李朝朝鮮
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韓国伝統の遊戯
投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/03/03 18:45 投稿番号: [680 / 1329]
これは メッセージ 1 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: 「八道美人図」
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/02 00:39 投稿番号: [679 / 1329]
>宮中文学?
「両文集は、王妃が実家の子孫を教育するために両親の言行を記録したものだ。」
これは文学かな〜?教育本もしくは家訓なんじゃ(・・?
>>韓国の宮中文学にまた1つ大切な作品が加わった。
加わった・・・って最近そうなったんですか?
文学ってものが少ないから、こんなのでも付け加えておこうかという印象が拭えないのですが。
>国母である前に娘であろうとする王妃の切ない思いも胸を打つ。
実家の教育本を書くのもいいけど、朝鮮国両班子女の教育本なら素晴らしかったと思うけどな。
これは メッセージ 669 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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Re: 元敬王后・閔氏
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/02 00:27 投稿番号: [678 / 1329]
>王位に就いた夫は側室をもち、12人もの側室に12男17女という多数の子供を生ませます。
さらにクーデターの際に手を貸した彼女の弟たちを死罪にして殺してしまうのです。
日本の北条政子の人生の方が勝ち組ですね(^^)v
自分以外の女は追い出すし、実家の北条家は夫の死後栄えるし。
これは メッセージ 677 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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元敬王后・閔氏
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/02/28 16:59 投稿番号: [677 / 1329]
KBS
WORLD
Radio
歴史の中のすごい女たち
その3. 元敬王后・閔氏
2007-02-21
歴史の中のすごい女たちをご紹介している今月、今日ご紹介する、元敬王后・閔氏(ウォンギョンワンフ・ミンシ)は、朝鮮王朝第3代の太宗(テジョン)の妃で、第4代世宗の母です。
このようにご紹介すると、夫と息子を王様にした、非常に幸せな人生だったようですが、残念ながら後半生は悲劇的でもありました。
彼女が18歳で嫁いだ2歳年下の李芳遠(イ・パンウォン)は、李成桂の5男でした。
そして彼女が嫁いでからちょうど10年目に李成桂(イ・ソンゲ)が朝鮮王朝を建国し、初代王、太祖(テジョ)になったのです。
朝鮮王朝の建国にあたり、彼女の夫の李芳遠(は大きく貢献します。
それも父の代わりにその手を血に染めて反対派を殺していきます。
朝鮮王朝建国後、太祖がその後をすんなり長男に譲っていたならば彼女も控えめな嫁のままで終わっていたかもしれません。
しかし太祖は8人の息子の中でも一番の末っ子、8男に後を継がせようとします。
8人の息子のうち、上の6男は韓氏の子
そして下の二人は康氏の子でした。
腹違いの兄弟、それも当時11歳だった子どもに王座を渡すのを指をくわえて見ているわけにはいきませんでした。
当時、李芳遠ら王子は、それぞれ家に私兵といわれる護衛兵を抱え、当然武器も備えていました。
この私兵と武器を父の太祖が解散するようにといってきた時に、彼女はそっと人目につかぬように隠すことにします。
いつか来るであろう、その日のためにです。
1392年、父の太祖が王位についてから7年目に病の床に就きます。
彼女は夫に今がそのチャンスだと説き、隠していた武器を渡し、実家の弟達とともにクーデターを起こすように勧めるのです。
李芳遠
どうした夫人、そなたが急病だというので病気で臥せっている父上の側を離れてこうして帰ってきたというのに
そなたはいたって元気そうではないか。
閔氏
あなたを急に呼び戻したのはこの機会を逃さないでいただきたいと思ったのです。
李芳遠
何のことだ、機会とは?
閔氏
あなたの腹違いの弟達を殺す機会です。
事を起こすには今ほど絶好のチャンスはありません。
ここにいる私の弟達があなたを助けますから。
李芳遠
しかし、3人だけでは・・・
武器も先日差し出してしまい、ないではないか。
閔氏
ご心配ありません。
武器はご覧のように、槍、刀、鉄砲、ミサイル、タンクと何でもそろっております。
すべて私のへそくりで準備しておきました。
李芳遠
分かった、そこまで言うなら一つ派手にクーデターを起こそうぞ!!
というわけでおきたクーデターが後に第一次王子の乱と呼ばれるもので、その後もう一度、第二次王子の乱を経て芳遠は、第3代目の王、太宗となります。
ここまでは夫の尻を叩き王座につけるのに大活躍した彼女でしたが、ここからの人生、夫に裏切られることになります。
王位に就いた夫は側室をもち、12人もの側室に12男17女という多数の子供を生ませます。
さらにクーデターの際に手を貸した彼女の弟たちを死罪にして殺してしまうのです。
http://world.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_rainhistory_detail.htm?No=198
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Re: チェオク
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/02/25 22:32 投稿番号: [676 / 1329]
ホンキーさんのお話は、いつも面白いですね。
今日は、書棚でこんなのを見つけました。
−二番機−
松山三四三空、三〇一飛行隊、菅野隊長の二番機杉田上飛曹は海軍切っての撃墜王で、この時までに累計一二○余機を、単独及び協同で撃墜していた。
三〇一飛行隊の初陣。
菅野隊長が一機を撃墜した。杉田上飛曹は二機撃墜した。菅野大尉は次の敵機を攻撃中に後方の敵機から射撃を受けて、搭乗機が火災となったので落下傘降下で脱出した。
−狙撃手−
『
橋爪班長は杉田の弾痕を調べて、
「点数が高けりゃいいってものじゃないぞ」
と云った。
「兵隊の射撃はな、競技会用じゃない。十点の部分は文句ないが、九点のを見ろ。弾痕が離れている。十点の上を射っても九点、下を射っても九点、同じ九点だが、この二発は零点に近い。弾が五発とも円内に入らなくてもいい。標的の隅っこでもいい。五発全部まとまって中っている零点の方が、バラバラの九点五発の四十五点よりずっといい。わかるか」
杉田は実戦向きの射撃が分かったような気がした。端の方でもまとまって入っているのは、偏差を修正すれば正確な命中弾になるわけである。
帰路、橋爪伍長が杉田の横に来て云った。
「お前、明日から狙撃手訓練をする。」
狙撃手の任務は、敵の指揮官と有力な火点(たとえば機関銃)を狙撃することである。
訓練が要求する射撃精度はきびしかった。初歩的には、射程三百の伏的(伏せた人間の頭と両肩を形どった的)に、射弾五発全弾命中は勿論のこと、そのうち少なくとも三発は握り拳大の面積のなかに集中していなければならない。それができるようになると、今度は限秒射撃である。はじめは限秒四秒で、三百メートル彼方のどこに出るかわからない的を射つ。つぎは限秒二秒になる。それが達せられると、防毒面を装面して三十メートル疾走、それから限秒射撃に入る。』
トピずれです。
これは メッセージ 675 (honkytonk_2002_x さん)への返信です.
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Re: チェオク
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2007/02/25 03:34 投稿番号: [675 / 1329]
>隊長機を守るために、二番機には腕利きのパイロットを置くと読んだことがありますが、隊全体の失敗ですね。
これは、ワタシが瑞鶴飛行隊長納富大尉の事をうっすら記憶しているからなんですが(その部分を書いた本がどれだったか思い出せません)、ラバウルの陸上から出撃して、敵艦隊攻撃でしたから、対空砲火にやられたのかも知れませんし、あるいは、敵の上空直衛戦闘機にやられたのかも知れません。
後者だとしたら、高空で待ち構えていたグラマンかシコルスキーに急降下で一撃離脱されたのかも知れず、それであっという間にやられたという例は、よく本で目にしますね。
>陸軍の場合、戦闘帽を被って、士官用ブーツでない場合、(今、写真で確認した限り)、最前線の下級将校は下士官・兵と同様の短靴にゲートル姿がほとんどで、遠目にはそんなに士官と下士官・兵の区別がつかないですね。
そうですね。
また、長靴(ブーツ)が蒸れるとか、または「もったいない」と思ったか、それとも履き潰したブーツの補給がままならず、ゲートルで済ませたなんていうのもあるでしょうね。
確かに、将官でもゲートルという写真は、見たことがあります。
>軍服の品質は、随分と違ったようですが。(笑)
いつからかは分かりませんが、陸軍は下士官・兵が木綿、士官が純毛でしたね。日露戦争の頃などは、下士官・兵も立派なラシャのようですが。
第二次大戦でも、ドイツ軍は、兵卒でもずいぶんと質の良い軍服だったので、連合軍が驚いたなんていう話も聞いた事があります。
日本海軍は、冬の一種軍装(紺)が下士官・兵士も士官も純毛、夏の二種軍装(白)が麻、三種軍装(緑)が下士官・兵が木綿、士官は純毛から麻から木綿から、色々だったそうです。
>これまた南京の航空軍本部にいたGさんに聞いたところでは、終戦直後、中国の国民党軍に協力させるため、専門職の日本軍将校を捜していたらしく、下級将校連中は将校用制服とかは私物入れに隠し、下士官・兵の軍服に着替えて、とぼけた顔をしていたそうです。
台湾でも、国民党軍が、かなりの高給を条件に、日本軍の将兵の再雇用をかけていたみたいですね。
台湾の第205海軍航空隊の飛行長だった故・鈴木實中佐は、終戦直後、かなりの高給で雇うと、日本への留学経験のある国民党軍将校からしつこくアタックされ、進駐していた米軍将校を仲介して、なんとか振り切って日本へ引き揚げてきたと言っています。
余談ながら、鈴木中佐、戦後はまるで畑の違うレコード業界に入り、キングレコード社でレイ・チャールズやカーペンターズと契約して、会社の洋楽部門の黄金時代を作ったとの事です。
この鈴木中佐が、ポートダーウィン上空で、豪州空軍のスピットファイヤ相手に、ほぼ一方的な勝利を収めた零戦隊指揮官でした。
そう言えば、ワシのオジキも「台湾空軍」から声がかかったとかって話です。それを、母親(ワシのバアサン)が泣いて引きとめ、実現しなかったとか。
だとすると、国民党軍側では、日本軍将兵の名簿を、ほぼ完全に集めていたのではないかと思えます。(米軍も同様だった。)
以上、トピズレですた☆☆
これは メッセージ 674 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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Re: チェオク
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/02/25 02:22 投稿番号: [674 / 1329]
東亜さんへ。
>そういえば、山本七平氏によれば、安岡章太郎(ホンキーさんの書きこみにたびたび登場)は、所属連隊でも三本の指に入る名狙撃手だったそうです。(「ある異常体験者の偏見」山本七平)
女性トピにも書きましたが、小銃は標的に当たるように作ってあるので、外れる方がおかしい。
でも、標的のど真ん中を射抜く(射撃成績が良い)のは、かなりの腕前で、素質だろうという話です。
この2人の著書はかなり面白いですね。
勿論、軍隊批判の部分もありますが、実態や体験を素直に描写しているので、よく分かりますね。
ホンキーさんへ。
>「ろ号作戦」の時だったかな、当時の記録を読むと、戦闘機隊で隊長だけが未帰還、なんてのも読んだ事があります。
隊長機を守るために、二番機には腕利きのパイロットを置くと読んだことがありますが、隊全体の失敗ですね。
>服装で士官と見破られて狙撃されるという事では、士官が下士官・兵と同じ服を着て野戦で戦った例もある、という文章を読んだ記憶があります。
陸軍の場合、戦闘帽を被って、士官用ブーツでない場合、(今、写真で確認した限り)、最前線の下級将校は下士官・兵と同様の短靴にゲートル姿がほとんどで、遠目にはそんなに士官と下士官・兵の区別がつかないですね。
軍服の品質は、随分と違ったようですが。(笑)
また行軍中は下士官・兵も小銃を背中に背負っているので、士官の軍刀とは区別できないでしょう。
これまた南京の航空軍本部にいたGさんに聞いたところでは、終戦直後、中国の国民党軍に協力させるため、専門職の日本軍将校を捜していたらしく、下級将校連中は将校用制服とかは私物入れに隠し、下士官・兵の軍服に着替えて、とぼけた顔をしていたそうです。
何しろ、航空軍本部将校の多くは、飛行気乗りは勿論、整備技師など専門屋集団で、中国軍なんかに引っ張られたら、どんな目に遭うのか、いつ帰国できるか分からないので、そうしたそうですが、一斉に下級将校が消えたので、中国軍も困ったことでしょう。(笑)
これは メッセージ 673 (honkytonk_2002_x さん)への返信です.
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Re: チェオク
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2007/02/25 01:21 投稿番号: [673 / 1329]
確かに、軍刀は、あれは西洋式の吊り方ですからね。
帯に二本の環で吊るす「太刀(たち)」や、帯に直接差す「大刀(だいとう)」が日本式ですし、昭和に入ってからかな、西洋式のサーベルが、実戦向きの日本式の陣太刀こしらえになったのは。
海軍は、陸戦隊でも最初は短剣用の剣帯に、西洋式のサーベル(刃は日本刀仕込みでしたが)を吊るしていたのが、それじゃあ役に立たんと、いわゆる「蒋介石バンド」を上着の上から直接締めて、それに陣太刀拵えの軍刀を吊るしました。
しかし、走る時はブラブラする事には違いないので、鞘を左手でつかみながら走ったりしていたわけですね。
服装で士官と見破られて狙撃されるという事では、士官が下士官・兵と同じ服を着て野戦で戦った例もある、という文章を読んだ記憶があります。
飛行機では、海軍では尾翼や胴体のマークが指揮官だと派手になり、それでよく狙われた、なんて事もありました。
「ろ号作戦」の時だったかな、当時の記録を読むと、戦闘機隊で隊長だけが未帰還、なんてのも読んだ事があります。
これは メッセージ 671 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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Re: チェオク>ズレ
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/02/25 01:04 投稿番号: [672 / 1329]
>これは手記で読んだんですが、初めて内地から中国の最前線に単身で配属された学徒出陣の見習い士官が、途中、別の戦闘部隊に同行して赴任する場面で、早速、そこの将校から注意されるんです。
「バカ、軍刀をブラブラ腰に提げて行くヤツがあるか!
敵の狙撃兵は将校を狙っておる。軍刀が見えないように背中に担いで行け」
たしかに「狙撃兵」ってやつは恐ろしいものだったようです。もちろん、日本軍の狙撃兵も優秀だったそうですが。
そういえば、山本七平氏によれば、安岡章太郎(ホンキーさんの書きこみにたびたび登場)は、所属連隊でも三本の指に入る名狙撃手だったそうです。(「ある異常体験者の偏見」山本七平)
>また、軍刀は相当に重いし、身動き(腰をかがめたり、寝転んだりするとき)の邪魔になる。
それで、前線でイザというときは、左手に軍刀ごと掴んだり、背中に背負ったりして戦闘行動する。
というのが、適切なようです。
正直、腰にブラブラさげていられるようなものではなかったようですね。
ま、トピズレの余談ですが。
これは メッセージ 671 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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Re: チェオク
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/02/25 00:56 投稿番号: [671 / 1329]
>ああー、ダメダメ、右肩口に剣把が来るような背負い方では、剣を抜くことすらできないですよー。左肩口に剣把が来るような背負い方にしないと、きちんと刀身が抜けないです。
韓国映画・テレビドラマには、日本の殺陣師のようなかなり武術に精通した専門家はいないようですね。
朝鮮剣法の本とか残っているのでしょうか。
>なお、朝鮮戦争の緒戦時、第三師団を率いて孤軍奮闘した、日本軍上がりの勇将金錫源は、軍刀(日本刀)を背中に背負って前線に立ち続けました。
これは手記で読んだんですが、初めて内地から中国の最前線に単身で配属された学徒出陣の見習い士官が、途中、別の戦闘部隊に同行して赴任する場面で、早速、そこの将校から注意されるんです。
「バカ、軍刀をブラブラ腰に提げて行くヤツがあるか!
敵の狙撃兵は将校を狙っておる。軍刀が見えないように背中に担いで行け」
また、軍刀は相当に重いし、身動き(腰をかがめたり、寝転んだりするとき)の邪魔になる。
それで、前線でイザというときは、左手に軍刀ごと掴んだり、背中に背負ったりして戦闘行動する。
というのが、適切なようです。
いや、本論とは無関係で、ただ書いてみただけです。(笑)
これは メッセージ 670 (toapanlang さん)への返信です.
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チェオク
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/02/24 23:27 投稿番号: [670 / 1329]
ああー、ダメダメ、右肩口に剣把が来るような背負い方では、剣を抜くことすらできないですよー。左肩口に剣把が来るような背負い方にしないと、きちんと刀身が抜けないです。
実は、そういった力学的なリアリズムは、昔の日本のチャンバラ映画でも無視され続けていたんですけどね。(『魁!男塾』の剣桃太郎も間違ってましたが)
個人的には、ポニーテールの女剣士は、かなりストライクゾーンですがね。(苦笑)
なお、朝鮮戦争の緒戦時、第三師団を率いて孤軍奮闘した、日本軍上がりの勇将金錫源は、軍刀(日本刀)を背中に背負って前線に立ち続けました。
これは メッセージ 1 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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「八道美人図」
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/02/24 00:24 投稿番号: [669 / 1329]
これは メッセージ 1 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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明成皇后生家周辺の聖域化事業
投稿者: koshien21c 投稿日時: 2007/02/21 11:45 投稿番号: [668 / 1329]
閔妃は殺害された後、大院君や高宗から極悪人として身分剥奪、庶民に落とされたが、日本の働きで大韓帝国の設立後、身分を回復され明成皇后の称号を贈られた。こうして着々と歴史の改竄が韓国では行われている。
身分の回復がなされなければ、戦後反日の材料にもならなかっただろう。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/02/21/20070221000028.html明成皇后生家周辺の聖域化事業、今年完成へ
京畿道驪州郡が10数年間にわたり進めてきた明成皇后(閔妃)生家一帯の遺跡聖域化(復元)事業が今年完成する。
驪州郡は140億ウォン(約18億円)を投じ、驪州邑の明成皇后生家とその周辺1万5000坪余りを聖域化する計画を1995年に決定し、記念館や文芸館の建立、民家の撤去や公園の造成などを進めてきた。この結果、驪州郡は2003年に生家の補修を終え、記念館・文芸館を開館する一方、05年から民家の移転や感古堂の復元工事などを行ってきた。
ソウル市安国洞の驪興閔氏宗家にあった感古堂は、明成皇后が8歳で上京した後、王妃に奉じられるまで8年間起居した建物。ソウル市内の双門洞に移築された後、学校新築計画により撤去される危機に瀕していたが、驪州郡が建物を解体・移築し、生家前に復元することにした。
感古堂の移築工事は、昨年11月にアンチェや舎廊チェ、チュンムンチェ、外三門が竣工し、今年は行廊チェ、井戸、亭子など付属建物の工事を行う。これらの移築工事が完了した後、今年10月から一般に公開する。また、民家移転事業により空き家になった生家横の民家16軒を撤去し、伝統的な石垣と公園を造成する遺跡地拡張・整備事業も年内にすべて終える予定だ。明成皇后生家には、昨年は1日平均820人、年間30万人余りの観覧者が訪れた。
チョン・アヨン記者
朝鮮日報/朝鮮日報JNS
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Re: 李朝の「鳥銃」
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/02/20 22:12 投稿番号: [667 / 1329]
>はじめて知りました。火薬は元で伝わってたから、火薬はもともと使ってたのかもしれませんね。
鳥銃ではなく、銅製の筒に火薬と弾・矢を入れて発射する銃筒はありました。ただし、明が火薬兵器の製法などを門外不出にしてましたので、せいぜいが明建国時点でのものであり、それを改良したレベルであったようです。
>ほほっ〜どう出来が良いのか証拠が残ってたら、信じてもいいな〜。
水車が結局は作れなかった例があるから、朝鮮人の技術面への積極性を信用してよいかどうか。
朝鮮人の利き腕や標準的手の大きさに配慮してたとかそんなことなんでしょうか?
壬辰倭乱中に李舜臣が鳥銃5丁を造らせて国王に献上したのですが、引き金を引いて瞬時に点火して発射する仕組みがなかなかうまくいかず、試し撃ちの結果、
「国産品はまだまだ精巧じゃないし、役に立たないから、日本の鳥銃をもっと研究しなくてはいかん」
という王の言葉を賜ったそうです。
ようは「良いもの」というのは、特別なものを指すのではなく、単にまともに使えるもの、つまり不良品ではなく、最低限ふつうに使用できるものであるかと。
1653年の裸禅(ロシア)征伐では、清が砲手100人を動員するよう命令してきましたし、1657年の第二次出兵でも砲手200人が派兵されています。
また、呉三桂ら三藩の乱でも砲手出兵を要請されています。明の復興を図る連中を撃つのは忍びない、としてこれは断りましたが。(んで、例によってあとから問責されるわけですが)
これは メッセージ 666 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: 李朝の「鳥銃」
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/02/17 23:57 投稿番号: [666 / 1329]
>降倭によって伝えられた鳥銃、すなわち日本の鉄炮は、しだいに王朝に定着しはじめたのである。
はじめて知りました。火薬は元で伝わってたから、火薬はもともと使ってたのかもしれませんね。
>仁祖三年(一六二五:寛永二)十一月の記録に、「李曙なる人物のつくった百挺の鳥銃は倭人の売買する物より勝れているし、済州の鳥銃もよその物にくらべて出来がよい」とみえる。地方によって出来の良し悪しがあったものの、鳥銃は朝鮮全土でつくられるようになったのである。
ほほっ〜どう出来が良いのか証拠が残ってたら、信じてもいいな〜。
水車が結局は作れなかった例があるから、朝鮮人の技術面への積極性を信用してよいかどうか。
朝鮮人の利き腕や標準的手の大きさに配慮してたとかそんなことなんでしょうか?
これは メッセージ 665 (toapanlang さん)への返信です.
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李朝の「鳥銃」
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/02/14 22:57 投稿番号: [665 / 1329]
最近読んだ「真説
鉄砲伝来」(宇田川武久
平凡社新書)という本に、李朝の鳥銃についての記述がありました。
・・・・・・・
壬辰・丁酉の乱が終結した五年後、咸鏡道巡察使の韓孝純が「神器秘訣」をあらわした。過去に銃筒式があるものの、内容が粗末でよくわからないので、本書を刊行したと韓孝純は述べている。
このなかの鳥銃の項をみると、附属品の説明にはじまって、発放の手順、習法、製作法におよんでいる。この時期、王朝は北方の建州女直と戦っており、火薬兵器に習熟する必要があった。降倭によって伝えられた鳥銃、すなわち日本の鉄炮は、しだいに王朝に定着しはじめたのである。
その後、仁祖三年(一六二五:寛永二)十一月の記録に、「李曙なる人物のつくった百挺の鳥銃は倭人の売買する物より勝れているし、済州の鳥銃もよその物にくらべて出来がよい」とみえる。地方によって出来の良し悪しがあったものの、鳥銃は朝鮮全土でつくられるようになったのである。
・・・・・・・
>降倭によって伝えられた鳥銃、すなわち日本の鉄炮
そういえば、壬辰倭乱の時でも、捕虜や降伏した倭人のうち、鉄砲や焔硝の製造法を知る、あるいは剣術に秀でた者は厚遇して、その技術を学び取ろうとしていましたね。
上教政院曰「前有生擒倭二名、一名煮取焔硝、一名造作鳥銃。煮焔者、送于寧辺、保授官人、自秋為始、焔硝多数煮取、造為鳥銃者、送于産鉄某邑、亦令保授官人、鳥銃多数造作事、言于軍器寺、議于提調以啓。(後略)」
宣祖26年(1593年)6月16日
備辺司啓曰「降倭中、解剣、槍、鳥銃、煮焔、留置事、累次下教、而先来四十七人中、惟也叱已、最能用剣、煮焔。(後略)」
宣祖27年(1594年)7月24日
これは メッセージ 634 (kusuo1 さん)への返信です.
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日韓宮廷装束体験
投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/02/11 14:49 投稿番号: [664 / 1329]
龍の数が少ない服の体験ツアーですか?
確か韓国の衣装は色が宗主国様に決められて居たはずなんだけど・・・
選べるわけじゃないはず。
>色もきれいで貴重な経験ができた
かわいそうに・・・騙されてやんの。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日韓宮廷装束体験
服飾文化通じ国際交流図る
日韓の服飾文化について学びながら国際交流を図る「韓国・日本の宮廷装束体験」が十日、八千代市立郷土博物館で開かれ、市民ら約八十人が参加した。
東京成徳大と韓国の誠信女子大、同博物館の共同企画のイベントで、服飾文化の違いを感じてもらおうと、両国の宮廷装束が用意された。参加者は色とりどりの衣装に袖を通して、優雅な雰囲気を楽しんでいた。
習志野市から来た細川恵右さん一家は、五人そろって韓国の宮廷装束を体験。妻の千恵子さんは「初めて着たが、帯で締め付けられず着やすい。色もきれいで貴重な経験ができた」と感想を話した。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/cba/20070211/lcl_____cba_____003.shtml
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Re: 書契問題
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/02/10 02:55 投稿番号: [663 / 1329]
李朝時代の政治;「書契問題」
http://cgi.members.interq.or.jp/sheep/clarex/krjp/krjp06.html>>そして、12月にはなっても安訓導の強硬な態度には変化がなく、交渉は行き詰まってしまい、交渉再開は翌90年10月まで持ち越されることになった。
>>ところがである。実は、89年12月13日に朝鮮政府から東莢府使(東莢府とは草梁倭館との交渉を担当する施設のこと)に対して意見が回下されており、そこでは、なんと、同年3月中旬に日本側が提示した譲歩案を受け入れるよう、政府が命令していたのである(『近代日鮮関係の研究、上』180頁)。
>>鄭顕徳東莢府使も安訓導もともに大院君の腹心であり、特に安訓導などは殆ど大院君の「私人」であったのであり、対日関係事項は(政治組織上は何の肩書きも有さなかった)大院君が直接に安氏に命令を下すような関係だったのである。
(上記ご提示の資料の「翌90年10月」は「翌70年」、「89年12月13日」は「69年」の誤記ということで。)
>実は高宗と大院君の親子間の権力争いというのが実態らしいですね。
とすると、「朝鮮政府」と「大院君」の二つの権力・命令系統があったことになります。
この『推論』は無理があると思いますが。
朝鮮政府が受け入れを命令した「同年3月中旬に日本側が提示した譲歩案」を見てみると、
>>3月9日、日本側は、とにかく今回の書契は王政復古を公式通告する重要文書であるから、臨機の処置で奉納してもらいたい、その上で拒否しようがしまいが朝鮮の勝手で、とにかく回答書契をいただきたい(これは対馬藩にとっては最大限の譲歩で、そうでもしないと対馬藩としてはおめおめと日本に帰れないのであった)、と申し入れたがこの提案も拒否された。
この譲歩案は、朝鮮にすれば書契だけ渡して日本を追い返すということですね。
正式に日本の外交文書を受け入れ、国交を結ぼうとするものではありません。
鎖国派の「大院君」としても、譲歩できる内容だと思います。
「朝鮮政府=大院君」の受け入れ命令を無視したのは、現場の外交担当者の怠慢・越権行為の話ではないかと思います。
彼等は、日本を侮蔑する公示を貼り付けていた位ですから。
朝鮮の対日交渉態度が大きく変わるのが、明治6年(1873)大院君の失脚後のことです。
----------------------------
明治開化期の日本と朝鮮(1)
さらには従来人道上から当たり前のこととしてなされていた海難事故による漂流民を相互に救助し保護することについても、それを無視して日本人の漂流民数人を釜山草梁の海岸に放置するなどした。また対馬との貿易も制限したため対馬は経済的に立ち行かなくなった。つまり事実上の経済制裁である。
更にその上、公館の門には次のような文書が貼り付けられるという事態に至った。
「無法の国、恥知らず、衣服容貌とも日本人にあらず(洋装洋服のことらしい)、(明治維新など)天下の笑うところなるを平然としている恥知らずである」と。(公文別録・朝鮮始末3 p19)
露骨な誹謗中傷である。それも何度も繰り返し、しかも書いて貼ったのが朝鮮の外交官僚であるから、日本への宣戦布告の公示とも解釈できる代物であった。(東莢府使釜山僉使等其属官ニ達スル所ノ示令)
明治6年(1873)ついに大院君は失脚し、閔妃の兄であり閔氏最高の実力者である閔升鎬が国政全般に参与するようになった。
閔升鎬は民宰相と称せられ、大院君時代に日本の書契を拒絶する政策に反対し、むしろ両国が相互提携して文明開化することを主張していた人物である。これによって日本との関係も改善される方向に向かった。
そういう中で高宗は、日本との交渉経緯を知ることとなったが、その内実のお粗末さに激怒したという。
『明治7年4月17日 陪通事金福珠談
「国王 即チ其書契ノ謄本ヲ看テ 始テ積年阻隔之上ヲ知リ 諸臣ヲ譴メテ云ク 我國数百年来 禮ヲ日本ニ失セス 今猶然ク思ヒシニ 豈図ランヤ其信義ニ反スル 已ニ数年ニ及ヘリト 是何等ノ事ゾヤ 諸臣 詳ニ陳スルニ依リ 國王 盛怒 忽チ旧府使訓導等ヲ法ニ抵シ・・・」(公文別録・朝鮮始末3 p93)』
これにより外交官僚の1人(訓導
安俊卿)は処刑されて、さらし首にされている。日本との外交を誤った、ということがその理由であった。
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi012.html
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書契問題
投稿者: melancholy_night 投稿日時: 2007/02/09 08:52 投稿番号: [662 / 1329]
日本の国書に中華皇帝と同格の「天皇」などの表現があるので中華帝国に事大する朝鮮が受取りを拒否した問題だと単純に思っていましたが、実は高宗と大院君の親子間の権力争いというのが実態らしいですね。アホラシ…
http://cgi.members.interq.or.jp/sheep/clarex/krjp/krjp06.html日本の王政復古の折、それの通知のため通信使(大修大差使)を派遣し、同時に日韓国交調整の第一歩をなそうとした。
1868年12月19日、大修大差使正官樋口鐵四郎一行が釜山の草梁倭館に到着、同21日に朝鮮側の担当者(「訓導」という役職である)安ドンジュンが倭館に到着し面接したが、大修大差使が既存の規外であるとか、書契中に違格の文字があり(「書契問題」)、さらには新たに下付された印を問題として、書契の受け取りを拒否し、交渉は翌年にずれこんだ。しかし朝鮮訓導の態度は強硬で、日本側が字句の修正を提案しても絶対に受理しようとはしなかった。日本側が、とにかく書契の内容を討議しようと提案しても、上述の形式上の問題を持ち出して、一切応じない。
そして1869年2月2日、草梁倭館々守は反駁書を提出した。それを見てみると、以前に日本からの書契や朝鮮の書物中に天朝・皇朝・朝臣などの文字がつかわれていることが分かるのである(『近代日鮮関係の研究、上』162-163頁)。
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朝鮮の開国 江華島条約
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/02/08 23:40 投稿番号: [661 / 1329]
韓国公共放送KBS WORLD Radioで、こんな下らない放送をしているのかと思うと。(苦笑)
ツッコミは次回以降(トピ主殿の許可を得て以降)。
とりあえず、UP。
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朝鮮の開国
江華島条約
2007-02-05
1868年明治維新により新政府をたてた日本は西洋列強と積極的に交流するという方針をたてて近代化政策を相次いで推進します。この時、日本では朝鮮を征伐すべきだという征韓論が活発に論議されました。虎視眈々と朝鮮征伐のチャンスを狙っていた日本についに機会がやってきます。鎖国政策を固守していた興宣大院君が政治の第一線から退いたのです。日本は内部的には軍艦を派遣して攻撃するという方針を定め、表面的には朝鮮と外交交渉を始めます。
1875年正月に日本の使臣(外交官)が釜山に到着しました。当時、朝鮮では日本人が到着するとまず書契(ソゲェ)を調査しましたが、これは朝鮮で活動しても良いという一種の信任状で外交文書の役割をしていました。それには入国目的と人数、船が停泊している港と滞在日数などが記載されていました。しかしこの時の日本の使臣たちが持ってきた書契は1868年末、朝鮮が受け取るのを拒否したものとほぼ同じ内容でした。
そして同年5月から6月にかけて日本の軍艦が相次いで朝鮮の南の海上に現れます。そして東海岸まで北上し、軍事偵察したり、測量したりして帰っていきます。
8月20日1隻の日本の軍艦が仁川沖に現れました。この船は以前に南の海上に現れた軍艦の中の1隻、雲揚号でした。雲揚号は江華島にイカリを降ろします。他国への無断侵入です。朝鮮の軍隊が雲揚号に向けて大砲を発射すると雲揚号も待っていたとばかりに反撃してきました。日本軍は永宗島に上陸して略奪と放火をします。この事件で朝鮮軍の戦死者は35人、負傷者と捕虜は16人でしたが、日本の被害は軽症2人だけでした。日本は大砲と火縄銃などを戦利品として略奪していきます。朝鮮側の大敗でした。これが雲揚号事件の顛末です。
この事件を口実に日本は本格的に朝鮮を開港させる手順にとりかかります。1876年初め、大砲で重武装した7隻の艦隊が日章旗をかかげ、真っ黒な蒸気を吐き出してやってきました。
日本は征韓論は挫折していましたが、政府に対する不満を解消させるために特別な措置を必要としていました。当時、日本の人口は4千万をこえ、 生産力に比べて過度に多い人口でした。そこで国民を海外に進出させようと土地が広くて人口の少ない地域に注目することになり、 最も近い韓半島に白羽の矢があたったのです。また自らの国家的な発展という目的以外にも、朝鮮が他の外国の植民地になったり、支配されたりすれば、自分達が非常に危険になると考え、朝鮮に対する進出に積極的だったのです。
高宗は興宣大院君のように無条件開港を拒否するよりは、どうにかして現実的にこの問題を解決しようと努力しました。さらに清の政府も朝鮮に日本と修交を結ぶように圧力をかけてきます。
清の考えは日本の開港要求を朝鮮が受け入れなければ、いつかは武力衝突をすることになり、そうなれば軍事力の弱い朝鮮は清に援軍を要請するだろうというものでした。そして、戦争によって起こるであろういかなる情況も清に有利には働かないと判断したのでした。それで朝鮮政府を説得して日本と友好条約を結ばせることが、清にとって有利だと考えたのでした。
高宗は日本との修交に反対する保守派を説得しました。1876年2月、両国は公式の合意文を発表しました。それが江華島条約、韓日修好条約とよばれる条約です。その内容は大きく分けて次の3つです。
第一に、朝鮮は自主国である。
第二に、釜山、元山、仁川の3つの港を開港して治外法権を認める租界
を設置する。ここでは朝鮮の司法権は認められない。
第三に、日本人の自由な通商と朝鮮沿海の測量を認める。
特に第一番目の朝鮮は自主国であるという内容は、朝鮮と清との伝統的な関係を否認して、清の干渉を排除するという意図が含まれています。
さらにその年の7月に合意した韓日貿易規則では開港した港での日本の貨幣の流通を認め、数年間輸出入商品に免税権を与えると規定しています。しかし当時の輸出というのは日本から朝鮮への一方的なものでした。 江華島条約を利用して日本は経済的な側面か朝鮮侵略を本格化したのでした。そしてこれは大陸に進出という日本の国家戦略の第一段階でした。
http://world.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_click_detail.htm?No=1223
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Re: 朝鮮の植民地根性、主犯は中国
投稿者: nanairokamen03 投稿日時: 2007/02/06 00:53 投稿番号: [660 / 1329]
>高宗の時代には国家予算も作られず勝手にカネを使い放題だったとありますが
アームソトロング砲をばんばん買いこんで強大な軍備を備えた訳でもなく頤和園のような豪華庭園をこさえた訳でもないのに国家がぴーぴーで利権を外国に売りわたさなければやっていけなかったのは徴税制度にも大きな問題があったと思います。李朝成立当初から頭の黒いネズミである両班が国家に巣食ってついには屋台骨までかじってしまったってことかな。閔妃にしても彼女個人の問題というのもあるけど閔一族の利益代表のようなもんでしょう。
確かにこういうところは今の南北朝鮮でも変わってませんね。
これは メッセージ 659 (melancholy_night さん)への返信です.
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Re: 朝鮮の植民地根性、主犯は中国
投稿者: melancholy_night 投稿日時: 2007/02/05 22:08 投稿番号: [659 / 1329]
これは メッセージ 655 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: 朝鮮の植民地根性、主犯は中国
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/02/05 21:37 投稿番号: [658 / 1329]
>>「高宗の身の安全を、ロシアに守ってもらうために、高宗は國の資源や権利を、売国したのである。」
韓国の歴史教科書を見ても、高宗の無能ドタバタや利権を外国に売り払っていた財政悪化状況なんて、全く出てきませんね。
何故日露戦争が起き、そのとき朝鮮王朝はどうだったのか、すっぽり抜けています。
逆に、日帝や外国の食い物になっていた朝鮮の民衆による抵抗運動・義兵闘争だけがねちっこく強調されて、ただただ日帝に弾圧・侵略されて植民地にされたという流れです。
大韓帝国の財政悪化に日本が貸してあげた借款まで、「韓国政府に巨額の借款を受け入れさせた。」となっていますから。(笑)
従って、エンコリでもこの部分しか食いつく知識がないものと思います。(笑)
------------------------
http://members.at.infoseek.co.jp/ST22/k/6.htm#6-2-1大韓帝国
俄館播遷1年目である1897年に高宗は内外の世論に助けられてロシア公使館から慶運宮に還宮し、国号を大韓帝国、元号を光武と変えた後、王を皇帝と称し自主国家であることを内外に宣布した。
大韓帝国は、内には外勢の干渉を防ぎ自主独立の近代国家を建設する国民的な自覚と、外には朝鮮からロシアの独占勢力を牽制しようとする国際的な世論の支援を受けて成立した。
Ⅵ-2-(4)
抗日義兵戦争の展開
Ⅵ-2-(5)
愛国啓蒙運動の展開
Ⅵ-3-(1)
開港以後の列強の経済的侵略
経済的侵奪阻上運動
「借款供与による隷属化政策に抵抗し国債報償運動が起こった。日帝は統監府設置後、植民地施設を整備するために施設改善などの名目で韓国政府に巨額の借款を受け入れさせた。一九○七年までに受け人れさせた借款総額は、大韓帝国の一年分の予算とほぼ同じ一三○○万円に達した。これに対し国民の力で国債を返し、国権を守ろうとする国債報償運動が大邱から全国に広がった。国債報償期成会を中心に、各種の愛国啓蒙団体と言論機関が募金運動に加わった。募金のための禁煙運動も展開され、婦女子らはかんざしや指環まで供出して応えた。しかし日帝統監府の陰険な弾圧によって、この挙族的な経済的救国運動は挫析させられてしまった。」
これは メッセージ 657 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: 朝鮮の植民地根性、主犯は中国
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/02/05 20:59 投稿番号: [657 / 1329]
>この馬鹿げたことをどれだけの韓国人が知ってるのだろう。
おそらく、まったく知らないでしょうね。
>日本はフランスとイギリスに勢力が利用されるのを回避する賢さがありましたが。
本当の意味で「おおやけ」という概念がなかったんでしょうね。
その代替として民族情緒を燃え上がらせているのかと。
>翻訳掲示板も韓国人側は相変わらず向き合うことはしてないような。
まぁ、まともに向き合えないでしょうね。向き合うことで自分の全てが崩壊すると恐れているのかも。
これは メッセージ 656 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: 朝鮮の植民地根性、主犯は中国
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/02/05 20:04 投稿番号: [656 / 1329]
>「高宗の身の安全を、ロシアに守ってもらうために、高宗は國の資源や権利を、売国したのである。」
この馬鹿げたことをどれだけの韓国人が知ってるのだろう。
日本はフランスとイギリスに勢力が利用されるのを回避する賢さがありましたが。
危機感がなく、現在の権力や自分の国でしか通用しない価値観に固執のなのは現在も相変わらず?!
翻訳掲示板も韓国人側は相変わらず向き合うことはしてないような。
これは メッセージ 655 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: 朝鮮の植民地根性、主犯は中国
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/02/05 19:36 投稿番号: [655 / 1329]
これは メッセージ 653 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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Re: 朝鮮の植民地根性、主犯は中国
投稿者: koshien21c 投稿日時: 2007/02/05 15:12 投稿番号: [654 / 1329]
>「高宗が中国との関係に完全に埋没しないで、日本と適切な信頼関係を
維持しつつ、中国・ロシアからの脅威を適切にコントロールできたとすれば、
朝鮮の歴史はもちろん東アジアの20世紀歴史ははっきりと違うものになった」
と主張した。
まあ、一応正論ですが、高宗は無恥無能で酒食に溺れ中・露に事大、最後は日韓併合を進めた。
>「帝国主義時代に朝鮮王朝を半植民地的従属状態にした主犯は中国だ」という論理を展開した。
また、人の所為に。日清戦争を分析して貰いたいね。下関条約で朝鮮は清国から独立し大韓帝国となり高宗が初代皇帝になった。そのときに国際関係を掌握し日本の支持があれば独立国として存在できた可能性はある。
ところが日本を裏切りロシアに事大し、その結果日露戦争に繋がったことを無視ですね。
>1904年の日露戦争までの歴史から、突然、独立運動に関する話に飛んでおり、いつどのように国が滅びたのかの叙述もない」と語った。
独立義勇軍だの韓国臨時政府による独立軍だの歴史の捏造・歪曲のオンパレードになるのですな。
>経済沈滞にともなう富国強兵の失敗を挙げた。
貨幣経済さえ満足に発達せず、経済・社会インフラも無いのに経済の沈滞も無いものだ。近代的経済システムになっておらず古代の経済システム=物々交換経済のレベルで商業資本や工業資本の蓄積もなかった。国庫は空で、王朝運営のため鉱山権や鉄道権を列強に売り、借金をしていた状態で自力で経済発展しようがない。
>「このような道徳経済の集団的生存倫理が強固な中で
近代的教育がなされていなかったということです。
>人口増加と環境破壊という挑戦に合理的に対応することに失敗した」
農業が前近代的なおてんとう様頼りで食料増産能力がなく、人口は食料生産の範囲内に抑えられていた。大院君の統治時代に飢饉があり庶民が餓死したが、大院君は食料を輸入し庶民を救うことすらしなかった。
環境破壊って当時そんな意識は朝鮮人には皆無。
この先生はやはりずれている。
これは メッセージ 652 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: 朝鮮の植民地根性、主犯は中国
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/02/05 13:57 投稿番号: [653 / 1329]
これは メッセージ 652 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/653.html
朝鮮の植民地根性、主犯は中国
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/02/05 11:13 投稿番号: [652 / 1329]
昔のネタで、他スレで外出済みかもしれないけど、しかもソースが消えてるものですが、ここでは貼り付けはなかったので、あげついでに貼り付けておきます。
__________________________________
http://www.worldtimes.co.jp/kansok/kan/soc/051117-4.html>旧韓国末、指導層の外交失敗が植民化招いた
李朝末期の朝鮮の植民地化は避けられない運命だったのか、でなければ
当時の政治指導者の無能と誤った判断のためなのか!?
脱民族主義的歴史観確立を主張してきた経済史学者のイ・ヨンフン教授
(ソウル大経済学)は、高宗(コジョン)皇帝と当時の指導層が外交戦略を
失敗したためだと強く批判した。これに同大のイ・テジン教授が反論するなど、
高宗責任論をめぐって論議がおきている。
李教授は季刊「時代精神」秋冬号の「青年たちよ、古い歴史観を捨てよ」で、
「朝鮮の植民地化は高宗の盲目的な反日外交戦略が招いた最悪の結果」と
規定し、「高宗が中国との関係に完全に埋没しないで、日本と適切な信頼関係を
維持しつつ、中国・ロシアからの脅威を適切にコントロールできたとすれば、
朝鮮の歴史はもちろん東アジアの20世紀歴史ははっきりと違うものになった」
と主張した。
イ教授は「朝鮮政府は中国の後見と保護によって、日本の脅威に対処する
外交戦略を採択し、中国が朝鮮の独立という善意を持っており、また日本の
軍事力では中国の相手にならないという誤った判断をした」と分析した。
続いて、「この高宗と執権勢力の誤った判断は、国際秩序に対する感覚の
問題にまで食い込まなければ分からない」とし、「小中華思想を持っていた朝鮮が、
ある日突然海の中から蛮夷(日本)が、無礼にも天皇を称しながら現れて、
自尊心がどれほど傷ついたか」と当時の朝鮮指導層の無知を批判した。
また、甲申政変を起こした金玉均(キム・オッキュン)に対して「当時、中国に
隷属していた朝鮮の状況で、金玉均など開化派の偉業は避けられなかった」とし、
「帝国主義時代に朝鮮王朝を半植民地的従属状態にした主犯は中国だ」という
論理を展開した。
イ・ヨンフン教授は歴史学界に対しても批判した。「朝鮮王朝の崩壊は政治的
選択の責任を負った指導係層が何をどのようにやれば国家を滅ぼせるのかを
子孫に教えているという点から、今日の韓国人に真に重要な歴史的事件」とし、
「歴史教科書では、1904年の日露戦争までの歴史から、突然、独立運動に
関する話に飛んでおり、いつどのように国が滅びたのかの叙述もない」と語った。
李教授は朝鮮王朝が滅びた他の理由として、経済沈滞にともなう富国強兵の
失敗を挙げた。「性理学では民がまんべんなく良く暮らす状態を理想とした」として、
「このような道徳経済の集団的生存倫理が強固な中で、人口増加と環境破壊
という挑戦に合理的に対応することに失敗した」と説明した。
これは メッセージ 1 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: 本を買った
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/02/02 23:39 投稿番号: [651 / 1329]
>会社の帰りに「世界の水上戦闘艦」(文林堂)なんて買って帰ってる私とはえらい違いだ・・・orz
その古本屋には、その手の本も充実しており、買いそうになったですよ。財布の中身が許してくれませんでしたが。
昭顕世子と西洋人宣教師の関係について調べたかったんですが、この本は1642年までのことしか書かれておらず、昭顕世子が北京に入城して西洋人宣教師と接触した1645年のことは書かれてなかったんですよ・・・
こりゃ、また別の資料を探さないとなぁ。
ま、おもしろそうな本なので、これはこれでいいかと。
これは メッセージ 650 (sonic_8808 さん)への返信です.
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Re: 本を買った
投稿者: sonic_8808 投稿日時: 2007/02/02 23:27 投稿番号: [650 / 1329]
>昭顕世子の瀋陽滞在記録である「瀋陽日記」(大洋書籍)という本を購入しました。漢文の原文にハングル訳がついているものです。
あー、学術的で良いですなぁ。
会社の帰りに「世界の水上戦闘艦」(文林堂)なんて買って帰ってる私とはえらい違いだ・・・orz
これは メッセージ 647 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: 本を買った
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/02/02 23:13 投稿番号: [649 / 1329]
生野区といっても、鶴橋や猪飼野といったコリアンエリアからは少し離れているところなんですけどね。
朝鮮についての日本人や韓国人の書物、金日成関係の書物から朝鮮総督府編纂の書物までかなりの数が揃っていました。
しかし、六国史のそばに鹿島磤「桓檀古記」「北倭記」や吾郷清彦「秀真由伝」を置いてあるのはどうかと。(苦笑)
これは メッセージ 648 (honkytonk_2002_x さん)への返信です.
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Re: 本を買った
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2007/02/02 23:00 投稿番号: [648 / 1329]
>場所がら(と言ってはなんですが)、古今東西の多くの朝鮮関係の書物がおいてあり、見ているだけでも楽しかったです。
いいなあ。
ワシも行ってみたい。きっと何冊か買うだろうなあ…。
これは メッセージ 647 (toapanlang さん)への返信です.
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本を買った
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/02/02 21:36 投稿番号: [647 / 1329]
今日は、大阪市生野区のとある古本屋に行きました。
昭顕世子の瀋陽滞在記録である「瀋陽日記」(大洋書籍)という本を購入しました。漢文の原文にハングル訳がついているものです。
これで、瀋陽での昭顕世子の様子が少しわかるかも。
場所がら(と言ってはなんですが)、古今東西の多くの朝鮮関係の書物がおいてあり、見ているだけでも楽しかったです。
これは メッセージ 1 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: 朝鮮初期時代の枕
投稿者: kusuo1 投稿日時: 2007/02/01 22:44 投稿番号: [646 / 1329]
いつもの様にまた、僅かな資料を元に想像を膨らまして復元した物でしょう。
これは メッセージ 643 (imp_mania_jk さん)への返信です.
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Re: パチモンの人質
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/01/31 11:45 投稿番号: [645 / 1329]
日本も欧州のような富への強欲さがあれば、
清と図って李朝を滅ぼして支配もありえたかもしれない?
でも、朝鮮半島はそんな豊じゃないからね〜。
これは メッセージ 642 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: 朝鮮初期時代の枕
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/01/31 11:39 投稿番号: [644 / 1329]
冷麺は蕎麦粉を使うし、そば殻があってもおかしくはないのですが、
必要以上に李朝時代は素敵だったを捏造するから、
こんな程度でもチェックが必要になりますね。
そば殻まくら、夏用にひんやりして好きです。
これは メッセージ 643 (imp_mania_jk さん)への返信です.
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朝鮮初期時代の枕
投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/01/30 23:23 投稿番号: [643 / 1329]
これは メッセージ 1 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: パチモンの人質
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/29 20:09 投稿番号: [642 / 1329]
>今、りんご(紅玉)のジャムをストーブで煮ながらレスをしています。
部屋中りんごの匂いが充満♪
さぞ立派なジャムができたことでしょう。
>なるほど、跡継ぎの長男・次男を送るのは熾烈な要求だなと思いましたが、そういう経過があったのですか。
確かに、本当の跡継ぎを失うのは痛手ですし、真に服属はするつもりがなかった相手でもあったからなのでしょうね。
そうなんですよね。しかも、ばれないとでも思っていたんでしょうか?前回の丁卯胡乱時とほぼと同じ手なのに。
コンテンツでここのくだりをつくった際は、どう笑えるネタにするか楽しみながらつくっておりました。
>ちなみに、仁祖はつまんない朴念仁の印象しかなかったのですが、日本に3回も朝鮮通信使を送って日本にけっこう関わりがある人物なのですね。
3回も送ったのは仁祖だけですね。
明が「清を撃退するために日本に援軍を要請した。そろそろ着く頃だ」なんてハッタリをかましたり、清のほうも「日本との通交をする」とか言い出すから、朝鮮としては、日本との関係を良くしておかないと心配だったのでしょう。また来られちゃかなわんニダって。
>逆に朝鮮国王が代が変ると、日本の幕府はお祝いの手紙ぐらいは書くぐらいはしてたのでしょうか。
対馬潘を通じて代替わりの通知報告くらいはしていたんでしょう。
これは メッセージ 641 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: パチモンの人質
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/01/27 22:19 投稿番号: [641 / 1329]
お返事が遅れてすみません。
今、りんご(紅玉)のジャムをストーブで煮ながらレスをしています。
部屋中りんごの匂いが充満♪
>清の要求どおり王弟と大臣を人質に送ります。
ところがそれはパチモンでした。身分の高くない王族を王弟とし、重職にない廷臣を大臣と称して送ったのです。
なるほど、跡継ぎの長男・次男を送るのは熾烈な要求だなと思いましたが、そういう経過があったのですか。
確かに、本当の跡継ぎを失うのは痛手ですし、真に服属はするつもりがなかった相手でもあったからなのでしょうね。
ちなみに、仁祖はつまんない朴念仁の印象しかなかったのですが、日本に3回も朝鮮通信使を送って日本にけっこう関わりがある人物なのですね。
(1624年徳川家光の襲職祝賀、1643年にも徳川家綱誕生祝賀)
逆に朝鮮国王が代が変ると、日本の幕府はお祝いの手紙ぐらいは書くぐらいはしてたのでしょうか。
これは メッセージ 640 (toapanlang さん)への返信です.
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