南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

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サル真似2

投稿者: devil_snr 投稿日時: 2007/02/24 17:32 投稿番号: [13650 / 29399]
>dorawasabi5001氏の投稿より引用

捏造歪曲で有名な「汚泥」を垂れ流してどうすんだよ。
自分の言葉で語れないのか。サル真似野郎が。

中帰連のHP引用が証拠?
中帰連が中国による「自虐洗脳で反日宣伝塔にされた被害者」の集まりだってことぐらい常識だぜ。

コピペ猿

投稿者: devil_snr 投稿日時: 2007/02/24 17:24 投稿番号: [13649 / 29399]
>YellowFlute氏の投稿より引用

捏造歪曲で有名な「黄害」を垂れ流してどうすんだよ。
自分の言葉で語れないのか。サル真似野郎が。


で、控訴審はどうなった?
発見された記録やら文書やらの「客観的検証」結果は?
「BC級戦犯の裁判」のいい加減さとデタラメぶりはつとに有名だぜ。

JAPとか日帝とか ここは日本か?

投稿者: peacewld2000 投稿日時: 2007/02/24 14:12 投稿番号: [13648 / 29399]
南京大虐殺はあったと思うんだけど、なんでこの掲示板   JAPとか日帝なのかな。JAPは「シナ」と同じで侮蔑用語。主張の是非はともかく使うのはおりこうさんとは思えないね。日帝てことばもなつかしいんだけど、ソ連が崩壊したいまでも「国家独占資本主義におかされた日本帝国主義は」ってひといるのかななんか懐かしい感じ。それとも日本の方じゃないのかしら。
http://blogs.yahoo.co.jp/peacewld2000

旧日本軍 豪兵に青酸ガス実験

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/24 08:51 投稿番号: [13646 / 29399]
太平洋戦争中の1944年11月、旧日本軍が捕虜のオーストラリア軍兵士らに対し、南太平洋のカイ諸島で猛毒の生産を使った毒ガス兵器の人体実験を行っていたことが7月26日、オーストラリア国立公文書館(キャンベラ)で見つかった戦後のBC級裁判の記録文書から明らかになった。

関東軍防疫給水部(731部隊)中国東北部で中国人らに生物・化学兵器の人体実験をしていたことは広く知られているが、オーストラリア軍兵士に対する人体実験の詳細が判明したのは初めて。   旧日本軍が最終兵器と位置づけていた青酸ガスの効力検査が目的で、連合軍の攻勢に対抗するため毒ガス兵器を重視していた実態が明らかになった。
発見された英文の判決文や日本語の供述書など約400ページによると、第五師団(広島)の毒ガス兵器担当の中尉は44年11月、上官の中佐の命令で、師団が保有していた青酸ガス兵器の効力が保たれているかを調べるため、オーストラリア軍兵士の捕虜ら二人に対戦車用の青酸入り手投げ瓶を投げつけた。二人はその場で倒れ、憲兵が銃剣で刺殺した。
実験目的について中尉は47年4月17日の供述書で、青酸ガス兵器が製造から約4年経過し変質が見られたためとし、実験後「効果はあります」と報告したと述べた。中尉と中佐は裁判で絞首刑の判決を受けた。
  2004.7.27「高知新聞」


毒ガス弾国に回収義務
中国人側全面勝訴   1億9000万円賠償命令

  旧日本軍が中国に残した毒ガス弾などで戦後被害を受け、死亡したり健康を損なったりしたとして、被害者の中国人や遺族計13人が国に総額2億円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は29日、ほぼ請求通り1億9000万円の支払いを命じた。
片山良広裁判長は「主権が及ばない中国であっても中国政府に回収を申し出るか、遺棄状況などの情報を提供して被害を防ぐ義務があった」と認定。「日中国交回復後も回収を怠り、放棄した行為にはわずかの正統性もない」と国の不作為を違法とした。

片山裁判長は判決理由で、毒ガス兵器の遺棄について「組織的に隠蔽、隠匿を実行した」と旧日本軍の違法行為を認定した。その上で「軍関係者の話しや資料を調べれば、遺棄状況を相当程度把握でき、住民らに重大な危険が及ぶことが予想できた」と国の予見可能性を認め「危険な状態を作り出した国には危険を解消する義務がある」と指摘。国は「共同声明で中国側は戦争賠償請求権を放棄した」と主張したが、片山裁判長は「問題となっているのは、戦争中の行為ではなく共同声明以降不作為」と退かた。
2003年9月30日「高知新聞」


【吉林】旧ソ連による731部隊の裁判記録を発見

旧ソ連が、旧日本軍の細菌戦に関わった戦犯を裁いた時の公判を記録した書籍「細菌戦用兵器の準備および使用の廉(かど)で起訴された元日本軍軍人の事件に関する公判書類」が、吉林市の収集家宅で見つかった。この本は1950年にモスクワの外国語出版局から発行されており、全83ページ、すべて中国語で書かれている。

前書きには「細菌戦用武器の準備および使用で起訴された、旧日本陸軍の軍人12人の裁判が1949年12月25日から31日まで、ハバロフスクで行われた。起訴された軍人には、日本関東軍総司令官・元陸軍大将の山田乙三を含む」と書かれている。

第45ページには審問に答える山田乙三の言葉が「私は罪を犯したことを認める。私が生体実験を行った事実は明確だ。私は別の者らがこのような実験を行うことを許可したのだから事実上、実験対象となる中国人、ロシア人、満州の現地人を日本軍の各組織によって送り込み、強引に殺害することを許可していたことになる」と記録されている。第380ページには、証人として出廷した元731部隊員の古都良雄が「私が参加した派遣隊の業務は、何かといいますと、それは貯水池、井戸をチフス菌及びバラチフス菌によって汚染する方法による細菌攻撃でありました」証言したことが記されている。
「人民網日本語版」2002年5月21日




YellowFlute氏の投稿より引用

ノモンハン事件

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/24 08:49 投稿番号: [13645 / 29399]
一九四〇年五月二三日の『朝日新聞』は、

【七三一部隊に「ノモンハン事件」に関連して軍司令官から感状が与えられたことを、部隊長の石井だけではなく娘の春海の写真まで掲載して伝えている。これは普通ではない。】

  日本はノモンハンでの戦争の大敗北を通じて、航空機、戦車その他全ての戦力においてソ連に、そして欧米諸国に太刀打ちできないことを認識した。

この時諸外国との戦争においては、従来とは違う新しい兵器を持つ必要を痛感した。

石井が提唱していた生物兵器はその一つと考えられた。

【石井はノモンハンでの戦争の末期に戦場の河に細菌をまいたのだった。】


【感状が与えられたことと、その事実が新聞で娘の写真まで掲載して報道されたことは、陸軍の首脳部が生物兵器を有望な兵器と判断したことを示している。】

その推測は翌年以降、中国で航空機を使用した生物兵器の試用が裏付けている。

  翌年、一九四〇年秋になって石井たちは中国中部の寧波その他を、さらに一九四二年まで中国中部の各地で生物兵器の実戦試用を行った。

中国政府は一九四二年三月三一日、中国保健省金長官名で「中国における日本による細菌戦の企て」という、日本の生物兵器の使用を非難する声明を発表し、重慶駐在の各国大使館に送り付けている。


この文書は在重慶の米国大使館からワシントンの国務省に送られた電報の同封文書として米国国立公文書館に保管されている。日本が中国各地で生物兵器を使用しているという中国の主張に対して、当初米国は「根拠のない申し立て」として取り扱っていた。

しかしその後一九四四年の末になると

【米国も捕虜とした日本兵の尋問を通じて、日本による生物兵器の実戦試用を確認する。】


【   日本は一九四二年の秋以降、中国での生物兵器の実戦試用を中止する。】


それは中国側に生物兵器の使用を見破られたためではなく、

【その年の中国中部での試用で日本軍が汚染地域に入り、一七〇〇人以上の死者を出すという、大失敗をし、】

陸軍首脳部の信頼を失ったためだ。

この死者一七〇〇人以上という数字は、前記の日本人捕虜が尋問で米国側に答えているものだ。

・・


  何故、当時米国で炭疽、ペストそれに鼻疽のワクチンの開発が行われていたのだろうか。これはそうした細菌を生物兵器として使用する努力が進行中だった、ということを意味しているだろう。

  ヒルとヴィクターの調査はフェルの調査を受けて、「細菌戦研究施設から日本に送られた、人間から得た病理標本の調査」など、人体実験についてより詳細な情報を入手することだった。彼らのレポートの結語は次の通りだ。

  今回の調査で集められた事実はこの分野におけるこれまでの見通しを大いに補いまた増強するものである。このデータは日本人科学者たちが巨額の費用と長い年月をかけて得たものである。情報は、人間について各病原体毎の感染に必要な各細菌の量に関するものである。

こうした情報は人体実験に対するためらいがあり、我々の研究室で得ることはできない。これらデータを入手するのに今日までに要した費用は総額二五〇〇〇〇円で、これはこれら研究の実際の価値と比べれば取るに足らない額である。


さらに、集められた病理標本はこれら実験の内容を示す唯一の物的証拠となっている。これら情報を自由意志によって提供してくれた人々がこのことで困ることのないよう、またこの情報が他に漏れることのないようあらゆる努力を払うよう望む。

  ヒルとヴィクターのレポートには二五種類の研究テーマについて、どんな人物にインタビューし、どんな情報を入手したかが明らかにされている。

日本語の文献では数種類の事例についてしか分からない石井機関での人体実験が、この戦後の米国による調査、特にソ連による石井たちの身柄引き渡し要求後の調査、によって網羅的に知ることができる、というのは歴史の皮肉と片づけてはいけない。戦後日本のありようの問い直しを迫っていると理解するべきだ。

(つねいし けいいち   神奈川大学教授)

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/07/tuneisi_731.htm


dorawasabi5001氏の投稿より引用

victor_e_frankl の南京・・・は

投稿者: yohikimenosaru 投稿日時: 2007/02/23 20:54 投稿番号: [13644 / 29399]
他人の投稿を張りかえているだけではないか。

中身の信憑性のほどは本人はまったくわからない。

実は読んでもいないのではないか。

本多勝一は・・・・

投稿者: yohikimenosaru 投稿日時: 2007/02/23 20:52 投稿番号: [13643 / 29399]
中国語は全くできなかった。

いまもできない。

通訳も翻訳も中国共産党にしてもらった。

中身の検証はまったくしていない(できなかった、する気もなかった)

本多の「報道」とは

中国共産党がつくったものを

そのまま日本に持って帰り

朝日新聞が印刷して宅配しただけのことではないか!

金学順は

投稿者: yohikimenosaru 投稿日時: 2007/02/23 20:46 投稿番号: [13642 / 29399]
身内に売られて身を沈めていただけのことだった。

人を喰った話

投稿者: forbos_dds 投稿日時: 2007/02/23 18:48 投稿番号: [13641 / 29399]
文化大革命でも大いに人肉食と群衆心理による大量虐殺の習慣を発揮した中国人が、日本兵が中国人を虐殺したり食べたりしたと騒ぐ。

これぞまさしく「人を喰った話」だわな。

Re: 悪の日帝の逃げ得は許さない!!

投稿者: x25r_alpha 投稿日時: 2007/02/23 18:17 投稿番号: [13635 / 29399]
>日本政府は今すぐ被害者に土下座謝罪しろ!!


やなこった!
       by 日本政府及び(ごく一部のサヨを除く)日本国民一同

米民主党勢急拡大で高まるJapanバッシング

投稿者: chon_ga_chon_chon_chon_chon_ge 投稿日時: 2007/02/23 18:10 投稿番号: [13634 / 29399]
なにしろ、米民主党は悪の枢軸日本帝國によりいわれなき、宣戦布告なしの卑劣かつ姑息な真珠湾奇襲攻撃を受け、
世界平和、世界正義のため、世界征服を目論みのさばる極悪非道の日本帝國に対し、
これを敢然と迎え撃ち、まさに2発の原爆という正義の鉄槌をもって見事にそして完璧にこれを叩き、完全にこれを粉砕した、
正義の味方、偉大なるフランクリンD.ルーズベルト大統領を輩出した党であります^^
それに付け加え、先の中間選挙で米民主党は圧勝し、現在上院、下院でも過半数を占め、
2008年の次期大統領は民主党から選出されることが確定しているとのもっぱらの噂ですから、
これからしばらくの間、愚かな日帝の悪の末裔に正義の裁きを下すための
途絶えることのない激しいJapバッシングが期待できそうですね^^
楽しみですね^^うれしいですね^^悪質な為替操作という卑怯な手法で、
世界中から大量の現金を不正に騙し取る経済テロリストJapざまぁみろ^^vですねw

毒ガス人体実験

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:56 投稿番号: [13632 / 29399]
★旧日本軍:
捕虜使い毒ガス人体実験   豪裁判記録で判明

  太平洋戦争中の1944年11月、旧日本軍が【捕虜のオーストラリア軍兵士らに対し、】南太平洋のカイ諸島で猛毒の青酸を使った毒ガス兵器の人体実験を行っていたことが26日、オーストラリア国立公文書館(キャンベラ)で見つかった戦後のBC級裁判の記録文書から明らかになった。

  中央大の吉見義明教授(日本近現代史)が発見し、田中利幸・広島市立大教授の協力を得て入手した。

  関東軍防疫給水部(731部隊)が中国東北部で【中国人らに生物・化学兵器の人体実験をしていたことは広く知られるが、】

吉見教授によると、オーストラリア軍兵士に対する人体実験の詳細が判明したのは初めて。

旧日本軍が最終兵器と位置付けていた
【青酸ガスの効力検査が目的で、】連合国軍の攻勢に対抗するため毒ガス兵器を重視していた実態が明らかになった。

  文書は、終戦から約3年後の48年7月15日に香港で行われたオーストラリア軍による戦犯裁判の記録で、英文の判決文や日本語の供述書など計約400ページ。

  それによると、第5師団(広島)の毒ガス兵器担当の中尉は44年11月、

【上官の中佐の命令で、師団が保有していた青酸ガス兵器の効力が保たれているかを調べるため、】

オーストラリア軍兵士の捕虜ら2人に対戦車用の青酸入り手投げ瓶を投げ付けた。2人はその場で倒れ、憲兵が銃剣で刺殺した。

  実験目的について中尉は47年4月17日付の供述書で、青酸ガス兵器が

【製造から約4年を経過し変質が見られたためとし、】

実験後「効果はあります」と報告したと述べた。中尉と中佐は裁判で絞首刑の判決を受けた。

  当時、カイ諸島東方の日本の占領地ニューギニア島に、オーストラリアやニューギニア西部から連合国軍の進攻が予想されるなど戦況が緊迫していた。

今回の新事実が盛り込まれた著書「毒ガス戦と日本軍」(岩波書店)は28日刊行される。(共同)

◇ことば◇旧日本軍の毒ガス兵器

  1929年、陸軍が広島県大久野島で製造を始め、後に海軍も神奈川県寒川町に工場を建設した。

旧軍は毒ガスの種類を色で識別。

猛毒の青酸ガスを「ちゃ」、致死性のイペリットとルイサイトを「きい」、嘔吐(おうと)性ガスのジフェニールシアンアルシンを「あか」、催涙ガスを「みどり」と呼んだ。

米軍の調査報告書によると、旧日本軍は計約750万発の毒ガス兵器を製造。

【中国では大量の毒ガス兵器が遺棄されたままで、日中両政府が廃棄処分を目指し協議中。(共同)】

毎日新聞   2004年7月26日   21時15分


dorawasabi5001氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜35(防衛軍崩壊)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:50 投稿番号: [13631 / 29399]
下命された撤退命令そのものがもはや実行不可能なモノであった。指令長官の特続部隊と第36師・憲兵部隊が午後6時より下関から汽船で渡江して撤退、

その他の部隊も夜11時を期して各方向で一斉に日本軍の包囲網を正面突破して撤退し、最終的に安巍省の南端に集結するというものだった。

この撤退作戦は前日の夜であれば、まだ決行の可能性もあったがすでに防衛軍の前線が崩壊を始め殆どの部隊が渡江し長江北岸に逃れ様と下関へ潰走を始めていた段階では敵軍正面突破の実行は不可能であった、

さらに唐生智はこの実施不可能な撤退計画を強行するために撤退計画以外の部隊の下関からの渡江を厳禁し、第116師に他部隊が把江門から撤退、退却するのを実力阻止するように命じたのである。

司令長官部が真っ先に撤退するという作戦は南京防衛軍にパニック的な崩壊をもたらし、鉄道部地下室の司令長官部の人員が午前5時以前に撤退行動を開始しているため午後3時以降に各部隊が司令部に無線連絡をしても通じない状態となり、前線部隊に動揺と混乱を与え逃走、潰走に拍車をかけることとなった。

日本の大軍が城内に侵入南から攻めてくるという恐怖の情報が、まだ居住区に残留していた市民を震撼させ、当時、十数万の市民がまだ、自宅に居たといわれる。市民の前を中国軍がパニックをおこして逃げてゆく、中国軍がいなくなり、自分たちが日本軍の襲撃に直接さらされる事となった市民にパニックがはしり、城壁内南部地域の密集地帯に残って居た住民から逃走がはじまった。

多くの残留家族がわずかな食糧と寝具類を背負って退却する部隊の後を追って南京を脱出しようとした。

夕暮れと共に膨大な数の退却・潰走兵と軍隊と一緒に南京を脱出しようとする 避難民の群れが把江門に向かって洪水のように殺到したのである。

南京事件に至るまで〜36


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜34(防衛軍崩壊)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:49 投稿番号: [13630 / 29399]
唐生智は正午に鉄道部地下室の司令長官部に高級指揮官会議を招集して、撤退命令を正式に決定し、午後三時に南京防衛軍の全軍に撤退命令と作戦を下命する予定でいた。

しかし、戦況の急変による指揮系統の動揺と混乱によって開催不可能となり、唐生智が高級指揮官会議を開会できたのは日没時の午後5時になってからだった。

それも中山北路に面した鉄道付近はすでに敗走・退却兵による混乱が発生していたため、百子亭の唐生智の官邸に変更した。

そのころはすでに、南京防衛軍の崩壊は除除に進行していた。南京城内を南の中華門から北の把江門まで縦断する中山北路に立っていたアメリカ人記者A/T・スティールはその様子を記している。

「数人の青年将校が、退却する大群の進路に立ちはだかって、食い止めようとしていた、激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。兵士たちはいやいや向きをかえ、前線に向かてノロノロ戻り始めた、だが盛り返したのはつかの間であった。中国軍の志気は瓦解し、全軍が潰走することとなった。」

「崩壊がやってきた。はじめは比較的秩序だった退却であったモノが、日暮れ時(午後5時頃) には潰走と化した。

逃走する軍隊は 日本軍が急追撃をしていると考え、余計な装備を投げ捨てだした。
まもなく街路には捨てられた背嚢、弾薬、ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。(シカゴ・デイリー・ニュース))

南京事件に至るまで〜35(防衛軍崩壊)に続く


kinngyoya301氏の投稿より引用

Re: 南京・・・他人の文章

投稿者: greenappletea2no2012 投稿日時: 2007/02/23 16:47 投稿番号: [13629 / 29399]
こういう人、いますね。「お前ら知らないだろう、ほら、戦時中日本人はこんな酷いことをしたんだ。だから日本は中国にも韓国にもずっと頭を下げ続けろ。」
どこの文献に書いてあるのか知らないけれど全て真実という証拠はどこにもない。こんなことを延々と続けてむなしくないのでしょうか。戦争を知らない日本の世代が同調するとでも思っているのか、それとも単なる嫌がらせか。どちらにせよ相手にする人は少ないでしょうね

南京事件に至るまで〜33(城陥落)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:32 投稿番号: [13627 / 29399]
包囲殲滅網の完成

日本国内で南京陥落の誤報に踊らされて、官民一体で戦勝祝賀行事が繰り広げられていた12月12日、
南京では夜明けとともに かつてない激烈な日本軍の攻撃が開始されていた。

完全に南京の制空権を掌握していた日本軍機は中国軍陣地に容赦ない爆撃を加え、南京城壁を包囲する形で陣地を構えた日本軍の砲列は城壁と城内へ向けて猛烈な砲火を浴びせた。

南京城南の中華門の重要拠点である雨花台陣地には 第6師団(熊本)と第114師団(宇都宮)が猛攻を加え、正午までに同陣地を占領した。

第6師団は雨花台の南京城内が一望できる地点に砲列を敷き、中華門に集中砲火をくわえ、城内にも砲弾を撃ち込んだ。

南京の中心街で砲弾が炸裂し各所に火の手があがる、雨花台に進出した第11師団(善通寺)は中華門から東の雨花門にかけての城壁に集中攻撃を開始した。

北山麓陣地は第16師団(京都)の佐々木隊(支隊長佐々木到一少将)南山麓は同師団の主力が、南京防衛軍の最精鋭部隊の教導総隊(桂永清隊長)を相手に3日間に渡って死闘を続けていた。

この日、紫金山第2峰陣地を失陥させた第16軍の砲列から中山門とその南の城壁に重砲による集中攻撃が加えられ、中山門の城壁が数メートルに渡って決壊する。

長江南岸にそって南京城の東(長江下流)にある烏龍山砲台には第13師団(仙台)の山田支隊(支隊長山田栴二少将)が猛攻をかけた。

長江南岸にそって南京城の西(長江上流)の上新河鎮から江東門、下関に広大にひろがる湿地帯では雨花台を占領した第六師団が戦闘を展開、城内突入を目指して中華門から水西門にかけて攻撃を集中し、往来には死体が散乱し凄惨を極めた。

長江の北岸津補(天津ー補口)鉄道ターミナル駅補口の占領を目指して進撃中の国崎支隊は午後に江浦県城を占領、渡河して撤退しようとする中国軍の殲滅作戦を準備した。

日本軍は12日の昼までに南京城の四方を完全に取り囲んで包囲殲滅戦の陣容を整え、その日の午後から夜間にかけて、「南京」一番乗りを競って膨大な死者、犠牲を払いながら壮絶な突撃戦を敢行した。

河と空からの包囲殲滅を目指した支那方面艦隊は遡江部隊が烏龍山砲台の下流に進撃してきていた。

第一空襲部隊の第12航空隊、第13航空隊は中国軍が汽船で南京を脱出中との報を得て、中国軍の退路遮断及び殲滅のための長江のジャンク、汽船の爆撃に向かい、アメリカ砲艦パナイ号とアメリカのタンカーを中国兵の護送中と「誤認」し撃沈した。
(パナイ号事件)

南京事件に至るまで〜34(防衛軍崩壊)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜32(城攻防戦)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:30 投稿番号: [13626 / 29399]
12月8日、日本軍は南京城を覆うように布陣された烏龍山ー幕府山ー紫金山ー雨花台の複廊陣地に迫り、南京城の攻囲を完成した。

翌9日の夕方には「日本軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆および敵意なき中国軍に対しては寛大をもってし、これを犯さず」という大日本陸軍総司令官   松井石根名の南京防衛軍にたいする「投降勧告文」(日本語/中国語)を日本軍機から城内8カ所に投下した。

翌10日   中支那方面軍参謀副長   武藤章大佐と同参謀の中山寧人少佐は、通訳官をともなって中山門ー句容街道において午後一時まで投降勧告の「回答」を待っていたが、中国側の軍使は来なかった。(南京戦史編集)

投降勧告を拒否した南京防衛軍の司令官唐生智はこの日の午後七時、「本軍は複廊陣地において、南京固守最後の戦闘に突入した。

各部隊は陣地と存亡をともにする決心で死守せよ」と下命し、指令なく寸地でも陣地を放棄、撤退したものは軍法にもとづいて厳罰に処すと伝えた。

また、保有している船舶は全て一律に運輸司令部が接収、管理するように命じ、勝手に拘留しておくことを禁じた。

宗希簾の第36師に命じて長江沿岸を厳重に警備させ、指令長官部の許可がなければいかなる部隊の渡江も厳禁とした。
また、憲兵、警察に対しては「隊伍を離脱した兵隊が制止をきかないで渡江しようとした場合には武力で阻止せよ」と命じた。


「南京城と生死を共にする」と言い切った唐生智の覚悟のほどをしめした厳命であった、渡江の手段を断って、「背水の陣」を敷こうとしたのであるがこの「死守作戦」が大きな悲劇を生むこととなってしまう。

松井方面軍司令官は午後1時蘇州方面軍司令部において

「上海派遣軍ならびに第10軍は南京城の攻略を続行し城内を掃蕩すべし」(中方作戦命第34号)と南京城総攻撃を下命した。

陸軍の総攻撃に伴って海軍の航空隊の爆撃も激しさを加えた。

このようにして、10日から12日にかけて、昼夜を分かたず壮絶な南京城攻防戦が展開されることとなった。」

南京事件に至るまで〜33(南京城陥落)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜31(清野作戦)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:29 投稿番号: [13625 / 29399]
中国軍が強行した清野作戦とは侵攻してくる日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある物、建物を全て焼却してしまう、焼野原作戦である。

中支那方面軍が「注意事項」を下達したその日(7日)から始められ9日まで続いた。

中国軍は南京城の城壁の周囲1〜2kmにある居住区全域と南京城から半径16km以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った、

この作戦により住む家を無くした多くの農民と市民が食糧と家財道具一式を持って城内の南京難民区に(南京安全区)に殺到する。

「清野作戦」の結果、食糧掠奪と民家宿営に頼っていた中支那方面軍の諸部隊は城外区域に駐屯する事が出来ず、「注意事項」で厳禁された城内駐屯をせざるを得なくなったのである。

数万の軍隊による食糧物資の掠奪が城内で行われることとなったのである。

また、道路沿いの民家、農家が焼き払われた為、諸部隊の食糧徴発行動は遠隔の奥地にまで波及することとなり、それだけ、農村部の被害も拡大していったのである。」


南京事件に至るまで〜32(南京城攻防戦))



kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜30(蒋介石)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:27 投稿番号: [13624 / 29399]
12月6日までに日本軍は南京外囲防御陣地をほぼ占領し、前線部隊は南京城複廊陣地に向かって攻撃を開始した。

南京城内も日本軍の射程に入り、砲弾も飛び込んでくる。

第一空襲部隊の第2連合航空隊は12月3日に常州に前進基地を開き、同隊の約半数の航空兵力を移駐させ同基地から出撃し激しい爆撃を連日、南京城内にくわえた。
蒋介石自身も生命の危険を感じ、南京固守作戦指揮にこだわっていたが、側近からの強い説得にようやく南京を脱出する決意をする。

12月7日蒋介石夫妻は側近とともにアメリカ人パイロットの操縦する2機の大型単葉機に乗って、南京を脱出していった。

南京防衛陣地構築を指導したドイツ軍事顧問団のフォルケンハウゼン団長以下も密かに南京を離れ漢口に向かった。それから一両日中に国民政府の要人、南京市長ほか市政の要人たちも全てが南京を脱出していった。

南京城攻略要項などを中支那方面軍司令部の下達

1.皇軍が外国の首都に入城するのは有史以来の盛事にして、永く竹帛 に垂るべ き事績たりと世界の等しく注目しある大事件なるに鑑み、将来の模範たるべき心組みをもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為など 絶対に無からしむを要す。

1.部隊の軍規風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめ、苟も名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期するを要す。

1.入城部隊は師団長が特に選抜せるものにして、あらかじめ注意事項、特に城内外国権益の位置などを徹底せしめ、絶対に過誤なきを期し、要すれば歩哨を配置す。

1.掠奪行為をなし、また、不注意といえども火を失するものは厳罰に処す。
軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。
(南京戦史資料)

あたかも、極悪非道の受刑者が入城するがごとき、注意書きである。
事実、この注意がことごとく破られた為に、皇軍の南京城入城は全く逆な意味で「世界に注目」され、永く歴史に残すことになってしまったのである。

南京事件に至るまで〜31(静野作戦)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜29(唐生智)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:26 投稿番号: [13623 / 29399]
南京死守を決定するも、南京防衛軍の司令官の人選にいたり、高級幕僚に応ずる者がなく、名乗りでたのは、軍事委員会常務委員の唐生智であった。

唐生智は地方軍の湖南軍の軍官出身で、過去に2度ほど反蒋介石戦争に参加したこともあり、国民政府内では非主流派の属し、かなりの冷や飯を喰わされていた。

政府、軍内に確固たる基盤も無い。その唐生智が国防会議で他の誰も蒋介石の南京固守作戦を支持しなかったのを見て、生来の野心と功名心から南京防衛軍司令官に名乗りを上げたのである。

南京防衛軍司令官唐生智と中支那方面軍司令官松井石根とは侵略側と防衛側でありながら、司令官としては互いに

1,航空機、軍艦、戦車まで投入した近代兵器と大部隊による大都市の攻防戦を指揮する経験と実力に欠けていた。

2,唐生智は日本軍の包囲殲滅作戦を予想だにしなかった、松井は中国の抗戦力を軽視し、南京占領と国民政府の降伏を安易に考えていた。

3.唐生智は閑職にあり、松井は現役大将を退いた予備役であり、野心と功名心だけは人一倍強かった。

4.二人とも配下の師団長、師長クラスの高級将校の尊敬を得ていず、司令官としての実力、権威を備えてはいなかった。

5.二人とも病弱であった。唐生智は司令長官部を自分の官邸におき、全軍の指揮の支障をきたす。松井は野戦司令部で病臥することが多く、南京戦中の12月5日から15日まで司令部に病臥、滞留していた。

状況把握は勿論の事、統制指揮の出来ない様であった。

蒋介石は当初南京防衛軍を約7万人配備を計画したが、南京に迫り来る日本軍の予想外の早さと中支那方面軍そのものが数次にわたる増員部隊で雪だるま式に増え続け、総勢20万人規模近くまで増強されていく状況に動揺し、

危機感を募らせ、蒋介石はブリュセル会議が結局は対日制裁を決定しなかったために、次はトラウトマン和平工作に期待し、日本側の提示した和平条件の受け入れ用意をトラウトマンに伝えるとともに、日本との停戦、和平を実現するためにも、南京の早期陥落を阻止することが不可欠と考えていた。

蒋介石はまた、南京防衛を2〜3ヶ月持ちこたえれば、国際情勢も大きく変化して中国の危機は回避されると、漠然とした期待感もあったのである。

そこで、蒋介石は南京近郊区に軍隊を急増派動、配備したが、将兵の過半を失った部隊が多かったので急遽、農村から水増し的に大量に青年、壮年を徴用した。

兵役制度がなかったため、徴用された新兵は武器の使用方法も知らず、組織的作戦の遂行など出来ず指揮官が居なくなると部隊の指揮系統がいったん崩れればあとは烏合の衆にすぎない存在となりかねない状況であった。

南京虐殺事件ではこうした新兵の大部分が犠牲となった。

この段階で南京防衛軍の総数は前線部隊、後方部隊、雑兵、軍夫をあわせて約15万に達している。

この15万兵士に対して、陸から総勢20万人近くの日本軍が波状進軍の形で包囲し、空からは支那方面艦隊(長谷川司令長官)航空部隊の第一空襲部隊(指揮官三竝貞三少将、第二連合航空隊と第一連合航空隊上海派遣隊で編成)が南京に向かって両岸の要塞、砲台を攻撃しながら進撃を始めた。

中支那方面軍と支那方面艦隊の南京包囲網の中には南京防衛軍の他、近郊区の100万人以上の住民と難民、南京城区内には40〜50万人の市民および難民が居住していた、あるいは避難していた、のである。、

南京事件に至るまで〜30(蒋介石の脱出)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜28(南京陥落1

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:02 投稿番号: [13622 / 29399]
中支那方面軍の第10軍と上海派遣軍が独断で奥地への侵攻を禁じた制令戦を突破して南京へ進撃を開始した頃、

国民党政府軍事委員会(委員長   蒋介石)は南京で最高国防会議を開き(11月15日〜18日)国民政府の重慶への遷都を決定するとともに南京防衛戦の方針を決定した。

南京防衛のあり方については、他の高級幕僚との間に対立が生じ、3ヶ月に渡った上海防衛戦に蒋介石は国民政府軍の総兵力の3分の2にあたる約70万人の兵力を投入し、しかも精鋭部隊の殆どをつぎ込み、その結果、戦死者も25万人前後と言われるほど膨大な数になっていた。

中国軍が被った損害の大きさからも、首都南京を防衛しきれないことは明らかであり、首都を四川省重慶に移し、長期抗戦の態勢を整える事については会議参加者の異論はなかった。

*名目的な抵抗にとどめ、後は自発的に撤退するという作戦と、

*首都南京を少なくとも一定の期間は死守する作戦の

どちらを採択するかで、対立していた。

前者は軍事委員会参謀の何応欽、同参謀の白崇禧、軍令部長徐永昌ら多くの幕僚の意見であった。

上海戦以後は日本軍に対する持久戦を原則とし、一都市の得失を争うべきではなく、上海で喪失した中国軍の戦闘力を回復するには相当の期間にわたって後方で軍隊を補充、訓練する必要がある、

南京は防衛困難な地形であるなどが主な理由であった、

が、

これに対して、後者を主張してゆずらないのが軍事委員長の蒋介石であった。

南京は中国の首都であり、世界の注目をあびている。南京には国父孫文の墓がある(陵墓)敵の手に汚させてはならない、と言うのが主な理由であった。

蒋介石が短期固守に固執したのは折から、進展を見せていたトラウトマン和平工作に強い期待を寄せ、さらにベルギーで開催中のブリュセル会議で対日制裁措置が決定されることも期待していたからであろう。

欧米列強から抗戦中国への武器、財政援助さらに侵略国日本に対する軍事、経済的制裁や軍事干渉を引き出すためには、中国の抗日戦力を海外に示さなければならないというのが蒋介石の一貫した抗日作戦であった。

国防会議の最後の晩に蒋介石は多くの幕僚の反対を押し切って、

南京死守作戦を決定した。

南京事件に至るまで〜29(唐生智)



kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜27(虐殺の村)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:01 投稿番号: [13621 / 29399]
江寧県の北端に上海から南京へ幹線道路が走る所に湯山鎮がある 。許巷村は湯山鎮に属し、道路沿いに200戸ほどの農家が並ぶ村落であった、この村が補充員部隊の波状進軍の犠牲となった。

12月20日の明け方に日本軍の先頭部隊が現れ、通信兵らしき日本兵が、農作業をしている陳光秀の父親に近づいて、何か日本語で話しかけているようだったが、分からないで黙っていると、いきなりピストルで撃たれた、なおもよろめいた父を日本兵は突き飛ばし、胸を撃って即死させ、そのまま行ってしまった。

急いで村へ帰り、姉、妹、兄嫁と山中に隠れたが、兄は日本兵に連行されてしまっていた。

約100名の青年たちを日本軍は少し離れた道路沿いの田んぼに連行した。
殺されるのではないかと老人たちは後をついって行ったが、豚や鶏の徴発に応ずるようにと追い返されてしまった。

田んぼに連行された青年たちは、互いに向き合ってひざまづき、2列に並ばされ、、その周りを囲んだ日本軍兵士は銃剣で一斉に刺殺した。集団虐殺が行われたのは午後4時頃であった。

農民たちにとって不幸であったのは日本軍の軍規の乱れ方の様々な部隊があったことである。

しっかりとした指揮官のいる部隊は、非戦闘員は殺害しないとう軍律を守っていた、許巷村の村民が聴いた噂「日本軍大歓迎の横断幕を掲げ、総勢出迎えれば、家を焼かれず、虐殺もされないという」というのは村民に危害を加えない部隊のことであった。

村民が日本軍はどの部隊も同じだろうと考え対応したことが、悲劇となった。」

南京事件に至るまで〜28(南京陥落1)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜26(大寺日記)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 15:59 投稿番号: [13620 / 29399]
南京事件に至るまで〜25(大寺日記)
第4次補充員部隊として11月22日に福島の会津若松市を出発、12月3日に上海の呉淞に上陸、南京へ進軍した兵士の日記から、、、(大寺隆日記)

12月4日
兵隊は元気に町を歩いて色々徴発している。

12月8日
途中8時頃、ニヤ(中国人の蔑称)をつかんで、大谷さんと二人で一人のニヤに担がせる。30分歩いて5分づつ休ませてきたので、大変本隊から離れてきた。ニヤは力はあるし、足は速い、乾パンを食わせられて大喜びでいる。
部隊にはよほど離れていると思ったので、大谷さんと二人で昼寝する。

12月9日
途中ニヤをつかんで、無錫に10時到着。
無錫に来るまでの部落には兵隊が宿営しているらしく、火が火災でもあるかのように空に輝いている。火災をおこしているところもあった。
3里手前から見えた。今日は休養だ。
午後から城内の徴発に行って道に迷い、5時頃ようよう木村上等兵と二人で帰る。

12月10日
皆ニヤを雇っているので一個中隊が倍になっている。今日は支那人と兵隊と半々だ。
青陽鎮の町はまだ、火災が起こっていて、戦跡未だ生々しい。

12月14日
食糧は今日からナシに、、、。地方から徴発していかなければならない。
第4中隊は徴発中隊だ。

12月16日
徴発隊として午前7時20分整列、7時に起きたのでアワを食って出て行く、途中道を間違えて半道ばかり、反対の方向へ行く、豚や米、芋の類、徴発する物資たくさんあり、徴発容易。
午後2時半東流鎮に着く、滝潭鎮から約4里、町に着き宿営を決めると徴発に忙し、部隊の着くまでに徴発を終わる。米、豆腐、小豆、砂糖、豚、芋、カマ、野菜など、部隊もまた色々と徴発してきた。
分隊では豚、野菜、米、鶏、芋などを徴発してきたので、今晩は相当にご馳走があった。

兵士の日記には日本に帰還するときに厳しい検閲を受けたので、残虐行為は記述されていない。一般に補充員の集団は指揮系統がなかったため、前線部隊と比較すると軍規が弛緩し、部落掃蕩中の掠奪、放火、強姦、殺害など残虐行為は前線部隊を上回った。

南京事件に至るまで〜27(虐殺の村)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜25(堀越日記)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 15:58 投稿番号: [13619 / 29399]
波状進軍の被害
上海〜南京〜南京戦区において一番乗りを争った前線部隊が、各師団の先頭部隊、主力部隊、後続部隊と分かれ、波状進撃していった。

上海での日本軍の損害が甚大であったため、各部隊とも多数の補充を必要とし、補充員が次ぎ次ぎと各部隊へ送られた、

この補充部隊は前線にたどり着くまでは臨時の編成であるため、指揮系統もなく、軍規も厳正ではなかった。

江南の広い地域および、南京区の県城と農村がこのような補充員の集団のなだれのような波状攻撃にさらされたのである。

第13師団山田支隊   (支隊長山田栴二少将)歩兵第六五連隊(連隊長両角業作大佐)
堀越文雄の日記
10月6日
帰家宅東方にいたる。支那人女子供のとりこあり、銃殺す、むごたらしきかな、これ戦いなり。

11月9日
捕虜を引き来る、油座氏これを斬る。夜に近く女2人、子供ひとり、これ突かれたり。

11月16日
午後6時ころ、一部落を見つけて、泊す。高橋少尉殿と藤井上等兵と自分と3人して徴発せし鴨と鶏、全部で8羽をもって、夕食うまし、外に豚1匹は油と砂糖、塩とで炒め、中食(昼食)の副食物にす。

11月20日
昨夜まで、頑強なりし敵も今は退却し、ところどころに敗残兵の残れるあり、とある部落に正規軍を発見し、吾初めてこれを斬る。まったく作法通りの斬れ具合なり、刀少しく刃こぼれせり、惜しきかな心平らかにして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながら驚かれる心の落ち着きなり、西徐野に一泊す。

敵はほとんど退却す、残れる者は使役に服せしめ、または銃殺、断首などをなす。いかりの心わかず、心きおうことなし、血潮を見ても心平生をうしなうことなし、これすなわち、戦場心理ならんか。

11月22日
鶏の徴発に出かける、クリークを通る支那人の舟を全部止めて片っ端から調べ、それに乗り対岸にいたり、チャンチュウ(中国酒)を一壺得てかえる。鶏およそ10羽もあるべし、中食うまし。

陸軍刑法(1908年制定)
第1章   掠奪の罪第86条

戦地または帝国軍の占領地において住民の財物を掠奪したる者は1年以上、の有期懲役に処する。

前項の罪を犯すに当たり婦女を強姦したる時は無期、または7年の懲役に処す。と明記されていた。

中支那方面軍が各部隊に”食料現地調達、徴発=掠奪命令”を出すこと、それ自体が軍規を弛緩させ、掠奪行為が強姦行為に及ぶ事を想定していながら、掠奪を許す、、と言うよりも積極的に罪を犯させた事は中支那方面軍司令官、司令部の責任は大きいといわねばならい。

南京事件に至るまで〜26(大寺日記)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜24

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 15:57 投稿番号: [13618 / 29399]
南京攻略戦において、日本軍は上海から撤退していく中国軍の追撃殲滅作戦と、南京防衛軍に対する包囲殲滅作戦を行った。

投降兵、敗残兵、捕虜、であろうとも、中国兵であったと者、それらしき者と思われた者を殲滅、つまり、皆殺しにする作戦であった。

ハーグ陸戦条約「規則」では「第23条{害敵手段、攻囲および砲撃の禁止事項}

敵国または敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること、

兵器を捨て、または自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること、

助命せざる事を宣言すること、
などを禁止している。

にも関わらず、日本軍は無抵抗の投降兵、敗残兵、捕虜を片っ端から殺害していった。

この残敵掃蕩は、敗残兵として残っている者が一般民衆の中に逃れた場合には民間人をも巻き添えにして、殺害することとなったのである。

日本政府、軍部の「支那膺懲」という思想が皇軍に対して屈服し、その配下にくだらない者は武力で征伐し、打ち懲らしめるというものである。

中国人が生きて生活する場に侵入し、彼らの生活の場を破壊しておきながら、日本軍に敵対したり、あるいは協力しない民衆を抗日と見て、あるいは疑うだけで、膺懲として殺戮したのである。

南京事件に至るまで〜25(堀越日記))


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京・・・他人の文章

投稿者: yohikimenosaru 投稿日時: 2007/02/23 15:56 投稿番号: [13617 / 29399]
信憑性は張ったヤツにもわかっていない。

南京事件に至るまで〜23( 崇善堂)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 14:42 投稿番号: [13616 / 29399]
中支那方面軍が包囲殲滅作戦をとり、中心の南京城に向かって師団、旅団、連隊、大隊といった各規模の部隊単位で波状的に進撃していった。

このため、南京近郊農村地帯に住んでいた民衆はさながら、日本軍が投げた南京戦区という大きな投げ網のなかで右左往し、逃げまどう雑魚のような運命にさらされていた。

崇善堂という埋葬団体は、南京郊外の遺体が物語る悲惨な様相を記している。

「郊外の民衆で、未だ他所へ避難できず、難民区にも入れない者は、昼間は一カ所に集まって助け合って身を守っているが、不幸にして日本侵略者に見つかると多くが被害に遭う。

背後から撃たれて倒れている者は、逃げる途中で難にあったものである。
横臥した形で刀で突かれて血を流している者は生きているうちにやられた者である。
口や鼻から血を出し、顔面が青く、足が折れている者は大勢の者から殴られたり、蹴られたりした者である。
婦人で髪が顔にかかり、乳房が割れて胸を刺され、ズボンをつけていない者、これは生前辱めを受け、殺された者である。また、
頭をもたげ、目をむき、口を開け、歯を食いしばって、手足を突っ張っり、ズボンの破れている者は乱暴されるを拒んだ者である、惨たるかな、惨たるかな。

夜毎、集団にして遠方に逃げる。声が聞こえると草むらに隠れたり、田の畦に隠れる。
危険なのは夜が明けてから、日本軍が高所から遠くを見渡す時で、逃げるところを見つかると弾丸が飛んでくる。
中に婦人がいると、手で止まれと合図して、追って野獣の仕業をなす。
いうこと聞かないと殺されるし、いうことを聞いても輪姦され、殺される。
立ち止まらず行こうとする者には容赦なく銃声が鳴り響く、死者はますます増え続ける、それ故   農村部の遭難者は都市部よりも多い」
(南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表、中国関係資料編、所収)



kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜22( 江浦県)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 14:40 投稿番号: [13615 / 29399]
江浦県は六合県とともに長江の北側にある、中支那方面軍司令部は南京攻略において中国軍を包囲殲滅する作戦を徹底しようとした、そのため、長江北岸の両県にたいしてもあらかじめ、日本軍を進撃させて南京防衛軍の退路を絶とうとしたのである。
完全包囲網である。


12月11日
「国崎支隊、長江左岸に移りたる報に、殿下(朝香宮上海派遣軍司令官)も[何とかして、13D(師団)を早く長江を渡し、津浦線を遮断し得ざるやと多少、焦慮せらる」(上海派遣軍参謀長飯沼昭守少将の日記)

国崎支隊は慈湖鎮付近で長江を渡河し、北岸を南京城の方向に進撃、12日午後1時には江浦県城に侵攻した。

12月11日に鳥江鎮を占領した日本軍(国崎支隊)2000余名は同地から南京戦区に突入し、国民党軍と銃火を交え、浦口を目指して侵攻する、住民も巻き込まれて殺害され、民家には火が放たれた。

江浦県城占領までに30余名の農民や難民が殺害されている。さらに、県城から浦口に至る沿道の農民や漁民44名が死傷、水上部隊(約100名)が西江口(小港)を襲撃し、農民、商人、子供ら30余名を殺害、商船100余隻を砲撃、破壊、焼却した。

民船を捜索中に発見した婦女子10数名は船中で輪姦され殺害された。(江浦県誌)

広大な南京戦区の県城と村には、まだ、膨大な住民が居住していた。
南京近郊の6県を合わせれば150万人以上と思われた住民のうち、南京攻略戦が開始されて、一帯が戦場と化しても汽車や自動車で遠くへ避難していくことは殆ど不可能であった。

県城や村は孤立して、散在しており、近郊にはラジオや新聞などの通信手段はなく、日本軍の正確な情報は伝わらなかった。
また、何よりも農民には守るべき田畑や大切な家畜があり、それらを置いて避難することが出来なかった。
そして、日本軍の大群が次々と波状的に長期に渡り、10数万の兵隊が進撃してくるなど、予想もしていなかったのである。

第16師団状況報告
12月24日

「今次作戦間、兵馬の給養は現地物資をもって、これに充つるの主義をとり、もって、迅速なる機動に応ぜんと企図せしが、幸いに富裕なる資源により、大旨良好なる給養を実施しえたり」と総括している。(南京戦史資料集)

進軍途中の物資豊富な都市、農村で十分に食料徴発、略奪が出来たことの証である。

農民が遠くへ避難せず、生産し、生活を営んでいた農村地帯に進入したからこそ、家畜や作物を略奪して食し、日本軍兵士は飢餓に苦しまずに進軍できたのである。そして、食料を供給してくれた農民を殺戮し、家を焼きはらったのである。

南京に向かう日本軍の諸部隊が軍規の弛緩による破壊欲や悪戯、気晴らしから沿道の村々を放火して進軍したため、住む家を無くした農民たちは難民のような生活を余儀なくされ生活しているところへ、部落掃討に来た日本軍に捕縛され、集団虐殺されるという悲劇も頻繁に発生している。

南京事件に至るまで〜23( 崇善堂)



kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜21(高淳県)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 14:38 投稿番号: [13614 / 29399]
12月4日
南京攻略下命にともなって、海軍の航空作戦も南京攻略の協力に転じ、南京、蕪湖方面の攻撃に主力をそそがれた。

前日 南京東方約140kmの地点の常州に海軍航空隊基地が開かれ、同基地を拠点に陸戦協力の為の南京、蕪湖の攻撃が加速される。この日、海軍航空隊の偵察機、戦闘機、爆撃機計19機が出撃した。(中国方面海軍作戦)

南京特別市の最南端にある高淳県は、水運で蕪湖へ、陸路で南京城へ通じる交通の要所にある。この日国民党軍の蕪湖への撤退を阻止するために、橋と運河を破壊する目的で、県城、および街も爆撃された。

なかでも、蕪湖〜上海間に位置する運河の港街となっている東項の街が激しい空襲を受け、街の中心地に集中的に爆撃が行われ、爆風で吹き飛ばされた死体が沿道に散乱し、街の家屋は火の海となり、廃墟と化した。約80発の爆弾が落とされ、住民約100余人が死亡した。破壊され焼失した家屋は700余間(200余戸)(高淳県誌)

第五師団国崎支隊(支隊長国崎登少将、歩兵第9旅団)は12月2日広徳を出発、3日朗渓に達し、同地で水上機動の準備を行い、6日同地を出発、主として水路を利用して水陽鎮、高淳県城を通過、9日太平を占領した。(支那事変陸軍作戦)

12月6日日本軍(国崎支隊)が水陽鎮から県境の水碧橋村に進入し、村民36名を惨殺した。翌7日   高淳県城を占領した日本軍は、住民に対して発砲し、30余名を死傷させた。(高淳県誌)


南京事件に至るまで〜22( 江浦県)


kinngyoya301氏の投稿より引用

Re: 南京事件に至るまで〜20(牧原日記)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 14:37 投稿番号: [13613 / 29399]
歩兵第20連隊の牧原信夫上等兵が書き残した日記より、、句容に至る前の部分より
11月22日
  道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見づらい様子で伸びていたのも可愛相である。
橋のたもと付近には5〜6個の支那軍の死体が焼かれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校が試し斬りをやったそうである。

11月26日午後4時
第二大隊は喚声をあげ、勇ましく敵陣に突撃し、敵第一戦を奪取、住民は家を焼かれ、逃げるに道なく、失神状態で右往左往していのも全く可愛そうだがしかたがない。午後6時完全に占領する。
7時道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃討が行われた。

自分たちが休憩している場所に4名の敗残兵がぼやっと現れたので、早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃し、あと3名は捕らえた。兵隊たちは早速2名をエンピ(小型シャベル)や十字鍬で叩き殺し、一名は本部に連行、通訳が調べた後、銃殺した。

8時半、宿舎に着く、三小隊はさっそく豚を殺していた。全く素早くやるのには恐れ入った。

11月27日
支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵を殴り殺す。
支那人2名をつれて、11時州発す、、、鉄道線路上を前進す、休憩中に5〜6軒の藁葺きの家を焼いた。炎は高く上がり、気持ちがせいせいした。

11月28日
午前11時大隊長の命令により、下野班長以下6名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く、その前にある橋梁に来たときに橋本与一は舟で逃げる5〜6名を発見、照準をつけ、一名を射殺、掃討はこのときから始まった。

自分たちが前進するにつれ、支那人の若い者が先を争って逃げていく、何の為に逃げるのか分からないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。

部落の12〜13軒に付け火すると、たちまち火は村を包み、全くの火の海である。老人が2〜3人にて可愛そうだったが、命令だから仕方がない。次、次と3部落を全焼さす。その上5,6名を射殺する。意気揚々とあがる。

11月29日
途中の部落を全部掃討し、また、舟にて逃げる2名の敗残兵を射殺し、あるいは火をつけ部落を焼き払って前進する。

呂城の部落に入ったおり、すぐに徴発に一家屋に入ったところ3名の義勇兵らしき者を発見。二名はクリークに蹴落とし、射殺する。一名は大隊本部に連行し手渡す。

12月4日
昨夜は大変に寒くて困った。2〜3日は滞在の予定だというので、今度こそは一服だと言うことで早速、徴発にでる。

自分は炊事当番で岡山、関本とともに昼食を準備する。
徴発隊は鶏、白菜などを持って帰り、家の豚も殺して昼食は豚汁である。
正午すぎ、移転準備の命令があり、大騒ぎ、結局、中止となりよかった。各自焼き鳥、焼き肉、をやってたらふく食う。午後2時命令があり、連隊は南京街道を南京に向かって進撃することとなった。クーリー( 苦力)も重い荷物を背負ってよくもついてきたものだと感心した。

12月5日
午前8時準備万端終わり、同部落を出発する。出発するときはもはや、全村火の海である。

南京に近いのだろう。一軒家に乾し芋が目についた、我先にと、瞬く間に取り尽くした。
(京都師団関係資料集)

南京事件に至るまで〜21(高淳県)へ


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜19 渫水県

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 14:36 投稿番号: [13612 / 29399]
11月29日りっ水に中国軍総司令部があるという情報を得て、海軍航空隊の戦闘機、爆撃機計36機が相次いでりっ水市街を攻撃した。(中国方面海軍作戦)

昼食時の突然空襲に、県城は一瞬にして地獄絵と化し、投下爆弾により家屋の破壊、火災の発生、逃げ出した民衆の群れに爆弾が投下され、機銃掃射による殺戮が行われた。

防空壕にも爆弾は命中し避難していた100余名の命が失われている、一時間あまりの空襲で市民1200余名、倒壊家屋5000間(数千戸)が破壊された(県誌)

句容県における虐殺行為
12月4日午前8時40分丹陽を攻略した第16師団(京都師団長中島今朝吾中将)の先頭が句容(南京から約50km)の東方約15kmにある睨塘村に侵攻、南京戦区に突入した。(飯沼守日記)

句容は南京外囲防御陣地線の主要な県城であり、東部はトーチカで防御を固め、城内には砲兵学校があった。国民党軍が睨塘の西の句容に通じる橋を爆破したため侵攻を阻まれた第16師団所属の歩兵第30連隊はその日、睨塘村に宿営することになった。

そこで、村民虐殺事件が発生した。
村民の避難順序は、中国国内戦の経験から、殺害されるか連行される危険のある、青年男子が真っ先に遠くへ避難し、次に女、子供が避難し、殺害されるおそれの少ない老人が家と家畜、作物を守るために残るとうパターンを実行していた。

日本軍が睨塘村にやって来たとき、女や老人、子供はまだ、避難はしていなく、進入してきた日本軍の銃声を聞き、慌てて、女や子供は夕闇にまぎれて逃亡した。

日本軍は逃げ遅れた村民と他所から逃げてきた難民など40数名を捕らえ、睨安仁という村民の家に押し込めて、火をつけ、焼き殺してしまった。

翌朝9時頃   日本軍の部隊が国民党軍の捕虜も含めた他村の村人約80名を捕縛し、句容公路(丹陽〜句容)沿いに連行し、機関銃で全員を射殺した。

日本軍は村を去る前に村落に放火し、全村八〇余戸は全て焼失した。
睨塘村虐殺事件は120余名が殺害されたが多くは他村の農民で、睨塘村民は7人が犠牲となり、そのうち2名が女性であった。(句容県誌)(日本軍侵占句容期間暴行録)

12月5日朝9時頃   日本軍の一部隊が句容県城の北にある本湖村に食料徴発と部落掃蕩にやって来た。

これを遠くから見ていた村民は、てっきり国民党の軍隊と思いこみ、村の自衛団約30名に招集をかけ、槍や刀を持って、集合し、整列して歓迎しようとしたところ、全員捕縛されてしまった。

付近で捕らえられた青壮年男子も加えて40数名が村の酒醸造小屋に押し込められ、火をはなたれて、焼き殺されてしまった。

当時満16歳であった万仁勝だけがただ一人やけどを負いながらも生き延びている。

農村では通信手段が全く無かったので、街道から離れた村では日本軍の侵攻に全く、気づかず、このような悲劇が起きている。


南京事件に至るまで〜20(歩兵第20連隊牧原信夫日記の紹介 )


kinngyoya301氏の投稿より引用

victor_e_frankl  へ

投稿者: yohikimenosaru 投稿日時: 2007/02/23 12:37 投稿番号: [13611 / 29399]
誰も読まない!

自分の言葉で書かなくちゃ!

南京大虐殺は、まっかな嘘です!

投稿者: neonanashinogonbei 投稿日時: 2007/02/23 12:20 投稿番号: [13609 / 29399]
いいかげんに捏造を垂れ流すのを止めたらどうかね?

この国はね・・・・・・

投稿者: neet_big_problem_of_japan 投稿日時: 2007/02/23 09:55 投稿番号: [13607 / 29399]
この国はとっくにおしまいですよ。
誰もが気づいてるのに誰も何もしようとしない。どうしようもないね。
少しでも外から日本を眺めた事のある人間なら誰もが思うよ。
日本ってのは、いつの間にかみっともない恥ずかしい国に成り下がってしまった・・・ってね。
今あるのはカネの使い方を誰も知らないこの国の姿だ。
カネさえ払えば何をやってもいいと思ってる。
『個人の自由』が合言葉らしい。
結果、声がでかくて蔓延ってるのは、バカかオタクばかりだ。
何も作らず生み出さず、食い荒らし消費するばかり。
どいつもこいつも人の目を見て話をせずに何に大マジメにむきあってるかといやあ、
テレビの画面とPCの画面とゲームの画面と携帯の画面だ。
キモチ悪い。
それでも何かを見通し動き出そうという志のある人間、能力に長けた人間を、
手放しで崇拝して褒めそやかしたと思えば、てのひら返しでこきおろして揚げ足とって、
立ち直れないほどに、そして死なない程度にズタボロになぶる・・・ニヤニヤ薄ら笑いしながらね。
そういう国だと見切ってるもんだから、総理大臣ですら戦略として
アタマの悪いフリして、暴論をまくし立てて逃げ切ってしまう。
抗う側だって、本当の問題を的確に指摘してディベートに持ち込む力のある人間がいない。
『国家』なんてもの根づいてないんですよこの国に。
あらかじめズタボロになるのを回避したナイーヴな連中が、反体制だエコロジーだ自分探しだロハスだ、
あれやこれやと消費文化を乗り継いで、普通の言葉じゃ無力なもんだから言論テロみたいな事始めてみたり、
地獄も見ないうちから一足飛びにジョン・レノンにでもなったつもりでモノを言い始める。
そうやって先鋭化して・・・これまたバカとオタクの仲間入りだ。
最悪なのはそうやって一人一人がやらかしてる事の積み重ねが、
どれだけ世界の中で孤立を招いているか気づいてない事・・・
いや、気づいているのに誰も何もしてない事だ。
こんな国、一度滅んでしまった方がいい。

Re: 南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

投稿者: goodiapan48 投稿日時: 2007/02/23 09:53 投稿番号: [13606 / 29399]
あげぇっ!!!!!!!wwwwwwwwwwwwwwww

南京事件に至るまで〜18(南京特別市)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 08:55 投稿番号: [13605 / 29399]
南京特別区市は南京城壁内とその周辺地域からなる南京城区(西欧的都市計画仕様)は周囲に城壁を巡らした中に城あるいは城市と行政区として南京市に属する近郊県城(県も城壁によって囲われている)と村をあわせた近郊区からなる。

南京特別市の行政区には六合、江浦、江寧、りっすい、句容、高淳、の六県が含まれ、南京特別市の全面積は「日本の東京都と埼玉県、神奈川県を合わせた広さにほぼ匹敵」する。

南京の金陵大学社会学教授ルイス、S,Cスマイス氏の調査によれば当時1935年頃の近郊区の人口は高淳と六合県の半分を除いた四県半でも120万人〜135万人であり、南京城区は100万人の人口を抱える都であった。(笠原十九司氏著)

近郊農村区域の人口がこれほど多いのは、長江沿岸沿いのこの地域が昔から肥沃な米作地帯として栄えていたからである。

南京防衛軍がこの地に集結し、防御陣地で日本軍の侵攻を阻止しようとしたため、南京特別市区全域が南京攻略戦の戦場となったのであり、南京の虐殺事件もこの広域において発生している。

日本軍はこの南京戦区へ上海から取り囲む様に放射状に伸びた幹線道路6〜8路線を一路南京城を目指して進撃したのである。

道路沿いの村々や、周辺の村落、市場として栄えた鎮や県城が日本軍の攻撃と破壊、略奪、放火の標的とされ、中国人はその惨劇に巻き込まれていった。」

南京事件に至るまで〜19(りっすい県)に続く)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜18(南京市街概

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 08:53 投稿番号: [13604 / 29399]
ナンキン(南京)(エンカルタより)
現在のナンキン(南京)   中華人民共和国チアンスー省(江蘇省)南西部にある同省の省都。中国6大古都のひとつで、華東地区の経済、交通、文化の中心地。周辺は鍾山(紫金山)などの丘陵にかこまれ、北と南は長江に面する。古来、戦略上の要地として重視されてきた。夏は暑く、チョンチン(重慶)、ウーハン(武漢)とともに「中国3大カマド」と称されるが、おもな通りにはプラタナスの並木が2重、3重に生いしげり、道に日陰をつくっている。面積は6516km&sup2;(市区は976km&sup2;)。人口は522万人(市区は266万人、1995年)。
II 経済
石油化学、機械、エレクトロニクス、家電、自動車などの工業がとくに発達する総合工業都市として知られる。石油の加工能力は年間1000万tに達し、中国一を占める。揚子石油化学公司など大型コンビナートが長江の両岸にたちならぶ。南京自動車工場は、チャンチュン(長春)、シーイエン(十堰)につぐ重要な自動車生産基地となっている。特産品としては、1500年の歴史をもつ中国3大名錦のひとつで、模様に雲の多い緞子雲錦、アヒルの塩漬け南京板鴨などが有名である。

長江南部の交通、通信の要所としても重要な位置を占める。シャンハイ(上海)〜南京鉄道など3本の幹線鉄道が市内でまじわり、中国最大の内水港である南京港には2万5000トン級の船舶が停泊できる。北部の油田から南部の省や市に送油するパイプラインが市内をとおり、年間送油能力は1400万tに達する。また5万2000の商業施設、200をこえる貿易センターをもつ商都としてもさかえている。
III 観光と文化
国の歴史文化都市に指定された南京には、呉の孫権が212年にきずいた古い城壁シートウチョン(石頭城)、かつての南京城の正門だった中華門、南宋歓楽街の町並みを再現した夫子廟街、明の初代皇帝洪武帝(朱元璋)の陵墓である明孝陵、中国近代革命の父といわれる孫文がねむる中山陵、中国が独自に建設した南京長江大橋(長さ6772m)など数多くの観光名所がある。
南京大学をはじめ、48の大学、500をこえる研究機関がある中国有数の研究学園都市として知られる。中国最大の紫金山天文台は国際的にも有名である。

IV 歴史と対外開放
戦国時代、この一帯は金陵とよばれる小村にすぎなかった。「三国志」で知られる呉の孫権が都をおき、建業と名づけてから南京の歴史がはじまる。東晋以降は健康と名をあらため、宋、斉、梁、陳、南唐など多くの王朝の都がおかれた。1368年、元をほろぼした明は、この地に国都をたて、南京と命名した。明の朱元璋は20年の歳月をかけて周囲37km、高さ最高21mの巨大な城壁をきずいた。現在、日中が協力して「南京城壁保存修復事業」がおこなわれている。1421年に明が北京に遷都したのちも、南京は国都に準じる都市として重視された。

中国近代史の中で、南京はその中心舞台として名高い。太平天国のときには11年間(1853〜64)にわたって都がおかれ、天京とよばれた。1911年にはじまる辛亥革命では、孫文らが中心となって清朝をたおし、中華民国の臨時政府を南京に樹立した(1912)。27年には国民政府の所在地となり、特別市としてあつかわれる。日中戦争で南京にせめいった日本軍は大虐殺をおこない、市内は血の海と化した(1937)。49年、南京は人民解放軍によって解放された。→ 南京大虐殺

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kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜17

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 08:42 投稿番号: [13603 / 29399]
冷静な判断力をもった指導者ならば国民政府の重慶移転宣布(11月20日)により、すでに首都ではなくなった南京を短時日で攻略するほどの戦略的意味がないことは明白である。

結局は陸軍中央部内で「下克上」的に主導権を掌握しようとした拡大派の党派心と   南京占領=中国の屈伏の殊勲者という時代錯誤的な功名心にかられた中支那方面軍・第10軍の上級指揮官たちの野心とが相乗して、正式命令のないまま、南京攻略戦が開始強行されてしまったのである。

大規模な報道陣を送り込み、従軍記者に少なからぬ被害者を出しながら、「南京城に日章旗が翻るまで、、」という報道合戦を繰り広げ、国民の戦意高揚をはかったのである。

12月1日大本営は「中支那方面軍司令官は、海軍と共同して敵国首都南京を攻略すべし」(大陸命第8号)との南京攻略を下命し、中支那方面軍の独断専行を正式に追認した。

同時に松井石根を司令官とし、上海派遣軍と第10軍から編成される中支那方面軍の「戦闘序列」が正式に下命された。

翌日皇族の朝香宮鳩彦王中将が上海派遣軍司令官に任命され(7日着任)松井司令官は派遣軍と方面軍の兼任を解かれた。
が、
全軍の統括、統制するのに不可欠な兵站機関を持たない、正規の軍では無いことに変わりはなかったのである。

12月2日、蒋介石から駐華ドイツ大使トラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を伝えてきたが、南京陥落間近という興奮にかられた近衛内閣の閣僚たちは”日本側から要請した”にも関わらず、トラウトマン和平工作をないがしろにし、

広田弘毅外相は「犠牲を多く出したる今、かくのごとき軽易なる条件をもってしてはこれを容認しがたい。」と述べ、近衛首相は「大体、敗北者としての言辞無礼なり」と強行意見を述べている。

杉山陸将も「この度はひとまず、ドイツの斡旋を断りたい」と申し出た。

近衛内閣は、日中戦争の停戦、和平の実現を目指したトラウトマン和平交渉を棚上げにしてしまい、戦局収拾の可能性を自ら絶ってしまったのである。

「あきれ果てる大臣どもである、、もう行き着くところまで行って目がさめるより他、致し方なし。日本は本当に国難にぶつからなければ救われないだろう」と石射猪太郎は日記に記す。

南京事件に至るまで〜18(県城と村で始まった虐殺)につづく)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜16(南京攻略3

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 08:41 投稿番号: [13602 / 29399]
大本営の正式命令もないまま、参謀本部の統制に反する形で、中支那方面軍司令部が独断専行で発動した南京侵攻作戦は方面軍の進撃が停滞した場合には、南京攻略に反対である多田参謀次長らに前進停止を命ぜられる可能性があったため、それを回避する、
かつ
進撃を軍中央に追認させるためには南京進撃を成功させ、方面軍の南京攻撃の態勢が可能であった事を戦果で誇示する必要があった。

武藤章参謀副長は疲弊した上海派遣軍を挑発し第10軍と「南京一番乗り」を 競わせるよう、11月26日第16師団参謀長中沢三夫大佐に書簡を送った。

「貴師団は上陸以来天候、地形の不良なる結果、未だ十分に師団の真価を発揮せらるるの機会なく、誠にお気の毒に存じ候、
同じく北支より転用されたる第6師団は武運に恵まれ先般、赫赫たる戦功をたてられたるを思い、ますます、その感を深くし申し候、
派遣軍の無錫付近の戦闘ぶりより見れば常州占領は何時のことやらと、焦心致し候、、、、、(中略)
現在の態勢をもって守備に移るがごときは皇軍の威武を内外に顕揚するゆえんとは断じて考えられず候、

もし、戦況の進展思わしからざるにおいては、中央部より前進停止を命ぜられるるの処あり。
この点もお含み願い上げ候。」(第16師団関係資料)

南京攻略を承認させていない状況のもとで、上海戦で疲弊しきった第16師団を南京進撃へとけしかけたのである。
およそ、近代戦においては、大部隊は前線と後方の兵站部隊(食料、弾薬その他、補給部隊)とで編成され、

戦闘部隊は後方兵站部隊からの食料、軍事物資の補給を受けながら、前進していくものである。
従って、兵站部が補給可能な位置まで接近してから戦闘部隊は前進するのが常識的な作戦である。

ところが中支那方面軍の独断専行で開始された南京攻略戦ではこの作戦常識が無視された。

そのため、中支那方面軍は糧秣(食料、軍馬の飼料)のほとんどを現地で徴発するという「現地調達主義」をとった。

これは「糧食を敵中に求む」「糧食を敵による」という戦法であり、通過地域の住民から食料を奪って食べるということである。

また、軍の上官たちは性的蛮行を「兵の元気をつくるに必要」「「中国女性を征服し、力づくで女をモノにする」という婦女陵辱行為を戦場の役得と黙認する風潮があった。
(国府台陸軍病院附軍医早尾逓雄中尉「戦場における特殊現象と対策」)

南京事件に至るまで〜17(南京波状進軍1)に続く


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜15(南京攻略3

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 08:39 投稿番号: [13601 / 29399]
軍規頽廃した上海派遣軍を南京攻略に動員するのは無理と判断し、再建の方策として予備役、後備役兵の早期招集解除と国内帰還、将校、下士官の短期再教育の徹底を痛感、考慮している最中の11月20日参謀本部に第10軍から

「集団は19日朝、全力をもって南京に向かって追撃を命令」という報告が届いた。

参謀本部次長多田駿中将(石原完爾派)は非常に驚き、急を要するので直ちに中止せよ、制令線から後退させよ、と指示を出した。

拡大派の下村第1部長は内心は南京追撃論であったので、本問題は中支方面軍の統帥に任せるべきであると意見を述べた。しかし、多田次長の強い意見に従い、20日夕方、中支方面軍参謀長あてに

「第」10軍の南京追撃は臨命第600号(作戦地区)指示の範囲を免脱している」と打電した。

前後するが、これより先、11月15日第10軍は軍司令官柳川平助中将臨席のもと
に幕僚会議を開き、軍主力をもって独断南京追撃を敢行することをすでに、決定していた。

制令線を設定して奥地に侵攻することを禁じた軍中央の対する、明らかな命令違反である。

11月24日第10軍に続いて、今度は中支那方面軍から「事変解決を速やかならしむる為、現在の敵の頽勢に乗じ、南京を攻略するを要す」とう意見書が参謀本部に届いた。

下村第1部長は多田参謀次長を説得し、中支那方面軍の作戦地域を制限している制令線の撤去を指示した。(大陸指第5号)

それでも多田参謀次長は戦線拡大を深く憂慮し、中支那方面軍参謀に「南京方面へは進撃しないように」電報を打っている。

11月20日天皇に直属する最高戦争指導機関である大本営が設置され、24日には天皇臨席のもとに、参謀本部、陸軍省、軍令部、海軍省の最高首脳が出席して第一回大本営御前会議が開かれた。

同会議では参謀本部の下村第一部長の中支那方面軍の作戦計画について参謀本部で起案した原稿を読むかたちで次のように説明している。

「この軍(中支那方面軍)は上海付近の敵を掃滅するを任務とし、かつ同地を南京方面より孤立せしむることを主眼として編組されております関係上、その推進力には相当制限がございます

のみならず、目下その前線部隊はその輜重はもとより、砲兵のごとき戦列部隊すらなお遠く後方にあるものすくなくございません。

従って一挙直ちに南京に到達し得べしとは考えておりませぬ」、以上は前線からの報告に基づき、

中支那方面軍の現状では南京攻略は無理である事を述べたもので、多田参謀次長の承認を得たものであった。が、下村部長は多田参謀次長に無断で原稿にない事を発言したものである。

「この場合中支那方面軍その航空隊をもって海軍航空兵力と協力して南京その他の要地を爆撃し、かつ絶えず、進撃の気勢をしめして敵の戦意を消磨せしむることと存じます。統帥部といたしましては、今後の状況いかんにより該方面軍をして新たなる準備態勢を整え、南京、その他を攻撃せしむる事をも考慮しております」(下村定大将回応答録)

下村部長の発言から海軍航空隊の南京爆撃が陸軍の南京攻略の前哨戦の意味を示すものでることが露呈されている。

下村作戦部長と中支那方面軍司令部とが共謀して参謀本部と命令系統を無視して南京攻略作戦を「下克上」的に進めたのである。

南京事件に至るまで〜16へ


kinngyoya301氏の投稿より引用
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