柳橋芸者小染のハワイ流離譚
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2007/12/24 13:23 投稿番号: [19 / 402]
参考本に見逃しがたいエピソードがある。
「元年者」ハワイ渡航より遡ること9年前、小染という江戸柳橋の売れっ子芸者が難破船でハワイに流れ着いた。
太平の眠りを蒸気船に破られてから6年を経ていたが、なんといっても将軍様のお膝元である、江戸庶民は数百年変わらぬ江戸文化の元で穏やかな生活を営んでいた。
小染の話とは、その時代数奇な運命を美貌と厚情ゆえに辿ってしまった女の物語である。
「小染は江戸神田今川橋の材木河岸の材木問屋・津の国や惣兵衛の一人娘だが、生まれついての美貌が禍のもとで、さまざまな事件を巻き起こした。
まず彼女は、三味線掘りの佐竹候の屋敷に強制的に妾奉公に出されたが、悶着を起こして屋敷を出た。
自宅に帰ってしばらくしたある夜、盗賊が侵入し無残にも母親を斬殺した。小染は落ち着いて、賊に度胸があるなどといって褒め上げ、金を差し出して安心させ、隙が見えたところを、親の敵、覚悟!とばかりに刺殺に及んだ。
この刺殺事件は正当防衛と認められて無罪となり、小染の名はパッと広まった。
柳橋芸者になった小染の‘思い人‘は、幼馴染の繫吉こと、寺侍・杉田大内蔵であった。
大内蔵は長じるまで小染の実家で小僧をしていた男である。
しかし、芸者小染の美貌にぞっこん参っていた与力・鈴木藤吉郎は二人の仲を嫉妬し、大内蔵が勤める寛永寺「お手許金」を小染のために使ったことをさぐり出し、訴えて罪に落とした。
そして、いやがる小染を伊豆下田まで追いかけて行き、ついに思いを遂げ、一度そうなった後は小染も憎からず思うようなる。
だがその後まもなく藤吉郎は、役職を利用しての「お蔵米買占め」が暴露して自刃させられてしまう。
一方の大内蔵は、寺侍から町人に戻って、伊豆下田の妓楼の入り婿になっていたが、「お手挙金」をさらに小染めのために手をつけたことが発覚して捕らえられた。
小染は、唐丸籠で送られる大内蔵に藤沢で出会い、人前もかまわず籠にしがみついて身を震わせて号泣した。
大内蔵は、取調べの後、獄門にかけられた。
このように「二人の情人」は刑死したのである。
その後小染28の春、1859年3月16日、浦賀から出る便船で上方見物に出かけた。
二人の亡くなった情人の菩提を弔いながら、見物を兼ねて京都、奈良の仏跡を巡るつもりであった。
だが便船は遠州灘の入り口で大風に遭遇した。船は暴風波浪に翻弄され、漂流し、波面に漂った。
60日間の生き地獄を体験して、船は奇跡的にハワイ諸島に流れ着いた。
乗組員のほとんど死亡したが、小染は女性特有の生命力を発揮して生き残り上陸した。
奇禍にあって奇跡的に一命をとりとめた小染が、寄辺のない身をホノルルのダウンタウンの小ホテルに置いて、途方に暮れているのを見て救いの手をさしのべたのは、同宿のアメリカ人宣教師ジャンセーであった。
ジャンセーは小染をサンフランシスコに連れて行き、富豪の保母に周旋した。
ジャンセーは今まで接してきた多くの男が例外なく迫った行為にけっしておよばなかった。
男が親切にするときは、必ずその代償行為をせまると思い込んでいた小染にしてみれば、何だかはぐらかされたような、期待はずれのような気持ちであった。
米本土に渡ってからの小染は、好きだった酒もきっぱり断ち、熱心に英語を習い、聖書に親しみ、まるで別人のようになったと言う。
小染は、明治10年の春頃までは、時々故郷に便りをしたためたといわれるが、その確かな記録は残っていない。」
参考本にはここまでしか書いていないし、この顛末の出典がなんなのかもわからない。
そこで説明不足の行間を勝手な憶測で埋めてみると、まず、「材木問屋の一人娘が大名のところへ強制的に妾奉公に出される」という、現代では通用しない性風俗に戸惑わざるを得ない。
もし殿様の子でも宿せば一族の名誉ということになるのだが、ここに現代の通常である自由恋愛の出る幕は寸毫もない。
「妾奉公」を文字とおり読めば、小染は佐竹候の手がついたと考えられる。それがどんな「悶着を起こして」家に帰ることになったのか。大店の一人娘であった小染は、それこそ蝶よ、花よと育てられたはずだ。相当勝気であったのは後日の夜盗刺殺事件に見るとおりだ。厳格な武家屋敷勤めが性に合わなかったろうし、美形ゆえに正妻との確執があったのかもしれないと想像してみる。
しかし裕福な家の一人娘がその後どうして芸者になどならなければならなかったのか。
これを大内蔵への思慕ゆえと推量できないだろうか。大内蔵とえらそうに改名していても前身は小染の実家の小僧の繁吉であったし、今とても取るに足らない安棒給の寺侍である。
この項つづく。
「元年者」ハワイ渡航より遡ること9年前、小染という江戸柳橋の売れっ子芸者が難破船でハワイに流れ着いた。
太平の眠りを蒸気船に破られてから6年を経ていたが、なんといっても将軍様のお膝元である、江戸庶民は数百年変わらぬ江戸文化の元で穏やかな生活を営んでいた。
小染の話とは、その時代数奇な運命を美貌と厚情ゆえに辿ってしまった女の物語である。
「小染は江戸神田今川橋の材木河岸の材木問屋・津の国や惣兵衛の一人娘だが、生まれついての美貌が禍のもとで、さまざまな事件を巻き起こした。
まず彼女は、三味線掘りの佐竹候の屋敷に強制的に妾奉公に出されたが、悶着を起こして屋敷を出た。
自宅に帰ってしばらくしたある夜、盗賊が侵入し無残にも母親を斬殺した。小染は落ち着いて、賊に度胸があるなどといって褒め上げ、金を差し出して安心させ、隙が見えたところを、親の敵、覚悟!とばかりに刺殺に及んだ。
この刺殺事件は正当防衛と認められて無罪となり、小染の名はパッと広まった。
柳橋芸者になった小染の‘思い人‘は、幼馴染の繫吉こと、寺侍・杉田大内蔵であった。
大内蔵は長じるまで小染の実家で小僧をしていた男である。
しかし、芸者小染の美貌にぞっこん参っていた与力・鈴木藤吉郎は二人の仲を嫉妬し、大内蔵が勤める寛永寺「お手許金」を小染のために使ったことをさぐり出し、訴えて罪に落とした。
そして、いやがる小染を伊豆下田まで追いかけて行き、ついに思いを遂げ、一度そうなった後は小染も憎からず思うようなる。
だがその後まもなく藤吉郎は、役職を利用しての「お蔵米買占め」が暴露して自刃させられてしまう。
一方の大内蔵は、寺侍から町人に戻って、伊豆下田の妓楼の入り婿になっていたが、「お手挙金」をさらに小染めのために手をつけたことが発覚して捕らえられた。
小染は、唐丸籠で送られる大内蔵に藤沢で出会い、人前もかまわず籠にしがみついて身を震わせて号泣した。
大内蔵は、取調べの後、獄門にかけられた。
このように「二人の情人」は刑死したのである。
その後小染28の春、1859年3月16日、浦賀から出る便船で上方見物に出かけた。
二人の亡くなった情人の菩提を弔いながら、見物を兼ねて京都、奈良の仏跡を巡るつもりであった。
だが便船は遠州灘の入り口で大風に遭遇した。船は暴風波浪に翻弄され、漂流し、波面に漂った。
60日間の生き地獄を体験して、船は奇跡的にハワイ諸島に流れ着いた。
乗組員のほとんど死亡したが、小染は女性特有の生命力を発揮して生き残り上陸した。
奇禍にあって奇跡的に一命をとりとめた小染が、寄辺のない身をホノルルのダウンタウンの小ホテルに置いて、途方に暮れているのを見て救いの手をさしのべたのは、同宿のアメリカ人宣教師ジャンセーであった。
ジャンセーは小染をサンフランシスコに連れて行き、富豪の保母に周旋した。
ジャンセーは今まで接してきた多くの男が例外なく迫った行為にけっしておよばなかった。
男が親切にするときは、必ずその代償行為をせまると思い込んでいた小染にしてみれば、何だかはぐらかされたような、期待はずれのような気持ちであった。
米本土に渡ってからの小染は、好きだった酒もきっぱり断ち、熱心に英語を習い、聖書に親しみ、まるで別人のようになったと言う。
小染は、明治10年の春頃までは、時々故郷に便りをしたためたといわれるが、その確かな記録は残っていない。」
参考本にはここまでしか書いていないし、この顛末の出典がなんなのかもわからない。
そこで説明不足の行間を勝手な憶測で埋めてみると、まず、「材木問屋の一人娘が大名のところへ強制的に妾奉公に出される」という、現代では通用しない性風俗に戸惑わざるを得ない。
もし殿様の子でも宿せば一族の名誉ということになるのだが、ここに現代の通常である自由恋愛の出る幕は寸毫もない。
「妾奉公」を文字とおり読めば、小染は佐竹候の手がついたと考えられる。それがどんな「悶着を起こして」家に帰ることになったのか。大店の一人娘であった小染は、それこそ蝶よ、花よと育てられたはずだ。相当勝気であったのは後日の夜盗刺殺事件に見るとおりだ。厳格な武家屋敷勤めが性に合わなかったろうし、美形ゆえに正妻との確執があったのかもしれないと想像してみる。
しかし裕福な家の一人娘がその後どうして芸者になどならなければならなかったのか。
これを大内蔵への思慕ゆえと推量できないだろうか。大内蔵とえらそうに改名していても前身は小染の実家の小僧の繁吉であったし、今とても取るに足らない安棒給の寺侍である。
この項つづく。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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