入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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陸軍の南京城突入

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/03 14:53 投稿番号: [960 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   221〜222p


《 第十六師団は右翼の第三十八連隊が装甲車を先頭にして東から下関にせまり、

第三十三連隊は太平門、第九連隊は中山門の突破をこころみた。

第九師団は、第三十五連隊がまず中山門東側の城壁をおどりこえ、

第三十六連隊と第十九連隊主力は光華門内になだれこんだ。


第百十四師団は中華門からの突入をはかり、

第百二連隊、第六十六連隊が重砲の援護下にすすんだ。

その左の第六師団は、第十三、第四十七、第二十三連隊が、それぞれの正面に

確保した城壁突破口にすすみ、第二十三連隊がまっさきに城内に進出した。



   −   午前十時、

第十三師団は烏龍山攻撃をはじめ、

第十六師団も次々に城壁をこえ、第九師団は城内での掃蕩前進にうつった。

第百十四師団は中華門に日章旗をかかげ、

第百二連隊を先頭にして南京市内の中山北路を北進した。


街には、十数人ずつの中国人市民が所々にかたまっていたが、

第百二連隊が出現すると、歓呼と拍手でむかえた。

第六師団も、第二十三連隊につづいて第十三、第四十七連隊が城内にはいり、

掃蕩戦を実施した。



ただし、どの部隊もその前進は慎重をきわめた。

市街戦がいかに苛酷かは、上海でもその他の都市でも、

たっぷりと体験させられていたからである。

たとえば、第百十四師団では、参謀長磯田三郎大佐が、

とくに次のような注意を各部隊に示達していた。



「市街戦ハ   極メテ困難   ナルヲ以テ、前進路ノ左右ニ   通ズル道路ヲ

巧ミニ利用シ、連絡ヲ緊密   ナラシムルコト……、

市街戦ニ於テ   道路上ヲ   行進スル場合ハ、土嚢ヲ積ミタル   樽等ヲ利用シ、

之ヲ   転ガシナガラ   前進スルヲ要ス……。

敵ガ家ノ二階   又ハ   屋上ヲ利用スル場合ハ、先ヅ下階ヲ占領シ、

之ヲ焼却スルカ   又ハ上ニ向ツテ   掃蕩スル……」



すべての建物は敵陣であり、動くものはすべて敵とみなす配慮が必要なのが、

市街掃蕩戦であり、それだけに日本軍将兵は、

恐怖をこめた不安と緊張に眼を血走らせていた。》

12月13日のラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/02 18:26 投稿番号: [959 / 2250]
  十二月十三日

《 日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んでいない。


本部に着くとすぐ、我々はたちどころに国際赤十字協会をつくりあげ、

私が役員として加わった。

ここしばらくこの件を担当していた盟友マギーが会長だ。



委員会のメンバー三人で野戦病院に行く。

それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。

行ってみてその悲惨な状態がよくわかった。

砲撃が激しくなったときに医者も看護人も患者をほうりだして逃げてしまったのだ。

我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。

急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、

みな再び勇気をとりもどした。



外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。

庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。

入り口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。

見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。



我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。

手榴弾を轢いてしまったが最後、ふっとんでしまう。

上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。》



(この後、日本軍との遭遇が出てくるが、それは、日本軍突入の後に続ける)



町を見まわってはじめて被害の大きさがよくわかった。

百から二百メートルおきに死体が転がっている。

調べてみると、市民の死体は背中を射たれていた。

多分逃げようとして後ろから射たれたのだろう。》



*   ここまでは極端な問題はない。ただ、道路の死体や惨状は中国兵による

   夜中の混乱で生じたもので、日本軍はまだ関与していない。


   「市民の死体は背中を射たれて」   これらの死体は、基本的に、

   前日夜にできたもので、   この   「市民」   なるものが本当の市民なのか、

   軍服を脱いで   「市民」   に化けた中国兵なのか判らない。


   しかし、前後の事実関係を知らずして、ラーベの日記だけを読むと、

   日本軍がやったかのように思わせられる。


つづく

掃蕩 (そうとう)  区域の割り当て

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/01 18:31 投稿番号: [958 / 2250]
城内突入の前に、掃蕩区域が割り当てられた。


東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   177〜178p


《 作戦地域の指定と責任の明確化

掃蕩区域が次のように割りあてられた。


①   獅子山砲台を含む城内東北部   (中山東路以北)

   第十六師団麾下 (きか)   の歩兵第三十旅団の第三十三連隊   (野田部隊)   と

   第三十八連隊   (助川部隊)   が担当。


②   光華門から西の漢西門まで

   第九師団麾下の歩兵第十八旅団の歩兵第十九連隊   (人見部隊)   が担当。


③   中山門から中山東路へと東に向う地域   (中山東路以南、中正路以東)

   第九師団麾下の第六旅団の歩兵第三十五連隊   (富士井部隊)   が担当。


④   北部   (中山路以西、漢中路以北の地域)

   第九師団麾下の歩兵第六旅団の歩兵第七連隊   (伊佐部隊)   が担当。



なお、中華門   (南門)   周辺と城内東部は初めから問題外であった。

中華門周辺の掃蕩は、支那軍が早くから安全地帯や北門   (ユウ江門 )   へ

向けて撤退していたから、不要であった。


城内東部は、第十軍参謀の山崎正男少佐の陣中日記にもあるように、

「南京城東部ハ広漠タル空地」   であった。

また、第十六師団後方参謀の木佐木久少佐の陣中日記にもあるように、

「城内ノ南半部ハ市街地ナルモ、北半部、及ビ西半部ハ尚 (なお) 畑地アリ」

という状況であった。東部は支那兵の潜伏可能な地理的状況ではなかった。

そこで、掃蕩戦が展開されなかったのである。》

12月13日 佐々木隊 下関占領

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/31 18:40 投稿番号: [957 / 2250]
佐々木倒一少将私記
十二月十三日

《 払暁前   我が第一線は敵陣地に突入し   続て敵を急迫し、軽装甲車中隊

午前十時頃   先ず下関に突進し、江岸に蝟集(いしゅう) し

或いは江上を逃れる敗敵を掃討して無慮一万五千発の弾丸を撃ち尽くした。

この間 歩三八   (歩兵第38連隊)   は城北に面する五個の城門を占領して敵の退路を絶ち、

連隊長は三三の大隊と共に装甲車に追及して西面ユウ江門付近に進出し、

逃げ遅れた敵兵と戦闘を交えた。



司令部は予備隊たる歩兵一中隊を以って   左後方より突撃し来る前後数回の敵と

激戦を交へ、通信手、輜重兵、伝騎に至るまで戦線に加入敵を撃退し、

その後方を追及しつつ道路の不良に悩みつづけた野砲兵大隊は

是   (これ)   又 夜間敵の襲撃を受け援護の歩兵一中隊、工兵一小隊と共に

零分割射撃以って敵に応戦、四時間の久しきに亘 (わた) って戦闘。



更にその後方には後衛として残置した歩兵二中隊が   夜半以降

又二方面より反復殺到する敵の大部隊と戦闘してこれを撃滅した。

更にその後方衛生隊附近に集成騎兵団が位置していたが、暗黒の裡に

敵の襲撃を受けて部落内に突入せられ、

人二百馬六十の損害を被るが如き失態を演じている。



此騎兵も又その後方に在った重砲も盛んに増援を請うてきたが

自衛力を有するものを顧みる遑   (いとま)   はなかった、

蓋   (けだ)   し予の部隊は数里の長きに亘って延伸し   側面に対して

至る処   (ところ)   激戦を交えている状態だったからである。



午前十時頃、我左翼援護の為   高地上に位置せしめた中隊の陣地に対し

後方から重砲の試射らしき数弾が飛来し、続いて効力射に移り、

あれよあれよと兵隊が騒いでいるうちに三十余発の砲弾を集中した。

山頂は爆煙に被われて此部隊の損害が目に見えるような気がした。

血迷った我重砲が味方撃ちをやったのであるが、幸に背嚢一個ふっ飛ばされたのみ。

因   (ちなみ)   に此中隊も山の上から敵の背後を攻撃している。



前述する如く午前十時我支隊の軽装甲車が最初に下関に進出して完全に敵の背後を絶ち

又我歩兵は北面の城門全部を占領封鎖して敵を袋の鼠とし、

少し遅れて第六師団の一部が南方より江岸に進出し、

海軍第十一戦隊が遡江して流下する敵の舟筏を掃射しつつ午後二時下関に到着し、

国崎支隊は午後四時対岸浦口に来着した。



其他の城壁に向かった部隊は城内を掃蕩しつつある。

実に理想的の包囲殲滅戦を演じているのであつた。

此日我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上り

その外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば

我支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。》



*   ここには   「江岸に蝟集し或いは江上を逃れる敗敵を掃討」   と書いてあるが、

   これは、本当の話だろうか?

   中国兵が船を求めて右往左往していたのは、もっと早い時間。

   船の奪い合いで、同士撃ちをやって、下関附近には、死体の山ができていたはず。

   そして、船や筏に乗った者も積載オーバーで沈没、流されていた。

   殆どの兵は、乗るものがないため、諦めて城内に戻り安全区に隠れた。

   何で、こんな時間に、そんなにたくさんの兵が居るのか?

   装甲車に追われて来た兵と南から第6師団に追われて来た兵は別として。


   「江岸に蝟集し或いは江上を逃れる敗敵を掃討」   というのは、既に、下関附近に

   あった大量の死体や、江上を漂流する死体を、戦果とするための、作り話では?


   まるで、自分たちが、初めて、死体を作ったかのように書いている。

   これが、後に、大虐殺の証拠にされてしまうとも知らずに。

12月13日 南京城外南西部での激突

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/30 18:27 投稿番号: [956 / 2250]
南京の北東部で佐々木隊が激闘を繰り広げていたころ南西部でも

脱出軍との激突があっていた。


児島襄著   『日中戦争4』   219〜221p


《 水西門の北西に集結した第七十四軍の第五十一、第五十八師は、

しかし、城外に出て、揚子江沿いに南進する準備をととのえた。



  そこで、十二月十三日   −

日本側にとって   「南京城突入」   の日の戦いは、

まず、西側を脱出南下する中国軍第七十四軍と、退路遮断のために北上する

第六師団第四十五連隊主力との交戦で、開幕したのである。

この日も朝霧が濃く、日出前の午前六時すぎでは、第四十五連隊がすすむ江岸一帯は

闇につつまれ、右手の南京城壁も城内の火焔を背にして黒い森のようにみえる。



第十一中隊の尖兵小隊長赤星中尉が、出発を歩哨に指示すべく本道に出て、

人の気配をたよりに近づくと、相手もこちらをたしかめるためか、顔をよせてきた。

(ご苦労……)   と唇を動かしかけたとたん、中尉は相手に気づいて、立ちすくんだ。

敵   ―   である。しかも、相手は将校斥候らしく、

中尉は数人の兵の銃剣にかこまれ、敵将校と対面していたのである。



「私は軍刀に手をかけようと思うが、動けば直ぐやられるような気がして、

どうしてどうして生きた心地は致しません」

闇の中の緊張の対峠がつづいたが、敵将校がふと一歩をふみだしたとき、中尉は、

夢中で軍刀をぬいてふりまわし、横の溝に身を投げだして、敵襲ッ、敵襲ッ、と連呼した。



脱出してきた中国軍第七十四軍主力は、約六千人。 優勢であるうえに、

生きのびようとする決意に燃えているので、その攻撃もはげしかった。

チャルメラ風の中国軍ラッパを、日本側では   「テラテラ喇叭 (ラッパ)」   と

呼んでいたが、第七十四軍はそのラッパを吹き鳴らして、第四十五連隊に殺到した。

第十一中隊は、中隊長大薗庄蔵大尉が戦死してあやうく包囲されかけたが、



大隊砲と連隊主力の応援で危機をきりぬけ、逆に殲滅戦に移った。

中国軍第七十四軍は潰乱し、北に逆行する者、江岸に逃げる者、

あるいは日本軍の間をすりぬける者にわかれたが、南進した将兵は、

待ちかまえた日本側の騎兵第六連隊の銃火になぎ倒された。

第四十五連隊は追撃し、北河鎮を経て   「大同製麺公司」   工場に

たてこもる残兵を一掃した。



次いで、江岸に機銃をすえ、筏や戸板にすがって渡河しようとする敗兵を掃射し、

工兵が敵屍体を積んで急造した   「気味悪い橋」   をわたり、下関への道をいそいだ。


*   この戦いで、新たに、揚子江に浮かぶ漂流者や漂流死体が作られた。

   しかし、これは戦闘によるものであって、無辜の市民の虐殺ではない。

12月13日 脱出軍と佐々木支隊との激突

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/29 18:25 投稿番号: [955 / 2250]
前日、司令官唐生智より、敵中突破で脱出しろと、中国軍に命令があっていた。

兵隊たちは、下関へ脱出路を求めたが、船が無いため、戻り、或る者は安全区に隠れた。

しかし、それを潔しとしない者は、命令どおり、敵中突破の挙にでた。

そこに、佐々木倒一少将の部隊がいた。



佐々木倒一少将私記

十二月十三日


《 十二日の夜は至る処に激烈なる銃声を聞き、後半夜には砲声さへも聞えた、

併   (しか)   し一般の情勢から判断すれば落城は刻一刻近づきつつあるので、

予備隊の直ぐ左に在る高地に敵が出てくれば忽   (たちま)   ち苦境に陥らなければならず、

而かもこゝに僅   (わず)   か一中隊の兵力を割   (さ)   くことができるばかりの

手薄だつたに拘   (かかわ)   らず極めて安易な気持になつた。



併しやつと断続して取れるやうになつてゐる師団司令部との無線連絡に依   (よ)   つて

師団命令や情報を聴く為に終夜を費し、

追撃命令を下達したのは午後六時に近かつたのである。

而かも此   (この)   間銃声が近距離に起り、銃弾が盛んに壁に命中してくるのであつた。



満州の旧部下が苦辛   (くしん)   して持つてきて呉れたするめや魚の干物を分配、

そして久し振りにクレーヴンの芳香に接した。

此人達から東宮中佐が去十一月十三日杭州湾上陸作戦の花と散つたことを聴いたのである。

去八月の中頃大連で別れたのが最後で、此人は満洲移民の生みの親と云はれ、

もつと生きてゐて貰ひ度かつた惜しい武人だつた。万感胸に迫る。



焚火   (たきび)   を掻   (か)   き立てゝ煤   (すす)   けた寝台に横になり忽ち熟睡。



午前八時頃ふと目を醒   (さま)   せば至近の距離に激烈な銃声がしてゐて、通信手や

行李   (こうり)   の輜重   (しちょう)   兵までが銃を執   (と)   つてばたばたやつてゐる。

「何事だ?」

屋外を走りかけた副官に尋ねる。



「今撃退したところです、紫金山から真つ黒になつて降りてきました」

「敗残兵か?」

「チェックを腰だめで撃つてくるのです、それが何回も何回も五六百一所になつて」

「鉄砲を取り上げろ」

「降伏なんかするもんですか、皆殺しです」



くるわ、くるわ、あつちにもこつちにも実に夥   (おびただ)   しい敵兵である、

彼らは紫金山頂に在つた教導師の兵で 血路を 我支隊の間隙に求めて

戦線を逆に討つてでたものであつた。銃声の間に怒号罵声すら聞えてゐる。》



《 家屋に立て籠っていつまでも抵抗するもの、いち早く便衣に替えて逃走を計るもの、

そして三々五々降伏する者は必ず池の中に投じ或いは家の中に投げ込んで放火していた。

この点は実に徹底していた。当面の敵は蒋介石が虎の子のようにしていた

師団だけあって最後迄最も勇敢に戦ったようである》


注    「チェック」   とはチェコ製の機関銃で日本製より優れていた。


つづく

訒竜光と第66軍 広東軍の敵中突破

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/28 15:28 投稿番号: [954 / 2250]
《 『南京保衛戦』・・・   劉紹武は書いている。


「十二日午後二時頃、唐生智から電話が入り、訒竜光に会議に来い、といわれる。

訒竜光は側近の陳文を連れて出かけると、五時頃、訒竜光から、

〝広東軍はすべて葉肇の下に入って、前線を突破して撤退する。

その第一として、広東軍はすべて太平門に集結せよ〟 と命令が入った。

このとき誰かが、大きな声で 〝逃げるんだ〟 と叫んだ。

この声で、多くの官兵は大混乱となった。



私   (筆者である劉紹武)   はとりあえず五百万分の一の地図を持ち、

車で太平門に行こうとしたが、道は人の山で身動きも出来ない。

歩行で、暗くなった頃、やっと中央党部に着き、軍長の訒竜光とは会えたが、

師長の李江はいなかった。そして太平門に着いたのが午後八時である。


しかし、太平門は敵の進撃を封じるためにコンクリートで閉められていたので、

内側から外に出ることが出来なかった。



葉肇の軍隊が、その障害物を爆破し、とり除くのに懸命になっていた。

太平門に大挙集合した広東軍はいら立ち、逆に外部からは日本軍がこの辺りに

攻めてくるという情報もあって、焦りは頂点に達する寸前だった。



午後九時を過ぎた頃、突然大声が起り、通路が開かれ、人が流れはじめた。

周辺は闇に包まれ、その中で人びとは先を争って城外に飛び出した。


弱者は倒れてふみつけられ、命を落し、強者はその上を通って、命を長らえた。

あとで私がきいたところによると、ある男は踏みつけられて下敷になり、

身につけていた手榴弾を投げつけて、周囲の者とともに自爆した、という。

惨劇のほどがうかがわれるであろう。



私は訒竜光とともに城外に出て、先頭部隊のあとを迫って公路を南下した。

しかし先頭部隊はたまたま日本軍との遭遇戦になり、葉肇軍の羅策群副師長は、

「几(幾)大就几大、唔好做哀仔呀」 (これは、広東語特有の表現で、

「広東人の誇りを失わず、人に後ろ指をさされるようなことはするな」

というような場合に使われるらしい)   と叫びながら戦死した。》


(鈴木明著   『新   「南京大虐殺   」のまぼろし』   265〜266p)



児島襄著   『日中戦争4』   218p


《 第六十六軍長葉肇と第八十三軍長訒竜光は、脱出方法について協議・・・

太平門を出て紫金山の南をかすめ、

ちょうど日本軍第十六師団と第九師団の中間をすりぬける……。

第百六十師が太平門内側の土嚢を撤去して脱出を開始したが、

たちまち城外に敷設した自軍の地雷原で損害をうけ後続する部隊の足をすくませた。》

中国第2軍団の脱出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/27 15:35 投稿番号: [953 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   218〜219p


第二軍団の脱出成功


《 軍団長徐源泉は、首都衛戍   (えいじゅ)   司令との連絡がとれぬままに

退却命令も知らずにいたが、深夜、敗兵が陣内にまいこんできて報告した.


「南京己   於本日午後   失陥、下関江辺   無船可渡」


軍団長徐源泉は、日本軍   (第十三師団)   が烏龍山にせまっているが、

なお、同山と幕府山、南京の間は無事であり、

遡江している日本海軍部隊も烏龍山付近の揚子江閉塞線でストップして

いる事情を考え、 「保存戦力」   のために退却を決意した。

周家沙、黄泥湯の渡船場から渡河をはじめ、

夜明けには、主力は対岸にわたることができた。



日本海軍の遡江部隊である砲艦七隻、駆逐艦三隻を基幹とする第十一戦隊

(近藤英次郎少将)   は、おりから烏龍山沖の閉塞線の除去作業をおこなっており、

中国軍第二軍団の脱出渡河は、その 〝鼻先き〟   を密行する形であった。》


注:   「南京己   於本日午後   失陥、下関江辺   無船可渡」   の翻訳

   南京己   (すで)   に、本日午後に失陥、下関の揚子江辺に   渡れる船なし。

12月12日 安全区にかくれる中国兵

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/26 18:31 投稿番号: [952 / 2250]
郭岐の証言   (『南京大虐殺の現場へ』   の笠原十九司が集めた証言集105頁)


〈十二日深夜になっても鼓楼病院   (城内を南北に走る道路のほぼ真ん中に位置する)   から

先へ進めなかった。ユウ江門まではまだ約四キロ余あったが、

中山北路は立錐の余地なく人垣で埋まり、少しも動かなかった。


郭岐は下関脱出を断念して五台山に部隊を待機させ、

翌十三日午後に部下五〇〇余人を便衣   (民間人の平服)   に着替えさせ、

各自逃亡するよう命令して部隊を解散し、本人はイタリア大使館に避難した。〉

(松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』 55pより)



宋希濂の回想録 『鷹犬将軍』 より


《 孫元良の、あのように卑劣な行為

(原註=孫元良は、十二日午後五時に長官邸に行き、会議が散会されたあと、

部隊には帰らないで、軍服を脱いで平服に着変え、難民区に行った。

そのまま一カ月潜んだあと、日本軍が難民を地方に疎開させたとき、

その中に紛れ込んで抜け出した)

は幹部にふさわしくない、恥ずかしいことだった。》

(鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 262〜263p)



児島襄著   『日中戦争4』   217〜218p


《 将兵の一部は、渡江をあきらめ、再び城壁にのれんなみにたれ下った綱にすがり、

城内にもどる者もいた。

多数は〝暴徒〟化して放火をはじめ、深夜には交通部にも放火された。

火は外のゴミ、遺棄された弾薬にものびて大火災となり、

まきこまれて焼死する人馬の悲鳴が夜空にひびきつづけた。》



松村俊夫著   『「南京虐殺」への大疑問』   55pより


《 翌年二月二日の南京アメリカ大使館エスピーからの報告書も紹介されている。

〈中国軍自身が略奪行為を犯したこともまぎれもない事実なのです。

中国兵は気も狂わんばかりに軍服を脱ぎ捨て、

そして民間服を得ようとして市民の服欲しさに殺しまでやったのです。〉

(同書   (たぶん   『南京大虐殺の現場へ』   と思われる)   106頁)》



スミス氏   講演

《十二月十二日の夜、支那軍と市民が略奪を始めた。・・・

このとき特徴的であったのは、城内南部の支那人洋服品店で起きた騒ぎであった。

数百人の兵士がこの商店に殺到した。

市民服であれば、既製服という既製服が、飛ぶように売れた。

なけなしのお金をはたいて、全兵士が服を買い求めた。

そして路上で着替え、軍服を投げ捨て、市民となって消えた。

あとになって、この数百人の市民は、軍官学校と励志社に集合した》

(東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』198p)
  (ラーベの日記12月15日にも同じ記事あり)



*   城内南部は激戦地のそば、安全区に避難もせず、店を開いていたのか?

   光華門(東南門)から、掃蕩戦に入った第九師団の歩兵第十九連隊

   第四中隊長土屋正治中尉は、『南京戦史』 に


   《ただ不気味な静寂、・・・市街に深く進入すればするほど、まさに

   「死の街」 という感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、人影一つ見えず、

   粛然とした軒並みのみが果てしなく続いていた。》

   (東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   178〜179p)


   と証言しているが。場所によって違うのか。

   それとも、スミス氏の中国人弁護か?

実際にあった攪乱工作4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/25 18:32 投稿番号: [951 / 2250]
外国人も、最初は日本軍の犯罪と考えていましたが、

徐々にそうではないことが判ってきます。



松村俊夫著   『「南京虐殺」への大疑問』   140〜141pを見てみましょう。


《 憲兵も毎日日暮れ以後はあまり活動せず、七時、八時にはまったく影も形も

なくなった。それで強奪などの事件は後を断つことがなかった。


最初、新街口で難民収容所が一つ襲われた。・・・その次は孫軍需官で、

彼は教導総隊第一連隊の軍需主任である。

出発直前まで私は彼と一緒にいたが、その後、連絡が途絶えた。・・・

軍需という目標はとくに大きいので、普通は軽々しくは外出しなかった。


彼が用事で五台山付近へ出かけたとき、二人の盗賊に金をゆすられた。

彼は   「私は藁をしき、藁をかけて寝ているのに、どうして金など持っていようか」   と

言ったが、彼らはいたるところを探した。

中国人の強盗は日本人よりもずっと芸が細かい。

彼らは全身裸にして靴下さえも脱がし足の指に金の指輪をはめていないかまで調べ、

衣服のいたるところをさわって縫い目の中に紙幣を隠していないか

どうかまで調べた。(②234頁〜235頁)
・・・
これは『資料集②』に載っている郭岐の手記の一部である。》



*   ここに   「軍需という目標」   という言葉があります、

   これが単なる市民の言葉でない事は確かでしょう。



次はローゼンがコヴィルに言った言葉
151p

〈 日本人はいかなる文明も持っていない。 (中略) 日本は負ける (中略)

ゲリラがゴリラに対抗しているのだから、ゴリラが敗退するのは必定だ。〉 (①116頁)


*   この中で 「ゲリラ」 とは便衣隊の事ですね。


151〜152p

《 三月三十一日、 「南京から、見せかけの経済についてのノート」   という

宛先不明の文書がベイツによって書かれている(①194〜197頁)。
・・・

〈 日本軍の統制の不安定さについての根拠のない噂が出回っている。

その原因は、全体的に信頼できるニュース源をまったく欠いていること、

および   「国民政府軍の便衣隊」   という快適なタイトルに多少なりとも値する

彷捏 (さまよ) える中国軍部隊の活動があることに求められる。)(①196頁)》



*   南京陥落から三カ月半も過ぎたころになって、ベイツも、

   ようやく混乱の原因が便衣隊にあると、わかってきたようです。

*   つまり、便衣隊の攪乱工作は実際に行われていたのです。

   従って、龍と周が命により残留させられたのなら、

   攪乱工作の密命を帯びていると疑うのは当然でしょう。



次からは通常のルートに戻ります。

実際にあった攪乱工作3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/24 18:30 投稿番号: [950 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   276〜277p

  馬中将は安全地帯で反日撹乱行為を煽動


上海でアメリカ人の発行する   『チャイナ・プレス』 (一九三八年一月二十五日号) も、

同じことを報じている。

それによれば、十二月二十八日現在で、外国大使館や建物から、

支那軍の将校二十三名と、下士官五十四名、兵卒一四九八名が摘発された。



これは、十二月二十四日からの住民登録の結果でもあった。

つづけて   『チャイナ・プレス』   一月二十五日号は、

その前日公表された南京日本軍憲兵隊の報告書を引用する。



《 その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには

南京平和防衛軍司令官王信労   (ワンシンロウ:音訳)   がいた。

彼は陳弥   (チェンミイ:音訳)   と名乗って、

国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。

また、前第八十八師の副師長マーポーシャン中将や、

南京警察の高官密信喜   (ミシンシ:音訳)   もいると言われている。



馬中将は安全地帯内で反日撹乱行為の煽動を続けていた、と言われる。

また、安全地帯には黄安   (ファンアン:音訳)   大尉のほか十七人が、

機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、

王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦に携わったという。》


・・・

注意すべきは、安全地帯の支那軍将兵たちは強姦の話を撒   (ま)   き散らした

だけではなかった。 それを証明すべく、自ら   「強姦に携わった」   か、

強姦未遂に携わったことである。



そのような舞台裏を知っていたのであろう、支那人の中から、

強姦は支那軍がやったのだと証言する者が現れる。


東京裁判に提出されたマッカラムの一九三八年一月の日記は、

「支那人ノ或ル者ハ   容易ニ   掠奪 ・ 強姦   及ビ   焼打等ハ   支那軍ガヤツタノデ、

日本軍ガヤツタノデハ無イト   立証スラ致シマス」


つづく

実際にあった攪乱工作2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/23 18:27 投稿番号: [949 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   275p

『ニューヨーク・タイムズ』   (1938年1月4日号)


「元支那軍将校が避難民のなかに   −   大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」

と題する記事は、次のように言う。以下は全訳である。



《 南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留している

アメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名を匿   (かくま)   って

いたことを発見し、心底から当惑した。

実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位に

つけていたのである。



この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、

それから女子大の建物に住んでいて発見された。

彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした

機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、

自分たちのものであると自白した。



この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから

少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、

アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した。



この元将校たちは逮捕された。戒厳令に照らして罰せられ、

恐らく処刑されるであろう。》



*   ラーベも中国軍将校を匿った。


つづく

南京大虐殺の殺し方は通州事件と同じ

投稿者: taito8 投稿日時: 2011/08/23 17:56 投稿番号: [948 / 2250]
南京城で女性が陰部に棒を突っ込まれて手足を切断された死体があった
そうですが、この殺し方は中国人のやり方です。日中戦争が始まる前に通州というところで日本人の居留民の大虐殺があったのですが、ほとんどが子供と女だったのですが、その殺し方は女性は強姦され手足を切断し陰部に棒を突っ込まれた状態だったそうであまりにひどい殺され方だったので当時日本では有名な事件だったが、戦後日本の残虐さを誇示する為にこの事件は都合が悪いのでGHQによりふたをしてしまったので、新しい世代では知らない人が多いのです。
要するに言いたいことは手足を切断して殺す方法は中国人特有の殺し方であり日本人の殺し方ではないのです。要するに中国兵が日本に罪を着せる為に
日本が占領する前に同じ中国人女性を強姦し殺し切断したのです。
本当に中国人というのは残酷で手段を選ばない民族です。
文化大革命の時も同じ中国人を4000万人も殺したと言われているのです。
それも死んだ人の肉を食ったということです。日本では人の肉を食う習慣はないけど中国では昔から人肉を食うという習慣があるのです。

実際にあった攪乱工作1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/22 18:33 投稿番号: [947 / 2250]
松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   154p

《 『資料集②』   の郭岐の手記
・・・

〈 日本の獣兵は南京市を占領していたが、周辺のデマで日夜不安であり、

まるで針の延に座っているかのようだった。

あるとき、中央   〔国民政府〕   の便衣隊約五、六人が入城し、

中華路付近の地下室内に潜んでいた。



ちょうど五人の獣兵が三、四人の人夫をともなって北から南へやって来ていて、

わが便衣隊の近くに来た。

彼らはすぐさま発砲して獣兵を皆殺しにし、四人の人夫に

「中央軍はすでに入城した」   と言って、人夫たちを安心させた。

この四人の人夫は常態を失して狂気乱舞した。


彼らは大あわてで道をかけ、途中、日本人・中国人を問わず、人に会うごとに

「中央軍が来た!」 「中央軍が入城した!」   と大声で叫んだ。

中華路からずっと難民区内まで叫び続けたので、

町中にうわさが広がり、みな疑心暗鬼になった。・・・〉》



*   これと符合する話がラーベの日記の一月八日の所にあります。


〈 今日、中国人の間で、中国兵たちが南京を奪いかえそうとしているという噂が、

またもやひろまった。

それどころか、市内で中国兵の姿をみかけた、という話まで出ている。

まず、安全区の家々に飾られていた小さな日の丸がそっくり姿を消した。

日本の腕章も。中国人のほぼ全員がつけていたのだが。


そしてつい今し方、ミルズが教えてくれたところによると、

相当数の難民が日本大使館を襲おうと考えていたという。

このときのささやかな暴動に加わった人たちは死刑になった。〉



もう一度   松村俊夫氏の   『「南京虐殺」   への大疑問』   に戻りましょう。


136p
《 ウィルソンの一月八日付の手紙にも次のような話がある。

〈 南京市は絶えずでたらめの噂で一杯だが、私たちはこうした噂を

ラジオでチェックしている。きょう面白い事件があった。

中国人の噂によると、中国軍が城門のところまで来ていて、

再び市を奪還しようとしているというのだ。


日本大使館に行って衣類の洗濯をしていた女性が数人、

手に大きな包みを抱えて家に帰ってきた。

彼女たちが大学に近づくと、日本人が大使館を出ていったので、

この女性たちが略奪品を持って帰ってきたというニュースが野火のように広まった。


たちまち一群の女性たちが略奪の分け前にあずかろうと、

有刺鉄線のある柵を乗り越えて入って行った。

由々しい事態が発生しないうちに彼女たちは大使館の建物の裏から、

中国人使用人に押し出されたという。〉   (①297頁)》



注:松村俊夫氏の言う資料集とは、青木書店刊   『南京事件資料集』   の事

   ①はアメリカ関係資料編

   ②は中国関係資料編

Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし

投稿者: taito8 投稿日時: 2011/08/22 11:41 投稿番号: [946 / 2250]
ここに投稿している人の話しははっきり言って、全く中国政府が戦中戦後に日本に対して行ったデタラメなプロパガンダそのものを言っているだけです。一般のお人よしの日本人は学校では近代史が受験に出ないからという理由で先生が教えないから近代史を詳しく知らないのをいいことにこういうデタラメな南京虐殺事件を言われると素直に日本は悪いことをしたという自虐史観に襲われてしまうのです。
私もちゃんとした歴史本を読む前はそうかなと思っていましたが、ちゃんと歴史を読んだ私は残念ながらだまされません!!
まずデタラメだということの一番の理由は30万人という数字です。
当時の南京の人口は20万人もいなかったのです。もし百歩譲ってこの数字が本当なら南京という都市がなくなってしまっているはずです。それを中国共産党政府は日本があまり抗議をしないのに図にのって中国全土に南京虐殺記念館をつくってその前に30万人虐殺したと平気にデタラメを書いているのです。そしてこの数字がでたらめだと日本から言われると数が問題ではないと言い出すのです。とんでもないことです。30万人だろうが1000人だろうが数字は大問題です。戦闘で1000人は死ぬでしょうが、30万人殺そうと持ったら原子爆弾でも使わない限り殺せません。子供でも嘘だとわかることです。
南京虐殺30万人というデタラメの真実は1000人位のことだと思います。それも殺されたのは殆どが便衣隊という国民党のゲリラなのです。当時日本軍が南京に迫った時に、南京城内には一般の人がたくさんいたのだから、犠牲者を出さないようにするために本当は国民党は降参して城を明け渡すことが国としての常識なのです。それを国民の命をなんとも思わない国民党の蒋介石は軍服を脱いで市民の間に隠れて戦うゲリラ戦法で戦えと指示したです。当然日本軍はまさかそんな卑怯な戦法を使うとは知らずに国民党は逃げたと思って安心して南京城に入ったら、住民の格好をしたゲリラに後ろから撃たれたりしてパニックになったと想像できます。当然ゲリラと住民は区別がつかないからあやまって住民を殺した可能性はあります。そしてゲリラというのは国際法によって普通の兵隊と違い殺しても良いことになっているのです。(普通の兵隊は身分を告げればジュネーブ協定により保護されることになっている)
ですから日本兵に銃殺されている画像が流されますが、あれは全く虐殺ではなく国際法上正しくゲリラを殺したことなのです。それを日中戦争の時中国は米国の国民に同情を買う為にプロパガンダに使ったのです。
日中戦争当時南京には欧米の新聞記者などがたくさんいたのに当時何十万も殺されたらすぐにわかって欧米じゅうに南京大虐殺が報道されたはずですが、殆ど報道もされていないのが事実なのです。一人ドイツ人が報道して
東京裁判で証言したがその時に裁判管から貴方は何人殺されるのを実際に見ましたか?と聞かれて一人と答えているのです。あとは全部住民を装ったゲリラから聞いた話を書いて報道したというお粗末ぶりです。
こういう事実はちゃんと本を読めばわかることなのに、特に日本のバカ政治家連中は本気にして中国に対して莫大なお金をODAとして有償だけでなく半分は無償で延々と円をつぎ込んできたのです。(何十兆円になるでしょう)現在の高速道路やあのパクリ新幹線も全部日本のODAでつくったものです。あと上海や北京のりっぱな空港もです。
それを中国政府は国民に全く知らせずに、逆に反日教育をしてきたのです。
だからあなたのような反日中国人がいっぱい出来てしまい、日本憎しとデモをやるのです。先日の中国新幹線の事故をきっかけに中国が民主主義に移行すれば正しい歴史を教えるようになり本当の日中親善ができるようになると期待してます。しかし残念ながら韓国をみると民主主義国家になってもデタラメな反日教育をしているからダメかもしれません。

12月12日のラーベの日記 2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/21 15:12 投稿番号: [945 / 2250]
十八時半

《 紫金山の大砲はひっきりなしに轟いている。

あたりいちめん、閃光と轟音。突然、山がすっぽり炎につつまれた。

どこだかわからないが、家や火薬庫が火事になったのだ。

紫金山の燃える日、それは南京最後の日。昔からそういうではないか。

南部から逃げてくる人たちが、安全区を通って家へ急ぐのが見える。



その後から中国軍部隊がぞろぞろつづいている。

日本軍に追われているといっているが、そんなはずはない。

いちばんうしろの連中がぶらぶらのんびり歩いているのをみればわかる。

この部隊は中華門、あるいは光華門で手ひどくやられ、パニック状態で逃げてきた

ことがわかった。しだいに落ち着き、最初は気が狂ったように逃げていたのが、

いつしかのんびりとした行進にかわっていた。



それはともかくとして、日本軍がもう城門の前まで攻めてきていること、

したがって最終戦が目前に迫っていることは、もはや疑いようがない。

・・・

夜の八時少し前、龍と周がやってきた。ここに避難させてもらえないかと

いってきたので、私は承知した。韓と一緒に本部から家に帰るまえに、

この二人は、本部の金庫に三万ドル預けていた。



  二十時

南の空が真っ赤だ。・・・。ふたつある門の両方でノックの音がする。

なかにいれてもらおうと、女の人や子どもたちがひしめいている。

ドイツ人学校の裏の塀を乗り越えてがむしゃらに逃げこんできた男たちもいる。

これいじょう聞いていられなくなって、私は門をふたつとも開けた。

防空壕はすでにいっぱいなので、建物の間や家の陰に分散させた。

ほとんどの人はふとんを持ってきている。庭に広げてある大きなドイツ国旗の下で

寝ようというちゃっかりした連中もいる。ここが、一番安全だと思っているのだ。
・・・


十二時ちょっとまえ、門のところでドシンというすごい音がした。

行ってみると友人のクリスティアン・クレーガーだった。・・・

クリスティアンの話だと、メインストリートには、軍服や手榴弾、そのほかありと

あらゆる兵隊の持ち物がばらまかれているという。中国軍が逃走中に投げ捨てたものだ。
・・・


真夜中になってようやくいくらか静かになった。私はベッドに横たわった。

北部では、交通部のりっぱな建物が燃えている。
・・・


夜の九時に龍が内密で教えてくれたところによると、唐将軍の命により、

中国軍は今夜九時から十時の間に撤退することになっているという。

後から聞いたのだが、唐将軍は八時には自分の部隊を置いて船で浦口に逃げたという。

それから、龍はいった。 「私と周の二人が負傷者の面倒をみるために残されました。

ぜひ力を貸していただきたいんです」   本部の金庫に預けた三万ドルは、

このための資金だという。私はこれをありがたく受け取り、協力を約束した。》



*   この二人は、便衣隊による攪乱工作の密命を受けているかもしれない。

   次回は、そう疑う根拠を示します。そして、その後で本来のルートに戻ります。

12月12日 下関 (シャーカン) での悲劇2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/20 14:55 投稿番号: [944 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   217p


《 敗兵たちは、ロープ、ゲートル、ベルト、さらには軍服をひきさいて

急造した綱で城壁外におりたが、夢中で飛びおりて死ぬ者もいた。

ようやく下関にたどりつくと、埠頭は渡船をもとめる市民 (?) と将兵の争乱場である。


「江面雖   (いえども)   有少数船舶、 因統制無人、 多被争奪士兵撃沈、

亦有   装載過重沈没者、状至悽惨」

と、中国側   「抗日戦史」   も記録しているように、乗れぬと思った兵は

船に発砲し、乗れたとしても定員過剰で沈没し、

つめかける群集におされて水中に転落する者もあり、

江上と江岸は阿鼻と叫喚につつまれた。》



*   児島氏は、ここで   「埠頭は渡船をもとめる市民と…」   と書いているが、

   これは正しいのか?

   市民は安全区に避難している筈なのに、何で危険な城外にいる?

   船で逃げられる者は、何日も前にとっくに逃げ出している。

   南京にいる者は金がなく、逃げ出せなかった者ばかり。

   しかも兵隊が門を塞ぎ、邪魔しているから簡単には出られない。

   ラーベですら、許可なしでは出られなかったのに。

   この市民とは、平服に着替えた兵士ではないのか?



   それは、ともかく、このようにして、ユウ江門と下関周辺には大量の

   死体ができ、   揚子江には大量の漂流死体が浮かんだ。



   これを、後で見た外国人と、後から来た、善人心の日本人は、

   日本軍が殺したと勝手に思いこむ。

12月12日 下関 (シャーカン) での悲劇1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/19 18:33 投稿番号: [943 / 2250]
宋希濂の回顧録   『鷹犬将軍』   より


《 わが方は第八十三軍 (広東軍、訒竜光) が命令通り、

棲霞山付近にいた敵軍の前を迂回して脱出に成功しただけで、

他はすべて下関に押し寄せ、勝手放題に船を求めて殺到した。

このことが、十二日夜、ユウ江門、下関一帯に極度の混乱を招き、

戦史の上でも稀にみる、一大悲劇を招いた原因になった。



長江両岸を連絡する下関と浦口との間には、もともと二隻のフェリーが就航していた。

このフェリーは一回に七、八百人を乗船させることが可能で、

一往復するのに、四、五十分かかる。

午後五時には暗くなるので、夜明けまでに十四時間航行することが出来

(昼間は空襲があるので航行出来ない=原註)、 もし防衛長官がこのフェリーを

確保していれば、少なくとも三万人の渡河が可能だったであろう。



しかし、彼等   (唐生智司令部)   は、この二隻のフェリーを既に漢口に

行かせてしまっていた。 下関の船着き場に残っていたのは数隻のランチ  

(せいぜい、百馬力ほどのもの=原註)   と、二、三百隻の民船だけであった。

これだけ多くの人員が渡ろうとしていることと、船がこれだけしかないことが、

また悲惨な事件への導火線となった。 (その中で)

唐生智はすぐに渡河をはじめたが、各部隊は指示通り前方突破には向わなかった。



教導総隊   (桂永清)、 八十七師   (王敬久)、 八十八師   (孫元良)、

七十四軍   (兪済時)、 六十六軍   (葉肇・広東軍)、 それに南京警察などは、

中山路に沿ってユウ江門を抜けて下関にゆこうと先を争って、誰も譲らなかった。

ユウ江門を守っていた三十六師   (宋希濂)   と激しい衝突となり、混乱は頂点に達した。



下関はさらに混乱、船は少なくなった。それでも人びとは船を奪い合い、

勝手に発砲した。 船は重量に耐えられず、長江の半ばで転覆するものや、

河に漕ぎ出した船を撃って、民船を沈没させる者もいた。

まさに、地獄絵そのものだった。



多くの将兵は、商店の扉や門の板を外して、速成の筏   (いかだ)   を作ったりしたが、

長江の流水を制御することが出来ず、転覆する者、溺死する者も、

千百人   (百人が千ある。つまり   「沢山」   の意味)   を越えた。

悲しみの声と救いを求める声は南北両岸に響き、嘆きの感情は

鬼哭   (きこく)   に充ちて、人の世の惨劇を呪っているようだった。》


(鈴木明著   『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』   261〜262p)


つづく

12月12日 混乱と地獄絵の南京城内2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/18 18:24 投稿番号: [942 / 2250]
石田勇治   編集・翻訳   『資料ドイツ外交官の見た南京事件』   31〜32p


《 数人の将校が退却する大群の行く手に立ちはだかり、制止した。

怒声が響き、ピストルの銃声が鳴った。

兵士はいやいや向きを変え、重い足取りでふたたび前線に向かい始めた。

だが、長くは続かなかった。三〇分もしないうちに、中国軍の士気が衰え、

全軍の潰走が明らかとなった。



もはやかれらを止めるものは何もなかった。 何万もの兵士が、かれらに開かれた

唯一の退却路である市の北西隅のユウ江門に向かって、通りを移動した。

・・・

崩壊の始まりは午後四時三〇分ごろで、当初はかなり秩序だった退却が、

夕暮れには潰走と化した。

逃走する軍隊は、日本軍の猛追撃を考えて余分な荷物を投げ捨て始めた。

まもなく通りには、打ち捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。



主な退却路となった中山路からほんの数ヤード隔った百万ドルの交通部庁舎に

兵士が火を放つと、地獄絵図は激しく幕を開けた。

そこは臨時の弾薬庫として使用されていたが、炎がその砲弾・爆薬庫に達すると、

恐ろしい爆音が夜空に鳴り響いた。

銃弾と砲弾の破片は鋭い音をたてて頭上を飛び交い、

河岸へ向かう道をひしめき合いながら進む群集の恐怖と混乱を煽った。



燃えさかる庁舎は巨大な炎を噴き上げ、物凄い熱を放った。

パニックに陥った群集の行列は遅々として進まず、交通は渋滞した。

大砲、トラック、オートバイ、荷馬車がひどい混乱のなかで玉突き衝突を起こし、

うしろからは前へ前へと押し寄せてくるのだった。



兵隊は死に物狂いで道を空けようとしていたが、徒労であった。

路上の集積物に火が燃え移り、幹線道路をふさぐ炎の障壁をつくった。

退却中の軍隊に残っていたわずかの秩序は完全に崩壊した。

いまや誰も我が身だけを頼りにした。

燃え盛る障害物を迂回し命からがら下関門に辿りついた者が見た光景は、

ただ残骸と死体で塞がれた門の姿であった。》



*   交通部には、ラーベたちが大量の難民を収容していた筈。

   炎と大爆発では助からないだろう。

   もし、日本人が、大量の難民を収容していた所に火をつけて、

   大爆発を起こさせたら、大虐殺と叩かれただろう。

   しかし、中国兵のやることは不問にふされる。

12月12日 混乱と地獄絵の南京城内1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/17 18:30 投稿番号: [941 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   216〜217p


《 首都衛戍司令官唐生智が、首都放棄命令をだす前から、

城内には城外からの敗兵の流入がめだち、逃散にそなえて食糧を確保すべく

食料品店をおそう中国兵がふえていた。


揚子江を背にして包囲された南京では、容易に想いうかぶ脱出点は下関埠頭である。

退却命令が発出される数時間前から、すでに隊伍をくんで

下関にむかう中国兵の姿がみられた。



中山路にはいると次々に武器をすて、街路は小銃、手榴弾、銃剣、背嚢、

さらには機銃、火砲、乗用車、トラック、荷馬車でおおわれた。

後続する兵は、それら兵器を路の両側に蹴り寄せ、

その上に自分の武器をほうり投げ、動かぬ車輌には放火した。


ほとんどの兵が軍服をぬいで便衣に着がえ、便衣を持たぬ者は、

避難をいそぐ市民の衣服をはぎとり、中にはハダカのまま走りだす兵もいた。》



程奎朗参謀の回想、 『南京戦史資料集Ⅱ』   から。


《 中山北路の海軍部の前に行くと、第三六師の部隊がいて道路上に機関銃を

置いて交通を封鎖し、南から来る部隊の通過を許さない。(略)

中山北路上に、車輌や部隊が一杯になって潮のようにユウ江門に殺到し、

城を出る人たちは先を争い、前に押し後に引き、ある者は踏み倒され、

おじいさん、おばあさんと叫ぶ。


第三六師の歩哨は城門の胸墻   (きょうしょう)   上に機関銃を置き、

大声で〝押すな、押すと射つぞ!〟と叫ぶが、人々は依然押し合っていた。》

(東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   81p)



東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   82p

《 ダーディンは昭和六十二年に、・・・語った。

『南京事件資料集 ①アメリカ関係資料編』   によれば、脱出せんとする支那兵が

ユウ江門で衝突し合った。そして   「踏みつけ」   あって、死骸の山ができた。


同じくスティールも、大勢の兵士がユウ江門から脱出しようとして

「圧死」   したと、昭和六十一年に初めて真相を語った。》


つづく

12月12日 唐生智 南京脱出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/16 18:28 投稿番号: [940 / 2250]
宋希濂の回顧録   『鷹犬将軍』   より

《 十二日午後二時、防衛司令長官部   (唐生智)   からわが師   (三十六師)   に

対して、次のような指示があった。


①   下関から   (長江を渡って、対岸の)   浦口   (ほこう)   ヘのルートは、

   わが軍の唯一の交通路であり、あらゆる手段で秩序を維持しなければならない。

   従って三十六師以外の部隊将兵や逃亡兵などが勝手に集まることを厳禁する。

②   第七十四軍   (兪済時)   は上河鎮で敵と戦っているが、城内との連絡は

   漢西門   (鈴木氏注:漢中門、の間違いではないか)   を通じて行い、

   七十四軍は、三サ   (サンズイ+叉)   河を渡って、下関に行くことを禁止する。

③   宋希濂部隊はユウ江門から下関に到る一帯に即時戒厳令を実施、

   一切の   (他部隊の)活動を禁止せよ。


四時頃になると、七十四軍は三サ河に浮き橋をかけ、下関に渡ろうとしたが、

唐生智の命令によって、止められた。

(五行略)



午後五時、唐生智はもはや戦局が逆転出来ないことを認め、

師長以上の将領を集めて、分散して包囲を前面突破する計画を提出し、

参会者にも異議はなく、命令書が各人に配られて、会議は二十分で終った。


この命令によると、

①   ユウ江門から下関の線を守っていた三十六師   (宋希濂)   は、唐生智の長官公署の

   直属部隊の渡河掩護を行い、その実行完了後に、 (三十六)   師が続いて渡河する。

②   の他の部隊は、一切渡河することを許さず、すべて長官部の指定した方向、即ち、

   広徳   (十一月三十日、四川軍が放棄した地点)、

   宜   (ぎ)   城   (十二月七日、陳誠軍が放棄した地点)、

   蕪湖   (十二月十日、日本軍国崎支隊はこの地で長江上流を越え、ほとんど

   戦うことなく十二月十三日には、下関の対岸、浦口の近くまで迫っていた)

   の方向に向って日本軍の間を抜けて強行突破せよ、という内容であった。


ところが、わが方は第八十三軍   (広東軍、訒竜光)   がこの命令通り、

棲霞山付近にいた敵軍の前を迂回して脱出に成功しただけで、

他はすべて下関に押し寄せ、勝手放題に船を求めて殺到した。


このことが、十二日夜、ユウ江門、下関一帯に極度の混乱を招き、

戦史の上でも稀にみる、一大悲劇を招いた原因になった。》


(鈴木明著   『新「南京大虐殺」のまぼろし』   260〜261p)

南京の真実

投稿者: akio905570 投稿日時: 2011/08/16 10:12 投稿番号: [939 / 2250]
あなたが受けた教育は中国共産党が作ったものです。なぜなら内戦で中国人を2000万人も殺害したのは共産党です。
日本軍は南京で大量殺害できるほど弾薬はなかった。軍律厳しく虐殺はありませんでした。治安が国民党より良いので日本軍占領後、南京の人口は3倍に増えています。
国民党が台湾にやった占領政策を調べるとどちらが真実かわかると思います。

12月12日のラーベの日記 1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/15 18:34 投稿番号: [938 / 2250]
十二月十二日


《 日本軍はすんなり占領したのではないかという私の予想はみごとにはずれた。

黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。

ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も、規則を破ってライフル銃を

もっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。

これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうていむりだ。

朝の八時に、再び砲撃が始まった。



十一時に唐将軍の代理だといって龍上校と周上校がやってきた。

三日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。

休戦協定の内容は   ―   この三日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。



われわれは、まずアメリカ大使あての電報、つぎに調停を依頼する唐将軍の手紙

(大使に電報を打つ前に、唐がこれをわれわれに出さなければならない)、

最後に軍使に関するとりきめを、まとめあげた。

軍使は、白旗に守られて、前線にいる日本軍の最高司令官に

この手紙を渡さなくてはならない。

シュペアリングが、軍使をつとめようと申し出た。



龍と周が唐将軍の手紙をもって戻ってくるのを、昼の間じゅう

いまかいまかと待っていた。

夕方六時近くになってようやく龍が姿を見せた。龍は言った。

「残念ながら、せっかくの努力が水の泡でした。すでに日本軍は城門の前まで

攻めてきているため、時すでに遅し、とのことです」

だが私はショックを受けなかった。こうなったのを悲しいという気持ちさえ

わかない。はじめから気にくわなかったからだ。



唐の魂胆はわかっている。蒋介石の許可を得ずに休戦協定を結ぼうというのだ。

だから、日本軍あての公式書状で、 「降伏」   という言葉を使われては具合が悪いのだろう。

なにがなんでも、休戦願いはわれわれ国際委員会の一存だと

見せかけなければならないというわけだ。

要するに、われわれの陰に隠れたかったんだ。蒋介石や外交部がこわいからな。

だから国際委員会、ないしはその代表であるこの私、

ラーベに全責任をおしつけようとしたんだ。汚いぞ!》



続きは順番の都合   あとで。

12月12日 海軍の揚子江啓開

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/14 15:42 投稿番号: [937 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   466〜467p


《 十二日の経過   烏龍山下流まで進撃

烏龍山付近下流まで右岸は陸軍天谷支隊の一部が進出して残敵掃蕩中であるが、

左岸一帯は敵陣地であり、遡江部隊の進撃を極力阻止せんとする模様であった。



近藤指揮官は前衛部隊   (二見、熱海、掃六、掃一、掃三.掃四号)、

主力部隊   (山風、海風、江風、安宅、掃二、掃五号)   の順に

08:30   進撃を開始、鎮江から下江して来た   「保津、比良、勢多」   と共に、

都天廟砲台及び付近の残敵の猛射を反撃、かつ途中左岸一帯の敵陣地密集部隊と交戦、

これを撃破制圧しつつ全軍一丸となって砲台下を強行通過した。


この間、神川丸機及び陸軍天谷支隊の有効な協力があり、

猛烈な機銃の反撃はあったが、砲台は沈黙を守っていた。



10:10   ころ、令により   「掃六、掃三号」   は掃海具を揚収して分離し、

先頭部隊の   「保津、勢多」   に合同、烏龍山水道に急速進出し、

閉塞線の偵察及び同付近下流の泊地掃海を実施することとなった。

陸岸の敵陣地を砲撃しつつ前進し   12:30   ころ烏龍山閉塞線付近に到着し

予定作業に移ったが、北岸の劉子口付近から野砲、機銃、小銃の猛射を受け、

これと交戦した。



この際   「保津」   は命中弾を受け左舷機故障、 「掃六、掃三号」   も

敵弾の集中砲火を受け、掃海不能となり   12:30   ころ掃海索を一時投棄した。

更に掃六号は後部艦橋に、掃三号は艇長室水線付近に、それぞれ被弾し負傷者発生、

一時避退し応急修理を行った。15:30   ころ、主隊は閉塞線付近に到着した。


第二十四駆逐隊並びに神川丸機及び二聯空機は、烏龍山砲台及び北岸陣地の

砲爆撃を実施した。 同夜、   23:00   ころから諸岡少佐指揮の工作隊は

安宅の高速艇に乗り、 「勢多」   掩護の下に閉塞線に接近し、

閉塞船をつなぎとめていたワイヤーを切断し、箱舟やジャンクを取り除き、

約三時間後幅三〇〇米の可航水路を啓開した。》

12月12日 陸軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/13 15:22 投稿番号: [936 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   428〜429p

上海派遣軍においては、

《 第十六師団が、・・・十二日紫金山頂を南北に連ぬる線を占領した。

山田支隊は、十二日鎮江出発、烏龍山方向に向かう。


第九師団右翼隊は、・・・十二日城壁に近迫したが、幅の広い水濠

(この付近の水幅は約二〇〇米)   に出会ったので、この渡河準備を実施した。


左翼隊の、雨花台東端を攻撃した部隊は頑強に抵抗する敵を逐次撃破したが、

十二日朝、態勢整理のため、旅団命令により攻撃を一時中止した。》



第十軍においては、

《 第百十四、第六師団を並列して雨花台方向に攻撃・・・

十二日、両師団は城壁の一部を占領した。》

百人斬り記事 第4号

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/12 18:29 投稿番号: [935 / 2250]
〔昭和12年12月13日   東京日々新聞朝刊〕

百人斬り 〝超記録〟 向井 106−105 野田/両少尉さらに延長戦


《 [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発]   南京入りまで〝百人斬り競争〟

といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌   (ママ)   両少尉は

十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、

十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した


野田   「おいおれは百五だが貴様は?」

向井   「おれは百六だ!」……


両少尉は

〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局

「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」

と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、

十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が

「百人斬ドロンゲーム」   の顛末を語つてのち


知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、

俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、

戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ

十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて

弾雨の中を   「えいまゝよ」   と刀をかついで棒立ちになってゐたが

一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ


と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。》



*   11日はおろか12日も、まだ紫金山は陥落していない。

   敗残兵狩りなどありようがない。


   しかも向井少尉は、まるで、スーパーマンのように描かれているが、

   当人は丹陽で負傷し入院している。

   弾に当たらないどころか、とっくに当たっている。

   しかも、まだ入院中だから、この場にいない。   全ては作り話。

12月12日 第16師団佐々木支隊の戦い2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/11 18:30 投稿番号: [934 / 2250]
《 紫金山北麓の敵野砲も亦盛に撃つてきた。

第一線歩兵の攻撃は幸に着々進捗、遺棄死体等に依つて判断するに

我支隊当面の敵は第七十八師と四十八師の一部であるらしい、

数倍の敵を刻〃圧迫しつゝあるのであるから痛快である。



正午頃我右翼前方に在つた敵を撃退し得たのでこゝに再び左旋回を行ひ

南京城北側地区に進出することに決した。

一時頃堯化門   (地名)   附近の雑樹林に於て転身に関する命令を下した後

行動に就く、然るに該地を去つて五分間も経たぬうちに

敵の迫撃砲弾が予の立つてゐた土饅頭に命中、それをふッ飛ばした。



紫金山北麓を前進して是より先敵既設陣地の攻撃を開始した歩三三の第一大隊は

多数の死傷者を生じつゝも敵を圧迫してゐるので、

これを拠点として我支隊主力は左旋回を為さねばならぬ、

然るにその進路は砲兵の前進に適せずとの砲兵斥候の報告であり

砲兵大隊長も不可能であるとの意見なる故

砲兵を堯化門に残し歩兵のみを以て前進することに決した。



本道から畑の中の間道に入つて間もなく忽ち石橋の落とされてゐるのに会ひ、

工兵小隊に依つて修理を加へる間、兎も角歩兵の各部隊

殊に山砲は苦辛しつゝ畑の中に進入する。
・・・

午後三時頃紫金山北麓岔路口附近の敵撤退す、戦は勝ったとの感がする、

しかし正面の敵はまだ頑張つてなかなか撃退することはできない。

夕刻興街村着、紫金山の裾の寒村。一小隊を直ぐ左の高地に上げて左翼を警戒、

前面からは小銃弾がプスプスやつてくる。 》

12月12日 第16師団佐々木支隊の戦い1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/10 18:37 投稿番号: [933 / 2250]
《 佐々木倒一少将の日記

十二月十二日


終夜咳が甚しくて睡つては醒   (さ)   めして安眠が取れず、

一個月来の作戦に疲労したからだにはかなりこたへた。

早朝起きて見たが頭が割れるばかりに痛みどうにもならず、

重大時期にと考へて見ても重い頭はやはり重い。


「副官、困つたな。これでは何も考へられん」

「お休みください、ご計画通り吾   (われ)   々でやりますから」

「うむ」


藁   (わら)   の中に寝転んで見たが激しい銃砲声を聞いては寝ては居れない

午前十時頃に至り遂に意を決して飛出し銀孔山に指揮所を進めた。

塹壕やその後方の斜面は実に夥   (おびただ)   しい敵の死体である。



部隊は昨夜命じた部署に就いて曹長から敵の主陣地帯を攻撃してゐる、

今日中に之を攻略しなければ敵の退路を遮断することができない。

そう考へるから病気なんかの為寝てはゐられなかつたのである。

見ると前面近くの高地に三八長が突ッ立つて督戦してゐる、 やつて居るな

併   (しか)   し   予は直ぐさま電話を以て   「軽挙はするな」   と云つてやつたのである。


指揮官の勇敢なる態度は必要であるが、高い姿勢は敵弾を吸収する、

そして損害を受けるものは周囲にゐる者である。

だがこゝにも高い姿勢が敵陣地を注視してゐ敵の小銃弾が盛んにやつてくる。

鳥竜山砲台から又撃つてくる、高地の稜線後にゐても砲台からは丸見えである。

又この砲台の高射砲は最後迄我軍の飛行機を射撃してゐた、

三門斉発の射弾が丁度吾々の頭上に炸裂するのを凄〃見た。


我十加   (10センチ・キャノン砲か?)   が一万米の射距離で制圧射撃を始めた。

観測所が現在同じ所に在るので砲撃の結果を刻〃知ることができる。

命中弾を得たと云つてゐた。 》


つづく

12月12日 南京攻城戦2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/09 18:30 投稿番号: [932 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』

213p

《 第二十三連隊第三大隊も、十五センチ榴弾砲の支援をうけて城壁にせまり、

午後四時四十四分、第九中隊が、工兵が人柱でささえる仮橋をわたって

西南角城壁を占領した。

・・・

第九、第十六師団方面はいぜんとして苦戦がつづき、

第九師団第三十六連隊は催涙ガス弾攻撃をうけた。

・・・


214p

第六十六連隊主力は、中華門突入をこころみたものの、

門扉を破壊できずに攻撃を中止した。

第六師団地区では、第十三連隊が奮起していた。

師団の攻撃主力三個連隊のうち、第十三連隊だけが城壁に日章旗をたてずに

夜をむかえたからである。



第一大隊長十時和彦中佐は、第二中隊長松本正雄中尉に   「正子」(午前零時)   を

期して中華門城壁を突破せよ、と命じた。

この夜は陰暦十一月九日。前半夜は月があるので、

月が沈んでからの攻撃を企図したのである。

目標の城壁は、第四十七連隊の右側にあたり、

第二中隊は、吉住義継少尉指揮の突撃隊を先頭にして、

工兵が立ち泳ぎしながらささえる渡橋をわたり、未明に城壁を占領した。



しかし、こうして南京城の南壁は日本軍の軍靴に制圧されたが、

他の囲壁は健在にみえた。

「我ガ砲兵射撃ヲ開始セバ、敵砲兵沈黙シ、我射撃ヲ中止セバ、

彼レ又射撃ヲ開始セリ」

という状況がつづき、南京城攻略には、なお一日の力攻が必要だと判断された。》


*   ここで注目すべきは、中国軍が   「催涙ガス」   を使っていたということです。

   もし日本軍が、同じ物を使ったなら、 「毒ガス」   使用と、

   毒々しく宣伝された事でしょう。

12月12日 南京攻城戦1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/08 18:32 投稿番号: [931 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』

210〜211p

《第二十三連隊の右の第四十七連隊第一大隊の先頭第三中隊   (三明保真大尉)   が、

中華門西側城壁の前の水濠で待機していた。

・・・

水濠の幅は、この付近では約四十メートル、深さは約二メートル。・・・

中隊長三明大尉が苦慮していると、偶然に小舟が流れてきた。

見酉公夫上等兵がハダカになって寒流にとびこみ、舟をひっぱってきた。

・・・

舟には櫓   (ろ)   も櫂   (かい)   も付属していなかった。

旗竿で舟をおしだし、そのあとを水野上等兵が泳いで竹ハシゴを対岸に渡した。



ハシゴは二本。四メートルと六メートルの長さである。

この二本をつないで城壁にたてかけ、不安定にゆれるハシゴを

まず粟津一等兵がのぼりはじめた。

中国側は手榴弾を投げ、銃撃して登壁阻止にはげみ、

粟津一等兵は右腕に貫通銃創をうけて転落した。

安東軍曹が代り、中津留伍長がつづき、二人はハシゴの長さがたりない城壁を、

壁面にはえているツタ、木の根をつかみ、あるいはゆるんでいる煉瓦をぬいて

足がかりにして、城壁上に立った。


212p

二人は、銃に日章旗を結びつけている。

・・・

中国軍は逆襲し、決死隊のうち安東軍曹、真鍋、寺山一等兵は戦死した。

江口一等兵も負傷し、中津留伍長一人が敵の機銃をうばって奮戦した。

第二小隊第一分隊長白石躬喜雄軍曹が、水濠をわたって城壁下の民家に放火し、

煙幕展張にかえた。軍曹は戦死したが、この即席煙幕のおかげで第三中隊は

続々と城壁にのぼり、拠点を確保した。・・・》


つづく

12月12日の外国船爆撃・パネー号沈没

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/07 15:23 投稿番号: [930 / 2250]
石田勇治   編集・翻訳   『資料ドイツ外交官の見た南京事件』   大月書店

11日からの記述の続き

16〜17p

《 接触はまず一二日の朝、日本軍の奇襲砲撃のさなかにおこなわれた。
この砲撃で英国人水兵一名が命を落とし、オドネル大佐も右手の指一本を失った。

しかし英国人たちは、こうした日本軍の前代未聞の挑発行為にもめげず交渉を続け、
その席で蕪湖の橋本大佐から、

長江上の全船舶にたいして砲撃命令が下っていることを聞き出した。
この告白は、日本側にとってはこのうえなく都合の悪いものとなった。



降臨節の第三日曜日   〔一二月一二日〕   は、光り輝く朝日をあびて穏やかに明けた。

午前中、引き船と平底船に乗った日本軍歩兵たちがわれわれの近くで上陸し、
[いつものように]   岸辺とジャンクで無実の民間人を数名殺害した。

その後、かれらは停泊中のわれわれの船団の周囲を航行したが、それはわれわれが
中立的で平和的な船団であることを確信する絶好の機会となった。



この少し前、パナイ号はスタンダード・オイル社の三隻の米国タンカーとともに
そばを通過し、われわれの視界の及ばない上流の和県付近に停泊した。



日本軍上陸部隊がわれわれの船団を視察した後、
もはやこれ以上の襲来の危険はないと思っていた。

しかし、予想外にも一三時三〇分、突然何の通告もなく、日本軍爆撃機三機が
ハルクにつながれていた大きくて豪華な標的、黄浦号に三回攻撃を加え、

地上約三〇〇メートルまで降下して爆撃した。

九発の爆弾   −   そのうち一発は不発弾   −   が直撃弾とならなかったことは
奇跡というほかない。しかし風圧と破片で黄浦号と、とくにハルクに甚大な被害がでた。



この攻撃の後、クリケット号のアシュビー海軍大尉   −   いまや軍務歴最長の
英国将校   −   は外国人をただちにハルクと黄浦号から砲艦クリケット号と

スカラブ号に移し、集結していた船団を散開するよう命じた。
われわれが小さな引き船に乗って黄浦号からクリケット号に乗り移ったとき、

日本軍の無法きわまりない爆撃機がふたたび飛来し、〔英国〕アジア石油会社の
タンカーの船尾すれすれに六発の爆弾を投下した。

ついにアシュビー海軍大尉は、自らの責任において、二隻の砲艦から砲撃を開始した。
機関銃各二丁、小速射砲各二砲、三インチ砲各二砲による攻撃である。

ただし、六インチ砲は対空防衛には不適なため使用しなかった。その断固とした
責任感あふれる行為によってアシュビー海軍大尉は、英国船団を恐るべき運命から守った。



だがこのとき、数マイル上流の米国人はまさにその恐るべき運命に
見舞われていたのである。

一六時一〇分の三回目の攻撃で、日本軍は四個の爆弾   −   今回は迎撃されたため
目標からだいぶそれた   ―   を投下した。

これでわれわれは総計一九発の爆弾を頂戴した。
日本軍砲兵隊はこの前日には黄浦号に二四発の砲撃を加えていた。》



*   この爆撃機は海軍機です。

   この日   上流で、英国砲艦レディバード号が陸軍から砲撃を受け、
   米国砲艦パナイ (パネー) 号は16時過ぎの海軍機空襲の後   沈没しました。

   この事により、外国人の対日感情が悪くなります。

12月11日 その他の陸軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/06 14:03 投稿番号: [929 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』

上海派遣軍
424p

《 第十三師団は、十一日、一部をもって図山要塞を奪取し、

主力は同日鎮江に集結し渡河を準備した。》


428p

《 軍司令官は、第十六師団の右翼方面の攻撃を容易にしかつ敵の東方に向かう退路を

遮断するため、十一日、渡河のため鎮江に待期中であった第十三師団の山田支隊を

南京北側に派遣して烏龍山及び幕府山砲台を攻略するよう部署した。》


《 第三師団は、十一日、軍命令に基づき先遣隊を第九師団の左翼に進出させた。》



第十軍
425p

《十一日、軍司令官は第十八師団を杭州攻略に参加させるため、

南京に向かう追撃を中止し、主力を太平、蕪湖の間に集結させた。》


《国崎支隊は、十一日、同地北方慈湖鎮付近で揚子江を渡河し左岸に移動した。》

12月11日 海軍の揚子江啓開

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/05 18:31 投稿番号: [928 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   465〜466p


十一日の経過

《 鎮江下流右岸は我が陸軍部隊の進出により、残敵はおおむね掃蕩された模様であった。

「掃一、掃三号」(一掃第三小隊)   は   07:00   泊地発、 「山風、海風」   の

前路を掃海し、大港鎮まで嚮導した後、亀山から裕龍洲立標までの探海を実施した。

また田村一掃司令は第一、第二小隊の掃海艇四隻を率い   09:00   泊地発、

主隊の前路を掃海し、裕龍洲下端付近まで進出した。



14:00   ころ、第二十四駆逐隊及び   「安宅」   からの派遣陸戦隊は尹公洲及び

その対岸に上陸、管制機雷衛所及び電纜を捜索したが、成果なく、 18:00   ごろ打ち切った。

また右岸に上陸した陸戦隊は、陸軍部隊と協力、焦山を占領した。



「保津、勢多、二見、熱海、比良」   並びに一掃各艇は、 16:25   泊地発、

丹徒水道を探海しつつ遡 (そ) 江し、都天廟狭水道付近に達するや、都天廟砲台

(十二糎 (センチ) 砲四門)   及びその東方陣地から猛烈な射撃を受けた。

これに対し、 16:30   第二十四駆逐隊各艦は掩護射撃を開始し、

神川丸機も協力爆撃を行った。各艦艇は弾雨の中、掃海を続行し、

17:00   ころ都天廟敷設線を掃海突破した。



拘束機雷はなかった。本戦闘において各艦艇の船体各部に機銃弾が命中したが、

人員その他被害はなかった。なおこの日   「比良」   は捕虜から

焦山方面に機雷は敷設してない旨の情報を得た。

同艦に続き   「勢多、保津」   が焦山南水道を突破して鎮江に突入、

18:00   桟橋に横付けした。


この日、第一水雷隊   (隼、鵯欠)   は第一警戒部隊に編入され、 「栗」   が除かれた。》

12月11日 攻撃される外国船

投稿者: kwan_guansu 投稿日時: 2011/08/04 18:29 投稿番号: [927 / 2250]
石田勇治   編集・翻訳   『資料ドイツ外交官の見た南京事件』   15〜16pより


《 ハルクは、日本軍にとっくに知られた場所に停泊し、同じ場所には
英米の商船の他、英国砲艦のクリケット号とスカラブ号も集結していた。

他方、米国砲艦のパナイ号はまだ南京付近にとどまっていた。

一二月一一日土曜日の朝、英国の長江航行汽船黄浦号がわれわれの停泊地にやってきた。
われわれは、その船の方が居住環境がよいとのことで、そちらに移動した。

ハルクでは、この間に焼け落ちたブリッジハウス・ホテルの英国人オーナーたちの手で
立派な食事が提供されてはいたが、そこの生活ときたらまるで大きな木賃宿であった。

下層甲板は四、五〇〇人の中国人難民 − 英国系企業の従業員とその家族 − で
満杯のため、ヨーロッパ人に使えるのは小部屋を三つ備えた大きな事務室一つだけであった。



黄浦号で初めての食事をとった直後、南京の南側一帯で作戦展開中の日本軍砲兵隊に
われわれが狙われていることに気づいた。

かれらは型どおりの態勢で二手に分かれ、黄浦号と、英国郵政委員が南京の郵政当局の
ために緊急避難場所としてチャーターした望東号をめがけて砲撃してきた。

全船舶が上流に向けて出航し、われわれはさらに一時間以上も砲弾の追撃に
さらされながら航行を続けた。

何発かの砲弾が船をかすめて作裂し、破片は甲板に飛び散って救命ボートを貫通した。

ハルクの船上に固定されていた   はしけにも砲弾が命中し、三人の中国人が命を
落とした。だが上流に向かっていたのが幸いして、ハルクはそれ以上の砲火を免れた。



黄浦号のマッケンジー船長はきわめて冷静に行動し、南京上流約一五マイルの地点で
停泊することを決めた。

「そこなら、たとえ撃沈されても上部甲板は水面に出たままであろう」
とのかれの言葉は大きな慰めとなった。

オドネル海軍大佐も、砲艦とその他の英国商船を同じ場所に停泊させた。
黄浦号に曳航されたハルクも夜の闇にまぎれてそちらに向かった。

私はこの砲撃事件の後、漢口駐在の   〔ドイツ〕   大使と上海総領事館に電報を送り、
日本に抗議をおこなうことと、

今後この種の攻撃や空襲にたいするわれわれの身の安全確保を要請した。



この間、英国海軍少将で長江   〔艦隊〕   提督ホールトは、参謀将校オドネル大佐に、
翌朝蕪湖で自分と落ち合うよう命じた。

かれらの目的は、すでに現地入りしていた日本軍と接触することであった。
私の同僚の英国人書記官と英国大使館付武官が大佐に同行した。

接触はまず一二日の朝、日本軍の奇襲砲撃のさなかにおこなわれた。》


12日に続く


*   日本軍が確認もせずに攻撃してきたのはケシカランと思う人も多いでしょう。
   しかし、なぜ、日本軍がこういう態度をとったのかも考えるべきです。

   「822   ルール無用の中国式戦法」

   でも書いたように、中国は外国の旗を悪用していました。
   そうすると、船が外国の旗を掲げているからといって信用できません。

   また「824   英国人の中国軍援助」

   でも書いたように、英国人は中国軍に援助していました。
   そうなると、外国船を信用しなくなっても仕方がないでしょう。

   この船の人たちに罪はありませんが、上海における中国のデタラメな
   やり方が、日本軍にこういう態度をとらせたのです。

12月11日 船舶に攻撃命令を出す

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/03 18:29 投稿番号: [926 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   206〜208p


《 第六師団長谷寿夫中将は、安徳門西北方高地に戦闘司令所を進出させ、
戦況をみまもっていた。

中将も幕僚たちも、胸中には焦慮に似た戦況進展への希望が充満するためか、
誰も一言もいわずに佇立   (ちょりつ)   していた。

第十軍司令官柳川平助中将が、前ぶれもなく来訪したのは、午後二時すぎである。

勝気で闘志に富む柳川中将も、また、口にはださないが、
日本国内の*騒ぎに刺戟   (しげき)   され、じりじりした心境にさそわれていた。



谷中将から情況説明をうけるうち、後方の砲兵隊観測所から
「敵船逃走中」   の叫びがきこえ、左手の揚子江を遡航する汽船五隻がみえた。

すかさず砲撃が命令されたが、野砲の射程がみじかく、砲弾は江上にとどかない。

第六師団参謀長下野一霍大佐が、蕪湖に位置する野戦重砲兵第十三連隊
(橋本欣五郎大佐)   による重砲射撃を進言した。

だが、間にあわず、第十軍司令官柳川中将は、午後六時、国崎支隊に次のように下令した。


「南京ノ攻略   目睫 (もくしょう) ノ間ニ迫リ、敵ノ退路ハ 揚子江   及   浦口方面ノ

二箇所ニ   限定セラル。   国崎支隊ハ   昼夜兼行、最モ速 (すみやか) ニ 浦口ニ突進シ、

敵ノ退路ヲ遮断シ   且ツ   揚子江ヲ退却スル   敵汽船ヲ撃滅スベシ」


  ついで、蕪湖地区の第十八師団にも!


「敵ハ……汽船ニ依リ……上流ニ退却中ナリ。

尚 今後引キ続キ   退却スルモノト   判断セラル。

第十八師団ハ、蕪湖付近ヲ 通過スル船ハ   国籍ノ 如何ヲ 問ハズ   撃滅スベシ」



この   「国籍ノ如何ヲ間ハズ」   命令は、乱暴である。

第三国船が中国兵を輸送していることを確認したうえでの攻撃ならともかく、
そうでなければ国際法違反であり、その国にたいする攻撃に通ずる。

現に、これまでも日本側は、 「日中戦争」   における列国の権益と人命尊重に
ついて格別の注意を各部隊に厳達している‥‥‥。

第十軍司令官柳川中将としては、しかし、汽船の遡航イコール中国軍の退却とみなし、
その命令の語調が告げるように、ひたすら南京城攻略と中国軍主力繊滅を

督励する一念に燃えていたのである。



   −   だが、

この日も南京城は陥落せず、すでに中山門外にせまった第九師団をのぞけば、
他の第十六、第百十四、第六師団は、まだ城壁にたどりつけなかった。


この夜、南京の首都衛戍司令官唐生智は、第八十三軍第一五四師(巫剣雄)を
第八十八師に増加して   「陣地死守」   を下令した。


  第六師団長谷中将も、あらためて各連隊の攻撃部署を指示した。

  ▽第十三連隊=中華門、

  ▽第四十七連隊=中華門と西南角の間、

  ▽第二十三連隊=西南角、

  総攻撃の下令にほかならず、他の師団でも、同様の命令が示達され、
部隊はいずれも幅三、四十メートルの水濠の渡河準備、

高さ二十メートル余の城壁をのぼるハシゴの用意をいそいだ。》



*   「日本国内の騒ぎ」 とは、朝日新聞が早まって 「南京陥落」 の記事を出した事。
   実際はまだ陥落していないので、現場の兵士を焦らさせる。

*   この汽船は外国人の上流避難船だったのだが、
   この勘違いによる攻撃命令が翌日国際問題を引き起こすことになる。

注   佇立   チョリツ   たたずむこと。

12月11日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/02 18:32 投稿番号: [925 / 2250]
《   十二月十一日   八時

水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおり、いくらか静まる。
次の攻撃にそなえているのだ。どうやらこれがうちの   「ペーター」   のお気に召したらしい。

さっきから声を限りに合奏している。
からす   (ラーベ)   よりカナリアのほうが神経が太いようだ!

爆音をものともせず、道には人があふれている。
この私より   「安全区   (セーフティ・ゾーン)」   を信頼しているのだ。

ここはとっくにセーフでもなんでもないのだが。
いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから。

いくら追い出そうとしてもむだだった。
これでは、安全区は非武装だと日本軍に知らせたくともできないじゃないか。



九時

ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店   (ヘンペル・ホテル)   の前と後ろだ。
十二人の死者とおよそ十二人の負傷者。

このホテルを管理しているシュペアリングが、ガラスの破片で軽いけが。
ホテルの前にとまっていた車が二台炎上。さらにもう一発、榴弾   (こんどは中学校)。

死者十三人。軍隊が出て行かないという苦情があとをたたない。

鼓楼病院の前に − ということは安全区側だ − 砦が築かれることになった。
だがこれを命じられた中国軍の将校は、通りの向こう側で作業するのを断ってきた。



事態を丸く収めようと、私はマギー牧師と一緒にその将校に会いに行くことにした。

山西路広場   (バイエルン広場)   を通りかかったとき、
広場の真ん中で兵士たちが穴を掘って隠れているのをみつけた。

角の家は軒並み兵士たちにこじ開けられている。
目の前で次々とガラスや扉が壊されている。

なぜそんなことをするのだろう?   だれに聞いても、わからない、という!
けが人がひっきりなしに中山路に運ばれて行く。

砂袋、引き倒した木、有刺鉄線の柵でバリケードを作っているが、
こんなもの、戦車がくればひとたまりもないだろう。

鼓楼病院の前で例の将校に砦を築くように頼んだが、
相手はおだやかな物腰ながら断固拒否した。

病院から龍に電話で報告すると、さっそく唐将軍に問い合わせるとの返事。



十八時

記者会見。出席者は、報道陣のほかは委員会のメンバーのみ。
ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦パナイで発ったのだ。


スマイスがいうには、目下名ばかりわれわれの配下にある警察が、
「こそ泥」   を捕まえ、その処分について聞いてきたという。

この件でちょっとばかり座がにぎわう。おそれ多くも裁判官までつとめることに
なるとは……。私もそこまでは考えていなかった。

われわれはまず、死刑を宣告し、恩赦により、と二十四時間の拘置にし、
留置場の不足によりやむをえず、とふたたび自由の身にしてやった。



午後八時、韓を呼び、家族をつれて寧海路五号の委員会本部に引っ越すようにいった。
あそこの防空壕のほうが安全だ。

しかもわが家は、いま日本軍から猛攻撃されている五台山のすぐそばなのだ。
私もいずれ引っ越そうかと考えている。

夜は猛攻撃をうけるだろう。
それなのに韓はまだ家を出ていこうとはしない。》


つづく

12月10〜11日 和平案改訂検討作業

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/08/01 18:27 投稿番号: [924 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   463p


《 大本営陸軍幕僚部では、十日、参謀次長の下に関係者が集まり、

前記の解決処理方針を基礎として、独大使に交付すべき前文及び条文を研究作成し、

条文は十一日、大本営陸軍部の決定とした。



これより先、政府は、大本営側に連絡することなく、

十日の閣議で、独大使に交付する   「前文」   を決定し、

同日十三時半、外相がこれを内奏したので、

陸軍幕僚部作成の前文は、単に意見開陳にとどまった。》


つづく

12月10日 陸海軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/31 15:46 投稿番号: [923 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   465p


《   十日の経過   主隊三江営に進出    三江営陣地の敵はほとんど壊滅したが、

亀山砲台はなお厳存し、焦山水道には数線の管制機雷があって丹徒鎮以北の

進出は慎重を要する情勢であった。


田村一掃司令は   「掃六、掃五号」 (第一小隊)   を率い、 09:00   から

三江営上流の偵察、残敵掃蕩及び亀山砲台の強行偵察を実施し、

亀山砲台の三粁付近まで進出、同砲台を確認し砲撃した。敵は反撃しなかった。


15:00   ごろ、 「比良、勢多」   は三江営付近を制圧、 「江風」   は、

神川丸飛行機と協力して亀山砲台を制圧した。

この日、 13:10   旗艦安宅、山風、海風、掃一、掃三号は

三江営付近に入港して田村隊と合同した。


また陸軍天谷支隊は鎮江を占領した。

南京方面の我が陸軍各部隊は   13:10   総攻撃を開始した。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   428〜429p

上海派遣軍

《 第十六師団が、・・・十日から紫金山及びその両側地区を攻撃、・・・

第九師団は、・・・十日、右翼隊をもって南京東郊の敵を攻撃・・・

左翼隊は、十日、光華門及び雨花台東端の敵を攻撃し、光華門の城門を占領したが、

じ後は戦闘が進捗しなかった。》



第十軍

《 第百十四、第六師団を並列して・・・、十日から雨花台の第三線陣地

及び複郭陣地を攻撃、・・・

第六師団は、十日、一部を揚子江河岸から前進させた第六師団は、

十日、一部を揚子江河岸から前進させた》

12月10日 南京攻撃部隊の整理

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/30 14:55 投稿番号: [922 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   198〜201p


《 この日、前述した第 16 師団の紫金山、第 9 師団の光華門進出につづいて、
第 6 師団が雨花台にせまった。

雨花台は、南京城・中華門外の高地であるが、
紫金山とともに南京城外の本防護地である。

深い地隙がいりくんだ波状の台地には、対戦車壕、鉄条網、掩蓋   (えんがい)   銃座、
ベトン製トーチカがちりばめられ、その北側には高さ二十メートルの城壁がそびえている。

一歩ふみこめば、たちまち八方からの十字砲火をあび、
そのうえに城壁上からの瞰射   (かんしゃ)   も加わる。



第 6 師団は、第 13 連隊を右、第 47 連隊を左にして雨花台を攻撃したが、
前進は   「至難」   であった。

地形、防禦陣地の稠密   (ちょうみつ)、 とくに第 47 連隊正面の安徳門東南
約五百メートルの高地からの側射などのほかに、

ようやく南京にたどりついた安堵感がかきたてる疲労、
さらには中国側の旺盛な戦意が、苦戦の主因である。



とくに、中国兵の戦意は、これまでにも随所で視認した
「臨陣   退却者   斬首」   の布告にも表明されていたが、

雨花台のトーチカ陣地には鉄鎖をまき、施錠してあるものが少くなかった。

第 6 師団第 11 旅団長坂井徳太郎少将は、これも死闘を強制する中国軍の
督戦方式であるとみなし、 「人道上許シ得ナイ暴状」   だ、と批判している。
・・・


師団長谷中将は、夕刻、戦況を判断して攻撃部署を整理することにして、
次のように指示した。

①   11旅団   (第 13、第 47 連隊)   は右翼隊となり、
   中華門から城壁西南突角を攻撃する。

②   36 旅団   (第 23、第 45 連隊)   は左翼を担任し、西北にすすんで水西門、
   漢西門さらにその西方を攻撃する。

③   砲兵第6連隊の主力は右翼隊、一部は左翼隊に協力する。

④   45 連隊第 1 大隊は、予備とする。



つまりは、南京城の主攻は第 11 旅団にまかす、というのである。
南京一番乗り   −   が、いまや中支那方面軍全部隊の〝合言葉〟になっている。

その願いが成就できなくて・・・は、はるばる上海、杭州湾から空腹と疲労に耐え、
途中で倒れた上官、戦友、部下の〝仇討ち〟をちかって進撃してきたかいがない。

・・・・
第 36 旅団は、南京城壁を目前にしながら、その城壁の外側を運動せよ、
といわれるにひとしい……。



旅団長牛島満少将が、そんな将兵の気持ちを代弁する形で、谷中将に意見具申した。

「ぜひ当旅団を、せめて旅団の一部でもよいから、
西南城壁の攻撃を担当させていただきたい」

中将は、第 36 旅団の第 45 連隊を城壁西方に進出させ、第 23 連隊に
西南角の攻撃をおこなわせることにした。

第 13 連隊は中華門、第 47 連隊は中華門と西南角の中間を目標にし、
野砲兵第 6 連隊は第 23 連隊支援を重点にする指示も、下達された。



第 114 師団長末松中将も、午後六時、第 128 旅団を右翼として雨花台、
中華門とその東側城壁、第 127 旅団は左翼に位置して東南角城壁と共和門を

攻略するよう、命令した。

「師団ハ……速 (すみやか) ニ   待望ノ   南京攻略ヲ   決行セントス」

他の師団でも、同様の命令が下され、いよいよ南京総攻撃が開始されることになった。

12月10日 唐生智 「開城勧告」 を無視

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/29 18:38 投稿番号: [921 / 2250]
《早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』   127p

武藤章参謀副長と中山寧人情報参謀、公平匡武高級参謀、岡田尚の四人は、
午前三時、一台の車で蘇州の司令部を発った。

南京の中山門外に着いたのは、八時間四十分後の午前十一時四十分。
四人は、十二時五分、十分をすぎても、その場で待ちつづけた。

しかし、待てど暮らせど、軍使は姿を見せなかった。武藤章参謀副長が、

「やっぱり駄目だったか。さあ帰ろう」   と、ため息をついた。

がっかりしたことと、眠っていなかったためか、武藤ら三人の参謀は、
帰りの車の中でぐっすり眠った。

ただ一人岡田は、翻訳のできが悪かったからではないか、と責任を感じ、
眠れぬまま八時間先の蘇州の司令部へ引きかえした。》


*   中山門外で中国軍軍使を待っていた人に、武藤章参謀副長とあるが、
   これは早瀬氏の間違いで、塚田攻参謀長が本当らしい。

   中山寧人氏の東京裁判証言では塚田攻参謀長となっている。
    (富士信夫著   『「南京大虐殺」   はこうして作られた』   154p)



児島襄著   『日中戦争4』   198p

《 司令官唐生智は、「大日本陸軍総司令官」 松井大将の投降勧告は無視し、
回答期限の正午がきても、軍使を派遣することはなかった。

   −   その正午、

中支那方面軍参謀長塚田攻少将は、南京・中山路東方の前線で
中国側軍使の到来を待っていたが、城門がひらかれる気配はなかった。

方面軍司令官松井大将は、午後一時、下令した。

「支那軍ハ、我勧告ヲ容レズシテ   依然抵抗ヲ続ケツツアリ。   上海派遣軍

  並 (ならび) ニ第十軍ハ、南京城ノ攻略ヲ続行シ   城内ヲ掃蕩スベシ」》



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   428p

《 九日、方面軍司令官は、敵軍にたいし開城を勧告し、十日正午までに軍使をもって
回答するよう要求したが、これに応じなかったので、方面軍司令官は十日十三時、

両軍に、攻撃を続行し城内を掃蕩すべしと命じた。》



西岡香織著   『報道戦線から見た   「日中戦争」』   96p

《 唐生智は、この勧告文を無視して頑強な抵抗を続けたので、
十日午後一時から日本軍は総攻撃を開始した。》


* ラーベは日本が   「開城勧告」   をしている事を知らずに、
   「三日間の停戦と中国軍の撤退」   を日中両方に出した。

   しかし蒋介石は拒否した。そうなると、唐生智も   「開城勧告」   を受諾できない。
   彼らは、ラーベの希望とは、逆の事ばかりやっている。

   むしろ、日本の行動の方が、ラーベの希望に近かった。
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