南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

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南京事件に至るまで〜29(唐生智)

投稿者: kinngyoya301 投稿日時: 2004/09/28 06:38 投稿番号: [6201 / 29399]
南京事件に至るまで〜29(唐生智)

南京死守を決定するも、南京防衛軍の司令官の人選にいたり、高級幕僚に応ずる者がなく、名乗りでたのは、軍事委員会常務委員の唐生智であった。

唐生智は地方軍の湖南軍の軍官出身で、過去に2度ほど反蒋介石戦争に参加したこともあり、国民政府内では非主流派の属し、かなりの冷や飯を喰わされていた。

政府、軍内に確固たる基盤も無い。その唐生智が国防会議で他の誰も蒋介石の南京固守作戦を支持しなかったのを見て、生来の野心と功名心から南京防衛軍司令官に名乗りを上げたのである。

南京防衛軍司令官唐生智と中支那方面軍司令官松井石根とは侵略側と防衛側でありながら、司令官としては互いに

1,航空機、軍艦、戦車まで投入した近代兵器と大部隊による大都市の攻防戦を指揮する経験と実力に欠けていた。

2,唐生智は日本軍の包囲殲滅作戦を予想だにしなかった、松井は中国の抗戦力を軽視し、南京占領と国民政府の降伏を安易に考えていた。

3.唐生智は閑職にあり、松井は現役大将を退いた予備役であり、野心と功名心だけは人一倍強かった。

4.二人とも配下の師団長、師長クラスの高級将校の尊敬を得ていず、司令官としての実力、権威を備えてはいなかった。

5.二人とも病弱であった。唐生智は司令長官部を自分の官邸におき、全軍の指揮の支障をきたす。松井は野戦司令部で病臥することが多く、南京戦中の12月5日から15日まで司令部に病臥、滞留していた。

状況把握は勿論の事、統制指揮の出来ない様であった。

蒋介石は当初南京防衛軍を約7万人配備を計画したが、南京に迫り来る日本軍の予想外の早さと中支那方面軍そのものが数次にわたる増員部隊で雪だるま式に増え続け、総勢20万人規模近くまで増強されていく状況に動揺し、

危機感を募らせ、蒋介石はブリュセル会議が結局は対日制裁を決定しなかったために、次はトラウトマン和平工作に期待し、日本側の提示した和平条件の受け入れ用意をトラウトマンに伝えるとともに、日本との停戦、和平を実現するためにも、南京の早期陥落を阻止することが不可欠と考えていた。

蒋介石はまた、南京防衛を2〜3ヶ月持ちこたえれば、国際情勢も大きく変化して中国の危機は回避されると、漠然とした期待感もあったのである。

そこで、蒋介石は南京近郊区に軍隊を急増派動、配備したが、将兵の過半を失った部隊が多かったので急遽、農村から水増し的に大量に青年、壮年を徴用した。

兵役制度がなかったため、徴用された新兵は武器の使用方法も知らず、組織的作戦の遂行など出来ず指揮官が居なくなると部隊の指揮系統がいったん崩れればあとは烏合の衆にすぎない存在となりかねない状況であった。

南京虐殺事件ではこうした新兵の大部分が犠牲となった。

この段階で南京防衛軍の総数は前線部隊、後方部隊、雑兵、軍夫をあわせて約15万に達している。

この15万兵士に対して、陸から総勢20万人近くの日本軍が波状進軍の形で包囲し、空からは支那方面艦隊(長谷川司令長官)航空部隊の第一空襲部隊(指揮官三竝貞三少将、第二連合航空隊と第一連合航空隊上海派遣隊で編成)が南京に向かって両岸の要塞、砲台を攻撃しながら進撃を始めた。

中支那方面軍と支那方面艦隊の南京包囲網の中には南京防衛軍の他、近郊区の100万人以上の住民と難民、南京城区内には40〜50万人の市民および難民が居住していた、あるいは避難していた、のである。、

南京事件に至るまで〜30(蒋介石の脱出)
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