12月16日 和平案改訂会議と城内清掃
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/01 16:07 投稿番号: [988 / 2250]
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和平案改訂会議
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』463p
《 十六日の大本営政府連絡会議では、独大使に対する回答案の取り扱いなどが審議された。》
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城内清掃
児島襄著
『日中戦争4』
238〜239p
《 十二月十六日、
日本軍は掃蕩と清掃をいそいだ。
翌日、十七日に入城式、次いで十八日に陸海合同慰霊式をおこなうことが
きまったからである。
とくに、市内に散乱する中国側の死体の片づけが、急務とみなされた。
入城式行進のルートは、中山門から国民政府大礼堂までの目ぬき通りがえらばれている。
「安全区」
委員会に協力がもとめられ、委員会は、紅卍会
(楊登瀛)
と
慈善団体
「崇善堂」(周一通)
委託した。
紅卍会は急には人夫が集められない旨を回答し、 「崇善堂」
だけが、
「安全区」
の難民を
「一体四角」
の処理賃金で動員した。
だが、それでもわずか四十人をあつめ得たにすぎず、おかげで死体処理といっても、
中山路と中正路が交差する鼓楼付近の死体を、
双龍巷、石婆巷などの露地の側面につみあげるか、
いくつかの池に投棄するだけで
埋葬は後日に待つほかはなかった。
死体の壁ができた露地には、たちまち野犬、野良猫、ネズミがむらがり、
凍った死体の腹をかみやぶり、その中で眠るものもいた。
捕虜の処置もいそがれ、前述した
「安全区」
の法務部から連行された
中国兵約二千三百人の大半が処刑された。
*
「死体を、・・・、いくつかの池に投棄するだけで・・・」
なるほど、「崇善堂」
に雇われた中国人が放り込んだわけか。
だから、彼らは、どの池に、どのくらい死体があるか知っていたわけだ。
路上の死体の殆どは、12日夜の中国軍の脱走混乱でできたものだった。
それを、外国人は、日本軍が殺して放り込んだと聞かされたわけか。
こうやって、歪曲された歴史がつづられた。
これは メッセージ 986 (kireigotowadame さん)への返信です.
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