虐の刑罰をもってこれを苦しむるなり。その残虐非情なる行為は、正に野蛮人にあらざれば為し得ざるものなり。然るに日本軍は、これあるにもかかわらず、暴に報ゆるに徳をもってす。さすがに東洋の君主国に愧じずというべし。」
北清事変(義和団事件)において、当時従軍した日本軍の軍紀が欧米列強の評判となり、賞賛されたことは冒頭に述べたが、その事実の証として次のような事があった。
天津落城の際天津市民は、「大日本順民」と書いて日章旗を掲げて日本軍に感謝の意を表明した。
また北京落城後、列強連合軍は北京市内を国別に分割管理したのであるが、その時ロシア軍管区では、軍紀が乱れてロシア兵が暴徒と化し、虐殺、放火、強姦など暴行の限りを尽し、そのため市民は難を逃れて日本軍管区へ洪水の如くに押し寄せた。たまりかねた北京市長は、その暴状を英国公使マクドナルドに訴え、ロシア管区を日本管区に替えるよう嘆願したという。
これらの事実は、ウッドハウス・映子の『北京燃ゆ』やジョージ・リンチの『文明の戦争』等に記述されている
h
ttp://www.senyu-ren.jp/SEN-YU/00104.HTM
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◆いまだに「ラーべの日記」とは笑わせる③
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/29 19:41 投稿番号: [1172 / 2250]
ラーベは1937年12月17日の日記に、「昨晩、1000人近くの女性、少女が強姦されたと言われている。金陵女子大学の学生だけでも100人が強姦された」と書きました。また金陵女子大の教授ミニー・ヴォートリン女史はその日、「ああ神よ、野獣のような日本兵らの蛮行を止めてください」と書いています。ジェームズ・マッカラム医師も、12月19日の日記にこう書きました。
「これほどの残虐は、聞いたことがなく、読んだこともない。強姦!
強姦!
強姦!
我々の見積もりによれば、一晩に1000人が強姦され、そうしたことが毎日ある。反抗すれば銃剣で刺されるか、撃ち殺されるだろう。…人々はヒステリックになっている。女性たちは毎朝、毎日、毎夜、連れ去られる。日本兵たちは、気のおもむくまま出入りし、好き勝手に行動しているようだ」
しかし、これらの強姦事件は、実際にラーベ、ヴォートリンやマッカラムが自分の目で目撃したことかというと、そうではありません。『言われている』「見積もりによれば」とか「〜しているようだ」と書かれていることからもわかるように、いずれも伝聞なのです。犯人が「日本兵だった」、というのも伝聞です。委員会のメンバーたちが記した強姦事件は、ほとんどが中国人から聞いたものでした。
そしてこれらの日記が記されてから約2週間後、南京で強姦を繰り返していた中国兵らが、日本の憲兵によって逮捕されます。アメリカ人教授たちのもとでかくまわれ、避難民キャンプで2番目の地位を与えられていたこの中国兵らは、強姦を犯しては、「犯人は日本兵だ!」と言いふらしていました。ニューヨーク・タイムズが報じたように、彼らが逮捕され、それを自白したとき、アメリカ人教授らは「心底から当惑した」のです。
また大阪朝日新聞が報じたように、2月になると、「日本語に巧みで・・・日本人を装い・・・通訳の腕章を偽造してこれをつけていた」中国兵らが逮捕されました。彼らも、日本人になりすましては強姦等、暴行を繰り返していました。そして彼らが逮捕されてのち、強姦事件等はほとんど見られなくなりました。
このように、南京の西洋人らが非難した「日本軍の暴行」の多くは、じつは民間人の服を着て隠れていた中国兵によるのしわざだったのです。実際、マッカラムの1938年1月8日の日記にこんな記述があります。マッカラムは、ある中国人避難民が、
「強姦や略奪、放火などは日本兵がやったのではなく、中国兵がやった。それを証明できる」
と言うのを聞いた、と書いているのです。安全区にいた避難民たちの中には、そこで起きていた強姦や、略奪、その他の事件の多くは、じつは中国兵らによる反日撹乱行為であることを知っている者たちもいたわけです。
しかし、詳しい検証もせず、うわさをそのまま信じ込んでいたのが、委員会のメンバーたちでした。彼らはそのために、南京には「日本兵の暴行があふれている」と思い込んでいたのです。これについて竹本忠雄、大原康男・両教授も、こう書いています。
「安全区に設けられた19カ所の難民収容所の責任者は、婦女子ばかり4000名を収容した金陵女子文理学院をミニ・ヴォートリン女史が務めたほかは、すべて中国人であった。当然のことながら、この難民収容所の治安維持は中国人たちが担当したが、その責任者を何と、市民に偽装した中国軍将校が担当しているケースもあった。そして強姦事件の多くは、安全区委員会が設置した『難民収容所』で起こっており、『難民収容所』が解散した1938年2月以降、そうした強姦事件は起こっていない。難民収容所の責任者たちが主張した『日本軍兵士の犯罪』を額面通り受け取ることは、きわめて危険だと言えよう」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
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◆いまだに「ラーべの日記」とは笑わせる②
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/29 19:41 投稿番号: [1171 / 2250]
松井大将の元・私設秘書だった田中正明氏は、このラーベが書いた報告書や日記には数多くの矛盾点があると批判し、こう述べています。
「12月9日、松井軍司令官は休戦を命じ、城内の唐生智軍に『降伏勧告のビラ』を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。その間攻撃を中止して、10日正午まで待機した。…しかるにラーベの12月9日の日記には、『中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区内に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える』。全然「降伏勧告のビラ」も休戦のことも触れておらず、戦闘は続いていたことになっている。…
ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと『局部に竹を突っ込む』などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。…
金陵大学病院医師マッカラム氏は、『(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました』と、東京裁判に提出した日記の中に書いている。…ところがラーベ日記には、安全区内に毎日のように火事と強姦が続いたという“地獄絵”が描かれている。一体どちらが本当なのか?…
ヒトラーがジョン・ラーベの原稿に信をおかず、彼を逆に入獄せしめた理由が、私にはわかるような気がする」(講談社刊『南京の真実』は真実ではない!)
このようにラーベの報告や日記は、内容が非常に偏っており、誤解と偏見と、また、何とか日本の残虐を訴えてドイツと日本の同盟を阻止したいという思惑とが、混ざり合ったものでした。そのためその内容は、軍服を脱ぎ捨てた中国兵たちや、督戦隊に殺された中国兵たち、また安全区に隠れた中国兵らによる犯罪などの事実には一切ふれず、ただ日本軍の暴行だけを書き記すものとなったのです。
実際、日本軍による南京占領の翌月、1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、自分の目で実情を確かめた上で、「ラーベが語る日本軍の暴行事件」について、2月10日付で漢口のドイツ大使館にこう書き送りました。
「ラーベは最近、日本兵による血なまぐさい事件をまたぶり返し、それを阻止すべく、あいかわらず奔走している。だが私の意見では、ドイツ人はそんなことを気にとめるべきではない。なぜなら南京の中国人らが日本人に頼り、仲良くなっていることは、見れば明らかなことだ。第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を開いているだけではないか」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
ラーベは、表向きは暴行事件の被害者の救済などに奔走し、中立を装うなどしていました。それでアイリス・チャン(南京大虐殺に関する本の著者)の本などでは、シンドラーに比すことのできる善人であると、持ち上げられています。
しかしその実をみれば、ラーベは中国人将校たちをかくまって反日攪乱工作を手伝い、また自身の虚偽のリポートを通しても、自分なりの反日攪乱工作を続けていたのです。
こうした人物が南京国際委員会の長だったわけですから、彼の姿勢は委員会の他のメンバーたちにも当然、深く影響していました。委員会の他のメンバーたちが残した日記その他の記録が同様なものとなったのは、そうした成り行きだったのです。
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◆いまだに「ラーべの日記」とは笑わせる①
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/29 19:40 投稿番号: [1170 / 2250]
ジョン・ラーベ。
彼もまた日記などに、日本軍が犯したという残虐や暴行を数多く記しています。それはどの程度信用できるものでしょうか。たとえば彼は、
「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には、私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(1937年12月13日の日記)
と記しています。しかし、先に述べたように中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵でした。彼らは逃走する際に、日本兵、あるいは中国の督戦隊に殺されています。ところが、このラーベの記述は、そうした事情を無視しています。
またラーベは、同じ日に、
「日本兵たちは、市内をめぐり、10〜20人程度のグループに分かれて店々や家々を手当たり次第、略奪してまわった。これは私の両目が目撃したものである」
と記しています。組織的な略奪のように書いているわけですが、竹本忠雄、大原康男・両教授はこう書いています。
「入城した日本軍は、まず宿舎の確保に苦労し、宿舎に充てた建物の設備補充のため、将校の指示のもとに無人となつた建物から家具やフトン等を持ち出した。それらを『徴発』した際には、代償を支払う旨の証明書を添付したが、そうした事情を遠巻きに見ていた外国人や中国人は理解せず、日本軍が組織的に掠奪をしていると誤認した可能性がある」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
この「徴発」とは、戦闘によって疎開した後の人家で、食糧や必要物資の調達を行なうことで、日本軍はそれを行なった場合には、つねに代価を支払ってきました。南京でもそれが行なわれた、ということです。つまりラーベが「日本兵らによる略奪」と思ったのは誤解なのです。
また、ラーベはドイツ人ですが、当時のドイツは、蒋介石率いる中国国民党と結びつきが強く、党に顧問を派遣していました。当時(1937年)はまだ、日独伊三国同盟の締結前であり、ドイツは中国国民党と深い関係にあったのです。ラーベ自身、国民党の顧問でした。
ラーベは、ドイツ・ジーメンス社の南京支局長でもあり、ドイツが国民党に売った高射砲、その他の武器取引で莫大な利益を得ていました。ラーベは武器商人なのです。そのためラーベは、当時、ドイツが国民党との取引をやめて日本に接近することを恐れていました。彼の収入源が断たれるからです。こうしたラーベにとって、日本の悪口だけを言うことはごく自然な成り行きだったのです。
実際、東中野修道教授によれば、ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。
このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。
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◆「南京大虐殺」という史上最大の与太話⑩
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/29 19:25 投稿番号: [1169 / 2250]
南京攻略した日本軍の先兵の記述によると、国民党軍は戦闘を放棄し、南京市内で略奪の限りを尽くす中国兵士たち。
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。
そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです。
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◆「南京大虐殺」という史上最大の与太話⑨
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/29 19:24 投稿番号: [1168 / 2250]
都新聞の小池秋羊記者は、こう述べています。「食糧がなく飢餓状態で、食糧をくれ、とわれわれにすがりつく人もいました。私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れていき、米や副食品などを大八車二台分やりました」
南京の病院で勤務していたアメリカ人、ジェームズ・マッカラム医師は1937年12月29日の日記にこう書いています。「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」(東京裁判
速記録210)
さらに、こう書いています。「12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました」。「日本人の善行を一つ報告しなければならない。とても気持ちのよい日本人が最近病院にやってきた。彼らに患者の食料の不足を告げたところ、きょう、百斤の豆と牛肉を持ってきてくれた。この一ヵ月というもの肉は食べられなかったので、この贈り物は大歓迎だ。他に欲しいものはないかと言ってくれた」(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p263)
また南京戦により、12月13日の南京陥落からしばらくは、南京市街は水道も電気もとまり、夜は真っ暗といった状態でした。しかし翌年1月元旦から南京全市に、電燈がともり、水道がよみがえりました。1938年1月3日付の朝日新聞によると、電気については日本人技術将校以下80名と中国人電工70名の協力、また水道も同様に150名の編成で、不眠不休で取り組んだ結果であるといいます。また1月3日には、多くの南京市民が日の丸と中国の五色旗を振り、市街で「南京自治政府」(リーダーは中国人)の発足を祝っています。
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◆「南京大虐殺」という史上最大の与太話⑧
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/29 19:24 投稿番号: [1167 / 2250]
市民・捕虜と日本兵の交流・温情
南京を占領した日本兵たちの、市民や捕虜に対する態度は実際はどのようなものだったのでしょうか。以下は彼らの証言です。
「敵の大軍は、わが軍のために完全に撃破されました。見れば、幾十となく敵の死体がころがっております。中にはまだ虫の息でうねっておる者さえおります。これを見られた隊長が、『苦しいか、今、薬をやるぞ』と何かやられますと、一兵士は目を開けて、『水、水』と、かすれた声で哀願しました。誰かが水を飲ませてやりますと、両手を合わせ涙をたたえ、『謝、謝』(シェーシェー)と伏し拝みました。……今までにわが中隊では幾十人となく、敵兵を救い、郷里に帰してやりました。その中には中隊のために骨身を惜しまず、弾丸下もものともせず、じつに勇敢によく働いた者もたくさんあります。そして彼らが郷里に送り帰される時は、別れを惜しんで泣いて別れるのでした」(歩兵第47連隊:大分
第2中隊
伍長S・S)(『1937南京攻略戦の真実p.165)
「(南京への途上)露営のとき、私は道路の警戒を命ぜられました。特に監視すべき方向はこの方向と道路上をさすと、指したところに忽然と姑娘が現われて、窈窕(ようちょう)たる姿態が楚々(そそ)として、この方に来るじゃありませんか。誰だって面食らいます。……『日本の兵隊さんね』、流暢な日本語なんです。年の頃27、8、聞いてみると、上海から逃げてきたけれど、皆殺されたり、はぐれたりして、これは支那軍のほうにいると危ないと思い、やってきたという。
『日本語はどこで覚えた』と聞くと、『長崎に4年、活水女学校を卒業して、上海の日本人書店に雇われていた』と言います。……いろいろ調べられるけれども、くさいところは無いらしい。ちょうど中隊に通訳がいなくて何かと不自由していたこととて、通訳代わりに使うことにしましたが、炊事をさせると日本人の味の好みを心得て、乙なところをみせる。所帯慣れしているから、兵隊に程良く愛嬌を振りまく。皆で大切にしたものです。
ときには宵待草(よいまちぐさ)や、荒城の月を聞かせてくれました。毎日の行軍も宿営も楽しみでした。……しかし、南京へ南京への猛追撃に、我々に伍して行けるはずがない。中隊長殿が見かねて上海の方へ帰されたが、その日の行軍のけだるいこと、道の遠いこと、足の重いこと、皆考え込んでしまっていました。
『おい、きついなあ』『うん』。返事も上っすべり。誰かが思い出し風に、『変なこと言いっこなしよ、皆兄弟じゃないか』と彼女の口真似をすれば、とたんに爆笑がわいたものです」(歩兵第13連隊:熊本
第11中隊
歩兵曹長K・S)(同p.190-192)
「私が洗面していると、前にきて頭をぴょこんと下げ、『兵隊さん、おやよう』とはっきりした日本語で、支那人から挨拶されました。不審に思ってよく聞くと、『大阪に18年間いました』という。……(彼の相談に乗ってあげると)彼は一時間ばかりして喜んで戻ってきました。そして言うことには、『家族も安心しました。長男が27歳になっていますが、長男も日本語が上手に話せます。皆の者に「日本軍が来たからもう安心しておれ」と、言ってきました』と、いかにも落ち着いたものです。齢は50歳くらいでしたが、達者な男で、南京攻撃、安慶上陸から漢口攻略まで、1年3ヶ月の間、日本軍のため忠実につとめ、大きな功績を残して行きました」(第2野戦病院
T・Y)(同)
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◆「南京大虐殺」という史上最大の与太話⑦
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/29 19:23 投稿番号: [1166 / 2250]
日本兵による悪事の証言の信憑性
ところで、日本兵たちの犯した犯罪について、虐殺肯定派がしばしば引用するのが、松岡 環著『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』です。この本には、日本兵が中国で犯してきたという数々の非道な行ないが、102名の元・兵士の証言の形で書かれています。しかしこの本に関し、亜細亜大学の東中野修道教授はこう批判しています。
「百二名の兵士はみな『匿名』『仮名』なのである。……誰が証言内容に責任を持つのか。証言内容が真実かどうか第三者的に検証できないようでは、客観的報道、客観的記録とは言いがたい。……百歩譲って『証言』が事実だとしても、彼らの多くは憲兵の目を逃れて軍紀違反の違法行為を繰り返しながら処罰を免れてきた悪運強き戦争犯罪人でしかなかったことを明らかにしただけなのである」(『諸君』平成十四年十一月号)。
また歩兵第33連隊第5中隊の第1小隊長だった市川治平氏は、この本をこう評しています。
「本当にばかばかしい本です。私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気な2人の戦友に尋ねたら、2人にも来なかったと言っています。まともな話をする人には行かないようです。確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦などの話は、創作8割、本当2割でしょう」(「正論」平成14(2002)年11月号
阿羅健一著「南京戦・元兵士102人の証言」のデタラメさ)
また、アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』にも引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約10日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べています(『アサヒ芸能』昭和四十六年一月二十八日号)。ところが、竹本忠雄教授(筑波大学)、大原康男教授(国学院大学)によれば、彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には南京から転進していて、この人物が10日間も南京に残留したはずがありません。実際彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定しています。
また曽根一夫という人物は「手記」を出版し、そのなかで南京戦と南京陥落後の虐殺事件の実行と、目撃談を書いている(『続・私記南京虐殺』など)。しかし、この人物は手記のなかで自らを歩兵の分隊長と称しているが、実際は砲兵の初年兵でした。また、入城式には彼の属する部隊の一部が参加しただけで、部隊そのものは南京城内に入ってもいません。従って、彼が書いているような虐殺を南京やその近郊で見ることも実行することも不可能であったのです。南京戦中、行動をともにした戦友もそうした虐殺行為を目撃・実行することはあり得ないと証言しています。つまり、曽根の「手記」そのものがまったくの創作だったのです。
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◆「南京大虐殺」という史上最大の与太話⑥
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/29 19:22 投稿番号: [1165 / 2250]
虐殺はなかったとする証言
当時の南京を実際に知る多くの人々は、南京で「虐殺はなかった」と証言しています。
たとえば、南京の日本大使館で働いていた外交官補の福田篤泰(ふくだ・とくやす)氏は、日本軍による南京占領の当時を振り返って、こう語っています。「日本軍に悪いところがあったことも事実である。しかし20万、30万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。……いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である」(田中正明『南京虐殺の虚構』35-37頁)
日本軍と共に南京に入った東京日日新聞の金沢喜雄カメラマンは、こう語っています。「私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たことがなければ、兵隊から聞いたこともありません。虐殺があったなんて、あり得ないことです。死体はたくさん見ています。敗残兵がたくさんいましたし、戦争だから撃ち殺したり、殺して川に流したことはあるでしょう。しかしそれは、南京へ行く途中、クリークで何度も見ている死体と同じですよ」(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』p.42)
東京日日新聞の佐藤振寿カメラマンも、こう語っています。「虐殺は見ていません。12月16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。また多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集ってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません」(同p.53)
福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者には、お嬢さんが一人おり、南京には家族で赴任していたので、お嬢さんは1年生から5年生まで南京の日本人小学校に通っていました。彼女に南京大虐殺のことを来てみると、こういう答えでした。「そんな話は全然聞いたことがありません。あちらでは近所の支那人の子供ともよく遊びましたが、彼らからもそのような噂すら聞きませんでした」(同p.138-141)
歩兵第13連隊(熊本)第4中隊のU中尉はこう語っています。「抗州湾上陸以来、私は(中国の)女たちが、墨や油や泥を顔や手足に塗り、ことさらに臭気を放つようなボロをまとって、わが軍の入城を迎えるのを知っております。彼女らは、なるべく醜悪に見えるように努めていました。……日本の兵隊は支那の軍閥の兵隊とは全然素質が違うのだ、ということが了解できると、それから徐々に生地を出し始める。黒い顔が白くなり、汚い服がきれいな服に変わるのであります。南京の難民地区でも、私はやはりそうした女の移り変わる姿を見ることができました」(東中野修道『1937南京攻略戦の真実』p.124)
南京攻略戦に参加した野砲兵第22連隊長・三国直福大佐は、こう証言しています。「昭和13年8月にまた南京に戻ってきました。この時も虐殺があったという話は聞いていません。もう日本人の商人もたくさん来ていました。南京の街は朗らかでした。町の人とも親しく話しましたが、その時も、中国人からそんな話(虐殺)を聞いた記憶はありませんでした」
第十軍参謀・谷田勇(たにだ・いさむ)大佐は、こう証言しています。「(昭和13年11月以降、私が担当していた課は、支那復興のため)南京での経済指導を行なうので、寸暇もないほど多忙であった。したがって課長以下、日中官民と接触して、これを理解し、かつ中支那の風物に親炙(しんしゃ)する機会がはななだ多くなっていった。この時、中国官民と親交を重ねたが、たとえ酒食の席においても南京虐殺に関する話を聞くことはなかった」
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◆「南京大虐殺」という史上最大の与太話⑤
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/29 19:07 投稿番号: [1164 / 2250]
世界一厳正だった 日本軍の軍紀
日本軍の軍紀に就いては、北清事変(義和団事件)当時にも欧米列強から賞賛され、各国軍隊の模範とされたことがあるが、かつて我々が中国戦線を征ったとき、その先々で中国民衆から熱烈歓迎を受けたのも、それは故なきことではない。
そんなことを知ってか知らずか、いわゆる戦後の進歩的文化人と称する売国奴どもは、日本軍の残虐行為なるものを捏造して、繰り返し繰り返し己の母国を罵倒しつづけているが、外国人(台湾)の評論家黄文雄氏は、次のように正鵠を射た卓見を述べている。
黄文雄氏の言によれば、事実は全く正反対で、日本軍はいつでもどこでも軍律厳しく、しかも人間性豊かであった。それに対して中国軍は残忍極まりない武装集団で、今なお彼らは自国民に対する飽くなき収奪と虐殺を繰り返している。それは中国四千年の動乱の歴史の連続であり、伝統ともいうべき不幸な現実である。
日本軍は日清戦争(1904〜1905)以来大東亜戦争(1941〜1945)に至るまで、変わることなく軍紀厳正であった。中国民衆にとって、いつ襲って来るかわからない自国の暴徒の如き武装集団に比べ、軍紀厳正な日本軍を信じ熱烈歓迎するのは当然のことで、決して日本軍に阿(おも)ねたり恐れてのことではなかったのである。
フランスの国際法学者フォーシーユは、日本軍を賛えて次のように語っている。「日中戦争で日本軍は、敵が国際法を無視したにも拘らず自らはこれを守り、日本軍人であることに誇りを持っていた。中国兵は卑怯にして残虐極まりない軍隊で、例えば中国軍の捕虜になると、四肢を斬り分けられ、生きながらに火炙(あぶ)りにされたり、磔(はりつけ)にされたりしたのである。更に日本兵の屍に対しても、酸鼻を極めた蛮行を行っている。即ち死者の首を切り落とし面皮を剥ぎとり、或は男根を切り落し、胸部を切り開いて石を詰め込み、首は両耳を穿って紐や針金を通し、さながら魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通して持ち運びする等々、それが中国軍の戦争様式であり、日本軍には絶対に見ることのできない支那の戦争文化である」と。
フランスのフィガロ紙の従軍記者カレスコート・イリュスト、ラシオン紙の記者ラロ、両氏の『日本軍戦闘観戦記』によれば、
「日本軍隊は世界に対して誇るに足る名誉を有する。吾らは日本軍の如き慈愛心の富める軍隊を、この地球上広大なりといえども他に発見し得るか怪しむものなり」
と絶賛し、中国軍の暴虐蛮行については次のように記している。
「ひるがえって中国軍を見よ。日本兵のひとたび彼らの手に落つるや、あらゆる残虐の刑罰をもってこれを苦しむるなり。その残虐非情なる行為は、正に野蛮人にあらざれば為し得ざるものなり。然るに日本軍は、これあるにもかかわらず、暴に報ゆるに徳をもってす。さすがに東洋の君主国に愧じずというべし。」
北清事変(義和団事件)において、当時従軍した日本軍の軍紀が欧米列強の評判となり、賞賛されたことは冒頭に述べたが、その事実の証として次のような事があった。
天津落城の際天津市民は、「大日本順民」と書いて日章旗を掲げて日本軍に感謝の意を表明した。
また北京落城後、列強連合軍は北京市内を国別に分割管理したのであるが、その時ロシア軍管区では、軍紀が乱れてロシア兵が暴徒と化し、虐殺、放火、強姦など暴行の限りを尽し、そのため市民は難を逃れて日本軍管区へ洪水の如くに押し寄せた。たまりかねた北京市長は、その暴状を英国公使マクドナルドに訴え、ロシア管区を日本管区に替えるよう嘆願したという。
これらの事実は、ウッドハウス・映子の『北京燃ゆ』やジョージ・リンチの『文明の戦争』等に記述されている。およそ戦争の形態とか様式などというものは、その国々の文化様式でもある。武士道社会の伝統を受け継いだ日本軍は、近代戦の戦場に於ても武士道精神を発揮し、軍律厳しく整然と戦ったのである。
そして日本政府は、在日中国人に対しては戦時中と雖も国際法を守り、彼らの生命財産を守ったのであるが、在中国の日本人居留民は、日中間に紛争が起こるたびに虐殺、掠奪、暴行を受けつづけたことは、日清戦争以来枚挙にいとまがない事実である。
さて、これらの事例は、外国人の見聞記であるところに大きな意味と価値がある。日本人の自画自賛では決してないのである。日清戦争から大東亜戦争に至る聖なる戦いを、日本人でありながら臆面もなく、総て侵略戦争なりと言い切る「似て非なる日本人」よ、もって如何となすや。
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◆「南京大虐殺」という史上最大の与太話④
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/29 19:07 投稿番号: [1163 / 2250]
南京攻略した日本軍の先兵の記述によると、国民党軍は戦闘を放棄し、南京市内で略奪の限りを尽くす中国兵士たち。
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。南京攻略した日本軍の先兵の記述によると、国民党軍は戦闘を放棄し、南京市内で略奪の限りを尽くす中国兵士たち。
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。
そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです
そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです。
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◆「南京大虐殺」という史上最大の与太話③
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/29 19:06 投稿番号: [1162 / 2250]
●反日赤旗記者の捏造本
「隠された連隊史」という本を、共産党「赤旗」の下里正樹という記者が書いております。
これには私の属しました福知山歩兵第20連隊のことが書かれています。
大体、共産党の機関紙の記者が書いたものですから、内容は読まずとも知れたものですが、私の連隊のことを書いているものですから読んでみますと、よくもまぁこれだけ大ウソを書けたものだと思うくらいのものです。
イ、「歩兵第20連隊では兵士が上官の指揮を批判し、命令に反抗し、将校はひたすら兵に迎合して兵の非行も黙認し、部隊内には下克上の空気蔓延し、将校の権威も指導力も全く零であった」
私は第20連隊の中隊長として、兵士の機嫌を取らねばならない等と、思った事さえ1度もありません。
常に部下の兵士と共に、お互いが信頼しあって戦ってきたのです。
その結果もう半世紀も経った今もなお、当時の戦友会が毎年開かれているのです。
来月の7日にも、私の中隊の戦友会が京都府の綾部で行われますが、例年のごとく、「隊長殿、是非出席して下さい」と招待されております。
将校が兵士の機嫌を取らねばならなかった軍隊で、そんなことが続けられるのでしょうか?
また私が十数年前に大病で下関で入院したことがありますが、当時の部下の多くは京都府に住んでいるのですが誰かれ言うとも無く、
「隊長殿がひどい病気だ」
ということで、知らぬ間に多額の見舞い金を送ってくれました。
私はベッドで感激の涙にむせんだ事でした。
将校と下士官・兵の心が離れていたならば、こんなことはあり得ないと思います。
これは私の場合だけではなく、中隊長と中隊の兵士の気持ちがしっかりと結ばれていなければ、激戦を戦い抜くということは出来ないのです。
ロ、「日露戦争の際、歩兵第28連隊(北海道旭川)の兵2千人が捕虜になり、戦後恥ずかしくて日本には帰らず、ハワイに移住した者もある」
これもまた、ものを知らずに書いたにしてもあまりにひどいじゃないか、というものです。
1個連隊は約3千人ですが、そのうち2千人が捕虜になったなどということはあり得ないことです。
私に言わせれば、下里正樹は「私はウソを書いております」と、自分で白状しているようなものであります。
「天に向かってツバをする」とはこの事でしょう。
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