入って中国人に南京事件真相議論しましょう
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
12月17日 松本重治氏の南京行
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/12 18:33 投稿番号: [1000 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
245〜246p
《 私は、スウェター二枚の上に、 「同盟」
本社が送ってよこした冬用の従軍服を
着用し、リュックに身廻り道具をぶち込み、ジョン・ケジックが贈ってくれた
ホワイト・ホースの小壜も忘れずに持って、約束の時間に北停車場に行った。
探堀報導部長は、この夏ごろ着任して以来、幾度か私ら記者たちと語り合ったり、
いっしょに前線の視察に行ったりした、気の置けぬ人柄であった。
彼は九州の殿様の末裔とのことで、小さな深堀城址がまだ熊本か長崎の附近にあると
聞いたが、何となくおっとりしており、親切な、かつユーモアたっぷりの人物でもあった。
車中で、隣席にいた若い軍医が
「上仲軍医中尉です」
と自己紹介する。
友人捕松佐美大郎の夫人のふきさんの弟で、
聖路加病院勤務中であったのを徴用されたという人であった。
名前を聞けば、以前にも、東京で、一、二度だけ会ったことのある人だが、
戦地では、友人知人と会うと、とくに人懐こく感ぜられるのは、
私ばかりではないだろうと思った。
深堀中佐が、私のため、缶詰類や、その他の食料品を車中に持ち込んでくれたので、
私もホワイト・ホースを出して、お互いに飲みながら、四方山
(よもやま)
の
雑談で愉しく時を過した。
夜になると車中はひどく寒いので、毛布を六枚ももらって寝た。
汽車はときどき停車したり、またゆっくりと走り出したりするわけで、
翌十八日朝、南京に着いた。
「同盟」
の従軍記者が、あらゆる苦労をしてきたのに、私らの場合は、
当時の情況からみれば全くの大名旅行であって、相済まんと思った。
着く前に、今日は陸海軍の合同慰霊祭があると探堀中佐が知らせてくれたので、
「ぜひ特別に参列させてもらいたい」
と申し込んだ。
松井最高司令官の顔も見たかったからであった。》
*
松本氏は汽車で行ったと言うが、この時期汽車でいくのは無理だった。
汽車の開通は鎮江のトンネルが不通のため12月22日からで、
入城式、慰霊祭参列の人々は、海軍艦艇に便乗して下関から上陸している。
(板倉由明著
『本当はこうだった南京事件』
303pより)
だから、この話は2月のできごとの記憶違いとなる。
これは メッセージ 992 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1000.html
12月17日 司令部の移動と和平案改訂会議
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/11 18:38 投稿番号: [999 / 2250]
★
司令部の移動
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
431p
《 方面軍司令部は十二月十七日、南京に移動した。》
★
和平案改訂会議
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
《 463p
十七日にも
(大本営政府)
連絡会議が開かれ、
広田外相から一部の条件緩和について提案があったが、採択されなかった。
十七日午後、定例閣議が開かれ、
和平工作の経緯、独大使に対する回答案が審議された。
連絡会議に参加しなかった閣僚は、本案は軟弱であるとして反対した。
・・・
464p
注
当時、文相であった木戸幸一の覚書によれば
「十七日の閣議に出席し、提案された和平条件案をみると、
あまりにも詳細なので、これをそのまま相手方に示すことは、
逆用され暴露されるおそれがあると述べたのが契機となり
種々の論議に発展した。・・・」》
これは メッセージ 988 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/999.html
12月17日ラーベの日記3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/10 15:35 投稿番号: [998 / 2250]
《 軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている。
きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。
日本兵たちは町をかたづけはじめた。
山西路広場から軍政部までは道はすっかりきれいになっている。
死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。
午後六時、庭にいる難民たちに莚
(むしろ)
を六十枚持っていった。
みな大喜びだった。日本兵が四人、またしても塀をよじ登って入ってきた。
三人はすぐにとっつかまえて追い返した。
四人目は難民の間をぬって正門へやってきたところをつかまえ、
丁重に出口までお送りした。やつらは外へでたとたん、駆け出した。
ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。
アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは、 「ドイツ人だぞ!」
あるいは
「ヒトラー!」
と叫ぶだけでよかった。
すると日本兵はおとなしくなるからだ。
きょう、日本大使館に抗議の手紙を出した。
それを読んだ福井淳
(きよし)
書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。
いずれにせよ福井氏はさっそくこの書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。
私、スマイス、福井氏の三人が日本大使館で話し合っていると、
リッグズが呼びに来て、すぐ本部に戻るようにとのこと。
行ってみると、福田氏が待っていた。
発電所の復旧について話したいという。私は上海に電報を打った。
ジーメンス・中国本社
御中。上海市南京路二四四号。
「日本当局は当地の発電所の復旧に関し、ドイツ人技術者をさしむけてほしいとのこと。
戦闘による設備の損傷はない模様。回答は日本当局を介してお願いしたい」
ラーベ
日本軍は本当はわれわれの委員会を認めたくはないのだが、ここはひとつ、
円満にことを運んでおく方がいいということだけはわかっているようだ。
私は最高司令官に、次のようにことづけた。
「『市長』 の地位にはうんざりしており、喜んで辞任したいと思っています」
*
公用以外は日本兵の外出が禁止されているのに、なぜラーベの家に出没できる。
第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏は
私達は十二月十五日、南京に入城し、支那軍の兵営に分宿し、
各隊は衛兵を立て兵の外出を禁止したので、公用の将校以外は、
各個に外出した兵はない。
(富士信夫著
『「南京大虐殺」はこうして作られた』
210p)
と証言している。
それに停電しているから、夜は真っ暗、南京に不案内な日本兵は、
ウロウロしたら道が判らなくなって帰れなくなるだろう。
そんな事になったら、便衣兵に虐殺される。危なくてウロつけない。
それに、翌日は慰霊祭、その次の日より、南京を去らなければならな
い。
その準備があるので、悪さをしている暇はないのだが。
こういう犯罪が出来るのは、南京を知り尽している者では?
例えば、中国人とか。
これは メッセージ 997 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/998.html
12月17日ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/09 16:29 投稿番号: [997 / 2250]
《 きのう、岡崎総領事から、難民はできるだけ早く安全区を出て家へ戻り、
店を開くように、との指示があった。 店?
店なんかとっくに開いてるじゃないか。
こじ開けられ、ものをとられていない店なんかないんだからな。
驚いたことに、ドイツ大使トラウトマンの家は無事だった。
クレーガーといっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。
なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。
きのう日本軍将校数人とホテルにいたとき、日本兵に盗まれたものだ。
クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。
ついに、中に乗っていた日本兵は、“We friend … you go !”(俺たち友達ね
……さあ行けよ!) と言って返してよこしたのだった。
このときの日本兵は午後にまたやって来て、私の留守をいいことに、
今度はローレンツの車を持っていってしまった。 私は韓に言った。
「『お客』
を追っ払えないときには、せめて受け取りをもらっておくように」
すると、韓は本当にもらっておいたのだ。
“I thank your present! Nippon army K.Sato.”
(プレゼントどうも!
日本軍、K・サトウ)
ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!
*
韓は受け取りをもらっているが、彼は日本語ができたのか?
学のない日本人は英語ができない。かつ日本人は英語を文法から習う。
しかしてこの英語は文法通りではない。
学校で習った英語なら 、We friend
でなく、We
are
friends となる筈。
また、車を返すときは、「さあ行けよ」
ではなく「さあ、持って行けよ」
に相当する英語を使うはず。
それでいて、受け取りの日付だけは、完璧な欧米スタイルになっている。
17/12/37
と。
学のない日本人には、思いつかない、日付の表記法。
こういうのは、学のある日本人にしかできないが、
そういう者は、こんな雑な英語を使わない。
この、英語は、普段、英語を使う外国人に接していて、
耳で聞いて覚えた人間の使う英語にみえる。
上海や南京で、外国人と常に接している、中国人のような。
かつ、日本兵で車を運転できるものはほとんどいない。
今のように、猫も杓子も車を転がす時代ではない。
日本で、商店で車を運転していたとしても、将校の運転手用か、輜重隊に
採用されるから、こんなところで悪さしている暇はない。
この男は、本当に、日本人なのか?
これは メッセージ 995 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/997.html
「ラーべの日記」について
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/10/08 16:20 投稿番号: [996 / 2250]
Wikipediaより
ベルリンの失意時代に書かれたラーベの日記は、のち1996年に孫および当時ラーベ家の食客であったエルヴィン・ヴィッケルト(de:Erwin Wickert 元ドイツ中国大使)によって出版された。英語、中国語、及び平野卿子によって日本語に翻訳されている(後述)[4]。
また、一般的にこの日記は日本軍の南京における残虐行為を証言する内容を含むと誤解されているが、実際には中国人の間に日本軍による虐殺の噂があること、安全区において5件の殺人事件の通報があったことを伝えているだけで、ラーベ自身は1件の殺人も残虐行為も目撃・証言してはいない。さらに、日記では日本軍に対する告発のほかにも、難民が避難している安全区に砲台を設けたり、安全区内の空家に潜伏し、放火や掠奪行為を行う中国兵、市民を置いて逃亡した蒋介石政府と唐生智将軍など、中国側にとっても辛辣な記述があり、ラーベ自身も「ここはアジアなのだ!」と記している。また文中には反ユダヤ的な言動がいくつか見られ、ラーベが帝政時代に多かった反ユダヤ主義者であったこともわかる。
日本語訳への批判 [編集]平野卿子訳による「ジョン•ラーベの日記(邦題:『南京の真実』)」(講談社,1997)について、日独平和フォーラムベルリン代表の一人である梶村太一郎は、多数の誤訳や内容の改竄・捏造について指摘し、「原書とは似ても似つかぬ通俗な“歴史読物”になってしまっている」として批判している[5]。
梶村は、日本語訳本の帯にエルヴィン・ヴィッケルトの言葉として引用された「南京のシンドラー」という表現について、ヴィッケルト自身は「ラーベは“南京のシンドラー”ではない」と原著に書いているのに、「なぜか原書と正反対にされている」と指摘したうえで[6]、さらに原著における「ラーベは“南京のシンドラー”ではない」という文章[7]が翻訳では「抄訳」という形で削除されている、と指摘している[8]。
さらに、訳書を校閲・解説した横山宏章による「『中国のシンドラー』と呼ばれるのも当然」という発言[9]に対して、「なぜ姑息な隠蔽で原書と異なる人物像を宜伝するのか。(…)もし映画で有名なシンドラーにあやかる商業主義によるのであれば、学者として恥ずかしくはないのだろうか?」として批判した。
ほか、同訳書には、ユダヤ人、日本軍関係について原著にはない表現が加筆されたりしており、原書の持つ史料としての価値は「完全に失われ」ているとして批判した[10]。
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/996.html
12月17日ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/08 15:23 投稿番号: [995 / 2250]
《 二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。 私が出ていくと
「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」
とかなんとか言い訳した。
ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。
塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。
このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。
運良く救急車を呼ぶことができ、鼓楼病院へ運んだ。
・・・
アメリカ人のだれかがこんなふうに言った。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」
当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。
金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。
いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。
見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。
仲間のハッツがひとりの日本兵と争いになった。
その日本兵は銃剣を抜いたが、
アッパーカットを食らい、吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。
そして完全武装した二人の仲間といっしょに逃げていった。
*
《 私が出ていくと
「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」
とかなんとか言い訳した。》
はて、ラーベはその日本兵と何語で会話したのか?
普通の日本兵は学がなく、英語もドイツ語も話せない。もちろん中国語も。
*
ハッツにアッパーカットを食らって逃げ出す、情けない日本兵と、
伝聞の
「残忍・非道」
の日本兵とが合わない事に気が付かないのかなー。
*
実に不思議な話だ。本日は入場式。
松井大将や朝香宮殿下・長谷川中将などが参列して、式典が行われている最中に、
式典から外れた区域で悪行三昧をやらかす日本兵がいるとは。
最近は式典をぶち壊す、不埒な日本人が増えているが、
昭和45年頃までは、まだ、いなかった。
これらの
“日本兵”
は本当に日本人なのだろうか?
児島襄著
『日中戦争4』
240p
《 第十軍、上海派遣軍の主力は、その
(慰霊祭)
直後に次期作戦のために
南京退去が指示されているので、その用意にも繁忙であった。》
*
兵隊は、式典の参加・警備だけでなく、移動の準備もしなければならないので、
悪さなどしている暇はないのだが?
これは メッセージ 990 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/995.html
12月17日 松井大将と柳川中将の喧嘩
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/07 18:36 投稿番号: [994 / 2250]
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
139〜140p
《 この入城式典直後のことである。
首都飯店の方面軍司令官室で、松井と柳川との大喧嘩が起きた。
柳川平助は参謀長の田辺と二人だった。 松井司令官室で二人だけの話となると、
田辺はとなりの角良晴副官室でようすをうかがっている。そのとき、
となりの松井の部屋で、突然、松井にしては珍しく大声で怒鳴る声が聞こえた。
二人のようすが変なので、田辺は角副官に、 「なんとかしてくれ」
と心配そうに言う。
角は、日ごろから、柳川平助の、方面軍司令官を無視した行動といい、
直接東京の下村定第一部長と連絡して南京攻撃に出たことといい、
腹にすえかねていたことも多く、松井の気持ちがよく分かっていた。
田辺の慌てぶりに、女房役の角は、 「弱い参謀長殿だな」
と思いながら、
「大将と中将です。二人が取っ組み合いのケンカをするはずもないし、
軍政の根本問題ですから、しばらくやらしておきましょう」
と言って、ほっとくことにした。
このとき角が耳にした松井の声とは、
「支那のことは支那人にまかせ、日本軍はオブザーバーになれ」
だった。
これに対し柳川平助は、 「皇軍が血を流して取ったところである。
日本みずから、軍政を敷いてやるのが当然である」
と反論した。
この二人の激論から、占領後の南京をめぐり、軍政を敷くという柳川と、
中国人の自治体づくりによる政権、国際的視野を広げることとする松井との、
対立だったことが推測できる。
大激論がひとまずおさまった頃合いを見て、角はコーヒーを持って入った。
すると、二人とも黙り込んでいた。
角はそのとき、 「話し合いは決裂だな」
と直感した。
このときの会談は、柳川の方から申告されていて、
それに対して松井方面軍司令官が持論を曲げずに、柳川を説き伏せた形である。
頭ごしの
「軍政」
と
「中国人の自治政権」
との意見の相違だった。》
これは メッセージ 993 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/994.html
12月17日 南京入城式
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/06 18:36 投稿番号: [993 / 2250]
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
137〜139p
《 方面軍司令官と幕僚たちは、午後十二時半に自動車が湯水鎮の臨時方面軍司令部を
発った。一時二十五分、つまり五分前には中山門の外に到着。
派遣軍、第十軍司令官及び幕僚たちに出迎えられる。
一時半きっかりに、用意されていた馬に乗馬した。
中山門は戦禍で崩れかかっている。その門をくぐると、中山東路の右側 (北) に
上海派遣軍、左側 (南) に第十軍の各師団の兵が整列している。
上海派遣の兵は背嚢
(はいのう)
を負った完全重装備。
第十軍の兵たちは外套を左肩から右脇に斜めにかけ、背嚢に水筒という略式の軽武装。
この中山門から国民政府庁舎近くまで約三キロに及ぶ。
上空には海軍の荒鷲六十機が編隊を組み、紫金山の山頂をかすめて
式場の上空を旋回しながら警戒した。陸上ではラッパが鳴り渡る。
先頭に松井石根、その後方の右に上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王殿下、後方左に
第十軍司令官柳川平助中将。各司令官のあとにそれぞれの師団長、幕僚がつづいた。
同じ時刻、ユウ江門からは海軍の入城が始まる。
海軍は長谷川清支那方面艦隊司令長官を先頭に、大川内伝七上海海軍特別陸戦隊司令官、
近藤英次郎第十一戦隊司令官がつづいた。そして中央広場から国民政府にいたる
中山路に堵列した陸戦隊を閲兵のあと、国民政府内の陸軍と相会する。
元毎日新聞写真記者の佐藤振寿は上海戦から南京戦まで従軍し、
十二月十七日の入城式も写真にとり、文章で書き残した。
彼は陸・海両軍が国民政府内で合流したあとの模様を、つぎのように記している。
「やがて、君が代のラッパ吹奏のうちに、国民政府正門上に大きな日章旗が掲げられた。
(後略)」
・・・
松井が
(東方)
遥拝のあと、万歳三唱を発声した。最初の万歳は声に出た。
しかし、二度目はこみ上げるものがあり、声に出なかった。やっと三度めが声になった。
第三十旅団長の佐々木到一少将は、会場の国民政府の中庭に集合した一人で、
松井司令官のすぐ前に立っていた。
彼は、万歳三唱のあとの松井の挨拶を、眼の前で聞いている。
「大元帥陛下の御稜威
(みいつ)
によりまして、わが派遣軍は赫々
(かっかく)
の
戦果を収めここに……」
と挨拶したとき、松井の声がつまったのを見た。
松井は、泣いていたのである。
佐々木はこう記している。
「このとき、軍司令官の痩せた頻に、一すじの糸を引いたのを見た。
予は正面列中にいたので、老大将の胸中の動きを、明らかにその顔面神経に
看取することができたのである。だれがこの無限の感慨に心を動かさぬ者があろう。
(中略)
冷酒乾盃。吾らの軍司令官殿下も、
この日とくに御機嫌麗
(うるわ)
かにあらせらるるのを見上げた」
この遥拝式が終わると、師団長以上の撮影。
その後、各隊長以上を一室に集めて、角良晴が運ばせた冷酒で乾盃する。
最後は長谷川長官の
「大元帥陛下万歳」
の三唱で、入城式典を終わる。》
これは メッセージ 991 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/993.html
12月16日 松本重治氏南京行へ誘われる
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/05 18:40 投稿番号: [992 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
245p
《 南京は昭和十二年
(一九三七年)
十二月十三日夕刻完全に陥落し、
十七日
「中支那方面軍」
は、松井最高指揮官を先頭に、
各部隊長幕僚らや選抜部隊が正式の入城式を行った。
その前日、軍報導部長深堀
(游亀)
中佐が、私を電話で呼び出し、
「十七日から、上海−南京間の鉄道は、途中でトラックに乗り換える必要も
あるかも知れぬが、とにかく曲りなりに修復されたので、
一度、占領後の南京をいっしょに見に行かないか」
との招待があった。
十七日午後から汽車に乗り込み、十八日朝南京到着の予定も知らされてきた。
それで、私は、前線に従軍した
「同盟」
の同僚たちにも会えるので、
「いっしょに行きましょう」
と、即座に承知した。》
*
ここの記述は、松本氏が時期を記憶違いして、書いているようですが、
ある事の否定のためには、この記述が必要ですので、本の通りに書きます。
実際に松本氏が南京に行ったのは2月のようです。
これは メッセージ 991 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/992.html
松井大将 赤子を拾う
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/04 18:36 投稿番号: [991 / 2250]
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
134〜136p
《 松井石根方面軍司令官は、十五日午後一時、蘇州を発った。
蘇州飛行場から句容飛行場に飛び、そこから自動車で湯水鎮の方面軍司令部に移動した。
着いたのは夕方の四時だった。
南京攻撃の日から十四日まで、松井は肺炎を併発する寸前の重態だった。
高熱と悪寒に苦しんでいる。作戦命令は病床から冷静に命令、伝達した。
当初、湯水鎮への移動は十四日を予定していたが、軍医に止められて一日延期となった。
蘇州にいる間、司令部には、天皇より参謀総長を経て、
南京攻略に関しての御語が届けられた。
「中支那方面軍の陸海軍の諸部隊が上海付近の作戦に引き続き、
勇猛果敢なる追撃を行ない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う、
この旨将兵に申し伝えよ」
松井は読み終えると、塚田攻参謀長に手渡した。
松井も幕僚たち全員も、感あまって、ついにうれし泣きした。
天皇の御語はただちに塚田から全軍に伝達された。
派遣軍司令部から各師団へ、師団から旅団へ、旅団から連隊。
その間、松井はただちに天皇への奉答の辞を書き、電送させた。
湯水鎮への移動はそのあとのことで、松井は、ひとつの区切りもあり、
いくらか気分も回復していた。
この湯水鎮は温泉が湧くので有名である。
蒋介石はここに別荘をもっていたが、行ってみると戦災で焼失して跡かたもない。
松井は、久しぶりに、幕僚たちといっしょに入浴した。
「一同、久しぶりに入浴して気分を好くす」
と、松井は十六日の日記に書いている。
いくらか、この日は体力をもち直していた。
宿舎に戻ったころである。松井や副官の角良晴、それに通訳の岡田尚らは、
深夜、外で赤子の泣き声を聞いて眼をさました。
岡田が外に出て見ると、焼け跡に女の赤子があった。
岡田と当番兵の二人が拾い上げ、温泉で赤子を洗った。
そのあと毛布にくるみ、松井のところに見せに行く。松井も赤子を抱き上げた。
「なんと、むざんなことを」
と思った。思わず涙がぽろぽろと落ちた。
岡田がふと、「松井閣下の松をとって、松子と名づけたい」
というと、
「よし、岡田、この子を連れて、南京に行くぞ。お前、面倒見てやれ」
松井が岡田に命じた。南京近くまでは松井が赤子を背負って行ったともいわれる。
のちに、松子は東亜倶楽部の職員、鳥井氏の養女として育てられたが、
幼稚園に行くころ病没した。
これは メッセージ 986 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/991.html
12月16日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/03 18:49 投稿番号: [990 / 2250]
《 菊池氏と車で下関に行って、発電所と米の在庫を調べた。発電所は見たところ
損傷なく、もし作業員がきちんと保護されれば、おそらく数日中に稼働できるだろう。
手を貸したい気持ちはやまやまだが、日本軍のあの信じられない行為を考えると、
四十〜四十五人もの労働者をかき集めるのはむずかしい。
それに、こんななかで、日本当局を通じてわが社のドイツ人技術者を
こちらに呼ぶような危険なことはごめんだ。
たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、
安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、五十人は安全区の警察官だった。
兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという。
下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。
交通部は中国人の手で焼きはらわれていた。ユウ江門は銃弾で粉々になっている。
あたり一帯は文字どおり死屍累々
(ししるいるい)
だ。
日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片づかない。
安全区の管轄下にある紅卍字会
(民間の宗教的慈善団体)
が
手を出すことは禁止されている。
銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。
我々外国人はショックで体がこわばってしまう。
いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された。
晩に岡崎勝男上海総領事が訪ねてきた。彼の話では、銃殺された兵士が何人か
いたのはたしかだが、残りは揚子江にある島の強制収容所に送られたという。
以前うちの学校で働いていた中国人が撃たれて鼓楼病院に入っていた。
強制労働にかり出されたのだ。
仕事を終えた旨の証明書をうけとったあと、家に帰る途中、
なんの理由もなくいきなり後ろから二発の銃弾を受けたという。
かつて彼がドイツ大使館からもらった身分証明書が、
血で真っ赤に染まっていま私の目の前にある。
いま、これを書いている間も、日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。
ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。
小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。
正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に消えていった。
その側溝にも、この三日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ。
ぞっとする。 (以下数行字数の都合で略)
*
〉強制労働にかり出されたのだ。仕事を終えた旨の証明書をうけとったあと、
家に帰る途中、なんの理由もなくいきなり後ろから二発の銃弾を受けた〈
これは話が不自然、証明書を渡した日本軍がなぜ撃つ必要がある?
「日本に協力してけしからん」
と、便衣兵が撃つのなら解るが。
*
〉日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。
ボーイが開けないでいると、
塀から頭がにゅっとつきでた。
小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。〈
これも日本兵の行為だとすると意味不明。 便衣兵の仕業なら、
ラーベをして日本軍に不快感を抱かせるのに役立つので意味がある。
第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏は
私達は十二月十五日、南京に入城し、支那軍の兵営に分宿し、各隊は衛兵を立て
兵の外出を禁止したので、公用の将校以外は、各個に外出した兵はない。
(富士信夫著
『「南京大虐殺」
はこうして作られた』
210p)
と証言している。中隊長でも勝手にウロウロ出来ない。
では、この“日本兵”は?
これは メッセージ 989 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/990.html
12月16日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/02 15:31 投稿番号: [989 / 2250]
十二月十六日
《 朝、八時四十五分、菊池氏から手紙。菊池氏は控え目で感じの良い通訳だ。
今日の九時から、 「安全区」
で中国兵の捜索が行われると伝えてきた。
いまここで味わっている恐怖に比べれば、いままでの爆弾投下や大砲連射など、
ものの数ではない。安全区の外にある店で略奪を受けなかった店は一軒もない。
いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区のなかにもおよんできている。
外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとく
こじ開けられ、荒らされた。
福田氏にあてた次の手紙から、そのときの状況がおおよそうかがえる。
ただし、この手紙に記されているのは、無数の事件のうち、
我々が知ったごくわずかな例にすぎない。
在南京日本大使館
福田篤泰様
拝啓
安全区における昨日の日本軍の不法行為は、難民の間にパニックを引き起こし、
その恐怖感はいまだに募る一方です。
多くの難民は、宿泊所から離れるのを恐れるあまり、米飯の支給を受けたくとも、
近くの給食所にさえ行けないありさまです。
そのため宿泊所まで運ばなければならなくなり、大ぜいの人々に
食料をいきわたらせることは、大変むずかしくなっています。
給食所に米と石炭を運びこむ苦力を十分集めることすらできませんでした。
その結果、何千人もの避難民は今朝、何も口にしていません。
国際委員会の仲間が数人、なんとかして難民に食事を与えようと、今朝がた
トラックを手配しようとしましたが、日本軍のパトロール隊に阻止されました。
昨日は委員会のメンバー数人が、私用の乗用車を日本軍兵士に奪われました。
ここに日本兵の不法行為リストを同封します。
(ただし、ここにはリストは掲載されていない)
この状況が改善されない限り、いかなる通常の業務も不可能です。
電話や電気、水道などの修復、店舗の修繕をする作業員はおろか、
通りの清掃をする労働者を調達することすらできません。
……私たちは昨日は苦情を申し立てませんでした。日本軍最高司令官が到着すれば、
街はふたたび落ちつきと秩序を取り戻すと考えていたからです。
ところが昨晩は、残念ながらさらにひどい状況になりました。
このままではもうどうにも耐えられません。
よって日本帝国軍に実情をお伝えすることにした次第です。
この不法行為が、よもや軍最高司令部によって是認されているはずはないと
信じているからです。
敬具
代表
ジョン・ラーベ
事務局長
ルイス・S・C・スマイス
ドイツ人軍事顧問の家は、片端から日本兵によって荒らされた。
中国人はだれひとり、家から出ようとしない!
*
安全区内の略奪等は本当に日本兵の仕業なのだろうか?
上海派遣軍第九師団第三十六聯隊長だった脇坂次郎氏は東京裁判の宣誓供述書で
《 私は十二月十五日、南京城内巡視の際、難民区の実情を視察したいと考えたが、
憲兵が厳重に警備していて、部隊長と雖
(いえど)
も特に許可がなければ
立入りは禁じられていると言って拒絶され、
遂に内部を視察することは出来なかった。》
と証言しています。
将校ですら許可なく入れない安全区に、どうやって兵隊が
略奪・強姦目的で入れるのでしょうか?
おまけに翌日は入城式。その準備で忙しい。悪さをしている暇はない筈ですが。
これは メッセージ 983 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/989.html
12月16日 和平案改訂会議と城内清掃
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/01 16:07 投稿番号: [988 / 2250]
★
和平案改訂会議
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』463p
《 十六日の大本営政府連絡会議では、独大使に対する回答案の取り扱いなどが審議された。》
★
城内清掃
児島襄著
『日中戦争4』
238〜239p
《 十二月十六日、
日本軍は掃蕩と清掃をいそいだ。
翌日、十七日に入城式、次いで十八日に陸海合同慰霊式をおこなうことが
きまったからである。
とくに、市内に散乱する中国側の死体の片づけが、急務とみなされた。
入城式行進のルートは、中山門から国民政府大礼堂までの目ぬき通りがえらばれている。
「安全区」
委員会に協力がもとめられ、委員会は、紅卍会
(楊登瀛)
と
慈善団体
「崇善堂」(周一通)
委託した。
紅卍会は急には人夫が集められない旨を回答し、 「崇善堂」
だけが、
「安全区」
の難民を
「一体四角」
の処理賃金で動員した。
だが、それでもわずか四十人をあつめ得たにすぎず、おかげで死体処理といっても、
中山路と中正路が交差する鼓楼付近の死体を、
双龍巷、石婆巷などの露地の側面につみあげるか、
いくつかの池に投棄するだけで
埋葬は後日に待つほかはなかった。
死体の壁ができた露地には、たちまち野犬、野良猫、ネズミがむらがり、
凍った死体の腹をかみやぶり、その中で眠るものもいた。
捕虜の処置もいそがれ、前述した
「安全区」
の法務部から連行された
中国兵約二千三百人の大半が処刑された。
*
「死体を、・・・、いくつかの池に投棄するだけで・・・」
なるほど、「崇善堂」
に雇われた中国人が放り込んだわけか。
だから、彼らは、どの池に、どのくらい死体があるか知っていたわけだ。
路上の死体の殆どは、12日夜の中国軍の脱走混乱でできたものだった。
それを、外国人は、日本軍が殺して放り込んだと聞かされたわけか。
こうやって、歪曲された歴史がつづられた。
これは メッセージ 986 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/988.html
12月16日 幕府山 火災で捕虜逃亡
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/30 18:47 投稿番号: [987 / 2250]
両角業作
手記
《 炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、
その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、
もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。
我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、
もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。
私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、少なくなったことを
却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた。》
山田メモより
《 十六日
相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打合わせをなさしむ。
捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。》
(鈴木明著
『旧 「南京大虐殺」 のまぼろし』
194p)
児島襄著
『日中戦争4』
236〜237p
《 この夜、約八千人の捕虜をかかえた幕府山の第六十五連隊では、
午後九時すぎ、夕食の炊事中に火災が発生した。
捕虜を監視していたのは、第一大隊 (田山芳雄少佐) の兵四、五人であったので、
ただちに一個中隊がかけつけたが、なにせ相手は八千人である。
あっという間に、約半数が逃亡してしまった。
が、第百三旅団長山田少将も、第六十五連隊長両角大佐も、内心はホッとした。
少将は、捕虜を 「始末」 せよとの指示をうけていたし、
大佐は、捕虜にたいする給養に苦慮していたからである。》
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
132〜133p
《 ともあれ、幕府山要塞の地下倉庫に備蓄された食糧が発見された。
渡りに舟とばかりに、それがバラック棟に運び込まれる。
やがて、投降兵自ら自給自足するよう、指示が出た。投降兵の炊事が始まった。
ところが、ある一棟から出火した。
不注意で出火させれば寒天の下で眠らなくてはならないから、不注意の出火ではなかった。
意図的な放火であった。両角連隊長は、脱走を狙った放火と判断した。
これが収容三日目
(十二月十六日)
のことになる。
この放火事件は、 「第十三師団山田支隊兵士の陣中日記」
の筆者十九名中、
四人が陣中日記に記す。
・・・・
こうして火災の出た日
(十二月十六日)
の夕方、一部の投降兵が銃殺に処せられた。
しかし、揚子江岸の処刑については、両角連隊長の手記は何も記していない。
が、両角部隊兵士の複数の陣中日記
(十二月十六日)
には明記されている。
たとえば
「遠藤高明陣中日記」
には次のように書かれている。
〈夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一ヲ江岸二引出シⅠニ於テ射殺ス。〉
「Ⅰニ於テ射殺ス」、つまり第一大隊によって投降兵は射殺された。
遠藤少尉
(仮名)の言う軍命令とは、師団命令を受けた形の旅団命令であったのであろう。》
*
夜9時に失火したのに、その日の夕方に処刑とは、これ以下に?
タイムマシンで溯ったのか?
これは、別の日の処刑ではないのか?
これは メッセージ 986 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/987.html
入城式の日取・和平案改訂・幕府山捕虜
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/29 18:51 投稿番号: [986 / 2250]
★
入城式の日取り交渉
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
136p
《 塚田参謀長は十五日に派遣軍司令部を訪ね、
「杭州、蕪湖、揚子江右岸地区の安定確保。一部の兵力を大本営の使用に供すること、
航空隊をもって要塞を爆撃すること」
など五項目について、
松井司令官の意向を伝え、ついでに入城式を十七日に行なうことで念を押している。
これに対し、飯沼守派遣軍参謀長、 「十八日入城式」
とゆずるが、
方面軍の強腰に屈して、十七日に行なうことになっていた。
なぜ松井方面軍司令官が十七日の入城式にこだわったかは、今もなぞになっている。
ただ、松井には、参謀本部からの要請で、
二十日には上海にもどらなければならない事情があった。
広東作戦、浙江作戦、上海の新政府構想、およびパネー号事件で、
上海のイギリス大使や提督との談判など、難問題を抱えていて、
南京に長くとどまっておれない事情があった。》
★
和平案改訂会議
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
463p
《 十五日の
(大本営政府)
連絡会議では、
従来どおり現在の国民政府を中央政府と認めてこれと折衝するに決し、
かつ交渉条項は前日のとおり大体決定した。 多田次長は、事変の早期解決、
長期持久戦回避の必要を述べたが、出席者はこれを了承した。》
★
幕府山捕虜の扱い
山田旅団長メモ
《 十五日
捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ
『始末せよ』
との命を受く。
各隊食糧なく困窮せり。捕虜将校のうち幕府山に食糧ありときき運ぶ。
捕虜に食わせることは大変なり。
(鈴木明著
『旧「南京大虐殺」
のまぼろし』
193p)
*
普通
『始末せよ』
と言われたら、 「殺せ」
と言われたと解釈する。
しかし、その後、 「各隊食糧なく困窮せり・・・捕虜に食わせることは
大変なり。」
と続くと、意味不明になる。
「殺せ」
の命令を実行すれば、 「捕虜に食わせる」
必要はなくなるから、
その後に
「捕虜に食わせることは大変」
では、意味が通らない。
これは メッセージ 980 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/986.html
スミス氏講演の12月15日の分
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/28 18:42 投稿番号: [985 / 2250]
ラーベの日記の12月15日より
《 私は十二月十五日に南京を後にしましたが、それまでに私をはじめ、
ほかのヨーロッパ人の見たところによれば、中国人の家はすべて、
ヨーロッパ人の家はその大部分が、日本兵によって略奪しつくされていました。
屋根にはためくヨーロッパの国旗も引きずりおろされました。
日本兵の一団が家財道具を取っていく姿も見られました。
とくに好まれたのは壁掛け時計だったようです。
まだ南京に残っていた外国の車は、徴発される前に国旗を引き裂かれました。
安全区国際委員会からも、乗用車二台とトラック数台が押収されました。
カフェ・キースリングの前で、私はたまたまラーベ氏に出会いました。
氏は店主と力をあわせ、日本兵を次から次へと追い払っていました。
かれらは店のドイツ国旗を外して食べ物を奪おうとしたのです。
下関では、四、五百人の中国人が連れ去られました。ヨーロッパ人が後を
追おうとしたのですが、日本軍におしとどめられて果たせませんでした。
十二月十五日、外国の記者団が、南京から上海に向かう日本の軍艦に乗せて
もらうことになりました。ところがそのあとで、
イギリスの軍艦でいけることになり、桟橋に集合するよう指示がありました。
出発までに予想以上に時間がかかったので、偵察をかねて、
あたりを少し歩くことにしました。
そこでわれわれが見たものは、広場で日本軍が中国人を縛り上げ、立たせている光景でした。
順次、引きたてられ、銃殺されました。
ひざまずいて、後頭部から銃弾を撃ちこまれるのです。
このような処刑を百例ほど見たとき、指揮をとっていた日本人将校に気づかれ、
すぐに立ち去るように命じられました。
ほかの中国人がどうなったのかはわかりません。》
*
「日本兵の一団が家財道具を取っていく姿も見られました。
とくに好まれたのは壁掛け時計だったようです」
兵隊が壁掛け時計なんか盗んでどうするのでしょう?
彼らには移動命令が出ています。
行軍の邪魔になるだけですが。
家財道具と言っても、本部詰所の必需品がそろえば、それ以上は必要ない筈。
彼ら外国人は、そういう事が解らないのでしょうか?
*
「四、五百人の中国人が連れ去られ・・・日本軍が中国人を・・・銃殺」
こういう言い方によって、スミス氏は米国市民に誤解を与えています。
中国人と言えば中国人ですが、無辜の市民ではなく、軍服を脱いで便衣兵となった
中国兵です。
兵士が降伏せずに平服に着替えて市民の中に潜ったら、
スパイ・ゲリラと見なされます。
処刑されても仕方ありません。
また、処刑された人の中に、市民が混じっていたとしても、
それは日本軍の
罪ではありません。
間違うように仕向けた、中国式戦法にこそ問題があるのです。
のち、米軍もベトナムで、農民に化けたゲリラに悩まされ、同じ行動をとりました。
そして虐殺と非難されました。
これは メッセージ 983 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/985.html
12月15日 陸軍の移動命令と海軍の動き
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/27 18:41 投稿番号: [984 / 2250]
陸軍の移動命令
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
431p
《 十二月十五日、中支那方面軍は、同月七日の大陸命に示された担任地域内
主要各地の安定確保と次期作戦準備のため隷下両軍に次の任務を与えた。
一
上海派遣軍ハ
一部ヲ以テ
揚子江左岸ニ於テ
揚州
及
ジョ
(サンズイ+除)
県
付近ヲ
占領シ
江北大運河
及
津浦鉄道ヲ遮断シ
主力ヲ以テ
南京南翔間ノ
主要各地ニ
兵力ヲ配置シ
警備ニ任スルト
共ニ
次期作戦ヲ
準備スヘシ
司令部ハ
南京付近ニ
位置スヘシ
二
第十軍ハ
杭州攻略後
蕪湖、ネイ国、湖州、杭州、松江間ノ主要各地ニ
兵力ヲ配置シ
警備ニ任スルト
共ニ
次期作戦ヲ
準備スヘシ
杭州ヲ攻略セハ
司令部ハ
杭州付近ニ
位置スヘシ
三
各軍ハ
速
(すみやか)
ニ
軍隊ノ整理、整頓、戦力恢復
(かいふく)
充実
並
(ならび)
ニ
作戦地域ノ
安定ヲ
図ルヘシ
〔本項に関し方面軍参謀長は両軍は警備地区内において、
敗残兵の掃蕩、隠匿兵器及び軍需資材の収集、戦場掃除、破壊交通網の
回復、兵要地理の調査を実施するよう指示している〕
四
両軍ノ
作戦地境ハ
黄浦江−北新芤下流−蘇州河−呉江−和橋鎮−黄金山−大路亭−江寧鎮
下流水流ヲ
連ヌル線 》
*
この指示により、第十軍と上海派遣軍の大部分は慰霊祭後南京を離れます。
海軍の作戦
戦史叢書
『中国方面海軍作戦1』
468〜469p
《 十五日、 「栂、掃二号」
はそれぞれ南京下流及び龍潭水道において残敵掃蕩。
「保津、鵲」
は徹宵執拗な敵の狙撃を冒してパネー遭難者救援作業に従事した。
01:00
米国砲艦オアフ及び英国砲艦レディバードは遭難者の収容を終わり、
「鵲」
は両艦を嚮導下江した。また
「保津」
は蕪湖に進出、夕刻同地に到着した。》
これは メッセージ 981 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/984.html
12月15日のラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/26 18:40 投稿番号: [983 / 2250]
《 司令官と福田氏に別れを告げようとしているところへ、
日本軍特務部長の原田熊吉少将がやってきた。
ぜひ安全区を見たいというので、さっそく案内した。
午後、いっしょに下関の発電所にいくことになった。
残念ながら、午後の約束は果たせなかった。
日本軍が、武器を投げ捨てて逃げこんできた元中国兵を連行しようとしたからだ。
この兵士たちは二度と武器を取ることはない。
我々がそう請け合うと、ようやく解放された。
ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。
さっきの部隊が戻ってきて、今度は千三百人も捕まえたというのだ。
スマイスとミルズと私の三人でなんとかして助けようとしたが聞き入れられなかった。
およそ百人の武装した日本兵に取り囲まれ、とうとう連れていかれてしまった。
射殺されるにちがいない。
スマイスと私はもう一度福田氏に会い、命乞いをした。
氏はできるだけのことをしようといってはくれたが、望みは薄い。
私は、もしかれらを処刑してしまったら、中国人がおびえ、
作業員を集めるのは困難になるといっておいた。
福田氏はうなずき、明日になれば事態は変わるかもしれないと言って慰めた。
この惨めな気持ちはたえられない。
人々が獣のように追い立てられていくのを見るのは身を切られるようにつらい。
だが、中国軍のほうも、済南で日本人捕虜を二千人射殺したという話だ。
日本海軍から聞いたのだが、アメリカ大使館員を避難させる途中、
アメリカの砲艦パナイが日本軍の間違いから爆撃され、沈没したそうだ。
死者二人。 イタリア人新聞記者のサンドリと梅平
(メイピン)
号の船長
カールソンのふたりだ。アメリカ大使館のパクストン氏は肩と膝に傷をおった。
スクワイヤーズも肩をやられた。 ガシーは足、アンドリューズ少尉は重傷で、
ヒューズ海軍少佐も足を折ったらしい。》
*
一応、ラーベは
中国軍の日本人捕虜射殺を書いているが、
他の者や、今の日本人は、中国軍が日本人捕虜を処刑していても、問題にせず、
日本軍だけを虐殺と非難しているようだ。
これは メッセージ 982 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/983.html
12月15日のラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/25 15:28 投稿番号: [982 / 2250]
十二月十五日
《 朝の十時、関口鉱造少尉来訪。少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。
十一時には日本大使館官補の福田篤泰氏。作業計画についての詳しい話し合い。
電気、水道、電話をなるべくはやく復旧させることは、双方にとってプラスだ。
このへん、氏はよく承知している。この問題に関しては我々、もしくは私が
役に立てるだろう。韓と私は様子がわかっているから、復旧させる自信がある。
交通銀行におかれた日本軍司令部で、もう一度福田氏と会う。
この人は司令官を訪ねる際に、通訳として大いに役に立つだろう。
十二月十四日、司令官と連絡がとれなかったので、
武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に手紙を渡した。
(手紙は、14日
「国際委員会と日本軍の折衝」
に転記の為
略)
この手紙と司令官にあてた十二月十四日の手紙に対する司令官からの返事は、
次の議事録に記されている。
議事録
南京における日本軍特務機関長との話し合いについて
(交通銀行にて)
一九三七年十二月十五日
正午
通訳 : 福田氏
出席者
ジョン ・ ラーベ氏 : 代表
スマイス博士 : 事務局長
シュペアリング氏
一、南京市においては中国軍兵士を徹底的に捜索する。
二、安全区の入り口には、日本軍の歩哨が立つ。
三、避難した住民はすみやかに家に戻ること。
日本軍は安全区をも厳重に調査する予定である。
四、武装解除した中国人兵士を我々は人道的立場に立って扱うつもりである。
その件はわが軍に一任するよう希望する。
五、中国警察による安全区の巡回を認める。
ただし、完全に武装解除すること。
警棒の携帯も認めない。
六、委員会によって安全区内に貯蔵された一万担の米は、難民のために使用しても
よいが、われわれ日本軍にとっても必要である。
したがって米を買う許可を求める
(地区の外にある我々の備蓄米に関する回答は要領を得なかった)。
七、電話、電気、水道は復旧が必要である。今日の午後、ラーベ氏とともに
これらの設備の視察を行い、その後具体的な措置を取る。
八、明日より町を整備する予定であり、百人から二百人の作業員を必要とする。
それにつき、委員会に援助を要請する。賃金は支払う。》
つづく
これは メッセージ 979 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/982.html
12月14日 陸海軍の動き
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/24 16:19 投稿番号: [981 / 2250]
★
入城式の日取り交渉
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
136p
《 十四日、蘇州から塚田参謀長を通じて
「入城式は十七日に行なう」
旨を
上海派遣軍に伝達、しかし、上海派遣軍は十七日は不可能と返答してきた。
入城式については、方面軍参謀の長勇が十六師団と現状について連絡した結果、
掃蕩の関係から、入城式は二十日以降がいいだろうと判断し、
松井方面軍司令官に事情を説明している。》
★
杭州作戦のため第十軍の移動
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
430p
《 十二日、軍は第十八師団は、下泗安及び広徳付近、第百一師団主力
(第六野戦重砲兵旅団主力、独立第二野戦重砲兵大隊属) は湖州付近、
第一後備歩兵団
(四大隊編成)
は嘉興付近に兵力を集結し、
杭州攻撃を準備するよう命じた。
第十八師団の大部は、十四日蕪湖付近出発、》
★
海軍の作戦
戦史叢書
『中国方面海軍作戦1』
468p
《 十四日、第一警戒部隊各艦艇は敗残兵の掃蕩、航路の啓開を続行した。
その概要は次のとおりである。掃四は蕪湖に進出。
「二見、熱海」
は草鞋峡水路を啓開。
「比良」
及び特掃二隻は鎮江において天谷支隊の渡江作戦に協力。
特別作業隊は烏龍山閉塞線の拡大啓開に従事。
「保津、鶴、安宅、鴻、江風」
は、 「パネー」
遭難地にあって救助作業に従事。
各艦艇は陸戦隊を揚陸して江岸の敗残兵を掃蕩、
下関の海軍碼頭、中山碼頭一帯を占拠。》
これは メッセージ 980 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/981.html
12月14日 和平案改訂会議
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/23 14:18 投稿番号: [980 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
463p
《 十四日午後、第二回目の大本営政府連絡会議が開かれ、
独大使に対する回答案が提出された。
出席者は、大本営側から参謀次長、軍令部次長、
政府側から総理、陸、海、外三相のほか賀屋蔵相、末次内相
(馬場硏一辞任のため、十四日、内閣参議から内相に就任)
が出席し、
風見内閣書記官長と陸海軍両軍務局長
(町尻量基少将と井上成美少将)
が
幹事役であった。
この会議では、まず交渉成立の見込みが問題となった。
参謀次長は、陸軍部内でもこの見通しについては異論があるが、
次長としては見込みは少ないが一応筋を通して、
当方の誠意を示しておく必要があるという見解であった。
次いで独大使に示す案について検討したが、初めて本案を見る人もあったので、
明日更に会議を開くことになった。また、あたかもこの日、
北支に臨時政府が成立したので、中国新中央政府の問題が論議された。》
これは メッセージ 924 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/980.html
12月14日 国際委員会と日本軍の折衝
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/22 18:31 投稿番号: [979 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
233〜234p
《 委員会は、傷兵、傷病者を外交部、鉄道部、国防部にうつし、
J・マギー牧師を委員長とする 「国際赤十字南京委員会」 を組織し、
「南京日本軍司令官」 あてに 「安全区」 の保護を要請する書簡を用意した。
その書簡をもって、J・マギー牧師らが第二十三連隊第三大隊をむかえたのである。
マギー牧師たちが会った日本軍将校は、牧師によれば、
説明する趣旨に諒解の意を表明した、という。》
ラーベの日記12月15日より
《 十二月十四日、司令官と連絡がとれなかったので、
武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に手紙を渡した。
南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国軍兵士の悲運を知り、
大きな衝撃をうけております。本委員会は、この地区から中国軍を退去させるよう、
当初から努力を重ねてきました。
月曜日の午後、すなわち十二月十三日まで、
この点に関してはかなりの成果を収めたものと考えております。
ちょうどこの時、これら数百人の中国人兵士たちが、
絶望的な状況の中で我々に助けを求めてきたのです。
我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。我々は保護してはやれない。
けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、
日本からの寛大な処置を期待できるだろう、と。
捕虜に対する一般的な法規の範囲、ならびに人道的理由から、
これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。
捕虜は労働者として役に立つと思われます。
できるだけはやくかれらを元の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。
敬具
ジョン・ラーベ、代表 》
*
最高司令官は蘇州に居て、まだ南京には来ていない。
しかも高熱で病床に在った。
本来はこの日に蘇州を発つはずだったが、軍医が止めた。
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
134p
《 南京攻撃の日から十四日まで、松井は肺炎を併発する寸前の重態だった。
高熱と悪寒に苦しんでいる。作戦命令は病床から冷静に命令、伝達した。
当初、湯水鎮台への移動は十四日を予定していたが、
軍医に止められて一日延期となった。》
これは メッセージ 978 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/979.html
城内及び安全区の掃蕩2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/21 18:24 投稿番号: [978 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
233〜234p
《 委員会は、傷兵、傷病者を外交部、鉄道部、国防部にうつし、
J・マギー牧師を委員長とする
「国際赤十字南京委員会」
を組織し、
「南京日本軍司令官」
あてに
「安全区」
の保護を要請する書簡を用意した。
その書簡をもって、J・マギー牧師らが第二十三連隊第三大隊をむかえたのである。
マギー牧師たちが会った日本軍将校は、牧師によれば、
説明する趣旨に諒解の意を表明した、という。
−
だが、
現実には、日本軍にとっては、掃蕩戦のさなかである。
日本軍の推計では、南京城内にはなお
「約二万五千人」
の敗残兵がいる。
掃蕩そのものも決して無抵抗ではなく、しばしば各部隊は攻撃、狙撃をうけている。
この 〝敗残兵狩り〟 を完了しなくては、名実ともに
「南京攻略」
が
成就したとはいえない。
とりわけて注意すべきは、攻略にともなって実施される入城式である。
入城式には、皇族である上海派遣軍司令官朝香官鳩彦中将も参加する。
その身辺にはとくに入念に安全保障策が講じられねばならない……。
その意味では、 「安全区」
といえども 〝敗残兵狩り〟 から除外するわけにはいかず、
委員会書記L・スミス
(金陵大学教授)
によれば、この日、
日本軍将校が
「安全区」
を訪ね、法務部に収容されている
二千六百五十人のうち、二千三百人を
「捕虜」
として、連行した。》
これは メッセージ 977 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/978.html
城内及び安全区の掃蕩1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/20 18:26 投稿番号: [977 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 231p
《 城内の掃蕩を担任する各部隊は、緊張していた。
第十軍司令官柳川平助中将は、既述したように、必要があれば
「城内ヲ焼却」
してもよいと下令し、
また
「特ニ 敗敵ノ 欺賄行為ニ 乗ゼラレザル ヲ要ス」
と指示した。
各部隊とも、 「焼却」
戦が必要とは考えなかったが、
中国側の
「欺瞞行為」
には神経をとがらせざるを得ない。
これまでにも、中国側は、軍服をぬいで便衣で戦い、ときには老婆に変装して
日本軍をおそうほか、現実に婦女子も武器をとって戦うことは、
どの部隊も体験ずみだからである。
おかげで、各部隊は、いずれも
「敵愾
(てきがい)
心ト恐怖心」
に
身をこわばらせていた。
「日本軍は、いつどこから飛んでくるかわからない手榴弾や小銃弾に極度に
緊張しながら、徹底的に掃蕩した」
と、第四十七連隊戦記
『郷土部隊奮戦史』
も記述している。
掃蕩は、だから、まさに
「徹底的」
となり、いずれは軍政機関、宿舎用に利用するビル、
民家はしらみつぶしに捜索され、消防員、警察官など制服着用者はすかさず連行され、
走りだす者、逃げだす者は、とっさに銃撃の対象になった。
青壮年男性は、例外なくチェックされ、
肩に銃をかついだり背嚢をせおった形跡をのこす者は、捕虜にされた。》
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
173〜174p
《 そもそも安全地帯とは、非戦闘員の市民のための避難地帯であった。
そこに、便衣
(普段着)
身なりの正規兵が身を潜めていた。
・・・
彼らは、後に述べるように、莫大な量の銃砲を隠し持っていた。
その武器をもって、いつ何時、支那兵が攻撃をもくろむか、計り知れなかった。
スティール記者が言うように
「市内にはまだ潜伏して狙撃してくる中国兵」
がいたのである。
『南京戦史』
によれば、実際、十二月十四日のことになるが、
戦車中隊が中山路の十字路で戦車から下車して付近の講堂に入ったところ、
敗残兵数十名から銃撃されて、日本兵が大急ぎで乗車して難を免れたことがあった。
掃蕩中に敗残兵から射撃されたこともあったのである。
日本軍としては安心できなかった。》
これは メッセージ 976 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/977.html
安全区掃蕩に関する注意2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/19 15:39 投稿番号: [976 / 2250]
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
181〜183p
“ 秋山旅団長の
「掃蕩実施ニ関スル注意」
この
「南京城内掃蕩要領」
に基づき、 「掃蕩実施ニ関スル注意」
が、
右翼隊隊長
(歩兵第六旅団長秋山義兌
(よしみち)
少将)
から、
歩兵第七連隊等に発令された。
十二月十三日午後四時三十分のことであった。
《 二、外国権益ノ建物ヲ
敵カ之ヲ
利用シアル場合ノ外
立入ヲ厳禁ス 》
外国大使館、外国人居住の住宅等に立ち入れば、あとあと大きな問題となるから、
その立ち入りが厳禁されたのである。
《 三、掃蕩隊ハ
残敵掃蕩ヲ任トシ、必ズ将校
(准尉ヲ含ム)
ノ指揮スル部隊ヲ
以テ実施シ、下士官以下
各個ノ行動ヲ
絶対ニ禁ズ 》
掃蕩隊は将校のみが指揮することとなった。その任務はやはり
「残敵掃蕩」、
即ち残敵を一掃することであった。市民を虐殺することではなかった。
当然、各人の個人的行為は禁止された。
つづいて
「掃蕩実施ニ関スル注意」
は次のように命じる。
《 四、青壮年ハ
凡
(すべ)
テ敗惨兵
又ハ便衣隊ト
見做
(みな)
シ、
凡テ之ヲ
逮捕監禁スベシ
青壮年以外ノ
敵意ナキ支那人民
特ニ老幼婦女
ニ対シテハ
寛容之ニ接シ、
彼等ヲシテ
皇軍ノ威風ニ
敬仰セシムベシ 》
蒋介石は
「戦えるものは誰でも駆り集め」
て戦線に送っていた。
従って、青壮年は敗残兵である疑いが極めて濃厚であったのである。
「掃蕩実施ニ関スル注意」
は、これを逮捕監禁せよと命じている。
他方、 「青壮年以外ノ
敵意ナキ支那人民
特ニ老幼婦女」にたいしては、
寛容に接するよう命じている。
そして、規律ある日本軍であると一般市民が敬服するよう、行動を慎めと命じた。
《 五、銀行、銭荘等ハ侵入ヲ禁止シ、歩哨ヲ配置スベシ 》
《 六、家屋内ニ侵入シ
掠奪ニ類スル行動ヲ
厳ニ戒ムベシ 》
掠奪もまた禁じられたのである。
《 七、放火ハ勿論、失火ト雖
(いえど)
モ、軍司令官注意ノ如ク
厳罰ニ処ス》
失火といえども厳罰に処する、という厳しい命令であった。
《 八、友軍相撃
(あいうち)
ニ就
(つい)
テ厳ニ注意スベシ
合言葉ハ
「金沢」 「富山」
ト定ム》
南京が陥落したと言っても、紫金山一帯では激戦が続いていた。
城内の安全は確立していなかった。
合言葉があらかじめ決められていたのも当然であった。
なお、第九師団は富山、石川、福井の出身者からなる師団であった。
《 九、火災ヲ発見セバ
附近部隊ハ勿論、掃蕩隊ハ
速(すみやか) ニ
消火ニ努ムベシ》
火災を発見したならば掃蕩を中止せよ、そして直ちに消火に努めよ、と命じられた。”
これは メッセージ 975 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/976.html
安全区掃蕩に関する注意1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/18 15:21 投稿番号: [975 / 2250]
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
180〜181p
“ 城内の掃蕩戦とは、総じて、安全地帯の支那兵の摘発であり、投降兵の収容であった。
また、安全地帯における不穏な兵士の処刑であり、
隠匿
(いんとく)
された軍需品の押収であった。
その安全地帯の掃蕩は、すでに述べたように、
歩兵第七連隊 (第九師団歩兵第六旅団) の任務であった。
十二月十三日午後四時半に発令された歩兵第六旅団の
「右翼隊命令」 は、
歩兵第七連隊等に、 「掃蕩実施ニ関シテハ南京城内掃蕩要領ニ依
(よ)
ルベシ」
と命じていた。
そこで、以下に
「南京城内掃蕩要領」
の最初の三項目だけを引用しておく。
《一、城内ノ残敵ヲ掃蕩ス
二、掃蕩ニ際シテハ
入城ニ関スル
注意事項ヲ
厳守ス
但シ
敵ノ抵抗スル地帯ハ
此ノ限ニ非ス
三、敵ノ抵抗セル場合ニ於ケル
家屋ノ焼却ニハ
特別ノ注意ヲ払ヒ
却
(かえっ)
テ部隊ノ交通ヲ
遮断スルガ如キ事
無キ様注意ス
又発電所、電気局、郵便電信局、水源地、瓦斯会社、諸倉庫、工場等、
軍ノ利用スベキ箇所ハ
速
(すみやか)
ニ之ヲ占領シ、敵ノ破壊、焼却ヲ予防ス
遁走セル敵ハ
大部分便衣ニ
化セルモノト
判断セラルル
ヲ以テ
其ノ疑アル者ハ
悉
(ことごと)
ク之ヲ検挙シ、適宜
(てきぎ)
ノ位置ニ監禁ス 》
掃蕩部隊の任務は
「残敵」
を掃蕩
(一掃)
することであった。
しかし、敵が抵抗する場合はこの限りではなかった。
また、発電所、電気局、郵便電信局、水源地、瓦斯会社、諸倉庫、工場等は、
敵の破壊から守るよう命じられていた。
そうして改めて
「入城ニ関スル注意事項」
の厳守が命じられたのである。
その
「入城ニ関スル注意事項」
とは、
①
「世界ノ斉
(ひと)
シク
注目シアル大事件
ナルニ鑑ミ、正々堂々
将来モ
模範タルベキ
心組ヲ以テ、
各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等、絶対ニ
無カラシムル」
ことと、
②
外交機関、外国権益には接近しないよう、特に
「中立地帯
(註・安全地帯)
ニハ、
必要ノ外立入ヲ禁ジ」
ることであった。 ”
つづく
これは メッセージ 958 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/975.html
義和団事件に於ける外国軍の略奪
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/17 14:28 投稿番号: [974 / 2250]
外国人に、日本軍の徴発を非難する資格があるのでしょうか?
斎藤聖二著
『北清事変と日本軍』
芙蓉書房出版
155〜156p
《 通州への行軍過程で・・・
「「露仏軍ハ 一ニ
地方物資ニ依頼シ
大ニ徴発ヲ為シ
掠奪ノ弊ニ陥」
り、
イギリス軍も沿道の作物を奪って飢えをしのぎ、
日本軍もまた
「畑地ニ生長セル
玉萄黍
(トウモロコシ)
ノ半熟セルモノヲ
採取シ或ハ
付近人家内ニ残留セル
食品ヲ取」
って前進した。》
167 p
《『秘戦史』
は、「(北京占領中の)
露仏軍人ノ乱暴ハ
至ラサル所ナク
掠奪、殺傷、強姦、放火等
屡々
之ヲ耳ニシ、其 (その) 通州ニ於ケル暴挙甚シク
・・・
森海軍中佐の報告書には、
「英国公使館内ニ於ケル
掠奪品ノ競売」
について記されており、
「印度兵ノ
奪略シ来レル
衣類、毛革、陶磁器、金銀細工類等ヲ展列シ
同国人ハ勿論
他国人ト雖
(いえど)
モ望セ
其場ニ誘引シ公然競売」
をしているとある。》
明治33年8月27日の
『日本新聞』
には
ドイツ皇帝は出征兵士に対し 「一人も容赦するなかれ、一人も捕虜となすなかれ」
と勅語した、とあります。
ウッドハウス暎子著
『北京燃ゆ・義和団事件とモリソン』
東洋経済新報社より
ドイツのヴァルダーゼー軍は10月17日北京に着いたが、すべて終わっていた。
263〜264p
《 仕方なくドイツ軍は、義和団の残党狩りというふれこみのもとに討伐隊を組み、
北京周辺を荒らし回り略奪暴行の限りをつくした。ヴァルダーゼーは本国に、
「略奪行為は、どこの国もお互いさまである……
みな、揃いも揃って略奪に熱を上げている」
と報告した。
兵士たちはカイザーの勅語を肝に銘じていたらしく、
抵抗するものは容赦なく殺したり、有罪無罪の別なく厳罰に処したりした。
その残忍ぶりは目に余るものがあり、正義漢モリソンは何回にもわたって
彼らの野蛮行為をタイムス紙で暴露・非難した。
例えば、同紙十一月二十三日付のモリソン記事はいう。
「ドイツ討伐軍は北京周辺を繰り返し襲っては住民を苦しめているが、
それは略奪が目的である。このような行為を、ドイツ公文書では
軍事活動と誤った呼び方をしている」》
*
ラーベはこの8年後に中国に来ています。
彼らの祖国軍に比べて日本軍が、悪く見えますか?
これらの行為は、南京陥落のほんの37年前の事なのです。
そして今、言われている南京は75年前。
37年も前の事を持ち出すな、と言うなら、
75年前の事を、昨日のように、非難している人は何なのでしょう?
これは メッセージ 973 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/974.html
12月14日 日本軍の徴発
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/16 18:31 投稿番号: [973 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
235p
《日本軍は、掃蕩とともに、洋の東西を問わずに占領軍がおこなう建物の接収、
軍需品の摘発、食糧の確保などをおこなっている。
これらの行為も、見方によっては
「掠奪」
になろうし、
興奮している兵の動作が過激であれば
「蛮行」
ともみなされかねない。》
ラーベの日記の分は13日の3を参照
スミス氏
(ロイター通信社) 講演
《
十二月十四日の朝になっても、日本兵は市民に危害を加えませんでした。
しかし昼頃になると、六人から十人ぐらいで徒党を組んだ日本兵の姿が
あちこちで見られるようになりました。
彼らは連隊徽章をはずしていて、家から家へと略奪をくり返しました。
中国兵の略奪は主に食料に限られていましたが、日本兵の場合は見境なしでした。
彼らは組織的に、徹底的に略奪したのです。》
(ラーベの日記12月15日より)
*
しかし、この14日の行為は略奪というより徴発でしょう。
それにしても、連隊徽章を外しているというのが、気になります。
もしかして便衣隊のしわざか?
それはともかく、彼ら外国人に、日本軍の徴発を非難する資格があるのでしょうか?
これより、ほんの37年前、義和団事件の時、
彼らの祖国軍が何をしたかを見てから判断して下さい。
次につづく
これは メッセージ 970 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/973.html
12月14日 山田支隊 非戦闘員を解放
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/15 18:31 投稿番号: [972 / 2250]
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
129p
《 そこで、戦闘員と非戦闘員とが選り分けられた。
そして、非戦闘員は解放された。
残る八千人ほどが幕府山南麓のバラックに収容された。》
両角業作
手記
《 幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。
新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。
しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員
(南京より落ちのびたる市民多数)
がいたので、これをより分けて解放した。
残りは八千人程度であった。これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、
細長い野営場のバラック
(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、
周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)
とりあえず、
この建物に収容し、食糧は要塞地下倉庫に格納してあったものを運こび、
彼ら自身の手で給養するよう指導した。
当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。
この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、
とても行き届いた取扱いなどできたものではない。
四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。》
児島襄著
『日中戦争4』
229〜230p
《 十二月十四日朝
−
その南京北部の要地・幕府山も、あっけなく陥落した。
第十三師団第百三旅団第六十五連隊第五中隊百二十人が、
決死の攻撃をこころみたのだが、中国軍第二軍団、教導総隊の残兵は、
自発的に続々と投降したからである。
捕虜総数は、なんと 「一万四千七百七十七人」 ……。
もっとも、投降者の中には、中国側の焦土戦術によって家を焼かれ、
行き場も逃げ場もうしなった住民多数がふくまれている。
第百三旅団長山田栴二少将は、第六十五連隊長両角業作大佐に命令して、
一見して難民とわかる者は釈放させ、
中国軍兵士だけ約八千人を幕府山付近の中国軍兵舎に収容させた。
それでも約八千人の多数である。二十二棟の兵舎にすしづめになった。
「皇軍はお前たちを殺さぬ」
連隊長両角大佐が告げると、通訳された中国軍兵士たちは、いっせいに合掌し、
次いで歓声をあげた。》
これは メッセージ 971 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/972.html
12月14日 幕府山で一万五千の捕虜を得る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/14 18:34 投稿番号: [971 / 2250]
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
128〜129p
《 揚子江岸の烏龍山砲台の占領に成功する。
次の目標は幕府山砲台の占領であった。
幕府山は南京の北方三キロ先に位置する。
揚子江を睥睨
(へいげい)
する、揚子江岸の山である。
南京防衛の観点からすれば、その幕府山要塞は支那軍にとり最後の防衛線であった。
ところが、意外にも支那兵の抵抗は弱かった。
日本側にも戦死者や重傷者が出たものの、抵抗らしい抵抗は見られなかった。
支那兵は白旗を掲げ、続々と投降してきた。
そのときの模様を、 「山田栴二日記」
は、
「他師団ニ
砲台ヲトラルルヲ恐レ
午前四時半出発、 幕府山砲台ニ向フ、
明ケテ
砲台ノ附近ニ到レバ
投降兵莫大ニシテ
仕末ニ困ル」
と記録する。
夜が明けて
「莫大」
な投降兵集団に遭遇する。
それが十二月十四日のことであった。
付近の村落は清野作戦のため
「皆敵ノ為ニ焼カレ」
ていた。
そこで山田旅団長は、上元門 (幕府山麓) 郊外に発見された学校に
武装解除後の投降兵を収容した。
数えてみれば、投降兵は一万四七七七名の大集団である。
『南京戦史資料集Ⅲ』
の第六十五連隊両角業作連隊長の
「両角(もろずみ)業作手記」
によれば、一万五三〇〇余であった。
いずれにせよ、第六十五連隊の十倍以上にあたる。
「斯
(か)
ク多クテハ
殺スモ生カスモ
困ッタモノナリ」
とは、
山田旅団長の偽らざる困惑であった。
収容された投降兵は、これが兵士かと思われるくらい、「服装も種々雑多」 であった。
しかも注意して見ると、南京から逃げてきた非戦闘員の市民も混っていた。
さらに注意して見ると、女兵士、老兵、少年兵までが混在していた。
何も知らない十二三歳の少年が戦場の第一線に立たされていた。
そしてまた、女性も志願して兵士となっていた。
そのことが
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち −
第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
に見える。》
つづく
これは メッセージ 963 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/971.html
12月13日のラーベの日記3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/13 18:33 投稿番号: [970 / 2250]
《 日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。
それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。
彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。
ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。
また、福昌飯店もこじ開けられた。中山路と太平路の店もほとんど全部。
なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、
力車を押収したりする者もいた。
我々はフォースターといっしょに太平路にある英国教会にいってみた。
ここはフォースターの伝道団の教会だ。手榴弾が二発、隣の家に命中していた。
近所の家もみなこじ開けられ、略奪されていた。
フォースターは、自転車を盗まれそうになってびっくりしたが、
我々を見ると日本兵はすぐに逃げ去った。
日本のパトロール隊を呼び止め、この土地はアメリカのものだといって、
略奪兵を追い払うようにと頼んだが、相手は笑うだけでとりあおうとしなかった。
二百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。
安全区で集められ、しばられ、連行されたのだ。
我々がなにをいってもしょせんむだなのだ。
元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、四百ないし五百人が連行された。
機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたにちがいない。
あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。
外交部のなかの病院に入れてもらえない。中国人の医師や看護人はかんづめにされている。
日本軍につかまらないうちにと、難民を百二十五人、大急ぎで空き家にかくまった。
韓は、近所の家から、十四歳から十五歳の娘が三人さらわれたといってきた。
ベイツは、安全区の難民たちがわずかばかりの持ち物を奪われたと報告してきた。
日本兵は私の家にも何度もやってきたが、ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出ていった。
アメリカの国旗は尊重されていないようだ。仲間のソーンの車からアメリカ国旗が盗まれた。
被害を調べるため、今朝六時からずっと出歩いていた。韓は家から出ようとしない。
日本人将校はみな多かれ少なかれ、ていねいで礼儀正しいが、
兵隊のなかには乱暴なものも大ぜいいる。
そのくせ飛行機から宣伝ビラをまいているのだ。
日本軍は中国人をひどい目にあわせはしないなどと書いて。》
(字数の都合で以下数行略)
*
ここの話は、 「スミス氏
(ロイター通信社)
講演」
と合わない
スミス氏は14日の昼までは、略奪も危害もなかったと言っている。
「十二月十四日の朝になっても、日本兵は市民に危害を加えませんでした。
しかし昼頃になると、六人から十人ぐらいで徒党を組んだ日本兵の姿が
あちこちで見られるようになりました。彼らは連隊徽章をはずしていて、
家から家へと略奪をくり返しました。」 (12月15日のラーベの日記にある)
ラーベの日記には
「14日」
の項目がないから、おそらく13日に混ぜているのだろう。
*
>フォースターは、自転車を盗まれそうになってびっくりしたが、
我々を見ると日本兵はすぐに逃げ去った。<
日本軍が必要に応じて徴発する時は、彼らを見ても逃げない。
その “日本兵” は本当に日本人なのだろうか?
これは メッセージ 961 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/970.html
海軍 パネー号遭難者の救助と謝罪
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/12 18:29 投稿番号: [969 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦1』
468p
《 先頭の保津、勢多は
15:40、 主隊は
17:00
南京に突入した。
第一掃海隊は南京到着後直ちに泊地を掃海し、また浦口桟橋を確保した。
陸軍部隊は夕刻南京城を完全に占領した。
米国砲艦パネー遭難者の救援
十三日
09:00、 長谷川長官は米国東洋艦隊司令長官から、
「十二日
14:30
以降砲艦パネーとの無線連絡が絶えた」
旨、通告を受けた。
調査の結果、前日第二聯合航空隊の飛行機が南京上流二六浬付近において
中国船と思い撃沈した船が、前後の模様から察し、
米国砲艦パネー及び米国商船であったことが判明した。
長谷川長官は航空部隊に対し、
何分の令あるまで揚子江における艦船の爆撃を禁止するとともに、
遭難者救助に全力を挙げるため、南京突入直後の
「保津」
に
「即時開源碼頭付近にて日本海軍機の爆撃により損害を受けた米砲艦パネーの
救助に向かえ」
と指令した。
「保津」
は直ちに下関を出港し、 20:30
ころ現地に到着、開源碼頭下手に投錨し、
同地に在泊中の英艦ピーに先任将校橋本以行大尉を派遣した。
同大尉は英艦救助隊と共に英艦内火艇に乗艇、北岸の和縣に至り、夜を徹して
同地避難中の
「パネー」
遭難者の救助に当たり、負傷者を収容し、十四日朝帰艦した。》
政府の謝罪と処分
北博昭著
『日中開戦』
110〜111p
《 十三日、支那方面艦隊司令長官長谷川中将は艦隊参謀長杉山少将を
アメリカアジア艦隊司令長官ヤール大将のもとへ送り、陳謝した。
東京では広田外務大臣が駐日アメリカ大使グルーを訪ね、謝罪した。
また、アメリカでは斎藤博大使が広田外務大臣の指示でハル国務長官を訪問し、
日本政府からの遺憾の意を伝えた。
翌十四日には、陳謝の意を表した日本政府の公文がグルー大使に渡された。
第二連合航空隊司令官三並少将(進級)は、
事件三日後の十二月十五日をもって更迭された。
日本はアメリカが翌年の三月二十一日に要求してきた額面どおりの
巨額の賠償金を支払った。》
これは メッセージ 964 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/969.html
投降兵の処断
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/11 15:40 投稿番号: [968 / 2250]
佐々木倒一少将私記12月13日続き
《 午後二時頃概して掃討を終わつて背後を安全にし、
部隊を纏
(まと)
めつゝ前進和平門に至る。
その後俘虜続々投降し来り数千に達す、激昂
(げきこう)
せる兵は
上官の制止を肯
(き)
かばこそ片はしより殺戮する。
多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば兵隊ならずとも
「皆やつてしまへ」
云ひ度くなる。
白米は最早一粒もなし、城内には有るだらうが、
俘虜に食はせるものの持合せなんか我軍には無い筈だつた。 》
中島今朝吾中将
(第16師団長)
日記
(12月13日)
《 一、斯
(か)
くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て
又一方鎮江要塞より逃て来るものありて到る所に捕虜を見到底其始末に堪えざる程なり
一、大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くることとなしたる(れ)ども、
千 五千 一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず
唯彼等が全く戦意を失ひ、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、
之が一旦掻擾
(騒擾)
せば始末に困るので 部隊をトラックにて増派して
監視と誘導に任じ
十三日夕はトラックの大活躍を要したり
乍併
(しかしながら)
戦勝直後のことなれば
中々実行は敏速には出来ず
斯
(かか)
る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり
一、後に至りて知る処に依りて佐々木部隊丈
(だけ)
にて処理せしもの約一万五千、
大平門
(太平門)
に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇
其
(その)
仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る 》
『南京戦史資料集』 (笠原
『南京事件』
p.154-155)
児玉義雄氏(第十六師団歩兵第三十八連隊副官)の証言
《 連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、
師団副官の声で、師団命令として
『支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ』
と
電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。
師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、
この命令だけは何としても納得できないと思っております。
参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、
その責任は私にもあると存じます。
部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、
各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。
激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。》
(「南京戦史資料集Ⅰ」P397)
*
中島日記に
「鎮江要塞より逃て来るもの」
とあるが、
鎮江は12月7日に中国軍が焼き払って撤退。
その後10日に天谷支隊が占領し、11日には山田支隊もいた。
それを、中島師団長が知らないわけはない。
山田支隊は鎮江から応援に来たのだから。
この時期に、鎮江より中国兵が逃げてこれるわけがない。
戦果水増しのための作り話か?
*
この中島日記は本物なのか?
日記なのに、なぜ一、・・・、一、・・・、となっている。
まるで戦犯収容所か何かで、箇条書きに罪状でも書かされたかのよう。
中島日記は本人が書いたものではないと言われているが?
*
また、太平門の所には、脱出の時の混乱で出来た大量の死体があったはず、
当然、これらも戦果に入れているだろう。
太平門といい、佐々木隊といい、その戦果は水増しの可能性がある。
こうやって水増しされた戦果は、日本軍の虐殺数として利用される。
これは メッセージ 967 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/968.html
大量の投降兵の受け入れは危険だった
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/10 15:07 投稿番号: [967 / 2250]
オープンシティで整然と降伏したのなら、ともかく、一方で戦闘しながら、
一方で大量の捕虜を受け入れるのは非常に危険なことだった。
第十六師団では
「支那兵の降伏を受け入れるな」 と命令が下った。
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
157p
《 師団副官は 「支那兵の降伏を受け入れるな」 と電話で伝令した。
当然であったろう。すぐ隣の傘下の部隊からは、増援要請が相次いでいた。
それを佐々木少将は拒否していた。
そして、自衛力を有する者は自ら自衛して戦えと、全軍を叱咤していた。
このような激戦の最中、支那兵の投降を受け入れて武装解除にあたることは、
自軍の戦力を殺 (そ) ぐことになる。それは自軍の部隊の敗北を招くかも知れなかった。
日本軍にも自己防衛の権利があったのである。
従って、彼我入り乱れた激戦の最中に、投降兵を受け入れる義務は、必ずしもない。
投降兵を処刑したとしても、必ずしも戦時国際法違反にはあたらない。
むしろ戦闘行為に属する。
159p
佐々木部隊
(第十六師団右側支隊)
が和平門で数千の投降兵に遭遇してから
三時間後の十三日十七時には、湯水鎮の上海派遣軍司令部が再び襲撃された。
そして
「彼我混入シテ乱闘」
となっていた。
160p
この両軍の乱戦と日本軍の苦戦を抜きにしては、佐々木少将の
「六、各隊ハ師団
(註・第十六師団)
ノ指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サズ」
という歩兵第三十旅団命令
(十二月十四日午前四時五十分発令)
も、考えられない。
163
あまつさえ、降伏すると見せかけて手榴弾を投げつけてくる支那兵の暴挙に、
日本軍はさんざん悩まされていた。つまり
「降ヲ乞ヘル敵」
にたいして
日本軍が戦時国際法通りに攻撃を控えると、それが敵の攻撃を招いた。
歩兵第九連隊
(第十六師団)
第一大隊副官六車
(むぐるま)
政次郎少尉の証言を、
「証言による
『南京戦史』
⑧」
から以下に引用する。
〈一ケ小隊で中山門東方紫金山中の警備を担当したが、
激戦により小隊は約三十名に減少していた。夜半、東方の山中から敗残兵数百名が、
日本軍が居るのに気付かず、南京に向って来たのを捕えた。
しかし、我々の人数が少なく、もし小人数と判れば危ないので、銃を取りあげ
凹地に終結させ、外側の兵のみを電線で縛って逃げないようにした。
ところが、日本軍が小人数とあなどったのか、手榴弾を投げつけてきて暴れだし、
収拾がつかなくなったので、軽機・小銃で弾丸のある限り射った。〉
このほか六車少尉は
『惜春賦』
の中で、ダムダム弾
(ニッケルなどの
被覆のない裸の鉛弾)
に被弾したことを回想している。
「ダムダム弾の禁止に関するハーグ宣言」(一八九九年)
が禁止するダムダム弾
まで使った支那兵は、小銃を捨てても、手榴弾や拳銃を懐中に隠し持つ例が多かった。
そこで、敗残兵を捕えても
「ヤッテシマエ」
と襲いかかる例があった。》
これは メッセージ 962 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/967.html
城内でソバ屋を開く中国人
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/09 18:30 投稿番号: [966 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
226〜227p
《 南京城内の掃蕩はつづき、南部からすすむ第百十四、第六師団は、
次第に市の中央部に近づいた。
左翼を北進する第二十三連隊がたどる路上は、ほとんど人影もなく、
散発的な狙撃をうける程度であった。
そのうち、意外にも店をひらいている麺料理屋をみつけ、連隊本部の数人が
はいって注文すると、主人は手早く
『広東ソバ』
を給仕した。
「こりゃぁ、甘露だのゥ」
「テンハオですな、まったく」
銃弾がとび、手榴弾、砲弾の炸裂音、そして爆煙と屍臭がただよう、〝死の街〟で、
営業するソバ屋は、いかにも奇妙な存在である。
しかも、主人は日ごろの顧客なみに日本軍を笑顔でむかえ、
日本側も警戒を忘れてソバに舌つづみをうった。
一同は、久しぶりに料理らしい味に満足し、銀貨で代金を支払った。
主人は、紙幣ではなく銀貨をもらったが、よほど嬉しかったらしい。
「謝謝、多謝」
とくり返して、第二十三連隊将兵をおくりだした。
228p
−
だが、
城内に残る中国軍は、なお、東部と西北部で戦いつづけていた。
第十軍司令官柳川平助中将は、午後六時、次の 「丁集作命甲号外」 命令を下令した。
「一、敵ハ
南京城内ニ於テ
頑強ニ抵抗ヲ
続ケツツアリ。
二、集団ハ
南京城内ノ敵ヲ
殲滅
(せんめつ)
セントス。
三、丁集作命甲第五十六号第九項
ノ制限ヲ解ク。
四、各兵団ハ
城内ニ対シ、 砲撃ハ固
(もと)
ヨリ
有ラユル手段ヲ尽シ、
敵ヲ殲滅スベシ。之ガ為、要スレバ
城内ヲ焼却シ、
特ニ敗敵ノ
欺瞞
(ぎまん)
行為ニ
乗ゼラレザル
ヲ要ス。
引用されている
「丁集作命甲第五十六号第九項」
は、南京城内には各師団は
一個連隊だけを突入させ主力は城外に待機させる趣旨の指示であった。
その制限をといて主力を突入し、しかも、南京を火攻めにしても残兵を掃蕩せよ、
というのである。
231p
各部隊とも、 「焼却」
戦が必要とは考えなかったが、
中国側の
「欺瞞行為」
には神経をとがらせざるを得ない。
これまでにも、中国側は、軍服をぬいで便衣で戦い、
ときには老婆に変装して日本軍をおそうほか、
現実に婦女子も武器をとって戦うことは、どの部隊も体験ずみだからである。》
これは メッセージ 960 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/966.html
12月13日 虐殺されていた日本兵
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/08 18:29 投稿番号: [965 / 2250]
12月13日から、日本軍は南京城内に入るが、
この時、虐殺された日本兵の死体が見つかった。
★
生きたまま焼かれた日本兵
上海派遣軍第九師団山砲連隊第七中隊
中隊長代理大内義秀氏の宣誓供述書より
《 十二月十三日午後、私達は光華門の城壁を占領したが、入城は許されず、
憲兵と一部の小部隊が入城した。
その日、城壁付近で彼我不明の焼死体を発見、まだかすかに息をしていた。
これを見た大隊長芳賀少佐は激怒し犯人の捜索を厳命した。
私の部下に犯人はいなかった。
死体を検死した軍医は、これは少なくとも十時間以前の犯行であるから、
日本軍の入城前であり、日本兵が捕虜となり、
支那軍によって焼かれたものであろうと判定した。》
(冨士信夫著
『「南京大虐殺」
はこうしてつくられた』
210p)
*
10日に第九師団・第六旅団・第36連隊の第一大隊が光華門城壁に日章旗を
立ててから、3日間頑張っていたから、犠牲者は彼らの内の誰かかも知れない。
また、別の残酷死体も見つかっている。
★
手足を立木に縛られ銃殺された日本兵
第三師団野砲兵第三連隊第一大隊観測班長・大杉浩の宣誓供述書より
《 十二月十三日夕刻頃、南京の南方の城門から城内に入ったが、
そこには彼我の戦死体が点々と散在して居ましたが、
その中に一人の日本兵が手足を立木に縛られた儘(まま)、
身に数弾を受けて死んでゐました。
私は一見して、俘虜となった日本兵が支那軍によって虐殺されたものと感じ、
縄を切って地上に下ろしておきました。
城壁の近くには支那軍の戦死体が相当数ありましたが、常民の死体は見なかった。》
(冨士信夫著
『「南京大虐殺」
はこうしてつくられた』
175p)
新愛知新聞 ・ 南正義記者の証言
★
十二月十三日ですか、先頭の部隊と共に中山門から城内に入り、中山東路を進むと、
街路樹のプラタナスに日本兵が吊るされていて大騒ぎになりました」
日本兵がですか。
「そうです。後でわかったのですが、通済門か光華門で戦いがあり、
そこで捕まった日本兵らしいのです。
それを中山東路につれてきて、殺して、プラタナスの木に吊るしたものです。
下から火であぶってありました」
何体くらいですか。
「私が見たのは二、三体です。すぐプラタナスから下ろしました。
それを見た兵隊たちはカーッとなりましてね。それでなくとも敵愾心がありますから」
(阿羅健一著
「南京事件」
日本人48人の証言127p)
*
こんな事をされたら、日本兵の中国投降兵に対する態度が、
厳しくなるだろう事は、容易に想像がつく。
これは メッセージ 960 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/965.html
12月13日海軍の下関突入
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/07 18:34 投稿番号: [964 / 2250]
戦史叢書
中国方面海軍作戦1』
467〜468p
《 南京突入(一三日)
烏龍山砲台の守備兵は十三日未明の陸軍第十三師団
山田支隊の進出及び海軍部隊の砲爆撃により、敗走した模様であった。
南京においては陸軍部隊は城内に突入し始めた。
近藤指揮官は急速閉塞線を突破して南京に進出するに決し、
12:00 ころ各隊に進撃を下命した。
・・・
13:30
前衛隊
(保津、勢多、掃一、掃三号、山風、海風)、
15:15
主隊
(二見、掃一、掃四号、江風、涼風、
安宅は錨鎖に掃海索が絡まり出港が遅れ、
近藤指揮官はとっさに江風に旗艦を変更、南京入港後安宅に復帰した)
の
順に泊地発、縦陣列で閉塞線を突破し南京に向け進撃した。
更に主隊の後に第一水雷隊の
「鵲、鴻」、「安宅、熱海、掃二、掃五号」
がこれを追った。
江上、江岸は敗走する敵大部隊、舟艇、筏
(いかだ)
で充満していた。
各艇はこれらに猛攻撃を加え、
更に天河口、硫安工場付近の野砲陣地その他の抵抗を排除しつつ前進し、
先頭の保津、勢多は 15:40、主隊は 17:00 南京に突入した。
第一掃海隊は南京到着後直ちに泊地を掃海し、また浦口桟橋を確保した。
児島襄著
『日中戦争4』
222〜223p
《
−
正午、
烏龍山沖の閉塞戦を除去した海軍第十一戦隊司令近藤英次郎少将は、
南京への前進を下令した。
戦隊が縦陣列ですすむにつれ、江岸と江上は脱出をいそぐ中国側の筏、
小舟、さらに泳ぐ人馬で満ちあふれていた。
各艦は砲、機銃で
「猛攻撃」
を加え、さらに左右岸の中国軍陣地を
銃砲撃しながら、下関埠頭をめざした。
・・・
艦の横を掃蕩された中国兵の死体が流れすぎ、
中には太い一本の竹にすがる中国兵が波におされて近づいてきた。
「ニイ、来々……」
水兵が片言の中国語で呼びかけ、手をさしのべる仕ぐさをみせたが、
中国兵は頭を左右にふり、光る眼で艦を注視しながら流れて行き、
後続艦の機銃掃射をうけて水没した。》
*
ここでは、 「江上、江岸は敗走する敵大部隊、舟艇、筏 (いかだ) で充満していた。
各艇はこれらに猛攻撃を加え」
とあるが、どこまで本当だろうか?
前夜、下関から脱出しようとした連中は、船がなく、城内に戻った。
幕府山から烏龍山の間は第2軍が全員渡河したので、もう船はないだろう。
午前10時ころには下関は佐々木支隊によって占領されている。
海軍が閉塞線から、進発するのが 13:30 、
海軍が通るころに、敵大部隊がどうやって渡河できる?
江上にあるのは、下関から流れてくる漂流者や死体では。
海軍は、これを銃撃して、手柄にしていないか?
陸軍佐々木支隊も同じ漂流死体に銃弾を浴びせて手柄にしているだろう。
海軍も同じ漂流死体に銃弾を浴びせて手柄にしている筈。
その前に南京の南西部で第6師団が攻撃しているが。
これらの戦果は三重に重複していないか。
しかして、これらの漂流死体を作ったのは、主に、中国軍の同仕打ち。
南京南西部の戦いのみ日本軍が関与。
何も知らない、善人心の日本人は、これらの記録を見て日本軍の大虐殺と思いこむ。
これは メッセージ 957 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/964.html
山田支隊 烏龍山占領
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/06 18:31 投稿番号: [963 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
428p
《 山田支隊は十三日烏龍山を占領 》
東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』128p
《 (山田支隊第六十五連隊)
は、十二月十三日、霞棲街
(かせいがい)
を通った。
霞棲街は宿泊の家もないほど、支那軍に放火されていた。
午後一時、第六十五連隊の第一大隊は揚子江岸の烏龍山砲台の占領に成功する。
次の目標は幕府山砲台の占領であった。
これは メッセージ 962 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/963.html
大量の投降兵に困惑する日本軍
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/05 18:28 投稿番号: [962 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
223〜224p
《
−
午後一時すぎ、
南京城内をすすむ各部隊は、次第に収容する中国兵捕虜の数をふやしていた。
第百十四師団第六十六連隊だけでも、すでに千数百人をかぞえていた。
捕虜は適時に後方の連隊本部、旅団司令部におくるが、各部隊ともにその処置に困惑した。
捕虜は、いわば 〝扶養人口〟 である。
敵ではあっても、武器を捨て降伏した以上は給養しなければならない。
「捕虜ハ
第四中隊警備地区内
洋館ニ収容シ、 周囲ニ警備兵ヲ配備シ、
其ノ食事ハ
捕虜二〇名ヲ使役シ、 徴発米ヲ
炊爨
(すいさん)
セシメテ
支給セリ……食ニ飢ヱタル彼等ハ、 争ツテ貪食セリ」
第六十六連隊第一隊戦闘詳報にも、そう記述されている。
だが、数十人、数百人の捕虜なら、たとえ毎食に
「貪食」
されても
なんとかなろうが、数千人、ひいては南京守衛軍主力の大部の数万人が
投降してくるとなると、重大問題である。
日本側は、既述したように、第十軍は
「糧株ハ追送補給セズ」
と規定し、
現地徴発をたよりに南京への急進撃をかさねてきた。
その現地徴発は、中国側の
「焦土戦術」
のおかげで不如意にとどまり、
将兵はひたすら空腹に耐えている。
むろん、国際法は、交戦国に捕虜にたいする給養、必要な生活手段、医療の
供与を義務づけてはいるが、
現実には、日本軍自身が
「飢ヱタル」
事情にある。
「白米はもはや一粒もなく……捕虜に食わせるものの持ち合せなんか
我軍には無いはずだった」
第十六師団第三十旅団長佐々木到一少将が、中国兵捕虜の群れを前にして、
そう、憮然と歎息するゆえんである。
これは メッセージ 961 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/962.html
12月13日のラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/04 15:08 投稿番号: [961 / 2250]
《 ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。
なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は二日後にくるといった。
日本軍は北へむかうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、
中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で六百人。
武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、
日本軍が進入してくるのをみて決心した。
我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。
私ともう一人の仲間はそのまま車に乗っていき、鉄道部のあたりでもう一部隊、
四百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるように指示した。
どこからかいきなり弾が飛んできた。
音が聞こえたが、どこから撃っているのかわからない。
やがて一人の中国人将校が馬に乗ってカービン銃をふりまわしているのを見つけた。
おそらく我々がしたことが納得できなかったのだろう。
たしかに彼の立場からすれば、無理ないのだろうが、
こっちとしてもほかにどうすることもできなかったのだ!
ここで、安全区の境で、市街戦が始まりでもしたら、
逃げている中国軍が、安全区に戻ってくるのは火を見るより明らかだ。
そうなったら安全区は非武装地帯ではなくなり、
壊滅とまではいかなくても徹底的に攻撃されてしまうことになる。
我々はまだ希望を持っていた。
完全に武装解除していれば、捕虜にはなるかもしれないが、
それ以上の危険はないだろう、と。
我々に銃口を向けた将校がそれからどうなったか知らない。
ただ、仲間のハッツが彼からカービン銃を奪うのを見届けただけだ。
本部に戻ると、入り口にすごい人だかりがしていた。
留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。
揚子江をわたって逃げようとして、逃げ遅れたのにちがいない。
我々に武器を渡したあと、かれらは安全区のどこかに姿を消した。
シュペアリングは非常に厳しい固い表情で正面玄関にたち、
モーゼル拳銃を手に、といっても弾は入っていなかったが、
武器をきれいに積み上げさせ、ひとつひとつ数えさせていた。
あとで日本軍にひき渡さなければならない。》
これは メッセージ 959 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/961.html
Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ
[検索ページ]
(中東)
(東亜)
(捕鯨 / 捕鯨詳細)