大量の投降兵の受け入れは危険だった
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/09/10 15:07 投稿番号: [967 / 2250]
オープンシティで整然と降伏したのなら、ともかく、一方で戦闘しながら、
一方で大量の捕虜を受け入れるのは非常に危険なことだった。
第十六師団では 「支那兵の降伏を受け入れるな」 と命令が下った。
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 157p
《 師団副官は 「支那兵の降伏を受け入れるな」 と電話で伝令した。
当然であったろう。すぐ隣の傘下の部隊からは、増援要請が相次いでいた。
それを佐々木少将は拒否していた。
そして、自衛力を有する者は自ら自衛して戦えと、全軍を叱咤していた。
このような激戦の最中、支那兵の投降を受け入れて武装解除にあたることは、
自軍の戦力を殺 (そ) ぐことになる。それは自軍の部隊の敗北を招くかも知れなかった。
日本軍にも自己防衛の権利があったのである。
従って、彼我入り乱れた激戦の最中に、投降兵を受け入れる義務は、必ずしもない。
投降兵を処刑したとしても、必ずしも戦時国際法違反にはあたらない。
むしろ戦闘行為に属する。
159p
佐々木部隊 (第十六師団右側支隊) が和平門で数千の投降兵に遭遇してから
三時間後の十三日十七時には、湯水鎮の上海派遣軍司令部が再び襲撃された。
そして 「彼我混入シテ乱闘」 となっていた。
160p
この両軍の乱戦と日本軍の苦戦を抜きにしては、佐々木少将の
「六、各隊ハ師団 (註・第十六師団) ノ指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サズ」
という歩兵第三十旅団命令 (十二月十四日午前四時五十分発令) も、考えられない。
163
あまつさえ、降伏すると見せかけて手榴弾を投げつけてくる支那兵の暴挙に、
日本軍はさんざん悩まされていた。つまり 「降ヲ乞ヘル敵」 にたいして
日本軍が戦時国際法通りに攻撃を控えると、それが敵の攻撃を招いた。
歩兵第九連隊 (第十六師団) 第一大隊副官六車 (むぐるま) 政次郎少尉の証言を、
「証言による 『南京戦史』 ⑧」 から以下に引用する。
〈一ケ小隊で中山門東方紫金山中の警備を担当したが、
激戦により小隊は約三十名に減少していた。夜半、東方の山中から敗残兵数百名が、
日本軍が居るのに気付かず、南京に向って来たのを捕えた。
しかし、我々の人数が少なく、もし小人数と判れば危ないので、銃を取りあげ
凹地に終結させ、外側の兵のみを電線で縛って逃げないようにした。
ところが、日本軍が小人数とあなどったのか、手榴弾を投げつけてきて暴れだし、
収拾がつかなくなったので、軽機・小銃で弾丸のある限り射った。〉
このほか六車少尉は 『惜春賦』 の中で、ダムダム弾 (ニッケルなどの
被覆のない裸の鉛弾) に被弾したことを回想している。
「ダムダム弾の禁止に関するハーグ宣言」(一八九九年) が禁止するダムダム弾
まで使った支那兵は、小銃を捨てても、手榴弾や拳銃を懐中に隠し持つ例が多かった。
そこで、敗残兵を捕えても 「ヤッテシマエ」 と襲いかかる例があった。》
一方で大量の捕虜を受け入れるのは非常に危険なことだった。
第十六師団では 「支那兵の降伏を受け入れるな」 と命令が下った。
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 157p
《 師団副官は 「支那兵の降伏を受け入れるな」 と電話で伝令した。
当然であったろう。すぐ隣の傘下の部隊からは、増援要請が相次いでいた。
それを佐々木少将は拒否していた。
そして、自衛力を有する者は自ら自衛して戦えと、全軍を叱咤していた。
このような激戦の最中、支那兵の投降を受け入れて武装解除にあたることは、
自軍の戦力を殺 (そ) ぐことになる。それは自軍の部隊の敗北を招くかも知れなかった。
日本軍にも自己防衛の権利があったのである。
従って、彼我入り乱れた激戦の最中に、投降兵を受け入れる義務は、必ずしもない。
投降兵を処刑したとしても、必ずしも戦時国際法違反にはあたらない。
むしろ戦闘行為に属する。
159p
佐々木部隊 (第十六師団右側支隊) が和平門で数千の投降兵に遭遇してから
三時間後の十三日十七時には、湯水鎮の上海派遣軍司令部が再び襲撃された。
そして 「彼我混入シテ乱闘」 となっていた。
160p
この両軍の乱戦と日本軍の苦戦を抜きにしては、佐々木少将の
「六、各隊ハ師団 (註・第十六師団) ノ指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サズ」
という歩兵第三十旅団命令 (十二月十四日午前四時五十分発令) も、考えられない。
163
あまつさえ、降伏すると見せかけて手榴弾を投げつけてくる支那兵の暴挙に、
日本軍はさんざん悩まされていた。つまり 「降ヲ乞ヘル敵」 にたいして
日本軍が戦時国際法通りに攻撃を控えると、それが敵の攻撃を招いた。
歩兵第九連隊 (第十六師団) 第一大隊副官六車 (むぐるま) 政次郎少尉の証言を、
「証言による 『南京戦史』 ⑧」 から以下に引用する。
〈一ケ小隊で中山門東方紫金山中の警備を担当したが、
激戦により小隊は約三十名に減少していた。夜半、東方の山中から敗残兵数百名が、
日本軍が居るのに気付かず、南京に向って来たのを捕えた。
しかし、我々の人数が少なく、もし小人数と判れば危ないので、銃を取りあげ
凹地に終結させ、外側の兵のみを電線で縛って逃げないようにした。
ところが、日本軍が小人数とあなどったのか、手榴弾を投げつけてきて暴れだし、
収拾がつかなくなったので、軽機・小銃で弾丸のある限り射った。〉
このほか六車少尉は 『惜春賦』 の中で、ダムダム弾 (ニッケルなどの
被覆のない裸の鉛弾) に被弾したことを回想している。
「ダムダム弾の禁止に関するハーグ宣言」(一八九九年) が禁止するダムダム弾
まで使った支那兵は、小銃を捨てても、手榴弾や拳銃を懐中に隠し持つ例が多かった。
そこで、敗残兵を捕えても 「ヤッテシマエ」 と襲いかかる例があった。》
これは メッセージ 962 (kireigotowadame さん)への返信です.