李朝朝鮮
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パチモンの人質
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/26 14:54 投稿番号: [640 / 1329]
以前、ふれましたように、丙子胡乱(1636、7年)で、清の奇襲をくらった仁祖政権は、講和交渉で時間を稼ごうとして、まず、清の要求どおり王弟と大臣を人質に送ります。
ところがそれはパチモンでした。身分の高くない王族を王弟とし、重職にない廷臣を大臣と称して送ったのです。
清人は「前回(丁卯胡乱)、パチモンを送ってきただろ。今回は本物か?」と疑い、問いつめますが、答えられません。
そこで、清人は付き添いできていた朴蘭英という人物(サルフの戦いで捕虜となり、丁卯胡乱では講和の仲介役に当たった。戦後は朝鮮に帰国し主に対後金外交に従事していた)に問いただします。
朴は「本物です」というのですが、怒った清人は、お前までウソをつくのか!とばかりに朴を殺してしまいました。
原文
綾峰君[イ+稱のつくり]及沈[言+揖のつくり]、往虜営議和事。
虜問曰「爾国往在丁卯年、亦以仮王子欺我。此則真王弟乎」
[言+揖のつくり]不能対。
又問曰「爾是真大臣乎」[言+揖のつくり]又不能対。
虜遂問於朴蘭英、蘭英以[イ+稱の右側]為真王弟、[言+揖のつくり]為真大臣、虜大怒、遂殺蘭英、因言曰「出送世子然後、方可議和云」
「仁祖実録」
仁祖14年(1636)12月16日
これは メッセージ 583 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: チュオク途中から観ました。
投稿者: kusuo1 投稿日時: 2007/01/22 23:08 投稿番号: [639 / 1329]
>朝鮮製の鳥銃には粗悪品が多く、あわてて予備の銃に交換し、・・・
予備の銃は日本製?
備辺司で鳥銃らしき物を造るぬは造ったが使い物にならなかった?
これは メッセージ 635 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: チュオク途中から>訂正
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/22 22:59 投稿番号: [638 / 1329]
>あらら、野外での遭遇戦だったんですか。
そりゃ、騎兵の突撃速度には対応できませんね。
ええ、明の東南方面司令官の劉挺が率いる本軍は、はるか前方を進んでおり、後金軍の奇襲包囲を受けて壊滅、それを知らずに進む朝鮮軍先鋒&明軍遊撃隊に女真騎兵が襲いかかったわけです。
女真騎兵も、最初の射撃である程度の被害はこうむったのですが。
>長篠之合戦は、馬防柵と空堀(それも複合)で「待ち構えて」
3段射撃で「途切れの無い弾幕射撃」を行った(行えた)結果ですしね。
ええ。
ま、もし長篠のような防備を施していたとしても、後金軍はそれを無視して迂回すればいいだけです。
防戦である長篠と違って、サルフの戦いは、明軍が後金の本拠興京に対して南・東南・西・北から分進合撃による包囲攻撃を企図したものでしたから、興京で合流するまでは、いちいち野戦築城しても意味がなかったわけですし。
これは メッセージ 637 (samurai_06_japan さん)への返信です.
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Re: チュオク途中から>訂正
投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2007/01/22 22:35 投稿番号: [637 / 1329]
>正確にいいますと、防戦時に木製の障害物である「拒馬木」を展開してはいるんです。
>サルフの戦いでは、予定戦場での会戦ではなく、進軍の途中で敵の襲来を知ったため、この障害物も有効に展開できていなかったのではないかと考えます。
あらら、野外での遭遇戦だったんですか。
そりゃ、騎兵の突撃速度には対応できませんね。
火縄銃の有効射程は100m程ですから。
1回射撃を行って、1回目まで馴れた者で20秒、不慣れだと30〜40秒はかかると言われます。
それだけ時間が有ったら、あっという間に距離を詰められますね。
因みに競馬のサラブレットのゴール前上がり3ハロン(1ハロンは201.168m)のタイムは33〜36秒。
100mを5〜6秒程です。
軍馬(蒙古馬)の突撃速度を、この半分としても。
100mの距離を突撃するのに、10秒〜15秒もあれば到着。
長篠之合戦は、馬防柵と空堀(それも複合)で「待ち構えて」
3段射撃で「途切れの無い弾幕射撃」を行った(行えた)結果ですしね。
*でも、3000丁の鉄砲の、連続弾幕射撃でも、実際の死傷者は精々数百名(殆どがけが人で、死者は更に少ない)と言われておりますが・・・
これは メッセージ 632 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: チュオク途中から観ました。
投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2007/01/22 22:16 投稿番号: [636 / 1329]
>銃については馬上から連発式に撃ちまくっていてしかもかなり遠い敵に命中していた点で当時世界最先端の銃でもそれはありえない設定ではないかと思いました。
残念ながら私は観ていないのですが。
少なくとも「火縄銃」で連発は不可能です。
銃は、火縄銃がマッチロック式⇒ホイールロック式⇒フリントロック式⇒パーカッションロック式、と移行し。
その後19世紀後半に元込め式の銃に移行しますが、此処まで全て「単発」です。
連発式小銃は、ウィンチェスター社のジョン・モーゼス・ブローニングが設計したウィンチェスターM1866(レバーアクション式13連発)を嚆矢とします。(1866年度モデル)
*その発展型が、西部劇でお馴染みの「ウィンチェスターM1873」
朝鮮は、火縄銃、それもマッチロック時代に「連発式」ですか(笑)
あと、「遠距離」はどの位か判りませんが。
火縄銃の「最大飛距離」は2000m程は有りますが。
あくまで「最大飛距離」です(終末速度はがた落ちで、ヘロヘロ弾になっている)
「実用有効射程」つまり「実用殺傷有効射程」はおおよそ1町程。大体100m位です。
それでも、かなりの練達者でなければ命中しません。ライフリング(射程と威力、弾道を安定させるための銃身内螺旋)は無い滑腔銃ですから。
*事実、戦国時代末期でさえ、鉄砲足軽は「命中させるために狙いをつける」事が出来ませんでした。
「この方向に、この角度で『放て』」と指示されるだけです(弾幕射撃、ですね)
「狙って当てる」事の出来たのは、当時は雑賀、根来の鉄砲衆だけ、とも言われています。
これは メッセージ 628 (melancholy_night さん)への返信です.
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Re: チュオク途中から観ました。
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/22 20:40 投稿番号: [635 / 1329]
>鳥銃5千の大部分は日本からの輸入品でしょう。
>朝鮮では20世紀になるまで個人や家族でしか物造りが行われなかったので、組織でないと造れない日本刀や鉄砲の製作は不可能ではないでしょうか。
『朝鮮王朝実録』の1613年12月21日条には、女真族に備えて備辺司(政治軍事など主要な国政をつかさどる機関)で造った鳥銃を西北の平安道に送れ(本司所造鳥銃、竝量数分送西北)、という記事があります。
また、1618年6月4日条には、李時言という廷臣が光海君に対して軍備の苦しさを説明する中で、「鳥銃の製造、硝石の採集という労役は1ヶ月に5、6日しか休みがなく、とてもしんどい(如鳥銃打造、焔硝燔煮之処、亦為立役、一月中休息、不過五六日、其苦極矣)」と言っております。
そういうわけで、鳥銃の製造自体はできたんだろうなぁと。
ただ、サルフの戦いの直前(1618年11月22日)に、明の将軍の閲兵を受けた際、朝鮮製の鳥銃には粗悪品が多く、あわてて予備の銃に交換し、その作業のため軍の進発が遅れて怒られた、という記述もありますので、品質については疑問符が・・・
ただ、おっしゃりますとおり、日本からの輸出も盛んであったことは確かですね。特に1615年の大坂夏の陣以降は、日本国内での需要が極端に低下しますし、そのぶん輸出量も増えたでしょう。
これは メッセージ 634 (kusuo1 さん)への返信です.
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Re: チュオク途中から観ました。
投稿者: kusuo1 投稿日時: 2007/01/22 19:17 投稿番号: [634 / 1329]
鳥銃5千の大部分は日本からの輸入品でしょう。
文禄慶長の役の後、鉄砲や日本刀の威力が知られるようになって日本から鉄砲や日本刀の輸出が増えたと歴史の本で昔読んだ覚えが有る。
朝鮮に専門の刀鍛冶や鉄砲鍛冶っていたのかな?
朝鮮では20世紀になるまで個人や家族でしか物造りが行われなかったので、組織でないと造れない日本刀や鉄砲の製作は不可能ではないでしょうか。
これは メッセージ 627 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: チュオク途中から観ました。
投稿者: monju_jz 投稿日時: 2007/01/22 16:04 投稿番号: [633 / 1329]
>トイレについては「かわやがあるのになんで…」というセリフで、そもそも朝鮮にトイレがあったのかという点です。
朝鮮のトイレの史料2点出しておきます。
結論から言うとやはり朝鮮にはトイレはなかったと思います。
ただし、金持ちや貴人の家までは断定できませんが。
下は明治9(1876)年の遣朝鮮使節の紀行記よりの抜粋です。
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi020.html>風呂場と便所
途中の各官庁には風呂というものが無かったが、ここ清水館では日本人のために風呂場が新たに作ってあった。その広さ10坪ほど。湯を汲み入れて使うが、頗る爽快であった。
また、便所も数箇所仮設してあった。これも日本人のために作ったと言う。しかし粗末な藁葺きで不潔であった。
途中の宿には敷地の一隅に便所が設けられていたが、頗る不潔で堪え難かった。また、部屋に銅製の蓋付きの缶があり、通常はこれで用足しをするという。
普通、朝鮮人民の家には便所がないとも言う。
そのためか、いたる所で糞尿の臭気が甚だしく数万の蒼蝿が舞い、部屋にも満ちて煩わしく、耐えられない位である。雨が降る日だけ臭気が治まった。
ここでは蚊および蚤はまれであった。しかし、浅間艦から士官3人が連絡のために仁川から来たときに民家に宿泊したが、夥しい蚊と蚤のために、ついに一睡も出来なかったと言う。
日本人のためにこのように浴房を設け、数箇所の便所を作ってあるが、これは京城近傍では奇なる風景だと言う。
次は朝鮮総督府高官の話です。
http://blog.livedoor.jp/tkknrak/archives/cat_1344374.html>そうして便所の世話からやった。というのは朝鮮は厠をつくる習慣が農村にありません。
そこらにいって小便、大便をやってくる。
町の中ではオンドルの中に壷があって、夜壷に小便して、朝窓からパッと捨てる。
朝通って行くときに窓からやられることがある。
そこで便所を造る費用を予算で補助してくれと言って来た。
農村振興運動で・・。
僕等そんな馬鹿なことがあるかと言ったが聞いてみるとやはり便所をつくって、甕を埋めて、それを肥料として使うことを指導するわけです。そういうことからやった。
これは メッセージ 628 (melancholy_night さん)への返信です.
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Re: チュオク途中から>訂正
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/21 18:40 投稿番号: [632 / 1329]
>>長篠の織田軍のような馬防柵や塹壕を備えた本格的な防備を施していなかったせいもあるかと。
正確にいいますと、防戦時に木製の障害物である「拒馬木」を展開してはいるんです。
「拒馬木」はおそらく支那の「拒馬槍」と同種のものでしょう。横に渡した丸太に槍を取り付けたバリケードで、横から見ると「入」字型をしています。これを地面に打ち込んで連ねるのですが、サルフの戦いでは、予定戦場での会戦ではなく、進軍の途中で敵の襲来を知ったため、この障害物も有効に展開できていなかったのではないかと考えます。
これは メッセージ 631 (honkytonk_2002_x さん)への返信です.
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Re: チュオク途中から観ました。
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2007/01/21 18:10 投稿番号: [631 / 1329]
>長篠の織田軍のような馬防柵や塹壕を備えた本格的な防備を施していなかったせいもあるかと。
なるほど。
近現代における、艦隊の防空システムを彷彿とさせますね。
いくさって、時代は変わっても基本は変わらないんだなあ…。
これは メッセージ 627 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: (火縄銃)チュオク途中から観ました。
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/21 12:18 投稿番号: [630 / 1329]
>前から疑問なんですが、朝鮮が後金に対して出兵して火縄銃をそれだけ装備すれば当然それに相応の量の弾薬が必要となる訳です。
私もそういう疑問を持ちまして、朝鮮王朝実録を検索してみたことがあります。
>当時朝鮮は火薬の原料のうち硫黄と硝石の二品をどこから入手してたんでしょうか。明からは貿易品として入ってたとは思うんですが満州騎兵に対し弾幕をはるくらい豊富に備蓄してたかどうか。
ご指摘のとおりでして、硫黄は国内で取れたようですが、硝石は明からの輸入・下賜にその多くを頼っていました。
>日本でも火薬の材料のうち硫黄は国産で十分ですがこと硝石となると南蛮貿易で都合をつけています。加賀藩でしたか鼠の糞を大量に集めるとか筵にせっせと小便をかけて自前で硝石をこさえようと努力してますね。
江戸時代には、加賀藩の農村で、生産した硝石を年貢としていた地域もありました。
朝鮮でもこのあたりの事情は変らないようです。朝鮮王朝実録では「煮取焔硝」という表現があります。
また、1633年10月8日条では、北京に行った使者の鄭斗源が学んできた「煮取焔硝」の新方法を試したらいい結果が出た。以後広く用いるように、という記述もあります。一応の生産はできたようですね。
なお、この鄭斗源は北京で会った西洋人から、フリントロック式の銃や時計、望遠鏡をもらって、朝鮮に持ち帰っています。
これは メッセージ 629 (nanairokamen03 さん)への返信です.
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Re: (火縄銃)チュオク途中から観ました。
投稿者: nanairokamen03 投稿日時: 2007/01/21 11:06 投稿番号: [629 / 1329]
前から疑問なんですが、朝鮮が後金に対して出兵して火縄銃をそれだけ装備すれば当然それに相応の量の弾薬が必要となる訳です。当時朝鮮は火薬の原料のうち硫黄と硝石の二品をどこから入手してたんでしょうか。明からは貿易品として入ってたとは思うんですが満州騎兵に対し弾幕をはるくらい豊富に備蓄してたかどうか。日本でも火薬の材料のうち硫黄は国産で十分ですがこと硝石となると南蛮貿易で都合をつけています。加賀藩でしたか鼠の糞を大量に集めるとか筵にせっせと小便をかけて自前で硝石をこさえようと努力してますね。
これは メッセージ 627 (toapanlang さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/629.html
Re: チュオク途中から観ました。
投稿者: melancholy_night 投稿日時: 2007/01/21 09:11 投稿番号: [628 / 1329]
私も途中からですが少し見ました。番宣で舞台設定などあらましを聞いていましたが見たのは初めてでした。興味を持ったのは皆さんと同じようにトイレと銃の2点です。銃については馬上から連発式に撃ちまくっていてしかもかなり遠い敵に命中していた点で当時世界最先端の銃でもそれはありえない設定ではないかと思いました。トイレについては「かわやがあるのになんで…」というセリフで、そもそも朝鮮にトイレがあったのかという点です。正確に時代考証すればかなり台本が変わりそうな気がします。教養豊かな方々は銃に関する時代考証のほうに興味を持たれるでしょうが私はむしろトイレの時代考証のほうに興味があります。
哲学する小部屋
http://www.gulf.or.jp/~houki/essay/toire.html
これは メッセージ 627 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: チュオク途中から観ました。
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/21 01:40 投稿番号: [627 / 1329]
>いきなりお外でおトイレし〜ん(
Д )
゚
゚
>くさいぞ・・・かわやがあるのになんでかと問われて、星をみながらしようと思ったとか答えてました・・・
>ああ、こうして王宮周辺に黄金の花伝説が日本まで伝わるのですね。
私もやはり途中から見て、同じように思いました。
>面白くなさそうだったので、他のことをして適当に過ごしてたので、
内容は把握してませんが、最後の方で銃が出てきました。
火縄銃?朝鮮もあったのですね。
日本のように製造はしてないかもしれないけど、輸入で入ってきたのかな?
私は途中でチャンネルを他局に回してしまいました。
基本的に、フリントロック式、つまり撃鉄と火打ち石による発火装置を採用する以前の小銃は、縄に火種をキープしておく火縄銃(鳥銃)が主流でして、東アジア世界では特にその火縄形式が流布発達しました。
文禄慶長の役の後、光海君は降倭を中心とした鳥銃部隊を育成し、明と後金の激突したサルフの戦いにおいて、鳥銃隊5千を含んだ明への援軍1万を送りました。
突撃してくる後金騎兵数千VS迎え撃つ朝鮮軍前衛の鳥銃隊5千、というのは長篠の戦を連想させるのですが、一斉射撃の時に突如巻き起こった大風によって、発射煙がたちこめて視界を奪われ、さらに後金騎兵のスピードは、第二回目の射撃を許さないほど速いものであったため、朝鮮軍前衛は一撃で壊滅してしまいました。長篠の織田軍のような馬防柵や塹壕を備えた本格的な防備を施していなかったせいもあるかと。
で、三田渡で清に屈服した後、北伐、つまり反清を目的とした軍拡で、鳥銃部隊を再整備するのですが、それは清とロシアの国境紛争に借り出されてしまったのでした。
1639年から始まった清と明の大戦において、朝鮮の砲兵も出兵を求められています。
で、狙いをあらぬ方向に外した兵卒が、激怒した清の軍官に斬られたり、しばかれたり、あるいは朝鮮兵の射撃が間違って清兵にあたってしまって、しばかれたり、というグデグデもありました。
最後には、清帝ホンタイジからその功労にお褒めの言葉をいただいたのですが。
そういうわけで、火縄銃が存在していたのはわかるのですが、その製造についてはよくわかりません。製造していたと考えたほうが無難なのかなぁ・・・
なお、仁祖実録を読みますと、軍の中では砲兵の地位を低く見ていたものもいたようです。で、仁祖お出での席で、自ら砲兵の訓練をおこなって「砲については、みんな賤しい技術と言って避けているのに、みずから試みて士卒を奮い立たせたことはすばらしい」として特別に馬を賜った李時白という司令官がいました。(仁祖実録
仁祖16年(1638年)2月13日)
これは メッセージ 626 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/627.html
チュオク途中から観ました。
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/01/21 00:50 投稿番号: [626 / 1329]
いきなりお外でおトイレし〜ん(
Д )
゚
゚
くさいぞ・・・かわやがあるのになんでかと問われて、星をみながらしようと思ったとか答えてました・・・
ああ、こうして王宮周辺に黄金の花伝説が日本まで伝わるのですね。
面白くなさそうだったので、他のことをして適当に過ごしてたので、
内容は把握してませんが、最後の方で銃が出てきました。
火縄銃?朝鮮もあったのですね。
日本のように製造はしてないかもしれないけど、輸入で入ってきたのかな?
これは メッセージ 1 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/626.html
Re: ごあいさつ
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/20 12:53 投稿番号: [625 / 1329]
>ふと立ち止まって・・・過去の投稿を改めて読んで思ったのですが、
>「堕落の2000年史」(崔基鎬)はあまり正確ではないのでしょうか?
>この本自体を持っておらず、ネットから引っ張ってきたものなのですが。
私も、以前にざっと読んだ程度であまりどうこう言えないのですが、これまでの投稿で指摘したように、細かい箇所に単純ミスがあるんですね。
全体の論旨の流れにはそう影響してこないんでしょうけど・・・
>いつも投稿をありがとうございます(・∀・)ノ
実生活や自分の一番興味があることに時間をお使いください。
時々、落ちないかな〜と気を使ってくださる程度でOKです。
ゆ〜くりといきやしょう。
お気遣い、ありがとうございます。
ゆるゆるといきますか。
これは メッセージ 624 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/625.html
ごあいさつ
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/01/20 11:57 投稿番号: [624 / 1329]
ふと立ち止まって・・・過去の投稿を改めて読んで思ったのですが、
「堕落の2000年史」(崔基鎬)はあまり正確ではないのでしょうか?
この本自体を持っておらず、ネットから引っ張ってきたものなのですが。
いつも投稿をありがとうございます(・∀・)ノ
実生活や自分の一番興味があることに時間をお使いください。
時々、落ちないかな〜と気を使ってくださる程度でOKです。
ゆ〜くりといきやしょう。
『坂の上の雲』が大河ドラマとは別枠ですが、NHKで放送されますね。
配役はまぁ納得の範疇かな?いや、正岡子規が不満かも。
これは メッセージ 602 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: タバコ
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/17 23:53 投稿番号: [623 / 1329]
>1492年にコロンブス一行がカリブ海の小島で先住民が乾いた葉っぱを筒状に巻き、火を付けて煙を吸っているのを目にしました。しかし、黄金を求めて行ったコロンブスは葉っぱには興味が無く、実際にたばこをヨーロッパに持ち帰ったのは1497年コロンブスの第2次航海船に乗り込んだ神父パネだといわれています。
コロンブスではなかったんですか。んー、私の知識もいい加減やなー。
>タバコの種子は慶長6年(1601年)フランシスコ会修道士ヘロニモ・デ・ヘスス一行が日本へ持ち込んだのが最初という説が有力らしいです。
つーことは、10数年で日本・朝鮮に伝播してしまったわけですね。
そういえば、芥川龍之介の「煙草と悪魔」という短編小説がありました。
>たばこは万能に効く薬、ペストにも罹らない等という噂もたち、ヨーロッパ各地で急速に広まったとか。
ええ。当初は薬として持ち込まれたとか聞きます。
>今ではあまり感心しない嗜好品となってますが。
私は、生まれて30年、吸ったことはございません。
これは メッセージ 622 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: タバコ
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/01/17 23:33 投稿番号: [622 / 1329]
>日本には南蛮から伝わったとかいいます。たしか本来はコロンブスが新大陸から西洋に持ち込んだんじゃなかったんですかね。
1492年にコロンブス一行がカリブ海の小島で先住民が乾いた葉っぱを筒状に巻き、火を付けて煙を吸っているのを目にしました。しかし、黄金を求めて行ったコロンブスは葉っぱには興味が無く、実際にたばこをヨーロッパに持ち帰ったのは1497年コロンブスの第2次航海船に乗り込んだ神父パネだといわれています。
http://www.pref.fukushima.jp/tabako-shiken/Thistory/Thistory_01.htmlタバコの種子は慶長6年(1601年)フランシスコ会修道士ヘロニモ・デ・ヘスス一行が日本へ持ち込んだのが最初という説が有力らしいです。
>そういえば、淀君も「薬」として服用していたとかいう話を聞いたことがあります。
ヨーロッパでもそういう傾向があったらしいですね。
たばこは万能に効く薬、ペストにも罹らない等という噂もたち、ヨーロッパ各地で急速に広まったとか。
今ではあまり感心しない嗜好品となってますが。
これは メッセージ 620 (toapanlang さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/622.html
昭顕太子の商売
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/17 00:22 投稿番号: [621 / 1329]
清は、朝鮮や明との戦争で得た捕虜を連行して自国の労働力としていたのですが、朝鮮はそれを取り返すために身代金を払っております。
で、昭顕世子は、交易で得た資金を使って、清の将軍――多分、対朝鮮の窓口になっていた英俄爾岱や鄭命寿ら――の要求する物品を購入したり、清に囚われている人々を買い戻し、彼らを邸宅に置いたり、農業に従事させていたようです。
なかなか有能じゃないか。
・・・・・・・
是時、世子久留瀋陽、広建館宇、私殖貨利、酬応清将之求索。又以其贏餘、贖得我人之被[手偏に虜]男女、至於累百人、或留止館中、或移[ウ冠に眞:置くという意味]野坂、【野坂在瀋陽城十里許、世子庄社及屯田在焉。】以備使令、皆不許放還本土、不欲使大朝知之。
仁祖実録
仁祖21年(1643年)12月22日条
これは メッセージ 601 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/621.html
Re: タバコ
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/15 23:43 投稿番号: [620 / 1329]
最近は、一日に「朝鮮王朝実録」の一年分の記録を読むことを日課にしているので、掲示板に来る回数が減っております。(苦笑)
>朝鮮半島に日本から伝わったことは知りませんでした。
私も「朝鮮王朝実録」を読んで知りました。唐辛子なんかと同じことなんでしょうね。
日本には南蛮から伝わったとかいいます。たしか本来はコロンブスが新大陸から西洋に持ち込んだんじゃなかったんですかね。
>日本でも豊臣秀吉や徳川家康の時代に、 火災などの理由から栽培・販売・使用を禁止もしくは制限する法令が出されましたが、
寛永年間(1624〜1644年)以降はタバコ耕作が一つの産業として認められてるようです。
そういえば、淀君も「薬」として服用していたとかいう話を聞いたことがあります。
これは メッセージ 619 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: タバコ
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/01/15 22:17 投稿番号: [619 / 1329]
江戸時代の煙草というと、若き福沢諭吉が煙草を吸ってたことを思い出します。
朝鮮半島に日本から伝わったことは知りませんでした。
日本でも豊臣秀吉や徳川家康の時代に、 火災などの理由から栽培・販売・使用を禁止もしくは制限する法令が出されましたが、
寛永年間(1624〜1644年)以降はタバコ耕作が一つの産業として認められてるようです。
これは メッセージ 617 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: タバコ
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/01/15 22:17 投稿番号: [618 / 1329]
江戸時代の煙草というと、若き福沢諭吉が煙草を吸ってたことを思い出します。
朝鮮半島に日本から伝わったことは知りませんでした。
日本でも豊臣秀吉や徳川家康の時代に、 火災などの理由から栽培・販売・使用を禁止もしくは制限する法令が出されましたが、
寛永年間(1624〜1644年)以降はタバコ耕作が一つの産業として認められてるようです。
これは メッセージ 617 (toapanlang さん)への返信です.
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タバコ
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/14 23:45 投稿番号: [617 / 1329]
朝鮮には、大昔のことをいう言葉として「虎がタバコを吸っていたころ」という決まり文句がありますが、今回はそのタバコについて。
『仁祖実録』仁祖16年(1638)8月4日条には、清の首都瀋陽にタバコを持ち込もうとして発覚して咎められたという記事があります。
それによりますと「南霊草」つまりタバコは1615、6年ごろに日本から伝わってきて、数年後には吸わない人はいないほどになった、とあります。
で、細かく刻んで竹や錫で作った管(キセル)に入れて、火をつけて吸うわけですが、その効能は痰を直し消化をよくするとかいうらしいが、長い間吸っていると、往々にして内臓を傷つけ目のかげりを生じさせると。
そういうわけで根絶したいが不可能であり、「妖草」と呼ばれると。
これが瀋陽にも伝わって流行するようになったが、ホンタイジは、国産じゃないし、ただ財貨を消耗させるものなので、禁令を出したと。
明と対峙している戦時体制の清にとっては、こんな無益且つ有害な消耗品に財貨を吸い取られているわけにはいきませんわな。
で、件の朝鮮人は、いわばご禁制の品を持ち込み(あるいは密輸)しようとして発覚したわけです。
んー、やはり昔から日帝は害毒を流していたのですなぁ。(笑)
最後に原文載せておきます。
・・・・・・・
我国人潜以南霊草、入送瀋陽、為清将所覚、大肆詰責。南霊草、日本国所産之草也、其葉大者、可七八寸許。細截而盛之竹筒、或以銀・錫作筒、火以吸之、味辛烈。謂之治痰消食、而久服往往傷肝気、令人目翳。此草自丙辰・丁巳年間、越海来、人有服之者、而不至於盛行、辛酉・壬戌以来、無人不服、対客輒代茶飮、或謂之烟茶、或謂之烟酒、至種採相交易。久服者知其有害無利、欲罷而終不能焉、世称妖草。転入瀋陽、瀋人亦甚嗜之、而虜汗以為非土産、耗財貨、下令大禁云。
これは メッセージ 1 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: 康熙帝の勅諭
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/14 22:48 投稿番号: [616 / 1329]
>>「嫌韓は朝鮮の地位が低かったと浮かれているけど、当たり前だ。最後まで抵抗したんだからな」
>なるほど、朝鮮半島内で地域差別があったように、
中華圏でそういう感じだったと言いたいのでしょうね。
まぁ、件のお人は「嫌韓」の意見や立場を勝手につくって一人相撲するお人ですしねー。
そんな単純に浮かれている人なんて、少なくともここの掲示板ではそういますまいて。
地位をいうなら、朝鮮は琉球やベトナムを抑えて「清史稿」の属国列伝の第一に堂々ノミネートされております。(苦笑)
>しかし、本当の核心は国力ですよね。たぶん。
序列が核心ではないことは確かです。はい。
これは メッセージ 615 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: 康熙帝の勅諭
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/01/14 22:14 投稿番号: [615 / 1329]
>「嫌韓は朝鮮の地位が低かったと浮かれているけど、当たり前だ。最後まで抵抗したんだからな」
なるほど、朝鮮半島内で地域差別があったように、
中華圏でそういう感じだったと言いたいのでしょうね。
しかし、本当の核心は国力ですよね。たぶん。
これは メッセージ 610 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: >昭顕太子殺害>麟坪大君
投稿者: toaniuniu05 投稿日時: 2007/01/14 01:44 投稿番号: [614 / 1329]
トピ主さま及び師父が聞こし召されているようですので、私が代わりに、追加報告も含めて。
仁祖18年(1640)に、仁祖が病気にかかったさい、昭顕世子が万一の事態に備えての帰国を許されるのですが、そのさい、世子の息子と麟坪大君が、世子の代わりとして瀋陽に人質として赴いた記録がありました。
結果的には、仁祖は回復して、世子は瀋陽に戻り、その息子は朝鮮に帰還します。麟坪大君のほうは1641年1月10日に朝鮮に帰還しました。
清書稿で、崇徳5年(1640)2月、「朝鮮国王第三子[さんずいに空のエが目]来質」とあるのは、このことですね。
これは メッセージ 605 (toapanlang さん)への返信です.
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朝鮮のロビー工作
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/12 18:22 投稿番号: [613 / 1329]
1637年の丙子胡乱において、国王仁祖は漢城南郊の南漢山城に避難、清軍に包囲され降伏、いや和議を乞うわけですが、そんななかで清軍の担当者にロビー工作を行ないます。
洪瑞鳳・崔鳴吉・尹暉請対。瑞鳳曰「胡訳李信倹来言『曾在丁卯、行詐於劉海、頼以媾和。今亦賂遺鄭命寿、則和事似有庶幾之望』云矣」
上曰「古者亦有已行之者矣。必須密給、毋令泄也」
乃以銀一千両, 贈鄭命寿、龍(英俄爾岱)・馬(馬福塔)両胡, 亦各贈三千両。(仁祖15年1月13日)
清軍通訳の鄭命寿という者が、朝鮮の使者に対して、
「丁卯胡乱のときは清軍講和担当者の劉海(劉興祚)にロビー工作して講和の便宜を図ってもらったじゃないか。今回もそうすればいいかもよ」
と言い、仁祖がそれに乗って、鄭に銀1千両、英俄爾岱・馬福塔に銀3千両を密かに送るよう命令したと。
でその結果、
備局啓曰「龍・馬両将及鄭命寿処、曾有各給銀貨之意、即己相約。今宜付送於使臣之行然後、方有隨事周旋之效矣」
上従之。(仁祖15年4月14日)
ちゃんと3人は講和の成立について働いてくれたので、約束どおり送金します、と。
なお、この鄭命寿は、本来、朝鮮北部平安道の奴隷の身分であり清軍に捕らえられた後、賢くて朝鮮の事情に通じているためこうやって採用されたそうです。
んで、朝鮮は彼ともう一人の朝鮮人通訳の「接待」のために、彼らに官位やらを与えたり、彼らの親族の地位を引上げて官職をあてがうわけです。
これは メッセージ 1 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: 康熙帝の勅諭
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/12 18:02 投稿番号: [612 / 1329]
>誰なんだろおなぁ?
そーぞーもつかないなー(棒)
ええ。
それも元ネタの陳舜臣の文章さえ適当にトリミングしたうえ、「陳瞬臣」なんていうアポもといアホな誤記までしているなんて、まったくそーぞーでけまへん。(棒)
これは メッセージ 611 (ricky_eto さん)への返信です.
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Re: 康熙帝の勅諭
投稿者: ricky_eto 投稿日時: 2007/01/12 17:54 投稿番号: [611 / 1329]
>エンコリ&自サイトで、件の陳舜臣の文章を使って
誰なんだろおなぁ?
そーぞーもつかないなー(棒)
これは メッセージ 610 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: 康熙帝の勅諭
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/12 17:49 投稿番号: [610 / 1329]
>>それに、康熙帝が誉めたのは「忠節を固守」「服事」したことです。つまり「属国」「臣下」としての姿勢を嘉しているわけですね。
もし、この史料を『朝鮮は高評価されていた』証拠に出したりなんかしたら・・・・・・(苦笑)
実は、エンコリ&自サイトで、件の陳舜臣の文章を使って、それをやってしまったお人がいるんですよ。(苦笑)
コンテンツ作成当初は、そのHNを明記しておちょくろうかとも思ったのですが、さすがにどうかなぁ?相手はどうでもいいお人だし、と思い直してこういう表現に留めました。
>「朝鮮の明への変らずの友好を守ろうとする態度に感服」とかに変換される可能性があるかもしれませんね(笑)
そういえば「清が認めた朝鮮の心意気」とかなんとかタイトルをつけてましたねぇ。「嫌韓は朝鮮の地位が低かったと浮かれているけど、当たり前だ。最後まで抵抗したんだからな」とも書いてましたなぁ。
これは メッセージ 609 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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Re: 康熙帝の勅諭
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/01/11 23:06 投稿番号: [609 / 1329]
>それに、康熙帝が誉めたのは「忠節を固守」「服事」したことです。つまり「属国」「臣下」としての姿勢を嘉しているわけですね。
もし、この史料を『朝鮮は高評価されていた』証拠に出したりなんかしたら・・・・・・(苦笑)
「朝鮮の明への変らずの友好を守ろうとする態度に感服」とかに変換される可能性があるかもしれませんね(笑)
バランスの欠いたどうでもいいことに固執する姿勢は
どの時代も相変わらずの朝鮮半島ってイメージが
私の中で固定しつつあります。
これは メッセージ 608 (toapanlang さん)への返信です.
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康熙帝の勅諭
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/11 09:42 投稿番号: [608 / 1329]
やっとコンテンツ「三田渡への道」ができたー!ってことで、その中からネタを一つ。
ウィキで「丙子胡乱」を見ますと、
朝鮮がこの戦いに敗れるまで、歴代の朝鮮王が明朝皇帝に対する臣節を全うしたことを清側も高く評価し、後の康熙帝がこれを賞賛する勅諭を出している。[要出典]
という一文があります。「要出典」とありますが、私の見たところ、これは陳舜臣『中国の歴史
6』(講談社)の、
満洲に服属していた諸部族のなかで、ホンタイジが清の皇帝として即位することを、最後まで認めようとしなかったのは朝鮮だけでした。そのために太宗の親征がおこなわれたのです。けれども、朝鮮の「節操」には、清も大いに敬意をもち、高く評価していました。太宗の孫にあたる康熙帝は勅諭のなかで、
――外藩は唯だ朝鮮のみ文物を声明して中国に近し。太宗文皇帝、其の国を親征せし時、八道の諸島の軍到らざる無く、其の国亡びて而して復存す。国人、碑を文皇帝駐軍の地に樹て、頌徳、今に至る。其の尤も嘉すべきは明の末造に当り、臣節を固守し、始終未だ嘗て弐あらず。・・・・・・
弐あらずというのは二心のない忠誠のことを意味します。それを康熙帝は称讃しているのです。この勅諭は康熙四十五年(一七〇六)のもので、太宗の朝鮮親征から、ちょうど七十年たっています。七十年たって評価が変わったのではなく、おそらく親征当時から、朝鮮の心意気に、満洲政権の人たちは敬服していたのでしょう。
が元ネタでしょう。ですが、『清史稿』にはこの文章そのものは載っていません(もっとも陳氏は出典を明記していないため、別の史書が典拠かもしれませんが)。かわりに、康熙帝の勅諭として、こういうくだりがありました。
四十五年十月、諭大学士曰「朝鮮国王奉事我朝、小心敬慎。其国聞有八道、北道接瓦爾喀地方土門江、東道接倭子国、西道接我鳳凰城、南道接海外、尚有数小島。太宗平定朝鮮、国人樹碑於駐軍之地、頌紱至今。当明之末年、彼始終服事、未嘗叛離、実属重礼義之邦、尤為可取」
ほぼ意味は同じでしょう。
これを見ると康熙帝は確かに誉めているように見えますが、陳氏の
七十年たって評価が変わったのではなく、おそらく親征当時から、朝鮮の心意気に、満洲政権の人たちは敬服していたのでしょう。
ということについては推測でしかありません。と言いますのも、清史稿・仁祖実録をみたところ、根拠に該当しそうな箇所がないですし、丁卯・丙子胡乱での朝鮮の不誠実な態度(口先だけ勇ましくて現実の防備はなんの対策もしない、パチモンの王弟を人質に出そうとする、その場しのぎの降伏だけで、ちょっと経ったら講和条件を反故にしようとする)は、それに敵対した当事者の清人たちが敬服できるものだったのでしょうか?
むしろ、不信感と軽蔑の念をもったほうが自然ではないかと。私はそう思いました。
で、康熙帝は、朝鮮の明への『節操』と、三田渡碑を立ててホンタイジを『頌紱』していることを並べて、皮肉って『まことに礼儀を重んじる邦に属す』なんて言ったんちゃうん?なんてとこまで思ってしまいました。
それに、康熙帝が誉めたのは「忠節を固守」「服事」したことです。つまり「属国」「臣下」としての姿勢を嘉しているわけですね。
もし、この史料を『朝鮮は高評価されていた』証拠に出したりなんかしたら・・・・・・(苦笑)
これは メッセージ 1 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/608.html
Re: >昭顕太子殺害
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/08 21:57 投稿番号: [607 / 1329]
>細かい部分を指摘して申し訳ありません。
いえいえ。おかげでこちらも史料ストックの整理ができました。
>いや、韓国人による記述をみていると、いつも細部にいい加減なところがあって、朝鮮王朝実録などの原典を見ることなく、現代のテキトーな解説書や歴史書の引き写し、マゴ引きだと思われるものですから。
私もその点は同感なのですよ。
いい加減な記述が、引用元も明確にしないまま引用されまくって、一人歩きしていつの間にか権威あるものに成り上がる、っていうのは、よくある話ですし。
しかも、ネットの発達した現代では、その伝播のスピードが格段に速く、拡散する範囲も非常に広いわけでして、なおさら注意が必要だと痛感している折でもありました。
これは メッセージ 606 (trip_in_the_night さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/607.html
Re: >昭顕太子殺害
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/01/08 21:45 投稿番号: [606 / 1329]
これは メッセージ 604 (toapanlang さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/606.html
Re: >昭顕太子殺害>麟坪大君
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/08 21:26 投稿番号: [605 / 1329]
あと、清史稿の「列伝
属国1
朝鮮」には、こうあります。
帝勅令去明年号、納明所賜[言告]命冊印、質二子、奉大清国正朔
←丙子胡乱で清が呑ませた要求のところです。
四月、[イ宗](仁祖)送質子[シ+山の下に王](昭顕世子)、[シ+日の下に天](鳳林大君)至。
←丙子胡乱直後の記述です。
これは メッセージ 604 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: >昭顕太子殺害
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/08 21:11 投稿番号: [604 / 1329]
>何が事実でしょう?
私が根拠にしたのは、下記の記述です。
清人因置王世子及嬪宮鳳林大君及夫人于陣中、以麟坪大君及夫人、還送于京中。(仁祖実録
仁祖15年2月1日)
九王撤兵還、以王世子及嬪宮鳳林大君及夫人西行。(仁祖実録
仁祖15年2月8日)
進賀使麟坪大君[シ+空のエのかわりに目]等馳啓曰「臣等呈表箋及方物、則皇帝引臣等行礼、因令入参于堂内西壁之列、世子及鳳林大君亦在坐矣。(仁祖実録
仁祖20年7月16日)
→麟坪大君が進賀使として派遣されたことは、瀋陽にはいなかったことになります。また瀋陽で会ったのは世子及鳳林大君と書かれてもいます。
これは メッセージ 603 (trip_in_the_night さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/604.html
Re: >昭顕太子殺害
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/01/08 20:57 投稿番号: [603 / 1329]
>>>3人の王子は300人以上の官僚や、従者を伴って満州の瀋陽へ赴いた。(崔基鎬著「韓国・堕落の2000年史(9)」)
>>三男の麟坪大君はそこで清軍の捕虜になりましたが、三男の麟坪大君夫婦は三田渡の屈辱の後、送還されており、人質として清の首都瀋陽に赴いたのは昭顕太子夫婦と鳳林大君夫婦です。(仁祖実録
仁祖十五年(1637年)2月1日条)
何が事実でしょう?
--------------------------------------
朝鮮の屈辱と 昭顯王子の疑問死
清は朝鮮を降伏させると、帰国の際に仁祖の長男の昭顯王子とその弟2人の合計3人の王子を人質として連れて帰ります。その中で三男の麟坪大君は翌年に帰国しますが、 昭顯世子と鳳林大君は8年後の1645年にようやく帰国が許されます。そしてその2ヵ月後、34歳の健康な青年だった 昭顯世子が急死します。仁祖実録はその死をこのように記録しています。「王子は本国に帰ってきて間もなく病気にかかり、病気にかかって数日で亡くなったが、全身の皮膚が真っ黒になり、口、耳など体中の穴から鮮血が流れだした。」 王子の死が毒物による他殺の可能性があることを示唆している記録です。彼の死を毒殺だと見る根拠としては父の仁祖が王子に対して怒りを抱き、帰国に際しても王子としての待遇をせずに、迫害していたと言う点、病の床についてわずか4日で死亡し、死因も解明せずにあわてて埋葬してしまったという点、宮廷女官など彼の死を間近で見ていた人々も皆殺されてしまった点、 などがあげられています。
では8年ぶりに帰ってきた王子をなぜ仁祖は迫害したのでしょうか。仁祖は8年前の屈辱を決して忘れることができませんでした。父と一緒に屈辱を味わった王子でしたから、彼も清に対する憎悪が無いわけではありませんでした。しかし8年間の人質生活の中で王子の考えはだんだん変わっていったのです。まず、 あんなにも蔑視していた清が明を滅亡させるのをその目でしっかりと見たことです。また西洋の宣教師を通じて清に入ってきた新しい科学技術にも驚きを禁じえませんでした。特に天文学に造詣の深かったドイツ人神父であり科学者のアダム・シャールとの交流を通じて、 昭顯世子は西洋文物に目を向けることになります。このドイツ人の神父は王子に天主教、つまりカトリックと西洋の科学を紹介し、望遠鏡や目覚まし時計などの品々を贈ります。自分の全く知らなかった世界が地球の反対側にあるという事実を知った王子は、朝鮮の支配層もこの新しい世界を知る必要があると考えました。そしてこのような王子の考えが仁祖と支配層の気にさわったのです。
人質になって故国を離れてから8年目に 昭顯世子は帰国しましたが、父の仁祖は全く喜びませんでした。 王子の持ち帰った品々はすべて国の倉庫に入れられてしまいます。そして2ヵ月後に王子は疑問の死を遂げるのです。昭顯王子が死んで3ヵ月後、弟の鳳林大君が跡継ぎに指名され、王子の妻と息子たちもすべて殺されてしまいます。
仁祖がクーデターを起こして光海君を倒した名分は明への事大主義でした。そのため、それを捨てることは自分の王位を否定することも同然だったのです。それで仁祖は 昭顯王子を許すことができなかったのです。
http://world.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_click_detail.htm?No=1022
これは メッセージ 601 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/603.html
Re: >昭顕太子殺害
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/08 20:43 投稿番号: [602 / 1329]
>それは失礼致しました。以後気をつけます。
いえいえ、恐らく「堕落の2000年史」(崔基鎬)から引用されたかと思います。
>財政をみていくのも君主にとって大切なことなんですけど。
末頼もしい奴だと思わないところが君主として暗愚すぎる。
彼が国王になったら朝鮮の交易が活発になった時期を作ったかもしれませんね。
うまくいけば、清の文化に学んで、のちの「実学派」を先取りしたような形の政策が行なわれたかもしれません。
韓国人で、このようなIFを考える人はいるんでしょうかねぇ?
・・・もっとも、党争の具に使われてグデグデになるのがオチになったような気が大いにしますが。(苦笑)
これは メッセージ 601 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/602.html
Re: >昭顕太子殺害
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/01/08 20:31 投稿番号: [601 / 1329]
>この記述は誤りがありますね。
それは失礼致しました。以後気をつけます。
>太子は瀋陽で捕虜になっていた朝鮮人を募って田畑を開発し、収穫した農産物を交易していたため、いつも屋敷は大賑わいだった。
こんなこと、日本の武士というか大名あたりは普通にやってもぜんぜんでしたのにね。
>朱子学的には賤業とされた商業に手を染めたことも仁祖の不興を買った原因でしょうね。
財政をみていくのも君主にとって大切なことなんですけど。
末頼もしい奴だと思わないところが君主として暗愚すぎる。
彼が国王になったら朝鮮の交易が活発になった時期を作ったかもしれませんね。
これは メッセージ 600 (toapanlang さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/601.html
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