侵略国日本は国際社会の前科者

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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/21 22:11 投稿番号: [8215 / 8458]
母乳に放射能汚染の心配があります。

汚染の高かった地域のお母さんたちに母乳の検査を呼びかけます。

全国の皆さんに母乳検査と母子の支援を訴えます。

  私たちは、「本当に母乳に放射能汚染はないのか」という事を心配して、茨城県のお母さんたち 5 名、福島県 3 名、宮城県 1 名 に母乳を提供していただき、放射能検査を
いたしました。その結果、茨城県のお母さんの母乳の複数から、ヨウ素− 131 が検出されました。福島県の方の母乳は不検出( 1 名検査中)、宮城県の方の母乳も不検出でした。

田中上奏文のつづき4

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/19 23:15 投稿番号: [8214 / 8458]
◆ソ連GPUが関与の疑い
  産経新聞は、平成11年9月7日号で『田中上奏文』について報じました。前田徹ワシントン支局長は、次のようにリポートしています。
  「ソ連国家政治保安部(GPU、ゲーペーウー、KGBの前身)がその偽造に深く関与していた可能性が強いことが、米国のソ連関連文書専門家によって明らかにされた。亡命したソ連指導者の一人、トロツキーが上奏文作成時の2年も前にモスクワでその原文を目にしていたことを根拠にしており、日米対立を操作する目的で工作したと推測している」と。

  この専門家とは、米下院情報特別委員会の専門職員として、ソ連の謀略活動を研究してきたハーバート・ロマーシュタインです。彼は、米国でのソ連KGB活動の実態を明らかにするため、元KGB工作員で米国に亡命したレフチェンコ中尉と共同で調査を行いました。その際に、『田中上奏文』の作成にはソ連の情報機関が関与していたのではないか、との疑惑が浮かんできたのです。そしてトロツキーが、『田中上奏文』について証言した文書を発見したと記事は伝えています。
  ロシア革命の指導者・トロツキーは、レーニンの死後、独裁を狙うスターリンに「人民の敵」というレッテルをはられ、海外に逃亡した先で暗殺されました。ロマーシュタイン氏は、トロツキーが昭和15年(1940)に、その死の直前に書いた遺稿ともいえる論文を、雑誌『第4インターナショナル』に投稿しており、その中に『田中上奏文』に関する重要な記述があることを発見したというのです。
  この論文によると、トロツキーはまだソ連指導部の一人だった大正14年(1925)の夏ごろ、GPUのトップ、ジェルジンスキーから次のような説明を受けました。
  「東京にいるスパイが大変な秘密文書を送ってきた。日本は世界制覇のために中国を征服し、さらに米国との戦争も想定している。天皇も承認している。これが明らかにされれば国際問題化し、日米関係がこじれて戦争に至る可能性もある」と。
  産経の記事は、さらに次のように書いています。
「当初、トロツキーは『単なる文書だけで戦争は起こらない。天皇が直接、署名するとは考えられない』と否定的だったが、その内容が日本の好戦性と帝国主義的政策を説明するセンセーショナルなものだったためソ連共産党政治局の重要議題として取り扱いが協議され、結局、『ソ連で公表されると疑惑の目で見られるので、米国内のソ連の友人を通じて報道関係者に流し、公表すべきだ』とのトロツキーの意見が採用されたと証言している。

  ロマーシュタイン氏はこうした経緯を検討した結果、GPUが25年(註   1925年=大正14年)に日本外務省内のスパイを通じてなんらかの部内文書を入手した可能性は強いが、田中上奏文は、盗み出した文書を土台に二七年に就任した田中義一首相署名の上奏文として仕立て上げたと断定している。

「食人宴席」鄭義著・黄文雄訳P79〜P81

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/19 03:56 投稿番号: [8213 / 8458]
1968年   6月18日。
少なくとも三つの地方で《人肉宴会》が行なわれた。三里区台村大隊の糾弾闘争には、陳漢寧らが出席した。会場では、全大隊が集まり、そのまわりには武装民兵が遠巻きに囲んで、殺気がみなぎっていた。文革主任、陳思庭はその会議を主催し、糾弾される人々の罪状を読み上げ、続いて、群集が約30分前後、糾弾をくりかえした。その後、陳が群集に向かって「こいつらは、どうすればよいか」と質問した。群衆はそろって「殺せ」と絶叫した。陳は刀で三人を切り殺し、しかも腹を切り裂き、肝を取り出し、村人とともに煮て食べた。
この事件について、県の整党委員会の事件関係資料によると、陳は最初、腹を裂き、肝を取り出すことができなかった。どういうふうに手を下せばよいか知らなかったのだが、そのとき、一人の年寄りが彼に人肉と肝を切り取る要領を教えたという。腹部に向かって「人」の字の形で切り、足で力強く下腹部を踏めば、心臓と肝臓がすぐとび出て来るということを教えたのだ。つまり、これは、腹を裂き、心臓をえぐり取る技術がすでに存在していたことがわかる。
同じ日に、黄茆人民公社が街頭引き回しデモ闘争を行なった。小学校教師の張伯稃が連れて来られて、つるし上げ糾弾集会が行なわれた。張はもう逃げられないと観念して死にもの狂いで逃げ出した。逃げ道がないので川の中に飛び込んだところ、水中から彼を川岸まで引きずって来て、刀で腹を裂き、心臓と肝を取り出して持ち帰り、缶詰の空缶で煮て食ったという。そのとき、張は皮膚、人肉、及びはらわたまで、すっかり切り取られてなくなってしまったのだそうだ。
もういたるところで《人肉宴会》が開かれ、黄茆人民公社の食品部および販売部は、もっとも《人肉宴会》が賑やかで直径一尺八寸の大鍋で人肉を煮て、十数人が宴会を楽しんだという。

田中上奏文のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/17 22:19 投稿番号: [8211 / 8458]
その後、『田中上奏文』が偽書であることは、国際的に定説となっており、欧米でも、代表的な百科事典である『エンサイクロペディア・アメリカーナ』や『ブリタニカ』に偽造文書と書かれています。一例として『ブリタニカ』の1990年版には次のように記されています。

「彼(田中義一)が満洲国の指導者張作霖の暗殺に関与した陸軍将校を処罰しようとした時、陸軍は彼を支持することを拒み、彼の内閣は倒れた。その後まもなく、田中は死亡した。天皇に中国での拡張政策を採用するよう助言したとされる文書”田中メモリアル”は、偽造されたもの(forgery)であることが明らかになっている」と。

◆中国人の手による偽造が濃厚

一体、誰が何の目的で、『田中上奏文』なる文書をつくり、世界にばらまいたのでしょうか。

中国で一般に流布されているのは、『田中上奏文』は昭和2年(1927)7月、昭和天皇に上奏された後、極秘文書として宮内庁の書庫深く納められていたのですが、翌3年6月、台湾人で満洲との間で貿易業をやっていた蔡智堪(さいちかん)という男が宮内省書庫に忍び込んで、二晩かかって書き写したものを中国語訳文にし、昭和4年12月に公表したものだとされています。
外国人が皇居の中にある宮内省に二晩も忍び込んで、訳文で25ページにもなる分量の文書を書き写したというのですから、荒唐無稽な話です。しかも、いまだにその日本語原文は発見さていないのです。

歴史家・秦郁彦氏は、『田中上奏文』が偽書である証拠として、9点を挙げています。そのうち主なものは以下のとおりです。

(1)田中が欧米旅行の帰途に上海で中国人刺客に襲われたというが、正確には「マニラ旅行の帰途、上海で朝鮮人の刺客に襲われた」ものである。田中本人が上奏した文書で、自分自身が襲われた事件を、このように書き間違えるはずがない。

(2)大正天皇は山県有朋らと9カ国条約の打開策を協議したというが、山県は9カ国条約調印の前に死去している。

(3)中国政府は吉海鉄道を敷設したというが、吉海鉄道の開設は昭和4年5月で、上奏したとされる昭和2年の2年後である。

(4)昭和2年に国際工業電気大会が東京で開かれる予定というが、昭和2年にこの種の大会はなかった。昭和4年10月の国際工業動力会議のことかと思われる。
秦氏は、このように記述の誤りを具体的に指摘し、偽作と断定しています。さらに、日本政府が『田中上奏文』の存在を知ったのが昭和4年9月であり、上記の(3)(4)と併せて、執筆時期を昭和4年6月から8月と見ています。

また、秦氏は、この時期に、張作霖の長男・張学良の日本担当秘書・王家腊(おうかてい)が、「10数回に分けて届いた」「機密文書」を中国語に訳させた上で、「整合性を持った文章」に直して印刷した、という手記を残していることから、王が偽造者だろうと推定しています。(4)

Re: 田中上奏文のつづき2

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/17 10:25 投稿番号: [8210 / 8458]
「日本は俺」と、最近よく、思う。。。(-_-;)。(ブルーですな)

目先の利益に、場当たり的に反応し、
自分や周囲の人に嘘を突き通し、自分や他人をごまかし生きてきた。
自分の人生をかなり台無しにしてきた気がするし、
そのツケは、いずれ取り返しのつかない災いとなって目の前に現れる。

どうしてこうなってしまったのか?私の人生、日本の未来。。。(-_-;)

たぶん、間違っていたのは、人生の目的、国の進むべき指針だと思う。
「勉強して良い就職して、お金を儲けて、嫁さんもらって家建てて、子供を育てて・・・」
なんてーのは、人生の目的ではなく、ただの家庭&過程のようなもの。
(まあ私はそのどれ一つも成功していないけれど。。。(-_-;)w)

人生の目的は、今ならよくわかる。
自分の中の道徳観や倫理観を高めること。だ。
自分で考え、判断し、行動する、力。それを高めること。(勉強とはそのための「学習」)

これが高まれば高まるほど、生き延びる確立が上がる・・・。
なるほど、そもそも人も動物なんだから、目的も、シンプルな話。

この土台がしっかりしていないと、目先場当たりに思考し行動し、
「自分の心の中」や「自分の身体の中」に、「原発が乱立」し、
いずれ、一発で、土台そのものから破壊され汚染され、腐敗する。

今回、それがよくわかった。痛いほどに。

自分の心の中の原発が、ぶっ壊れた時、
自分は、大したことない、大したことないと自他共に嘘をつき、そして責任逃れをするだろう。
「こんな人生になってしまったのは、自分のせいじゃない!!」的な。
それを世間にぶつけてくる。
通り魔の大半は、そういう連中だ。私同様な。。。(-_-;)

今回、それがよくわかった。痛いほどに。

「しょうがないよ・・・」と、母は言う。
「原発乱立し始めた時、我々国民はお金儲けに夢中で、無関心を装っていたのだから」と。

やはり、「日本は俺」なのだと思う。。。(-_-;)

田中上奏文のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/16 20:35 投稿番号: [8209 / 8458]
今日『田中上奏文』または『田中メモランダム』『田中メモリアル』と呼ばれる文書の存在に、日本政府が気づいたのは、昭和4年(1929)の9月でした。その時点で、すでに中国語版と英語版の両方があったようです。そして12月に、初めて中国語版の全文が活字の形で公表されました。漢文では『田中奏折』といいます。文書は、南京で出版された月刊誌『時事月報』の誌上に掲載されました。翌5年2月、わが国の外務省は中国各地の領事館に対し、流布の実況を調査し、中国官憲に抗議、取締りを申し入れるよう訓令しました。

英語版の公刊は、昭和6年(1931)9月、上海の雑誌『China Critic』に出たものが最初とされます。1930年代、米国で英語版のパンフレットが作られ、世界各国に広く配布されました。ソ連に本部のあるコミンテルンは、昭和6年12月、雑誌『国際共産主義者』にロシア語版を発表しました。

英訳された『田中上奏文』は、米国で強い反発を呼び起こしました。文書に「日本が世界制覇を達成するためには、まずシナ・蒙古を征服し、その過程で米国を倒さなければならない」という内容があり、米国との戦争が明確に打ち出されていたからです。ルーズベルト大統領もその内容に注目したことが記録されていると伝えられます。この文書は、米国の対日姿勢の硬化に一役買ったと言えましょう。(1)
実は『田中上奏文』には、本来なら当然あるべき日本語の原典が、現れていないのです。また、内容には、文書内の日付などに矛盾や誤謬が多く、また、殊更どぎつい表現が使われています。到底、日本の首相が天皇に上奏するために書いた文書とは考えられません。昭和5年2月、わが国の外務省は、文書を偽造と断じ、シナの国民党政府に抗議したのです。

ところが、そうした文書が、シナでは絶好の「排日資料」として利用され、繰り返し宣伝されました。たとえば、昭和7年11月、国際連盟の第69回理事会で、満州事変が討議された際、中国の代表は『田中上奏文』に言及しました。日本代表・松岡洋右が、この文書を真実とみなす根拠を追求したところ、中国代表は「この問題の最善の証明は、実に今日の満州における全事態である」と答えました。ひどいこじつけの論法ですが、その後の東京裁判でも、中国は同じ論法を使っています。(2)

『田中上奏文』は10種類もの中国語版が出版され、大陸の津々浦々で流布されました。ロシア語版、英語版、ドイツ語版まで出されて、世界中に「世界征服を目指す日本」というイメージをばらまいたのです。ただし、「日本語訳」はありますが、日本語で書かれたはずの原典はいまだに発見されていません。最初から偽書であるから、原典が存在しないのです。

東京裁判では、米国・旧ソ連・中国などの連合国が日本を裁くうえで、『田中上奏文』を重要な根拠としたようです。

冒頭陳述において、キーナン主席検事は、日本は昭和3年以来、「世界征服」の共同謀議による侵略戦争を行ったとのべました。被告等が東アジア、太平洋、インド洋、あるいはこれと国境を接している、あらゆる諸国の軍事的、政治的、経済的支配の獲得、そして最後には、世界支配獲得の目的をもって宣戦をし、侵略戦争を行い、そのための共同謀議を組織し、実行したというのです。

なぜ昭和3年以来かというと、この年、張作霖爆殺事件が起こったからです。その事件が起点とされる理由は、『田中上奏文』が日本による計画的な中国侵略の始まりをこの事件としていることによります。

東京裁判で弁護団の中心となった清瀬一郎は、冒頭陳述の内容が、『田中上奏文』に基づいているのではないか、と気づきました。そして弁護団はこの文書が偽書であることを証明する戦術をとりました。

証言に立った蒋介石の部下、秦徳純に対して、林逸郎弁護人は「日本文の原文を見たことがあるのか」と質問しました。「見たことはない」と秦は答えました。ウェッブ裁判長の質問に対しても、「私は、それが真実のものであることを証明はできないし、同時に真実ではないことを証明することもできない。しかし、その後の日本の行動は、作者田中が、素晴らしい予言者であったように、私には見えるのである」と答えました。

結局、キーナン首席検事は、『田中上奏文』を証拠として提出しないことにしました。しかし、こうした信憑性のない文書をもとにして作られていた裁判の筋書きは改められずに、日本は、国家指導者の共同謀議によって、昭和3年以来、中国や英米等に対し、計画的な侵略戦争を行ったとして断罪されました。(3)

田中上奏文

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/15 23:18 投稿番号: [8208 / 8458]
細川一彦のオピニオンより

東京裁判において、日本は、国家指導者の共同謀議によって、昭和3年(1928)以来、計画的に侵略戦争を行ったとして、断罪されました。その裏付けの一つとされたのが、『田中上奏文』です。

中国語では「田中奏折」と記し、英語では「The Tanaka Memorandum」または「The Tanaka Memorial」と記します。「田中メモ」であれば個人的な覚書ですが、「田中メモリアル」となれば歴史的な価値のある文書という意味となります。この文書が偽書であることは、既に国際的に定説となっています。欧米でも『エンサイクロペディア・アメリカーナ』や『ブリタニカ』に、「偽造文書」と解説されています。しかし、今も中国のみはこれを本物として、対日外交に利用し、南京事件もこの文書に書かれた計画の一例としています。

『田中上奏文』の虚偽を徹底的に明らかにしなければ、日本の汚名をぬぐうことはできず、国際社会における正当な地位を回復し得ないのです。

  この20世紀最大の謀略文書について、最近、ソ連が捏造したものだという新説が出ています。また、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方が主流になりつつあるといいます。もしそうだとすると、わが国は、共産主義の謀略に見事に嵌められたことになります。
  この文書がどういうものかということを振り返りながら、明らかになりつつある実態を確認してみたいと思います。

『田中上奏文』には世界制覇の野望に基づく計画が書いてあり、天皇も承認した、それを実行に移したのが昭和3年の張作霖爆殺事件だ、その後の日本の行動はこの文書に書かれた計画に基づいている、という説が流布されています。
文書の一節には、「世界を征服しようと欲するなら、まず中国を征服せねばならない。中国を征服しようと思うなら、まず満州と蒙古を征服しなければならない。わが国は満州と蒙古の利権を手に入れ、そこを拠点に貿易などをよそおって全中国を服従させ、全中国の資源を奪うだろう。中国の資源をすべて征服すればインド、南洋諸島、中小アジア諸国そして欧州までがわが国の威風になびくだろう」とあるとされます。

『田中上奏文』の「田中」とは、昭和初期に首相を務めた陸軍大将・田中義一のことです。田中内閣が発足したのは、昭和2年(1927)4月20日。シナでは、軍閥、コミンテルン、共産党等が絡む事件が続き、わが国のシナへの対応が難しくなっていた時代です。

田中は組閣に当たり、昭和天皇より、外交には特に慎重熟慮するようにとの御言葉を賜りました。そこで、田中は、根本的な大陸政策を確立するために一大連絡会議を開きました。この東方会議の議決に基いて田中首相が天皇に上奏し、天皇が署名したとされるのが、『田中上奏文』です。そして、『上奏文』の計画の実行の第一歩として、昭和3年6月、関東軍は張作霖事件を起こしたとされるのです。
しかし、実際は、全く異なります。張作霖事件について、陸軍は真相を隠して事件の揉み消し工作をしたというのが通説です。田中義一首相は責任者を厳しく処分すると天皇に申し上げたのですが、真相究明に一年もの時間を掛けた挙げ句、白川陸軍大臣があれは陸軍が関与したのではないようだったので、行政処分にしましたと上奏したのです。すると天皇は、汝の今言っていることは前回に自分が総理に命じ、総理が約束したところと違っている、そんなことでは軍の規律を維持できない、と激しくお怒りになりました。田中首相は、お目通りもかなわない。そこで田中は非常な衝撃を受け、田中内閣は即日、総辞職。首相は謹慎して3ヶ月足らずの後に、狭心症で亡くなりました。
田中首相が上奏した文書を、天皇が承認して、計画を実行したなどということは、あり得ない話であるわけです。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/14 22:57 投稿番号: [8207 / 8458]
空気と海水は、散々汚され、水も野菜も魚も…でも、我々はそれを食べるしかない。
地雷原で遊んでしまう外国の子供達のように、
危機的な精神状態は、長くは持たないから、
「まあ、大丈夫じゃないかな。。。(-_-;)」と、
目に見えぬ危険より、動物的本能的欲求が勝るのは当然だ。

国民は、癌に侵される。

小児癌や奇形児の多発、一番可哀相なのは、子供や母親達だ。
悲しみ泣き叫んだところで、
「原発による放射能汚染との因果関係は、証明できない」として、
国も裁判も電力会社も、惨めな母子を、さらに足蹴にするだろう。

我々、日本国の悲劇は、たぶん、まだ始まったばかりだ。。。。(-_-;)

尾崎秀実という人物のつづき20

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/14 22:38 投稿番号: [8206 / 8458]
田中上奏文、スノー、スメドレー、ゾルゲ等をたどっていくと、ソ連・中国・アメリカの共産主義者及びわが国の共産主義者の間の連携には、これまで知られている以上に、広く深いものがあるに違いないと感じられます。最も気になるのは、近衛文麿の上奏文の内容です。
  「これら軍部内一味の革新論の狙ひは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及民間有志(略)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに躍らされたりと見て大過なしと存候。‥‥彼等の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」
  これは単なる一政治家の回想録の一部ではありません。昭和天皇にあてた元首相の赤裸々なお詫び文の一節です。そにに、重みがあります。敗戦を覚悟した近衛は、戦後に共産革命の起こることを深刻におそれ、自責の念に駆られていました。近衛を操っていたのは、彼を取り巻くブレーンの中核だった尾崎秀美です。尾崎の暗躍はゾルゲ事件で露呈しました。その尾崎の背後には、一般に認識されているより、はるかに重大なものがありそうだと私は感じていました。

  そうしたところに、三田村武夫氏の著書『大東亜戦争とスターリンの謀略』(自由社)を知り、一読。ズシンと腑に落ちるものがありました。戦前、”満州の三スケ”といわれ、東条内閣の商務大臣を務めた岸信介氏は、三田村氏の著書に寄せて、次のように書いています。
  「支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。
  近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる」と。
  岸氏は戦後首相になった人物で、その気骨と頭脳の優秀さには定評があります。三田村氏の書著が単なる謀略史観の類であれば、自ら序文をしたため、「操り人形」などと自嘲しはしないでしょう。

  三田村氏によると、尾崎は「最も忠実にして実践的な共産主義者」(尾崎自身の言葉)であり、レーニンの「帝国主義戦争を革命へ」という戦術に基づき、軍部の中枢や近衛の政策ブレーンに入り込んで、日本を無謀な戦争に駆り立て、かつ戦争を長期化させて敗戦に至らしめ、「敗戦革命」を起こそうと画策していたのでした。つまり、資本主義国同士の戦争を革命の好機とし、これを醸成し、敗れて弱った国から革命を起こしていって、最後は世界共産主義革命を完成させるといういう戦略の実践です。
  尾崎の最大の仕事は、陸軍を北進論から南進論に転換させたことです。この転換で、日本は英米と戦わざるを得なくなる道に進みました。スターリンは、日本軍をシベリアから南方へと向けさせることで、ドイツの侵攻から命拾いをし、日米を決戦に引き込むことで、漁夫の利を得たのです。

  戦後の日本では、コミンテルンの32年テーゼの二段階革命論の第一段階・ブルジョワ革命に当たる変革が実行されました。実行者は、ソ連ではなくアメリカ、日本の共産主義者ではなくGHQの官僚たちでした。GHQには多くのニューディーラー左派がいました。彼らはケーディスを始め、共産主義者ノーマンの書いた日本史・日本論を「聖書」のようにして読み、日本弱体化の参考にしました。GHQのブルジョワ革命的な占領政策には、日本の共産主義者や容共的な近代主義者が多数協力したのでした。

尾崎の目的は「敗戦革命」による日本の共産化でした。戦後日本では、それは押し留めることができています。しかし、共産化の前段階としてのブルジョワ革命的な変革は、こうした形で遂行されてきたのです。

アグネス・スメドレーのつづき5

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/13 09:55 投稿番号: [8205 / 8458]
スメドレーは1930年代に始まった国共内戦と日中戦争の取材を行い、記事をフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングやマンチェスター・ガーディアン紙などへ投稿した。中国共産党傘下の八路軍へ密着した取材などで詳細なレポートを表している。1937年には戦場の第一線の取材を離れ、医薬品の供給や総括記事の執筆などを、1938年から1941年にかけては国民党と共産党双方の上層部の取材を行っている。このような精力的な活動は中国大陸での戦争を取材する外国人記者としては飛び抜けたものであった。

その後アメリカに戻り、第二次世界大戦及び国共内戦における中国共産党への援助に関する活動に従事している。この間数冊の著作を執筆した。印税ほ全て社会のために使い、友人の家に間借りするような質素な生活を送っていた。戦後1947年になり、東西両陣営の間の冷戦が深まる中で、彼女はスパイの容疑をかけられた。

スメドレーの活動も影響してか、アメリカからの支援が減った国民党軍は敗北し台湾島に遷都し、1949年には国共内戦に勝利した中国共産党によって、中華人民共和国が設立された。その翌年の1950年に、米下院非米活動委員会からスメドレーに召喚状が発せられたが、彼女はその日にロンドンに飛び、その晩急死した[1]。スメドレーの死の2年後、1952年にFBIは彼女に関する捜査を打ち切っている。遺骨は北京の墓地へ埋葬された。

アグネス・スメドレーのつづき4

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/13 09:51 投稿番号: [8204 / 8458]
スメドレーは1892年にミズーリ州のオスグッドで農家の5人兄妹の1人として生まれた。10歳の頃コロラド州へ移り、学校へと通いながら家計を助けるために働いていた。彼女は正規の教育を受ける機会はなかったが、学習に対する興味は失わなかった。1911年から1912年にかけて、スメドレーはアリゾナ州テンピの師範学校で特待生として学んだ。学内では学生新聞の編集を行っている。
その後、スメドレーはアーネスト・ブラディン(Ernest Brudin)と結婚し、カリフォルニア州へと移住した。この地で社会主義の思想に触れた彼女は、6年後に離婚するとニューヨークへと向かった。ニューヨークではマーガレット・サンガーと共にBirth Control Review誌で働いている。インド人の共産主義者ヴォレンドラナート・チャットパディアと関係を深めると、彼とともにドイツへ渡った。1929年には初の自伝を書き上げている。

チャットパディアと分かれたスメドレーは次なる興味の目標を中国大陸へと定め中華民国の上海へ向かった。上海ではソビエト連邦のスパイであったゾルゲと親密に親交し、後に彼の協力者となる尾崎秀実を紹介した。尾崎はスメドレーの著作を日本語に翻訳している。このような経緯から、マッカーサーの部下であったチャールズ・ウィロビーはスメドレーをソビエトのスパイであると主張していた。スメドレーはこの主張に対し戦後告訴を試みている。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/13 08:15 投稿番号: [8202 / 8458]
日本の問題を直視する勇気が日本人には必要です

アグネス・スメドレーのつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/13 04:34 投稿番号: [8201 / 8458]
◆「20万人虐殺説」を唱えた容疑者

昭和8年(1933)にドイツでナチスが政権を取ると、チャットパディアは、ソ連に亡命します。レニングラードの大学で教鞭をとっていたといいますから、相当な評価を受けていたのでしょう。しかし、最後は、スターリンに粛清されてしまいます。

一方、スメドレーは、シナで活動を続けました。彼女は日中戦争の間、中共軍に従軍して各地を転戦し、中国共産党の代弁者のようになって、欧米に著述を書き送りました。

彼女は、昭和16年(1941)に帰米しましたが、のちアメリカ政府からスパイという告発を受けます。彼女は抗弁して、逆に政府に謝罪させましたが、結局、国を追われ、昭和24年(1949)に渡英します。そして、困窮のうちに、ロンドンで客死。遺骨は、北京に葬られたのことです。彼女の思いは、シナにあったのでしょう。共産主義に骨まで献身したというわけでしょう。

冒頭に、「南京大虐殺」についてのスメドレーの記述を書きました。私は、スメドレーの「20万人虐殺説」は悪意あるデマ宣伝であり、その背後に、なんらかの組織の意図・目的があると考えます。
スメドレーの足跡には、赤い疑惑がつきまといます。専門家の方々のさらなる研究に期待しています。

アグネス・スメドレーのつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/13 02:58 投稿番号: [8200 / 8458]
アグネス・スメドレーは、アメリカ人でしたが、インド独立運動に関心を抱くようになりました。そして、ベルリンで勉強していた時、インド人のチャットパディアと出会い、結婚します。

チャットパディアは、単なる愛国的な独立運動家ではありませんでした。ロシア革命後、共産主義者となったからです。彼はインド共産党の創立に加わり、またドイツ共産党でも活動しました。そして、共産主義による国際的な民族解放運動を推進していました。

スメドレーは、そうした人物と数年間、共同生活をしているのです。チャットパディアはソ連=コミンテルン系の共産主義者ですから、スメドレーの方も、共産主義運動に献身あるいは協力していたと見るべきでしょう。仮に二人の目的は、インド人民の悲願、民族独立だったとしても。

スメドレーは、昭和3年(1928)に、ドイツの新聞『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の記者となります。この新聞は、フランフルトに本社があります。その都市こそ、西欧マルクス主義の牙城・フランクフルト学派の本拠地でした。

スメドレーは、ドイツでは珍しかっただろうインド人の共産主義者と生活を共にしながら、よくこうした職を得られたものです。さらに彼女は、なぜかシナにも関心を持つようになり、昭和4年、特派員として、シナへ行きます。
その翌年、上海に、コミンテルンの大物スパイが現れます。その名は、リヒャルト・ゾルゲ。かのゾルゲ事件で名高い人物です。ゾルゲは、ドイツ人ジャーナリストの肩書で、ソ連からシナに派遣されたのです。そこでゾルゲは、スメドレーと会い、彼女から尾崎秀実を紹介されます。尾崎は、ゾルゲ事件に連座した新聞記者です。

昭和8年(1933)1月、ドイツにナチスのヒトラー政権が成立しました。すると、ゾルゲは、コミンテルンから日本行きの指令を受けます。彼はまずドイツに入って、偽装ナチ党員となり、同年9月には『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の東京特派員の職を得ます。この新聞社は、スメドレーが勤めている新聞社です。

ゾルゲは来日すると、尾崎と共に、国際スパイ活動を展開します。一方、スメドレーはシナに残り、中共軍と行動を共にします。

どうも、どこかに筋書きが書かれているような気がします。素人の気楽さで、仮説を立てると・・・コミンテルンの支部組織がベルリンやフランクフルトにあり、『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の幹部に共産主義者がいた。チャットパディア=スメドレー=ゾルゲは、同じ指示系統で活動した。スメドレーは使命を受けてシナに派遣され、現地のコミンテルンの指示を受けて、ゾルゲに協力し、尾崎秀実を紹介した。また彼女はチャットパディアと協力してインド・シナの共産化を画策した・・・。

スメドレーは、実際、チャットパディアとともに、毛沢東・周恩来・朱徳と、ガンジー・ネルーをつなぐ役目をしています。しかし、インドの賢者たちは、チャットパディアと異なり、ソ連・中共の共産主義とは一線を画しました。これは、インドの運命にとって、賢明な判断だったと思います。チャットパディアの路線を行っていれば、インドは東欧と同じ悲惨を味わっただろうからです。

アグネス・スメドレー

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/12 18:37 投稿番号: [8199 / 8458]
  「南京事件」は、エドガー・スノーによって、女子供を含む4万2千人が虐殺されたと宣伝されました。さらにそれをもっと誇張したのが、アグネス・スメドレーです。彼女は「日本軍は20万人を虐殺した」と拡大宣伝しました。この女性ジャーナリストの行動には、背後にある組織の意図・目的がうかがわれます。

◆「南京大虐殺」として虚報

南京事件について、4万人虐殺説を言い出したのは、M・S・ベイツ博士でした。ベイツは中国国民党中央情報部の顧問でした。彼の所説は、「非武装の4万人近い人間が殺された。そのうち約3割は非戦等員だった」というもの。国民党は宣伝部に雇ったエージェントのH・ティンパーリを使い、『戦争とは何か』にベイツの説を載せて宣伝しましたが、中華民国の公式記録では、どれもベイツの「4万人虐殺説」を削除し、公式に再三、その説を否認していました。

ところが、これを改めて反日宣伝に持ち出したのが、エドガー・スノーでした。スノーは、昭和16年(1941)刊行の『アジアの戦争』に、日本軍は「少なくとも4万2千人を殺害した。その大部分は女子供であった」と書きました。ベイツの説では、4万人のうち1万2千人ほどが市民だったのに、スノーは、4万2千人の大部分は女子供だったと、改ざんを加えたわけです。数字と割合を変え、しかも犠牲者は、単に市民ではなく女子供、と言い換えたのです。

さらに、そのうえを行ったのが、アメリカの女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーでした。スメドレーは、昭和18年(1943)に出した『シナの歌ごえ』で、「日本軍は、20万人を虐殺した」と、拡大宣伝しました。死者の数は、5倍に増やされました。東京裁判で出される数字に、一挙に跳ね上がったわけです。

スノーもスメドレーも、南京事件の現場を目撃・検証したわけではありませんから、全くジャーナリストのモラルが疑われます。むしろ、彼等は、客観的な第三者の立場を装って、シナの事情に疎い欧米の読者に対し、意図的に、悪質なデマ宣伝をしたと見るべきでしょう。スメドレーについては、スノー以上にその可能性が高いと思います。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/04/10 21:46 投稿番号: [8198 / 8458]
今日のCMLの投稿

「 国民投票により原発政策の転換を!」だって

国民投票

あれほど反対しておきながら都合のいい時だけ持ち上げるのか。

勝手なものだよな。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/04/10 02:12 投稿番号: [8197 / 8458]
ホントにどうしようもない中国人ども・・・

http://www.youtube.com/watch?v=3XK0e3Yh3sg

でも、決して嫌いにならず温かい目で見てやってほしい。

僕からのお願いです・・・・


な〜んてね(笑)

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/04/08 22:13 投稿番号: [8196 / 8458]
KY・・・・・意味:   空気読めない人

昨日、CMLにこんな人の投稿があったね。
転送だけど。

http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-April/008719.html

>・・・原発事故からどう復興していくかを学ぶという面に着目すれば、極めて時宜を得ている。「鑑賞に来る気になるのか」との心配は全く不要。この時期だからこそ、かなりの来場者を集めたことは間違いない。「被災者の心情」にしたって、目の前で起きている福島第1原発の事故の映像ほど放射能の恐ろしさを十二分に見せつけたものはないわけで、もはや、ちょっとやそっとのことでは誰も驚かないし、怒らないですよ。


これを書いた奴ってホント無神経な奴だな。
原発の放射能に現地は当然として今や日本国中がピリピリしているというのに・・・、コイツのブログを読んでいくうちにだんだんムカッ腹が立ってきたよ。

CMLでは反論する者いないのか?

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/04/08 21:34 投稿番号: [8195 / 8458]
>やっと、日本も   韓国並みになれるかどうかだな。


犬喰いは嫌だ!
同類(オトモダチ)にはなりたくない!

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: chiniasituita 投稿日時: 2011/04/08 17:12 投稿番号: [8194 / 8458]
特捜による取調べが   全面可視化される道筋がついてきた。
やっと、日本も司法手続きで   先進国並みになるということ、それは
やっと   日本が   韓国並みになったということでもある。

韓国はとっくに   可視化している。   つまり、司法については   韓国よりも日本は遅れていたが、
これで   やっと   韓国に   並ぶことができたということだな。

あのー、あれですよ、   可視化については、法相をはじめとして国会議員などが   何回か韓国にいって   どのように行われているのか
学ぶ事態になっていた。

司法のあり方ほどほど、その国の文明度を計るものはないということだから   韓国は死刑制度はほぼ廃していて、
日本人が気がつかないうちに   韓国のほうが先進化していたということだ。
まあ、日本の司法の後進国ぶりは   欧米からも飽きられてるというのは   おそらく   日本人自身は   知らないのだろう。
代用監獄とかですね、   拘束期間がないとか、   欧米ではありえないことが   いまでも日本では行われていて、そのこと自体が
日本の後進国振りを   彼らからすれば   示していることなのだ。


やっと、日本も   韓国並みになれるかどうかだな。、

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/07 08:24 投稿番号: [8193 / 8458]
なるほど

中国政府は中国国民を焼いて食べた

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/04 23:49 投稿番号: [8192 / 8458]
中国政府は中国国民を6500万人殺しておきながら、中国の歴史教科書でこの大殺戮を日本軍がやったと教えている。
しかも、中国政府は自分たちが殺した中国国民を焼いて食べたことは教えていない。
だから私が正しいことを中国国民に教えよう。
「中国共産党政府は中国国民を6500万人殺戮して、この中国国民を焼いて食べた」

この記事は1968年7月の人食い記事である。

文革時代の食人について書かれた「食人宴席」には
「武宣県では、食人事件が流行にさえなった。街頭引き回しデモ闘争があるたびに、老婆たちはかごを下げて、糾弾大会の終わるのをじっと待っていた。人間が殺害されると死体に競って群がり、なるべくいい人肉を切り取って持っていく。遅れてきた者は人肉を切り取れないので、骨まで持っていく。人肉を食べた者は幹部の中でも少なくなかった。
略)
もっとも残虐な食人事件は、生きているままで腹を裂き、まだ息絶え絶えなのに肉一切れ一切れを削ぎ落とし、その人肉を油で揚げて食べるということだろう。」P六二〜六三
「陳は最初、腹を裂き、肝を取り出すことができなかった。どういうふうに手を下せばよいかを知らなかったのだが、そのとき、一人の年寄りが彼に人肉と肝を切り取る要領を教えたという。腹部に向かって『人』の字の形で切り、足で力強く下腹部を踏めば、心臓と肝臓がすぐとび出て来るということを教えたのだった。つまり、これは、腹を裂き、心臓をえぐり取る技術がすでに存在していたことがわかる。」P八〇
「一九六八年七月一日夜八時、

黄副校長の人肉は、人間の教育と人材を育成する場所で、すっかり削ぎ取って持ち去られ、最後は人骨しか残らなかったという。まことに恐ろしい光景が出現したのであった。
略)
やがて、人肉削ぎが始まり、だれが最初に切ったのか、諸説紛々いろんな説があるが、大多数の証言によると、当時、女子学生の紅衛兵・覃柳芳が最初に人肉を削いだようだ。彼女は、黄副校長の息子と恋愛関係にあり、彼女は自分の立場をはっきりさせるために、人肉を取る行動に走ったらしい。
彼女はもう一人の学生の名前を告白した。黄佩農である。彼は、最初に肝を切り取ったのだった。
略)
彼女の証言によると、自分と甘票英らが見たところでは、黄佩農は肝を下げて、近くの田んぼまで行って、水で洗い、その後、肝を炊事場まで持っていったようだという。また多くのクラスメートも同じく人肉を切り取って、食堂まで走っていったという。
略)
この日の桐嶺中学は、人肉料理をつくるのに忙しく、賑やかな光景が見られた。
厨房で人肉を煮たり、教員宿舎で人肉を煮たり、女子学生宿舎でも人肉料理をつくっている。教室の廊下で人肉を焼いたり、校内で人肉を焼いたり、臨時的につくられた二つのレンガの上に瓦をのせたかまど、自家制作の即席かまどで人肉を焼いているのが目撃されたのである。
政府側の資料でさえ、こう書いている。
『七月二日、桐嶺中学校の厨房のまわり、宿舎の縁の下など、人の肝、人の肉を焼く状況は、いたるところで見られた。いたるところが血だらけで、臭気が、なまぐさい匂いが漂い、煙がもうもうと出て、焦げた匂いが充満し、恐ろしい状況が人の度肝を抜いた』
略)
人肉を食うことができなかったのは、四人の黒いグループと言われた教師だけである。教師達は、たった二つの小さな竹かごに黄副校長の遺骨を入れ、牛の骨を担ぐように集めて埋葬した。
略)
・ ・・七月二日午後五時、われわれ四人が呼ばれ、遺骨収集に行った。黄副校長の遺骨は運動場近くのかわやの側に置いてあったので、二つの竹かごだけでそれを全部入れた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぼで、はらわたも流れ出していた。」P一〇一〜一〇六
「文革期間に、武宣県で殺され、迫害によって死んだ人間は五二四人。そのうち、食われた者は百数十人。最終的に裁判で有罪判決となった者は三十四人。刑期がもっとも長かったのは十四年、最短二年。一般的には七〜十年の刑であった。
ただ民衆の不満を和らげることができなかったのは、たった一人の死刑者もでなかったことだし、無期懲役さえ一人も出なかったことだ。簡単に計算すると、一人の人間を殺しても、刑期はたった半年だけにすぎないことになる。
略)
さらに人肉を食べた人間は、ただの一人さえも法的制裁を受けたことがなかった。私は武宣県の文革収拾事務所の四百余人の食人者の名簿を握っている。」P一三一
以上、「食人宴席」(鄭羲 黄文雄訳 光文社 一九九三年)より引用。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/04/04 19:48 投稿番号: [8191 / 8458]
今日、Mセンセイから反論されちゃったね。


>なぜなら、私は「暴言を吐くような人物は政治家やML管理人としてロクなことはしないだろうと考えます。」

nankinよ「この言葉、そっくりオンドレに返すわ!」と言ってやれいwww!

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/04/04 19:33 投稿番号: [8190 / 8458]
>戦争で負けた頃と同じ様な体制しか作れてないジャップ
成長がまるでない   それで世界全体に迷惑かける   三流人種ジャップ

>腹立たしいのは、日本人はいつからこんなにマヌケでセコくなったのかって!

やっぱり似てるわwww

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/02 17:49 投稿番号: [8189 / 8458]
私は市民派なので、相通じるものはありません。


まともな組織が作れない   隠蔽体質の村しか作れない   戦争で負けた頃と同じ様な体制しか作れてないジャップ
成長がまるでない   それで世界全体に迷惑かける   三流人種ジャップ

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/03/30 21:47 投稿番号: [8188 / 8458]
これはコピペ?

まぁどうでもいいやw

>そして、やはり大阪から徒歩いりした人たちが、避難所で、おにぎり、ぱん、スナック菓子を1000円以上で売りさばいていた、という酷い話もよくあったそうで、こいつらも日本人として、つるしあげるべきでしょう。


ビートたけし生放送で激怒「泥棒は撃ち殺せ。議員は作業服着るなら被災地行け」


「腹立たしいのは、日本人はいつからこんなにマヌケでセコくなったのかって!   泥棒が死体からお金を盗ったりさ、空き巣に入ったりさ、いろいろやるでしょ?   ああいうのはね、撃ち殺していいと思うんだよね」・・・・・・・・・・・・

http://rocketnews24.com/?p=81644

nankinは ビートたけし とどこか相通じるものがあるんじゃねーのw?ハハハ

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/29 20:42 投稿番号: [8187 / 8458]
今回は管の無能ぶりをさらけだして、救援物資そのものは現地についてもそのま
まで、避難所で、餓死した子供・老人がかなりでている惨状ですが、これだけとっ
てもクーデターとか起きないのが不思議な位です・・・

今回ほど酷くないとはいえ、神戸の避難所でも、なかなか救援物資が行き渡らず、
おにぎりの数が足りなくて、壮絶な取り合いになっていたそうです。
今回、海外メディアが、日本人は譲り合うと褒めてますけど、それは初期だけで
しょう、そのうち、物理的空腹に連日悩まされると、今度は、自然に奪い合いに
なります。

そして、やはり大阪から徒歩いりした人たちが、避難所で、おにぎり、ぱん、ス
ナック菓子を1000円以上で売りさばいていた、という酷い話もよくあったそ
うで、こいつらも日本人として、つるしあげるべきでしょう。

今回、そういうことがおこなわれているかわからないけど・・・

エドガー・スノーのつづき7

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/29 03:57 投稿番号: [8186 / 8458]
  鈴木氏によると、「スノーはアメリカ人にとって、神格化された地位にあったルーズベルトと三回も個人的な会談の時間を持った知識人であり、充分に信頼されている人物であった」のです。
  それゆえ、スノーの著作は、米国人には信憑性が高く、東京裁判における日本断罪のシナリオの原本とまでされたようです。

キーナン首席検事の冒頭陳述を鈴木氏は、次のようにまとめています。
  「日本の目的は世界征服であった。そのために、日本は侵略のための殺人教育を続けてきた。それは組織的、且つ計画的な共同謀議によって行われた。そして、そのターニングポイントとなった年月は、1927〜28年であった」と。
  この筋書きは、スノーが構成した論理そのものです。「1927〜28年」とは、田中上奏文を暗示する年代です。私見を述べますと、キーナンは偽書の疑いのある田中上奏文の名前はあげずに、この文書をスノー、そして宋慶齢が広く宣伝したように理解し、日本の罪状をつくりだすタネ本としたのでしょう。
  鈴木氏によると、スノーの『アジアの戦争』は、初めの部分は、日本では長年、「殺人教育」が行われ、その最初の成果が「南京虐殺事件」であるという構成になっています。これと同様に、東京裁判の検事側は、まず「日本の軍事教育」を最初に出しました。そして、「南京事件」は「日本人の度肝を抜く事件」として、裁判初期の段階で、とりあげられたのです。
  南京事件について、『アジアの戦争』がどのように誇張・捏造したかは、既に述べた通りです。スノー=キーナンの筋書きの中で、「南京大虐殺」という稀代の大嘘は、実に効果的に日本の断罪に用いられたわけです。
  東京裁判が終了した約1年後、昭和24年(1949)に、スノーが支援し続けた中国共産党は、「中華人民共和国」の成立を宣言しました。スノーはこの国に、限りない期待と希望をもっていました。そして、昭和35年(1960)に初めて、共産中国を訪れました。

  2年前から推進されていた毛沢東の「大躍進」政策は、当時、中国の農工業を混乱させ、大量の餓死と破壊をもたらしていました。しかし、スノーは、現実を見ることなく、人民公社を肯定し、粛清のうわさを否定し、毛沢東の個人崇拝をも肯定しました。
  昭和45年(1970)8月、スノーは戦後3回目の中国行きを行いました。全中国は、41年(1966)からの文化大革命の嵐におおわれ、国中が揺れ動いていました。毛沢東らは、最高の礼を以って、スノー夫妻を迎えました。そして建国21周年記念日に当たる10月1日、天安門前に作られた舞台の上で、スノー夫妻は、舞台の中心に、毛沢東と共に並び立ちました。
  百万人にのぼる若者たちは、口々に「毛沢東主席万歳!」を叫び、赤いネッカチーフを風になびかせながら行進します。スノーは毛沢東と共に、熱狂的な紅衛兵たちに応えました。
  毛沢東とスノーが天安門前で紅衛兵に手を振る写真は、11月19日、毛沢東の77歳の誕生日の人民日報に、大きく掲載されました。その写真説明には「中国に友好的なアメリカ人」と書かれていました。
  こうしてスノーは、毛沢東の個人崇拝と強権政治に荷担し、文化大革命という権力闘争を美化することにも貢献したわけです。

  今日、私たちは、中国の「大躍進」から「文化大革命」にいたる20年間とは、毛沢東の失政・暴虐による、混乱と破壊の時代に過ぎなかったことを知っています。
  毛沢東は、スノーが描いた「やせたリンカーン」ではなく、「言葉巧みなスターリン」だったのです。
  スノーの共産主義に対する思い入れが、全く誤ったものだったことは、明らかです。しかし、こうした根本的な誤りを犯していた人物が、戦前、わが国を、世界に向けて悪宣伝していたのです。
  スノーの悪宣伝は、清算された過去の逸話ではありません。冒頭に、鈴木明氏の言葉を引きました。「日本、中国、アメリカという、東アジアだけではなく、21世紀の世界に最も大きな影響を与えるかもしれない重要な三つの国で、いまでも喉元に突き刺さったままでいるような大きな歴史的課題が、まだ未解決のままである。いわゆる南京大虐殺論争である」と。この南京事件の虚構の鍵を握っていたのは、スノーでした。
  南京事件だけではありません。現在も我が国の教育や歴史認識を支配している東京裁判史観もまた、少なからず、反日・連共のデマゴーグ、エドガー・スノーが生み出したものでした。

エドガー・スノーのつづき6

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/29 03:43 投稿番号: [8185 / 8458]
  スノーについて重要なことは、スノーはルーズベルト大統領と会見し、彼の対中・対日政策にまで影響を及ぼしたほどの権威あるジャーナリストだったことです。
  昭和12年に『中国の赤い星』が出版されると、大統領の情報秘書官ハロルド・イキスが徹夜でこの本を読み通し、早速ルーズベルトにその内容を報告したという話は、有名です。
  そのことがもとで、日米戦争がはじまったすぐ後に、ルーズベルトは多くのアメリカ人ジャーナリストの中で、特にスノー個人を大統領執務室に招きました。スノーの言葉を借りれば、「私が大統領を取材するのではなく、大統領のほうが、私を取材した」のでした。
  鈴木氏によると、ルーズベルトは「全面的にスノーに賛成の意向を表明」し、スノーはルーズベルトへの「個人的情報提供者の一人」となったということです。
  興味深いことに、第2次大戦中、スノーは昭和17年(1942)10月から2度にわたって、延べ3年近くをモスクワで送っています。そして書いた本は、鈴木氏によると、「本音よりも美化されたソ連に関する本」でした。
  スノーは、昭和19年5月に、ソ連から一度アメリカに帰ったときにも、ルーズベルトに会っています。そして、昭和20年2月、ルーズベルトはヤルタ会談から帰ったすぐあと、スノーを招いて、長い時間語り合いました。これが三度目で最後の会談となりました。
  一体彼らは、何を語り合ったのでしょう。著書には書かれないこともあったでしょう。素人の気楽な推測を述べますと、スノーは、戦時中、ルーズベルトから依頼を受けて、米ソ関係にかかわる行動をした可能性があると思います。また、同時に中ソ間のパイプとなっていた可能性もあると思います。

  ひとつの仮説を挙げるならば、スノーを中心として、
  スターリン⇔毛沢東⇔宋慶齢⇔スノー⇔ルーズベルト⇔ソ連スパイ⇔スターリン
という円環があったのかも知れません。

  さて、スノーの『アジアの戦争』は、東京裁判においても、重大な役割を果たしていたと見られます。鈴木氏は次のように書いています。「僕は東京で行われたこの軍事裁判は、スノーの1冊の本『アジアの戦争』の存在なくしては、あのような形で進行しなかったと確信している」と。これも氏による重大な発見です。
  以下、鈴木氏の記述をまとめてみますとーーアメリカの首席検事キーナンが、東京裁判の冒頭陳述を作るに当たって、何を参考にしたのか、具体的な資料は残っていません。しかし、当時アメリカ人が日本を理解するに当たって、アメリカ国内にそれほど多くの参考書があったわけではありません。
  スノーの著作は、その数少ないものの一部でした。しかも、そこには田中上奏文が引用されており、満州事変から真珠湾までが系統的に描かれていたのです。こうした本は、当時のアメリカでは、スノーの著作しかなかったのです。
  鈴木氏は書きます。昭和20年、東京裁判の「日本にやってきたアメリカ検事団が、このとき既に進行していたドイツのニュルンベルグ裁判を参考にして日本という国が、『計画的且つ組織的』に『世界征服』という野望を持って『共同謀議』し、その結果が『真珠湾攻撃』に結びついた、というシナリオを描こうと思っていたことは、当然である」と。

  ニュルンベルグ裁判では、ナチス・ドイツは、ヒトラーの著作『わが闘争』をバイブルとして「計画的且つ組織的」なヨーロッパへの侵攻、さらに千年も滅びることのない「第3帝国」の完成を夢見て、白人至上主義、民族の優位性、ユダヤ人の撲滅、民族浄化政策を「計画的且つ組織的」に行ったと見なされました。

  『わが闘争』は、1925年に書かれており、1935年のベルサイユ条約破棄、1938年のオーストリア併合、さらにチェコスロバキアを保護領にし、1939年にはポーランドを手に入れるなど、ナチスの行動を、『わが闘争』をもとに裁くことは、筋が通っていました。しかし、アメリカ検事団は、日本の中には「わが闘争』のような、適当な本を探し出すことができませんでした。

  鈴木氏によると、「この中で信頼できる1冊の本が『日米戦争』の数ヶ月前に発行された、エドガー・スノーの『アジアの戦争』である。このときスノーは既に『日米戦争』を予言(注:昭和16年の年内に、と)し、事態はまさに、その通りになったのである。その内容は、文字通り日本の『軍国主義政策』の根幹を描いたものであり、文章も内容も、簡潔で要を得ていた」というわけでした。

エドガー・スノーのつづき5

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/29 03:30 投稿番号: [8184 / 8458]
  鈴木氏によると、昭和16年にスノーは『アジアの戦争』を刊行したころ、「日本が中国に対して行っている侵略行為の最終目標は、東アジアに新しい秩序を創ることにある。日本は中国に存在している一切の資本保有者を排除するのが目的である。つまり、最初の相手は中国だが、やがてその目標は必ずアメリカにも及ぶ」と、繰り返しアメリカ国民に訴えました。

  そして、ナチス・ドイツの動向と、日本軍国主義は同じように危険である、と訴えたのです。そして、アメリカ人に対して、アジア問題において「中立、不干渉」はあり得ないことを説いて回りました。

  鈴木氏は書いています。「『アジアの戦争』は…頭の先から爪先に至るまで、ひたすらに『軍国主義日本』を憎悪し、ただ憎悪するだけではなく、アメリカ政府がその『中立政策』を捨て、世界平和の敵・日本に対して、武力介入を余儀なくさせることを目的とした『政治的』な著作だった…ここで使われた形容詞、エピソード、結論などは、常識をこえた激しいものであり、特に日本に対しては、『日本という国を、この世から抹殺する』という目的がはっきりしている…アメリカ人が『アジアの戦争』を読めば、アメリカはすぐにでも日本に宣戦布告をし、中国を救わなければならないという気持ちにさせられる。その意味では『アジアの戦争』は、完璧といってもいい、見事な内容になっていた」と。

  私は、『アジアの戦争』は反日プロパガンダ、対日戦争の扇動文書と見てよいと思います。ルーズベルトの周辺にはソ連のスパイがいました。その書が出された昭和16年には、スパイたちが暗躍していたのです。真珠湾攻撃より以前の対日先制攻撃計画を推進したカリーや、ソ連の指令を受けてハル・ノートを起草したホワイトらがそれです。彼らは大統領に対して対日戦争工作を行っていました。(7)

  スノーの著書は、スターリンがアメリカを対日戦争に引き込み、日米を戦わせようとした謀略と、基本的な方向において一致しています。それが単にスノー個人の考えなのか、それとも彼に巧みに働きかける宋慶齢や、あるいはその背後にいる共産勢力の意思を反映したものなのか、今後の研究が期待されます。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/27 17:04 投稿番号: [8183 / 8458]
976 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 09:36:34.71
日本うぜ
日本人は全力で地球汚染の責任とれよ
具体的には各国に賠償金1兆ずつ
労働力の提供

尾崎秀実という人物のつづき12(修正)

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 12:19 投稿番号: [8182 / 8458]
■10.「東亜における新秩序」の人柱

  尾崎が「中央公論」昭和14年1月号に発表した「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」では、近衛の「東亜新秩序」声明を引用して、「『東亜共同体』は事変解決の方策の不可欠な重点となった」と述べつつ、こう言い切った。

  一身を擲(なげう)つて国家の犠牲となつた人々は絶対に何等かの代償を要求して尊い血を流したのではないと我々は確信するのである。東亜に終局的な平和を齎(もたら)すべき「東亜における新秩序」の人柱となることは、この人々の望むところであるに違ひないのである。

  確かに日華事変に出征した将兵の間には、この戦争が来るべき日中和平の礎になると考えて、一身を擲った人々も少なくなかったであろう。茅野老に和平工作を依頼した上海派遣軍司令官・松井石根大将もその一人であった。松井大将は孫文の大アジア主義に共鳴して「大亜細亜協会」会長にもなっていた。
[b]

  しかし尾崎の狙う「東亜共同体」とは、日本と蒋介石政権が共倒れして、両国で共産主義革命が実現した後に成立するはずのソ連・日本・中国による「赤い東亜共同体」であった。共産主義社会になれば、絶対的な平和が訪れる、そう信ずる尾崎にとって、確かに日華事変での犠牲者は「東亜に終局的な平和を齎すべき『東亜における新秩序』の人柱」なのであった。

  共産主義革命後の「終局的な平和」の為なら、国民を欺いて日中戦争に駆り立てて「人柱」にすることも許されると尾崎は信じていた。尾崎は「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめ」、「戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」と命じたコミンテルンの忠実な使徒であった。
(文責:伊勢雅臣)

尾崎秀実という人物のつづき11(修正)

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 12:12 投稿番号: [8181 / 8458]
■7.茅野老の日中和平工作■

  尾崎のグループは国内世論を誘導するだけでなく、実際に国民党政権との和平の動きを妨害した。孫文の中国革命に協力し、蒋介石以下の国民党首脳部とも親しい間柄にあった茅野長知は、上海派遣軍司令官・松井石根(いわね)大将の依頼により、昭和12年10月頃から、日中和平に乗り出した。

  茅野老は国民政府からも信頼されており、翌13年4月には即時停戦、日本の撤兵声明発表などの合意に至った。茅野老が帰国してこの案を説明すると、近衛首相も板垣陸相も承認して、この線で和平実現に努力することになった。茅野老は早速、上海から香港へ渡って、国民党政府と接触し、5人の代表を東京に派遣する事となった。

  しかし、茅野老が再び帰国して、交渉の結果を報告すると、板垣陸相の態度は全く変わっていて「中国側に全然戦意なし、この儘(まま)で押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙げる。日本側から停戦声明を出したり、撤兵を約束する必要はなくなった」という。

■8.天才的な謀略■

  茅野老が「それはとんでもない話だ。国民政府は長期抗戦の用意が出来ている。そんな情報はどこから来たのか」と問いつめると、板垣陸相は、同盟通信の上海支局長をしていた松本重治が連れてきた国民政府の外交部司長・高宋武から直接、聞いたという。

  茅野老が香港に行く途中の上海で、松本と会って、交渉の過程を話したのだが、この松本重治は尾崎の年来の友人であり、共に「朝飯会」のメンバーとして近衛首相のブレーンともなった人物である。後に茅野老は松本との会談を「運命の日」だったと述懐している。

  松本が連れてきた高宋武は、日本側に「国民政府はもうすぐ無条件降伏する」と伝える一方、蒋介石にも「中国があくまで抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」という偽りの電報を打っていた。こうした謀略によって、茅野老の和平工作はあと一歩という所で水泡に帰し、その後、高宋武、松本重治、尾崎秀實らによる汪兆銘政権樹立の動きとなっていく。

  汪兆銘は国民党の副総裁であり、あくまで党を分裂させずに、蒋介石にコミンテルンの謀略に乗った抗日戦争を止めさせるよう願っていたのだが[a]、その汪兆銘を担ぎ出して親日政権を作らせ、それを以て日本と国民政府の戦いを続けさせようという尾崎らの謀略はまさに天才的としか言いようがない。

■9.操られていた近衛内閣■

  近衛首相は、事変が始まった後、早期停戦を目指してドイツを仲介国とする交渉を行ってきたが、昭和13年1月には新たな親日政権の成立を期待して、「今後国民党政府を相手にせず」という第一次近衛声明を発表していた。茅野老の和平工作はこの後に何とか蒋介石政権との和平を確立しようとしたものであった。

  しかし、その望みも消えて、同年11月、近衛は日本・満洲・支那3国の連帯を目指した「東亜新秩序」建設に関する第二次声明を発表。これは尾崎らの「東亜共同体」構想そのものである。この声明の中で「国民政府といえども従来の指導政策を一擲(いってき、投げ打って)し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序建設に来たり参ずるに於ては、敢へてこれを拒否するものにあらず」と汪兆銘の動きに期待した。

  まさに「見えない力にあやつられてゐたような気がする」という近衛の述懐通り、近衛内閣は尾崎の描いた筋書きに乗せられていたのである。こうして日華事変は泥沼化していった。

尾崎秀実という人物のつづき10(修正)

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 11:52 投稿番号: [8180 / 8458]
■4.国共合作へのコミンテルン指示■

  1935(昭和10)年のコミンテルン第7回大会では、各国の国情に即した戦略戦術を採用することという方針のもとに、中国共産党に対しては、日本帝国主義打倒のための民族解放闘争をスローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすことを命じ、それに従って中国共産党は8月1日付けで「抗日救国宣言」を発した。一切の国内闘争を即刻停止して、全面的な抗日闘争を展開しようというのである。

  翌36(昭和11)年12月に突如として起こったのが、西安事件であった。共産軍掃討を続けていた蒋介石が、「抗日救国宣言」に動かされた腹心・張学良に西安で監禁されたのだった。周恩来ら中国共産党幹部が西安にやってきて、蒋介石との交渉を行った。その内容は謎であるが、以後、蒋介石は共産軍との10年に及ぶ戦いを止め、蒋介石の国民党と共産党による国共合作が実現した。

  この時、日本に帰っていた尾崎は、監禁された蒋介石の安否が不明の段階から、「中央公論」誌に「蒋介石が今後の国共合作を条件に、無事釈放されるだろう」と予測する論文を発表した。この予測が見事に的中して、尾崎は中国問題専門家としての地位を固めた。尾崎は国共合作というコミンテルンの指示を知っていたものと思われる。

■5.近衛内閣のブレーンとなる■

  この昭和12年の4月頃から尾崎は昭和研究会に入り、支那問題研究部会の中心メンバーとして活躍していた。この研究会は軍部とも密接な関係を持って、近衛新体制生みの親となり、大政翼賛会創設を推進して、一国一党の軍部官僚独裁体制を作り上げた中心機関である。

  翌13年4月には尾崎は朝日新聞社を退社して、近衛内閣の嘱託となり、月2回ほどの「朝飯会」で近衛のブレーンとして意見を言える立場についた。首相官邸の地階の一室にデスクを構え、秘書官室や書記官室に自由に出入りできるようになった。

  この頃、ゾルゲはナチス党員に化けて、在日ドイツ大使の私設情報官となっており、尾崎とも緊密な連携をとって、日独の機密情報をソ連に流していた。二人は後に逮捕され、死刑に処されているが、このテーマについては別稿に譲ろう。

■6.「東亜共同体」の謀略■

  昭和12年7月、蘆溝橋事件(北京郊外での日中両軍衝突、日本軍と国民党軍を戦わせるための中共軍の謀略との説が有力[2],p394)を機に、上海、南京と、日華事変が拡大した。

  これを機に、昭和研究会のメンバーは日本、満洲、支那による「東亜共同体」の構想をさかんに提唱していった。「改造」昭和13年11月号の東大政治学の権威・蝋山政道による「東亜共同体の理論」、「中央公論」14年1月号の尾崎秀實による「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」などである。これに呼応して、陸軍省報道部長・佐藤賢了大佐も、蝋山論文の翌月、「日本評論」12月号に「東亜共同体の結成」を発表する。近衛の言う「無知単純なる軍人これに踊らされたり」とは、まさにこの事か。

  尾崎は「中央公論」14年5月号での「事変処理と欧州大戦」と題した座談会のまとめとして次のような発言をしている。

「僕の考へでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権(漢口から重慶へと移転した蒋介石政権)に対抗し得る政権を造り上げること、・・・さういふ風な一種の対峙状態といふものを現地に造り上げて、日本自身がそれに依って消耗する面を少なくしていく・・・さういう風な条件の中から新しい -- -それこそ僕等の考へている東亜共同体 -- -本当の意味での新秩序をその中から纏(まと)めて行くといふこと以外にないのじゃないか」

  尾崎の言う「東亜共同体」とは、中国に親日政権を作り、それをくさびとして、あくまで日本と蒋介石を戦わせようとする謀略であった。中国共産党は蒋介石を抱き込み、尾崎グループは親日政権を作らせて、日本と国民党政権をあくまで戦わせ、共倒れにさせて、日中両国で共産革命を実現しようとしていたのである。

尾崎秀実という人物のつづき9(修正)

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 11:36 投稿番号: [8179 / 8458]
尾崎秀實
〜 日中和平を妨げたソ連の魔手
  日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日の「赤い東亜共同体」が実現する!
■1.近衛文麿を操った「見えない力」■

  昭和18(1943)年4月、衆議院議員・三田村武夫は近衛文麿を訪れて、戦局、時局の問題について懇談した際、「この戦争は必ず負ける。そして敗戦の次ぎに来るものは共産革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」と言った所、近衛はしみじみとした調子で、第1次、第2次近衛内閣当時のことを回想してこう述懐した。

「なにもかも自分の考えてゐたことと逆な結果になつてしまつた。ことこゝに至って静かに考へてみると、何者か眼に見えない力にあやつられてゐたような気がする」[1]

  近衛の第一次組閣は昭和12(1937)年6月。この1ヶ月後の蘆溝橋事件をきっかけに日華事変が勃発し、また国内では翌年3月に国家総動員法が成立した。その後の平沼、阿倍、米内内閣はドイツとの距離をとり、第2次大戦にも不介入の姿勢を保っていたが、近衛が第2次組閣をした昭和15(1940)年7月以降、日独伊の三国同盟締結、仏領インドシナ進駐と日米対決への決定的な道を歩み始めた。

  こうして見ると、近衛内閣の登場のたびに、政局は大きく戦争へと進んでいる。三田村議員の言う通り、まさに近衛公爵の責任は重大であった。その近衛はその当時を振り返って、「見えない力にあやつられてゐたような気がする」と言っているのである。その見えない力とは何だったのか?

■2.軍人を踊らせた左翼分子の暗躍■

  近衛はこの「見えない力」について、もう戦局も押しつまった昭和20(1945)年2月14日、天皇にこう上奏した。

「翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件具備せられゆく観有之(これあり)候、すなはち生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官僚の運動、およびこれを背後より操りつゝある左翼分子の暗躍に御座候」
「満洲事変、日華事変、そして遂には大東亜戦争にまで我が国を引きずり込んで来たのは、軍部の組織的計画であるが、これを取り巻く一部官僚及民間有志は(これを右翼といふも可、左翼といふも可なり、所謂(いわゆる)右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり)意識的に共産革命まで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過なしと存候」

■3.尾崎秀實の「赤い東亜共同体」構想■

  日本を共産革命にまで引きずり込もうとした「民間有志」の中心人物が尾崎秀實(ほつみ)であった。尾崎は昭和3(1928)年11月、朝日新聞社の特派員として上海に駐在して、そこで多くの左翼文学者たちと交わり、半植民地化された中国の現状から、マルクス主義への傾斜を深めていった。

  さらに尾崎はアメリカ人左翼ジャーナリスト、アグネス・スメドレーを通じて、リヒャルト・ゾルゲを紹介された。ゾルゲはドイツ人の父とロシア人の母を持ち、ドイツ共産党を通じて、モスクワの国際共産主義団体コミンテルンに所属していた。

  ちょうどこの年に開かれたコミンテルン第6回大会では、「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめ」、「戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」と決議していた。日独と米英の間での「帝国主義戦争」が始まれば、共産主義者の祖国ソ連は無事であり、また敗戦国ではその混乱に乗じて、共産主義革命を進めることができる、という戦略である。

  これを中国に適用して、尾崎は日本帝国主義と蒋介石軍閥政権を噛み合わせて、両者共倒れにさせて、日本と中国における共産主義革命を実現させ、そこからソ連、中国、日本を中核とした東アジア諸民族の共同体を目指そうと考えた。まさに「赤い東亜共同体」構想である。

エドガー・スノーのつづき4

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 07:26 投稿番号: [8178 / 8458]
◆「南京大虐殺」を誇張・捏造
  鈴木氏は、スノーの『アジアの戦争』(昭和16年春刊行)こそ、「南京大虐殺」を全世界に悪宣伝した本だったことを明らかにしました。

  私の理解では、スノーが、昭和12年12月の南京事件を、田中上奏文に書かれた世界制覇計画の一環としてとらえていたことが、重要です。そして、彼は、反日・連共の推進のために、南京事件を敢えて「大虐殺」事件として誇張・捏造したのだろうと思います。これはジャーナリストのモラルを超えた、デマゴーグ(悪質な宣伝・扇動をする者)の仕業です。

  『アジアの戦争』での、南京事件に関するスノーの記述は、大意、次のようになります。これは鈴木氏の訳をまとめたものです。

  「南京虐殺の血なまぐさい物語は、今ではかなり世間に聞こえている。南京国際救済委員会の人たちが私に示した資料から、私が見積もった結果によれば、日本は南京だけで少なくとも4万2千人を虐殺した。しかもこの大部分は婦人、子供だったのである」
  スノーはまた、「いやしくも女である限り、10歳から70歳までの者は、すべて強姦された」とも書いています。

ここで、スノーがこのように書くまでの経過を記します。昭和12年12月の日本軍の南京攻略について、最初に大規模な虐殺があった報道したのは、英国『ノースチャイナ・デイリーニュース』でした。その数は1万人でした。この数字を4万人にまで拡大したのが、南京大学教授で宣教師でもあるM・S・ベイツ教授でした。ベイツは「非武装の4万人近い人間が殺された。そのうち約3割は非戦闘員だった」と主張しました。ベイツの主張は、昭和13年7月に刊行された『戦争とは何か』という本に掲載されます。この本の編集を行ったのは、英マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員H・ティンパーリでした。ティンパーリは、中国国民党宣伝部に雇われたエージェントであったことが、立命館大学の北村稔教授によって明らかにされています。国民党国際宣伝部は、宣伝目的のために、ティンパーリに『戦争とは何か』の執筆を依頼したのでした。(4)

そのうえ、4万人虐殺説を唱えたベイツ自身も、国民党中央情報部顧問でした。南京事件は、中国国民党による反日工作のために作り上げられたのです。
ところがその後、中華民国の公式記録は、どれもベイツの「4万人虐殺説」を削除し、公式に再三、その説を否認していました。亜細亜大学の東中野修道教授は、ティンパーリが報じた死者約4万人という数字が、その後数年間、現地の刊行物の再録記事のなかからことごとく削除されていたことを明らかにしています。(5)

  この否認されていた「虐殺説」を改めて持ち出した者がいます。その人物こそ、エドガー・スノーだったのです。
スノーは、日本軍は「少なくとも4万2千人を殺害した。その大部分は女子供だった」と書きました。ベイツの説では、約4万人のうち1万2千人ほどが市民だったのに、スノーは、4万2千人の大部分は女子供だったと、改ざんを加えたわけです。数字と割合を変え、しかも犠牲者は、単に市民ではなく、女子供、と言い換えたわけです。また、「10歳から70歳まで、すべて強姦」などと書くのは、ほとんど事実を確かめられるわけもない、無責任な表現です。

  しかし、『アジアの戦争』における南京事件の表現は、インパクトが強く、アメリカを中心に、親中反日の国際世論をつくるうえで、絶大な効果を生んでいきます。これに便乗して、一気に桁を上げて「20万人虐殺」としたのが、アグネス・スメドレーです。(『シナの歌ごえ』昭和18年刊)

  スメドレーは、スノー以上に、中国共産党に深く関わり、ソ連共産党の影の濃い人物です。ここから、東京裁判の20数万、30万という数字のうそまでは、もう一声です。彼女については、別項目に譲ることにして、話を続けます。(6)

エドガー・スノーのつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 07:20 投稿番号: [8177 / 8458]
  スノーは、昭和16年に刊行した『アジアの戦争』において、この疑惑の文書を全世界に知らしめました。しかもスノーは、ここで一つの犯罪的な誇張を行っています。鈴木氏によると、前著『極東戦線』では、田中上奏文を「田中メモランダム」と呼んでいました。メモランダムは「個人的なメモ」を意味する言葉です。しかし新著『アジアの戦争』では、「田中メモリアル」という全く意味の違う言葉を使っています。メモリアルは、鈴木氏によると「ある歴史的な価値を持つ」ものにしか使わない言葉です。私は、スノーは、明確な目的意思をもって、この言葉を選び、親中反日の国際宣伝工作を行ったのだと思います。

  また、ここでも反日・連共の烈女・宋慶齢が、スノーに重大な影響を与えたと考えられます。鈴木氏によると、宋慶齢は、昭和12年10月、日中の上海戦の中で、英語によるラジオ放送を行いました。この放送において、「宋慶齢は、『日本軍閥が行っている侵略行動は、日本軍閥が、そのバイブルともいうべき<田中奏折>(=上奏文のこと)に従って行動している、ということを示すだけで、それ以上、どのような説明をする必要があるでしょうか』と言ったのである。『田中奏折』という四つの漢字は、『それ以上何の説明もする必要はない』と断言できるほど、強いインパクトで外国人に訴える力がある、と宋慶齢は信じていたのである」と、鈴木氏は書いています。

  私は、スノー自身は中国語・漢文はほとんどわからないでしょうから、そもそもスノーが田中上奏文の存在を知り、それに注目したのは、宋慶齢によるだろうと考えます。スノーは、田中上奏文に対する彼女の激しい反発を聞かされ、大いに共鳴したのだろうと思います。

  鈴木氏は、「スノーがこの『田中上奏文』の実在を信じ、それが日本軍閥のバイブルである、ということを知ったこと」を重視しています。そして、「戦後の『東京裁判』、それに付随して一挙に全世界に知られるようになった『南京大虐殺』事件を結ぶ最も重要なキーワードは、この田中上奏文・田中奏折である」と、見ています。

  ここで、田中上奏文について、私の認識を再整理しておくとーー田中上奏文は、おそらくソ連GPUによって偽造され、コミンテルンを通じて漢文版が中国で出版された。そして宋慶齢によってスノーが大いに注目するところとなり、「アジアの戦争』で全世界に報道された。アメリカ共産党による英語版の頒布が、相乗効果を上げた。そして、後に述べるように、この偽造文書が、東京裁判における日本断罪のシナリオのもととされた。スターリンの謀略は、こうしたルートでも貫徹していたのかも知れない。

エドガー・スノーのつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 07:17 投稿番号: [8176 / 8458]
  鈴木氏は書きます。その結果として「スノーはここで、宋慶齢を苦しめ、中国人民に被害を与えているのは、まぎれもなく、隣国の日本である、と確信するようになった。これはもう『信念』などという言葉を超えて、『信仰』という概念に近いものであった」と。「この二人は、日本のことを全く知ろうともしなかったし、日本の中にある恥部だけを強調することに熱中していた、という点でも共通している」と、鈴木氏は見ています。

  昭和11年(1936)5月、スノーは、宋慶齢に、「共産地区に行き、毛沢東に会いたい」と言いました。当時、国共合作を進めようとしていた中国共産党指導部は宋慶齢に対し、アメリカ人の新聞記者を求めていたのです。中共と通じ合っていた宋慶齢は、スノーを、中国ソビエト地区にある延安へ行かせることにしました。

  この時、もう一人の候補がいました。それは、やはり彼女と長くつきあっていたアグネス・スメドレーでした。スメドレーもまた日本の進路に重要な影響を与えた人物であり、別の項目に書くことにします。(3)

宋慶齢は、中国共産党への理解も少なく、党員との交わりもなく、色のついていないスノーの方を敢えて指名しました。彼がアメリカ人であり、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』など、アメリカの広い読者層に読まれる背景を持っていたことも理由でした。この宋慶齢の選択は、親中反日の国際工作に、またとない効果を生み出すことになりました。

◆米国民を親中に変えた『中国の赤い星』
  スノーは、宋慶齢の力添えによって、中国共産党指導部のいる延安に取材に行きます。そこで、スノーは世界ではじめて、毛沢東らの中共指導者にインタビューをしました。その体験取材をもとに書いたのが、有名な『中国の赤い星』です。これは、米英で大ヒットとなりました。昭和12年(1937)に、この本が出版されると、アメリカのマスコミは口をそろえて称賛しました。そして、「アカ嫌い」のアメリカ人を、中国寄りに変えてしまったのです。
  読者は、スノーを通じて、中国の共産主義者たちは、ロシアの革命家たちと違って、「血に飢えた権力主義者」ではないと理解しました。スノーの描く毛沢東は、日本帝国主義は「中国の敵であるだけではなく、太平洋に利害を持つ国、つまりアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソビエトの敵でもある」と言い、「日本の脅威を恐れている国」を「友邦と考え、その協力を望んでいる」と語ります。そして、読者には、毛沢東は、蒋介石らの敵に対しても協力を呼びかける、穏健な「やせたリンカーン」として映ったのでした。
  スノーは、共産主義者ではなく、ソ連や米国共産党とは距離があったと見られています。この点は、共産主義との関係が濃いスメドレーと違います。鈴木氏は『中国の赤い星』は、「非共産主義者が描いた共産主義世界の物語であればこそ、これほど多くの共感の賞賛をあびた」と書いています。
  『中国の赤い星』の出版は、ちょうど南京攻防戦の前、日本がアメリカの砲艦を誤爆した「ペネー号事件」が起こって、アメリカ人の中国への関心と同情が高まっていた時期でした。このタイミングが、本書の効果をより大きなものとしました。アメリカの世論は、圧倒的に親中反日となってしまいました。日本にとっては、不幸な誤爆が、さらに大きな禍を生んでしまったのです。
◆『アジアの戦争』が田中上奏文を広宣
  スノーは昭和16年(1941)、日米開戦の年の春に、『アジアの戦争』をアメリカで刊行しました。そして本書は、実に強烈な反日宣伝効果をもたらしました。

  本の扉、つまり表紙には、次の言葉が掲載されています。
  「20世紀の中ごろ、日本はアジアの平原でヨーロッパと出会い、世界の覇権をもぎとるであろう(大隈伯爵、1915年)」と。
  大隈とは、宰相・大隈重信です。また、第1篇第1章の最初の一行には、次の言葉が書かれています。
  「世界を征服するには、まず中国を征服しなければならぬ(田中手記)」と。
  「田中手記」とは、『田中上奏文』のことです。今日、ソ連による偽造という可能性が高いと見られている、かの謀略文書です。

田中上奏文が初めて世界に登場したのは、昭和4年(1929)、シナで、漢文版としてでしたが、スノーは早くからこの文書に言及しています。 昭和6年ごろから書いた『極東戦線』の中で、スノーは、田中上奏文の主旨を次のように書いています。
  「日本の繁栄のためには、まず資源豊富な満州を手に入れなければならず、また将来中国を初めとするアジア諸国を征服するためには、過去に日露戦争でロシアと戦ったように、まずアメリカをつぶさなければならない」と。

エドガー・スノー

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 07:00 投稿番号: [8175 / 8458]
細川一彦のオピニオンより

昭和の日本は、共産主義に同調する外国人ジャーナリストの活動によって、大きく進路を狂わされました。そうしたジャーナリストの一人が、エドガー・スノーです。スノーは、偽書『田中上奏文』を世界に伝え、「南京事件」を捏造・誇張して報道し、米国の世論を対日戦争へと誘導しました。(1)(2)
◆「『虐殺論争』に終止符を打つ、衝撃の発見!」
田中上奏文をはじめ、南京事件、東京裁判、中国共産党とそのシンパの動向などについての研究が進んでします。なかでも鈴木明氏の『新・南京大虐殺のまぼろし』(飛鳥新社)は、重要な発見に満ちたものです。

  本書の帯には、「『虐殺論争』に終止符を打つ、衝撃の発見!」とあり、鈴木氏の言葉として、次のような言葉が掲げられています。

  「…僕が今回書いたことは、戦後半世紀以上を通して、世界中の誰もが書かなかったことであり、気づかなかったことでもあり、『南京大虐殺』の、本当の意味での核心にふれたものであるという点だけは、強い自信を持っている…」と。

  鈴木氏は巻頭に、「日本、中国、アメリカという、東アジアだけではなく、21世紀の世界に最も大きな影響を与えるかもしれない重要な三つの国で、いまでも喉元に突き刺さったままでいるような大きな歴史的課題が、まだ未解決のままである。いわゆる南京大虐殺論争である。この不可解な事件の鍵を握っていた人物は一体誰なのか」と書いています。その人物こそ、エドガー・スノーです。

  鈴木氏は本書の「最も大きなテーマ」は、次のようなことだと書いています。「僕がここで、『田中奏折』、つまり『田中上奏文』のことにここまでこだわるのは、実はエドガー・スノーがこの『田中上奏文』の実在を信じ、それが日本軍閥のバイブルである、ということを知ったことと、戦後の『東京裁判』、それに付随して一挙に全世界に知られるようになった『南京大虐殺』事件を結ぶ最も重要なキーワードは、この田中上奏文・田中奏折』であると、信じているからである。そのプロセスを追っていくことがこの本の最も大きなテーマなのだ」と。

  鈴木氏の追求の過程は、ノンフィクションの迫力に満ちています。以下、私の特に関心をもったことをまとめながら、若干の考察を加えてみます。

◆烈女・宋慶齢との出会い
  アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーは、昭和6年(1931)の冬に、中国・上海で、宋慶齢と知り合います。鈴木氏は、次のように書きます。「後にスノーは、『もしあのとき宋慶齢に会わなかったら、私の人生は変わっていたかも知れない』と書いているが、これを『世界情勢が変わっていたかも知れない』と書いても、決して過言ではなかったであろう」と。

  宋慶齢は、近代シナを代表する大富豪・宋家の次女です。彼女は、シナ革命の父・孫文の夫人兼秘書となり、国民党左派の指導者として共産党と反日で共闘し、革命後は中華人民共和国の国家副主席にまでなりました。

  ロシア革命後、孫文はソ連と接近しました。大正12年(1923)には、ソ連から孫文のもとに、レーニンの愛弟子・ボロディンが、国民党顧問として送り込まれました。宋慶齢はボロディンと親密となり、国民党で誰よりもよく、共産主義を理解しました。

  翌年、孫文が死去すると、宋慶齢のソ連への思いはさらに強くなり、昭和2年(1927)4月に、モスクワに行きました。その後、彼女は、昭和6年8月までの約4年間を、ソ連で過ごしました。

  鈴木氏によると、ソ連滞在中、宋慶齢は、「中国における民主・自由の実現のために、国民党に対する敵意を燃やしつづけ、『日本帝国主義』を憎悪しつづけ」ました。そして、帰国後は、蒋介石や日本と戦う決意をします。そして彼女は、中国共産党指導部と通じ、国民党内で反日・連共路線を推進しました。

  20歳代だった若きスノーは、こうした宋慶齢と出会い、大きな影響を受けました。宋慶齢は、幼少から英語教育を受け、米国に留学もしており、英語に堪能でした。スノーは、宋慶齢から中国や、孫文や、中ソ関係などについて、多くの話を聞きます。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: setumeisekinin7 投稿日時: 2011/03/25 21:29 投稿番号: [8174 / 8458]
菅直人首相の自宅のある武蔵野市全域が計画停電の対象外となったことを不公正とする批判の声が上がっている。菅直人首相の随行秘書であった松本清治・武蔵野市会議員は地元住民に配布したビラに「(武蔵野市を除外する)松本清治の要請が実現しました」と記載した。
【計画停電】 市議が要請か、武蔵野市全域は停電対象外   菅首相の自宅も…同市議は菅氏の元「随行秘書」
497 :名無しさん@十一周年:2011/03/25(金) 21:02:20.96 ID:4+lSgeFG0
JRの発電所があるのは同じグループである小金井市だからな!
決して武蔵野市じゃないから!
巧妙なカムフラージュに騙されるなよ!
ついでにいうと武蔵野変電所も武蔵野市じゃなくて西東京市だからな!
503 :名無しさん@十一周年:2011/03/25(金) 21:05:09.05 ID:UfYipCpTO
もはや日本国じゃないな武蔵野市は。
506 :名無しさん@十一周年:2011/03/25(金) 21:05:56.19 ID:wIAAV9jD0
埼玉は一緒に停電してる足立の方を引き取ります(元はといえば足立は大宮とその周辺て意味ですから)。
武蔵野市は更地にして火力発電所でも立てて置いてください。
513 :名無しさん@十一周年:2011/03/25(金) 21:06:59.80 ID:GXbRhKFK0
人の不幸に付け込む
火事場泥棒みたいなもんだな
腐ってる
516 :名無しさん@十一周年:2011/03/25(金) 21:08:41.21 ID:+EiF8zML0
栃木県の被災地でも停電があるんだが
結構寒いんだぞ、栃木は
517 :名無しさん@十一周年:2011/03/25(金) 21:09:13.19 ID:QNfaNhWVO
えー! まじかよ 一介の市議ごときが出来る仕事じゃないな
やはり菅の口添えが在ったか 市議が菅との関係チラつかせたとしか思えん
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