尾崎秀実という人物のつづき14
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/10 20:59 投稿番号: [8145 / 8458]
尾崎秀実と同じく支那問題の権威でありコミンテルン影響下の共産主義者であったラティモアは、一九三四年よりIPR機関誌「パシフィック・アフェアーズ」編集長となり同誌に親ソ親支那の政治的立場を十字軍的に唱道する論文と反日プロパガンダを満載し、五〇年、ジョセフ・マッカーシー上院議員から「ソ連スパイ網のトップエージェント」だとして告発されたが、何と彼が三六〜三九年まで編集助手として使っていた陳翰笙なる支那人は、かつてゾルゲ機関に所属していたのである(4)。
一九二五年に党籍をドイツ共産党からソ連共産党に移し、ソ連市民権を得てコミンテルン諜報員となりヨーロッパを舞台に活動していたリヒャルト・ゾルゲは、四年後、ソ連赤軍第四部(情報部)の長であり実質的な創設者であったイワン・アントーノヴィチ・ベルジン将軍に見出され、極東におけるコミンテルンの思想策源地であった混沌渦巻く東洋の魔都上海に確固たる情報網を構築する任務を与えられた。
三〇年一月、上海に到着したゾルゲは、アメリカ人女性ジャーナリストのアグネス・スメドレーを訪ね、支那人協力者を選ぶ為の援助を求めた。当時の彼女は「中国共産党こそが貧しい農民を助けられる」と考え、多くの左翼系知識人と接触しており、ゾルゲが支那で唯一頼りにしていた人物であった。
スメドレーはゾルゲに対し、中国共産党と密接な関係を有していた在上海日本人左翼運動の指導的地位にあった朝日新聞上海特派員尾崎秀実と、そして陳翰笙を紹介した。陳は二六年北京大学農業経済教授を務めていた時にコミンテルン工作員となり、それ以降、中国共産党員であるとともにソ連の為に情報活動を行い、二八年から上海に滞在し、スメドレーの知遇を得た。
陳は尾崎以上にスメドレーやゾルゲと親しく、三三年九月にドイツ人ジャーナリストとして来日したゾルゲを補佐し尾崎との連絡を受け持った。だが三五年にモスクワから来日した連絡員が逮捕され、身の危険を感じた陳は東京からモスクワへ脱出し、ソ連共産党の指示を受け、次はラティモアの補佐としてニューヨークに派遣され、太平洋問題調査会の常任書記を務め、ヨセミテ会議で尾崎と会合したのであった。
ソ連の諜報謀略網は、太平洋を跨いで日米支の国家中枢に対し、我々の想像をはるかに超えて根深く有機的に浸透していたのである。
独ソ戦が勃発する直前の一九四一年五月末、ソ連からアメリカに潜入したビタリーパブロフ(GPUの後身、ソ連人民委員部所属)はアメリカ非公然組織長のイクサ・アフメーロフ(ソ連人民委員部所属、対日謀略「雪作戦」の提唱者)と相談した上で、アメリカ財務次官補ハリーデクスターホワイトに接触、「日本のソ連侵攻を困難にすること」を依頼し(5)、ホワイトは、六月六日、彼自身がまとめた対日提案「日本との緊張を除去しドイツを確実に敗北させる課題へのアプローチ」を財務長官モーゲンソーに手渡した。そして七月八日、ラティモアは、彼やホワイトと親しい関係にあった大統領補佐官ロクリン・カリー(ソ連のスパイ)の推薦を受けた大統領フランクリン・ルーズベルトによって重慶に派遣され、蒋介石の政治顧問に就任した。尾崎秀実は、大陸新報昭和十六年八月一〜二日「東亜外交の新段階」の中で、
「この程蒋介石政府の顧問として、オーウェン・ラチモアが重慶に赴いたという報道は生真面目でいかにも学究的な同氏を知る我々には一種奇異にさえ感じられたのである。アメリカ政府とどれだけの直接関係において行ったのであるか判らないが、現下の重慶に立つ国際情勢下において多分に政治的な使命を帯びるものでなくてはならない」
と観測したが(6)、特に注目すべきことは、ラティモアが、三八年から中国共産党の勢力拡大に伴い相剋を深めていた国共両党の調整に乗り出しただけでなく、四一年十一月二十五日、重慶からカリーに対して、日本にとって過酷なホワイト・モーゲンソー案をルーズベルトに採択させるよう打電し、カリーと共に、日米和平交渉をまとめる可能性を秘めたハル暫定案(九十日の停戦を骨子とし、日本は南部仏印より撤退する一方、アメリカは日本に民間用の石油、食糧、医薬や月額六十万ドルまでの綿花を輸出し、且つ日支和平交渉を斡旋することを内容とする、ハル国務長官によって作成された日米妥協案)阻止に狂奔していたことである(7)。
即ち我が国外交史上、永久の痛恨事たる汪兆銘工作とハル・ノートによる対日挑発はいずれもスターリンの謀略であり、ソ連の支配下にあった日米共産主義者によって実行されたのである。
一九二五年に党籍をドイツ共産党からソ連共産党に移し、ソ連市民権を得てコミンテルン諜報員となりヨーロッパを舞台に活動していたリヒャルト・ゾルゲは、四年後、ソ連赤軍第四部(情報部)の長であり実質的な創設者であったイワン・アントーノヴィチ・ベルジン将軍に見出され、極東におけるコミンテルンの思想策源地であった混沌渦巻く東洋の魔都上海に確固たる情報網を構築する任務を与えられた。
三〇年一月、上海に到着したゾルゲは、アメリカ人女性ジャーナリストのアグネス・スメドレーを訪ね、支那人協力者を選ぶ為の援助を求めた。当時の彼女は「中国共産党こそが貧しい農民を助けられる」と考え、多くの左翼系知識人と接触しており、ゾルゲが支那で唯一頼りにしていた人物であった。
スメドレーはゾルゲに対し、中国共産党と密接な関係を有していた在上海日本人左翼運動の指導的地位にあった朝日新聞上海特派員尾崎秀実と、そして陳翰笙を紹介した。陳は二六年北京大学農業経済教授を務めていた時にコミンテルン工作員となり、それ以降、中国共産党員であるとともにソ連の為に情報活動を行い、二八年から上海に滞在し、スメドレーの知遇を得た。
陳は尾崎以上にスメドレーやゾルゲと親しく、三三年九月にドイツ人ジャーナリストとして来日したゾルゲを補佐し尾崎との連絡を受け持った。だが三五年にモスクワから来日した連絡員が逮捕され、身の危険を感じた陳は東京からモスクワへ脱出し、ソ連共産党の指示を受け、次はラティモアの補佐としてニューヨークに派遣され、太平洋問題調査会の常任書記を務め、ヨセミテ会議で尾崎と会合したのであった。
ソ連の諜報謀略網は、太平洋を跨いで日米支の国家中枢に対し、我々の想像をはるかに超えて根深く有機的に浸透していたのである。
独ソ戦が勃発する直前の一九四一年五月末、ソ連からアメリカに潜入したビタリーパブロフ(GPUの後身、ソ連人民委員部所属)はアメリカ非公然組織長のイクサ・アフメーロフ(ソ連人民委員部所属、対日謀略「雪作戦」の提唱者)と相談した上で、アメリカ財務次官補ハリーデクスターホワイトに接触、「日本のソ連侵攻を困難にすること」を依頼し(5)、ホワイトは、六月六日、彼自身がまとめた対日提案「日本との緊張を除去しドイツを確実に敗北させる課題へのアプローチ」を財務長官モーゲンソーに手渡した。そして七月八日、ラティモアは、彼やホワイトと親しい関係にあった大統領補佐官ロクリン・カリー(ソ連のスパイ)の推薦を受けた大統領フランクリン・ルーズベルトによって重慶に派遣され、蒋介石の政治顧問に就任した。尾崎秀実は、大陸新報昭和十六年八月一〜二日「東亜外交の新段階」の中で、
「この程蒋介石政府の顧問として、オーウェン・ラチモアが重慶に赴いたという報道は生真面目でいかにも学究的な同氏を知る我々には一種奇異にさえ感じられたのである。アメリカ政府とどれだけの直接関係において行ったのであるか判らないが、現下の重慶に立つ国際情勢下において多分に政治的な使命を帯びるものでなくてはならない」
と観測したが(6)、特に注目すべきことは、ラティモアが、三八年から中国共産党の勢力拡大に伴い相剋を深めていた国共両党の調整に乗り出しただけでなく、四一年十一月二十五日、重慶からカリーに対して、日本にとって過酷なホワイト・モーゲンソー案をルーズベルトに採択させるよう打電し、カリーと共に、日米和平交渉をまとめる可能性を秘めたハル暫定案(九十日の停戦を骨子とし、日本は南部仏印より撤退する一方、アメリカは日本に民間用の石油、食糧、医薬や月額六十万ドルまでの綿花を輸出し、且つ日支和平交渉を斡旋することを内容とする、ハル国務長官によって作成された日米妥協案)阻止に狂奔していたことである(7)。
即ち我が国外交史上、永久の痛恨事たる汪兆銘工作とハル・ノートによる対日挑発はいずれもスターリンの謀略であり、ソ連の支配下にあった日米共産主義者によって実行されたのである。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/bfafnac9qffckdca4o9qbaddbcr2qa4na02jbct_1/8145.html