南京事件に至るまで〜28(南京陥落1)
投稿者: kinngyoya301 投稿日時: 2004/09/24 21:07 投稿番号: [6135 / 29399]
南京事件に至るまで〜28(南京陥落01)
中支那方面軍の第10軍と上海派遣軍が独断で奥地への侵攻を禁じた制令戦を突破して南京へ進撃を開始した頃、
国民党政府軍事委員会(委員長
蒋介石)は南京で最高国防会議を開き(11月15日〜18日)国民政府の重慶への遷都を決定するとともに南京防衛戦の方針を決定した。
南京防衛のあり方については、他の高級幕僚との間に対立が生じ、3ヶ月に渡った上海防衛戦に蒋介石は国民政府軍の総兵力の3分の2にあたる約70万人の兵力を投入し、しかも精鋭部隊の殆どをつぎ込み、その結果、戦死者も25万人前後と言われるほど膨大な数になっていた。
中国軍が被った損害の大きさからも、首都南京を防衛しきれないことは明らかであり、首都を四川省重慶に移し、長期抗戦の態勢を整える事については会議参加者の異論はなかった。
*名目的な抵抗にとどめ、後は自発的に撤退するという作戦と、
*首都南京を少なくとも一定の期間は死守する作戦の
どちらを採択するかで、対立していた。
前者は軍事委員会参謀の何応欽、同参謀の白崇禧、軍令部長徐永昌ら多くの幕僚の意見であった。
上海戦以後は日本軍に対する持久戦を原則とし、一都市の得失を争うべきではなく、上海で喪失した中国軍の戦闘力を回復するには相当の期間にわたって後方で軍隊を補充、訓練する必要がある、
南京は防衛困難な地形であるなどが主な理由であった、
が、
これに対して、後者を主張してゆずらないのが軍事委員長の蒋介石であった。
南京は中国の首都であり、世界の注目をあびている。南京には国父孫文の墓がある(陵墓)敵の手に汚させてはならない、と言うのが主な理由であった。
蒋介石が短期固守に固執したのは折から、進展を見せていたトラウトマン和平工作に強い期待を寄せ、さらにベルギーで開催中のブリュセル会議で対日制裁措置が決定されることも期待していたからであろう。
欧米列強から抗戦中国への武器、財政援助さらに侵略国日本に対する軍事、経済的制裁や軍事干渉を引き出すためには、中国の抗日戦力を海外に示さなければならないというのが蒋介石の一貫した抗日作戦であった。
国防会議の最後の晩に蒋介石は多くの幕僚の反対を押し切って、
南京死守作戦を決定した。
南京事件に至るまで〜29(唐生智)
これは メッセージ 6099 (kinngyoya301 さん)への返信です.
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