竹島

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【再掲】世界鬱陵滞在記

投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/01/28 15:19 投稿番号: [921 / 18519]
鬱陵島という島についての最も古い記録は三国史記の記述である

-------------------------------------- -
三国史記巻四 智證王
13年(AD512)夏6月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢ぎ物として献上した。于山国は溟 州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という。この島は、百里四方ほどで、それまでは交通が困難で あることをたのみとして服属しなかった。伊喰の異斯夫が何瑟羅の軍主となった。かれは、于山国の人 たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、計略をもってすれば、服属させるこ とができると考えた。(そこで)多くの木製の獅子像を作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくと、 偽って次のように言った。
「お前たちがもし服属しないならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」
(このことを聞いて)この国の人々は恐れおののいて、降伏した。
-------------------------------------- -

一見、問題の無い記述のように見えるが、よく読めば重要なポイントがあることに気づかれるかと思う。

それは、于山国すなわち鬱陵島の住民は朝鮮半島の国家、民族から見て異民族の支配する土地であったという事実である。
古代において、朝鮮半島の民族と違う民族であり、日本海で勢力を持った民族、というと、答えは自明であろう。

また、もう一つ重要なポイントは三国史記が作られた時代とその背景である。
三国史記は1145年に編纂されたと言われている。これは、既に高麗王朝の時代であり、512年からは数百年後の時代の記述である。また、史書が編纂される理由としては国家としてのidentityを強固にする必要に迫られたという背景があることも見逃せない。

高麗史にも以下の記述がある。

-------------------------------------- -
『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣
鬱陵島:県の真東の海中にあり。新羅の時に于山国と称された。ときに武陵、ときに羽陵ともいう。島は百 里四方で新羅の智證王12年(ママ)に降伏した。(高麗初代)太祖13年(930) にその島民は白吉と土豆を遣 わし、貢ぎ物を献上した。
・・・
一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができ る。
-------------------------------------- -

奇妙なのは『一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができる。』という記述である。
仮に竹島のことであると仮定しても「遠く」ないと言う表現にはならないはずである。

これは即ち高麗史編纂当時には、まだ実効的支配が及んでいなかったと考えるのが自然である。

また、高麗時代に鬱陵島の存在を認知していたとしても、支配がその後継続されたかどうかという点が問題となるのは当然のことである。

李氏朝鮮と高麗王朝の間には儒教の国教化や仏教文化の弾圧に代表されるように、文化や政治の面での断絶があるのは歴史を少し学んだ人には周知の事実であろう。

事実、李氏朝鮮は鬱陵島に空島政策を実施し、実効的支配を放棄している。
このとき、鬱陵島は国際法で言う「無主の地」となったわけである。

上記の歴史的経緯と、実効的支配の期間を考慮すれば、鬱陵島の領有権については、一般的な見解とされてきたものとは異なる見解が、実は正当なものであると結論付けることができる。


(shoudoshima通信)

いずれにしろ

投稿者: yusura_papa 投稿日時: 2003/01/28 15:19 投稿番号: [920 / 18519]
>此「ホルネットロックス」ノ我国ニ属スルハ各国ノ地図然リ

という文章は,「ホルネットロックスは現在の竹島を指す」
という認識のもとに書かれたことに異存ありませんね?

机上論でしょ

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/28 15:19 投稿番号: [919 / 18519]
その様にも読むことは可能ですが、実際には明治期には「鬱陵島=松島」と云う認識が定着したでしょ。

実際に鬱陵島に「松島」と杭表まで残した物証まであるんですが。

わかりません.

投稿者: yusura_papa 投稿日時: 2003/01/28 15:17 投稿番号: [918 / 18519]
>じゃあ、何で鬱陵島に「松島」って杭表立てたのさ?

島名の混乱かくのごとし,ということじゃないんでしょうか?
島名の混乱が存在したことについては誰も異存無いみたいだし.

該当箇所の構造

投稿者: yusura_papa 投稿日時: 2003/01/28 15:15 投稿番号: [917 / 18519]
>諸書ニ就テ案スルニ竹嶋洋名アルゴナウト嶋ナル者ハ
>全ク烏有ノ者ニシテ其竹島デラセ嶋ナル者ハ本来ノ竹嶋即チ?陵島ニシテ我松
>嶋ナル者ハ洋名ホルネットロックスナルカ如シ

3島(鬱陵島,存在しない島,竹島)の名前の対応関係を
示していますね.

>竹嶋洋名アルゴナウト嶋ナル者ハ>全ク烏有(存在しないの意)ノ者ニシテ

「竹嶋洋名アルゴナウト嶋」は,存在しない島を指す.

>其竹島デラセ嶋ナル者ハ本来ノ竹嶋即チ?陵島ニシテ

「其竹島デラセ嶋」は,鬱陵島を指す.

>我松嶋ナル者ハ洋名ホルネットロックスナルカ如シ

我が松嶋(今の竹島)は洋名ホルネットロックスである.

実際そうだったじゃありませんか

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/28 15:12 投稿番号: [916 / 18519]
じゃあ、何で鬱陵島に「松島」って杭表立てたのさ?

明治の人たちも、「鬱陵島ニシテ我松嶋ナル者」って読んでしまったのでしょう。
この認識はやがて獨島に「竹島」と命名するに至るわけですね。

見事なトリミングですなあ.

投稿者: yusura_papa 投稿日時: 2003/01/28 15:00 投稿番号: [915 / 18519]
危うく騙されるところでした.

>全ク烏有ノ者ニシテ其竹島デラセ嶋ナル者ハ本来ノ竹嶋即チ?陵島ニシテ



>我松嶋ナル者ハ洋名ホルネットロックスナルカ如シ

の間で切れるんですよ.つまり,

日本名「松嶋」(現在の竹島)がホルネットロックスです.

「鬱陵島ニシテ我松嶋ナル者」なんて存在しません.

ところで,下記二文には論理関係は存在しないということで
よろしいですね?

>ところが、日本側はホルネット岩は獨島(竹島)ではなく、鬱陵島と理解してたんじゃない?

>鬱陵島に「松島」と云う杭表立てたじゃありませんか?

松島=鬱陵島=ホルネット岩です

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/28 14:40 投稿番号: [914 / 18519]
「鬱陵島ニシテ我松嶋ナル者ハ洋名ホルネットロックスナルカ如シ」って書いてあるでしょ。

???

投稿者: yusura_papa 投稿日時: 2003/01/28 14:20 投稿番号: [913 / 18519]
「ホルネットロックス」と云う杭表を立てたのなら納得できるんですけど.

僕の疑問が理解して貰えず悲しいです.

実際の行動で示しているでしょ

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/28 14:18 投稿番号: [912 / 18519]
実際の。

日本は鬱陵島に出かけていって、「松島」と云う杭表を立てました。
この認識は何処から出てきたの?

ホルネットロックスは全然獨島(竹島)の事なんかじゃなくて、鬱陵島と認識していたわけですね。

松嶋之議

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/01/28 14:16 投稿番号: [911 / 18519]
全文を見つけたので掲載しておきます。ご参考までに。

松島之議
昔者竹島ノ記事略説多クシテ松島ノ事説論スル者ナシ
而テ今者人松嶋ニ喋々ス  
然り而テ此二嶋或ハ一島両名或ハ二嶋也ト諸説紛々朝野其是非ヲ決スル者ヲ聞カス    彼竹島ナル者ハ朝鮮ノ蔚陵島トシ幕府倫安ノ議遂ニ彼ニ委ス
故ニ此所謂松嶋ナル者竹嶋ナレハ彼ニ属シ若竹島以外ニ在ル松島ナレハ我ニ属セサ
ルヲ得サルモ之ヲ決論スル者無シ
然ルニ松嶋ナル者我国ト朝鮮トノ間ニ位シ長崎ヨリ浦潮港ニ至リ馬関其他石州因州伯州壱岐ヨリ彼要地タル「ラサレフ」港ヘノ道ニ当タルヲ以テ頗ル要地ト為シ連綿此近傍ニ英魯其船艦ヲ出没ス
若シ夫我国ノ部分ナランニハ之ニ多少ノ注意無ル可ラス
彼国ナラン歟又保護ヲ加ヘサル可ラス
況ンヤ他国我ニ糺ス
之ニ答フルニ決辞ナキヲ如何セン
然ラハ則無主ノ一島ノミ
諸書ニ就テ案スルニ竹嶋洋名アルゴナウト嶋ナル者ハ
全ク烏有ノ者ニシテ其竹島デラセ嶋ナル者ハ本来ノ竹嶋即チ?陵島ニシテ我松
嶋ナル者ハ洋名ホルネットロックスナルカ如シ
然ルヲ洋客竹嶋ヲ認テ松嶋ト為シ更ニ竹嶋ナル者ヲ想起セシ者ノ如シ而テ此ホルネットロックスノ我国ニ属スルハ各国ノ地図皆然リ
他ノ二嶋ニ至リテハ各国其認ムル所ヲ同フセス
我国論又確拠無シ
是実ニ其地ノ形勢ヲ察シ其所属ノ地ヲ定メ而テ其責ニ任スル所ヲ両国間ニ定メサル可ラサル者タリ
因テ先ツ嶋根県ニ照会シ其従来ノ習例ヲ糺シ併セテ船艦ヲ派シテ其地勢ヲ見若シ彼既ニ著手セハ其宰政ノ模様ヲ実査シ然ル後ニ其方略ヲ定メント要ス
請フ速ニ採リテ議スル者アラン事ヲ伏望ス
                      渡辺洪基立案 印

分かりません ^^;

投稿者: yusura_papa 投稿日時: 2003/01/28 14:13 投稿番号: [910 / 18519]
どうレスを読んでも,

>ところが、日本側はホルネット岩は獨島(竹島)ではなく、鬱陵島と理解してたんじゃない?

とする主張の理由として,

>鬱陵島に「松島」と云う杭表立てたじゃありませんか?

が出てくるのが判らんです.

「松島之儀」の中で,「松島」(鬱陵島)はウリタン! と
主張したとしても,僕としては全然構わないのですけど.
「松島」(鬱陵島)が日本領だと考えていたのなら,現竹島
も日本領内と考えていたことになりますので.

論理関係が見えないので聞いてるだけです.

分かりませんか

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/28 14:06 投稿番号: [909 / 18519]
  このような混乱の中で、外務省記録局長 渡辺洪基が記述した「松島之儀」という文書では、中央の認識と、島根県の認識に差異があることを指摘して、以下のように述べています。

---------- -引用はじめ ----------------
此「ホルネットロックス」ノ我国ニ属スルハ各国ノ地図然リ
---------- -引用おわり ----------------

  即ち、島根県の伺い中の「松島」がホーネット岩(現鬱陵島)である可能性を指摘して、これがホーネット岩であれば、(他国の地図にそうかいてあるから!)日本の領土であることについて疑いのないことを述べています。

  この認識に基づいて、「松島」(鬱陵島)はウリタン!とやらかしたわけですね。

そんなこと聞いてませんよ.

投稿者: yusura_papa 投稿日時: 2003/01/28 14:01 投稿番号: [908 / 18519]
下記の論理関係を教えてください.

>ところが、日本側はホルネット岩は獨島(竹島)ではなく、鬱陵島と理解してたんじゃない?
>
>鬱陵島に「松島」と云う杭表立てたじゃありませんか?

現実にやっとる

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/28 13:59 投稿番号: [907 / 18519]
論理じゃなくて、そのころ実際に鬱陵島に上陸して、「松島」と云う杭表を立てて居るんですよ。
朝鮮の役人も現地で確認しているしね。

全然獨島(竹島)と関係ないじゃありませんか。

師匠が説明したことですよね.

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/01/28 13:57 投稿番号: [906 / 18519]
下記の論理関係を教えてください.

>ところが、日本側はホルネット岩は獨島(竹島)ではなく、鬱陵島と理解してたんじゃない?
>
>鬱陵島に「松島」と云う杭表立てたじゃありませんか?

類推じゃないよ

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/28 13:54 投稿番号: [905 / 18519]
歴史的事実じゃありませんか。

D案だか何だか良く分かりませんが、机上の空論は危険ですね。

も一つホルネットロックス

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/28 13:52 投稿番号: [904 / 18519]
---------- -引用はじめ ----------------
此「ホルネットロックス」ノ我国ニ属スルハ各国ノ地図然リ
---------- -引用おわり ----------------

他国の地図が誤って鬱陵島を日本領と表記していることが「根拠」なんですねえ。
その「根拠」で、鬱陵島に「松島」と云う杭表立てた?

???

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/01/28 13:51 投稿番号: [903 / 18519]
>ところが、日本側はホルネット岩は獨島(竹島)ではなく、鬱陵島と理解してたんじゃない?
>
>鬱陵島に「松島」と云う杭表立てたじゃありませんか?

どうして,

>鬱陵島に「松島」と云う杭表立てた

ことから,

>日本側はホルネット岩は獨島(竹島)ではなく、鬱陵島と理解してた

という類推が出てくるのですか?

ところで,前回の引用は旧トピの 2161 番でしたね.訂正します.

ホルネット岩

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/28 13:29 投稿番号: [902 / 18519]
---------- -引用はじめ ----------------
此「ホルネットロックス」ノ我国ニ属スルハ各国ノ地図然リ
---------- -引用おわり ----------------

ところが、日本側はホルネット岩は獨島(竹島)ではなく、鬱陵島と理解してたんじゃない?

鬱陵島に「松島」と云う杭表立てたじゃありませんか?

それを獨島(竹島)に結びつけるのは強引じゃないかな。

空島政策

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/01/28 12:15 投稿番号: [901 / 18519]
  前回までに1900年前後、韓国は竹島を実効的支配をしていないどころか、日本に知らされるまで、その存在をしらなかったことが明らかとなったわけです。(誰か相槌してくれないかな〜。1人でも相槌があれば証明できたことになるらしいですから)

私の次の興味は朝鮮の空島政策に移ってきました。とりあえずわかったことを纏めます。
----------------------------------------------------------------
・1438年に税金逃れ防止、遭難防止のため朝鮮は全島民を退去させた。(空島政策開始)
・1693年4月と1696年5月、安龍福密航
・1696年1月に江戸幕府は鬱稜島への渡航を禁止した。これ以降、朝鮮は3年に1回掃討官を派遣した。
・1881年に空島政策を解除
----------------------------------------------------------------

  ここで、疑問に思ったのが以下の点です。

・1438年空島政策の実施と1881年解除の記録や記述には「竹島」は含まれているのか?
・1696年以降の3年に1度派遣された掃討官の記録には「竹島」が含まれているのか。

  持ち合わせの資料からは、この2点に関するものが少ないので、もう少し調べたいと思います。この2点に関する資料をお持ちの方は提示頂けると幸いです。   特に2つ目の疑問については、その証拠があれば、朝鮮の実効的支配の証拠にもなり得ますので、韓国側の方たちの積極的な意見をお待ちしております。

900

投稿者: yahuutarouyahuutarouyahuutaroua 投稿日時: 2003/01/27 21:41 投稿番号: [900 / 18519]
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独島と石島

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/01/27 19:03 投稿番号: [899 / 18519]
半けつ城さんのように都合の悪いものはバッサリ切り捨てる精神は持ち合わせておりませんので、借りた本の中に韓国側が「独島」=「石島」とする根拠らしきものがありましたので掲載しておきます。

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独島(トクト)の呼称は離れ島の意味によって名付けられ、また、慶尚南道の方言で、石をトクということから、石島という意でトクトと呼ばれた。申教授によると、「多分、1881年に鬱稜島を買いたくした以来、鬱稜島の住民がこのように命名したよう」
--------------------------------------------------------

ということらしいです。既述のように、石→獨であれば、その後の行政手続きと矛盾が出てきます。1881年の話しについては、何ら史料の裏付けも提示されていなく論外ですね。本当に学者なのかと疑いたくなります。

皆さん、すごいですね

投稿者: niachan_mama 投稿日時: 2003/01/27 17:33 投稿番号: [898 / 18519]
とても勉強になります。
ただ、個人的には韓国政府が日本の再三の提言にも関わらず、国際司法の場に出てこようとしないことが、この問題の答えを端的に現しているように思います。
また、まだ解決してもいないのに軍隊を送り込むなど実力行使に出ることは、まともな国のやることではないでしょう。

> 『高麗史』における于山の記述

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/01/27 17:18 投稿番号: [897 / 18519]
>于山島の名が一説の形で書かれたところをみると、当時、于山島の認識は確固たるものではなかったようです。その于山島の比定ですが、一説の内容からすると于山島は竹島=独島をさすものと思われます。
>    鬱陵島の近辺でめぼしい島は、現在の韓国名で竹島と観音島しかありませんが、それらは鬱陵島からの距離がそれぞれ2km, 数十メートルと近く天気が清明でなくても十分見えますので、これらは該当しないようです。そうなると、残る島は竹島=独島しかありえないことになります。

妙な論理展開ですね.

>于山島の認識は確固たるものではなかった

のに,その記述を元に

>その于山島の比定

をして何の意味があるのでしょうか.

因みに,

>お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができる。

という表現は,邦貴さんのHPにある下記地図(八道総図,
1530年,『高麗史』1452年の記述の約80年後)の描写に非常に
しっくりきます.つまり,『高麗史』1452年の記述は,上記地図
程度の認識をベースに書かれたものにすぎません.

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2800/takeshima/paldo-chongdo.jpg

>そうなると、残る島は竹島=独島しかありえないことになります。

ここまで強引な論理展開をするとは.吃驚しました.

まず気を付けたいのは

投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2003/01/27 16:35 投稿番号: [896 / 18519]
半月城さん曰く

>その際「于山」という語がキーになります。「于山」は于山島を意味する場合と于山国を意味する場合があります。ここの掲示板で両者を混同しているかたもおられるようなので、議論がまぎれないよう「于山」という語をはじめにはっきりさせておきたいと思います。

>この語の使い分けは朝鮮の史書でも初期のころはあいまいでした。しかし「竹島一件」の前後より次第に明確になり「輿地志がいうには、鬱陵島と于山島は皆于山国の地である。于山島はすなわち倭(日本)がいうところの松島である(注)」との見解が固まり、増補文献備考(1908)などで確定的になりました。これをあらためて書くと下記のようになります。
>于山国=于山島(松島)+鬱陵島


とりあえず、于山国=于山島(松島)+鬱陵島という、半月城さんの都合の良い姑息なトリックにひっからないように気を付けましょう。
韓国、朝鮮がいう于山国、于山島は鬱陵島のことであり、于山島が現在の竹島(=独島)だなどという根拠はないということをはっきり認識しておきたい。

于山島はchukudo-islandだった

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/01/27 15:55 投稿番号: [895 / 18519]
>怪しいとすれば、皇城新聞かも。確か、この新聞の主幹は増補東国文献備考の委員もしていたはずだし、安龍福事件以降の例の「松島は于山」云々の記事を知っていた可能性はあるかな。

  鬱島郡守、江原道観察使署理、参政大臣の1人でも安龍福事件の認識があれば、日本が通知してきた島は「倭のいう松島で于山島」とわかりますよね。また、実際の行政処理では3人以外の方も目をとおしているでしょう。誰も気が付かないのは不自然ではないかと。不明確な領土問題であるから正史も確認するのは当然ですね。
  なおかつ、半けつ城さんによると「歌の影響で智證王時代以来「独島(于山島でしょ?)は我が地」と信じられていた」そうですから、誰も指摘しないのは考えられませんね。(都合のいいものだけを切り張りするから、揚げ足をとられる)

  しかし、「于山島」と言えない事情があった。それは、chukudoを「于山島」と呼称し、認識していたほかありません。大韓全図の表記をみても明らかです。韓国には、日本が報告してきた島に関する認識は一切なかった。そして、距離を根拠として本郡所属とした。当然、実効的支配もしておりません。

  半けつ城さんの外一島が竹島とする推論とどっちが説得力あるかな?

>官僚の特性として「提出先が分からなかったから遅れた」
  それはあるかもしれませんね。

  昨日図書館から借りた本に3月の調査について少し記載されていましたので紹介します。一次史料が提示・確認されてないので、参考程度にしておいて下さい。
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本年(明治38年)8月には、島根県知事松永武吉が、また、翌(明治39年)3月には島根県第三部長神田由太郎の一行が、それぞれ竹島を実地に調査した。神田部長は帰途、鬱稜島に立ち寄り、鬱稜島郡守沈興沢と面会し、日本領に正式に編入された竹島を視察してきた旨告げ、竹島で捕獲したアシカ一頭を贈った。

脚注   この時、沈興沢は遠来の労を謝し、贈り物に対して謝辞を述べたと日本政府は主張しているが、韓国政府はこの事実を否定している。
----------------------------------------------------------------

  ところで、前トピにもありましたが、大韓帝国部作成の地図は「大韓全図」と同一と考えていいのでしょうか?

世界鬱陵滞在記

投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/01/27 09:25 投稿番号: [894 / 18519]
鬱陵島という島についての最も古い記録は三国史記の記述である

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三国史記巻四 智證王
13年(AD512)夏6月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢ぎ物として献上した。于山国は溟 州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という。この島は、百里四方ほどで、それまでは交通が困難で あることをたのみとして服属しなかった。伊喰の異斯夫が何瑟羅の軍主となった。かれは、于山国の人 たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、計略をもってすれば、服属させるこ とができると考えた。(そこで)多くの木製の獅子像を作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくと、 偽って次のように言った。
「お前たちがもし服属しないならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」
(このことを聞いて)この国の人々は恐れおののいて、降伏した。
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一見、問題の無い記述のように見えるが、よく読めば重要なポイントがあることに気づかれるかと思う。

それは、于山国すなわち鬱陵島の住民は朝鮮半島の国家、民族から見て異民族の支配する土地であったという事実である。
古代において、朝鮮半島の民族と違う民族であり、日本海で勢力を持った民族、というと、答えは自明であろう。

また、もう一つ重要なポイントは三国史記が作られた時代とその背景である。
三国史記は1145年に編纂されたと言われている。これは、既に高麗王朝の時代であり、512年からは数百年後の時代の記述である。また、史書が編纂される理由としては国家としてのidentityを強固にする必要に迫られたという背景があることも見逃せない。

高麗史にも以下の記述がある。

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『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣
鬱陵島:県の真東の海中にあり。新羅の時に于山国と称された。ときに武陵、ときに羽陵ともいう。島は百 里四方で新羅の智證王12年(ママ)に降伏した。(高麗初代)太祖13年(930) にその島民は白吉と土豆を遣 わし、貢ぎ物を献上した。
・・・
一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができ る。
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奇妙なのは『一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができる。』という記述である。
仮に竹島のことであると仮定しても「遠く」ないと言う表現にはならないはずである。

これは即ち高麗史編纂当時には、まだ実効的支配が及んでいなかったと考えるのが自然である。

また、高麗時代に鬱陵島の存在を認知していたとしても、支配がその後継続されたかどうかという点が問題となるのは当然のことである。

李氏朝鮮と高麗王朝の間には儒教の国教化や仏教文化の弾圧に代表されるように、文化や政治の面での断絶があるのは歴史を少し学んだ人には周知の事実であろう。

事実、李氏朝鮮は鬱陵島に空島政策を実施し、実効的支配を放棄している。
このとき、鬱陵島は国際法で言う「無主の地」となったわけである。

上記の歴史的経緯と、実効的支配の期間を考慮すれば、鬱陵島の領有権については、一般的な見解とされてきたものとは異なる見解が、実は正当なものであると結論付けることができる。


(shoudoshima通信)

> 『三国史記』における于山の記述

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/01/26 16:23 投稿番号: [892 / 18519]
>江戸時代から明治政府による竹島=独島放棄までの事情がクリア
>になったところで

僕が 872 で支持した塚本孝氏の見解を指すのであれば,半月城
さんが何を争っていたのか理解に苦しみます.塚本孝氏の見解は,
2001年5月13日に書きこまれた Torazo さんの説明と矛盾するもの
ではありません.以下に再掲します.従って,塚本孝氏の論文が
何故「切り札」になるのか,全く理解できないです.

(以下,http://www.keroa.net/take/ の 858 から)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
一方で、竹島が現鬱陵島(ダージュレー島)、松島が現竹島(リアン
クル岩)という認識(Eタイプ)もあって、これが混乱のもとになっ
ています。

  そのような状況において、島根県が内務省に伺い出た際に用いた
「竹島・松島」は、後者即ちEタイプによっているものと考えられま
す。

---- 引用はじめ(現代仮名遣いに修正) ------
礒竹島一に竹島と称す隠岐の国の乾位一百二十里許に在り周回凡十里
許山峻険にして平地少し川三条在り又瀑布あり然れども深谷幽邃樹竹
周密・・・次に一島あり松島と呼ぶ周回三十町許竹島と同一線路にあ
り隠岐を距たる八十里許樹竹稀なり
-------- -引用おわり ------------------

  このような混乱の中で、外務省記録局長 渡辺洪基が記述した「松島
之儀」という文書では、中央の認識と、島根県の認識に差異があること
を指摘して、以下のように述べています。

---------- -引用はじめ ----------------
此「ホルネットロックス」ノ我国ニ属スルハ各国ノ地図然リ
---------- -引用おわり ----------------

  即ち、島根県の伺い中の「松島」がホーネット岩(リアンクル岩:
現竹島)である可能性を指摘して、これがホーネット岩であれば、日本
の領土であることについて疑いのないことを述べています。

このような経緯から、
  曰く「竹島」がアルゴノート島(架空)であっても、ダージュレー島
(現鬱陵島)であっても、いずれの場合も日本の領土でないことは明白
である。ただし、「松島」に関しては、その認識からダージュレー島
(現鬱陵島)又はリアンクル岩(ホーネット岩:現竹島)の両方に理解
することができ、リアンクル岩であれば日本の領土である。
・よって「松島」という固有名詞をもって「我が国(日本)の領域外」
とすることは危険である。
となります。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=872

  このことにより、当該文書による効果として、リアンクル岩(ホー
ネット岩:現竹島)という「特定の島」を日本国が放棄したという証拠
にはできません。

更に、その背後にあった検討を通じ、
そうして、当時の日本国政府に、Dタイプの認識が存在し、リアンクル岩
(ホーネット岩:現竹島)を日本の領土とする認識があったことが明らか
となりました。

結論として
  島根県の伺いで「竹島」と「松島」という固有名詞を用いていることに
対し、内務省の「日本海内竹島外一島を版図外と定む」として「松島」の
固有 名詞を用いなかった事の意義がより明らかとなります。すなわち、
「松島」という「島根県の伺い」文中にある「特定の島」としての「松島」
でなく、「外一島」という、当時「特定できない島」を「版図外」とした
わけです。このことにより、当該文書による効果として、リアンクル岩
(ホーネット岩:現竹島)という「特定の島」を日本国が放棄したという
証拠にはできません。

更に、その背後にあった検討を通じ、
そうして、当時の日本国政府に、Dタイプの認識が存在し、リアンクル岩
(ホーネット岩:現竹島)を日本の領土とする認識があったことが明らか
となりました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

http://www.keroa.net/take/

獨島は盲目なり

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/01/26 11:59 投稿番号: [891 / 18519]
  ほうほう。

>tihiroさんによれば、(略)
>それでも韓国は歌の影響で小学生でも智證王時代以来「独島は我が地」と信じられているようです。

  といった史料の提示もない希望的推測を述べて、すり込みを行った数行後に、まがりなりにも「史料」として現存している三国遺事をばっさりですか。面白い。

>朝鮮正史でなく野史の『三国遺事』にも同じような于山国征服の記述がありますが、こうした資料や個人的な資料は必要がないかぎり取りあげないことにします。時々、ここの掲示板で個人的な資料や認識を特筆大書するかたがおられますが、国による資料や認識と個人的なそれとは峻別したいものです。

>うさんくさい話、みんなも考えよう

投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/01/26 11:54 投稿番号: [890 / 18519]
要するに、于山国の人たちは、朝鮮半島から見て異民族だったわけですね。

鬱陵島に住んでいた人たちが、朝鮮半島から見て異民族だったと言うことは…

>『高麗史』における于山の記述

投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/01/26 11:44 投稿番号: [889 / 18519]
要するに外務省のサイトhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/


>(注:于山島や三峰島が竹島に該当していることを実証できる積極的根拠はない。むしろ、右文献は それが竹島でないことを示す。)

と切って捨てられている部分ですね。

うさんくさい話、みんなも考えよう

投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2003/01/26 11:32 投稿番号: [888 / 18519]
三国遺事

巻一   智哲老王

何琵羅州今溟州東海中、便風二日程、有于陵島今作羽陵、周廻二万六千七百三十歩、島夷恃其水深、橋傲不臣、王命伊喰朴伊宗、将兵討之、宗作木偶師子、載於大艦之上、威之云、不降則放此獣、島夷畏而降賞宗為州伯

↑こっちには于陵島って書いてありますねぇ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三国史記

巻四   智證麻于十三年夏六月条

于山国征服、歳以土宜為貢、于山国、在溟州東海島、或名鬱陵島、地方一百里、恃嶮不服、伊喰異斯夫、為何琵羅州軍主、謂于山人愚悍、難以威来、可以計服、乃多造木偶師子、分載戦船、抵其国海岸、誑告曰、汝若不服、則放此猛獣踏殺之、国人恐懼則降

↑う〜む。こっちは于山国って書いてあるけど。別名を鬱陵島と言うと書いてある。

(訳)
13年(512年)夏6月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢ぎ
物として献上した。于山国は溟州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という。
この島は、百里四方ほどで、それまでは交通が困難であることをたのみとして服属し
なかった。伊喰の異斯夫が何瑟羅の軍主となった。かれは、于山国の人たちは思慮が
浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、計略をもってすれば、服
属させることができると考えた。(そこで)多くの木製の獅子像を作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくと、偽って次のように言った。「お前たちがもし服属しないならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ。」

『高麗史』における于山の記述

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/01/26 10:04 投稿番号: [887 / 18519]
   前回書いたように、新羅時代の認識は于山国=鬱陵島であり、于山島の名は登場しませんでした。この図式は初期の高麗にそのまま受けつがれました。于山国について、高麗史は女真族との関連でこう記述しました。

  「顕宗9年(1018)、于山国が東北の女真の侵略をうけ農業がすたれたので、李元亀を派遣して農機具を下賜した(注1)」

   初期の高麗にとって最大の敵は女真族でした。かれらが建国した契丹は、高麗の盟邦である渤海を滅ぼしたうえ、しばしば高麗に侵入してきました。かれらは北方の国境地帯のみならず、鬱陵島にまで侵入しました。遊牧騎馬民族であるかれらが海を渡って鬱陵島に侵略するとは意外です。

   それはさておき、于山島の名前は高麗史にはじめてが登場しました(注2)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣
  鬱陵島:県の真東の海中にあり。新羅の時に于山国と称された。ときに武陵、ときに羽陵ともいう。島は百里四方で新羅の智證王12年(ママ)に降伏した。(高麗初代)太祖13年(930) にその島民は白吉と土豆を遣わし、貢ぎ物を献上した。
  ・・・
   一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができる。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   于山島の名が一説の形で書かれたところをみると、当時、于山島の認識は確固たるものではなかったようです。その于山島の比定ですが、一説の内容からすると于山島は竹島=独島をさすものと思われます。
   鬱陵島の近辺でめぼしい島は、現在の韓国名で竹島と観音島しかありませんが、それらは鬱陵島からの距離がそれぞれ2km, 数十メートルと近く天気が清明でなくても十分見えますので、これらは該当しないようです。そうなると、残る島は竹島=独島しかありえないことになります。

(注1)『高麗史』巻四世家、顯宗九年十一月丙寅
  以于山國 被東北女真所寇 廢農業 遣李元龜 賜農器

(注2)『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣
鬱陵島:在縣正東海中 新羅時稱于山國 一云武陵 一云羽陵 地方百里 智證王一二年(ママ)来降 太祖一三年 其島人使白吉土豆 献方物 毅宗十一年 王聞 鬱陵島 地廣土肥 舊有州縣 可以居民 遣溟州道監倉 金柔立往視 柔立回奏云 島中有大山從山頂 向東行至海一萬余歩 向西行一萬三千余歩 向南行一萬五千余歩 有村落基址七所 有石佛鐵鍾石塔 多生柴胡蒿本石南草 然多岩石 民不可居 遂寝其議 一云于山・武陵本二島 相距不遠 風日清明 則可望見

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

『三国史記』における于山の記述

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/01/26 10:02 投稿番号: [886 / 18519]
   半月城です。
   江戸時代から明治政府による竹島=独島放棄までの事情がクリアになったところで、同時期、朝鮮の認識がどうであったのかについてレビューしておきたいと思います。これはいうまでもなく「韓国の固有領土」説が妥当であるのかどうかにつながります。
   かってライコス掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」で連載を始めたのですが、そこがライコスの都合で閉鎖になってしまい『粛宗実録』の直前で未完になっていました。それを継続したいと思います。そのために、まずそこに書いたレビューを紹介します。ただし、適宜修正して転載します。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「韓国の固有領土」説はどうでしょうか。韓国ではもちろんそのように信じられていますが、それなりの根拠があるのでしょうか。しばらくはこの「韓国の固有領土」説を検証したいと思います。
   その際「于山」という語がキーになります。「于山」は于山島を意味する場合と于山国を意味する場合があります。ここの掲示板で両者を混同しているかたもおられるようなので、議論がまぎれないよう「于山」という語をはじめにはっきりさせておきたいと思います。

   この語の使い分けは朝鮮の史書でも初期のころはあいまいでした。しかし「竹島一件」の前後より次第に明確になり「輿地志がいうには、鬱陵島と于山島は皆于山国の地である。于山島はすなわち倭(日本)がいうところの松島である(注)」との見解が固まり、増補文献備考(1908)などで確定的になりました。これをあらためて書くと下記のようになります。

  于山国=于山島(松島)+鬱陵島

   さて、本題の于山国の歴史ですが、朝鮮の正史に登場したのは『三国史記』が最初でした。この史書は高麗時代の1145年に編纂されたのですが、于山国はこう記述されました(注2)。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三国史記巻四   智證王
  13年(AD512)夏6月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢ぎ物として献上した。于山国は溟州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という。この島は、百里四方ほどで、それまでは交通が困難であることをたのみとして服属しなかった。伊喰(注3)の異斯夫が何瑟羅の軍主となった。かれは、于山国の人たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、計略をもってすれば、服属させることができると考えた。(そこで)多くの木製の獅子像を作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくと、偽って次のように言った。
「お前たちがもし服属しないならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」
(このことを聞いて)この国の人々は恐れおののいて、降伏した。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   tihiroさんによれば、鬱陵島には史跡として朝鮮南方型の支石墓があるので、紀元前から韓族が居住していたようでした。その人たちが于山国をたてたようですが、新羅が隆盛するや同国に征服されたようでした。
   この当時、于山国はまたの名を鬱陵島とされましたが、于山国のなかに于山島が含まれるのかどうかは明記されませんでした。それでも韓国は歌の影響で小学生でも智證王時代以来「独島は我が地」と信じられているようです。
   日本でも韓国でも鬱陵島と竹島=独島を一対と考える傾向が強いので、それも無理からぬところがあります。

   一方、朝鮮正史でなく野史の『三国遺事』にも同じような于山国征服の記述がありますが、こうした資料や個人的な資料は必要がないかぎり取りあげないことにします。時々、ここの掲示板で個人的な資料や認識を特筆大書するかたがおられますが、国による資料や認識と個人的なそれとは峻別したいものです。

(注1)「輿地志云 鬱陵・于山皆于山國地 于山則倭所謂松島也」
(注2)三国史記巻四   智證麻立干
  十三年、夏六月、于山國歸服、歳以土宜為貢、于山國、在溟州東海島、或名鬱陵島、地方一百里、恃嶮不服、伊喰(注3)異斯夫、為何琵羅州軍主、謂于山人愚悍、難以威来、可以計服、乃多造木偶師子、分載戦船、抵其国海岸、誑告曰、汝若不服、則放此猛獣踏殺之、国人恐懼則降
(注3)伊喰は新羅官位17等級のうち第2等級。喰は、正しくは「にすい」に食と書く。JIS範囲外のため表示不能。

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

>史料の確認と検証に時間を要したため

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/25 23:44 投稿番号: [885 / 18519]
もう一つ、ありそうな話だと思うのは、官僚の特性として「提出先が分からなかったから遅れた」と云う考えもあるかも。
統監府が設置される前の光武9年までは外事部が機能しており、日本公使との交渉も外事部が担当していたわけですが、光武10年には外事部は機能していないし、提出先の調整に手間取った挙げ句に総理に相当する参政大臣に提出することになった可能性はあるのでは。

>>本郡所屬獨島

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/25 23:33 投稿番号: [884 / 18519]
鬱島郡守→江原道観察使署理→参政大臣までは、当然勅令も知悉しうるだろうし、所轄に関する資料を持っていたと考えるのが自然でしょうね。
官吏であれば、勅令など公文書を優先するでしょうから、大韓全図との矛盾は考えなかったのではないでしょうか。

怪しいとすれば、皇城新聞かも。確か、この新聞の主幹は増補東国文献備考の委員もしていたはずだし、安龍福事件以降の例の「松島は于山」云々の記事を知っていた可能性はあるかな。

光武10年と云えば、3月に伊藤統監が着任し統監政治が本格化した頃だし、想像だけれども、その後うやむやになってもおかしくないかな。
実際、報告に対する指令3号も殆ど実行不可能な指令だし(帰った後で更に調べて報告しろだもんね)、官側の対応はうやむやになってもおかしくないかな。

>本郡所屬獨島

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/01/25 23:11 投稿番号: [883 / 18519]
気づかれましたか。反論対抗用にとっておいたのに(笑)

「獨島」を竹島の固有名詞ではなく、「孤島」や「離れ小島」といった島の状態を示す一般名詞と考えると、無理なく解釈でます。
-------------------------------------------------------------------------------- --------------------
「ここ(鬱島)から、外洋100余里にある江原道郡所属の離れ小島について、日本がその離れ小島が日本領になったと言いに来た」
これに対して
「その離れ小島は我が領土である」
と答えた。
-------------------------------------------------------------------------------- --------------------
※ハングルも漢文もわからないので、間違いがあったら指摘して下さい。

勅令41号の石島の扱いと矛盾も発生せず、極めて自然ですね。
では、何故「于山」としなかったか。それは、大韓全図と矛盾が発生するからです。そして、過去の史料を確認したが、該当するような島は存在せず、一般名詞の「獨島」を使用し、江原道郡所属の根拠として距離を持ち出した。距離については、日本の情報より鯖を読んで短くした可能性もある。また、史料の確認と検証に時間を要したため、報告が遅れた。
いかがでしょうか。

>石島と獨島の韓国語での発音

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/01/25 23:10 投稿番号: [882 / 18519]
ご回答ありがとうございます。

>「石島:ソット」「獨島:トット」(より正確には母音子音が微妙に日本語とは異なります)になります。

ソとトですか。郡守は当然、「石島」という漢字表記も知ってたはずですから、発音が似ていたため石島→獨島になったとの説は、無理がありますね。

>期間は不明だったと記憶しています。
26日という期間が一般的なのか確認したかったのですが、残念です。

>欝島の郡守

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/25 23:10 投稿番号: [881 / 18519]
取りあえず、一箇所だけ。

>・ この勅令により、欝島の郡守が設置されている。その郡守が沈興沢である。

島監の裴季周が郡守に任命されているね。

沈興澤は光武六年(1902)に裴季周が解任された後でしょう。

おまけ
鬱島郡は光武10年(1906)に慶尚南道に移管されている。10月前後だったか。
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