Re: 美しい国日本
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/15 12:11 投稿番号: [9 / 402]
ここで史実として正確を期してみよう。
怪人ヴァン・リードが企画した「元年者」ハワイ移民は、実は日本初の海外移民でも明治元年者でもなかった。
慶応―明治の改元は旧暦9月に交付されたのであって、元年者がハワイに旅立った4月には改元に着手してもいなかった。したがって正確に言えば彼らは「慶応四年者」であろう。
余談だが、その頃江戸っ子は「上から明治というけれど、下から読んだら治まる明」と田舎者の新政府をからかっていた。
また、「元年者」出帆の15日前、神奈川奉行扱いで怪人リードは42名の日本人移民労働者を3年契約でグアムに送り出していたのである。
後日談になるが、契約の3年が過ぎた頃、外国船が小舟で漂流する4人の日本人を救助した。
グアムから逃げ出してきた彼らは、新政府に奴隷以下の酷使虐待振りを報告したので大騒ぎになった。事実13人が死亡していた。新政府にとってあずかり知らぬ移民であったが、直ちに交渉を開始、13名の遺骨と25人の残留者を帰国せしめた。
結局グアム移民は一人の定住者も生まず完全な失敗に終わった。ハワイとは好対象を為したのだ。
史実上「明治元年者」は「元年者」でも「日本初の海外移民」でもなかった。
さて、ハワイの元年者は明治新政府に、ハワイでの窮状をなんとかしてくれと甘えに甘える。
文字が書ける移民の代表者牧野富三郎は、リードによる契約違反と奴隷労働を綿々と訴えた嘆願書を4通も出している。最後の書には「多忙の中申し訳ないが、1年を過ぎても一片のご沙汰もない。洋上の孤島で呻吟しているのに、今までの嘆願書は届かなかったのであろうか」と政府の無為無策を詰ってまでいる。
元年者ハワイ上陸より約1年半後、明治新政府は上野監督正敬介影範に髄員を一名付けてハワイに送った。
後に初代横浜税関長になる当時25歳のエリートであるが、上陸時の上野の井出たちはといえば、羽織袴に草鞋履き、大小をたばさみ、扇子を片手に持ち頭にはまだちょん髷が乗っかっていた、とある。ハワイ人が目にしたラスト侍であろうか。
日本政府の申し入れは「日本政府不許可の国民を“奪取”されたのだから取り戻す」というものだった。
上野は、即時帰還希望者は即時、3年の満期を終えたときには全員をハワイ政府の費用で送り返すよう主張した。さらに残留者に対する常軌を逸した酷使や鞭打ちを禁止させ給料も若干上げさせた。
ハワイ側はこんな厄介者の元年者でも、「王国に禍根を残す」と恐れられたシナ人よりはましと考えたか、希望者はハワイに残留させるよう強く要求した。
紆余曲折はあったが上陸数ヵ月を経て、上野特使は条件を飲むことになる。これで晴れて「元年者」は公認移民となり、「違法渡航者」の立場から解放された。
しかし、これほど大騒ぎを繰り広げたのに関わらず、不満分子の即時帰国は43名に留まった。残りの100余名はとりあえず満期まで勤めて、そのときに考えると動向を保留した。
その後労働条件は徐々に改善し争議は起きなくなったというから、元年者が起こした争議は一応の成功を見たといっていいだろう。それどころか、1984年の正式な官斡旋移民時には、破格な条件をハワイ側から提示されるまでになった。
やがて「元年者」の満期がやってきた。ハワイに残ろか米本土で新天地を切り開くか、それとも故国に帰ろうか、まさに「行こかメリケン 戻ろかジャパン」、即時帰国をしなかった100余名は悩みに悩むことになる。
結局、新たに帰国したのは100余名のうちわずか12人しかいなかった。
また、契約の3年間で7人が死亡し3人が生まれていた。
「世話人の牧野富三郎は最後まで忠実に役目を遂行した。すなわち満期終了の数ヶ月前から各人の要望を聞き、ハワイに残る者の再就職、小売業への転進、本土に渡る者は日本政府よりパスポートを発行させるなど、献身的に対処した。
残留希望者の約半数が米本土移住希望者だった。彼らは主にカルフォルニアに向かったが少数はメキシコ、南米に行った。
牧野は帰国希望者を日本に送り出し、移民配置の各種統計と報告書を日本・ハワイ両政府に提出してすべての責務を終了した。彼は10月、単身サンフランシスコに向かう。
しかし、その後の牧野の消息はわからない。帰国したという話もあるがその痕跡はない。わずかに、サンフランシスコのダウンタウンで代書人をしているのを見た、という伝聞が残るのみである。」
「 」はほぼ参考本記載のまま。
怪人ヴァン・リードが企画した「元年者」ハワイ移民は、実は日本初の海外移民でも明治元年者でもなかった。
慶応―明治の改元は旧暦9月に交付されたのであって、元年者がハワイに旅立った4月には改元に着手してもいなかった。したがって正確に言えば彼らは「慶応四年者」であろう。
余談だが、その頃江戸っ子は「上から明治というけれど、下から読んだら治まる明」と田舎者の新政府をからかっていた。
また、「元年者」出帆の15日前、神奈川奉行扱いで怪人リードは42名の日本人移民労働者を3年契約でグアムに送り出していたのである。
後日談になるが、契約の3年が過ぎた頃、外国船が小舟で漂流する4人の日本人を救助した。
グアムから逃げ出してきた彼らは、新政府に奴隷以下の酷使虐待振りを報告したので大騒ぎになった。事実13人が死亡していた。新政府にとってあずかり知らぬ移民であったが、直ちに交渉を開始、13名の遺骨と25人の残留者を帰国せしめた。
結局グアム移民は一人の定住者も生まず完全な失敗に終わった。ハワイとは好対象を為したのだ。
史実上「明治元年者」は「元年者」でも「日本初の海外移民」でもなかった。
さて、ハワイの元年者は明治新政府に、ハワイでの窮状をなんとかしてくれと甘えに甘える。
文字が書ける移民の代表者牧野富三郎は、リードによる契約違反と奴隷労働を綿々と訴えた嘆願書を4通も出している。最後の書には「多忙の中申し訳ないが、1年を過ぎても一片のご沙汰もない。洋上の孤島で呻吟しているのに、今までの嘆願書は届かなかったのであろうか」と政府の無為無策を詰ってまでいる。
元年者ハワイ上陸より約1年半後、明治新政府は上野監督正敬介影範に髄員を一名付けてハワイに送った。
後に初代横浜税関長になる当時25歳のエリートであるが、上陸時の上野の井出たちはといえば、羽織袴に草鞋履き、大小をたばさみ、扇子を片手に持ち頭にはまだちょん髷が乗っかっていた、とある。ハワイ人が目にしたラスト侍であろうか。
日本政府の申し入れは「日本政府不許可の国民を“奪取”されたのだから取り戻す」というものだった。
上野は、即時帰還希望者は即時、3年の満期を終えたときには全員をハワイ政府の費用で送り返すよう主張した。さらに残留者に対する常軌を逸した酷使や鞭打ちを禁止させ給料も若干上げさせた。
ハワイ側はこんな厄介者の元年者でも、「王国に禍根を残す」と恐れられたシナ人よりはましと考えたか、希望者はハワイに残留させるよう強く要求した。
紆余曲折はあったが上陸数ヵ月を経て、上野特使は条件を飲むことになる。これで晴れて「元年者」は公認移民となり、「違法渡航者」の立場から解放された。
しかし、これほど大騒ぎを繰り広げたのに関わらず、不満分子の即時帰国は43名に留まった。残りの100余名はとりあえず満期まで勤めて、そのときに考えると動向を保留した。
その後労働条件は徐々に改善し争議は起きなくなったというから、元年者が起こした争議は一応の成功を見たといっていいだろう。それどころか、1984年の正式な官斡旋移民時には、破格な条件をハワイ側から提示されるまでになった。
やがて「元年者」の満期がやってきた。ハワイに残ろか米本土で新天地を切り開くか、それとも故国に帰ろうか、まさに「行こかメリケン 戻ろかジャパン」、即時帰国をしなかった100余名は悩みに悩むことになる。
結局、新たに帰国したのは100余名のうちわずか12人しかいなかった。
また、契約の3年間で7人が死亡し3人が生まれていた。
「世話人の牧野富三郎は最後まで忠実に役目を遂行した。すなわち満期終了の数ヶ月前から各人の要望を聞き、ハワイに残る者の再就職、小売業への転進、本土に渡る者は日本政府よりパスポートを発行させるなど、献身的に対処した。
残留希望者の約半数が米本土移住希望者だった。彼らは主にカルフォルニアに向かったが少数はメキシコ、南米に行った。
牧野は帰国希望者を日本に送り出し、移民配置の各種統計と報告書を日本・ハワイ両政府に提出してすべての責務を終了した。彼は10月、単身サンフランシスコに向かう。
しかし、その後の牧野の消息はわからない。帰国したという話もあるがその痕跡はない。わずかに、サンフランシスコのダウンタウンで代書人をしているのを見た、という伝聞が残るのみである。」
「 」はほぼ参考本記載のまま。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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