入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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松本重治氏、ジャキノ難民区へ2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/18 18:38 投稿番号: [840 / 2250]
松本重治氏著
『上海時代(下)』
中公新書
237〜238p
《 神父の事務所は境界線間際の、たしか、二階の八疊敷くらいの部屋であり、
簡素な卓と四、五脚の椅子だけがあった。
そこで片腕のジャキノ神父と握手しながら、
「私はティンパーレーの友人の同盟通信の松本です。ご成功を心から祝します」
と祝詞を述べたあと、 「この二人は私の同僚です」
と紹介した。
神父は、私の手を堅く握り締めながら、
「日本側の協力がなければ、この計画はできるものではなかった。
あなたや、日高参事官のご協力も、ティンパーレー君から詳細承知しています。
どうもありがとう。ほんとにありがとう」
といって、自分の努力など一言もいわない。
「せっかくのご訪問だから、シャンペンでいっしょに祝杯を挙げるべきだが、
ビールで堪忍してください」
と、静かな、しかし朗らかな笑みをたたえながら、
ビールの栓をいきなり三、四本も抜いた。
こちらは思いがけぬ饗応で、いささか面くらったが、
ジャキノ神父の今までの苦心の数々を想いやりながら、勧められるままに、
幾度も、グラスをカチンとやりながら、ビールを飲みほした。
私が、 「記念のために、神父の写其を撮らせてください」
というと、
「あなた方とごいっしょなら」
との返事。
あくまでも自分を虚しくした態度に、私はいたく打たれた。
「では、君も入って、三人で撮ることにしましょう」
と、神父を間にして、
殿木君と私とが左右の椅子に座を占めた。
カメラマンがシャッターを切る直前に、神父は、 「オットット」
と
いいながら、空のビール壜 (ビン) を一本ずつ、卓の下に隠した。
「気がつきませんでしたね」
と、こちらは恐縮した。写真撮影が終ったとたんに、
助手らしい中国人が室に入ってきて、 「喧嘩が始まったようです」
と報告した。
ジャキノ神父は、やおら立ち上がって、 「すぐ行く」
と返事しながら、私らに、
「あなた方も新聞記者だから、難民の連中がどうしているかを観察されたいなら、
ご案内しましょう」 「何よりありがたい」
と、私らも神父に随 (つ) いていった。》
つづく
これは メッセージ 839 (kireigotowadame さん)への返信です.
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松本重治氏、ジャキノ難民区へ1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/17 18:51 投稿番号: [839 / 2250]
松本重治著
『上海時代(下)』
中公新書
236〜237p
《 南市攻略は歩兵第六十八連隊によって十一月十一日から始められた。
中国軍は
「日暉クリークに沿う堅固な陣地に拠って上海戦最後の抵抗を
行うことが明らかになった」。
中国軍の
「右翼の拠点はフランス租界の境界線上に設けられているので、
この陣地攻撃ではわが砲弾が租界内に流れて国際問題が起る公算が極めて大きい。
……わが第一線部隊は……上海の特殊事情には暗い。
これらの事情を攻撃部隊に配慮せよと要求することは無理であるから、
それを未然に防ぐことこそ上海憲兵隊の戦闘任務である」
と、塚本憲兵大尉は考えて、
「現地事情に精通する下士官約二十名を指揮して、攻撃部隊に随伴することにした」
(塚本誠著『ある情報将校の記録』一七九〜一八一ページ参照)。
「集中砲撃が終ると、攻撃部隊が攻撃を開始し、憲兵たちもこの第一線について、
日暉クリークを渡河する。案の定、敵はフランス租界を背にしたトーチカから
側射してくる。……逐次敵を圧迫し、南市の西南端に達したが、
市街突入は翌払暁ということで、私(塚本)らも第一線と共に敵と対峙したまま
夜を徹した。……払暁、私を先頭に憲兵らが、歩兵部隊に先んじて南市市街に進出すると、
敵影を認めないばかりか、住民はすべて両市北部フランス租界に近い地区に集められ、
その難民区は周囲にフランスの小旗を抱げて標示されている。
この地区に近づくと……巻脚絆姿の田中(正一)領事」に会った。
「田中さんの応援で」、その境界線に仁王立ちして待っていたジャキノ神父と
「折衝が円満に進んだ」(塚本氏同上、一八一ページ参照)。
こうして塚本大尉以下二十名の兵が率先、陣頭に立って、
境界線に近づく歩兵部隊が難民区に入ることを抑え、
軍規を維持し得たことは、
難民区の成功に少なからざる寄与をしたことになった。
十三日の朝、私は、前々日から塚本大尉と行動を共にした同僚の殿木 (圭一) 記者から、
前日の難民区の成立成功についての報告を受けた。
私が
「殿木君、何べんも両市と支社とを往復してもらってご苦労だったが、
僕自身も、難民区に行って、ジャキノ神父に
『おめでとう』
をいいたいから、
君、済まんが、いま一度、僕といっしょに行ってくれないかね」
というと、
「松本さん、ジャキノ神父の計画を知っておられるのですか。
喜んでいっしょに行きましょう。カメラマンを連れて」
という快い返事だ。
そこで、三人で、殿木君の案内で、車を走らせた。難民区は、難民が充満していた。
殿木君に
「神父はどこにいるだろう?」
と尋ねると、
「昨日会った場所はこここら辺でしたがね」
と殿木君からは少し頼りない返事だ。
「ジャキノ先生
(シンサン:上海語の発音)
に会いたいんだが」
と
数人の難民を相手に押問答をやったが埒があかない。困ったなあと思っていると、
しばらくして、 「仏国人有了
(ファコニンユーラ)」
と私らにいいながら一方を指す人が二、三人現れた。
なるほど、難民がジャキノ神父の名を知っているはずはない。
しかし、数日前にここに来ていた難民は、フランス人が難民の世話をしていた
ことだけは知っているわけだった。 「仏国人
(ファコニン)
に会いたいんだ。
私たちは仏国人の朋友
(ポンユー)
なんだ」というと、
有志が私らをジャキノ神父のいるところまで案内してくれた。》
つづく
これは メッセージ 838 (kireigotowadame さん)への返信です.
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塚本氏の見たジャキノ避難民区
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/16 18:38 投稿番号: [838 / 2250]
塚本誠著
『ある情報将校の記録』
218p
《 払暁、歩兵部隊に先んじて市街に進出すると、敵影を認めないばかりか
住民はすべて南市北部フランス租界に近い地区に集められ、
その避難民区は、その周囲にフランスの小旗を掲げて標示されている。
この地区に近づくと、背広に巻脚絆姿の日本人が挨拶した。
上海総領事館の田中正一領事である。
田中さんの話によると、この避難民区は、
カトリックの神父でジャキノーというフランス人の志によって設けられ、
「ジャキノー避難民区」
と呼ばれているという。》
219p
《 ここで
「ジャキノー避難民区」
についてふれておきたいと思う。
ジャキノー神父は、かねがね上海周辺の避難民の救済に心を痛め、
対策の一つとして南市避難民区を考えたのだが、それを創設するについては
日本側、とりわけ軍部の同意をとりつけることが先決であった。
神父がその手懸りをつかむことができず困っていたのを知った英紙
「マンチェスター・ガーディアン」
のティンパレー特派員が、
同盟通信の松本重治氏を訪ねて仲介の労を頼んだ。松本さんの尽力で、
日高総領事および軍特務部の楠本実隆大佐の同意が得られたということである。
南市の避難民対策では、ジャキノー神父の志に感じて
青幇の巨頭杜月笙が
その組織を動員して煎餅や乾パンなどの食糧その他の配給に当たった。
この避難地区には、その後大場鎮付近などからも避難民が殺到し、ジャキノー神父は
上海戦だけでも、飢餓に瀕した六十万余の人命を救ったといわれる。》
つづく
これは メッセージ 837 (kireigotowadame さん)への返信です.
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南市攻略戦2 新聞記事
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/15 15:32 投稿番号: [837 / 2250]
〔昭和12年11月12日
東京日日〕
《〔南市にて十一日平栗、鈴木両本社特派員発〕
皇軍は十一日、ついに上海城内入口に、日章旗を高く掲げ、
ここに上海周辺の敵兵を完全に叩きつぶし、最後の止めを刺した。
思えば八月二十三日、先遣部隊の敵前上陸以来聖戦七十余日、
文字通り血戦、奮闘あったが、ヨーロッパ大戦の休戦日であるこの日、
皇軍上海城入りは全く意義深いものがある。
南市及び城内の支那人に徹底的覚醒の鞭を振るった南市攻撃は、
国際環視の下に十一日午後零時二十分から開始された。
二十分間機関銃制圧射撃が行われた後、松井 (健) 部隊、島部隊将兵
日暉路前のクリーク一帯に煙幕を張った。
神風というか、この日の風向は初め東南の風であったが、
集中射撃を行うころから西南の風に一変、白煙濠々と敵陣地一帯を蔽うた。
この時とばかり敵の機関銃猛射を物ともせず、川並部隊、松本部隊の決死隊が
普家宅東方湾曲地点に架設された軽渡橋を渡って突撃、
松野中尉の一隊、中村見習士官の一隊が零時三十八分、
その地点より、北方二百メートルの個所より
佐藤、榊原○隊等陸続と渡河して敵兵を一挙に粉砕しつつ、
その第一線は午後一時、すでに呂斑路に進撃した。
川並部隊の進撃に伴って鷹森部隊も黄浦江岸よりクリークを渡って、
手向かう敗残兵を蹴散らしつつどんどん進撃、
かくて夕刻までに川並、鷹森両部隊は上海兵工廠、江南造船所、上海地方法院、
民国審判所、滬杭甬鉄道南停車場、大同大学その他の重要建物を次々と占拠し、
その第一線は城内に至って日章旗を掲げた。
南市及び城内の一般支那避難民は豊浜路以北の地域に密集して避難中で、
我が皇軍部隊は善良な住民のため特に城内への進撃を差し控えた。
この日の敵前渡河は仏祖界を横に控え、各国人観戦の下に堂々と行われたもので、
仏、伊、英など各国の警備兵も皇軍将兵の勇敢なる様を眼のあたりに見て讃嘆した。》
これは メッセージ 836 (kireigotowadame さん)への返信です.
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南市攻略戦1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/14 15:33 投稿番号: [836 / 2250]
塚本誠著
『ある情報将校の記録』
216〜218p
《 南市無血攻略の工作も成功せず、敵は日暉クリークに沿う堅固な陣地に
拠 (よ) って上海戦最後の抵抗を行なうことが明らかになった。
敵の右翼の拠点はフランス租界の境界線上に設けられているので、
この陣地攻撃ではわが銃砲弾が租界内に流れて国際問題が起こる公算が極めて大きい。
その上、南市には多数の避難民がいるだろうから、その取扱いいかんでは
人道上の問題として列国の批判の的となることも予想された。
わが第一線歩兵部隊は岐阜の川並部隊で、呉淞上陸以来三ケ月、いま追撃戦に
移ったのであるが、上海の特殊事情には暗い。
これらの事情を攻撃部隊に配慮せよと要求することは無理であるから、
それを未然に防ぐことこそ上海憲兵隊の戦闘任務であると私は考えた。
そこで岡村大尉と相談して、岡村の租界分隊と私の特高課から、現地事情に精通する
下士官以下約二十名を私が指揮して攻撃部隊の第一線に随伴することにした。
十一日、南市攻撃が始まった。集中砲撃が終ると、歩兵第六十八聯隊の攻撃開始。
憲兵もこの第一線について日暉クリークを渡河する。
案の定、敵はフランス租界を背にしたトーチカから側射してくる。
私は中隊長のいる線まで進出して、歩兵部隊の射法を注視していた。
その時、うしろから部下の一憲兵が
「鉄帽を被ってもよいですか」
と
大声で叫ぶので
「済まん、かぶれ」
と答えたが胸にジンとくるものがあった。
私は鉄帽は開戦以来まだ手にいれていないのである。
その時私のそばに一人の新聞記者が伏せている。尋ねると同盟通信の殿木圭一記者と答えた。
殿木君をみると彼はどこで拾ったか青天白日のマークのある鉄カブトをかぶっている。
私はこれが縁でその後長いつき合いとなるのだが、これこそ戦場で拾った友人である。
逐次敵を圧迫し南市の西南端に達したが、市街突入は翌払暁ということで、
私らも第一線と共に敵と対峠したまま夜を徹した。
殿木君は社へ連絡に帰るというので途中まで憲兵に護衛させたが明方近くに帰って来た。
あまりに帰りが早いのでそのわけをきくと、難民区からフランス租界内への
水汲み入口があるからそれを抜けて来たとのこと。よくよく大胆敏捷な男である。
払暁、歩兵部隊に先んじて市街に進出すると、敵影を認めないばかりか住民は
すべて南市北部フランス租界に近い地区に集められ、
その避難民区は、その周囲にフランスの小旗を掲げて標示されている。
この地区に近づくと、背広に巻脚絆姿の日本人が挨拶した。
上海総領事館の田中正一領事である。田中さんの話によると、この避難民区は、
カトリックの神父でジャキノーというフランス人の志によって設けられ、
「ジャキノー避難民区」
と呼ばれているという。いい時に田中さんに会ったものだ。
田中さんの応援で、フランス側との折衝は円満に進んだ。
私は一応、南市一帯を憲兵に巡察、検索させたのち、長以下数名をもって
南市憲兵分駐所を開設させる処置をとり、主力の憲兵はその所属に復帰させた。
南市の掃蕩が終った十二日の夕方、路上で飯盒メシを食べていた兵隊に声をかけると、
「上陸以来初めて電灯の見えるところで御飯が食べられました」
と、しんみり答えた。》
つづく
これは メッセージ 835 (kireigotowadame さん)への返信です.
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新聞に載った大前軍曹らの捜索
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/13 18:37 投稿番号: [835 / 2250]
塚本誠著
『ある情報将校の記録』
215〜216p
《 翌朝、昨日の
「朝日」
の記者が白川さんから聞いたといって取材に来たが、
十一月十三日の
「朝日」
にその記事がのっていた。
両部下を捜して三ケ月
―
憲兵大尉一番乗りに秘める悲話
―
(竜華鎮にて、斎藤(一)特派員十一日発)
九日午後一時、竜華の街を驀進 (ばくしん) する戦車の先頭に悲壮な決意を
漲 (みなぎ) らせて乗り込んでいた憲兵大尉がいた。
わが上海憲兵隊の塚本誠大尉だ。竜華一番乗りだ。
戦車が淞滬警備司令部の前に止まると、残敵が潜んでいるかも知れぬ
その建物内に単身飛び込んで虱潰 (しらみつぶ) しに舎内を検索した。
この一番乗りの蔭には事変の直前不幸敵手に斃 (たお) れた
二人の部下への熱情が秘められていたのだ。
記事は既述の大前軍曹、熊野通訳の行方不明の事件を記した後、
次のように続けられている。
二人の事件も支那事変の大渦に巻き込まれ、その後淞滬警備司令部で
二人とも銃殺されたとの情報がはいったまま今日に及んでしまった。
塚本大尉の頭の中には二人が若 (も) し銃殺されたとしても仮令 (たとい)
一品でも遺品を手に入れ遺族に送りたい一念であったのだ。大尉は左の如く語った。
「私は竜華占領の今日の日をどんなに待ったことか。
今日もこうして怪しげな土饅頭にまで捜索を続けているのです」》
つづく
これは メッセージ 834 (kireigotowadame さん)への返信です.
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11月9日 南市攻略の下調べ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/12 18:48 投稿番号: [834 / 2250]
塚本誠著
『ある情報将校の記録』
213〜215p
《
戦況が一段落つく頃、私は下士官何人かと再び崑山花園アパートに寝起き
していた。十一月八日夜北站 (上海北駅) 方面に激しい銃砲声が起こる。
私のアパート付近にも敵弾が飛来する。私はいよいよ、この夜北站の敵が
退却を始めるものと察した。残るのは南市付近の敵だけであると判断した。
その頃、南市の敵を降伏させる工作が軍特務部の楠本大佐の手で行なわれており、
例の森さんが協力していたようである。
軍特務部とは、占領地区軍政を担当するもので、占領地区の拡大とともに
上海武官室がこれに改編されたものである。
この頃、喜多少将は王克敏と共に、 「北支政権」
樹立のため北京へ移り、
後任の軍特務部長は原田熊吉少将(22期)である。
十一月九日、私は部下若干名を率い自動車で南市へ向かった。
途中蘇州河の鉄橋は爆破されていて工兵隊が修築中なので車を捨てて前進した。
あとから追撃隊の尖兵が来たので、連絡すると歩六五 (岐阜) の青山中隊とわかった。
これと同行して進むと十数名の敵を発見し尖兵中隊は停止して機関銃を馬から
おろそうとしている。私は
「敗残の敵だ。突っ込んで行けば逃げる」
といって、
いっしょに突撃すると案の定逃げてしまった。
その時敵情捜索の友軍戦車二台が来たので要務を告げて私はその先頭戦車に乗って
前進をつづける。
竜華飛行場を偵察の後、敵の淞滬警備司令部のあった建物の前に来た。
ここは警備司令楊虎のいたところで大前軍曹、熊野通訳はここで銃殺された疑いもある。
私は下車して建物の中を一巡したが手懸りになるようなものは見当たらなかった。
南市の敵が撤退を始めたという情報はなかったので楠本大佐の工作の成果は疑わしい。
やがて日暉クリークの橋が見える。そこを渡れば南市だ。
戦車がその橋にさしかかろうとする一瞬、大爆音と共に白煙が戦車の展望孔をとざした。
敵が、あわてて地雷に点火してしまったらしく、私の命は助かった。
敵弾が戦車の鋼板にはね返る。対岸には敵の陣地があることがわかった。
私は偵察の目的を達した。
戦車長を促して竜華に向かって後退すると青山中隊が来たので敵情を話し、
現在地に停止し主力の前進を掩護すべきであろうと意見を述べた。
その時、同行していた
「朝日」
の記者と称する人が私から取材をしようとしたので、
私は
「急いで報告に帰らねばならぬ。取材がしたいのなら白川支局長にきいてくれ」
と言いすてて戦車に飛び乗った。途中楠本大佐に出会った。
大佐は南市工作の成果を確めに出てこられたのである。
私は遺憾ながらそれが不成功に終ったことを報告せざるをえなかった。
大場鎮に進出していた軍司令部へ行き長勇第二課長に南市攻撃の必要を
報告し、再び竜華へとって返して宿営した。》
*
塚本氏は、機関銃を降ろそうとする青山中隊の兵に、「敗残の敵だ。
突っ込めば逃げる」
といって、中国兵を殺させず、逃がさせた。
中国や反日日本人の言う、残虐日本兵とは、正反対の行為をしている。
しかし、反日人は残虐日本兵の妄想を好み、事実を見るのを拒否している。
つづく
これは メッセージ 833 (kireigotowadame さん)への返信です.
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制令線の設定と中支那方面軍の編成
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/11 18:53 投稿番号: [833 / 2250]
中国軍は退却しはじめましたので、追撃戦に移るわけですが、
参謀本部は、戦線が無限に拡大するのを恐れて、制令線を設けました。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
397p
《十一月七日、臨命第六百号をもって
「中支那方面軍ノ
作戦地域ハ
概ネ蘇州、 嘉興ヲ連ヌル線
以東トス」
・・・
参謀次長から方面軍参謀長あて、次のような通牒を発した。
作戦地域ヲ
蘇州−嘉興ノ線以東
ト定メラレタルハ
方面軍主力カ (が)
該線迄押出スコトヲ
予期スルニ非ス
貴軍ノ任務ハ
依然上海付近ノ敵ヲ
掃滅スルニアリテ・・・》
また、この日、第十軍と上海派遣軍とを指揮する組織として、
中支那方面軍の編合
(戦闘序列ではない)
及び任務が発令されました。
中支那方面軍司令官には松井大将が選ばれ、上海派遣軍司令官と兼任です。
中支那方面軍への命令は以下の通りです。
398p
《一
中支那方面軍ハ
支那方面艦隊ト協同シ
上海西北方ノ敵主力ヲ
崑山付近ノ地区ニ於テ
捕捉殲滅ス
二
上海派遣軍ハ
依然
蘇州河南方地区ノ攻撃ヲ続行シテ
上海市ヲ封鎖スルト共ニ
重点ヲ
京滬鉄道北側地区ニ
保持スル如ク
崑山方向ニ対スル
攻撃ヲ準備スヘシ
十一月中旬
有力ナル兵団ヲ
白茆口付近ニ上陸セシメ
神速ナル行動ヲ以テ
敵ノ退路ヲ遮断スヘシ
三
第十軍ハ主力ヲ以テ
松江付近ニ進出シテ
上海派遣軍ノ
蘇州河南方地区ニ
於ケル作戦ニ
協力スルト共ニ
崑山方面ニ対スル
爾後ノ攻撃ヲ準備スヘシ
四
作戦地境ハ
北橋鎮、呉江ヲ
連ヌル線トス 》
*
制令線を設けた
つまり、南京へ行くなど、考えていなかったと言う事です。
中国や反日日本人の妄想する侵略など、頭になかったのです。
つづく
これは メッセージ 832 (kireigotowadame さん)への返信です.
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略奪する中国軍、総崩れの兆候
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/10 18:42 投稿番号: [832 / 2250]
上海派遣軍の大場鎮占領、蘇州河渡河、そして第十軍の杭州湾上陸により、
蘇州河南の中国軍兵士は、挟み打ちを恐れて、退却モードになりました。
そうすると、中国軍お得意の略奪行動が表れます。
上海の中国軍、総崩れの兆候
〔昭和12年11月8日
東京日日(夕刊)〕
《 某所着電によれば、我が飛行機の偵察によると、浦東方面の敵は五日、
我が陸軍の杭州湾上陸以来右往左往し、全く混乱状態に陥れるもののごとく、
殊に蘇州河南方地区の支那軍は六日来、虹橋路方面支那人家屋は勿論、
外国人住宅、教会等を見境もなく盛んに掠奪している。
支那軍は退去前には必ず掠奪するのが習わしで、すでに掠奪を開始せるより見て、
上海付近支那軍は近く全戦線総崩れとなるものと観測される。
〔上海本社特電七日発〕(軍七日午後八時発表)
六日午前、黄浦江南岸に到達せる〇〇部隊は、七日午後六時頃、
黄浦江を越えて北岸に進出し、更に松江に向かって攻撃前進中なり。
〔上海七日発同盟〕
事変以来浦東に蟠踞 (ばんきょ) せる敵大部隊は
我が陸軍新鋭部隊の杭州湾上陸により多大の脅威を受け、動揺の色顕著なるものが
あったが、敵は袋の鼠となるを恐れて、咫尺 (しせき) を弁ぜぬ濃霧と夜陰に乗じ
六日夜来浦東を抛棄 (ほうき) し、上海西北に向け続々退却を開始した。
蘇州河南岸を大躍進
〔上海にて七日平栗本社特派員発〕
田上、石井両部隊の一線は
七日午後三時から総攻撃を開始し雨中猛攻撃を加え、歩兵部隊は勝庚部落を占拠した。
〇〇部隊の右翼方面では蘇州河に架橋し、後続部隊とともに戦車、
砲車も渡河し、いよいよ戦果を拡大しつつある。》
つづく
これは メッセージ 831 (kireigotowadame さん)への返信です.
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報道部のアドバルーン作戦2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/09 18:45 投稿番号: [831 / 2250]
西岡香織著
『報道戦線から見た
「日中戦争」』
195〜196p
《 終戦の翌昭和二十一年末から始まった日本初のクイズ番組、 「話の泉」
の
解答者として評判をとり、タレントの走りと言われる堀内敬三であるが、
上海事変ではアドバルーンの組み立てに苦労したというのも、面白い話である。
翌二十八日
「日軍到蘇州河」
を萬歳館屋上から掲揚し、十一月六日朝には
「日軍百萬上陸杭州北岸」
を同館上に掲揚した。
「百万」
は大軍の意味であるが、 「結果的に見て、この文字が一番評判よく、
アドバルーン宣伝中の白眉であった」。
また、これを上海西郊に運び、蘇州河対岸の敵前にも掲揚したところ、
「敵は怒ったの怒らないの、六日の午後五時であったが、銃砲の猛射間断なく、
浮揚三十分位にして、惜しいかな撃墜された」。
しかし
「この気球浮揚は、邦字紙、外字紙、華字紙、ラジオ等によって
大々的に報道され、敵はこれがために大恐惶 (きょうこう) を来たし、
遂にその退却を早めたとまでいわれている」
報道部員や職員はこの後も連日のようにアドバルーン造りに励み、
支那軍側の負けても勝ったとするデマ宣伝を押さえ込む効果を挙げた。
まさにアドバルーンは報道部の新兵器となったのである。
新聞記事
《〔昭和12年11月8日
東京日日(夕刊)〕
〔蘇州河畔にて六日伊藤(実)特派員発〕
六日、我が上海戦線においては前面の敵の動揺を尻目に全戦線にわたり
軍歌の夕を催して、敵の度胆を奪う豪華陣を布いた。
「日本軍百万、杭州湾に上陸す」
と大書したアドバルーンが敵前線の真上、
わが○○部隊の屯 (たむ) ろする蘇州河中央造兵廠付近の空に揚がった。
六日正午、軍報道都では本社選歌
「進軍の歌」
と
「露営の歌」
を皇軍陣地に
自動車で配布し、蓄音機から拡声器で新戦場に時ならぬ壊しの軍歌調を放送した。
空には雨雲を衝く友軍飛行機の爆音、地上には彼我の砲声殷々たる中に流れる軍楽に、
稲田から綿畑からクリークから、われ勝ちに飛び出す兵隊さん達、
炊事をやめて立ち上がるもの、病床にあるもの、負傷の足を引きずり、
戦友の一局にすがって来るものなど、
拡声器の傍 (そば) は黒山のようにいっぱい、
中にはすでに覚えた歌詞に戦闘帽を打ち振り、指揮者気取りの音頭を取るもの、
泥濘もものかは軍靴の音も爽やかに寄贈の歌詞を手に合唱、
アンコールアンコール、夕闇迫る頃まで歌い続けられた。
特に
「露営の歌」
は勇士の実感をそそり、
感極まって次の攻撃に武者振るいする勇士も多数あった。
この間、敵は我武者羅に砲弾を降らせたが、いたずらに我が士気を鼓舞するのみ、
軍馬の嘶 (いなな) きとともに我が勇士の合唱は江南の空を圧し続けた。》
つづく
これは メッセージ 830 (kireigotowadame さん)への返信です.
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報道部のアドバルーン作戦1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/08 15:27 投稿番号: [830 / 2250]
馬淵報道部は中国のデマ宣伝に何とか対抗できるものはないか、と考え、
アドバルーンを揚げることにしました。
西岡香織著
『報道戦線から見た「日中戦争」』
194〜195p
《 アドバルーンも、宣伝戦の新兵器として大活躍したが、その経緯は、
馬淵の
『報道戦線』
に詳しく記されている。
「報道部では事変勃発と共に、東京市神田区淡路町・銀星座の広告気球を
予め購入していたが、これを利用した最初は、
昭和十二年十月二十七日、大場鎮占領の時、
上海虹口 (ホンキュ) なる萬歳館六階屋上に於てであった。
上海では、工部局がアドバルーンを禁止していたので、
広告用気球は市民もまだこれを知らなかった。
二十六日、大場鎮占領の報を得た所謂砲弾下の報道部では、
辻、江島等のタイピスト嬢のほか、折から萬歳館に泊まり合わせていた放送協会の
友安君や堀内敬三君、西村楽天君等が徹夜して文字網を作製し、
翌二十七日午前五時、それっというので上昇の準備をしたが、
誰一人アドバルーンを掲揚した経験者がなく、
ああでもないこうでもないと研究しつつ、ともかくも完全に浮揚させた。
『日軍占領
(赤字)
大場鎮
(黒字)』」
この時のことについて、堀内敬三自身は次の短文を残している。
「大場鎮の陥 (お) ちた晩、金子少佐は
『さあアドバルーンを揚げよう』
と調子づいた。
『よし来た』
と多数が報道部の事務所に馳せ向って、
夜半から
『日軍占領大場鎮』
の字を網の目に縫いつけにかかった。
萬歳館の女中さん達も報道部の運転手君たちも、針と糸とを持ってせっせと働いた。
その間に空襲が二度ばかり来たが、平気だった。皆嬉しさに夢中だった。
三時頃から私は放送局の島山技師と二人、萬歳館の屋上でバルーンの組立てにかかった。
懐中電灯の光で説明書を見ながらやるのだから、はかどらない。
そのうちに懐中電灯の光を見て北停車場から小銃を撃ってきた。 『とうとう見つけたね』
『まだ逃げないのかね、支那さん、よく粘るなあ』
島山君も私も意気軒昂であった。
しかし仕事は中々はかどらない。そのうちに夜があけた。弾丸は来なくなった。
文字の網が出来て運転手君が
『わっしょ、わっしょ』
と運んで来る。
午前七時、やっとこさで、最初のアドバルーンが虹口の空にあがった。
嬉しかった」
(「最初のアドバルーン」
堀内敬三、前出
『紙弾』
所収)》
つづく
これは メッセージ 829 (kireigotowadame さん)への返信です.
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杭州湾上陸作戦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/07 15:27 投稿番号: [829 / 2250]
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
435〜440p
《 第十八師団は門司で乗船、十月九日五島富江泊地に集結し訓練。
第六師団及び国崎支隊は十月二十七日塘沽において乗船、八口浦
(木浦西方)
に
集合。二十八日以降逐次一水戦
(一部欠)
と合同し待機。
豊田長官は
「妙高」
を率い、十月二十七日佐世保発、翌二十八日馬鞍群島
緑華山錨地着、同地において作戦準備、全作戦支援に任ずるとともに、
駆逐艦に移乗し上海に回航、長谷川長官らと作戦打ち合わせを行った。
「名取」
は十月三十日、第十軍司令部乗艦後佐世保発、富江において
第十八師団の揚陸演習指導の後、八口浦経由、十一月三日緑華山錨地着待機。
十一月二日、各護衛隊はそれぞれ船団を護衛し、上陸点に向け集合地を進発。
「夕暮」
のみ誘導すべきD隊の到着が遅れたため4日、上陸点に向かった。
船団は予定どおり南下した。・・・
17:29、二三〇度方向一五粁
(キロメートル)
付近に英国駆逐艦を認めた。
同艦は船団前方を横切り、 18:10
「川内」
の左舷正横二、五〇〇米を
反航航過し、船団に接近した。
「由良」
及び第十六号掃海艇は英艦と同航監視した。
H作戦部隊指揮官は我が企図を暴露することを防ぐため、 18:56、 同作戦部隊あて、
「由良付近ニ
英国駆逐艦アリ
極力送信電波ヲ捜索
補捉セバ直グ知ラセ
電波捜索区分左ノ通り(著者略)」
と命令した。
英国駆逐艦は第二船団左舷側を反航航過後第一船団に差しかかったので、
「木曾」
及び直衛の駆逐艦は煙幕を展張し、船団を遮蔽した。
やがて煙幕の陰に英国駆逐艦を見失った。
23:45
「川内」
から第二船団あて、 「泊地進入用意、K隊進出セヨ」
が下命され、
「若葉」
誘導の下にK隊は右に出て増速、C隊も右に出てK隊に続行し、
第一分隊と並び三列縦隊となった。
当時の情況を第一水雷戦隊司令部事変日誌は
「・・・折シモ海上平穏ニシテ
殆ド満天雲ニ掩ハレ
新月二日ノ暗夜ハ奇襲進入ニ最適・・・次第ニ濛気ヲ発生
・・視界ハ日出後迄モ
依然トシテ不良・・・揚陸状況ハ
元ヨリ上陸後ノ
状況等モ
少シモ知ルコトヲ得ザリキ」
と記している。・・・
05:15
上陸用舟艇に移乗した陸軍部隊は、濃霧の中を陸岸に向け輸送船を発進、
上陸を開始した。
上陸軍は左側支隊正面で若干の抵抗を受けただけで、
06:30
完全に奇襲上陸に成功した。
10:50
には早くも金山衛城に日章旗が掲げられた。六日正午、上海においては、
「日軍百萬上陸杭州北岸」
のアドバルーンが掲げられ、士気大いに上がった。
左側支隊は海岸線付近陣地による敵の頑強な阻止にあい、水際付近で対峙した。
杭州湾は潮の干満差は五米に及び、このため生ずる潮流は最大五節 (ノット) にも
達するところであり、左側支隊は時間の経過とともに潮が満ちて肩付近まで
水に浸り対戦し、苦戦となった。
護衛艦隊は艦載機の全力を挙げて陸戦に協力した。陸軍側の要望により、
揚陸用桟橋を構築することとなり、連合工作隊の編成が下命された。
上陸兵団の作戦進ちょく状況にかんがみ、
第二次船団搭載の重器材は上海に揚陸することとなり
「有明」
は 08:00 泊地発、 17:00呉淞に到着、「 朝日」
と協同し輸送船の
世話及び情況連絡等に従事した。この日揚陸作業は大いに進ちょくした。
十一月十一日、第百十四師団の戦列部隊は揚陸を完了した。
また上陸以来進撃を続けた第六師団は、上海派遣軍と完全に連係を確保した。
「有明」
は引き続き第一船団一二隻の荷揚促進に努めたが、兵船在泊輸送船は
総数約六〇隻に達し埠頭待ちのため作業は進ちょくしなかった。》
*
上海の港が混雑し埠頭待ちのため、荷揚げが遅れ、第十軍への物資の
補給が遅れた事が、後の補給の問題へとつながります。
これは メッセージ 828 (kireigotowadame さん)への返信です.
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蘇州河敵前渡河
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/06 18:41 投稿番号: [828 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
380〜381p
《 蘇州河南岸には平時から構築された特火点陣地があり、
事変勃発後は野戦築城により補強されていた。
上海派遣軍司令官は、軍主力が蘇州河の線に進出すると、
上海南市を完全に封鎖するため、引き続き蘇州河南岸の敵を攻撃するに決した。
すなわち主攻を北新芤−陳家橋道両側の地区に保持し、
第三・第九師団を十一月二日までに渡河させ、
第百一師団を上海北西側に集結し第三師団に続いて渡河できるよう準備させ、
第十一師団は南翔方面の敵に対し軍主力の右側を掩護するよう部署した。
また三十一日、重藤・永津両支隊を揚子江上流方面の作戦に当たらせるため、
第十三師団に両支隊と守備を交代するよう命じた。(交代完了は十一月四日)
第三師団は十月三十一日、渡河を開始した。
左翼方面では一部が渡河しただけで
頓挫したが、右翼方面では十一月五日ころ、渡河に成功し、逐次南岸に地歩を獲得した。
また第九師団は、十一月一日右翼隊方面の渡河に成功し、
左翼隊は二日、右翼隊の渡河点から渡河してその左翼に進出したが、
師団正面の優勢な敵は、師団の渡河点に対し正面から逆襲を繰り返し、
さらに蘇州河北岸南翔方面から逐次兵力を南岸に移して
師団の右側を圧迫したので、師団は一時苦境に陥った。よって軍司令官は、
第十一師団に江橋鎮(南翔南東約四粁 (キロ))付近を攻撃させた。
第九師団は、敵の攻撃を排除し逐次南方に地歩を占めたが、
軍司令官は、同師団の攻撃を更に進展させるため、
七日、第百一師団の一部(歩兵一聯隊、野砲兵一大隊基幹)を配属し、
また第百一師団主力をして第九師団の左翼後で渡河を準備させた。
第百一師団の一部は、八日、第九師団の右翼に加入し、主力は架橋を実施したが、
九日、軍命令により渡河を取りやめた。
(上海方面の戦闘進捗は、派遣軍の力攻と、
後述する第十軍が敵の側背に進出したためとみられる)》
つづく
これは メッセージ 827 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国軍 蘇州河の南に後退
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/05 16:52 投稿番号: [827 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
380p
《二十六日、軍は大場鎮を攻略し、滬寧鉄道を遮断し、二十七日、蘇州河の線に到達した。
・・・
一方、海軍陸戦隊は27日に閘北 (ざほく) 一帯を占領し、掃蕩を完了した。》
陸戦隊を攻撃していた八十七師や八十八師は蘇州河の南に後退しました。
383p
《「中国軍の記録
―
淞滬付近の戦闘(二)
『抗戦簡史』」
次いで (10月) 三〇日新芤鎮以南で抵抗を継続した。
この際、わが方の撤退掩護の任務をもって閘北四行倉庫を死守する八百の勇士は
ついに孤立となったが、命により撤退しかつ英国の好意により租界内に退入した。》
蘇州河の南に逃げたからと言って戦争をやめたわけではありません。
日本軍の占領地の周りは全部中国軍が包囲しています。
彼等は外国人の協力を得て、戦争を続けています。
西岡香織著
『報道戦線から見た
「日中戦争」』
91pには
《蘇州河以南、両租界住民の九十%以上は支那人であって、中には抗日に
燃える分子も多かったので、租界当局が口にいう中立の守れる筈がなく、
支那軍人は便衣に変じ租界内に於て作戦に関係ある仕事に従事し、
観測所や信号所を設けていたことも認められる。
租界の住民は陣地を築いたり、軍隊のために糧抹や弾薬を補給運搬し、
又各病院には支那軍の戦傷者が充満したのであるが、
甚だしいのは、工部局の衛生自動車が弾薬や戦傷患者を運搬したと
言うことである」
(馬淵『報道戦線』)》
とあります。
そこで蘇州河の南へ行くため敵前渡河が行われます。
つづく
これは メッセージ 821 (kireigotowadame さん)への返信です.
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11月6日 蒋介石 日本の和平案を蹴る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/04 15:44 投稿番号: [826 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
457p
《
十一月三日、ディルクセン大使は、ドイツ外務省に右会談のもようを報告し
「日本のこれらの条件は極めて穏健なものであるから、中国がこれを受諾するよう
圧力をかけるのが賢明と思われる」
と述べた。
ドイツ外務省も、日本側の示した条件は交渉開始の基礎として妥当なものと判断し、
同日、トラウトマン大使あて、これを中国側に伝えるよう訓令した。
十一月六日、トラウトマン大使は、孔祥煕実業部長だけが列席している場で、
蒋介石に日本側の意向を伝えた。
蒋介石は現在これに応じられないと回答した》
児島襄著 『日中戦争 4 』
156〜157p
《大使ディルクセンは、日本側条件は
「穏健」
なものであり、中国側も
「面子」
をつぶさずに受諾できると思う、と、外相ノイラートに報告・・・
外相ノイラートは、大使ディルクセンの意見に同意し、翌日、駐中国大使
トラウトマンに蒋介石との接触を指示し、この日、五日の会見になったのである。
蒋介石自身は、この日の会談については、簡単に次のように記録している。
「徳国駐華大使
陶徳曼 (トラウトマン)、試図斡旋
中日戦争、伝達
敵方所
主張之媾和条件、 厳詞拒絶之」》
鈴木明著
『新「南京大虐殺」のまぼろし』
222p
《
蒋介石は直ちに、この提案に対して
「拒絶」
の意志を伝えた。これは
第二次
「国共合作」
をやったばかり、という中国側の空気もあったと思うが、
何よりも大きな
「拒否原因」
は、十一月三日から行われていた
「ブリュッセル九カ国会議」
の行方を見守っていたからである。》
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書 277p
《 まず高君が漢口での中枢の考え方を、左のとおり説明した。
「十一月上旬、広田外相から日本の和平条件七項目をディルクセン駐日ドイツ使が接受し、
ベルリンのヒットラーの諒承を得て、トラウトマン駐華ドイツ大使が、
王 (寵恵) 外交部長に日本の意向を伝えたが、王部長は、蒋介石の意見として、
『中国は国際連盟に提訴してあり、九カ国条約の関係国がブリュッセルで会議中なので、
その結果を見るまでは、日本の条件を考応すべきではない』
との返事をした。」
278p
《白は、 『これだけの条件だとすれば、何のため戦争をしているのか』
とさえいった。》
*
白崇禧将軍が後に
『これだけの条件だとすれば、何のため戦争をして
いるのか』
と言ったくらい温和な条件なのに、蒋介石は蹴ったのです。
つづく
これは メッセージ 825 (kireigotowadame さん)への返信です.
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10月21日 日本 和平案を呈示
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/03 15:08 投稿番号: [825 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
456〜457p
《十月二十一日、広田外相はディルクセン大使に、ドイツが九カ国会議への参加を
拒否するとともに日支和平のあっせんに乗り出すことを希望する旨伝えた。
同日、ディルクセン大使から報告を受けたドイツ外務省は、
翌二十二日、在支トラウトマン大使あて
「 ドイツは日支直接交渉のためコミュニケーションのチャンネルになる用意のある」
旨を打電した。
トラウトマン大使は、前述の馬奈木中佐との会談により日本参謀本部の意向も
承知したので、十月三十日、中国の陳介外交部次長と会談し、
本国政府の意向を伝達すると同時に日本との協定を求めるべき時がきた旨を、
非常な熱意をもって語った。
陳次長も乗り気になり日本側の条件を知りたいと述べた。》
児島襄著
『日中戦争4』
156p
《十月二十八日、日本政府は、外務次官掘内謙介を通じて、
駐日ドイツ大使H・ディルクセンに日中和平の仲介を打診してきた。
ドイツ外務省は、駐中国大使トラウトマンに中国外務部長陳介に
日本側の打診をつたえさせるとともに、
次官H・マケンゼンはドイツ側としては日中両国の
「伝書使」
の役目
以上のことをやるつもりはない、と大使に通告した。
しかし、日本側は、十一月二日、あらためて外相広田弘毅が
大使ディルクセンをまねき、日中和平についての日本側条件を提示した。》
鈴木明著
『 旧 「南京大虐殺」のまぼろし』
159p
《十一月二日、日本は七つの条件で停戦を申し入れた。その条件とは
①内蒙古に自治政府を樹立する。
②満州国国境に非武装地帯を設定する。
③上海の非武装地帯を拡大する。
④抗日政策を止める。
⑤共同して防共に当る。
⑥関税率の引下げ。
⑦中国における外国権益を尊重する、
の七項目であったと伝えられる。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
457p
《 十一月三日、ディルクセン大使は、ドイツ外務省に右会談のもようを報告し
「日本のこれらの条件は極めて穏健なものであるから、中国が
これを受諾するよう圧力をかけるのが賢明と思われる」
と述べた。
ドイツ外務省も、日本側の示した条件は交渉開始の基礎として妥当なものと判断し、
同日、トラウトマン大使あて、これを中国側に伝えるよう訓令した。》
つづく
これは メッセージ 814 (kireigotowadame さん)への返信です.
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英国人の中国軍援助
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/02 18:40 投稿番号: [824 / 2250]
富士信夫著
『「南京大虐殺」
はこうして作られた』
には松井大将の
証言として、次のようなことが書いてあります。
203p
《 当時、上海付近の欧米諸国はほとんど大部分が支那側に同情していたが、
・・・一、二の実例を上げれば、イギリスは上海付近の支那軍に対して、
糧食、武器の援助をしていた。》
263p
《 本作戦に対する列国軍民の態度には遺憾なもの少なくなく、
彼らは厳正な中立国として一九三二年列国の停戦協定を守らず、
中国政府及びその軍隊に同情するのあまり、直接間接に日本軍の作戦を妨害し、
中国軍の作戦に便宜を与え、時にはこれを援助する行動も少なくなかった。
例えば、その国旗を中国軍の悪用に任せ、あるいは中国軍に武器を与え、
食糧を供する等、中立国として偏頗な行為にでたのである。》
また、鈴木明著
『新「南京大虐殺」のまぼろし』
194〜195pによりますと
《『八一三淞滬 (しょうこ) 抗戦』・・・劉勁持は、こう書いている。
・・・
何日か経って、私はとんでもない話をきいた。
王敬久は八十七師の司令部と、共同租界を電話線で結び、
本人は (イギリス) 租界地から電話で指揮を出していた、というのだ。
一方、八十八師は蘇州河に沿った河岸に建っている堅牢な建物である〝四行倉庫〟に
本部を移してしまった。 この一帯なら対岸がイギリス租界だから、
日本軍も誤爆を恐れて空中から爆撃を行うようなことはなかった。》
そして、戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
の383pには
「中国軍の記録
―
淞滬付近の戦闘 (二)
『抗戦簡史』」
の記述として
《 次いで
(10月)
三〇日新芤鎮以南で抵抗を継続した。
この際、わが方の撤退掩護の任務をもって閘北四行倉庫を死守する八百の勇士は
ついに孤立となったが、命により撤退しかつ英国の好意により租界内に退入した。》
と書いてあります。
これ以外にも、英軍は日本軍の海上作戦に対する
スパイ行動らしきものまでしていました。
杭州湾上陸作戦のため、日本艦隊が陸軍輸送を秘密裏にやっていたところ、
たまたま、英国駆逐艦に出くわします。
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
439pには
《(11月4日)
17:29、二三〇度方向一五粁付近に英国駆逐艦を認めた。
同艦は船団前方を横切り、18:10
「川内」
の左舷正横二、五〇〇米を反航航過し、
船団に接近した。 「由良」
及び第十六号掃海艇は英艦と同航監視した。
H作戦部隊指揮官は我が企図を暴露することを防ぐため、18:56、同作戦部隊あて、
「由良付近ニ英国駆逐艦アリ
極力送信電波ヲ捜索補捉セバ直グ知ラセ」
と命令した。
英国駆逐艦は第二船団左舷側を反航航過後第一船団に差しかかったので、「木曾」
及び
直衛の駆逐艦は煙幕を展張し、船団を遮蔽した。やがて煙幕の陰に英国駆逐艦を見失った。》
とあります。
英国駆逐艦は日本船団の前を横切り、反転航行して接近したというのです。
行き先を探り、通報しようという魂胆だったのかも知れません。
こうなると、中立の枠を超えて、完全に中国軍に味方しています。
これは メッセージ 823 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国に迎合する外国報道陣
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/01 15:35 投稿番号: [823 / 2250]
西岡香織著
『報道戦線から見た 「日中戦争」』
92〜94pより
《・・・上海では抗日テロが横行したが、
最初から激しかったのは新聞関係者に対するものであった。
「抗日新聞を背後から操縦するものは、重慶政府の言論統制機関であるが、
これが租界に存在し、黄白によって買収する外、脅迫威圧により
論説記事の指導統制を行い、少しでも日本に有利な事や蒋政権に不利な事を書けば、
忽ち暴力を加えて弾圧し、これを裏切るものは漢奸として血祭に上げる。
抗日言論によって政治テロを使嗾し遊撃隊を煽動するので、
租界は勿論、租界外の我が占領地区内の治安を撹乱し、
日本と手を握りたい各方面の中国人も、ジャーナリズムの暴露と
其の後の崇りが恐ろしいので、皆尻込みするという有様であった。
かくして新しい中国を建設するため日本と提携した親日要人で暗殺せられたものは、
……既に数百人に及び、漢奸の汚名で恐怖政策の血祭に上げられたものは、
数千、数万の多きに達しているのである」(馬淵『報道戦線』)
・・・
蒋政権は独裁を強化すると共に、対内外情勢の複雑化に鑑み言論統制に頗る過酷を極めた。
欧米列強は、もとより事実に於て蒋介石政府及び支那民衆に媚びていたのであるが、
事変勃発と共に、蒋介石は莫大な宣伝費を投じて第三国有力紙を買収し、
反日記事に依って世界の同情支援を求むることに全力を尽した」
このような上海では、慮溝橋事件以来、世界の世論が日本の不利に傾くのも当然であった。
そして上海事変となれば、上海の言論機関がますます日本の
「侵略」
を誇大宣伝
したので、日本軍が武力で勝てば勝つほど、世界の世論は支那に同情的になって行った。
「一歩郊外に出づれば戦場である上海に於てさえ、
外字紙、華字紙は大袈裟に支那軍の大捷を報じ、日本軍の敗北を伝え、
上海の外人も華人も皆これを本当にしていたのだから始末が悪かった。
外人記者に対し上海市長・愈鴻鈞が頻りに黄白と巧みな愛嬌を振りまけば、
淞滬(呉淞・上海)警備司令・張治中がトリック一杯で戦況を説明するのが、
皆真実として世界に放送され、定期会見には押すな押すなの大盛況であった。
これに反して、日本側は声をからして外人記者を呼び集めても、仲々集まらない。
宇都宮(直賢)少佐が事変前から駐在武官であった関係上、わざわざメトロポールヘ
出かけて行ってプレス・コンプレンスを開いたが、個人的には好くても、……
日本の正義とか戦勝という段になると、ことさら眼と耳を塞いでしまい、
その結果は徒らに支那側の宣伝を跋扈跳梁せしめるという有様であった。
支那側に至っては……針程の事を棒大にし、嘘から誠を出し、
煽動的に人心を動かす技術にはほとほと感心して了(しま)った。
このように、中国大陸における権益の競争者である日本に対し、英米仏等は完全に
支那側に立ち、蒋介石政権もそれを徹底的に利用して国際世論を引きつけたのである。》
つづく
これは メッセージ 822 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ルール無用の中国式戦法
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/30 15:13 投稿番号: [822 / 2250]
日本軍は大場鎮を攻略し南下して蘇州河の近くにいきますと、困った事に直面しました。
中国軍は、外国の旗を悪用し、外国の権益を盾とする戦法をとっていたのです。
西岡香織著
『報道戦線から見た 「日中戦争」』
90p
《 支那軍は外国権益を楯にした卑劣な戦闘を平気で行い・・・
外国権益の錯綜する此の地で、我が軍隊が、外国権益を保護して戦うということは、
誠に至難中の至難である。 敵はドンドン大砲や機関銃を撃って来るのに、
我が軍は租界の中に砲弾を落さぬため、ミスミス大砲の有効射撃を止め、
肉弾を以て敵陣地に突込むという、無理な戦闘をしたのであった 》
91p
《上海事変を通じ、ビル等の建築物に拠る支那軍が、欧米各国の国旗を翻して
日本軍の砲撃をさけ、日本軍が近づくと国旗を倒して射撃を開始する 》
同様のことは、松井大将の東京裁判の証言にも出て来ます。
富士信夫著 『「南京大虐殺」 はこうして作られた』
158p
《 外国権益の保護で中国の戦場で事実上困惑したことは、
中国軍および中国の常民が米、英、独等の外国旗を濫用し、
日本軍の作戦を妨害する事実の少なくなかったことである。
例えば、揚州には外国権益は存在しないことは前もって調査の上明らかであった
にも拘らず、英、米、仏の国旗を揚げているものがあったので不審に思い
調査したところ、中国人が外国旗を濫用していたことが明らかになった。》
198p
《 一部の将兵はいわゆる便衣兵となり、軍服を脱ぎ、平衣を着て残留し、
我が将兵を狙撃し、我が軍の背後を脅かすことも少なくなく、
付近人民もあるいは電線を切断し、あるいは烽火を上げる等直接間接に
支那軍の戦闘に協力し、我が軍に幾多の危難を与えた。
また、同地付近に駐屯した米・英・仏諸国の軍隊もまた支那軍に同情して
幾多の支援を与え、我が軍の行動に故意に妨害を与えた事実がすくなくなかった。》
鈴木明著
『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』
194〜195p
《『八一三淞滬 (しょうこ) 抗戦』・・・劉勁持は、こう書いている。
・・・
何日か経って、私はとんでもない話をきいた。
王敬久は八十七師の司令部と、共同租界を電話線で結び、
本人は(イギリス)租界地から電話で指揮を出していた、というのだ。
一方、八十八師は蘇州河に沿った河岸に建っている堅牢な建物である
〝四行倉庫〟に本部を移してしまった。
この一帯なら対岸がイギリス租界だから、
日本軍も誤爆を恐れて空中から爆撃を行うようなことはなかった。》
秦郁彦著
『南京事件』
72p
《 歩41連隊第三大隊の戦闘詳報
「11月22日
15:00、計家湾ニ到着、コノ時敗残兵約二百
白旗ヲ樹テ
数家屋ニ終結シアルヲ以テ
捕虜トスベク努メタルモ、 至近距離ニ達スルヤ、
ピストル、手榴弾ヲ以テ抵抗セルニヨリ
全部之ヲ刺殺又ハ射ス・・・」》
注 : 淞滬の
「淞」
はウースン (呉淞) で、 「滬」
は上海のこと。
よって、淞滬とは
呉淞〜上海地域をさす。
*
こういう、中国人のルール無用のやり方が、外国人や、無関係の中国人市民に
被害を及ぼし、日本軍の民間人に対する厳しい対応につながって来るわけです。
こういうやり方をしておいて、民間人、女、子供、を殺されたと言っても
通りません。
非は中国側にあるのです。
つづく
これは メッセージ 821 (kireigotowadame さん)への返信です.
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海軍陸戦隊の閘北 (ザホク) 制圧
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/29 14:07 投稿番号: [821 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』 400〜402 pより
《 8日、上海派遣軍は大場鎮攻略を下命した。
同日付、上海特別陸戦隊は
陸上戦闘に関し上海派遣軍司令官の指揮を受けることとなった。
このころ上海方面は連日降雨、敵はこれを利用し
10日、11日各千名近くの兵力を
閘北
(ザホク)
方面に増勢した模様であった。我が方は連日砲戦を継続した。
13日
我が砲隊は一航戦
(第一航空戦隊の略)
と協力し、閘北鉄道管理局、
敵砲隊陣地を砲撃した。北部支隊方面は12〜13日の夜
敵の活発な逆襲を撃退した。
14日 も一航戦と協力し閘北南西部を砲撃した。数カ所に火災が発生した。
ところが、18:30ごろ三義里方面の敵が我が第二大隊正面に主攻撃を向け
虹口
(ホンキュ)方面租界に侵入すべく猛撃を開始した。
19:00ごろ敵の銃隊二コ中隊が三義里方面から第二大隊川公路陣地方面へ来襲、続いて
第十大隊ハスケル路陣地へ約二コ中隊が突撃、20:00ごろ敵の攻撃最も猛烈を極めた。
各隊は本隊から増援を得て奮戦二時間半、敵に多大の損害を与え撃退した。
15日、日没後北部支隊及び閘北部隊正面に敵の逆襲があったが直ちに撃退した。
翌16日我が方は、閘北広東中学及び江湾南方の商学院にいた敵部隊をまず
一航戦の爆撃により逃走させ機銃掃射で損害を与えた。
・・・
20日
北四川路方面に、21日全線にわたり敵は攻撃の気配を見せたが、いずれも撃退した。
・・・
23日
敵は後退を開始した模様であった。
24日
上海派遣軍司令官の命令に基づき攻撃開始、北四川路方面の我が部隊は
逐次進出し、北部八字橋方面は夜に至るまで攻撃を続行した。
25日も派遣軍の攻撃前進に策応し攻撃続行に努めたが閘北方面の敵は動揺の
色を見せず、北部戦線では同夜商科大学を占領した。
26日
22:30ごろ敵は北四川路方面に対し大規模な逆襲を決行してきたが、
我が方は交戦一時間この敵を撃退した。
この日陸軍部隊は夕刻、既に大場鎮を占領しており、敵は蘇州河に向け退却中であった。
そこで陸戦部隊も26日夜、絶えず敵と接触を保持し特に左翼の蘇州河方面では
激戦を継続のまま、27日
04:30月明を利用し、予定計画に基づき
右翼に重点をおいて総攻撃を開始した。
05:05
全軍進撃開始、各隊は宝興路の敵第一線突破に全力を挙げた。
右翼隊が最初に第一線突破に成功し07:00
閘北西端に進出し、
更に南方に転じて敵の退路を遮断するよう行動した。
同時刻左翼隊は北停車場鉄路管理局を占領、次いで中央隊及び左翼隊は敵を
逐次西方及び南方、次いで東方ポケット地帯内に追いつめ掃蕩した。
そして18:00ごろ西行上海貯蓄総公貨桟(四行倉庫)に追いつめた残敵
約一〇〇名の外、夜間各部の残敵を掃蕩した。
なお別に西方に向かい追撃した一隊は真茹駅を占領した。この戦闘で我が
陸戦部隊は閘北全部、大隆鉄廠、中央造兵廠、真茹駅を占領、・・・。
四行倉庫の残敵に対してはその後包囲態勢を取り降伏勧告をしたが応じなかったので、
31日
01:45砲撃制圧する一方、03:00突撃隊が突入し完全に残敵を掃蕩した 》
つづく
これは メッセージ 820 (kireigotowadame さん)への返信です.
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10月23〜25日 陸軍の大場鎮攻略
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/28 18:39 投稿番号: [820 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』 400 p
《 8日、上海派遣軍は大場鎮攻略を下命した》
井本熊男著 『支那事変作戦日誌』
156〜157p
《 10月23日、漸く大場鎮攻撃が始まり、右より第9、第3と併列した両師団は、
各々約2キロの戦闘正面を以て重点を第3師団に保持して猛攻した。
この戦闘では、第3師団の正面に約120門の我砲兵火が指向せられた。
上海派遣軍には重砲兵が少なかったので、三ケ師団増派の際、
砲兵力の不足を補うため15サンチ榴弾砲一旅団と一聯隊、15サンチ加農砲二大隊、
10サンチ加農砲四乃至五大隊、24サンチ榴弾砲一大隊等が派遣せられ、
その他北支から15サンチ加農砲二大隊を10月中旬、上海に転用の処置をした。
右の砲兵諸部隊の増加は、大部分到着し大場鎮の戦闘に間に合った。
遺憾ながら弾薬が十分になかった。
そのため砲数に比例した砲兵火力の発揮ができなかったのである。
一般に上海戦の困難は、弾薬の不足がその重大原因の一つであった。
第9、第3両師団は力攻に力攻を重ね、10月25日遂に大場鎮の陣地を突破して、
その南方に戦果を拡張した。》
注:サンチとはセンチメートルの事
加農砲はキャノン砲の漢字表記
これは メッセージ 819 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ジャキノ難民区設立3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/27 18:35 投稿番号: [819 / 2250]
松本重治氏著
『上海時代 (下) 』
中公新書
234〜235p
《 「……上海に於ける安全地帯
(所謂ジャキノ・ゾーン)。
上海周辺の戦闘が進み、中国軍の総退却が予見された頃
(十月末−松本註)、
ジャキノ神父を中心とする英米仏諾等諸国人から成る国際委員会が出来て、
南市
(上海南部の支那町)
の一部を区切って、戦火がこの方面に及んだ場合、
中国人を収容するため
『安全地帯』
として、
日中、双方から認めて貰いたいという話がありました。
最初にジャキノ神父は
「マンチェスター・ガーディアン」
紙の特派員
ティンパーレー氏に伴われて、私の許 (もと) に参られ、この話をされたのであります。
私は岡本上海総領事及び岡崎総領事と協議し、この案の実現の為め、
お世話を致しました。 松井陸軍最高司令官も長谷川海軍最高司令も
最初から極めて好意的な態度を示され、これを認めることになり、
中国側もこれを認めました。
そのさい松井軍司令官は金壱万円を委員会に寄付してこれを助けられました
(長谷川司令長官も同額を贈られました)。
また広田外務大臣は十二月八日付でジャキノ神父宛書翰を送り、その人道的事業に
対する日本国民の讃美と敬意とを伝え、その成功を祈る旨を表明されました。
この計画を日本国が認めたのは、
(1)
この地区は純粋の支那町であり、またジャキノ神父はじめ
委員全部の公正無私な気持や態度が明瞭であったこと。
(2)
委員会は、戦闘のある場合、中国非戦闘員を収容保護し、戦闘終了後は、
暫くの間、引き続彼等を救護するが、地区内の行政や取締りは
日本軍の全権力の下にあることを認め、委員会はこれに関与せぬことを
最初から明かにしたこと。
(3)
この地区に隣接した仏租界当局の好意的協力があったため、委員会は、
戦闘中同地区の
『中立性』
を維持する実力を持つと認められたこと。
(4)
同地区の位置に鑑み、戦闘が近くで行われた場合、その
『安全』
を
尊重することが出来ると認められたこと等の理由に基くものでありました。
上海戦の最後の段階には、この地区の境まで戦脚が及びましたが、
日本軍の砲弾は一発も地域内に落下せず、逃げ込んだ中国兵は委員の手によって、
みな武装解除され、日本軍は地区内に入らず、極めて平穏に経過しました。
かくて、同地区は、数千戸の中国家屋と、約二十五万人の中国民衆の生命とを
救い得たのであります。この事情は当時委員会から出版されたパンフレットに
詳しく記されてあります。……」
注
「英米仏諾等諸国人」
の中の
「諾」
の字はノルウェー
( 諾威 )
を指す。
これは メッセージ 818 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ジャキノ難民区設立2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/26 18:45 投稿番号: [818 / 2250]
松本重治氏著
『上海時代(下)』
中公新書
233〜234p
《 二人で地図を検 (しら) べてみて、「これは、地理的にみて、都合がよさそうだね。
ただ、いま一つの条件は、中国兵が武装したままで、難民区に逃げ込むような
ことがないようにすることにある。その点、仏租界側や中国側にはっきりさせておく
必要があろうね。それがはっきりすれば、日本側も反対できぬことになる
だろうからね」
と、私が即座に附言すると、ティンパーレー君は、
「ジャキノ神父は、今松本君がいったような条件について、すでに手を打っている。
神父の構想には、仏租界当局も全面的に協力を約しているから、
万一、逃げる中国将兵が、仏租界を通って北側から難民区になだれ込むような場合には、
仏租界の実力を用いて、そういう敗残兵を武装解除させる決意をもっているようだ。
ジャキノ神父は、日本側が賛成ならば、ただちに、英、米、仏等の民間有志者による
国際委員会を作ることにつき、関係者たちの内諾を得てある。
国際委員会が出来て、日本側の支持が得られれば、
中国側も同意を拒否し得ないと思うんだ」
と返事する。
私は、「 そういう話ならば、きっと成功するよ。
すぐ、大使館に行って日高さんに話をしてみよう。
その首尾は君にすぐ電話しよう。おそらく日高さんは、
『ティンパーレーに
ジャキノ神父と同道して大使館に来てもらい、直接、両氏から話を聞こう』
ということになるだろう。日高参事官は、英語のほかフランス語にも堪能な人だからね」
というと、ティンパーレー君は、嬉しさに笑みを顔面一杯に表し、
「では、松本君からの電話を待っている」
といいつつ、
私と固い握手を交して支社を出ていった。
私は、車を飛ばして大使館に赴き、日高さんに、こうこうしかじかと話をすると、
日高さんは、 「では、ご両人に来てもらい、直接話をうかがいましょう。
よい考えだから、私もできるだけ尽力しましょう」
といってくれた。
すぐ翌日の約束の時間を打ち合せ、支社にとって返して、
私は、ティンパーレー君にその旨電話をかけた。
ちょうどジャキノ神父も同席で、両人はとても喜んでくれた。
翌日、日高さんは、ジャキノ神父とティンパーレー君から詳細の計画を聞き、
すぐ協力を約したが、彼は、南市の問題を担当していた陸軍特務部の楠本大佐と
連絡して、協力を得たうえ、松井軍司令官と長谷川司令長官とに、直接、会見して、
両首脳者の賛成を得た。その間の日高さんの活動は、いとも鮮やかであったが、
それについては、日高さんによる
「極東国際軍事裁判所宣誓供述書」
の
数行を左に引用したい。》
つづく
これは メッセージ 817 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ジャキノ難民区設立1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/25 18:49 投稿番号: [817 / 2250]
松本重治氏著
『 上海時代 (下) 』
中公新書
231〜233p
《 大場鎮の陥落が目前に考えられていたころ、ある夕刻、
『マンチェスター・ガーディアン』
の特派員ティンパーレー君が、ひょっこりと
「同盟」
支社に私を訪ねてきた。 私とティンパーレー君とは、もう二、三年の
交友関係にあったが、彼は記者というより、学者肌の、良心の強い人物であった。
円転滑脱というより、むしろ無骨な物腰で、しかしやさしい眼つきの男であり、
リベラリズムの香りの高い
『マンチェスター・ガーディアン』
には、
まずふさわしい特派員だと、私はつねづね尊敬していた。
ティンパーレー君が、
「松本君、ちょっとまじめな話があるんだが」
と
切り出した話は、大要左のとおりであった。
「南市方面で中国人に対する伝道を二十年ほどやってきたジャキノというフランス人の
カトリック神父がいる。彼は第一次世界大戦では、従軍僧として戦傷を受け、
片腕を失った勇士でもある。彼は、日中両軍が南市の一部を難民区として
承認してくれれば、二、三十万の中国人の生命が保障されることも可能だ、
と着想して、一応中国側に話をしたが、中国側は、まず、日本側が同意、
支持してくれねば、という。しかし、残念なことに、ジャキノ神父は、
信頼するに足る日本人を一人も知らない。
そこで、神父は、以前から識 (し) っている私
(ティンパーレー)
に相談を
持ち込み、その構想を日本側のしかるべき人物に伝えてくれないかという話であった。
それで、私は、まず君
(松本)
に相談するわけだ。そこで、君がこの構想に賛成なら、
どういうふうに日本側にアプローチをしたらよいのかを教えてくれ給え。
これは、事実上、局部的な停戦協定をも意味するもので、複雑な問題もからむ
惧 (おそ) れがあるので、幾度か躊躇 (ちゅうちょ) したが、
君だけには話を打ち明けることに決心した。それで、今日ここに来たのだ。
君がノーといえば、私も断念して、神父にそのように返事するほかはない。
もしイエスといってくれれば、最有力な味方を得たように思うが」
と、
ティンパーレー君は、熱を籠めて、私に語った。
「ティンパーレー君、ようこそ来てくれたね。また、私を信頼して大切な話を
もってきてくれたことを感謝する。話は、だいたい解った。私は大賛成だから、
微力ながらベストを尽しましょう」
というと、彼は非常に喜んだ。
「松本君、日本側にどういうアプローチをやられるつもりかね?」
と尋ねるから、私が
「さしづめ、私の信頼している先輩の日高参事官に話を打ち明ける。
彼にはきっと陸海軍によい連絡があるはずだ。
占領区域の行政担当は陸軍特務部であるが、その楠本大佐は、かつて
武官補佐官として、私ら記者とは何でも話のできる人物だ。
こういう問題については、日高さんは、まず楠本大佐と話を始めることだろうと推察される。
お話を聴いて、直感して重要だと考える点は、どこら辺に難民区を設定すれば、
軍の作戦上、支障がいちばん少ないか、ということだ」
というと、ティンパーレー君は、 「ジャキノ神父は、その点を充分に考え抜いたようで、
幸いにも、南市
『城内』
の方浜路以北の地区を難民区に当てれば、
すべての条件が充足されるように信ぜられるといっている」
と答える。》
つづく
これは メッセージ 816 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第十軍への命令と注意
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/24 15:45 投稿番号: [816 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
390p
《十月二十日、臨参命第百十九号をもって次のように下命された。
一
上海方面ニ第十軍竝 (ならびに) 所要ノ兵力ヲ増派ス
二
第十軍司令官ハ
海軍ト協力シテ
杭州湾北岸ニ上陸シ
上海派遣軍司令官ノ
任務達成ヲ
容易ナラシムヘシ
三
上海派遣軍司令官ハ
現任務ヲ続行スルト共ニ
第十軍ノ上陸ヲ援助スヘシ》
「上海派遣軍司令官ノ任務達成ヲ
容易ナラシムヘシ」
要するに、
上海居留民救出に向かった上海派遣軍を援けろということです。
それから参謀本部の次長多田中将が第十軍参謀長田辺盛武少将に次のように述べました。
児島襄
『日中戦争4』
148p
《「上海付近ニ於テ
一大戦果ヲ収ムルコトハ、 最モ緊要ニシテ
且 (かつ)
絶対要件ナルニ付、 凡 (あら) ユル困難ヲ克服シテ
作戦目的ヲ達成シ、
以テ世界注視ノ戦場ニ
我ガ威武ヲ発揚セラレンコトヲ
切望シテ巳 (や) マズ」
参謀長田辺少将も、参謀たちに訓示している。
「北支那及 (および) 上海方面ノ各軍ニ於テハ、 作戦ノ外ニ多分ニ
政治的施策ヲ
必要トスルコトハ、其作戦地域ノ特殊性ニ鑑ミ
巳 (や) ムコトヲ得ザル処ナルモ、
当集団ニ在リテハ
之ト全然趣ヲ異ニシ、 敵ニ殲滅的打撃ヲ与ヘ、
戦局ヲ此ノ一戦ニ決スルヲ以テ
軍ノ使命ノ凡 (すべ) テナリトス」
つまりは、上海の戦況を打開して中国軍に再起不能の
「必殺打」
を加えるべく、
参謀本部がいかに期待をよせ、第十軍もまた奮起の決意に燃えているかが、
二人の発言に顕示されている。》
多田次長は、世界注視の戦場だからと注意を与えています。
変な証言者が、“「わが柳川兵団は上陸後、
(1)
民家を発見したら全部焼却すること、
(2) 老若男女を問わず人間を見たら射殺せよ」
との命令を受けた (宮下手記) ”
と言って、秦郁彦氏もこれを自著
『南京事件71p』
に採用していますが、
この証言は多田次長の命令と逆でしょう。
そして、田辺第十軍参謀長は敵に殲滅的打撃を与へて、
戦局を此の一戦に決せよ、と言っています。
つまり、この一戦で戦争を終わらせろという事です。
侵略の為の戦争なら、こんな命令はありません。
また参謀本部は戦訓をもとにした教令を示達するなかで、
田辺少将はつぎの事を注意しています
児島襄
『日中戦争4』
151p
《とかく家屋、村落を焼きはらう傾向があるが、なるべくやめたほうがよい、
と注意する。
「寒冷季ニ入ラントスルニ際シ……其利用価値大ナルヲ以テナリ」
とくに上海戦線でめだったのは、便衣隊の襲撃であるが、
少将は、その点についても厳告している。
「一般ノ支那住民ハ老人、女、子供ト雖モ敵ノ間諜ヲ勤メ……敵ヲ誘導シ……
日本軍ノ単独兵ニ危害ヲ加フル等、寔 (まこと) ニ、油断ナリ難キ実例多キヲ以テ
……斯 (か) クノ如キ行為ヲ認メシ場合ハ、
些 (いささか) モ仮借スルコトナク、断乎タル処置ヲ執ルベシ」》
つまり、 「老人、女、子供といえども、上述のような行為をしたら、断固たる処置をとれ」
と言っているだけであって、無辜の民を殺せと命じているわけではありません。
これは、中国のやり方がああだから、仕方ありません。
そして、杭州湾上陸にむかいます。
これは メッセージ 815 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第十軍の編成
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/23 15:02 投稿番号: [815 / 2250]
下村第一部長主導のもと、杭州湾上陸作戦の準備が進められました。
上陸作戦を敢行する軍は、上海派遣軍とは別組織で第十軍として編成されました。
従って、松井大将の指揮権の及ばない軍隊です。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
386pには
《新たに上海方面に派遣する兵団はこれを上海派遣軍に増派するのではなく
別個の軍として使用する考えで検討・・・
下村部長の上海方面作戦のねらいは・・・
前面にいる75コ師にのぼる敵軍主力と決戦を交え、
これを撃破するという積極的な考えであり、・・・
敵主力をたたいて戦争の終結を図ることを意図していた。》
とあります。ここでも、やはり、戦争の終結が目的でした。
侵略が目的なのではありません。
次に、軍の編成ですが、
児島襄著
『日中戦争4』
文庫本147〜148pには
《十月二十日、柳川平助中将を司令官にする第十軍の戦闘序列が下令された。
内地から第十八師団
(牛島貞雄中将)
と第百十四師団
(末松茂治中将)、
北支那方面軍の第一軍から第六師団
(谷寿夫中将)
および
第五師団第九旅団
(国崎登少将)
主力の国崎支隊、
第二軍から第十六師団
(中島今朝吾中将)
をあわせての編成である。》
となっています。
つづく
これは メッセージ 802 (kireigotowadame さん)への返信です.
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10月17日 トラウトマン和平工作の開始
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/22 18:44 投稿番号: [814 / 2250]
石原少将は満州に転出する前、馬奈木中佐に、トラウトマン駐支・独大使への
和平仲介依頼工作を頼んでいきました。
井本熊男著
『支那事変作戦日誌』
192p
《 十二年九月、石原第一部長の転出直前、
当時第二部部員であった馬奈木中佐は会食懇談の席上で
『今度支那の大使に着任したトラウトマンはベルリソで補佐官をしていた
時代の友人である』
と話したところ、
石原第一部長は
『それは願ってもないことだ。すぐ支那に行ってトウラトマンと会い、
日支和平工作に関する手がかりを作ってくれ』
と云い出した。
結局馬奈木中佐は在京のドイツ武官オットー大佐と同道して上海に赴き、
オットー大佐がトラウトマンと会談する橋渡しの役をしたというのである。 》
松本重治著
『上海時代・下』
224〜225p
《 九月二十七日附で、不拡大派の総帥であった参謀本部第一部長石原少将は
中央を追われ、関東軍参謀副長に補せられてしまった。
東京を発つ数日前に、部下の馬奈木
(敬信)
中佐に対し、 「イギリスの調停は、
あまり好かなかったが、それがだめとなったから、どうしてもドイツに調停を頼んで欲しい。
君はドイツ通だから、オットー大使館附武官と相談して、何とかして、やって欲しい」
と、局面の収拾のためのいわば遺言のようなものを残して、満州に赴任した。
これが、トラウトマンの仲介交渉の発端であった。 》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
455p
《
陸軍では、石原第一部長が、かねてからドイツを仲介として事変の終息を
図ろうとし、第二部部員馬奈木敬信中佐 (28期) を通じて
ドイツ大使館付武官オット少将と連絡し、極秘のうちに交渉を進めていた。
ドイツ側も日支諸懸案の全面的解決については事変前から関心を持っていた
ところであるので、両者の話し合いは急速に進んだ。
馬奈木中佐はオット少将とともに、表向きは戦線視察、ドイツの対支援助の
調整を目的として、十月十七日東京出発、上海に至り、
かつて駐独武官輔佐官当時から懇意であったトラウトマン駐支・独大使に
上海まで出行してもらって、二十六日ころ、会談した。
馬奈木中佐が和平の必要、仲介の労をとってもらいたい旨を語ったところ
(具体的
条件は示さず)、 大使は極力やりましょうという熱意のある返事であった。 》
鈴木明著
『新
「南京大虐殺」
のまぼろし』
221p
《 和平工作の仕掛けは、日本の側からである。このままズルズルと戦争を
延ばされれば、日本は不利になると判断した参謀本部の石原莞爾は、
十月半ばには
「早期休戦」
を決断し、参謀部員の馬奈木敬信
(中佐・
元ドイツ駐在日本大使館武官補佐官)
と、このとき駐日ドイツ大使館の
武官をしていたオイゲン・オットーをひそかに上海に派遣し、
十月二十六日にトラウトマン駐華大使を上海に呼んで、
キャセイ・ホテルで三日間にわたり中国側の意向、
日本側の条件などについて話し合った。
ここで手ごたえを得た馬奈木は、石原を通して外相広田弘毅に連絡、広田は正式
(といっても秘密裏)
に駐日大使のディルクセンに対し、ドイツに仲介を依頼した。》
この結果、ドイツ大使を通じての和平の提案が、日本側からなされます。
つづく
これは メッセージ 802 (kireigotowadame さん)への返信です.
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英国の中国加担3 毒ガスを送る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/21 18:24 投稿番号: [813 / 2250]
香港が中国軍の兵站基地の役割果たす
〔昭和12年10月10日
中外商業〕
〔香港九日発同盟〕
・・・香港は完全に排日抗戦兵站基地の観を呈するに至った。すなわち、
一、香港に公然陸揚げされる武器は小銃、機関銃、大砲、迫撃砲、タンク、
飛行機、トレンチ、モーター、その他小銃弾、機関銃弾、火薬等以前に
増しておびただしき数に上っている。
二、以下略
海上ルートを主に、武器援助増える一方〔昭和12年11月29日
東京朝日〕
支那事変発生当時より今日に至るまで、英国がその本国に於いてまたは現地
支那各地において我が国に対して取り来たった不信、非友誼行為は、
既にその都度報道されたところである。
・・・・
英国より支那に支給しつつある武器、弾薬につき、十月中旬現在、確実に判明せる所、
左のごとし。
(×印は交戦法規において使用を禁止されているもの)
既に支那に到着せるもの
飛行機
高速度戦闘機二機、軽戦闘機六機、駆逐機五機、偵察機四〇機、
Ⅴ・Ⅰ七型偵察機九機、爆撃機一〇機、その他三〇機、合計一〇二機。
飛行機捜査聴音器二〇台、敷設水雷l00内外、高射砲四門、
高射砲弾八〇噸 (トン)、同三、八〇〇箱、附属器具二〇箱、
強烈爆薬(T・N・T一箱五〇封度(ポンド) 入り)二、二〇〇箱。
十月中旬支那に向け輸送途中にあったもの
飛行機七機、飛行機用モーター一二台、飛行機部分品二五〇噸、
飛行機用機関銃七〇挺、 ×焼夷弾十万発、爆弾 (大型) 一〇五箱、高射砲二二門、
野砲八門、武器二二〇箱、機関銃一五〇挺、小銃二、〇〇〇挺、
小銃 (自動式九ミリ) 二、六〇〇挺、同 (ヴィカース七・二ミリ) 三、〇〇〇挺、
小銃弾百八十万発、同八、七四〇箱、弾薬三九六噸、機関銃及び弾薬一〇一箱、
弾薬(数量不明)、同三一噸、戦車一〇台、十型戦車 (六輪附き) 一三台、
装甲自動車一八台、貨物自動車四二台、乗用自動車一五〇、無電機三台、
ガスマスク八箱、軍需品二〇〇箱、×クローリン瓦斯 (ガス) 入り筒一五〇箱、
×ガス円筒入り六筒、敷設水雷二三個、各種爆薬物二〇〇箱、ダイナマイト七〇箱、
×液体ガス (数量不明)、手榴弾二八〇箱、ブラック・パウダー九五箱、
特別軍需品一三箱、弾丸及び火薬三〇 (単位不明)、セルロイド一 (同)、
×チューブ入り瓦斯一〇 (同)、鉄条網二、五〇〇巻、同鉄柱四、八〇〇本。(後略)
この中には毒ガスが含まれています。
そして、中国が毒ガスを使うのは、今始まった事ではありません。
国共内戦の時にも使われています。
児島襄著
『日中戦争2』
文春文庫
55〜56p
《糟谷領事の報告によれば、
「(1930年8月) 十二日、(省政府秘書) 楊宜誠ガ極秘トシテ
語ル処ニヨレバ、
十一日ニハ
飛行機ヲ以テ
毒瓦斯 (ガス) ヲ使用シ
共匪軍ニ相当ノ打撃ヲ
与ヘタルガ、尚退却セズ。蒋介石ヨリ……長沙ヲ
死守スベキ旨
電報アリタリ」
57p
閻錫山は、・・・「下野」 を通電・・・通電は十四日付で、・・・蒋介石軍が
毒ガス弾を使用して地方人民を惨害しているので、
人民を救うために下野して戦争を休止する、と述べていた。》
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日本軍が毒ガス使用と中国訴える
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/20 18:57 投稿番号: [812 / 2250]
〔昭和12年10月17日
中外商業(夕刊)〕
《 王氏またも誣告 (ぶこく)
〔ニューヨーク十五日発同盟〕
支那政府外交部長王寵恵氏は十五日、米国に向けラジオを通じて放送演説を試み、
支那における日本軍の行動を誣告して、次のごとく述べた。
米国民はこの際日本を援助するような挙にはいっさい出ないよう切望する。
日本軍が支那軍に対し非人道的行為を行って居るのは明白で、
日本軍が毒瓦斯 (ガス) を使用して居ることは、南京赤十字病院院医長
エッチンガー博士並びに連盟保健部代表ボルチック博士の確認する所である。
逆宣伝反駁 (はんばく)、
駐米大使館 〔ワシントン十五日発同盟〕
駐米帝国大使館当局は十五日、
UP通信記者との会見において、日本軍が催嚏 (さいてい) 瓦斯並びに
ダムダム弾を使用したとの支那側の宣伝を否定し、逆に本国政府より接受した
確証を挙げて、支那軍こそダムダム弾の使用者だと、左のごとく反駁した。
上海附近の戦線で支那逃亡兵の遺棄した弾薬箱からダムダム弾が発見された。
早速東京に送って保管したが、将来禁止武器使用問題が起こった場合、
証拠として提出するはずである。》
ところで、この毒ガス記事に符号する記述がラーベの日記10月14日にあります。
《日本人が毒ガスを使っているとの噂しきり。地元の新聞が伝えるところによると、
すでにここの病院にガス中毒の中国人兵士たちが運ばれてきているという。》
ラーベの日記が10月14日で、米国の記事が10月15日ですから、全く同じ時です。
ところで、後で書きますが、英国は中国に毒ガスを供給していたのです。
そして、中国は日本軍に対して毒ガスを使用していました。
早瀬利之著 『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』 63pには
《 のちに判明したことのひとつに、
中国軍側は化学兵器弾を司令部近くに撃ち込んでいる。 九月二日のことで、
司令官の松井自身、「石齢水泡のようなものが広がった」 のを見ている。
化学兵器については日本軍も 「緑筒」「赤筒」 の二種類をもっていたが、
松井の使用禁止令で、ついに上海戦、南京戦には使われなかった。
しかし中国側は、化学兵器も含めて砲弾を遠距離から、
水産学校めがけて撃ち込んだ。 》
とあります。
日本軍が使ってないのに、中国兵がガス中毒になったという事は、
自分たちの毒ガスの取り扱いを間違って浴びたという事でしょう。
それを巧妙に日本軍のせいにすり替えたのでしょう。
そもそも、日本軍が、毒ガスを使っていたなら、こんなに苦戦はしません。
敵は大軍ですから、そこに毒ガス弾を撃ち込めば、効果てきめん、
敵に多大な損害を与えられ、戦局は有利に運んだでしょう。
苦戦したのは使ってなかったからと言えます。
なお、上陸した陸軍にコレラが流行ったのも、中国側の細菌戦との疑いもあります。
児島襄著
『日中戦争4』
151pに
《衛生とくに飲水にかんする注意をおこたってはならない。
井戸水にはアメーバ赤痢薗がうようよしているほか、九月に上海戦線で
コレラ患者が多発したのは、中国軍の細菌戦による疑いが濃厚である。
「支那軍ノ指令ヲ
奪取セルトコロ、 其ノ中ニ
井戸水ヲ飲用スベカラズ
トノ指示アリ。 即チ敵ガ井戸ニ
細菌ヲ投ゼシモノト
察セラル」》
とありますから。
中国というのは、とことん、自分のやった犯罪を日本に転嫁するものです。
これは メッセージ 810 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国特務に監視される 松本−徐 会談
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/19 18:37 投稿番号: [811 / 2250]
松本重治氏は和平の糸口を見つけるべく、中国人の徐新六 (シューシンロー)
と
定期的に会合をしていましたが、これを快く思わない中国側に監視されていました。
松本重治氏著
『上海時代(下)』
中公新書
229p
《 三回目のカセイ・ホテルでの会合
(十月十四日)
の際、徐さんは、
中国人らしく、一種の特務隊が二人の動静を監視しているという気配を感じたらしく、
「次の会合は、どこか、ほかのところでやりましょうや」
という。
私は、狙われているのは、私よりも徐さんのほうだと感じ、
「徐さん、次の会合は、ホール=パッチのアパートで、四時半ごろのお茶の会にしたら
如何」
と提案すると、徐さんは、 「そうできれば、それに越したことはない」
という。
四回目は、ホール=パッチと打合せのうえ、彼のアパートを借用した。
そこで両三回の会合をやったが、その翌日、上海クラブでホール=パッチに会うと、
「シゲ、どうも、僕のアパートも監視されている。
中国人ボーイが密告したらしいから。この次のお二人の会合は、
アメリカ大使館附武官に内情を話したら、武官が自分のアパートを
使ってくれというので、そうして欲しい」
という。
*
このように、中国は和平の働きかけをする者を国賊と見なして赦さないのです。
以前、図書館で見た古い支那事変の写真本には、電線に首をぶら下げてある
写真があり、それには、日本人と仲良くしたので、見せしめに殺されて、
首をぶら下げられた支那人というような説明がありました。
その本は10年くらい前に消えましたので、もはや確認できませんが。
その本がなくても、揚子江流域の日本人が引揚げる前の状況を見れば
およその想像はつきます。
かつ、和平反対の態度も、盧溝橋事件以来の日本側の和平提案を、
中国側がことごとく、踏みにじり、潰して来た事からも明白です。
中国は、自分から戦争を仕掛けており、和平などする気は、サラサラないのです。
そのくせ、国際連盟には、日本に侵略されているなどと、ぬけぬけと言っています。
これは メッセージ 810 (kireigotowadame さん)への返信です.
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米国の批判に対する日本の反論
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/18 18:44 投稿番号: [810 / 2250]
米国は日本を条約違反と声明しました。
〔昭和12年10月8日
大阪毎日(夕刊)〕
《〔ワシントン本社特電六日発〕
米国国務省は六日、左の要旨の正式声明書を発表した。
米国政府は、支那における日本の行動は国際関係を律すべき諸原則にもとり、
かつ九国条約およびケロッグ不戦条約の規定条項にも合致せざるものとの
結論を下すのやむなきに至った。
声明内容
〔ワシントン六日発同盟〕
国務省はスイス駐剳 (ちゅうさつ) 米国公使より、二十三国諮問 (しもん) 委員会で
可決された支那における現在の情勢ならびに日本の条約上の義務に関する
報告書の正文を接受した。
公使は同時に十月六日、
連盟総会が右報告書を採択、承認した旨報告し来たった。
・・・
米国政府は極東における事態の推移を観察せる結果、支那における日本の行為は
国際関係を律すべき諸原則と矛盾し、かつ一九二二年六月二日締結された
支那に関する九国条約ならびに一九二八年八月七日締結された不戦条約の
親定に違反するとの結論に到達せざるを得ざるにいたった。
如上米国政府の到達した結論は、国際連盟総会の採択した結論と
一般的に一致するものである。》
このあと、14日に斉藤駐米大使が正しく説明し直しました。
〔昭和12年10月16日
中外商業(夕刊)〕
《〔ワシントン十四日発同盟〕
・・・今回の事変が明らかに支那の挑戦によるもので、
日本はやむなく抜本的解決に乗り出さざるを得なかった・・・
日本が九国条約その他の違反国呼ばわりを受ける理由のない・・・
日本が支那の領土割譲を要求した時初めて言わるべき事、
現在日本の在支居留民と莫大な投資が危険に在る際、
我々としてこれを保護するはあまりにも当然なる事 》
*
中国が一方的に戦争を仕掛けて来ているのは、明白な事実ですが、
遠くにいる米国人やヨーロッパ人にはわかりません。
だから中国が、一方的に嘘を流せば、それが、
そのまま通ってしまうわけです。
そして、日本は被害者であるにも関わらず、
徐々に加害者へと仕立てられて行きます。
これは メッセージ 809 (kireigotowadame さん)への返信です.
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米大統領の隔離演説
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/17 15:49 投稿番号: [809 / 2250]
英国が反日に流れたのに続き、米国も反日になりました。
ルーズヴェルト米国大統領は10月5日、日本を伝染病になぞらえ
「隔離せよ」
と演説したのです。
〔昭和12年10月6日
大阪毎日〕
《「世界には今、不法の悪疫が蔓延しているが、こうした際、
社会はその悪疫の拡大を防止し、社会の健康を擁護するため、
患者を隔離する必要を認め、かつそのため共同動作をとらねばならない。」
と説き、 「今や各国の幸福と安全は脅威されつつある」
と述べ、
他国の領土に侵入し、他国の国内問題に干渉する国民を攻撃し、
さらに不戦条約、九国条約の侵犯を責めた後、宣戦を布告せず、
正当なる理由なくして、婦女子を含んだ非戦閣員は没義道に空爆によって殺戮され、
海上の船舶は正当な理由なくして警告なしに潜水艦によって攻撃、撃沈されている。
また一部の国々はその国になんらの危害をも加えない他国の内乱に誘発されて
その内乱に加担したり、あるいは自国のために自由を主張しながら、
他国に対してはそれを拒否するごとき態度をとっている。》
とあります。ところが、日本外務省の情報部長は、何をトチ狂ったのか、6日
〔昭和12年10月7日
東京日日(夕刊)〕
《「持てる国」
が
「持たない国」
に対し経済権利の譲歩を拒絶した
ならば、これを解決する途は戦争によるほかないではないか》
と反論したのです。
こんな事をいったら、支那事変は侵略と解釈されます。
今も昔も、TPOをわきまえずトンチンカンな事を言う人はいるものです。
情報部長が、欧米のブロック経済に腹を立てていたとしても、それは、それに
ふさわしい場所で言うべきで、このような場合の反論に持ち出すべきではありません。
それよりも、 「海上の船舶は正当な理由なくして警告なしに潜水艦によって攻撃、
撃沈されている」
という発言に、 「ふざけるな!」
と反論すべきでした。
日本が、船を臨検するのはありますが、何のために、潜水艦が無警告で撃沈
しなければならないのですか?
後の日米戦争ならイザ知らず。
中国相手の戦争に、そこまでやる必要はありません。ナンセンスです。
米国は中国の嘘・宣伝に踊らされているだけです。
情報部長の
後先考えない発言が、外国をして、ますます、反日に向かわせました。
米国国務省は六日、条約違反と正式に声明します。
つづく
これは メッセージ 808 (kireigotowadame さん)への返信です.
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廃墟で泣く赤子の写真を捏造
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/16 15:20 投稿番号: [808 / 2250]
中国の狡猾な嘘宣伝・逆宣伝はすでにいくつか挙げましたが、
中国は、上海南駅の爆撃跡に赤ん坊を置いて、
廃墟で泣き叫ぶ赤ん坊の姿を写真に撮り、
10月4日アメリカの写真雑誌ライフに載せ、日本悪者のイメージを広めました。
もちろん、この写真は捏造です。
爆撃は8月28日で、上海は中国軍に包囲され、
日本人居留民の命が風前の灯だったころでした。
当時、鉄道は軍用に切り替えられ、民間の使用は禁じられていたのです。
上海近辺の駅は、中国軍に占拠され、軍隊や軍事物資の輸送に供されていました。
当然、南駅にも民間人はいなかっただろうと考えられます。
軍の協力者を除いては。
だから海軍は、日本人の命を狙う危険な敵の根拠地・集結地を叩いたのです。
そうしなければ、こっちが皆殺しにされますから。
中国はこの5日前には先施公司デパートを爆撃し、
その9日前にはパレスホテルなど上海南京路を爆撃し、
大量の死傷者を出していますが、そっちにはホオっかむり。
というか、日本がやったとの逆宣伝をしています。
爆撃跡の惨状、路上に散乱している死体などが写真に撮られていましたが。
中国は、自分達の残虐行為には知らん顔で、
上海南駅の爆撃跡に赤ん坊を置いて、悲劇の赤ん坊を演出させています。
この恥知らずで図太い神経。
日本人には、とても、まねできません。
上海にいる外国人はともかく、欧米に住んでいる人たちには実情はわかりません。
だから、この捏造写真を信じ、日本憎しの思いを募らせるでしょう。
これは メッセージ 807 (kireigotowadame さん)への返信です.
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英国の中国加担2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/15 18:36 投稿番号: [807 / 2250]
《 〔昭和12年10月1日
中外商業(夕刊)
中国への戦闘機輸出を許可〕
〔ロンドン二十九日発同盟〕
グロスター航空機製作会社は最近支那から時速二百五十哩 (マイル) のグラジエーター型、
単座戦闘機多数の注文を受け、航空省に対し注文受諾につき認可申請中であったが、
英国航空省は二十九日、右申請に対し正式認可を与えた。
注文台数は不明だが、最近支那に向け輸送されるはずである。
・・・
スペイン向け武器の輸出を禁止した英国政府が、
支那向け輸出を認可したことは注目される。
操縦士も義勇兵として向かう
〔ロンドン二十九日発同盟〕
AP通信社ロンドン支局の探知する所によれば、右は総数十二機で、英国人の
操縦士も
「義勇兵」
として飛行機とともに支那に向かうはずだと伝えられる。》
*
最初にアメリカ人のシェノールトが中国に雇われ、上海爆撃を計画し
次に、ソ連が中国に飛行機とパイロットを送り、
今度は英国が、
その前にドイツ軍将校が中国軍を背後で指揮している。
この時、既に、日本は5カ国と戦争をしていた事になる。
日本海軍が広東を爆撃するのは、こういう飛行機や武器の搬入を阻止するためです。
こういう外国からの援助があると、中国は戦争をやめませんから。
つづく
これは メッセージ 806 (kireigotowadame さん)への返信です.
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英国の中国加担1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/14 18:41 投稿番号: [806 / 2250]
以下は新聞記事です。
《 〔昭和12年10月2日
中外商業〕
カンタベリー大主教が反日大会の司会受諾
吉田駐英大使抗議
〔ロンドン一日発同盟〕
ロンドン駐剳帝国大使吉田氏は一日、カンタベリー大僧正に書翰を送り、
現在英国内の反日運動は大部分支那側の逆宣伝による根拠なき作り事、
または無稽なる誇張に基づくものなる事実を指摘、
カンタベリー大僧正がなんらこれを確実にせずして、
五日のニューズ・クロニクル紙
(自由党系)
主催の反日大会の司会方を
軽率に受諾したのに対し、抗議的注意喚起を行った。
同時に吉田大使はリットン卿その他の右反日大会の演説承諾者にも同様の警告を発した。
〔昭和12年10月2日
中外商業〕
英紙に排日記事氾濫
〔ロンドン一日発同盟〕
・・・支那側のデマ宣伝はいよいよ露骨を加えて来た。
蒋介石夫人宋美齢女史が連日堂々と機関デーリー・ヘラルド紙に与太電報を打電する外、
ロンドン駐在支那大使館では毎日のように日本軍を中傷するニュースを公表して、
英国民の反日気勢を煽っている。
その上在支外国通信員を動かす等の間接方法をも併用、絶体絶命、
泣き落とし政策で英国民の同情を得んと必死となっている。
従って日本側の反駁乃至抗議はともすれば無視され勝ちで、
たとい多少は掲載されても各新聞紙は依然最初の入電を固執し、
日本軍の非戦闘員殺戮、潜水艦の支那漁船撃沈等を今なお云々し居る有様だ。
・・・なお南京、広東等外人実見者のいない場所に関し、
今なお我が空軍の非戦闘員殺戮のデマが行われ、
現に一日のタイムス紙は、広東の北部清遠の空爆で学校、民家を破壊し、
非戦闘員死傷者二百名を出した等と報じている有様である。
一日、某方面着情報によると、二十八日のロンドン・タイムスは、
英国政府は二十六日、
支那側のマークを附したる日本軍飛行機二機が広徳、安徴方面に現れ、
爆弾を投下したとの支那政府の覚書を受領した。と報道し、
またラジオも同趣旨の放送を行ったと。
右は明らかに支那側の虚構宣伝である・・・》
*
10月2日の記事で
「五日のニューズ・クロニクル紙・・・」
とあるからには、
この
「五日」
とは9月5日の事でしょう。
このころ、日本陸軍は上陸したばかりで苦戦している最中です。
ヒューゲッセン事件もあり、中国の、反日宣伝が巧妙に行われていたようです。
26日も28日も9月の事でしょう。
中国が、 「支那側のマークを附したる日本軍飛行機」
云々していると言う事は、
逆に言えば、彼らが中国機に日の丸を描いてヒューゲッセンを銃撃した
ということでしょう。
つづく
これは メッセージ 803 (kireigotowadame さん)への返信です.
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杭州湾上陸作戦の立案
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/13 18:41 投稿番号: [805 / 2250]
追加の三ケ師団が九月下旬から十月上旬にかけ、逐次、呉淞、上海間に上陸し、
戦局は少しは進展しましたが、まだ、はかばかしくありません。
井本熊男著
『支那事変作戦日誌』
153p
《特設師団を動員することに関しては、種々の問題があった。…
特に東京で動員する第百一師団が問題となった。
・・・
動員完結の日、私は歩兵第一聯隊の営庭で行われた第百一聯隊の軍装備検査を視察した。
なるほど、これは年よりの集りだというのが第一の印象であった。
皆一家の主人で、家庭を支えている大黒柱の年配である。訓練は長年ほとんどしていない。
指揮官にも現役はほとんどいない。これでは当分戦力は出まいと思った。》
153p
《対ソ関係を考えて検討すると、そう精鋭師団ばかり出すわけには行かないので、
遂にこの決定となったのである。》
これでは戦争は中々終わりそうにありません。
一方、9月28日、
下村定少将が石原少将のあとを受けて作戦
(第一)
部長に就任しました。
155p
《下村新第一部長は、支那事変を始めた以上、敵に対し有効な打撃を与えるまで、
積極的に作戦を遂行すべきであるという思想を抱いていた。
上海の戦況を打解するためには、戦略的に効果の大きい杭州湾上陸作戦を
行う必要のあることを始めから考えていた、と自ら回想している。
結局杭州湾上陸は、下村第一部長がその気運を醸成して
発動することになったのである。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
385p
《10月4日
部長統裁のもと第二・第三課長以下の関係部員が参集して・・・研究した。
作戦当事者は
「上海は・・・、兵力は五個師団で大体いいのではないか」・・・
しかし部長は
「上海方面をそのままにしておいたのでは戦局の終結が求められない。
この方面で積極的に行動し所望の戦果を獲得するのが急務」
と述べ、
部内の意見を統一した。
当時、参謀本部は、ソ連が対日攻勢に出るとすれば、11、12月の晩秋初冬のころ
であろうと判断し、この時期戦線膠着状態であれば、ソ連に対日攻勢の好機を与える
ことを憂慮し、それまでに戦局を打開することを企図していたのである。》
結局、下村新第一部長もソ連が心配で、中国との戦争を早く終わらせたかったのです。
彼は拡大派の部類に入ってますが、けっして支那事変を拡大したかったわけでは
ありません。強い力で叩いて、早くやめさせたかっただけです。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
384p
11日
「今後ノ作戦ニ関スル件」
につき検討し、12日次長の決裁を得て
(参謀)総長に
一、上海方面
(2)
第十軍ヲ以テ
杭州湾北岸ニ上陸セシメ
上海派遣軍ノ任務達成ヲ
容易ナラシム
十一日、「今後ノ作戦二関スル件」
につき検討し、次のような状況判断を行い、
十二日次長の決裁を得て総長に報告した。
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三コ師団増派とその進捗 (しんちょく)
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/12 18:43 投稿番号: [804 / 2250]
井本熊男著
『支那事変作戦日誌』
152〜155pより
《
三ケ師団は第百一、第九、第十三の順序に九月中旬末から下旬にわたり、
神戸、大阪から出発し、九月下旬から十月上旬にわたり呉淞、上海間に上陸させる
ことになった。
増加兵団の動員下命から上海に到着するまでの約一ケ月間、
現地ではさらに苦戦の連続であった。
しかしこれ等の兵団が逐次到着して、戦線に加入することによって、
戦況に一つの転機を作った。
重藤支隊は九月十八日頃、羅店鎮北方川沙河口附近に上陸し、
急速に西進して九月二十日には羅店鎮西方約三キロに進出して、
西面して敵陣地に相対し、第十一師団の右側背を掩護する態勢をとった。
第十一師団は前記の如き天谷支隊の進出により、師団の主力をまとめることができ、
九月三十日には重藤支隊の左翼に連接して、西南面して約四キロの正面を保持した。
これで、一ケ月以上苦闘した羅店鎮周辺から、
一キロ乃至二キロ前進したことになったのである。
第三師団は、前記九月十七日の進出線から連続不断の力攻を続け、
約二週間の後に右翼方面は約二キロ前進し、
十月一日劉家行北方約二キロの張家角から、劉家行、
○ (厄+頁) 家宅を連ぬる堅固な敵陣地を攻略した。
第百一師団は九月二十日頃から呉淞附近に上陸して、薀藻浜クリーク北側地区を
攻撃前進し、九月三十日、その主力は第三師の左に連接して、
薀藻浜北岸に近く進出した。上陸点から約六キロの前進である。
第百一師団の谷川支隊は、上陸後第三師団の片山支隊と交代して
江湾鎮敵陣地に対し、片山支隊は九月末、第三師団主力に復帰した。
第九師団は九月二十三日頃から呉淞附近に上陸し、九月三十日、
主力を以て第十一、第三両師団の後方近く進出した。
第十三師団は九月下旬半頃から呉淞附近に上陸し、
十月十日頃主力を月浦鎮附近に集結した。
ここで戦況を大まかに振りかえって見ると、
八月二十三日、第三、第十一両師団の先遣隊が上陸して以来、
上海派遣軍は、薀藻浜クリーク以北の地域を攻撃正面として、
西方に向って力攻したがその戦況はあまり進捗しなかった。
九月下旬の兵力増加により、前記の如く一段の進捗を見て、
十月一日現在においては、東西に通ずる薀藻浜クリークと、
それに直角に南北に通ずる楊芤クリークで挟む、
直角の地域の大部分を攻略したことになった。
敵は依然楊芤の線に東面し、また薀藻浜の線に北面して重畳する
数線の陣地を占領して、わが攻撃を阻止している。
上海派遣軍はここにおいて、今までの西向きの主攻撃を南に向け、
まず大場鎮を攻略する戦闘指導の方策を立てた。
そこでこの方策を遂行するため、第三師団を左旋回の軸とし、
その右に第九師団を進出させ、この両師団を大場鎮に向わせるように指導した。
この際、第九師団の右には第十三師団を加入させ、その右に第十一師団、
重藤支隊と連接し、第十三師団より右は、依然西面して、敵陣地に対していた。
第百一師団は、戦況の進むに伴って、第三師団の左後方を前進させることにした。》
つづく
これは メッセージ 801 (kireigotowadame さん)への返信です.
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9月27日 国連 日本の空襲予告を非難
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/11 18:43 投稿番号: [803 / 2250]
9月20日、日本は善意のつもりで、南京の空襲を予告しましたが、
中国は、これを国際連盟に訴えて、日本を悪者にする作戦に出ました。
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
407p
《 不幸にしてこの予告は逆効果を生じ、世界を刺激し、
我が国に対する世論をにわかに悪化させた。中国側は盛んな宜伝を行い
国際連盟の対日空爆非難決素、各国の対日抗議申し入れとなった 》
中国の提訴で開かれていた、国際連盟諮問委員会は
9月27日、日本軍飛行機の中国における無防備都市爆撃を非難する決議を採択しました。
と言っても、南京は無防備都市どころか、
「 772
諸外国のアンフェアな対応 」
でも書いたように軍事都市なのですけど。
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
407p
《 広田外務大臣は二十九日、爆撃は軍事目的達成に必要やむを得ざるものに限定し、
無差別的に非戦闘員をも対象とするものではない旨を強調する回答を発した。
上海においても本田忠雄海軍武官が外国新聞記者団に対し、爆撃目標は軍事目標に
限定し、細心の配慮の下に正確に実施されつつある旨の談話を発表した。》
*
本来空襲は、予告したら対応されますので、意味がなくなります。
それを善意のつもりで、予告したから、逆手にとられたのです。
日本の善人根性はかくもおめでたいものなのです。
いくら、外相が説明しようと、弁明しようと、無駄でしょう。
向こうは最初から、悪意でネジ曲げて宣伝しているのですから。
つづく
これは メッセージ 795 (kireigotowadame さん)への返信です.
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トラウトマン工作と杭州湾上陸作戦の発端
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/10 15:39 投稿番号: [802 / 2250]
トラウトマン工作と杭州湾上陸作戦の立案は石原第一部長の辞任から始まります。
参謀本部の作戦部長を辞任した石原少将は9月27日、満州に転出しました。
その前に部下の馬奈木中佐に、和平工作を依頼していきました。
松本重治著
『上海時代・下』
224〜225p
《 九月二十七日附で、不拡大派の総帥であった参謀本部第一部長石原少将は
中央を追われ、関東軍参謀副長に補せられてしまった。
東京を発つ数日前に、部下の馬奈木 (敬信) 中佐に対し、
「イギリスの調停は、あまり好かなかったが、それがだめとなったから、
どうしてもドイツに調停を頼んで欲しい。
君はドイツ通だから、オットー大使館附武官と相談して、何とかして、やって欲しい」
と、局面の収拾のためのいわば遺言のようなものを残して、満州に赴任した。
これが、トラウトマンの仲介交渉の発端であった。 》
井本熊男著
『支那事変作戦日誌』
192p
《 十二年九月、石原第一部長の転出直前、当時第二部部員であった馬奈木中佐は
会食懇談の席上で
『今度支那の大使に着任したトラウトマンはベルリソで
補佐官をしていた時代の友人である』
と話したところ、 石原第一部長は
『それは願ってもないことだ。すぐ支那に行ってトウラトマンと会い、
日支和平工作に関する手がかりを作ってくれ』
と云い出した。
結局馬奈木中佐は在京のドイツ武官オットー大佐と同道して上海に赴き、
オットー大佐がトラウトマンと会談する橋渡しの役をしたというのである。 》
これが本格的になるのはもう少しあとなので、続きはあとで。
次に杭州湾上陸作戦の案ですが、
石原少将の後任にすわった、下村定少将が気運を醸成して作成しました。
彼は、石原少将のように穏健派ではありません。
一般に歴史では、軍部には拡大派と不拡大派とがあって、
この両者のせめぎ合いがあったと言われていますが。
この
「拡大派」、 「不拡大派」
という名称は実態を表わしていません。
「不拡大派」
とは、 「まず話し合いで行きましょう」
というグループです。
これに対し
「拡大派」
は、そんな甘っちょろい事では駄目だ。
中国人は詭弁・嘘・欺瞞の天才だ。やさしくしてると、騙される。
「まず、ガツーンとやってから、話し合うべきだ」
というグループです。
つまり、 「不拡大派」
とは穏健派の事で、今の平和主義者のようなもの
「拡大派」
は強硬派ですが、別に戦争を拡大させようとしていたわけではありません。
交渉するにしても、どういうアプローチを取るかで異なっていただけです。
現在の餃子事件やコピー品でも明らかなように、
こちらが優しくしてると、ウヤムヤにされますし、
尖閣事件のように譲歩すると、尚でも嵩 (かさ) に掛かってきます。
当時も穏健派が、優しく対処しようとした結果、
戦争にされ、それを拡大されてしまったのです。
だから、戦争を拡大させたのは
「不拡大派」
とも言えます。
下村新第一部長は、事変早期解決のために杭州湾上陸作戦を考えました。
『支那事変作戦日誌』
155pには
《下村新第一部長は、支那事変を始めた以上、敵に対し有効な打撃を与えるまで、
積極的に作戦を遂行すべきであるという思想を抱いていた。
上海の戦況を打解するためには、戦略的に効果の大きい杭州湾上陸作戦を
行う必要のあることを始めから考えていた、と自ら回想している。》
とあります。
つづく
これは メッセージ 796 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/802.html
膠着状態の上海戦線2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/04/09 15:10 投稿番号: [801 / 2250]
井本熊男著
『 支那事変作戦日誌 』
芙蓉書房出版
150〜151p
《 第三師団の先遣隊は、上陸後全面に数線の敵陣地があって、
戦況は激しさを加えるのみで、なかなか進まない。
第十一師団先遣隊は、上陸後約五日間で約六キロ南方の羅店鎮を占領したので、
戦況は有利に進捗 (しんちょく) するかに見えたが、
それから後約一ケ月の間、主力が到着加入しても戦線は膠着 (こうちゃく) して
ほとんど動かず、かえって敵の攻勢に対応するのに苦労する戦況であった。
その後第三師団方面は、ウースン・クリーク以北においては
九月九日までに上陸江岸から僅かに約三キロ前進して、
宝山城からその西方を南北に走る泗塘クリークの西岸に進出した。
ウースン・クリーク以南においては、
兵站部隊が黄浦江岸から二キロの泗塘クリークの線に進出した。
上海共同租界に近い黄浦江岸には、
始め第三師団の飯田支隊が上陸したが、支隊長は間もなく戦死した。
次いで同師団の片山支隊は飯田支隊を併せ指揮して九月十三日、
江湾正面に進出して近く敵陣地と相対した。
この線は、黄浦江岸から僅かに四キロばかり前進した位置である。
九月二十八日、片山支隊は第百一師団の谷川支隊と交代して第三師団主力に復帰
したが、以後十月二十五日まで谷川支隊はその位置から動くことはできなかった。
すなわち我方は、江湾の敵陣地の前に、二ケ月間膠着していたのである。
海軍陸戦隊は共同租界の周囲にへばりついたまま、
上海戦の最後まで動くことができなかった。》
つづく
これは メッセージ 794 (kireigotowadame さん)への返信です.
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