Re: 書契問題
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/02/10 02:55 投稿番号: [663 / 1329]
李朝時代の政治;「書契問題」
http://cgi.members.interq.or.jp/sheep/clarex/krjp/krjp06.html
>>そして、12月にはなっても安訓導の強硬な態度には変化がなく、交渉は行き詰まってしまい、交渉再開は翌90年10月まで持ち越されることになった。
>>ところがである。実は、89年12月13日に朝鮮政府から東莢府使(東莢府とは草梁倭館との交渉を担当する施設のこと)に対して意見が回下されており、そこでは、なんと、同年3月中旬に日本側が提示した譲歩案を受け入れるよう、政府が命令していたのである(『近代日鮮関係の研究、上』180頁)。
>>鄭顕徳東莢府使も安訓導もともに大院君の腹心であり、特に安訓導などは殆ど大院君の「私人」であったのであり、対日関係事項は(政治組織上は何の肩書きも有さなかった)大院君が直接に安氏に命令を下すような関係だったのである。
(上記ご提示の資料の「翌90年10月」は「翌70年」、「89年12月13日」は「69年」の誤記ということで。)
>実は高宗と大院君の親子間の権力争いというのが実態らしいですね。
とすると、「朝鮮政府」と「大院君」の二つの権力・命令系統があったことになります。
この『推論』は無理があると思いますが。
朝鮮政府が受け入れを命令した「同年3月中旬に日本側が提示した譲歩案」を見てみると、
>>3月9日、日本側は、とにかく今回の書契は王政復古を公式通告する重要文書であるから、臨機の処置で奉納してもらいたい、その上で拒否しようがしまいが朝鮮の勝手で、とにかく回答書契をいただきたい(これは対馬藩にとっては最大限の譲歩で、そうでもしないと対馬藩としてはおめおめと日本に帰れないのであった)、と申し入れたがこの提案も拒否された。
この譲歩案は、朝鮮にすれば書契だけ渡して日本を追い返すということですね。
正式に日本の外交文書を受け入れ、国交を結ぼうとするものではありません。
鎖国派の「大院君」としても、譲歩できる内容だと思います。
「朝鮮政府=大院君」の受け入れ命令を無視したのは、現場の外交担当者の怠慢・越権行為の話ではないかと思います。
彼等は、日本を侮蔑する公示を貼り付けていた位ですから。
朝鮮の対日交渉態度が大きく変わるのが、明治6年(1873)大院君の失脚後のことです。
----------------------------
明治開化期の日本と朝鮮(1)
さらには従来人道上から当たり前のこととしてなされていた海難事故による漂流民を相互に救助し保護することについても、それを無視して日本人の漂流民数人を釜山草梁の海岸に放置するなどした。また対馬との貿易も制限したため対馬は経済的に立ち行かなくなった。つまり事実上の経済制裁である。
更にその上、公館の門には次のような文書が貼り付けられるという事態に至った。
「無法の国、恥知らず、衣服容貌とも日本人にあらず(洋装洋服のことらしい)、(明治維新など)天下の笑うところなるを平然としている恥知らずである」と。(公文別録・朝鮮始末3 p19)
露骨な誹謗中傷である。それも何度も繰り返し、しかも書いて貼ったのが朝鮮の外交官僚であるから、日本への宣戦布告の公示とも解釈できる代物であった。(東莢府使釜山僉使等其属官ニ達スル所ノ示令)
明治6年(1873)ついに大院君は失脚し、閔妃の兄であり閔氏最高の実力者である閔升鎬が国政全般に参与するようになった。
閔升鎬は民宰相と称せられ、大院君時代に日本の書契を拒絶する政策に反対し、むしろ両国が相互提携して文明開化することを主張していた人物である。これによって日本との関係も改善される方向に向かった。
そういう中で高宗は、日本との交渉経緯を知ることとなったが、その内実のお粗末さに激怒したという。
『明治7年4月17日 陪通事金福珠談 「国王 即チ其書契ノ謄本ヲ看テ 始テ積年阻隔之上ヲ知リ 諸臣ヲ譴メテ云ク 我國数百年来 禮ヲ日本ニ失セス 今猶然ク思ヒシニ 豈図ランヤ其信義ニ反スル 已ニ数年ニ及ヘリト 是何等ノ事ゾヤ 諸臣 詳ニ陳スルニ依リ 國王 盛怒 忽チ旧府使訓導等ヲ法ニ抵シ・・・」(公文別録・朝鮮始末3 p93)』
これにより外交官僚の1人(訓導 安俊卿)は処刑されて、さらし首にされている。日本との外交を誤った、ということがその理由であった。
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi012.html
http://cgi.members.interq.or.jp/sheep/clarex/krjp/krjp06.html
>>そして、12月にはなっても安訓導の強硬な態度には変化がなく、交渉は行き詰まってしまい、交渉再開は翌90年10月まで持ち越されることになった。
>>ところがである。実は、89年12月13日に朝鮮政府から東莢府使(東莢府とは草梁倭館との交渉を担当する施設のこと)に対して意見が回下されており、そこでは、なんと、同年3月中旬に日本側が提示した譲歩案を受け入れるよう、政府が命令していたのである(『近代日鮮関係の研究、上』180頁)。
>>鄭顕徳東莢府使も安訓導もともに大院君の腹心であり、特に安訓導などは殆ど大院君の「私人」であったのであり、対日関係事項は(政治組織上は何の肩書きも有さなかった)大院君が直接に安氏に命令を下すような関係だったのである。
(上記ご提示の資料の「翌90年10月」は「翌70年」、「89年12月13日」は「69年」の誤記ということで。)
>実は高宗と大院君の親子間の権力争いというのが実態らしいですね。
とすると、「朝鮮政府」と「大院君」の二つの権力・命令系統があったことになります。
この『推論』は無理があると思いますが。
朝鮮政府が受け入れを命令した「同年3月中旬に日本側が提示した譲歩案」を見てみると、
>>3月9日、日本側は、とにかく今回の書契は王政復古を公式通告する重要文書であるから、臨機の処置で奉納してもらいたい、その上で拒否しようがしまいが朝鮮の勝手で、とにかく回答書契をいただきたい(これは対馬藩にとっては最大限の譲歩で、そうでもしないと対馬藩としてはおめおめと日本に帰れないのであった)、と申し入れたがこの提案も拒否された。
この譲歩案は、朝鮮にすれば書契だけ渡して日本を追い返すということですね。
正式に日本の外交文書を受け入れ、国交を結ぼうとするものではありません。
鎖国派の「大院君」としても、譲歩できる内容だと思います。
「朝鮮政府=大院君」の受け入れ命令を無視したのは、現場の外交担当者の怠慢・越権行為の話ではないかと思います。
彼等は、日本を侮蔑する公示を貼り付けていた位ですから。
朝鮮の対日交渉態度が大きく変わるのが、明治6年(1873)大院君の失脚後のことです。
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明治開化期の日本と朝鮮(1)
さらには従来人道上から当たり前のこととしてなされていた海難事故による漂流民を相互に救助し保護することについても、それを無視して日本人の漂流民数人を釜山草梁の海岸に放置するなどした。また対馬との貿易も制限したため対馬は経済的に立ち行かなくなった。つまり事実上の経済制裁である。
更にその上、公館の門には次のような文書が貼り付けられるという事態に至った。
「無法の国、恥知らず、衣服容貌とも日本人にあらず(洋装洋服のことらしい)、(明治維新など)天下の笑うところなるを平然としている恥知らずである」と。(公文別録・朝鮮始末3 p19)
露骨な誹謗中傷である。それも何度も繰り返し、しかも書いて貼ったのが朝鮮の外交官僚であるから、日本への宣戦布告の公示とも解釈できる代物であった。(東莢府使釜山僉使等其属官ニ達スル所ノ示令)
明治6年(1873)ついに大院君は失脚し、閔妃の兄であり閔氏最高の実力者である閔升鎬が国政全般に参与するようになった。
閔升鎬は民宰相と称せられ、大院君時代に日本の書契を拒絶する政策に反対し、むしろ両国が相互提携して文明開化することを主張していた人物である。これによって日本との関係も改善される方向に向かった。
そういう中で高宗は、日本との交渉経緯を知ることとなったが、その内実のお粗末さに激怒したという。
『明治7年4月17日 陪通事金福珠談 「国王 即チ其書契ノ謄本ヲ看テ 始テ積年阻隔之上ヲ知リ 諸臣ヲ譴メテ云ク 我國数百年来 禮ヲ日本ニ失セス 今猶然ク思ヒシニ 豈図ランヤ其信義ニ反スル 已ニ数年ニ及ヘリト 是何等ノ事ゾヤ 諸臣 詳ニ陳スルニ依リ 國王 盛怒 忽チ旧府使訓導等ヲ法ニ抵シ・・・」(公文別録・朝鮮始末3 p93)』
これにより外交官僚の1人(訓導 安俊卿)は処刑されて、さらし首にされている。日本との外交を誤った、ということがその理由であった。
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi012.html
これは メッセージ 662 (melancholy_night さん)への返信です.
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