『三国史記』における于山の記述
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/01/26 10:02 投稿番号: [886 / 18519]
半月城です。
江戸時代から明治政府による竹島=独島放棄までの事情がクリアになったところで、同時期、朝鮮の認識がどうであったのかについてレビューしておきたいと思います。これはいうまでもなく「韓国の固有領土」説が妥当であるのかどうかにつながります。
かってライコス掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」で連載を始めたのですが、そこがライコスの都合で閉鎖になってしまい『粛宗実録』の直前で未完になっていました。それを継続したいと思います。そのために、まずそこに書いたレビューを紹介します。ただし、適宜修正して転載します。
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「韓国の固有領土」説はどうでしょうか。韓国ではもちろんそのように信じられていますが、それなりの根拠があるのでしょうか。しばらくはこの「韓国の固有領土」説を検証したいと思います。
その際「于山」という語がキーになります。「于山」は于山島を意味する場合と于山国を意味する場合があります。ここの掲示板で両者を混同しているかたもおられるようなので、議論がまぎれないよう「于山」という語をはじめにはっきりさせておきたいと思います。
この語の使い分けは朝鮮の史書でも初期のころはあいまいでした。しかし「竹島一件」の前後より次第に明確になり「輿地志がいうには、鬱陵島と于山島は皆于山国の地である。于山島はすなわち倭(日本)がいうところの松島である(注)」との見解が固まり、増補文献備考(1908)などで確定的になりました。これをあらためて書くと下記のようになります。
于山国=于山島(松島)+鬱陵島
さて、本題の于山国の歴史ですが、朝鮮の正史に登場したのは『三国史記』が最初でした。この史書は高麗時代の1145年に編纂されたのですが、于山国はこう記述されました(注2)。
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三国史記巻四 智證王
13年(AD512)夏6月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢ぎ物として献上した。于山国は溟州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という。この島は、百里四方ほどで、それまでは交通が困難であることをたのみとして服属しなかった。伊喰(注3)の異斯夫が何瑟羅の軍主となった。かれは、于山国の人たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、計略をもってすれば、服属させることができると考えた。(そこで)多くの木製の獅子像を作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくと、偽って次のように言った。
「お前たちがもし服属しないならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」
(このことを聞いて)この国の人々は恐れおののいて、降伏した。
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tihiroさんによれば、鬱陵島には史跡として朝鮮南方型の支石墓があるので、紀元前から韓族が居住していたようでした。その人たちが于山国をたてたようですが、新羅が隆盛するや同国に征服されたようでした。
この当時、于山国はまたの名を鬱陵島とされましたが、于山国のなかに于山島が含まれるのかどうかは明記されませんでした。それでも韓国は歌の影響で小学生でも智證王時代以来「独島は我が地」と信じられているようです。
日本でも韓国でも鬱陵島と竹島=独島を一対と考える傾向が強いので、それも無理からぬところがあります。
一方、朝鮮正史でなく野史の『三国遺事』にも同じような于山国征服の記述がありますが、こうした資料や個人的な資料は必要がないかぎり取りあげないことにします。時々、ここの掲示板で個人的な資料や認識を特筆大書するかたがおられますが、国による資料や認識と個人的なそれとは峻別したいものです。
(注1)「輿地志云 鬱陵・于山皆于山國地 于山則倭所謂松島也」
(注2)三国史記巻四 智證麻立干
十三年、夏六月、于山國歸服、歳以土宜為貢、于山國、在溟州東海島、或名鬱陵島、地方一百里、恃嶮不服、伊喰(注3)異斯夫、為何琵羅州軍主、謂于山人愚悍、難以威来、可以計服、乃多造木偶師子、分載戦船、抵其国海岸、誑告曰、汝若不服、則放此猛獣踏殺之、国人恐懼則降
(注3)伊喰は新羅官位17等級のうち第2等級。喰は、正しくは「にすい」に食と書く。JIS範囲外のため表示不能。
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
江戸時代から明治政府による竹島=独島放棄までの事情がクリアになったところで、同時期、朝鮮の認識がどうであったのかについてレビューしておきたいと思います。これはいうまでもなく「韓国の固有領土」説が妥当であるのかどうかにつながります。
かってライコス掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」で連載を始めたのですが、そこがライコスの都合で閉鎖になってしまい『粛宗実録』の直前で未完になっていました。それを継続したいと思います。そのために、まずそこに書いたレビューを紹介します。ただし、適宜修正して転載します。
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「韓国の固有領土」説はどうでしょうか。韓国ではもちろんそのように信じられていますが、それなりの根拠があるのでしょうか。しばらくはこの「韓国の固有領土」説を検証したいと思います。
その際「于山」という語がキーになります。「于山」は于山島を意味する場合と于山国を意味する場合があります。ここの掲示板で両者を混同しているかたもおられるようなので、議論がまぎれないよう「于山」という語をはじめにはっきりさせておきたいと思います。
この語の使い分けは朝鮮の史書でも初期のころはあいまいでした。しかし「竹島一件」の前後より次第に明確になり「輿地志がいうには、鬱陵島と于山島は皆于山国の地である。于山島はすなわち倭(日本)がいうところの松島である(注)」との見解が固まり、増補文献備考(1908)などで確定的になりました。これをあらためて書くと下記のようになります。
于山国=于山島(松島)+鬱陵島
さて、本題の于山国の歴史ですが、朝鮮の正史に登場したのは『三国史記』が最初でした。この史書は高麗時代の1145年に編纂されたのですが、于山国はこう記述されました(注2)。
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三国史記巻四 智證王
13年(AD512)夏6月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢ぎ物として献上した。于山国は溟州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という。この島は、百里四方ほどで、それまでは交通が困難であることをたのみとして服属しなかった。伊喰(注3)の異斯夫が何瑟羅の軍主となった。かれは、于山国の人たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、計略をもってすれば、服属させることができると考えた。(そこで)多くの木製の獅子像を作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくと、偽って次のように言った。
「お前たちがもし服属しないならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」
(このことを聞いて)この国の人々は恐れおののいて、降伏した。
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tihiroさんによれば、鬱陵島には史跡として朝鮮南方型の支石墓があるので、紀元前から韓族が居住していたようでした。その人たちが于山国をたてたようですが、新羅が隆盛するや同国に征服されたようでした。
この当時、于山国はまたの名を鬱陵島とされましたが、于山国のなかに于山島が含まれるのかどうかは明記されませんでした。それでも韓国は歌の影響で小学生でも智證王時代以来「独島は我が地」と信じられているようです。
日本でも韓国でも鬱陵島と竹島=独島を一対と考える傾向が強いので、それも無理からぬところがあります。
一方、朝鮮正史でなく野史の『三国遺事』にも同じような于山国征服の記述がありますが、こうした資料や個人的な資料は必要がないかぎり取りあげないことにします。時々、ここの掲示板で個人的な資料や認識を特筆大書するかたがおられますが、国による資料や認識と個人的なそれとは峻別したいものです。
(注1)「輿地志云 鬱陵・于山皆于山國地 于山則倭所謂松島也」
(注2)三国史記巻四 智證麻立干
十三年、夏六月、于山國歸服、歳以土宜為貢、于山國、在溟州東海島、或名鬱陵島、地方一百里、恃嶮不服、伊喰(注3)異斯夫、為何琵羅州軍主、謂于山人愚悍、難以威来、可以計服、乃多造木偶師子、分載戦船、抵其国海岸、誑告曰、汝若不服、則放此猛獣踏殺之、国人恐懼則降
(注3)伊喰は新羅官位17等級のうち第2等級。喰は、正しくは「にすい」に食と書く。JIS範囲外のため表示不能。
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 860 (nobuo_shoudoshima さん)への返信です.
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