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尾崎秀実という人物のつづき19

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/19 17:07 投稿番号: [8163 / 8458]
近衛文麿首相の内閣嘱託であった尾崎秀実。
「愛国者」で「優れた政治評論家」として信頼され、支那事変の処理や
国内の政治・経済の決定的な発言と指導的役割を携わっていました。

しかし、ある日松本徳明から近衛首相にこのように告げられました。
「尾崎秀実はコミンテルン工作員で注意人物である」と。
尾崎は世界共産主義革命の達成を唯一絶対の信条とし、命をかけて活躍している・・・。
これを聞いた近衛首相は青くなって驚いた。

後に近衛は陛下にこのようにお詫びしています。
「全く不明の致すところにして何とも申し訳なき、これ深く責任を感じる次第に御座候」・・・

これを知った尾崎秀実は松本徳明を失脚させるために憲兵隊に密告し、松本をブラックリストに載せました。
その矢先、伊藤律が北林トモを密告。1941年9月28日、元アメリカ共産党員で洋裁学校教師の北林トモが逮捕されました。逮捕後、北林は「宮城さんはスパイかもしれませんが、私はスパイじゃありませんよ」と言い、これが宮城与徳の逮捕のきっかけになりました。北林は懲役5年を言い渡されましたが、1945年1月に仮釈放され、夫・芳三郎に身柄を引き取られましたが、同年2月9日に病死。

1941年10月11日、
元アメリカ共産党員で洋画家の宮城与徳が逮捕されました。
宮城を逮捕し取り調べると宮城の自宅で南満州鉄道が作成した日本政府にとっては機密書類とされた英文の書類が発見されました。宮城は東京築地警察署の二階の窓から飛び降り自殺を図りましたが、怪我もせず警察官に取り押さえられスパイグループについて自供した。その時に尾崎秀実と密接な繋がりがあると言った。(東京高等検察庁特別審査局の吉河光貞)
1943年8月2日、巣鴨拘置所で獄死。後に宮城はソ連から勲章と表彰状が与えられ、2010年にロシア大使館は宮城の遺族に授与。

1941年10月15日、尾崎逮捕。尾崎は逮捕されると即日自供した。1944年11月7日、死刑。

1941年10月18日、ゾルゲを逮捕。1944年11月7日、死刑。

1942年6月8日までに諜報機関員と犬養健、西園寺公一らの情報提供者合計35名が逮捕。

リヒャルト・ゾルゲはソ連で生まれ、その後ドイツ共産党入党。
1924年にフランクフルトでドイツ共産党大会が行われコミンテルン代表の警護の役目に就いて代表らと懇意となりモスクワでコミンテルン諜報部を創設する仕事をし、党籍をドイツ共産党からソビエト共産党に移した。
ゾルゲの表向きはナチスに忠誠を尽くすドイツの新聞記者という名目で1905年上海に行った。上海でゾルゲとコミンテルンのスメドレーは愛人関係となる。1908年、上海から日本に潜入するため、ベルリンに行って政権奪取したナチス党に入党し党員証を貰って日本に行き、駐日ドイツ大使館で陸軍武官オットー少将の私的顧問となった。ゾルゲはオットーの妻とも肉体関係を持ち、オットーの情報を徴収していた。また、ゾルゲは銀座の女給石井花子を愛人としていました。(石井花子著書「人間ゾルゲ」に詳しい)

さらにゾルゲは諜報活動に使う女として、当時、若い歌姫と言われた関屋敏子を籠絡して愛人としていました。その情交はゾルゲ検挙の日まで続き、11月23日にゾルゲ側に縊死させられた。・・・
関屋敏子は、三十八歳で今散りましても、桜の花のようにかぐわしい名は永久消える事のない今日只今だと悟りました。そして敏子の名誉を永久に保管していただき、百万年も万々年も世とともに人の心の清さを知らしむる御手本になりますよう、大日本芸術の品格を守らして下さいませ。(関屋敏子遺書より)
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