南京事件に至るまで〜20(牧原日記)
投稿者: kinngyoya301 投稿日時: 2004/09/04 21:11 投稿番号: [5996 / 29399]
歩兵第20連隊の牧原信夫上等兵が書き残した日記より、、句容に至る前の部分より
11月22日
道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見づらい様子で伸びていたのも可愛相である。
橋のたもと付近には5〜6個の支那軍の死体が焼かれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校が試し斬りをやったそうである。
11月26日午後4時
第二大隊は喚声をあげ、勇ましく敵陣に突撃し、敵第一戦を奪取、住民は家を焼かれ、逃げるに道なく、失神状態で右往左往していのも全く可愛そうだがしかたがない。午後6時完全に占領する。
7時道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃討が行われた。
自分たちが休憩している場所に4名の敗残兵がぼやっと現れたので、早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃し、あと3名は捕らえた。兵隊たちは早速2名をエンピ(小型シャベル)や十字鍬で叩き殺し、一名は本部に連行、通訳が調べた後、銃殺した。
8時半、宿舎に着く、三小隊はさっそく豚を殺していた。全く素早くやるのには恐れ入った。
11月27日
支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵を殴り殺す。
支那人2名をつれて、11時州発す、、、鉄道線路上を前進す、休憩中に5〜6軒の藁葺きの家を焼いた。炎は高く上がり、気持ちがせいせいした。
11月28日
午前11時大隊長の命令により、下野班長以下6名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く、その前にある橋梁に来たときに橋本与一は舟で逃げる5〜6名を発見、照準をつけ、一名を射殺、掃討はこのときから始まった。
自分たちが前進するにつれ、支那人の若い者が先を争って逃げていく、何の為に逃げるのか分からないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。
部落の12〜13軒に付け火すると、たちまち火は村を包み、全くの火の海である。老人が2〜3人にて可愛そうだったが、命令だから仕方がない。次、次と3部落を全焼さす。その上5,6名を射殺する。意気揚々とあがる。
11月29日
途中の部落を全部掃討し、また、舟にて逃げる2名の敗残兵を射殺し、あるいは火をつけ部落を焼き払って前進する。
呂城の部落に入ったおり、すぐに徴発に一家屋に入ったところ3名の義勇兵らしき者を発見。二名はクリークに蹴落とし、射殺する。一名は大隊本部に連行し手渡す。
12月4日
昨夜は大変に寒くて困った。2〜3日は滞在の予定だというので、今度こそは一服だと言うことで早速、徴発にでる。
自分は炊事当番で岡山、関本とともに昼食を準備する。
徴発隊は鶏、白菜などを持って帰り、家の豚も殺して昼食は豚汁である。
正午すぎ、移転準備の命令があり、大騒ぎ、結局、中止となりよかった。各自焼き鳥、焼き肉、をやってたらふく食う。午後2時命令があり、連隊は南京街道を南京に向かって進撃することとなった。クーリー( 苦力)も重い荷物を背負ってよくもついてきたものだと感心した。
12月5日
午前8時準備万端終わり、同部落を出発する。出発するときはもはや、全村火の海である。
南京に近いのだろう。一軒家に乾し芋が目についた、我先にと、瞬く間に取り尽くした。
(京都師団関係資料集)
南京事件に至るまで〜21(高淳県)へ
11月22日
道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見づらい様子で伸びていたのも可愛相である。
橋のたもと付近には5〜6個の支那軍の死体が焼かれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校が試し斬りをやったそうである。
11月26日午後4時
第二大隊は喚声をあげ、勇ましく敵陣に突撃し、敵第一戦を奪取、住民は家を焼かれ、逃げるに道なく、失神状態で右往左往していのも全く可愛そうだがしかたがない。午後6時完全に占領する。
7時道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃討が行われた。
自分たちが休憩している場所に4名の敗残兵がぼやっと現れたので、早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃し、あと3名は捕らえた。兵隊たちは早速2名をエンピ(小型シャベル)や十字鍬で叩き殺し、一名は本部に連行、通訳が調べた後、銃殺した。
8時半、宿舎に着く、三小隊はさっそく豚を殺していた。全く素早くやるのには恐れ入った。
11月27日
支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵を殴り殺す。
支那人2名をつれて、11時州発す、、、鉄道線路上を前進す、休憩中に5〜6軒の藁葺きの家を焼いた。炎は高く上がり、気持ちがせいせいした。
11月28日
午前11時大隊長の命令により、下野班長以下6名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く、その前にある橋梁に来たときに橋本与一は舟で逃げる5〜6名を発見、照準をつけ、一名を射殺、掃討はこのときから始まった。
自分たちが前進するにつれ、支那人の若い者が先を争って逃げていく、何の為に逃げるのか分からないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。
部落の12〜13軒に付け火すると、たちまち火は村を包み、全くの火の海である。老人が2〜3人にて可愛そうだったが、命令だから仕方がない。次、次と3部落を全焼さす。その上5,6名を射殺する。意気揚々とあがる。
11月29日
途中の部落を全部掃討し、また、舟にて逃げる2名の敗残兵を射殺し、あるいは火をつけ部落を焼き払って前進する。
呂城の部落に入ったおり、すぐに徴発に一家屋に入ったところ3名の義勇兵らしき者を発見。二名はクリークに蹴落とし、射殺する。一名は大隊本部に連行し手渡す。
12月4日
昨夜は大変に寒くて困った。2〜3日は滞在の予定だというので、今度こそは一服だと言うことで早速、徴発にでる。
自分は炊事当番で岡山、関本とともに昼食を準備する。
徴発隊は鶏、白菜などを持って帰り、家の豚も殺して昼食は豚汁である。
正午すぎ、移転準備の命令があり、大騒ぎ、結局、中止となりよかった。各自焼き鳥、焼き肉、をやってたらふく食う。午後2時命令があり、連隊は南京街道を南京に向かって進撃することとなった。クーリー( 苦力)も重い荷物を背負ってよくもついてきたものだと感心した。
12月5日
午前8時準備万端終わり、同部落を出発する。出発するときはもはや、全村火の海である。
南京に近いのだろう。一軒家に乾し芋が目についた、我先にと、瞬く間に取り尽くした。
(京都師団関係資料集)
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