侵略国日本は国際社会の前科者
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本多勝一「中国の旅」のニセモノの写真
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/24 04:56 投稿番号: [8173 / 8458]
本多勝一は彼の著著「中国の旅」で以下の通州事件の虐殺写真を載せて南京大虐殺を日本軍がやったと説いてまわった。
この本は当時ベストセラーになり日本中に衝撃を与えた。前年には既に朝日新聞でこの連載記事を載せている。
以下は、中国人が日本人に対して行なった虐殺である。
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は十四、五歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に箒を押し込んである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引き廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの塵箱の中やら塀の陰から出て来た」(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』昭和三十八年・中巻30ページ)
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満州国の正当性のつづき3
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/22 11:42 投稿番号: [8172 / 8458]
ときは流れて1937(昭和12)年7月7日、盧溝橋事件により、結果的に「日中戦争」に突入する。在留邦人や在留公館が襲撃された義和団事件のあと、大陸には日英米仏独伊西墺(オーストリア・ハンガリー帝国)の8ヶ国が、北支地区には日英米仏伊の5ヶ国が駐留していた(北京議定書)。その北支地区・盧溝橋にいた日本軍が7日午後10時40分ごろ、何者かに攻撃を受けたのである。
だが、対米戦を見越していた日本は、和平の途を模索する。戦闘開始から5日後の12日には、停戦を約束する松井・秦徳純(しんとくじゅん)協定が一旦は締約されるも、蒋介石は戦線拡大を見込んで軍備を増強、25日には廊坊(ろうぼう)事件、26日には広安門事件、29日には通州事件を引き起こし、協定は幾度も反故にされた。それでも、新たな停戦協定を結ぶべく、8月9日から船津和平工作を試みるが、大山中尉殺害事件が発生、第二次上海事変に突入する。沈静化を願う日本をよそに、中国側のこうした反逆があったのだ。
以後、中国大陸に日本軍が群がるわけだが、これは戦線拡大というやむをえない事情によるものだ。仏印進駐へと至った要因が援蒋ルートの遮断、つまり米英が中立義務を果たさなかったことに対する報復であることは誰もが認めるところである。そして、このいずれも協定が結ばれての駐留であった。
1945(昭和20)年8月15日、わが国は敗戦を迎えた。大陸では、国共内戦を経た1949(昭和24)年、中国共産党による一党独裁国家が成立。「漁夫の利」といったところだろうか。わからないことはまだまだ多いが、巷の書物を読めば、習った「歴史」とはずいぶん異なる歴史に出会える。これは「改竄」でも「妄想」でもなければ、「修正」でもない。真実を知るための弛まぬ営為である。
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満州国の正当性のつづき2
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/22 11:40 投稿番号: [8171 / 8458]
満州は地政学的に優位なだけではなく、それ自体が価値を持つようになった。日本が価値ある土地に育てたということである。そして、満州の権益を得るに至った日清、日露戦についても、日本の立場を肯定している。
1894年ないし95年の日清戦争は、その後の事件が立証したように、ロシア自身の利益のために、干渉する機会を与えた。(同報告書第23項〈a〉〈2〉)
この戦争はロシアの侵害の脅威にたいして、自衛のため生死を賭して戦ったものである。(同報告書第29項〈b〉〈2〉)
リットン報告書には疑問なところもあるが、このように納得できるところもあるのである。左派が「世界が日本の侵略を認めた文献」の一言で片づけてしまうのは、あまりに乱暴でもったいない。むしろ、「見られては困る何か」を勘繰りたくもなるものである。その最たるメディアの朝日、毎日両紙の当時の報道をご覧に入れよう。
禍の基は理も非も無く、何ものをも倒さずんばやまないとする支那側の憎上慢であって、今日まで事なきを得たのは、日本の辛抱強い我慢の為であった。中村大尉事件は積薪に油を注いだもの、満鉄線路の破壊は積薪に火を放ったもの、日本の堪忍袋の緒が見事に切れた。真に憤るものは強い。わが正義の一撃に早くも奉天城の占領は伝ふ。日本軍の強くて正しいことを徹底的に知らしめよ。そして一日も早く現場を収拾して事件を解決せよ。(1931年9月20日〈夕刊〉付東京朝日新聞「今日の問題」より)
いひ換ればわが国民の忍耐は、今回の事件によってその限度を越えたのである。ここにおいて国民の要求するところは、ただわが政府当局が強硬以て時局に当たる以外にはない。われ等は重ねて政府のあくまで強硬ならんことを切望するものである。(1931年10月1日付東京日日新聞「社説」より)
柳条湖事件とは、万宝山事件、中村大尉事件(いずれも1931年)といった「無秩序な状態、内乱の危険、匪賊および共産主義の脅威などのために他のいずれの強国よりもいっそうひどく悩まされた」日本の「堪忍袋の緒が見事に切れた」と両紙は説く。無論、このほかの新聞社とて同じであった。
満州の政治的安定は、極東の平和を維持する絶対の条件である。而して満州国の独立と其の健全なる発達とは、同地域を安定せしむる唯一の途である。東洋平和の保全を自己の崇高なる使命と信じ、且つそこに最大の利害を有する日本が、国民を挙げて満州国を支援するの決意をなしたことは、まことに理の当然といわねばならない。いな、ひとり日本のみならず、真に世界の平和を希求する文明諸国は、ひとしく満州国を承認し、且つ其成長に協力するの義務ありというも過言ではないのである。
(中略)
苟くも満州国の厳然たる存立を危うするが如き解決案は、たとひ如何なる事情、如何なる背景に於いて提起さるゝを問わず、断じて受諾すべきものに非ざることを、日本言論機関の名に於いて茲に明確に声明するものである。
昭和七年十二月十九日
日本電報通信社
報知新聞社
東京日日新聞社
東京朝日新聞社
中外商業新報社
大阪毎日新聞社
大阪朝日新聞社
読売新聞社
国民新聞社
都新聞社
時事新報社
新聞連合社
他百廿社(イロハ順)(1931年12月19日付東京朝日新聞「共同宣言」より)
ついで日本が主導した満州国の建国については、世界のコモンセンス(常識)と合致している。軍事制圧した地域の安定を図るため、そこに新政府を作る手法は、過去に○○でみられたほか、近年はアフガニスタン空爆やイラク戦争においてもなされた。当時はもちろん、いまだに通じる価値観なのである。まして満州事変が不安定に端を発したものであるならなおさらである。
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満州国の正当性
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/22 11:31 投稿番号: [8170 / 8458]
去りし日に決せられた歴史認識は、近年になって公開された文書や資料により、その多くを改めるよう請われている。ソ連崩壊によりて、これだけの動揺をもたらしえたからして、当時の交戦国・中国の民主化、とりわけ共産党の解体によって再度、光を向けられるであろう歴史を凝視せずにはいられない。
中国では、5月9日を「国恥記念日」と呼ぶ。1915(大正4)年5月9日にいわゆる「対華21ヶ条要求」を受諾したからである。この要求が平時に発せられたものなら、肯定するつもりはさらさらないが、「希望」であった5号条項を除けば、当時の列強が中華民国と結んだそれと相違ない。しかも、のちに5号は削除されている。また、交渉期間は4ヶ月、回数としても25回を数える。現・中華人民共和国のように、いかなる国もそれを侵す意思がないにもかかわらず、この要求を突きつけ、結果として進駐したなら問題だが、当時の日本にとっては、やるかやられるか――日本がとどまれば、明日の中国は日本だったのである。このような状況を差し置いて謝り続ける日本に対し、その他列強が謝罪したなど聞いたことがない。みなが咎(とが)められるならまだしも逼迫のもとにあった日本だけが批判される謂れはないはずだ。負けたが最後はやはりおかしい。
1931(昭和6)年9月、柳条湖事件が発生。これはほぼ間違いなく日本軍による犯行と断定されているが、1922(大正12)年のワシントン会議において締結された「九ヶ国条約」等国際法を誠実に遵守する日本をいいことに、中国側、あるいはそのパルチザンらが日本に対して度重なる挑発行為を働いていたことを忘れてはならない。少なくとも、リットン報告書からはそう読み取れる。
日本は中国の最も近い隣国であって、かつ最大の取引先である以上は、日本は交通機関の不備にもとづく無秩序な状態、内乱の危険、匪賊および共産主義の脅威などのために他のいずれの強国よりもいっそうひどく悩まされたのである。日本は他のいずれの強国よりも、国民を中国にもっている現状において、中国の法律、司法制度ならびに税制に服従させられたならば、それらの国民は、はなはだしく苦しむこととなる。(同報告書第19項)
中国にある日本国民の生命および財産を保護しようとする熱望は、日本をして内乱または地方的騒乱の際、しばしばこれに干渉させる結果になった。(同報告書第20項〈b〉〈1〉)
また、リットン報告書はそれ以前の満州開発についても、日本の活躍を認めている。
広大かつ肥沃な地方である満洲は、わずかに四十年前までほとんど開発されず、また現在においてさえ人口稀薄である。(同報告書第22項〈a〉)
日本の活動がなければ、満洲は多くの人口を誘致し、またこれを吸収することはできなかったであろう。(同報告書第20項〈b〉〈2〉)
最初、満洲が各種政策の衝突地域となったのは、その戦略的地位が唯一の理由であった。だが、その後日本人によって満洲の農業、鉱業および林産資源が開発されると満洲は満洲自体のために垂涎されるに至った。(同報告書第20項〈c〉)
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/21 14:09 投稿番号: [8169 / 8458]
人類は原子力と言うパンドラの箱を開け、
プルトニウムを始めとする地球上には存在しない元素、
即ち、地球上には存在してはいけない元素を作り出してしまった。
この事に地球の神々はお怒りになられ、
過去のスリーマイル島、チェルノブイリ、そして今回の福島第一の事故と、
人類に警告と怒りを示して来た。
今回の事件を教訓に人類は核分裂発電所をやめなければ、
次はこれまでの三度の原発事故、原発災害とは比較にならない、
未曾有の原発事故、原発災害を招く事になる。
日本は、すぐに核分裂発電を廃止し、
そして火力発電に移行しなければならないだろう。
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ゴロツキ中国と中国人に言われたないよね
投稿者: koumei041 投稿日時: 2011/03/21 08:44 投稿番号: [8168 / 8458]
凄いね、ここは
中国人が立ち上げたのかな?
まあ日本は言論も行動も自由だからね
中国で言論が封じられている分、せいぜい発散するといい
でないと、中国国内で水素爆発するかもしれない
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/20 11:32 投稿番号: [8167 / 8458]
中国政府は東日本大震災後も自国の原発の安全性を強調、大増設の計画を継続する方針だったが、国民の間に広がる不安に対応を迫られた模様だ。
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反日左翼も戦争を仕掛けた・つづき3
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/19 21:42 投稿番号: [8166 / 8458]
対米英開戦という日本の政策が決定した後の1941年10月15日、ソ連のスパイ・情報工作グループ「尾崎・ゾルゲグループ」が一斉逮捕された。近衛首相は慌てて別の嘘理由を作って翌日辞表を提出し、統制派のリーダーの東条英機陸相に首相職を譲った。反米英の極左の革新派で対米英戦強硬派の東条は、近衛が敷いた路線を突き進んでいったのであった。
日本共産化プランが成功しなかった理由は、次であろう。まず、尾崎秀実グループが摘発され、近衛文麿も首相の座を去ることを余儀なくされて、国家権力を行使できる日本共産化革命の秘密指導部がなくなったことである。そしてまた、米軍の急北上と、昭和天皇の御聖断によって、ソ連軍の対日侵略と日本本土上陸の前に終戦になり、米英軍が保障占領のために日本本土に上陸したからである。
戦前の昭和時代の日本は、共産主義を摂取して成立した、主勢力である「右の左翼」の革新勢力=天皇制社会主義勢力(ファシズム勢力)と、「左の左翼」の共産主義グループによって、政府と軍部とマスコミが乗っ取られてしまっていた。当時の日本は、左翼革命国家、反日国家になっていた。だからこそ、軍国主義になり、亡国に至る大東亜戦争を実行していくことになったのだ。
しかし私たちは、次のことを忘れてはならない。日本には少数派ではあるが、日本国と法・明治憲法に忠誠を尽す保守主義勢力(真正な自由主義勢力)がいて、最後までこれら革命勢力に抵抗していったのである。昭和天皇と鈴木貫太郎首相ら一部の重臣、そして一部の政治家や資本家や有識者たちである。何よりも昭和天皇の御存在と明治憲法の存在が大きい。そのために日本は、準・全体主義体制で留まることができた。終戦することができたのも同様である。
謀略を行なった戦前の共産主義者たちは戦後、日共や社会党左派に入党していったから、両党の幹部は歴史の真実を知っている。だが彼らは決してそれを明らかにすることはなく、歴史を偽造した。戦前の体制と大東亜戦争に反対した天皇をはじめとする保守主義勢力をも、侵略戦争実行の犯人にデッチ上げ、自分たちは侵略戦争に一貫して反対してきたと歴史の偽造をなしてきたのである。一方の戦前の革新勢力も、反米英、反ソ・反共以外の自らの思想を隠蔽し、かつ責任回避のために、また自己正当化のために「自存自衛の戦い」論を流布してきたのであった。
私たちは日本国民自身の手で、国民に310万人もの犠牲を強いた狂愚の大東亜戦争の開戦責任を明確にして裁いていかなくてはならなかった。しかし日本国民はこの最重要の政治課題を放棄してきたのであった。そのため、国民は思想的・政治的に強くなれず、国民全体に法の支配の思想が全く獲得されず、政府や議会が法を否定した政治をしても許してしまう「お上に弱い国民」から脱却することができないできた。国民の愛国心も国防心も希薄化していった。だから、国防の責務や国の名誉を守り高める責務などの国益と国民の利益を守る責務を実行し得る政治家や官僚は極めて少なく、私益や党益や省庁益に汲汲とする政治家と官僚が余りに多く、それが国民にも許され続けることになってきたのである。また、左翼も「右翼」も跋扈し、中共からは「歴史認識問題」等で不当に糾弾され続けることになっているのである。
日中戦争は、現在、日本の脅威になっている中共を救出し、中共が支配する中国を誕生させるための戦争であった。スターリン、毛沢東、日本の共産主義者が共同して謀略をなしていったのである。だから1960年代に、佐々木更三を団長とした日本社会党が訪中した際、佐々木が「日本は戦争により中国に多大な迷惑をおかけしました」と謝ると、毛沢東は「なにも謝ることはない。日本軍は我々に大きな利益をもたらした。日本軍のおかげで中国共産党は中国を手に入れることができた」と答えたのだ。
前述の如く、日中戦争は中国を共産化するための戦争であったから、中共政府に批判される理由は一片たりともない。いわゆるA級戦犯は、中共からすれば中国共産化の功労者なのである。中共は、全部理解した上で、真実の歴史を知らない日本政府と国民を屈服させるために攻撃を続けているのである。思想戦で絶対に負けてはならないのだ。
私たちが大東亜戦争を反省する、裁くということは、この戦争を推進した共産主義勢力と革新勢力、その流れをくむ今日の「右翼」を批判し、解体していくということである。また、この戦争が誕生させた共産中国を解体していくということだ。中共は中国国民を8800万人も殺害している独裁政党である。
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反日左翼も戦争を仕掛けた・つづき2
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/19 21:28 投稿番号: [8165 / 8458]
ただし、大東亜戦争(1937年〜45年)を主導した勢力は、スターリンの秘密指令を受けた正体を偽装した共産主義者グループであった。近衛文麿首相やゾルゲ・尾崎秀実グループ等である。彼らは主勢力の革新勢力に正体を偽装して、政府や軍部やマスコミの中枢に潜入し、革新勢力の戦略目標を利用しつつ、自らの戦略目標を実現するべく政治謀略活動に全力を挙げていったのであった。
獄中の共産主義者も1933年、「天皇制社会主義」に偽装転向して次々と釈放を勝ち取って(天皇制打倒はやめたと言えば、資本主義を否定していても釈放された。体制の思想が革新思想であったからだ。治安維持法は全く機能していなかった)、近衛首相のブレーン集団や企画院や陸軍省軍務局や参謀本部あるいはマスコミ等に採用されていった。そして謀略の戦いを精力的に展開していったのである。この正体を隠した共産主義グループが戦前の政府と軍部とマスコミを乗っ取ったもうひとつの革命勢力であった。
スターリンの秘密指令を受けた身分を偽造した共産主義者は、近衛文麿首相を筆頭に、祖国ソ連の防衛、中国共産党の救出と中国の共産化、アジアからの米英仏蘭の自由主義国の追放と共産化(ソ連圏の拡大)、日本の敗戦と敗戦革命による日本の共産化という戦略目標を実現するために、政治謀略を実行し、大東亜戦争を主導(近衛首相による)していったのである。歴史が示すとうり、日本の共産主義国化を除き他の目標は実現された。
日本を支配する革新勢力が反米英仏蘭であり、英米系の蒋介石国民政府に敵対していたから、近衛たちはそれを利用したのである。
日中戦争は、スターリンと中共(毛沢東)と日本の共産主義者の共同の謀略戦争でもあった。日中戦争を勃発させ、和平はつぶして長期戦に持ちこむ。近衛首相の「蒋介石国民政府を相手にせず」声明(1938年1月16日)もこれである。日中戦争によって、壊滅寸前状態にあった中共を救出し、日本軍と蒋介石国民政府軍に長期戦を戦わせることで、中共が漁夫の利を得られるようにした。中共軍は前線で日本軍と戦うことはせず、勢力・軍事力を温存し、国民政府軍が日本軍に敗北し退却した地域を中共の支配地域にして勢力を拡大していったのである。
日中戦争の勃発と長期戦化は、日本軍の北進を阻むことになり、ソ連の防衛になる。日中戦争の長期戦化は、日本と蒋介石国民政府を支援する米英との対立を激化させ、戦争へ発展させていくことを可能にする。ソ連やその指令に従う共産主義者から見れば、敵国同士を戦争させることはソ連と共産主義勢力にとって大きな利益になるのだ。なぜならば、ソ連の敵国同士が戦争すれば、双方ともソ連を侵攻できなくなり、ソ連の防衛に益するし、敗北した国では共産革命が勃発する可能性が高くなるからである。
ソ連と共産主義者にとっては、太平洋戦争は日本を敗戦に追いやり、敗戦革命で日本を共産主義国化するための謀略戦争であった。敗戦革命とは、第一次大戦でドイツに破れることになるロシアにおいて、1917年のロシアが勃発していったことを根拠にしたレーニンの革命論である。1928年のコミンテルン第六回大会決議は、共産主義者にとっては戦争反対運動は誤りであり、帝国主義国同士の対立を深化させて戦争に発展させ、敗戦革命で共産主義政権を樹立することが正しい戦略だと謳っている。日本の共産主義者はこれを知っている。共産主義者が大東亜戦争に反対したというのは真っ赤な嘘であり、歴史の偽造である。
近衛首相らは、敗戦革命で日本を共産主義国化するべく、「対英米戦争準備を整え、南方の進出態勢を強化す。対英米戦を辞せず」との国策要綱(南進政策) を1941年7月2日の御前会議で決定するなど、日米英戦争に向けて最大限の努力を払っていったのであった。もし日本軍が要衝の地であるインドシナ半島南部(サイゴン)へ進駐(同年7月28日)しなければ、米国の石油禁輸制裁(8月1日)もなく、日米英開戦へ至らなかった。
この御前会議の決定は、6月22日に日本の同盟国ドイツがソ連に侵攻した直後のことであった。近衛首相ら共産主義者と日本国海軍は、日本の北進(日独によるソ連挟撃)を阻止するために、急遽、南進政策を決定していったのである。中川八洋教授は次のように主張している。「『日本をしてソ連との戦争をさせないために、英米との戦争をする』親ソ・共産主義者グループと、『英米との戦争をしたいがためにソ連との戦争をさせない』海軍とが暗黙に結合して、日本政府の最終的な意思となったのである」(中川教授『近衛文麿とルーズベェルト―大東亜戦争の真実―』63頁。PHP研究所1995年8月刊。改題『大東亜戦争の「開戦責任」−近衛文麿と山本五十六―』立弓社2000年12月刊)。この決定は、ソ連防衛のためでもあった。
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反日左翼も戦争を仕掛けた
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/19 21:20 投稿番号: [8164 / 8458]
いつも「戦争放棄」と言っているあなたも戦争を仕掛けた。
今日の「右翼」は、戦前の昭和時代の政府と軍部とマスコミを乗っ取った革新勢力を支持し、大東亜戦争(日中戦争と太平洋戦争)を支持する。この革新勢力は戦前、「反自由主義、反議会制民主主義、反・正しき個人主義、反・資本主義、反米英、反ソ・反共」を掲げて、「国家革新」「国家改造」を主張し、上からの革命を実行していった。彼らは当時も今日も右翼と見られているが、彼ら自身が「革新派」を自称したように左翼であり、極左であった。彼らは、「皇国」「日本主義」「天皇親政」を連発して民族派を装ったが、法と明治憲法を否定し、「天皇主権」を唱えて明治憲法の天皇制(立憲君主制)を否定した。彼らは、法が支配する立憲君主国・自由主義国の日本を否定した反日勢力であった。
軍部内の彼らは「統制派」と言われた。リーダーの陸軍省軍務課長の永田鉄山が1931年に書いた「皇政維新法案大綱」は、天皇主権によって、一切の政党を禁止し、既成言論機関を閉止し、全国に戒厳令を布告し、憲法を停止し、両院を解散し、資本の私有を禁止し無償で国有とする、という内容であり(竹山道雄『昭和の精神史』83頁。講談社学術文庫1998年第10刷)、共産主義とほとんど同じ革命思想であった。
革新勢力が「反ソ・反共」を唱えたのは、ソ連や共産主義が独裁主義や全体主義であるためではない。この点では、今見たとうり共通している。ソ連が日本侵略を狙い、共産主義が天皇制打倒を目指しているから、反ソ・反共なのである。革新勢力は確かに、ソ連を祖国としない点、天皇を廃止しない点で共産主義と決定的に異なるが、プロレタリア独裁の替りに、反明治憲法の「天皇主権」によって、天皇にスターリンになってもらい独裁主義・全体主義を敷き、資本主義を否定するというのだから、共産主義に近似した極左の思想なのである。永田鉄山が死亡した後は、東条英機が統制派のリーダーになっていった。
彼ら革新勢力が「反米英」を叫んだのは、米国、英国が法の支配を堅持する自由主義、議会制民主主義、資本主義、正しき個人主義の国であるからである。彼らの思想、彼らが乗っ取った左翼革命国家(反日国家)日本の国家目標、つまり大東亜共栄圏建設から見ると、米国や英国は、「日本に敵対する悪の帝国主義国家」であったのである。それゆえ「反米英」が叫ばれた。彼らの革命思想は、ファシズム=全体主義とか、天皇制社会主義、国家社会主義と呼称された。統制派の他にほぼ同じ革命思想を持つ「皇道派」もいた。
真正な保守主義者=真正な自由主義者であられる昭和天皇は、法と明治憲法を厳守なされたから、「天皇主権」に断固反対されていた。天皇は、1936年の 2・26事件(クーデター)を起した皇道派を憎み、この事件を軍部支配のために利用していった統制派を批判されていた。
統制派や皇道派などの革新勢力は、ナチス(ドイツ国民社会主義労働者党)信奉者と同じで、自らの誤った革命思想と誤った理想を妄信していたから、彼らにとっては理想の追求、実現こそが第一義であり、日本国と民族がどうなるかは第二義的問題であったろう。彼らにとっては国際法も、米英ら旧世界が創ったものであって、守る必要はなく否定して当然のものであった。だから彼らは、既に中国との戦争を4年以上も戦っていたにもかかわらず、日本国が滅ぶ危険性があったにもかかわらず、世界一の工業大国米国と英国とオランダに「不戦条約」を踏みにじって戦争を仕掛けていったのだった。
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尾崎秀実という人物のつづき19
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/19 17:07 投稿番号: [8163 / 8458]
近衛文麿首相の内閣嘱託であった尾崎秀実。
「愛国者」で「優れた政治評論家」として信頼され、支那事変の処理や
国内の政治・経済の決定的な発言と指導的役割を携わっていました。
しかし、ある日松本徳明から近衛首相にこのように告げられました。
「尾崎秀実はコミンテルン工作員で注意人物である」と。
尾崎は世界共産主義革命の達成を唯一絶対の信条とし、命をかけて活躍している・・・。
これを聞いた近衛首相は青くなって驚いた。
後に近衛は陛下にこのようにお詫びしています。
「全く不明の致すところにして何とも申し訳なき、これ深く責任を感じる次第に御座候」・・・
これを知った尾崎秀実は松本徳明を失脚させるために憲兵隊に密告し、松本をブラックリストに載せました。
その矢先、伊藤律が北林トモを密告。1941年9月28日、元アメリカ共産党員で洋裁学校教師の北林トモが逮捕されました。逮捕後、北林は「宮城さんはスパイかもしれませんが、私はスパイじゃありませんよ」と言い、これが宮城与徳の逮捕のきっかけになりました。北林は懲役5年を言い渡されましたが、1945年1月に仮釈放され、夫・芳三郎に身柄を引き取られましたが、同年2月9日に病死。
1941年10月11日、
元アメリカ共産党員で洋画家の宮城与徳が逮捕されました。
宮城を逮捕し取り調べると宮城の自宅で南満州鉄道が作成した日本政府にとっては機密書類とされた英文の書類が発見されました。宮城は東京築地警察署の二階の窓から飛び降り自殺を図りましたが、怪我もせず警察官に取り押さえられスパイグループについて自供した。その時に尾崎秀実と密接な繋がりがあると言った。(東京高等検察庁特別審査局の吉河光貞)
1943年8月2日、巣鴨拘置所で獄死。後に宮城はソ連から勲章と表彰状が与えられ、2010年にロシア大使館は宮城の遺族に授与。
1941年10月15日、尾崎逮捕。尾崎は逮捕されると即日自供した。1944年11月7日、死刑。
1941年10月18日、ゾルゲを逮捕。1944年11月7日、死刑。
1942年6月8日までに諜報機関員と犬養健、西園寺公一らの情報提供者合計35名が逮捕。
リヒャルト・ゾルゲはソ連で生まれ、その後ドイツ共産党入党。
1924年にフランクフルトでドイツ共産党大会が行われコミンテルン代表の警護の役目に就いて代表らと懇意となりモスクワでコミンテルン諜報部を創設する仕事をし、党籍をドイツ共産党からソビエト共産党に移した。
ゾルゲの表向きはナチスに忠誠を尽くすドイツの新聞記者という名目で1905年上海に行った。上海でゾルゲとコミンテルンのスメドレーは愛人関係となる。1908年、上海から日本に潜入するため、ベルリンに行って政権奪取したナチス党に入党し党員証を貰って日本に行き、駐日ドイツ大使館で陸軍武官オットー少将の私的顧問となった。ゾルゲはオットーの妻とも肉体関係を持ち、オットーの情報を徴収していた。また、ゾルゲは銀座の女給石井花子を愛人としていました。(石井花子著書「人間ゾルゲ」に詳しい)
さらにゾルゲは諜報活動に使う女として、当時、若い歌姫と言われた関屋敏子を籠絡して愛人としていました。その情交はゾルゲ検挙の日まで続き、11月23日にゾルゲ側に縊死させられた。・・・
関屋敏子は、三十八歳で今散りましても、桜の花のようにかぐわしい名は永久消える事のない今日只今だと悟りました。そして敏子の名誉を永久に保管していただき、百万年も万々年も世とともに人の心の清さを知らしむる御手本になりますよう、大日本芸術の品格を守らして下さいませ。(関屋敏子遺書より)
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日本の戦争は侵略戦争か?
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/19 11:08 投稿番号: [8162 / 8458]
満州事変の発端は中国側の反日行為であったのは明らかだ。
勿論その原因の一つは対華21か条であったのは認めるが基本的には共産党の謀略による反日運動扇動の効果が大きくあったのだ。
●あの日本に辛い報告書を出したリットン調査団も「一国の国境が隣接国の武装軍隊に侵略せられた如き、簡単なる事件にも非ず」と言っており、また「日支双方に権利・権益が複雑に絡み合い世界の他の地域にないような特殊事情である。その中で日本商品ボイコットなどは支那の不法行為・・・」などと侵略とは決め付けておらず、日本の権益を中国が犯していることを認めている。リットン報告書でも侵略戦争ではない(公平に言うと、さりとて自衛戦争とも認め難い、それほど複雑な状況と言ってますが)と言ってるのに何故日本人が侵略戦争と決め付けるのだろうか。中国が言うのは勝手だが、日本が侵略などと言う必然性は全く無い。
それに国際刑事裁判諸規定でも侵略の定義は未だに存在しない(合意されてない)のだ。
他国の領土で云々と言うとしたらそれは当時の常識を無視する不公平な発想だ。基本的に当時の国際法に則って得た権益が中国側に不当に侵されたことへの反撃、つまりリットン報告書が認めないとしても、日本としては立派な自衛と主張して何ら憚ることは無い。
●また満州国建設は中国が文句を言う筋合いは何も無い。
そもそも満州民族が中国(漢民族)を支配したことはあっても漢民族が満州を支配したことは無い。何よりの証拠は満州は万里の長城の外側にある。つまり化外の土地なのだ。
辛亥革命以降、一種の治外法権地帯だった。現に孫文は満州を金で買ってくれないかと日本に持ちかけたことがある。このとき日本が断ったのは痛恨の極みであるが。嘗てアラスカをアメリカがロシアから買った如く日本が満州を買っていたら歴史はどうなっただろう。
柳条湖事件は確かに日本が仕組んだことで世界にはあまり自慢できることではないが、自衛戦争の作戦としては見事だし、結果的には塘活協定で平和は確立されたではないか。また蒋介石も塘活協定以降は日本に渡す気でいた。
●先の満州事変前の反日運動も、勿論日本側が突きつけた対華21か条も火をつけたのは事実だが、最も大きな原因は、それ(反日運動)も含め、塘活の平和が破れたのも、盧溝橋事件も、その後の戦線拡大も、蒋介石が満州を手放すことを止めたのも全てコミンテルンの指示で動いた共産軍の謀略であったことは今や証明されているではないか。
●早稲田大学文学学術院留守教授は歴史認識に関し自己批判は厳しくやる必要があるが、それは、その時代、その場に自分が居たらどう考え、どう行動したかを考えないで現在の価値観、知見で判断する自虐史観とは異なるのだと看破しているが将にその通りだ。
●盧溝橋事件以降の中国側の不法な行動に対する暴支膺懲の声は全国民の声だったではないか。
●自分がその時代にいたらどう考え、どう行動したのかを真面目に考える事が重要・必須だ。あの時代に生きていて今日本は侵略しているのだと主張することは神ならぬ身には至難と思う。現在の知識・価値観で侵略だと決め付ける、所謂自虐史観は我々の先祖に対してこの上なく失礼、不遜である。
過去の戦争の正邪を恰も自分が神であるかのごとく決め付ける資格は現在の我々にはない、やれば神にも祖先にも不遜である。
●また歴史を学ぶと言うことは特定の軍事行動が正義か否かを語ることではなく、長く続く歴史、時代の流れ、時代の必然性を理解し当時の常識でも過ちと判断できることは何か、今後に生かすことは何かを学ぶことだ。
満州事変を柳条湖事件から語るのは間違いだ。どんなに短く捉えても反日・侮日・日本品ボイコットから、せめて世界恐慌から考慮するのは常識だし、もっと前に遡る必然性、歴史観もいくらでもある。
●侵略を認めよとの自虐史観論者の言及は言外にそれを反省せよと言いたいのだろうと推測するが、しかし未だ定義されない概念を反省せよとは無意味な議論だ。また侵略を認めることは相手国を喜ばせるだけで現在の外交上限りなく不利になるだけで決して尊敬される訳でもなくむしろ軽蔑されるだけだ。
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/18 21:12 投稿番号: [8161 / 8458]
米国の支援で思い出すのは、やく30年前に
日航機が
御巣鷹山に墜落したときに、
米軍が支援を申し出てきたのを当時の内閣が断っていたという事実。
これで重要なのは、
日航機がどこに墜落したのか
わからなかったときに、米軍はいち早くつかんでいた。
つまり、日本よりも先につかんでいたのだ。
そのときに、米軍が
救援のために
へりを出すことを日本政府に申し入れた。
あの時は、夜ですからね。
夜
険しい山へ
ヘリを飛ばすことは
日本にはできない。
米軍ならばできるというのだ。
しかし、中曽根内閣は
断った。
このときに
米軍ヘリが
御巣鷹山に着いていれば、
何人かは助かった可能性があると言われている。
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満州事変以後の経済史
投稿者: nazi_or_1984 投稿日時: 2011/03/18 12:40 投稿番号: [8160 / 8458]
1931年:満州事変
高橋是清蔵相、金輸出禁止(→経済持ち直す)
1932年:5・15事件(「軽すぎる刑」→2・26事件に影響)
cf)エリザベス1世「見せしめのために最も残酷な刑を」
米、ボーナスマーチ事件
ルーズベルト大統領当選
1933年:ニューディール政策(→その後、財政規律不況を招いた側面も)
ドイツヒトラー内閣成立
米:ソ連承認
1935年:相沢事件
1936年:ワシントン体制崩壊
2.26事件(首謀者「まさか死刑にはならんだろう」)
日独防共協定
1937年:米1937年不況
1938年:ドイツ「水晶の夜」事件
1939年:第2次世界大戦
1940年:日独伊三国同盟
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100万回言う「中国人は人食い人種である」
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/18 05:05 投稿番号: [8159 / 8458]
この中国共産党独裁国家は、同胞である中国人民を6500万人殺しておきながら、この大殺戮を日本軍がやったことにしている。
おまけに、この中国共産党国家は自分たちが殺した中国人民を焼いて食べている。国家が人間を食うとは、まさに異常な国である。
この記事は1968年7月の人食い記事である。
文革時代の食人について書かれた「食人宴席」には
「武宣県では、食人事件が流行にさえなった。街頭引き回しデモ闘争があるたびに、老婆たちはかごを下げて、糾弾大会の終わるのをじっと待っていた。人間が殺害されると死体に競って群がり、なるべくいい人肉を切り取って持っていく。遅れてきた者は人肉を切り取れないので、骨まで持っていく。人肉を食べた者は幹部の中でも少なくなかった。
略)
もっとも残虐な食人事件は、生きているままで腹を裂き、まだ息絶え絶えなのに肉一切れ一切れを削ぎ落とし、その人肉を油で揚げて食べるということだろう。」P六二〜六三
「陳は最初、腹を裂き、肝を取り出すことができなかった。どういうふうに手を下せばよいかを知らなかったのだが、そのとき、一人の年寄りが彼に人肉と肝を切り取る要領を教えたという。腹部に向かって『人』の字の形で切り、足で力強く下腹部を踏めば、心臓と肝臓がすぐとび出て来るということを教えたのだった。つまり、これは、腹を裂き、心臓をえぐり取る技術がすでに存在していたことがわかる。」P八〇
「一九六八年七月一日夜八時、
略
黄副校長の人肉は、人間の教育と人材を育成する場所で、すっかり削ぎ取って持ち去られ、最後は人骨しか残らなかったという。まことに恐ろしい光景が出現したのであった。
略)
やがて、人肉削ぎが始まり、だれが最初に切ったのか、諸説紛々いろんな説があるが、大多数の証言によると、当時、女子学生の紅衛兵・覃柳芳が最初に人肉を削いだようだ。彼女は、黄副校長の息子と恋愛関係にあり、彼女は自分の立場をはっきりさせるために、人肉を取る行動に走ったらしい。
彼女はもう一人の学生の名前を告白した。黄佩農である。彼は、最初に肝を切り取ったのだった。
略)
彼女の証言によると、自分と甘票英らが見たところでは、黄佩農は肝を下げて、近くの田んぼまで行って、水で洗い、その後、肝を炊事場まで持っていったようだという。また多くのクラスメートも同じく人肉を切り取って、食堂まで走っていったという。
略)
この日の桐嶺中学は、人肉料理をつくるのに忙しく、賑やかな光景が見られた。
厨房で人肉を煮たり、教員宿舎で人肉を煮たり、女子学生宿舎でも人肉料理をつくっている。教室の廊下で人肉を焼いたり、校内で人肉を焼いたり、臨時的につくられた二つのレンガの上に瓦をのせたかまど、自家制作の即席かまどで人肉を焼いているのが目撃されたのである。
政府側の資料でさえ、こう書いている。
『七月二日、桐嶺中学校の厨房のまわり、宿舎の縁の下など、人の肝、人の肉を焼く状況は、いたるところで見られた。いたるところが血だらけで、臭気が、なまぐさい匂いが漂い、煙がもうもうと出て、焦げた匂いが充満し、恐ろしい状況が人の度肝を抜いた』
略)
人肉を食うことができなかったのは、四人の黒いグループと言われた教師だけである。教師達は、たった二つの小さな竹かごに黄副校長の遺骨を入れ、牛の骨を担ぐように集めて埋葬した。
略)
・ ・・七月二日午後五時、われわれ四人が呼ばれ、遺骨収集に行った。黄副校長の遺骨は運動場近くのかわやの側に置いてあったので、二つの竹かごだけでそれを全部入れた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぼで、はらわたも流れ出していた。」P一〇一〜一〇六
「文革期間に、武宣県で殺され、迫害によって死んだ人間は五二四人。そのうち、食われた者は百数十人。最終的に裁判で有罪判決となった者は三十四人。刑期がもっとも長かったのは十四年、最短二年。一般的には七〜十年の刑であった。
ただ民衆の不満を和らげることができなかったのは、たった一人の死刑者もでなかったことだし、無期懲役さえ一人も出なかったことだ。簡単に計算すると、一人の人間を殺しても、刑期はたった半年だけにすぎないことになる。
略)
さらに人肉を食べた人間は、ただの一人さえも法的制裁を受けたことがなかった。私は武宣県の文革収拾事務所の四百余人の食人者の名簿を握っている。」P一三一
以上、「食人宴席」(鄭羲 黄文雄訳 光文社 一九九三年)より引用。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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関東大震災前後の経済史
投稿者: nazi_or_1984 投稿日時: 2011/03/16 06:38 投稿番号: [8158 / 8458]
1920年:商品バブル崩壊、
アメリカ赤狩り開始、
日本の株価暴落、3ヶ月で50%下落→大不況
1923年:関東大震災
1924年:米ソ関係改善(→1945年第2次世界大戦終結まで)
第2次kkk全盛、アメリカ排日移民法(新渡戸稲造氏激怒)
円相場急落
1925年:治安維持法
イラン王朝交代
1926年:労働争議倍増
1927年:日本金融恐慌
1929年:アメリカ大恐慌
1930年:浜口内閣、金輸出解禁(→大デフレ)
1931年:満州事変
高橋是清蔵相、金輸出禁止(→経済持ち直す)
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/03/15 21:41 投稿番号: [8157 / 8458]
CMLに先日から「さ○○う」なる奴が投稿してるけど何者?
弁護士M先生に何の恨みがあるんだ?
彼のブログに心温まる話がコピペされたくらいで
どこが「軍国美談」だよ?
こいつそうとう捻くれた基地外サヨみたいだな。
これは メッセージ 8156 (sensouhouki6 さん)への返信です.
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/15 19:42 投稿番号: [8156 / 8458]
管首相が、
東電本店で、
「撤退などありえない。覚悟を決めて下さい。撤退した時は、東電は100%つぶれます」
> と言ったそうですね。
>
> いろんな意味に取れるが、
要は、「命をかけろ」といういうようにも取れる。
> 事の成り行きでは、
原発の施設内で作業している人たちは、命を捨てる覚悟で
> 冷却作業をやってもらわないといけない
ということだ。
> これ以上
危険だからといって、作業を止めて撤退すれば、「炉心がいよいよ制御不能になる」との
専門家からのコメントも出ています。
>
> つまり、かれらには
死んでもらうことを前提にして
作業をやってもらうべきなのかどうか、という
> 究極の選択が
迫っている。
>
> そこで
首相の
「撤退などありえない。覚悟を決めて下さい」
という言葉が
意味を持ってくる。
> 「覚悟を決めろ」というのは、
この状況では
意味するところは
ひとつしかない。
>
> 意味することろは、非常に重い。
これは メッセージ 8152 (metamorphosis5 さん)への返信です.
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中国政府はすべてをでっち上げる
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/14 22:49 投稿番号: [8155 / 8458]
中国政府は自分たちが自国民を6500万人殺しておきながら、その大半を日本軍がやったことにしている。
南京で30万人虐殺を日本軍がやったとでっち上げる。
上海事変で自分たちが上海を空爆しておきながら日本軍がやったことにしている。
おまけに本多勝一は彼の著書「中国の旅」に通州事件の虐殺写真を載せて日本軍が南京大虐殺をやったと説いてまわった。
この本多勝一は「南京大虐殺のでっち上げ」に貢献したとして、中国政府から表彰されている。
その通州事件の虐殺写真とは以下の写真のことである。
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は十四、五歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に箒を押し込んである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引き廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの塵箱の中やら塀の陰から出て来た」(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』昭和三十八年・中巻30ページ)
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/14 22:49 投稿番号: [8154 / 8458]
東日本大震災:石原知事「津波は天罰」
東京都の石原慎太郎知事は14日、東日本大震災に関連し「この津波をうまく利用してだね(日本人の)『我欲』を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかをね。これはやっぱり天罰だと思う」と発言した。蓮舫節電啓発担当相から節電への協力要請を東京都内で受けた後、記者団に語った。
その発言直後に石原氏は「被災者の方々、かわいそうですよ」と付け加えたが、「天罰」と表現したことが被災者や国民の神経を逆なでするのは確実だ。
石原氏は「天罰」発言の前段として「去年1番ショックだったのは、おじいさんが30年前に死んだのを隠して年金詐取する、こんな国民は世界中に日本人しかいない」と述べていた。【青木純】
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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中国共産党は自国民6500万人を殺した
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/14 21:30 投稿番号: [8153 / 8458]
世界最大の殺人者毛沢東を神として崇め奉る異常な国。
世界で唯一の人食い文化を持つ巨大な人食い人種の国。
平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」は、共産主義の犯罪を厳しく検証しています。編者ステファン・クルトワによると、共産主義による犠牲者は、8,000万人から1億人にのぼるとされます。この数字は、ヒトラー・ナチズムによる犠牲者数とされる2,500万人を軽く上回ります。本書は、恵雅堂出版から今年中には翻訳が刊行される予定と聞きます。
クルトワは同書において、共産主義体制により殺害された犠牲者数の国・地域別の一覧を提示しています。それによると、
ソ連
2,000万人
中国
6,500万人
ベトナム
100万人
北朝鮮
200万人
カンボジア
200万人
東欧
100万人
ラテンアメリカ
15万人
アフリカ
170万人
アフガニスタン
150万人
コミンテルンと権力を握っていない共産党約1万人
----------------------------------
総計
約1億人
となっています。
◆中国の場合
毛沢東は、1957年2月27日、「49年から54年までの間に80万人を処刑した」と自ら述べています。(ザ・ワールド・アルマナック1975年版)。周恩来は、同年6月、全国人民代表大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち、16%にあたる83万人を処刑したと報告しています。また、42%が労働改造所(労改、強制収容所)に送られ、32%が監視下に置かれたと述べています。
毛沢東は、その後もさまざまな権力闘争や失政を続けましたが、丁抒らの研究によると、大躍進運動と文化大革命によって、2,000万人が死に追いやられたとされています。
「共産主義黒書」では、ジャン・ルイ・マルゴランが、ほぼ信頼できる数値として、内戦期を除いた犠牲者の数を、次のように総括的に提示しています。
・体制によって暴力的に死に至らしめられた人
700万〜1,000万人(うち数十万人はチベット人)
・「反革命派」としてラーゲリに収容され、そこで死亡した人
約2,000万人
・1959〜61年の「大躍進期」に餓死した人
2,000ないし4,300万人
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/03/13 10:53 投稿番号: [8152 / 8458]
陸の方からなかなか近づけない沿岸部には海の方からが作業がはかどれる。
また大型空母には手術室をはじめ医療設備が整っているからな
CMLの馬鹿サヨども。
今は猫の手も借りたいんだからむしろ喜ぶべきだろうが!
これは メッセージ 8150 (sensouhouki6 さん)への返信です.
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何度も言う「中国人は人食い人種である」
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/13 07:58 投稿番号: [8151 / 8458]
この記事は世界史上、最新の人食い記事である。
文革時代の食人について書かれた「食人宴席」には
「武宣県では、食人事件が流行にさえなった。街頭引き回しデモ闘争があるたびに、老婆たちはかごを下げて、糾弾大会の終わるのをじっと待っていた。人間が殺害されると死体に競って群がり、なるべくいい人肉を切り取って持っていく。遅れてきた者は人肉を切り取れないので、骨まで持っていく。人肉を食べた者は幹部の中でも少なくなかった。
略)
もっとも残虐な食人事件は、生きているままで腹を裂き、まだ息絶え絶えなのに肉一切れ一切れを削ぎ落とし、その人肉を油で揚げて食べるということだろう。」P六二〜六三
「陳は最初、腹を裂き、肝を取り出すことができなかった。どういうふうに手を下せばよいかを知らなかったのだが、そのとき、一人の年寄りが彼に人肉と肝を切り取る要領を教えたという。腹部に向かって『人』の字の形で切り、足で力強く下腹部を踏めば、心臓と肝臓がすぐとび出て来るということを教えたのだった。つまり、これは、腹を裂き、心臓をえぐり取る技術がすでに存在していたことがわかる。」P八〇
「一九六八年七月一日夜八時、
略
黄副校長の人肉は、人間の教育と人材を育成する場所で、すっかり削ぎ取って持ち去られ、最後は人骨しか残らなかったという。まことに恐ろしい光景が出現したのであった。
略)
やがて、人肉削ぎが始まり、だれが最初に切ったのか、諸説紛々いろんな説があるが、大多数の証言によると、当時、女子学生の紅衛兵・覃柳芳が最初に人肉を削いだようだ。彼女は、黄副校長の息子と恋愛関係にあり、彼女は自分の立場をはっきりさせるために、人肉を取る行動に走ったらしい。
彼女はもう一人の学生の名前を告白した。黄佩農である。彼は、最初に肝を切り取ったのだった。
略)
彼女の証言によると、自分と甘票英らが見たところでは、黄佩農は肝を下げて、近くの田んぼまで行って、水で洗い、その後、肝を炊事場まで持っていったようだという。また多くのクラスメートも同じく人肉を切り取って、食堂まで走っていったという。
略)
この日の桐嶺中学は、人肉料理をつくるのに忙しく、賑やかな光景が見られた。
厨房で人肉を煮たり、教員宿舎で人肉を煮たり、女子学生宿舎でも人肉料理をつくっている。教室の廊下で人肉を焼いたり、校内で人肉を焼いたり、臨時的につくられた二つのレンガの上に瓦をのせたかまど、自家制作の即席かまどで人肉を焼いているのが目撃されたのである。
政府側の資料でさえ、こう書いている。
『七月二日、桐嶺中学校の厨房のまわり、宿舎の縁の下など、人の肝、人の肉を焼く状況は、いたるところで見られた。いたるところが血だらけで、臭気が、なまぐさい匂いが漂い、煙がもうもうと出て、焦げた匂いが充満し、恐ろしい状況が人の度肝を抜いた』
略)
人肉を食うことができなかったのは、四人の黒いグループと言われた教師だけである。教師達は、たった二つの小さな竹かごに黄副校長の遺骨を入れ、牛の骨を担ぐように集めて埋葬した。
略)
・ ・・七月二日午後五時、われわれ四人が呼ばれ、遺骨収集に行った。黄副校長の遺骨は運動場近くのかわやの側に置いてあったので、二つの竹かごだけでそれを全部入れた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぼで、はらわたも流れ出していた。」P一〇一〜一〇六
「文革期間に、武宣県で殺され、迫害によって死んだ人間は五二四人。そのうち、食われた者は百数十人。最終的に裁判で有罪判決となった者は三十四人。刑期がもっとも長かったのは十四年、最短二年。一般的には七〜十年の刑であった。
ただ民衆の不満を和らげることができなかったのは、たった一人の死刑者もでなかったことだし、無期懲役さえ一人も出なかったことだ。簡単に計算すると、一人の人間を殺しても、刑期はたった半年だけにすぎないことになる。
略)
さらに人肉を食べた人間は、ただの一人さえも法的制裁を受けたことがなかった。私は武宣県の文革収拾事務所の四百余人の食人者の名簿を握っている。」P一三一
以上、「食人宴席」(鄭羲 黄文雄訳 光文社 一九九三年)より引用。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/12 13:08 投稿番号: [8150 / 8458]
原子力空母「ロナルド・レーガン」を三陸沖に向かわせているとのことです。救助を行う自衛隊のヘリコプターの被災者収容や給油の拠点とする目的です。この空母「ロナルド・レーガン」は米韓合同演習「フォール・イーグル」に参加しています。
一方で、米国務省は米国民に日本への渡航を自粛するように要請しています。「強い余震が数週間続く恐れが強い」としています。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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尾崎秀実という人物のつづき18
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/10 23:32 投稿番号: [8149 / 8458]
註2)ヤルタ秘密協定(一九四五年二月十一日)
三大国即ち「ソビエト」連邦、アメリカ合衆国及英国の指導者はドイツ国が降伏し且ヨーロッパに於ける戦争が終結したる後二月又は三月を経てソビエト連邦が左の条件に依り連合国に与して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定せり。
一、外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持せらるべし。
二、千九百四年の日本国の背信的攻撃に依り侵害せられたるロシア国の旧権利は左の如く回復せらるべし。
(甲)樺太の南部及之に隣接する一切の島嶼はソビエト連邦に返還せらるべし。
(乙)大連商港に於けるソビエト連邦の優先的利益は之を擁護し該港は国際化せらるべく又ソビエト社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口の租借権は回復せらるべし。
(丙)東清鉄道及大連に出口を供与する南満州鉄道は中ソ合弁会社の設立に依り共同に運営せらるべし但しソビエト連邦の優先的利益は保障せられ又中華民国は満洲に於ける完全なる主権を保有するものとす。
三、千島列島はソビエト連邦に引渡さるべし。
前記の外蒙古竝に港湾及鉄道に関する協定は蒋介石総帥の同意を要するものとす大統領はスターリン元帥よりの通知に依り右同意を得る為措置を執るものとす。
三大国の首班はソビエト連邦の右要求が日本国の敗北したる後に於て確実に満足せしめらるべきことを協定せり。
ソビエト連邦は中華民国を日本国の覊絆より解放する目的を以て自己の軍隊に依り之に援助を与うる為ソビエト社会主義共和国連邦中華民国間友好同盟条約を中華民国国民政府と締結する用意あることを表明す。(J・スターリン、フランクリン・D・ルーズベルト、
ウィンストン・S・チャーチル)
(1)三田村【戦争と共産主義】五十二〜五十四頁。
(2)【ルーズベルト秘録下】参照。
(3)H・クレア、J・H・ヘインズ、F・I・フィルソフ【アメリカ共産党とコミンテルン-地下活動の記録】一〇四〜一〇八頁、「アグネススメドレー、コミンテルンの工作員」
(4)【東京裁判却下未提出弁護側資料3】七五二〜七五四頁。
本来なら国民の知る権利の奉仕しなければならないマスコミの歴史ドキュメンタリー番組が以上の内容を報道すべきなのでしょうが、それをやると我が国の左翼勢力が壊滅してしまうから、NHKは小田晋や加藤周一といった戦後日本に言論の害毒を垂れ流してきた進歩的公害人を追悼する番組を報道しても、決してVenona資料の公開には言及しようとしません。だから我が国では第二次世界大戦の真実の更新と周知は遅々として進みません。本当に困ったことです。
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尾崎秀実という人物のつづき17
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/10 23:29 投稿番号: [8148 / 8458]
ソ連はこの種の資料の存在自体を認めていなかったが、ソ連の崩壊後、ロシア現代史文書保存・研究センターは膨大なコミンテルンの機密文書を公開した。H・クレア、J・H・ヘインズ、F・I・フィルソフは一九九一年から、センターの文書係が作成した検索手段を使って有力候補を絞り込み、数千ページの文書を収録したコミンテルンとアメリカ合衆国共産党のファイルを千点以上調査し、重要な機密文書九十二点を「アメリカ共産党とコミンテルン−地下活動の記録」に掲載した。
読者に反論の余地を与えない生々しい機密資料が暴露した歴史の真実は、アメリカ共産党の秘密組織がアメリカの情報活動および秘密諜報活動を統括していた戦略事務局(OSS、CIAの前身)をはじめアメリカ政府内部に深く浸透し、コミンテルン、ソ連秘密警察NKVD(KGBの前身)、ソ連軍参謀本部情報部(GRU)と密接に連携しながら、ソ連の諜報活動に奉仕していたことである。それと渾然一体となったアメリカ共産党の地下活動は、労働運動への浸透から、ゾルゲ機関の結成(宮城与徳の日本への帰国)、アグネス・スメドレーへの支援、日本共産党の再建への協力、在米邦人協力者の獲得、スペイン内戦に参戦したコミミンテルン国際旅団のアメリカ人義勇軍三千三百人(約八十パーセントが共産主義者)の移送、トロツキーの殺害、独ソ戦勃発後におけるアメリカ合衆国のソ連への援助とヨーロッパ戦線へ軍事介入、原爆情報の盗取にまで及んでいた。
しかも以上はソ連の対米諜報謀略活動のほんの氷山の一角に過ぎない。依然としてソ連秘密警察とソ連軍参謀本部情報部の保管していた膨大な機密記録文書がロシア政府によって封印されているからである。
もしIPR第六回太平洋会議議事抄録が東京裁判で徹底的に審議されたならば、西園寺やラティモアが喚問され、日米支に張り巡らされたソ連の諜報謀略網の実態がもっと早期により詳細に判明し、大東亜戦争の真実が白日の下に曝されたに違いない。以上の事を隠蔽する為、占領軍関係者―おそらくソ連人もしくはGHQ内部に潜入していたアメリカ共産主義者―は、第六回太平洋会議議事抄録の法廷への提出を許さず、東京裁判昭和二十二年六月六日第二三二回公判に提出された「ソルゲ、スパイ事件の詳細発表/ニッポン・タイムス一九四五年十二月二十四日」、「ゾルゲ、スパイ事件/オットー・D・トリスチヤス東京報告一九四三年レイノルーヒッチコック出版」を却下し(4)、さらに尾崎秀実らゾルゲ機関の暗躍を赤裸々に描き出した「戦争と共産主義―昭和政治史秘録」(三田村武夫著/民主制度普及会、昭和二十五年刊行)を発禁処分にしたのであろう(昭和六十二年、遠山景久氏の御尽力により自由選書から「大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義」として復刊された)。
GHQの対日占領作戦とは、ポツダム宣言、戦時国際法、帝国憲法、マッカーサー占領憲法、自由デモクラシーを蹂躙する明白な戦争犯罪であったばかりでなく、有史以来最悪の途方もない大錯誤であり、全く無実の日本人を公職から追放し或いは処刑し、第二次世界大戦の真実を隠蔽した「歴史に対する犯罪」である!。
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尾崎秀実という人物のつづき16
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/10 23:19 投稿番号: [8147 / 8458]
その結果、下院非米活動委員会に喚問されたホワイトはジギタリスを大量服用し不可解な死を遂げ、同じくカリーはコロンビアへ逃亡、新聞にゾルゲ機関への関与を報道されたスメドレーはロンドンに亡命し、下院非米活動委員会に召還された日の夕方に急逝した。そしてアメリカ国務省を代表してヤルタ会談に出席し、重病のルーズベルト(一九四五年四月十二日死亡)を補佐してソ連に日支の主権を譲渡したヤルタ秘密協定(註2)に深く関与したアルジャー・ヒス(一九九五年に公開されたソ連暗号電文解読作戦Venona資料ではAlesという隠名を持っていた赤軍第四部のスパイ)は投獄され、アメリカ国内に反共のマッカーシズムの嵐が吹き荒れた(2)。
これに対してアメリカの容共的な歴史学者は、ベントレーやチェンバースの証言に信憑性を認めず、またアグネス・スメドレーの猛烈な抗議に恐れをなした陸軍長官ケネス・ローマルの素早い謝罪談話(一九四九年二月二十七日)等を挙げてマッカーサーおよびウィロビーを非難し、スメドレーを擁護してきた。第二次世界大戦後の歴史学会は米ソ冷戦の縮図であり、反共派の研究者と容共派の学者が数十年に亘り不毛な論争を続けてきたが、遂に歴史の神は反共派に軍配を上げた。ソ連崩壊後に公開された次のコミンテルンの機密文書が暴露したスメドレーの正体は、やはりコミンテルンの工作員であった(3)。
「親愛なる同志ディミトロフ
われわれは同志岡野(註、日本共産党の野坂参三)、東洋書記局、プロフィンテルン(註、赤色労働組合インターナショナル、コミンテルンの労働組合部門)とともに、日本共産党への支援計画とも連動させつつ汎太平洋労働組合書記局の計画を練ってきた。全員がその計画に賛同し、同志ブラッドフォード(現在、プロフィンテルンの仕事でヨーロッパ滞在中)をアメリカに送りその計画を指揮させるという重要なポイントも含めて同意した。もし貴兄がこの計画に同意するなら、残る問題は形式上の決定と資金の手配だけである。
目下、上海にいるアグネス・スメドレーが現地で反帝国主義の英字紙を発行するのを援助するという提案は、最終決定されるべきである。情勢はますます好転しており、そのような新聞が出れば大きな影響力を発揮するだろうと、彼女は手紙に書いている。アメリカ合衆国共産党は政治的にも技術的にも優れた助手を彼女に提供することができる。中国人同志たちも同意している。ただしこれら上海の同志たちがもし中国共産党と接触した場合には、その活動が危険に晒されるから、それを避けるために彼らには中国共産党と接触させないという条件つきである。このプロジェクトの価値は明白だ。承認の形式的手続きと必要な資金の準備が待たれる。
最後に、今大会とその成果について私の深い満足と、この大会がアメリカ合衆国共産党および全世界の党を新しい高次の体験に導くだろうという私の見解とを表明しておきたい。アメリカ共産党がこの目的のために貢献し得るどんなことであれ、貴兄からの要請を私は喜んで受け入れる。
友愛の熱い挨拶をもって
アール・プラウダー
モスクワ、1935年9月2日」
一九三五年にスメドレーは、アール・プラウダーが書記長を務めるアメリカ共産党の人的支援と、コミンテルン第七回大会において反ファッショ人民戦線戦術を発表したゲオルギー・ディミトロフ(ブルガリア人の共産主義者)が議長を務めるコミンテルンの資金援助を得て「中国の声」を創刊していたのである。
アメリカ共産党党首のアール・ブラウダーは、共産主義者に対するソ連秘密警察の監視役を務め、いわば日本共産党の指導者である野坂参三と同じ役回りを演じていた人物である。アメリカ共産党は党本部のあるニューヨークからNKVDを経由してモスクワに多くの暗号電文を発していた。ソ連およびコミンテルンに忠誠を誓ったアメリカ共産党の活発な注進がアメリカ陸軍保安局(国家保安局NSAの前身)に、それらの暗号電文を傍受し解読する作戦(コードネームVenona)を実施する機会を与えていたのである。
コミンテルンが解散した一九四三年、モスクワから七百五十マイル東のウーファという町の近くにある外国人共産主義者のためのコミンテルンの学校に入っていたドイツ人青年ウルフガング・レオンハルトは特殊な任務を与えられた。コミンテルンの文書保管所は、ナチス軍がモスクワに迫った時にウーファに移されており、レオンハルトは混乱した資料を整理し直す学生の一人だった。彼に与えられた任務とは、アメリカ共産党の記録の整理であった。
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尾崎秀実という人物のつづき15
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/10 23:10 投稿番号: [8146 / 8458]
42、歴史に対する罪
ポツダム宣言の正式調印後、占領軍の情報参謀部は我が国の司法省刑事局の『ゾルゲ事件資料』を押収し、直ちに事件の調査を開始、ワシントンに「ゾルゲ諜報団−極東における国際諜報の実例研究」を送付した。情報参謀部長のチャールズ・ウィロビー少将は、ソ連および国際共産主義勢力の諜報謀略網が占領軍総司令部(GHQ)にも及んでいることを察知し、占領軍最高司令官と参謀長に「総司令部への左翼主義者の浸透状況」(一九四七年四月二十三日)を提出、「共産主義に対するアジアの防壁としての日本の育成はいまや危機に瀕している」と警告し、民政局長のホイットニー准将を激怒させた。日本国憲法案を起草した民政局(GS)と経済科学局(ESS)はニューディーラー(アメリカの容共主義者)の巣窟であり、明らかに左翼思想に基づく日本の「民主化」を遂行しようとしていたからである。
米ソ関係は連合国の敵である日本国の降伏を契機に親交から対立へ変化し、支那大陸では蒋介石の国民党と毛沢東の共産党との間に激烈な内戦が勃発し、GHQ内部では反共派が親ソ容共勢力を排除し始めたのである。それらの情勢変化は直ちにアメリカ本国を揺り動かした。
一九四八年二月号の「カソリック・ダイジェスト」に「アメリカを蝕むもの、モスクワの指令下に米国上層部に喰入るソ連秘密警察」と題する記事が掲載された。筆者は一九三三〜三五年まで農業金融局に、三五〜四〇年まで財務省に勤務したエドナ・ロニガンであり、彼女は次のように述べている(1)。
「国会は今、ソ連の秘密警察のアメリカに於ける目的と活動は何か?という実際問題を検討している。ソ連の秘密警察は、米国の政策をして自ら墓穴を掘らしめるため、その手先の者をアメリカの重要な地位につける仕事にたずさわらせているのだ。
ソ連秘密警察は一九三三年以来、連邦政府に浸透しようと努力して来た。その最初の細胞は明らかに農務省に設立されたのである。要員は大学の細胞から出た。スターリンは、一九二九年という遙か以前から、即ち不景気が危篤期に入ったと気づいたとき、彼は党員に命じてアメリカの大学にもぐりこませたのである。このことはニューヨーク州議会のラブ・コーダート委員会報告書に証明されている。各々の細胞は分裂して、他の細胞を生み出した。ソ連秘密警察の指導者達は、連邦政府内部の『機構図表』を持って居り、党員を次から次と重要な地位に移したのである。網状組織によって地位につけられた人々のうち、ある者は『純真』な人々であり、ある者は、夢想的な革命論者であった。しかし、大抵は、網状組織に好意を持たれれば速やかに昇進出来ることに気づいている小利口な、悪がしこい人々であった。
有能なソビエトの手先がなすべき事は、スパイではなく、政治指導者の信頼を博することであった。彼等の仕事は、高官や、その夫人達と親しくなることであり、友好的に、魅力的に、敏捷に、理知的に、同情的になることであり、昼夜にわたって、一層大きな責任を引きうける用意をすることであったのだ。そして、やがて、そのような責任ある地位が彼等に与えられたのである。
斯くの如くして、網状組織は毎年仲間達をだんだんと高い地位に移して行った。戦争が始まったとき、八年間陰謀で鍛えた古強者達は、最高政策をあやつる地位に到達していたのである。この網状組織によって選ばれた人々は、意見が分かれているあらゆる問題においてアメリカの政策を指導し始めた。ファーレィ(民主党領袖)が落伍した後、彼等は重要産業地方の投票を得る仕事を引き継ぎ、その報酬として戦争の指導権をにぎったのである。連戦連勝の米軍は、スターリンの希望通りの処で停止した。彼等は満洲と北朝鮮を共産党に与えた。」
同年夏アメリカ下院非米活動委員会において、E・ベントレーとW・チェンバース(いずれも元アメリカ共産党員)は、アメリカ共産党やイクサ・アフメーロフ、ボリス・バイコフ大佐(ソ連赤軍第四部)が、アメリカ政府内に構築したソ連の諜報謀略網の全容を告発した。また一九四九年二月十日にはアメリカ陸軍省がゾルゲ事件を新聞に公表し爆発的な反響を呼び起こした。
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尾崎秀実という人物のつづき14
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/10 20:59 投稿番号: [8145 / 8458]
尾崎秀実と同じく支那問題の権威でありコミンテルン影響下の共産主義者であったラティモアは、一九三四年よりIPR機関誌「パシフィック・アフェアーズ」編集長となり同誌に親ソ親支那の政治的立場を十字軍的に唱道する論文と反日プロパガンダを満載し、五〇年、ジョセフ・マッカーシー上院議員から「ソ連スパイ網のトップエージェント」だとして告発されたが、何と彼が三六〜三九年まで編集助手として使っていた陳翰笙なる支那人は、かつてゾルゲ機関に所属していたのである(4)。
一九二五年に党籍をドイツ共産党からソ連共産党に移し、ソ連市民権を得てコミンテルン諜報員となりヨーロッパを舞台に活動していたリヒャルト・ゾルゲは、四年後、ソ連赤軍第四部(情報部)の長であり実質的な創設者であったイワン・アントーノヴィチ・ベルジン将軍に見出され、極東におけるコミンテルンの思想策源地であった混沌渦巻く東洋の魔都上海に確固たる情報網を構築する任務を与えられた。
三〇年一月、上海に到着したゾルゲは、アメリカ人女性ジャーナリストのアグネス・スメドレーを訪ね、支那人協力者を選ぶ為の援助を求めた。当時の彼女は「中国共産党こそが貧しい農民を助けられる」と考え、多くの左翼系知識人と接触しており、ゾルゲが支那で唯一頼りにしていた人物であった。
スメドレーはゾルゲに対し、中国共産党と密接な関係を有していた在上海日本人左翼運動の指導的地位にあった朝日新聞上海特派員尾崎秀実と、そして陳翰笙を紹介した。陳は二六年北京大学農業経済教授を務めていた時にコミンテルン工作員となり、それ以降、中国共産党員であるとともにソ連の為に情報活動を行い、二八年から上海に滞在し、スメドレーの知遇を得た。
陳は尾崎以上にスメドレーやゾルゲと親しく、三三年九月にドイツ人ジャーナリストとして来日したゾルゲを補佐し尾崎との連絡を受け持った。だが三五年にモスクワから来日した連絡員が逮捕され、身の危険を感じた陳は東京からモスクワへ脱出し、ソ連共産党の指示を受け、次はラティモアの補佐としてニューヨークに派遣され、太平洋問題調査会の常任書記を務め、ヨセミテ会議で尾崎と会合したのであった。
ソ連の諜報謀略網は、太平洋を跨いで日米支の国家中枢に対し、我々の想像をはるかに超えて根深く有機的に浸透していたのである。
独ソ戦が勃発する直前の一九四一年五月末、ソ連からアメリカに潜入したビタリーパブロフ(GPUの後身、ソ連人民委員部所属)はアメリカ非公然組織長のイクサ・アフメーロフ(ソ連人民委員部所属、対日謀略「雪作戦」の提唱者)と相談した上で、アメリカ財務次官補ハリーデクスターホワイトに接触、「日本のソ連侵攻を困難にすること」を依頼し(5)、ホワイトは、六月六日、彼自身がまとめた対日提案「日本との緊張を除去しドイツを確実に敗北させる課題へのアプローチ」を財務長官モーゲンソーに手渡した。そして七月八日、ラティモアは、彼やホワイトと親しい関係にあった大統領補佐官ロクリン・カリー(ソ連のスパイ)の推薦を受けた大統領フランクリン・ルーズベルトによって重慶に派遣され、蒋介石の政治顧問に就任した。尾崎秀実は、大陸新報昭和十六年八月一〜二日「東亜外交の新段階」の中で、
「この程蒋介石政府の顧問として、オーウェン・ラチモアが重慶に赴いたという報道は生真面目でいかにも学究的な同氏を知る我々には一種奇異にさえ感じられたのである。アメリカ政府とどれだけの直接関係において行ったのであるか判らないが、現下の重慶に立つ国際情勢下において多分に政治的な使命を帯びるものでなくてはならない」
と観測したが(6)、特に注目すべきことは、ラティモアが、三八年から中国共産党の勢力拡大に伴い相剋を深めていた国共両党の調整に乗り出しただけでなく、四一年十一月二十五日、重慶からカリーに対して、日本にとって過酷なホワイト・モーゲンソー案をルーズベルトに採択させるよう打電し、カリーと共に、日米和平交渉をまとめる可能性を秘めたハル暫定案(九十日の停戦を骨子とし、日本は南部仏印より撤退する一方、アメリカは日本に民間用の石油、食糧、医薬や月額六十万ドルまでの綿花を輸出し、且つ日支和平交渉を斡旋することを内容とする、ハル国務長官によって作成された日米妥協案)阻止に狂奔していたことである(7)。
即ち我が国外交史上、永久の痛恨事たる汪兆銘工作とハル・ノートによる対日挑発はいずれもスターリンの謀略であり、ソ連の支配下にあった日米共産主義者によって実行されたのである。
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/10 20:55 投稿番号: [8144 / 8458]
春暁は争いのない中国側が管轄する海域に位置するとし、生産活動を行っても問題はない
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尾崎秀実という人物のつづき13
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/10 20:52 投稿番号: [8143 / 8458]
41、ソ連の諜報謀略網
尾崎秀実は、
「今夏ヨセミテで開かれた太平洋会議には太平洋に関係ある各国の知名の学者、政治家、評論家など多数参集し、この人里離れた国立公園に時ならぬ賑いを呈せしめた。
注目に値すると思われたのは会議の指導機関である太平洋問題調査会事務局の空気であった。ここにはいかにも秀才といった感じの若手の学者や評論家がいてその傾向は頗る進歩的であった」
という紀行文を新聞に寄稿しており(1)、筆者が推測するにIPR第六回ヨセミテ会議の正体は、
「資本主義国である日本の外交、政治、経済、軍事等一切の情報や資料を探知蒐集して之をソ連に通報漏泄し日本の経済力外交政策の軍事に関する作戦、軍事力等を事前に知らせて置き日ソ戦が勃発した場合ソ連が有利な地位に立って日本の弱点につけ込んで日本を敗戦に導き或は疲弊せしめ、更にソ連が米英と結託して之等の国をして日本を牽制動肘せしめ、或は又支那満洲国等に働きかけ殊に中国共産党や中国の共産軍等を使嗾して対日長期抗戦をやらせる事に依り一面に於いては共産主義の国ソ連を防衛し他面に於いて日本を敗戦又は疲弊せしめて革命へ導く」
ソ連独自の世界革命という世界政策を推進援助する(2)日米共産共同謀議だったのではないか。
IPRは、太平洋に接する国々の協議会で構成され、各国の政治社会経済技術についての情報を交換、議論する学術団体としてニューヨークに本部を置き、「太平洋会議」という名を冠せられた、太平洋諸国の抱える問題を協議する国際会合を開催していたが、昭和研究会や企画院と同様、「コミンテルン第七回大会」において採択された「合法場面を極度に利用して活動すべし」という反ファッショ人民戦線戦術を信奉する共産主義者によって潜入され占領された組織であり、第二次世界大戦において、盛んに反日論を展開しアメリカ政府(国務省)の反日外交を主導し、日本の敗戦後には、トーマス・ビッソンやアンドリュー・グラジャンツェフといった左翼分子をGHQ民政局に送り込み、GHQの対日占領作戦にまで大きな影響力を及ぼし、治安と防諜を担当するGHQ情報参謀部(G2)の調査対象になった。
情報参謀部長のチャールズ・ウィロビー少将に提出された調査報告書は、太平洋問題調査会の支配的位置にいる八人の幹部のうち最も活動的で強い発言力を持つ四人−エドワード・C・カーター、フレデリック・V・フィールズ、オーウェン・ラティモア夫妻−は共産党員とそのシンパであると分析し、彼らの人物像を次のように解説している(3)。
「エドワード・C・カーター(1925年の創立以来の所員)は、これらの支配的連中のうちでも、もっとも影響力がある。その公然たる共産主義的傾向にもかかわらず、彼はIPRの基金を集めることにかけては稀なる才能を発揮し、またオルグとしても腕のさえを見せている。カーターはアメリカにある親ソ的、ならびに共産党のフロント組織にすべて加入している。これには『今日のソビエト・ロシア』、『アメリカ・ソ連協会』をはじめ、二十にものぼるソ連戦争救済団体などが含まれる。彼はオリエント地方を広範に旅行し、ロシアにも何度か行っている。彼は自分でもシンパであると公然といっており、アメリカ共産党と緊密な関係にあるものと推測される。カーターは優秀な左翼的著者を見つけ出すことに尽力し、これを教育し、将来、政府部内の極東専門家やライターとして戦略的地位を世話する。このような教育や就職斡旋は、IPR所員に対する研究員としての立場から行われる。
オーウェン・ラチモア−これら四人のうちで疑いなくもっとも有名な人物である。アメリカ政府の高度の政策決定レベルの部門に、共産主義者が浸透しているもっとも著しい例である。ラチモアとその妻のエレアノール・ラチモアの考え方や論文は、一貫して親ソ的・親共産主義的なのである。」
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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尾崎秀実という人物のつづき12
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/09 10:42 投稿番号: [8142 / 8458]
■10.「東亜における新秩序」の人柱
尾崎が「中央公論」昭和14年1月号に発表した「『東亜共
同体』の理念とその成立の客観的基礎」では、近衛の「東亜新
秩序」声明を引用して、「『東亜共同体』は事変解決の方策の
不可欠な重点となった」と述べつつ、こう言い切った。
一身を擲(なげう)つて国家の犠牲となつた人々は絶対
に何等かの代償を要求して尊い血を流したのではないと我
々は確信するのである。東亜に終局的な平和を齎(もた
ら)すべき「東亜における新秩序」の人柱となることは、
この人々の望むところであるに違ひないのである。
確かに日華事変に出征した将兵の間には、この戦争が来るべ
き日中和平の礎になると考えて、一身を擲った人々も少なくな
かったであろう。茅野老に和平工作を依頼した上海派遣軍司令
官・松井石根大将もその一人であった。松井大将は孫文の大ア
ジア主義に共鳴して「大亜細亜協会」会長にもなっていた。
[b]
しかし尾崎の狙う「東亜共同体」とは、日本と蒋介石政権が
共倒れして、両国で共産主義革命が実現した後に成立するはず
のソ連・日本・中国による「赤い東亜共同体」であった。共産
主義社会になれば、絶対的な平和が訪れる、そう信ずる尾崎に
とって、確かに日華事変での犠牲者は「東亜に終局的な平和を
齎すべき『東亜における新秩序』の人柱」なのであった。
共産主義革命後の「終局的な平和」の為なら、国民を欺いて
日中戦争に駆り立てて「人柱」にすることも許されると尾崎は
信じていた。尾崎は「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらし
め」、「戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」と命
じたコミンテルンの忠実な使徒であった。
(文責:伊勢雅臣)
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尾崎秀実という人物のつづき11
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/09 10:39 投稿番号: [8141 / 8458]
■7.茅野老の日中和平工作■
尾崎のグループは国内世論を誘導するだけでなく、実際に国
民党政権との和平の動きを妨害した。孫文の中国革命に協力し、
蒋介石以下の国民党首脳部とも親しい間柄にあった茅野長知は、
上海派遣軍司令官・松井石根(いわね)大将の依頼により、昭
和12年10月頃から、日中和平に乗り出した。
茅野老は国民政府からも信頼されており、翌13年4月には
即時停戦、日本の撤兵声明発表などの合意に至った。茅野老が
帰国してこの案を説明すると、近衛首相も板垣陸相も承認して、
この線で和平実現に努力することになった。茅野老は早速、上
海から香港へ渡って、国民党政府と接触し、5人の代表を東京
に派遣する事となった。
しかし、茅野老が再び帰国して、交渉の結果を報告すると、
板垣陸相の態度は全く変わっていて「中国側に全然戦意なし、
この儘(まま)で押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で
手を挙げる。日本側から停戦声明を出したり、撤兵を約束する
必要はなくなった」という。
■8.天才的な謀略■
茅野老が「それはとんでもない話だ。国民政府は長期抗戦の
用意が出来ている。そんな情報はどこから来たのか」と問いつ
めると、板垣陸相は、同盟通信の上海支局長をしていた松本重
治が連れてきた国民政府の外交部司長・高宋武から直接、聞い
たという。
茅野老が香港に行く途中の上海で、松本と会って、交渉の過
程を話したのだが、この松本重治は尾崎の年来の友人であり、
共に「朝飯会」のメンバーとして近衛首相のブレーンともなっ
た人物である。後に茅野老は松本との会談を「運命の日」だっ
たと述懐している。
松本が連れてきた高宋武は、日本側に「国民政府はもうすぐ
無条件降伏する」と伝える一方、蒋介石にも「中国があくまで
抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」という
偽りの電報を打っていた。こうした謀略によって、茅野老の和
平工作はあと一歩という所で水泡に帰し、その後、高宋武、松
本重治、尾崎秀實らによる汪兆銘政権樹立の動きとなっていく。
汪兆銘は国民党の副総裁であり、あくまで党を分裂させずに、
蒋介石にコミンテルンの謀略に乗った抗日戦争を止めさせるよ
う願っていたのだが[a]、その汪兆銘を担ぎ出して親日政権を
作らせ、それを以て日本と国民政府の戦いを続けさせようとい
う尾崎らの謀略はまさに天才的としか言いようがない。
■9.操られていた近衛内閣■
近衛首相は、事変が始まった後、早期停戦を目指してドイツ
を仲介国とする交渉を行ってきたが、昭和13年1月には新た
な親日政権の成立を期待して、「今後国民党政府を相手にせ
ず」という第一次近衛声明を発表していた。茅野老の和平工作
はこの後に何とか蒋介石政権との和平を確立しようとしたもの
であった。
しかし、その望みも消えて、同年11月、近衛は日本・満
洲・支那3国の連帯を目指した「東亜新秩序」建設に関する第
二次声明を発表。これは尾崎らの「東亜共同体」構想そのもの
である。この声明の中で「国民政府といえども従来の指導政策
を一擲(いってき、投げ打って)し、その人的構成を改替して
更生の実を挙げ、新秩序建設に来たり参ずるに於ては、敢へて
これを拒否するものにあらず」と汪兆銘の動きに期待した。
まさに「見えない力にあやつられてゐたような気がする」と
いう近衛の述懐通り、近衛内閣は尾崎の描いた筋書きに乗せら
れていたのである。こうして日華事変は泥沼化していった。
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尾崎秀実という人物のつづき10
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/09 10:36 投稿番号: [8140 / 8458]
■4.国共合作へのコミンテルン指示■
1935(昭和10)年のコミンテルン第7回大会では、各国の国情
に即した戦略戦術を採用することという方針のもとに、中国共
産党に対しては、日本帝国主義打倒のための民族解放闘争をス
ローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすことを命じ、そ
れに従って中国共産党は8月1日付けで「抗日救国宣言」を発
した。一切の国内闘争を即刻停止して、全面的な抗日闘争を展
開しようというのである。
翌36(昭和11)年12月に突如として起こったのが、西安事件
であった。共産軍掃討を続けていた蒋介石が、「抗日救国宣
言」に動かされた腹心・張学良に西安で監禁されたのだった。
周恩来ら中国共産党幹部が西安にやってきて、蒋介石との交渉
を行った。その内容は謎であるが、以後、蒋介石は共産軍との
10年に及ぶ戦いを止め、蒋介石の国民党と共産党による国共
合作が実現した。
この時、日本に帰っていた尾崎は、監禁された蒋介石の安否
が不明の段階から、「中央公論」誌に「蒋介石が今後の国共合
作を条件に、無事釈放されるだろう」と予測する論文を発表し
た。この予測が見事に的中して、尾崎は中国問題専門家として
の地位を固めた。尾崎は国共合作というコミンテルンの指示を
知っていたものと思われる。
■5.近衛内閣のブレーンとなる■
この昭和12年の4月頃から尾崎は昭和研究会に入り、支那
問題研究部会の中心メンバーとして活躍していた。この研究会
は軍部とも密接な関係を持って、近衛新体制生みの親となり、
大政翼賛会創設を推進して、一国一党の軍部官僚独裁体制を作
り上げた中心機関である。
翌13年4月には尾崎は朝日新聞社を退社して、近衛内閣の
嘱託となり、月2回ほどの「朝飯会」で近衛のブレーンとして
意見を言える立場についた。首相官邸の地階の一室にデスクを
構え、秘書官室や書記官室に自由に出入りできるようになった。
この頃、ゾルゲはナチス党員に化けて、在日ドイツ大使の私
設情報官となっており、尾崎とも緊密な連携をとって、日独の
機密情報をソ連に流していた。二人は後に逮捕され、死刑に処
されているが、このテーマについては別稿に譲ろう。
■6.「東亜共同体」の謀略■
昭和12年7月、蘆溝橋事件(北京郊外での日中両軍衝突、
日本軍と国民党軍を戦わせるための中共軍の謀略との説が有力
[2],p394)を機に、上海、南京と、日華事変が拡大した。
これを機に、昭和研究会のメンバーは日本、満洲、支那によ
る「東亜共同体」の構想をさかんに提唱していった。「改造」
昭和13年11月号の東大政治学の権威・蝋山政道による「東
亜共同体の理論」、「中央公論」14年1月号の尾崎秀實によ
る「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」などであ
る。これに呼応して、陸軍省報道部長・佐藤賢了大佐も、蝋山
論文の翌月、「日本評論」12月号に「東亜共同体の結成」を
発表する。近衛の言う「無知単純なる軍人これに踊らされた
り」とは、まさにこの事か。
尾崎は「中央公論」14年5月号での「事変処理と欧州大
戦」と題した座談会のまとめとして次のような発言をしている。
僕の考へでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権(漢口
から重慶へと移転した蒋介石政権)に対抗し得る政権を造
り上げること、・・・さういふ風な一種の対峙状態といふ
ものを現地に造り上げて、日本自身がそれに依って消耗す
る面を少なくしていく・・・さういう風な条件の中から新
しい
--
-それこそ僕等の考へている東亜共同体
--
-本当の意
味での新秩序をその中から纏(まと)めて行くといふこと
以外にないのじゃないか。
尾崎の言う「東亜共同体」とは、中国に親日政権を作り、そ
れをくさびとして、あくまで日本と蒋介石を戦わせようとする
謀略であった。中国共産党は蒋介石を抱き込み、尾崎グループ
は親日政権を作らせて、日本と国民党政権をあくまで戦わせ、
共倒れにさせて、日中両国で共産革命を実現しようとしていた
のである。
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尾崎秀実という人物のつづき9
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/09 10:29 投稿番号: [8139 / 8458]
尾崎秀實
〜 日中和平を妨げたソ連の魔手
日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、
ソ・中・日の「赤い東亜共同体」が実現する!
■1.近衛文麿を操った「見えない力」■
昭和18(1943)年4月、衆議院議員・三田村武夫は近衛文麿
を訪れて、戦局、時局の問題について懇談した際、
この戦争は必ず負ける。そして敗戦の次ぎに来るものは
共産革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責
任は重大だ!
と言った所、近衛はしみじみとした調子で、第1次、第2次近
衛内閣当時のことを回想してこう述懐した。
なにもかも自分の考えてゐたことと逆な結果になつてし
まつた。ことこゝに至って静かに考へてみると、何者か眼
に見えない力にあやつられてゐたような気がする。[1]
近衛の第一次組閣は昭和12(1937)年6月。この1ヶ月後の
蘆溝橋事件をきっかけに日華事変が勃発し、また国内では翌年
3月に国家総動員法が成立した。その後の平沼、阿倍、米内内
閣はドイツとの距離をとり、第2次大戦にも不介入の姿勢を保
っていたが、近衛が第2次組閣をした昭和15(1940)年7月以
降、日独伊の三国同盟締結、仏領インドシナ進駐と日米対決へ
の決定的な道を歩み始めた。
こうして見ると、近衛内閣の登場のたびに、政局は大きく戦
争へと進んでいる。三田村議員の言う通り、まさに近衛公爵の
責任は重大であった。その近衛はその当時を振り返って、「見
えない力にあやつられてゐたような気がする」と言っているの
である。その見えない力とは何だったのか?
■2.軍人を踊らせた左翼分子の暗躍■
近衛はこの「見えない力」について、もう戦局も押しつまっ
た昭和20(1945)年2月14日、天皇にこう上奏した。
翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件具備
せられゆく観有之(これあり)候、すなはち生活の窮乏、
労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面た
る親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官
僚の運動、およびこれを背後より操りつゝある左翼分子の
暗躍に御座候。
満洲事変、日華事変、そして遂には大東亜戦争にまで我が国
を引きずり込んで来たのは、軍部の組織的計画であるが、
これを取り巻く一部官僚及民間有志は(これを右翼とい
ふも可、左翼といふも可なり、所謂(いわゆる)右翼は国
体の衣を着けた共産主義者なり)意識的に共産革命まで引
きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これ
に踊らされたりと見て大過なしと存候。
■3.尾崎秀實の「赤い東亜共同体」構想■
日本を共産革命にまで引きずり込もうとした「民間有志」の
中心人物が尾崎秀實(ほつみ)であった。尾崎は昭和3(1928)
年11月、朝日新聞社の特派員として上海に駐在して、そこで
多くの左翼文学者たちと交わり、半植民地化された中国の現状
から、マルクス主義への傾斜を深めていった。
さらに尾崎はアメリカ人左翼ジャーナリスト、アグネス・ス
メドレーを通じて、リヒャルト・ゾルゲを紹介された。ゾルゲ
はドイツ人の父とロシア人の母を持ち、ドイツ共産党を通じて、
モスクワの国際共産主義団体コミンテルンに所属していた。
ちょうどこの年に開かれたコミンテルン第6回大会では、
「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめ」、「戦争を通じ
てプロレタリア革命を遂行すること」と決議していた。日独と
米英の間での「帝国主義戦争」が始まれば、共産主義者の祖国
ソ連は無事であり、また敗戦国ではその混乱に乗じて、共産主
義革命を進めることができる、という戦略である。
これを中国に適用して、尾崎は日本帝国主義と蒋介石軍閥政
権を噛み合わせて、両者共倒れにさせて、日本と中国における
共産主義革命を実現させ、そこからソ連、中国、日本を中核と
した東アジア諸民族の共同体を目指そうと考えた。まさに「赤
い東亜共同体」構想である。
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尾崎秀実という人物のつづき8
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 17:50 投稿番号: [8138 / 8458]
関係は先の方々が説明していますので、影響だけ説明します。
(以下は全て朝日新聞退社し首相嘱託になった後のことですが)
まず、中央公論に中国国民党との徹底抗戦を説いて、世論を煽ります。
これの影響で、陸軍にまで同じ論を述べる陸軍報道部長まで出て、シンパが増えていきます。
更に、内閣、陸軍共に中国国民党との和平を合意していたにもかかわらず、直前で板垣陸相にでたらめを吹き込み、中国国民党と和平をする直前にひっくり返して、日中戦争を泥沼に引きずり込みました。
この当時、国民党と共産党は戦力比60:1ですが、この後の戦争でほぼ互角になるまで国民党は摩耗し、戦後共産国家である今の中国ができる下地を作りました。
また、尾崎とゾルゲが日中戦争の布陣と対ソ戦をせずに南下する方針をすっぱ抜いてスターリンに伝えることで、極東の戦車隊を全て対ドイツ戦へつぎ込み、結果としてドイツに勝利します。
つまり、第二次世界大戦の日独の敗北に大きく影響したと言えます。
勿論、敗北は尾崎たちだけのせいではありませんが、尾崎らの行動がなければ全く違う戦後になっていたでしょう。
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尾崎秀実という人物のつづき7
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 17:41 投稿番号: [8137 / 8458]
あるブログより引用。
あまり詳しくはないのですが。少し事実関係は違います。尾崎秀実は朝日新聞上海特派員であった。昭和12年7月シナ事変の勃発よりコミンテルン(ソ連共産党中央委員会)極東支局の指令で上海にあらわれたドイツ人リヒャルト・ゾルゲに日本の作戦プランを内通。尾崎は近衛内閣の嘱託として、また外務省や参謀本部の機関の東亜研究所の嘱託として、多数の情報・資料を入手できる地位にあった。それらは政界の最上層部の口から、またドイツ大使の下にあった日本の軍事機密、政治プランがゾルゲを通じてコミンテルンに筒抜けであった。近代日本の存亡の岐路の時期のシナ事変から大東亜戦争の最高国家機密がすべてソ連に筒抜けであった。日本政府はシナ事変以降不拡大を方針を採ったが、南京攻略の折、国民党蒋介石と交渉。不成功で「国民政府を相手とせず」の声明。尾崎は「南方諸民族解放」を唱え、シナ事変を日米戦争へ拡大せんとするコミンテルンの謀略を行っていた。近衛内閣の「東亜新秩序建設」というスローガンは「共産主義的秩序」であった。日本政府と重慶国民党政府の和平を成立させないために南京に汪兆銘の新政権樹立させ蒋介石と対抗させた。日本は完全にコミンテルンに躍らされていたわけ。シナ事変の泥沼化から日米戦争へ拡大した裏には尾崎・ゾルゲの裏工作が働いていた。(資料:「抹殺された大東亜戦争」勝岡寛次、明成社)
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尾崎秀実という人物のつづき6
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 17:13 投稿番号: [8136 / 8458]
日本は南方への進撃に於ては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るではありませうがその後の持久戦により消耗が軈(やが)て致命的なものとなつて現はれ来るであらうと想像したのであります。
而も斯る場合に於て日本社会を破局から救つて方向転換乃至原体制的再建を行ふ力は日本の支配階級には残されて居らないと確信してゐるのであります。
◆ここに於て私の大雑把な対処方式を述べますと、日本はその破局によつて不必要な犠牲を払はされることなく立直るためにも、又英米から一時的に圧倒せられないためにも行くべき唯一の方向はソ連と提携し、これが援助を受けて、日本社会経済の根本的立て直しを行ひ、社会主義国家としての日本を確乎として築き上げることでなければならないのであります。日本自体のプロレタリアートの政治的力量も経験も残念ながら浅く、而も充分な自らの党的組織を持たないことのためにソ連の力に待つ点は極めて多いと考へられるのであります。
八、現下の世界情勢に対する見解について
◆しかしながら帝国主義国家の意図するところは正に以上の如きものであり、世界の再分割こそ一切の目的あつたとしても、この第二次世界大戦がそれらの主観的意図とはまったく別個の客観的な経過と結果を示すであらうことは、私たちのひそかに確信したところでありました。
◆以上の如き予想に基いた現実の形態と更にこれに対処する方式として私がしきりに描いたところは、次の如きものでありました。第一に、日本は独伊と提携するであらうこと。第二に、日本は結局英米と相戦ふに至るであらうこと。第三に、最後は我々はソ連の力を籍り、先づ支那の社会主義国家への転換を図り、これとの関連に於て日本自体の社会主義国家への転換を図ることでありました。
◆一応の南方進出体制を確立し得た六ヶ月以後には却つて日本に取つて不利な諸状勢が発展し始めるのではないか、その一は船舶の不足等に加重せられて戦時必需物資たる石油、鉄、その他食糧などの不足が問題となり来り、国内人心にもまた動揺が現はれるのではないかと考へ、更に、さなきだに脆弱なる日本の貨幣面に悪性インフレが見舞ふ可能性が軈て増大し繰るであらうと考へたのであります。
日本自身は私の以上の如き考へ方からすれば、頗る敗退の可能性を多く含んだ国といふことになるのであります。
◆私の立場から言へば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去つて英米の全勝に終るのでは甚だ好しくないのであります。万一かかる場合になつた時に英米の全勝に終らしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考へました。
此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考へたのでありまして、私は従来とても南方諸民族の自己解放を「東亜新秩序」創建の絶対要件であるといふことをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを籠めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張とも殆んど矛盾するところなく主張される点であります。
十、今事件を中心とする現在の心境について
◆勿論、私の行つてゐる如きことが猛烈な反国家的な犯罪であることは云ふまでもありません。従つて理論的には、その行動を是認しつつも時に具体的行動の後ろめたさを感じたことも否定出来ません。
私は常に露見、逮捕と云ふ如き場合の結果を自分の一個の死と結びつけて考へて居りました。「要するに死ねばいいのだろう」と云ふ点に一つの覚悟の基礎を置いて居たわけであります。
〜終わり〜
尾崎秀実は、1944年11月7日、ロシア革命記念日に処刑された。
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尾崎秀実という人物のつづき5
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 17:06 投稿番号: [8135 / 8458]
尾崎秀実「検事訊問調書」1941年
(筑摩書房『現代日本思想体系』第9巻「アジア主義」1963所収)
コミンテルンのスパイとして、近衛内閣の中枢で工作活動をしていた尾崎秀美は、1941年、真珠湾攻撃の直前に逮捕された。
戦果に日本中が沸き立っていた開戦2ヵ月後の1942年2月に、検事の訊問に答えた形式の「獄中供述書」は、その後の見通しをあまりにも正確に予測している。
日本がこの通りに敗戦するように、十年以上も身分を隠して工作してきたので、当然だろう。「大東亜戦争とスターリンの謀略」と同様、重要部分のみ抜粋した。
一、コミンテルン並に日本共産党に対する認識について
◆コミンテルンは此の目的実現の為革命の戦術戦略を規定し常に其の支部たる各国共産党を指揮統制してゐるのでありまして現に其の日本支部たる日本共産党に対しても昭和二年の所謂二七年「テーゼ」、昭和七年の所謂三二年「テーゼ」等其の他を以て日本に到来すべき革命の性質を規定し日本に来るべき革命はブルジョア民主主義革命で其の革命は急速にプロレタリア革命に転化するものとし或は革命の性質は急速にプロレタリア革命に成長するブルジョア民主主義革命なりとして、天皇制の打倒をスローガンとすることを規定して居ります。
従つてコミンテルンは世界革命の一環として我国に於ても共産主義革命を遂行して我国体を変革し、私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し此の過程を通じて共産主義社会を実現せんとするものであることは勿論であります。
三、ゾルゲ諜報団の本質及目的任務について
◆吾々のグループの目的任務はゾルゲから聞いた訳ではありませぬが私の理解する所では広義にコミンテルンの目指す世界共産主義革命遂行の為日本に於ける革命情勢の進展と之に対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類の情報並びに之に関する正確なる意見をモスコーに諜報する事にあり、狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要にして其の支柱たるソ連を日本帝国主義より防衛する為日本の国内情勢殊に政治経済外交軍事等の諸情勢を正確且つ迅速に報道し且つ意見を申し送つて、ソ連防衛の資料たらしめるに在るのであります。
従て此の目的の為には凡ゆる国家の秘密をも探知しなければならないのでありまして、政治外交等に関する国家の重大な秘密を探り出す事は最も重要な任務として課せられて居るのであります。
七、第二次世界戦争から世界共産主義革命への見通しについて
◆私はこの第二次世界戦争の過程を通じて、世界共産主義革命が完全に成就しない迄も決定的な段階に達することを確信するものであります。
その理由は、第一に世界帝国主義相互間の闘争は結局相互の極端なる破壊を惹起し、彼等自体の現存社会経済体制を崩壊せしめるに至るであろうと云ふことであります。
(中略)敗戦国家に於ては第一次世界大戦の場合と同様プロレタリア革命に移行する可能性が最も多く、又仮令一方が残つた場合でも戦勝国は内部的な疲弊と敵対国の社会変革の影響とに依つて社会革命勃発の可能性無しとしないのであります。
◆第二には、共産主義国家たる強大なソ連邦の存在してゐる事実であります。私はソ連は飽くまで帝国主義諸国家間の混戦に超然たるべきものであると考へ、その意味に於てソ連の平和政策は成功であると考へてゐたのであります。
対ソ連攻撃の危険性の最も多い日本及ドイツが前者は日支戦争により、後者は欧州戦争により、現実の攻撃可能性を失つたと見られた時、私は以上の見通が益々確実なものとなつたことを感じたのであります。
◆然らば日本に於ける革命情勢の進展を如何に予想したかと云ふ点について述べると、由来日本は帝国主義国家として最も特徴ある強力なる国家の一つではありますが、その資本主義経済の体制は決して充実した強力なものとは云ひ得ず、寧ろ甚しく不均衡であり、全体としては脆弱性を持つてゐると云ふことが出来るのであります。(中略)
私の秘かに予想した所では、第二次世界戦争はその過程の裡に於て社会経済的に脆弱なる国家程最も早く社会的変革に遭遇すべきものであるから、日本も亦比較的速に斯る経過をとるであらうと考へたのであります。
◆これを最近の段階の現実に照応せしめて説くならば、日本は結局に於て英米との全面的衝突に立到ることは不可避であらうことを夙に予想し得たのであります。
勿論日本はその際枢軸側の一員として立つことも既定の事実でありました。此の場合日本の勝敗は単に日本対英米の勝敗によつて決するのではなく枢軸全体として決せられることとなるであらうと思ひます。
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尾崎秀実という人物のつづき4
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 16:41 投稿番号: [8134 / 8458]
戦後、石原は満州事変を引き起こして日本を国際的に孤立させ、大東亜戦争(支那事変と太平洋戦争)へ導いたという史観が常識になった感がありますが、これは大きな間違いです。リットン調査団、国際連盟は満州事変について批判しつつも多分に同情を示し、日本を侵略国とは認定せず、いかなる対日制裁も実行しなかったし、対日最強硬派のアメリカ国務長官スチムソンすら日本に九カ国条約と不戦条約に基づく警告を行っただけで、アメリカは満州事変に干渉しないことを宣言しました。支那大陸に権益を持つ欧米は、支那が無秩序状態にあり、邦人居留民の生命財産が著しく脅かされていた事を知悉していたからです。
日本は国際連盟から脱退する必要などまるでなかったのです。また日本の国際連盟脱退後、英米では満州国の大発展を目の当たりにして満州国を承認すべきであるという声が挙がったし、蒋介石は、昭和11年北支を視察した石原に彼の東亜連盟構想に賛同することを表明し、昭和13年春の孔祥煕工作において日本の満蒙に関する要求を原則的に承認することを日本側に伝え、日中は全面和平の仮合意にまで達しています。満州事変、満州国建国は日本を国際的に孤立させてはいないどころか、日本の国策として大正解でした。なぜなら之により、日本は地理的戦力の欠陥(縦深と資源の欠如)を克服し得るだけでなく、満州を重工業化し興安嶺黒竜江沿いに防衛線を構築し、満州朝鮮日本樺太より、ウラジオストーク(東方を征服せよ)を含む沿海州を包囲し、ソ連の極東攻略を完全に撃滅し得るからです。だからこそ、満州事変直後の1932年4月、コミンテルン(ソ連共産党国際部)はソ連の防衛と拡大を図るべく、尾崎秀美リヒャルトゾルゲからなる諜報謀略部隊を日本に潜入させたのです。満州事変〜大東亜戦争の正体は日ソ戦であり、日本史上屈指の天才、石原莞爾と尾崎秀美の戦いだったのです。石原は東亜連盟を構想し、対支英米戦に猛反対し、最終戦争による世界恒久平和をめざし、尾崎は東亜新秩序を構想し、支那事変解決を執拗に妨害し日本を対英米戦へ誘導し世界新秩序による世界恒久平和を夢想した。通州事件の直後、石原が主張した南京首脳会談開催を拒否した内閣書記長、風見章(戦後社会党左派に所属し、スターリンが創設したソ連のフロント組織世界平和評議委員会委員や日ソ協会副会長を務めた狂信的共産主義者)は尾崎の大親友で尾崎同様ソ連の工作員だった可能性が濃厚です。そして涙を流して日中全面和平を訴えた多田駿参謀次長の猛反対を押し切って和平交渉を打ち切り独断で「爾後、蒋介石を対手とせず」という第一次近衛声明を出し、参謀本部の早期和平方針を粉砕した近衛文麿自身もおそらく・・・。いずれその証拠を紹介しよう。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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